天上の洞窟 -7-



誰かがドアを叩いている。
こつり、と一度だけの、ノックとも言えない小さな音が、止んではまた、鳴る。
覚醒直前の、灰色がかったまどろみの中で、ライルは眉をひそめた。
そんなに開けて欲しいのなら、もっとまとめてドアを連打すればいいのに、止みかけた雨の滴のように、ドア向こうの誰かは、こつりと一度ずつそこを叩き続ける。

───おれはなぁ…今、眠いんだよ。

叩き起こしたいってんなら、もっとガンガンやれよ。
やれねぇなら、さっさと自分のベッドに帰っておねんねしてな。
覚醒しきれないまま、ライルの意識はいらだちに包まれる。
叩いているのは、兄だろうか。
金だけをライルの口座に振り込み続けて、会いにも来なかった、嫌味なくらいにクソ真面目で臆病な、あの人。
そんなはずはない。
兄さんは死んだ。
あいつが、そう言った。
兄さんの遺品を見つめながら、遺体は回収できなかった、と。
だから、これは。
この音は。

ライルは目を開けた。

周囲のあまりの薄暗さに、意味もなく絶望的な気分になる。
が、唇の周りにまとわりつく空気はひんやりとした清潔感にあふれていて、本当に心地良い。
わずかな補助照明に照らされた暗い天井は、不自然にところどころが白く輝いている。
その輝きが、仰臥した自分の全身を包む、透明カプセルの反射光であることに、ライルはようやく気づいた。
記憶の断片が、ライルの脳内のしかるべき場所に、次々とはまり込んでくる。
ハルートの操縦中に気絶して、もうろうとしたままファクトリーに着艦し、この医務室に運び込まれたのは覚えている。
こうしてファクトリーに戻れて、医療カプセルで寝ていられるということは、彗星は無事に軌道を変えたのだろう。
こつり、とまた音がする。
きしむように重く感じる頭を傾けて、カプセルの脇を見やると、そこには馴染みすぎた人間の顔があった。
刹那が、眠っている。
カプセルのそばに腰掛けているのか、こちらをのぞき込むように、パイロットスーツのままの上半身を軽く屈め、彼は目を閉じたきり動かない。
透明なカプセルに外側からもたれかかる刹那の額は、圧迫されて、半分ほども白っぽくなっている。
さっきからのノックの正体は、これだったのだ。
睡魔に負けた刹那が、座ったまま船を漕いで、額を何度もカプセルにぶつけていたのだろう。
あのクソ真面目な刹那が居眠りまでするということは、ライルがこのカプセルに入れられてからかなり時間がたっているのかもしれない。
ハルートの変形にも加速にも耐え抜いたとはいえ、さしもの刹那も疲れたのだろう、彼の目元にはうっすらと、血色の悪い影が見える。

───だーかーら。

さっさと自分の部屋に帰っておねんねしろっての。
珍しすぎるこの状況をもっと楽しみたい気もするが、いかんせん質問したいことが多すぎる。
これまた重く感じる手のひらをほんの少し持ち上げて、ライルは内側からけだるく二度、カプセルを叩いた。
いきなり刹那の目が見開かれる。
薄暗がりの中で、赤く、そして黒く錆びたような瞳が、とてつもない驚きの色に染まる。
その澄んだ驚きは、一瞬で、錆の奥へと隠された。
そのくせ、黒く錆びた虹彩は、隠したことを取りつくろって、短い時間にあらゆる感情を浮かべては、また隠す。
たまらずに、ライルはつぶやいた。
「よう。今何時?」
刹那が、カプセルそばのバイタルチェックパネルを振り返り、時間を確認する。
『……二十二時過ぎだ』
スピーカー越しの小さな声は、やや不明瞭だ。
「……やっべぇな…半日寝っぱなしかよ…」
『どこか痛いところはあるか』
「別に。だるいだけでなんともねぇよ」
『そうか』
「医者は?なんて?」
『全身の毛細血管が少量ずつ内出血を起こしている。大きな損傷はないが、血管を修復するために三日間は安静にしていた方がいいと言っていた』
「三日も缶詰めかよ…たまんねぇな~」
『………』
「なんか端末くれよ。ヒマつぶしにさ」
『目の毛細血管も損傷している。映像を見るのはしばらく禁止だ』
「神もブッダもねぇのな…」
思わず目をつむり、ライルは嵐のようなため息をつく。
息を吐ききって目を開けても、刹那は微動だにせず、こちらを見下ろしている。
「彗星のこと、報告したか?」
『ああ』
「ハルートの損傷は?」
『ない』
「GNコーティングさまさまだな」
『………』
機体が無事でも、中身のパイロットがあまり無事でなかったことが、刹那にとっては本当に不本意なことらしい。
だが、その不本意さを誰かにぶちまけるという選択肢は、刹那の中に最初から存在しない。
今日のこの不本意だけではない。
バカでかい悲しみも、踊りたくなるような嬉しさも、刹那は決して口に出さない。
刹那はライルに、何も言わない。

───ああ。むかつく。

何も言わねぇくせに、なんだよその目は。
カプセルに入れられたライルの、わずかな異変も見落とすまいと、暗く錆びた目で、刹那がこちらを見ている。
圧力さえ感じるその視線を、ライルは真正面から捉えた。
「今日のこと、アレルヤとあの彼女には言うなよ。イアンにもそう言っといてくれ」
『………』
「言ったらタダじゃおかねぇ」
『…だが、』
「あのなぁ。仮におれがダブルオーの後継機に乗ってブッ倒れたとして、そのあとおまえは気持ちよくその機体に乗れるわけ?」
『………………』
「わかったんなら返事しろ?」
『……ああ』

───あああ。むかつく。

なんだよその目は。
この世の終わりみたいな顔しやがって。
なんにも、終わらねぇよ。
終わるどころか、始まりもしねぇよ。

───言えよ。

言ったところで何も変わらない。
それはわかっている。
わかっているが。
ずっと昔から、ずっと最初から、ライルだけが刹那に敗北し続けている。
その不公平に、もう我慢がならないのだ。

───言えよ。おまえも。

いや、おまえが。
おまえが、その敗北を口に出せ。
ライルは身じろいで、カプセルの開閉スイッチを探した。
カプセルに入れられるのは久しぶりで、あまり勝手がわからないが、内側からの操作システムはちゃんと存在している。
『だめだ。動くな』
刹那の制止も無視して、ライルは耳元の開閉スイッチらしいものに指を伸ばした。




シュ、というかすかな空気の圧縮音の後で、ゆっくりと、カプセルの透明なカバーが開く。
「まだ起き上がるな」
立ち上がって、ライルを制止しようと、刹那は身構えた。
だが、ライルは耳元のスイッチを操作しただけで、起き上がってはこない。
薄緑色の治療衣の襟元を自分でひょいといじって直したかと思うと、ライルは横たわったまま、いきなり剥き出しの腕を伸ばしてきた。
避けることもできずに、刹那の片肘がライルに捕まえられる。
「何時間ここにいた?」
問うてくる声はけだるいのに、どこか鋭い。
見上げてくるライルの目は、血の涙をためたように真っ赤だ。
全面的に血管を損傷して、鮮血に染められた結膜の中で、そこだけ変色を免れた碧の瞳が、あきれたようにこちらを見ている。
「…そんなに長い時間じゃない」
ほぼ嘘をとっさに吐いて、刹那は奥歯に力を込める。
口元に力を込めていないと、真実になりそこなった吐息がそこから漏れて、ライルに伝わってしまうような気がする。
ライルの目の碧が、ほのかな怒りのようなものでふいと揺れた。
そしてすぐにまた、その目はけだるく鋭い笑みを浮かべる。
ライルに嘘は通用しない。
嘘の中身にたどりつけなくても、ライルは刹那の中に嘘があることを、いつでも見透かしている。
それでも。
その嘘も、真実も、決して彼に渡してはならないのだ。
もう一度刹那は奥歯を噛む。
ふわりと、ライルの周囲の空気が揺らめいた。
「……なあ、」
ライルの喉元から、いやライルの気管の、肺のずっと奥から、ライルの声と共に何かがこぼれて、それは刹那の全身に絡みつき、熱く乱暴に侵食を始める。
「好きだって、言えよ」
言葉は唐突だった。
刹那の肘をつかんだライルの指に、力がこもる。
「言えよ。嘘だろ、って言ってやっから」
ライルは何を言っているのか。
言葉を聞き取れるのに、理解ができない。
それは、禁忌の言葉だ。
世界中の誰もがあたりまえに口にするだろうその言葉を、それを言えば、刹那は刹那でいられなくなる。
だからどんな時も、口に出すことはしなかった。
遥かな砂漠の街で、仲間が前線へ発っていった時も。
アザディスタンの皇女の歌を、耳にした時も。
故郷近くの峡谷で、ニールに抱きしめられた、あの時も。
言えば、世界は崩壊する。
それを。
言えと言うのか。
あまりにも鮮やかな罰に、身動きすらできない。
唇に、すいと酸素が横切るのを感じながら。
空恐ろしく澄んだ碧の目に向けて、刹那は唇を動かした。

「……好き。だ」

空気は崩れ落ち。
無音の悲鳴が響き渡り。
世界はなにもかもそのままで、そのくせすべてがバラバラだ。
それでもライルは静かに横たわって、こちらを見ている。
「嘘なんだろ?」
なんて残酷で、温かい糾弾なのだろう。
声が出ない。
世界の崩壊の中で、刹那の喉に圧縮されてしまった酸素たちは、あまりにも甘い。
言葉になる前の、声になる前の、質量すらわずかなそれに、目の前が白くなるような味があったことが、ただ信じがたい。
それでも受けなければいけないのだ。
この罰を。
甘美な酸素を舌の根から引きちぎって、やっと、刹那はライルに応えた。
「……ああ」