天上の洞窟 -8-



罰はどこまでも甘い。
渾身の力で引きちぎったその甘さの残骸は、ずっしりと刹那の舌に浸み、そこにあったはずの言葉と溶け合えずに、重苦しい何かに変貌する。
ライルの目が、こちらを見つめたまま、ふとまばたく。
ほんの小さな表情筋の動きによって、ライルの瞳の、血海の中にぽつりと浮いた、光が震える。
それを目にしただけで、刹那の舌の上に残っていた何かが、喉を通じて全身に広がってゆく。
すべてが嘘で、すべてが嘘ではない。
それがただ、重苦しい。
刹那の肘を捕らえていたライルの手が、ゆっくりと刹那の頬に伸ばされた。
動けないまま、刹那はライルの手のひらを待ち受ける。
大きな手のひらは、そっと刹那の片頬を覆い、長く滑らかな親指が、涙腺の底の涙を探すように、刹那の目頭を押さえて、すぐにゆるんだ。
「ほら」
ライルが、罰の続きを促してくる。
世界中の誰もが欲しがってやまないそれを、欲しいと思ったことはなかった。
今まで与えられてきたそれは、身体の上を通り過ぎてゆく、ただのまがい物でしかなかった。
まがい物である方が、楽だったのだ。
まがい物でなければ、発狂するしかなかった。
自分の意志ひとつで、そのまがい物が「本物」になることは知っていた。
知っていても、どうにもならなかった。
罪人は「本物」に触れてはいけないからだ。
ライルの心が、その手のひらで訴えてくる。
それでも触れろ、と。

───温かい。

昔、こうして頬を温めてくれた、手のひらがあった。

───『ソラン』。

砂と陽光がこぼれる遠い故郷で、刹那の頬を包んで抱きしめてくれたのは、彼女と彼と、そして、もうひとり。

───『刹那』。

誰かに触れられて彼を思い出したのは初めてだった。
こんな罰を受けている最中に彼を思い出すなど、それこそ最大級の懲罰だが、あふれてくる記憶をコントロールすることができない。
記憶の中の誰に責められても、もう抗えない。
横たわるライルの耳元に、刹那は片手をついた。
頬に触れたままのライルの手が、力を込めて刹那の顔を引き寄せてくる。

その力を振り切って、唇で、ライルの唇に触れた。

目を閉じた闇の中で、ライルの唇は、別人のように柔らかい。
何度も触れたことがあるのに、今日に限って、こんなにも感触が違うのはなぜなのか。
わからないまま、薄く目を開ける。
目の水膜ごと溶け合いそうな至近距離で、ライルと視線が合い、心臓が跳ねた。
乾ききった唇をすぐ離すと、ライルはふいとそっぽを向いた。
「じゃ。嘘つきの悪い子は、もうお部屋に帰って寝てろ」
ライルの唇が離れていっても、ライルの手のひらが離れていっても、温かすぎるライルの体温はすでに、刹那の中にどうしようもなく取り込まれてしまっている。
そっけない言葉を浴びせられても、取り込まれた熱は身体の中で温度を上げ続けている。
「帰らねぇとここでライディングさせるぞ?」
さらに脅しをかけるや否や、ライルは真っ赤な目をつぶり、にわかに熱を放ち始めたらしい赤い頬を背けて寝返りをうち、刹那に尻を向けてしまう。
カプセルを閉めて治療を続行しなければならないのに、長い沈黙は破られそうもない。
どうしていいかわからない静寂の中で、ひと呼吸もふた呼吸も息を整えて、ようやく刹那はライルの背中に話しかけた。
「閉めるぞ」
ライルは答えない。
力の抜けてしまった肩をゆっくり下げて息をつき、刹那はそっとカプセルの開閉ボタンを押した。




喉元が苦しい。
医務室を出て、長い通路を居室へ向かいながら、刹那はずっと着たきりだったパイロットスーツの襟元に指を伸ばした。
ファスナーを開けてゆるめようとしたそこは、とっくに胸元まで開いていて、自分の鎖骨の上で、はたと指が迷ってしまう。
本当はわかっている。
息苦しいのは襟のせいではない。
それでも状況のつじつまを合わせたいのか、迷った指は、みっともなく襟元を握りしめたままだ。
とても、重い罰を受けた。
横たわっているライルに酷い言葉をかけて、彼の唇に、自分から触れてしまった。
あれは罰だったはずなのに、重苦しい何かは確実にこの身体の中に残っているのに、きらめくような熱が喉元までこみ上げてきて、目がちかちかと眩む。
崩壊してしまった世界はただ、いつも通りに静かな夜を迎えている。
きらめく熱に呼吸を邪魔されても、いっこうに息の根は止まらない。
止まるどころか、心臓はますます鼓動が盛んだ。
時々床を蹴り直して、床の数センチ上を滑るようによろよろと進んでいると、前方から、よく知っている人間がこちらに漂ってきた。
こんな遅くまで、彼女はモビルスーツの開発室に詰めていたのだろうか。
それでももう自室に帰るところなのだろう、制服姿の彼女の手には何の端末も、キットも握られてはいない。そのことにほっとする。
彼女も刹那に気がついて、あ、とごく小さく、口元をゆるめた。
「ライルの具合はどう?」
低い声と共に、オーキッドピンクの髪がふわりと揺れる。
手を伸ばせば届く距離に立ち止まってくれたフェルトの目は、不安に曇っていた。
ライルが目を覚ましてどこも痛くないと言った事実は、まだ刹那しか知らない。
「大丈夫だ。さっき話してきた。三日くらい安静にしていれば治るらしい」
伝えると、濃いターコイズブルーの瞳が、ゆっくりと氷解した。
「そう……よかった……じゃあ刹那も、おやすみなさい」
「ああ」
狭い通路をすいとすれ違うと、心底安心したらしいフェルトの感情が、透明な綿毛のように、刹那の肩に降りかかってきた。
長いドレスの裾を引くように、胸苦しいほど柔らかい何かの裾を引いて、フェルトの後ろ姿が遠ざかる。

───ああ。そうか。

揺れて遠ざかってゆく温かい色の髪から目が離せない。

───『おやすみ』。

ライルにも、さっきそう言えばよかったのだ。
胸元でさらに凝縮される熱をこらえて、刹那は思わず声をあげた。
「フェルト」
あわてたようにフェルトが側壁に両手をつく。
前進するスピードを丁寧に殺して、振り向いてくれたターコイズブルーは、何事かと小さく見開かれている。
その美しい色に、刹那はやっと言葉を投げかけた。
「……ありがとう。おやすみ」
祈るような心地だった。
神にはもう祈らない。
だが、祈りに値するものはまだ、この世界に残っている。
「おやすみなさい」
もう一度、フェルトは応えてくれた。
氷解した彼女の目の中には、水よりも、涙よりも温かい何かがきらりと浮かんで、柔らかな光を放っていた。



フェルトを見送っても居室に戻らずに、刹那は長い長い通路を漂い続けた。
漂い続けた果てに、居住区の端の、展望室にたどりつく。
ロビーによく似たその広大な空間は、入口以外の三方の壁そのものが、外部映像を映すパネルになっている。
資源衛星の岩盤を洞窟のようにくりぬいた、この巨大なファクトリーには窓のある部屋がない。
だがそれでは居留者の健康に良くないので、衛星表面に設置した光学カメラを通じて、各部屋のパネルで外を眺められる造りになっている。
展望室は、夜だった。
グリニッジ時間でももう深夜ではあるが、今はちょうど、太陽光を遮る地球の影がこの資源衛星にかかる時期で、この衛星にとっての「真の夜」なのだ。
足元の、わずかな補助照明を頼りに、刹那は正面の巨大パネルに近づいた。
一面の星空の中へダイブするのは爽快で、心もとない。
その星空パネルに近づきながら、刹那は目をみはった。
暗いパネルに映った自分の目が、金色に光っている。
色々なことに気を取られて、自分ではまったく気づかずにいた。
いつも、目の色が変わる直前には、視界全体が白く光るような感覚があるはずだった。最近ではその予兆を感じ取れるようになっていたし、脳量子波を乱さないコントロールも少しずつできるようになっていた。
今日は、いつからこうだったのだろう。
思い当たるふしが多すぎて、まったく見当がつけられない。
それでも彼らは───ライルは、フェルトは───あるいはライルを診察していた医師たちは、何も言わなかった。
何も言わずに、自分たちの感情を読み取られることも恐れずに、ただ刹那に向き合ってくれた。
さっきから苦しくてたまらなかった喉元が、ひときわ熱くなる。
口の中で言葉になれずにこんぐらかった切れはしが、刹那の目元にまであやうく流れ出してきそうだ。

───禁忌を、口に出したのに。

世界は崩れ去ったのに。
それが、憎しみや恐怖と隣り合わせであったとしても、それでも。
それでもまだ、そばで笑んでくれる人がいる。
広大な夜の展望室で、刹那は立ちつくす。
宇宙のどこに駆けていったのか、彗星はもう影も形もない。
彗星のうっすらとした尾だけでも見えないかとあちこち眺めているうちに、こぼれそうなパネル上の星たちはどんどん光が薄くなり、端から闇に溶けて消え始めている。
「真の夜」の終わりらしい。
何年もの間、色々な宇宙ファクトリーで時間を過ごしてきたが、こんなふうに展望室で「朝」が来る瞬間を見るのは初めてだった。
ゆっくりと、だが次々に星は消えてゆく。
地球の影を抜け、資源衛星が太陽光にさらされても、大気のない宇宙空間では周囲の星が見えなくなるだけで、朝焼けも青空もない。
目視できる近さに浮かぶ、親指の先ほどの小惑星が、目を刺すまぶしさで白く光り始めた。
太陽光の反射だ。
輝く小惑星から、刹那は目を逸らした。
これから眠らなければいけないのに、幸福で、眠れそうにない。
「朝」を迎えた展望室は、ほの暗く、ほの明るい。
開けっぱなしのパイロットスーツの襟元を握りしめて、胎児のように刹那は目を閉じた。


洞窟の中にいても、朝は来るのだ。