天上の洞窟 -6-



『こちらロックオン・ストラトス。ガンダムハルートは現在、太陽周回軌道上を慣性航行中。ポイントL30083に到着後、加速して転回、帰投する』
ファクトリーの管制室へ報告し、ライルはパチ、とスイッチを叩いて通信用のホロモニターを閉じた。
退屈そうに首を傾げてその筋を伸ばしながら、両腕を上げて伸びをすると、後部座席からすかさず穏やかな声が飛んできた。
「もうすぐ予定ポイントに着く。操縦桿を握っていろ」
「五分前になったら握るよ。ってか慣性航行中なんだから、おまえも大して仕事ねぇだろ。のんびりしろよ」
ハルートの後部座席には、機体制御の計器が集中している。今は刹那がそちらを担当し、前部座席のライルは、することがない。前部座席のパイロットの仕事は、火器管制が主なのだ。
ライルをもう一度たしなめるように、後ろでパチ、とスイッチの音がする。
「機体制御のオートモードは今切った。もう手が離せない」
「ギリギリまでオートにしてりゃいいのに」
「これはテスト飛行だ。オートモードとマニュアルモードを均等にテストしなければ意味がない」
「は。そうかい」
真面目なこった、と皮肉いっぱいに笑んで、ライルは行儀悪く片膝を立て、スラスターを踏むための足首をぐるぐるとほぐしてから、ようやく操縦桿を握りしめる。
「…ってぇー……」
「どうした」
「足。パネルの下にぶつけちまった。だからおれ、後ろの方がいいって言ったのによー。予定じゃ、あの彼女が前に座るんだろ?シート調節しても足元狭いんだよ」
「……悪いが我慢してくれ」
不満に鼻を鳴らしたくなるのをこらえて、ライルは目前のホロスクリーンを見つめる。
前方は闇だ。
小惑星帯を完全に抜け、微小な岩すら横切らない。
視野の端に、パウダーシュガーを数粒こぼしたような小さな星が、ふつりと映っているだけだ。
彼方の星たちはスクリーンの中でゆっくりと後方に移動し、ハルートが地球の公転軌道上を航行していることを、かろうじて視覚的に教えてくれている。
ぶつけたふくらはぎの痛みは少しずつ和らぎ、そこをさすっていた手のひらをようやく持ち上げて、ライルは刹那の求める通りに、操縦桿を握り直した。
「で、」
短すぎる言葉をさらに短く切り、後部座席を振り向くこともなく、ライルは刹那に話しかける。
ファクトリーのドックからハルートを発進させて、この慣性航行ルートに到達するまでの数十分、黙って操縦していたのは、まるでこの話をするためのワンクッションでしかなかった、とでも言いたげに。
「なんでおまえはわざわざおれについてきたわけ?」
「………」
「言えよ。なんか理由とか、あったんだろ?」
刹那はやはり答えない。
マニュアルモードの操縦に気を取られているわけではないだろう。
まだ慣性航行中なのだから、細かい動作でスラスターを吹かす必要もない。
「おれがそっちの席がいいって言ったら、なんで止めた?そんなにおれの機体制御はヘタクソってか?…ま、普段はハロに任せっぱなしだから、信用できねぇのはしかたが」
「違う」
強引に言葉を途中でさえぎられ、珍しい刹那のその口調に、ライルはきしりと唇を噛んだ。
「…うまく言えないが、」
強引だが不安げな声音で、刹那が続ける。
「うまく言えないが、ハルートそのものの…アクシデントに備えなければならないと思った」
噛んだ唇を複雑に曲げて、ライルはホロスクリーンを凝視する。
夜景と己の顔を同時に写す窓ガラスと違って、暗いホロスクリーンに自分の顔や、コクピットの内部が映り込むことはない。背後の刹那の顔も見えない。
それでも闇の先を見つめずにはいられなかった。
「…ハルートに不備があるってのか?」
イアンの技術は確かだ。
刹那の唐突な言い分を、そんなに簡単に飲み込むわけにはいかない。
「ハルートの不備じゃない。外部から、ハルートに何か」
刹那が言い終わる前に、甲高いアラートが響き渡った。
前方のスクリーンの下部に、赤いホロモニターが一枚浮かび上がる。

───衝突予測?

ケルディムに乗っていた時も、サバーニャでも、ほぼ見ることのなかった解析モニターに、ライルの身体の奥がじわりと戦慄した。
すぐに、正面のメインモニターに、警告を説明する文字が次々と浮かび上がる。
解析番号21P、ジャコビニ=ツィナー。
軌道長半径3.525899 AU。
距離情報42000。
「なんだよこりゃ。小惑星か?」
ハルートのはるか前方にいきなり現れた障害物は、あまりに速いスピードでこちらに向かってきている。
前方のホロスクリーンに、肉眼でわかるほどの変化はない。
メインカメラが捉えた光学望遠映像は、ただ白くけむるばかりで星の輪郭すらわからない。
モニター上で、ピピピ…と神経質な音を発しながら、警告の文字は無慈悲に増え続ける。
その文字を読み取ったのだろう刹那が、ぽつりと漏らす。
「小惑星ランクの…おそらくは、彗星だ」
「彗星って、おまえまさか」
「このままだとあと二分後に衝突する。ハルートでの回避は十分可能だが、この彗星の軌道とラグランジュ3の衛星軌道は交差している。ファクトリーが危ない」
「わかってたんなら、なんで」
「…軌道の正確な予測までは…どうしてもできなかった」
絞り出すような刹那の声に、ライルの身体の奥が、ふとゆるんだ。
刹那は人間だ。
この男は単なるイノベイターであって、コンピューターではないのだ。
モニター上の彗星は、連邦宇宙局の概算軌道をかなり外れている。この状況そのものがひたすら突発的で、偶然なのだろう。
「彗星を迎撃して、軌道を変えさせる」
「あんなデカイもん、変わるのかよ」
「表面のガスで光が膨らんで見えているだけで、本体はそれより小さい。中心部分の岩石を粉砕すれば可能だ」
「オーライ。けどこれじゃ撃ちにくすぎる!モビルスーツに変形しろ!」
「空中変形は危険だ。超兵レベルの体力がなければ失神する」
「んなこと言ってる場合か!!ファクトリーが危ねぇんだろ!!おれがブっ倒れたらおまえが撃てばいいんだよ!!!」
イノベイターなら、常人が失神するような急加速にも耐えられる。
要は、そういうことだったのだ。
ライルの主張にいつも逆らわない刹那が、一緒にテストに行きたいと懇願したのも。
機体制御を担当したいと後部座席にこだわったのも。おそらくは。
「お星サマを出迎える前に、ひと通り食らわせてやらぁ!」
ミサイルの軌道計算を済ませ、操縦桿ヘッドのトリガーボタンをするりと親指で撫でてから、ライルは暗い虚空の彼方に照準を合わせた。
だが目標の彗星は遠すぎて、ミサイルのロックオン機能はエラー表示を点滅させている。
「…くそったれが…」
彗星との距離は10000を切った。
ホロスクリーンの端に、明らかにさっきまでは見えていなかった明るい星が映り込んでいる。
星は輝くガスをまとい、楕円形に歪んでいる。地上から観測すれば、白い尾を引いているように見えるのかもしれない。
衝突まであと20秒と少し。
彗星が射程距離内に入ったら、ほんの数秒間でそれを粉砕するか、その軌道を変えねばならない。
「おれが撃ったら、変形しろ。変形したらおまえがGNキャノンで狙い撃て」
距離情報8000。
「………」
距離情報7000。
「バカ、返事しろ!!」
距離情報6000。
「失神ぐらいじゃおれは死なねぇ!返事しろってんだ!!!」
距離情報4000。
「……、わかった」
か細い返答をようやく耳に留め、ライルは操縦桿を握る手首を小さく回し、もう一度ミサイルの照準を合わせた。
電子音と共に、スクリーン上で、小さな十字型の狙点が真っ赤に染まる。
ロックオン機能が正常に作動しているのだ。
ライルは迷わず親指に力を込めた。
幾筋もの光になったミサイルが、スクリーンの彼方へと駆けてゆく。
距離情報1000。
ミサイルの行方も視認できないまま、モニター上の文字が、白く砕け散った。
ライルの眼球に光が刺さる。
悲鳴も上げられない、加速。
もちこたえたくて下腹部に力を込めたが、光に占領されたライルの視界は、瞬時に灰色に濁り、また瞬時に闇になった。




「解析番号21P、ジャコビニ=ツィナーの軌道解析を頼む。21Pの小さな破片がこのファクトリーの周辺に到達する可能性がある。明日まで、輸送艦の発着は控えてくれ」
低く早口に通信を済ませ、刹那はスラスターペダルから足を離した。
着艦させたハルートは完全に動きを止め、元のドックの中で直立している。
モビルスーツ型に変形して帰投したハルートの姿に、ドックの内外で開発員がざわめいている。気配が、このコクピットまで伝わってくるのだ。
初めての飛行テストの項目に、変形テストは組み込まれていなかったのだから、彼らがざわめくのも無理はない。
刹那とライルが狙い撃った彗星は、ガスと破片を散らせて大きく軌道を変えた。ファクトリーの危機は去ったが、周辺を航行する宇宙船に影響がないとは言えない。
非常事態にざわめく彼らに事情を報告せねばならない。
だが、それは後だ。
ハルートのシステムをリポーズさせるや否や、刹那は後部座席から飛び降りた。
「ライル!」
前部座席に駆け寄る。
ライルは操縦桿を握ったまま、ぐったりとうつむいている。
「…ライル!ライル!」
呼んでも反応はない。
急加速による血流の不均衡で、身体のどこかに深刻な内出血を起こしているのかもしれない。
脳の出血だったら、と思うと、足元が崩れ落ちそうな恐怖を覚える。
とても彼を揺することなどできない。
触れられないもどかしさが、さらに焦りを呼ぶ。
医者が来るまで、ヘルメットを脱がせて顔色を確認することすらできないのだ。
飛行テストの帰途で、ファクトリーの管制室を通じて、医療カプセルの準備を依頼しておいたが、ライルのために刹那ができたことは、ただそれだけだった。
脳量子波など、何の役にも立たない。
イノベイターは無力だ。
ライルの肉体の底に沈んでいるライルの意識を、呼び起こすことすらできない。
呼び起こして、ライルがライルで在れるように、それを繋ぎ止められなければ、進化も、変革も、何の意味もない。
手が届くはずだったものを、また取りこぼしてしまう。
あの時のように。
まばたきするほどの遅れで、あの時のように、人は、人間は、あとかたもなく宇宙に消えていってしまうのだ。
震える手で、刹那はライルの指を操縦桿からそっと引き剥がした。
もしライルの指先の毛細血管が粉々になっていても、微重力空間で、こうしてそっと、触れるぐらいなら。
せめて、トリガーを引かないこの左手の指なら。
ライルのグローブの内側が血の海になっているような想像すら浮かんだが、それでも、どうしても。

───もう、失いたくない。

「……ライル!」
もう一度呼ぶと同時に、手の中に握った長い指が、ひくりと動いたような気がした。
ハッとして、刹那がその手元に目をやった時、外部からの操作でハルートのコクピットハッチが開いた。
振り向くと、ファクトリーに常駐している医師が二人、ドックの空間に浮かびながらこちらをのぞき込んでいる。
「ロックオンを医務室に搬送します。離れていてください」