天上の洞窟 -5-
静かな廊下の壁を蹴り、微重力の中を漂いながら、ひどいスピードでライルは走った。
曲がり角で誰かと衝突したら、間違いなくケガは避けられない危険な速さだ。幸い、グリニッジ標準時で今は深夜である。当直の人間以外はみな、このファクトリーの居住区で眠っている。廊下を出歩く人間を探す方が難しいだろう。
ベッドの中でうなされていた刹那が、部屋を出て行ったライルに気がついたかどうかは知らない。彼が物音で目を覚ましたのかどうかも知らない。知りたくもなかった。
制服のインナーのファスナーも閉めずに胸元を大きく開け、生乾きのジャケットを片手でぐしゃりとつかみ、とてつもなくだらしない格好のままで、ライルはがらんとしたファクトリーのロビーに出た。
節電のために、広大なロビーの照明はほとんど落とされている。
真正面の、接舷ドックを見渡す巨大な窓の向こうには、補助電源に照らされたトレミーが横たわっている。艦尾に備えられた一対のメインエンジンは、正面から見るとまるで巨人の双眸だ。
掘り抜いた岩壁を剥き出しにした薄暗いドックの中で、巨人の虹彩はぼんやりと青く光っている。スリープ状態であっても、艦のコンデンサーからわずかずつ、GN粒子が供給されているのだろう。
無人のロビーを猛スピードで横切り、巨人の目を足蹴にするかのように、ライルは窓を蹴りつけてスピードを殺し、そばの床に降り立った。
身体に力が入らない。
靴底の磁石が床につくかつかないかという微妙な位置で低く漂いながら、ぐったりとライルはトレミーを見つめた。
さっさと自室に帰って、もう一度ちゃんと眠った方がいいのはわかっている。
久しぶりの長時間のセックスで、足腰がだるい。
明日も、新型機のテスト作業で予定がいっぱいなのだ。
眠らなければならない。
夜通し酒盛りしても、ほんの数時間眠れば体力が戻った、学生の頃とは違う。ましてや自分はイノベイターでも超兵でもない。刹那より八年も年老いた、ただの人間なのだ。
自分に言い聞かせれば聞かせるほど、頭の芯が震えるような、冷えた感情のかけらが、ふらふらとライルの意識をかすめてゆく。
ついさっきの、刹那の夢の中にいたのは、ニールではなかった。
突然の事実が、ライルの頭の芯をますます冷やす。
夢の中で、刹那はライルのことを思い浮かべ、ライルのせいで苦しみ、うなされていた。
夢の中ですら責められていたのか、弁明でもするように「違う」と声を絞り出して。
───そりゃな。誰だって、自分の言い分ぐらいあるよな。
だがもしも、あのガッデスを撃ったことで刹那が一言でもライルに弁明していたら、ライルはその場で刹那を射殺していただろう。
───だからもうおまえは、おれになんにも言わない、って?
おれに何か言う資格がない、って?
そんなわけがあるか。
握りしめていたジャケットをぽいと空中へ手離し、ライルは窓にゆっくりともたれかかる。
首を曲げると、こめかみに窓の冷たさが伝わり、内外から冷える頭蓋に、ぞくりとリアルな心地良さが吸い込まれてゆく。
腹を立てようとしても、やはり身体に力が入らない。
体内にわいた感情はぼんやりと形を失い、吐息と一緒にロビーの薄闇に散ってしまう。
それでも、喉に刺さった何かの小骨のように、ライルの身体の中に、ひどく小さくて、確実な感情が残っている。
その感情を認めれば負けなのだ。
その小さな、取るに足りない、バカらしくてみっともないものが自身の中にあることを認めれば、ライルは今までのライルに敗北する。
───もっとも、勝負は最初から決まっていたようなものだ。
そもそも「最初」がいつだったのか、もうライルにはわからない。
あの慰霊碑の前で、刹那に会った時か。
KPSAの一員だったと刹那が告白してきた時か。
いやそれよりもっともっと前に、ニールの言葉だけを頼りに、刹那が「ニールの弟」を探し出そうと決心してくれた、その時にライルはもう、敗北していたのではないか。
刹那の心が、どれくらいニールでいっぱいなのかは知らない。
だがほんの数分前に、刹那の心の中にいたのはライルなのだ。
刹那自身にもコントロールできない夢の中で、刹那の心にどうしようもなく侵入していたのは、ライルだった。
だから、嬉しかったのだ。
敗北にまみれて、ライルは額を窓に預ける。
窓の向こうのトレミーのメインエンジンは、音もなく静かに光り続けている。
トレミーの内部で待機しているサバーニャからの粒子供給は、問題なく続けられているようだ。
アリオスの後継機にばかりかまけていて、ライルはこの数日、サバーニャのコクピットに足を踏み入れていない。
───『サバーニャは、静かすぎなくていいと。思った』。
いつかの刹那の言葉を思い出す。
ダブルオーライザーには太陽炉がない。
ダブルオーの後継機の完成もまだ遠い。
今はサバーニャのコクピットでないと、太陽炉の駆動音を聴くことができない。
刹那の好きなその音を、急に聴きたくなった。
完全敗北だ。
気の遠くなるような悔しさで、ライルは窓に触れていた手をきつく握りしめた。
もう起きなければいけない。
そう思うのに、身体は動かない。
夢に現実が侵入してきているのか、現実が夢の名残をひきずっているのか。
睡眠と覚醒の狭間で、刹那は自室の外の気配を感じ取る。
誰かが、遠くの実験室でガンダムを作り続けている。
夜を徹した達成感なのか、興奮した声音で、その作業の喜びを、たくさんの誰かが、実験室で口々に語り合っている。
一番よく聞こえるのはイアンの声だ。その他に、このファクトリーでなじみのある技術者が、何人か。その場で声は聞こえないが、フェルトの気配もある。
ガンダムの開発に、何か新しい進展があったのか。
新しい太陽炉が完成したのだろうか。
ずっと待ち続けている、ダブルオーの後継機の、太陽炉が。
いや。
そんなはずはない。
その名の通り、ツインドライブシステムには、太陽炉が二つ必要なのだ。ひとつ作るだけでも莫大な労力を必要とするそれが、二つも完成しているわけがない。
身じろぐと、身体の中に溜まっていた疲労が、重苦しく揺れた。
昨夜、ライルに何度も穿たれた下半身に、熱が残っている。
かなり荒っぽいこともされたはずなのに、不思議に痛みはほとんど残っていない。
一度目の行為から、あまり日数を空けていないからだろうか。
それとも、身体が少しずつ変異を続けているせいだろうか。
イノベイターであることを自覚する前から、傷の治りが早くなっているのは知っていた。
だが最近は特にそれを強く感じる。
小さな擦り傷が、半日かからずに治ってしまうこともあるのだ。
それは便利で喜ばしいことのはずだが、嬉しさよりも、どうしても不安が勝る。
───原始的な痛みすら、誰とも共有できなくなる、のか?
刹那は目を開けた。
温かい寝具の中に、ライルはいない。
気配すら、何時間も前になくなってしまっているのがわかる。
夜中にドアが開く音で目覚めてから、浅い睡眠を何度も繋ぎ合せて、ようやく悪夢から脱出できた。
悪夢の内容はよく覚えていない。
前髪を掻き上げると、髪の生え際までが、汗でびっしょりと濡れている。
いつものように、夢の内容は思い出さない方がいいのだと、刹那は自分を緩やかになだめた。
身体を起こすと、遠くで電子音が鳴り始めた。
携帯端末のコール音だ。
トレミーの自室ではデスクの引き出しに入れているそれだが、ここは艦内ではない。
ベッドから降り、下肢のだるさを耐えて歩き、刹那は着替えをしまってある壁面のコンテナを開けた。
昨日シャワーを浴びる前に、着替えごと端末をそこに放り込んでおいたのだ。
絡み合う衣類を引きずり出し、あろうことか下着にくるまれてしまっていた携帯端末をさらに引きずり出して、まだ鳴り続けているそれの着信ボタンを、刹那はようやく叩いた。
『刹那起きてるか?朝っぱらからすまんな』
予感通り、画面いっぱいに笑顔のイアンが映る。
端末画面には上半身しか映らないとはいえ、刹那は全裸だ。
通信設定をサウンドオンリーに切り替え忘れたことをかなり後悔しながら、そのまま応対する。
「構わない。何かあったのか?」
『昨日こっちのメンバーがだいぶがんばってくれてな。予定よりずっと前倒しで、ハルートの飛行テストができるぞ』
「ハルート?」
『アリオスの後継機だ。さっきヴェーダから名前の回答があった』
大きな鳥が、鮮やかなオレンジ色の翼を広げて横たわっている。
それが、ガンダムハルートの第一印象だった。
モニター室から、刹那はその機体を窓越しに見下ろす。
操縦のバーチャルシミュレーションは何度かこなしていたが、機体の実物を見るのは初めてだ。
「で、さっき話した通りハルートは複座式なんだが、火器管制と機体制御のシステムがそれぞれ独立していてな。まあそれでも一人での操縦も可能だ。状況によって、どっちのシートにもコントロール権が譲渡できるようになってる」
にこやかに説明するイアンの目の下は、うっすらと黒くなっている。
そばで一緒にハルートを見下ろしているフェルトや、他の開発員たちからも、非常に高揚した感情が伝わってくるが、みな一様に疲労の色が濃い。モビルスーツの開発ラッシュで、休む暇がないのだろう。
「飛行テストは、今日でないとだめなのか?」
彼らに休んでもらいたい。
刹那の素直な質問は、意図を理解されなかった。
イアンの目が、申し訳なさそうに細められる。
「ああ、こっちばっかり先走って悪かったな。刹那も疲れてるんだったなぁ。この先、おまえたちもスケジュールがきついだろうから、簡単な飛行テストなら先に終わらせておこうかと思ったんだが、やっぱり明日以降にした方がいいな。いつなら時間空きそうだ?」
「いや…俺は今日でも問題ないが」
「おいおい。無理しなくていいんだぞ」
イアンと、イアンの隣に立っているフェルトからも、こちらを気遣う感情が、見えない波動の羽を広げて覆い被さってくる。
その温かい羽を軽妙に引き剥がすように、刹那の隣で、ふと笑いが漏れた。
「イアン」
腕組みをふわりと解いて、ライルが会話に割り込む。
「刹那はさ。イアンと他のみんなに休んでもらいたいって言ってるんだと思うけど?」
「ん?」
目をしばたかせて、イアンは刹那とライルを交互に見た。
「みんな寝ないでハルート調整してくれたんだろ?オーバーワークはよくないぜ?」
にっこりとウィンクをよこしたライルに、イアンもようやく状況を理解したようだ。
「ああ。そりゃありがとうな。そうだなあ…ワシは大丈夫だが、当直の予定がなかったメンバーにもこの時間までがんばってもらったからなぁ。かといってあんまり先延ばしにするとワシもおまえたちも予定が詰まる。じゃあ、中を取って今からワシらは昼過ぎまで休んで、そこから飛行テストに入るのはどうだ?」
「オーライ。テスト飛行ならおれ一人で行くよ。一人でも操縦できんだろ、ハルートは」
「…俺も行く」
「刹那。おまえにはおまえの新型機の仕事があるだろ」
「……だが」
「おれには任せられねぇ、って?」
「そうじゃない」
「なら黙って自分の仕事だけしてろよ」
「……おまえに問題があるわけじゃない。ただ」
「ただ?」
「…………」
この感覚を、なんと言いあらわしたらいいのだろう。
不穏な予感のようなものを言語化できずに、刹那は視線を床に落とした。
現在のライルに、何も問題はない。
昨晩のことでよく眠れなかったのか、ライルもいつもより疲労ぎみなのが感じられるが、短時間のモビルスーツの操縦に支障をきたすほどの不調ではない。
───なにか。
何か、よくないものが、非常に遠いところから、こちらに近づいてきている。
顔を上げ、刹那はライルに向き直った。
「…頼む。俺も、行かせてくれ」
言葉に出せない不穏さが、刹那の意識を内側からぎりぎりと締めつける。
とてつもなく不満げだったライルの碧の目が、ほんのわずかに見開かれた。
「……おまえ、」
「よーしわかった。せっかくの複座式だからな。テストはおまえたちふたりで頼む。コクピットシートを調節するから、格納庫までついてきてくれ」
奇妙な緊張感に耐えられなかったのか、今度はイアンが会話に割り込み、ライルの腕をがっしりと捕らえて引いた。