天上の洞窟 -4-
本当に久しぶりに、夢を見た。
瓦礫に囲まれながらも、かろうじて破壊されずに持ちこたえた、大きな家の一室で、ソランは座り込んでいた。
かつてのこの家の主は相当の名士だったのだろう、寝室の床には緋色のアラベスク絨毯が敷かれ、しっとりとした毛足が、素晴らしい感触でソランの下肢に触れている。
行為の後でベッドに座ることは許されていない。後孔から流れ出したものがシーツを汚すからだ。
だからいつも通りすぐにベッドから降りたのに、足に力が入らず、ソランはその場にへなへなと崩れ落ちてしまったのだった。
───立ち上がらないと。
何度も突き上げられた下半身は、酷く熱っぽい。
それでも、早く立ち上がらないと絨毯を汚してしまう。
剥き出しの下肢に触れる絨毯は、ソランが経験したこともないような柔らかさなのに、その柔らかさがソランをいっそう焦らせる。
ついさっきまでソランを犯していた相手は、ベッドの中で向こうを向いて寝ている。
座り込んだまま、床に落ちていた自分のシャツを拾い、かろうじて腿を拭って、ソランはそれを着た。
足元に置かれた、小さなハレムランプの光を頼りに床を見回しても、サッシュとズボンが見つからない。ランプ表面の豪奢なモザイクガラスが、複雑な陰影を絨毯に映しているだけだ。
上半身にシャツだけ着たこんな格好では、仲間が待っている寝床に帰れない。
帰れなければ、置いていかれる。
仲間に置いていかれたら、もう誰も、優しい言葉をかけてはくれない。
KPSAが破壊し尽くしたこの街の住民に見つかれば、間違いなく殺される。ソランたちが信じる神を信じない、異教徒である住民の恨みは深い。斥候に出た仲間が帰らず、四肢の揃わない遺体になって町外れに転がっていたのを、ソランは数日前に見た。
「刹那」
突然、泣きたくなるほど聞き覚えのある声が聞こえた。
どうしようもない焦りが、ソランの身体の中で凶暴に凍りつく。
「刹那。何してるんだ?」
焦りと一緒に凍りついた身体をきしませ、ソランは───いや刹那は───座り込んだまま、顔を上げた。
ランプの光が届かない、部屋の隅の暗がりに、ニールが立っている。
闇より黒い眼帯を付け、闇に溶けてほぼ黒にしか見えない、濃緑のパイロットスーツを着たニールの表情は、硬く、冷たい。
もはやほとんど動かない指で、刹那は着ているシャツの裾を握りしめた。
シャツの裾を可能な限りひっぱって裸の腿を隠しても、何をしていたのかニールには一目瞭然だろう。
「刹那。誰と寝てたんだ?」
とてつもなく恐ろしい質問が、ニールの唇から優しくこぼれる。
まったく抑揚のないその声に、刹那の身体はすみずみまで、爪の先のささくれの一筋も残さず凍りつく。
声など、とても出ない。
「黙ってても、何にも解決しねぇぜ?」
声は出ない。
「ろ、」
あまりの驚きとあまりの自分の罪に、刹那の意識も存在も、声の切れ端ごと、喉笛ごと、バラバラに砕け散りそうだ。
「ロック…オ、」
息ができない。
「ロックオン、俺、は」
こんなに息が苦しいのなら、ひと思いに脳天を撃ち抜かれた方が、よほどましだ。
「ロックオン?誰のことだよ」
背後のベッドの中からいきなり声をかけられ、刹那は弾かれたように振り返る。
振り返ったその先には───ベッドの中には、ニールと同じ顔をした男がいた。
男はいつのまにか起き上がり、こちらを見下ろしている。
心臓まで砕けそうだ。
締めつけられるような痛みが刹那の胸元でのたうち、刹那の声を奪う。
もう、身体そのものが動かない。
「おまえはさっき、誰と寝たんだ?はっきり言えよ」
ベッドの中で、一糸もまとわない上体をさらして、男は刹那を問い詰める。
「言えよ。それとも、おれと兄さん、どっちがどっちだかもうわからなくなっちまったか?」
「…ち、が…う。俺、は」
「俺は?」
素足を床に下ろし、男はベッドから降り立って、座り込んだままの刹那のそばにひざまずく。
ニールと同じ顔が、刹那の鼻先に迫った。
ニールと同じ顔なのに、その表情はあまりにも柔和で、何かを押し殺した熱っぽさに満ちている。
手を伸ばせば、弁明も、罪も、羞恥も、後悔も、みんなこの男に届けることができるだろう。
だが、それを届けてはいけないのだ。
「俺は…ロッ、…!」
言い終わらないうちに、男の指が刹那の喉元をわしづかんだ。
その指にゆっくりと力が込められ、刹那の身体が数センチ浮き上がる。
壁際のニールの影が、視界の端でふらりと歪んだ。
ニールは黙っている。
ニールに、見られたくない。
何も聞かれたくない。
「おまえが寝たのは誰だ?刹那」
すぐそばの優しい声が、刹那の耳に刺さる。
カチ、と遠くで小さな音が聴こえた。
銃のセーフティを外す音だ。
ニールが銃を構えている。
音のした方を振り向かなくても、刹那にはわかる。
あの時と同じように、まっすぐ、ニールがこちらに銃口を向けている。
「言えねぇなら、ここで息の根止めてやるよ」
力を増してくる指が、刹那の喉に、はっきりとした体温を伝える。
温かいこの指に包まれ、ニールの銃に撃ち抜かれて、もうすぐに、死ねる。
死ねるなら、一言くらいは、許されるかもしれない。
許されなくても、死ねるのだから、もういいのだ。
刹那は安堵する。
「ラ、」
安堵して、喉を絞って、刹那は目前の男を呼んだ。
「……ラ、…イル」
刹那がうなされている。
狭苦しく、温かいベッドの中で、ライルは薄目を開けた。
直前の夢は覚えていない。
闇の中から聞こえてくる呻き声が意識にフェイドインして、こちらも喉を突き上げられるような不安を口から吐き出そうとしたら、目が覚めてしまった。
目の前に、刹那の黒い髪がある。
ライルに背を向けて眠っている刹那の髪は、照明を落とした部屋の暗さに溶け込み、はっきりしない輪郭を、苦しげに揺らしている。
刹那の剥き出しの肩が、何かに怯えるように縮み上がり、カシ、と、硬いものを硬いもので擦る小さな音が鳴った。
ベッドそばの壁に、爪を立てているのだろうか。
こちらを向いてすがりついてくればもう少しかわいげがあるのに、とため息をつきかけて、ライルは眠気を払うように、自分の目尻を軽く掻きむしる。
自分たちのこれは、かわいげをどうこう言える関係ではない。
この関係はただ、ライルの気まぐれと性欲と、刹那の罪悪感で成り立っている。
釈明のしようもない罪を背負っても、どうしても仲間を見捨てることができない、異様なまでに生真面目すぎるこの男の生真面目さを、ただぶち壊したい。
ライルにとってはそれだけのことだ。
人一人をぶち壊すのに最も有効な、性欲込みの低俗な感情をぶつけても、刹那は壊れない。
何を守り抜こうとしているのか、それとも、守るものなど、刹那の中では最初から全部壊れてしまっているのか。
ライルにはわからない。
わからないまま、ただ身体を繋ぐ行為に溺れている。
いくら身体を繋いでも、刹那の心に手は届かない。
そんなことは十分すぎるくらいわかっているのに、刹那が守りたがっている「何か」から、ライルは目を逸らすことができない。
「何か」がたとえ壊れてしまっていても、その正体さえ知ることができたら、この、洞窟を手探りで歩くような日々に、灯りを取り込めるような気がするのだ。
───おれは。
何か期待しているのか?
頭痛のようなひらめきを振り払えないまま、ライルは額を掻く。
刹那は壁を掻きむしりながら、まだ呻いている。
誰かに必死で呼びかけているような声だ。
その声が、本当によく知っている名前を呼び、ライルを完全に覚醒させた。
「………ロック…オ、」
愛も。
温もりも。
未来の、自分の小さな幸福を期待することも。
おれはあの時失くしたんじゃなかったのか?
あのガッデスをこいつが撃ち墜とした時に、おれは、何もかも、永久に失くしたんじゃなかったのか。
それなのに。
───おれは、刹那に。
こいつに、何を期待している?
震える肘をシーツに立てて、ライルはゆっくりと起き上がる。
「………ロックオン、俺、は」
刹那がまた呻く。
刹那の夢の中にいるのが誰だかわからない。
そうだ。
期待する方が間違っている。
───おれじゃない。
刹那の心の、一番深い場所に棲んでいるのは、あの人だ。
おれに会いに来ようともせずに死んでしまった、同じ顔の、同い年の。
ベッドの上で上体を起こし、ライルは呻き続ける刹那を見下ろした。
こんな暗がりなのに、刹那の頬がべったりと白く光っているのがわかる。ひどい汗をかいているのだろう。
「…ち、が…う。俺、は」
ああ。おまえはいつもそうだ。
明確に他人の言い分を否定するのに、否定のその先を続けようとしない。
おまえはいったいどうしたいんだ。
そのぐちゃぐちゃになった身体から、ぐちゃぐちゃな気持ちを吐き出したいなら、吐き出せよ。
お綺麗な建前を叫びたいなら叫べよ。
あの人になら、言ってたんだろ。あの人になら言えるんだろ。
───なら、夢の中でいいから言えよ。
クッ、と刹那が喉を鳴らした。
鳴らしてから、壁を掻いていた指を、自分の喉に突き立てる。
息が苦しいのだろうか。
───言えよ。
ライルは刹那の喉元に手を伸ばした。
───言えよ。もし言えたら。
言えたら、言った喉ごと、潰してやるから。
だから。
喉を掻きむしる刹那の手のひらごと、そこを絞め上げようとした、直前。
「……ラ、…イル」
呼ばれて、指が硬直する。
あと数センチで刹那の喉に触れるはずだったライルの指は、もう関節を曲げることができない。
空中で行き場を失ったそれを、息を飲んで取り戻し、ライルは身体を反転させて、ベッドから飛び出した。