天上の洞窟 -1-



刹那を、見失ってしまった。
歩き慣れない通路の片隅で、どすんと壁に背中を預け、ライルは湿った舌打ちを噛み殺す。
この、ソレスタルビーイングの秘密ファクトリーの内部構造を、ライルは未だによく把握していない。
この宙域──ラグランジュ3付近に散在するいくつかのファクトリーは、どこも構造がよく似ていて、そのくせ居住区のデザインは微妙に違っていたりして、全ファクトリーの全貌を記憶するのが本当に難しい。
小さな資源衛星の内部に、工場施設と、構成員のための生活施設を詰め込むのだから、デザインに多少の無理がきく居住区の構造が快適さを犠牲にするのはしかたがないことのような気もする。
が。
「…道がわかりにくいっつーの…」
通路の壁にもたれたまま、ライルは名前もわからないファクトリーの設計者を呪った。
プトレマイオスは今、このファクトリーで補給を受けている。
前回の大西洋でのミッションの後に、いきなり補給を受けることが決まり、ここまで慌ただしく航行してきたのだ。
スメラギが言うには、サバーニャに続く新型機の稼働実験をマイスター込みでやりたいと、ファクトリーから申し入れがあったのだそうだ。
まったく人使いが荒いにもほどがあるが、地球で休暇をもらったばかりの身としては、大声で文句も言えない。
このファクトリーで、サバーニャの武装がどんどん付け加えられていくのは嬉しい。より完璧なシミュレーションを繰り返せるのも、自分の技量が上がっていくようでやりがいがある。
しかし。
先日の休暇を終えてから、ライルは刹那に指一本も触れることができないでいる。
忙しすぎて、刹那を捕まえるヒマがないのだ。
サバーニャに加えて、ライルはアリオスの後継機の稼働チェックにまで駆り出されている。
さらに不運なことに、ダブルオーの後継機はまだロールアウトには遠いらしく、刹那は別室に詰めたきりで、アリオス後継機の実験室で顔を合わせることもない。
刹那が別室で何をしているのかイアンに訊いてみても、「刹那のアレは仕込みが大変でなぁ」などと、手のかかるシチューでも作っているような返事しか返ってこない。
そんな悲惨な何日かを過ごして、やっとさっき、通路の彼方に刹那の後ろ姿を見つけたのだ。
今日こそ捕まえて、今日の業務終了時間を訊き出して、今日はどこで寝るのか訊き出そうと思ったのに(トレミー以外に、ファクトリーの居住区でクルーが寝起きする場合があるのだ)、刹那は複雑な構造の通路をすいと曲がったきり、姿を消してしまった。

───いいかげんに、しろっての。

壁に背中を預けたまま、ずるずると座り込んでしまいたい虚脱感に駆られていると、前方から人影が漂ってきた。
ファクトリーの実験室で、何度か見たことがある女性だ。
なかなか整った顔立ちの彼女は、ダブルオーの後継機の設計室に所属している。
まさに天の助けだ。
「…ちょっといいかい?」
通路に立ち止まっているライルを不思議そうに見つめながら、薄ピンク色の制服を着た女性は近づいてきた。
ライルに声をかけられて、大きなグレイッシュブルーの目をぱちぱちとまばたかせている。
年齢は、スメラギ氏より数歳下といったところか。
彼女の好意的な緊張を感じて、学生時代のほろ苦い記憶が、ライルの中で小さくこぼれ落ちた。
ナンパならもう二押しくらいで確実に成功するパターンだが、泣きたいほど残念なことに、ここはハイスクールの廊下ではない。
「さっき刹那がそっちに歩いてったけど、あいつ今日は何時まで仕事なの?」
「今日の稼働実験はもう終わってます。ちょうどみんな、夕食に出たところですよ」
彼女がにこりと笑うと、ダークブロンドの髪も微重力の中でふんわりと揺れる。
やはり泣きたいほど残念だ。
ライルもようやくにこりと笑う。
こんな美人を見ても何の感動も覚えずに、同僚の男の尻を追いかけている自分は、相当疲れていると思う。
いや疲れているからこそ。
もう我慢がならないのだ。
シレッと何もかも忘れたふりをしているあの刹那を、捕まえて全裸に剥いて、それからやりたいことをやるのだ。
やりたいことをやらせろと言ったら、あいつは「わかった」と言ったのだ。
「疲れてるとこ悪いんだけど、刹那の部屋、どこか教えてくれる?ちょっとあいつに用があってさ」
偽装も何も面倒くさい。ストレートに訊いてやる。
「ああ、すぐそこですよ。案内します」
「ありがとう。ほんっと悪いね」
「いいえ。とんでもない!」
こんなにも好意的な女性に、おれは何をさせているのか。
心ですっかり泣きながら、先に立って歩いてくれる女性の後を、ライルはしおらしく追いかけた。


***

ライルと、顔を合わせる機会がない。
ファクトリーの廊下を歩きながら、刹那は長く息を吐き、パイロットスーツの襟元をようやくゆるめた。
ダブルオーライザーの粒子タンクの拡張、粒子供給システム改善の依頼、新型機のための脳量子波モニタリング、それに付随するバーチャルシミュレーション。
矢継ぎ早に繰り出されてくる業務に翻弄されながらも、それ以外のことをまったく考えなくてもよいタイトなスケジュールは、どこか心地良い。
その心地良さの裏側に、ライルへの後ろめたさが張り付いていることは自覚している。
ダブルオーライザーのコクピットで稼働チェックをしていると、このファクトリーのどこかにいる、ライルの思念をかすかに感じることがある。
おそらく、実験室に充満するGN粒子が、ごく薄い意識共有領域を作り出しているのだろう。
いらだちをたっぷり含んだライルの思念を受け取るたびに、刹那の気持ちは沈み、一方で妙な高揚にもとらわれた。
一度だけのあの行為は、ライルに不安定な感情を吐き出させるための単なる手段にすぎなかったのに、そんなことに高揚している自分が、とても汚らしく感じられる。
加えてライルは、あの行為を後悔するどころか、再度要求してきている。行為後のあの冷酷な態度とはまったくちぐはぐで、わけがわからない。
単に性欲処理の方法として、あの行為から彼は何か得るものがあった、ということなのだろうか。
それならそれで、少し気が晴れる。
気は晴れるが、身体の芯が重苦しい。
重苦しい理由はよくわからない。
重苦しいのに、この身体は微重力の通路を滑るように前進し、割り当てられた部屋へ、簡単にたどりつく。
ライルの気配が近い。
ライルが、もうすぐこの部屋へやってくる。
ライルの目的がはっきりしている以上、どんなふうに応対すればいいのかという問題は、考えるだけムダだ。
それなのに、考えずにはいられない。
重苦しい身体の中に、じっとりと湿った熱を感じる。
熱は汚らしい高揚も憂鬱も包み込み、本来は混じり合うはずのない、両者の境をとめどなくあいまいにする。
居室のドアを開け、中に入り、ほんの数秒迷ってから、刹那はドアを閉めた。
鍵はかけなかった。


***

案内された部屋の、ドア横のキーパネルを指先で乱暴に叩く。
なんと、最初の一打でドアは開いた。
鍵がかかっていなかったのだ。
驚きやら腹立ちやら拍子抜けやらで、その場に崩れ落ちそうになる膝頭に力を込めて、ライルは刹那の居室に踏み込んだ。
室内は無人だが、水音が聞こえる。
ベッドの上にパイロットスーツとその他の衣類が脱ぎ捨てられている。
ライルは部屋の奥の、シャワールームへと直行した。
「…刹那。おれだ」
できるだけ気を鎮めて、ドアを二度叩く。
すぐに中の水音が止まった。
何秒かの間をおいて、内側から操作されたドアがいきなり開く。
ダクトに吸い込まれずに残った、小さな小さな水滴が何粒か、狭いシャワールームからふわりと漏れ出して、ライルの頬を叩いた。
銀砂のように細かい水滴が舞う中に、全裸の刹那が立っている。
驚く様子も、あわてる様子もまるでない。
「よう。久しぶりだな」
力の限りの皮肉をこめて挨拶してやると、湯気の中で、ほんのわずかに刹那が眉をひそめた。
「部屋の鍵、開けっ放しだったぜ。不用心もほどほどにしとけよ?」
こちらをまっすぐ見つめていた刹那の目が、わずかにわずかに視線を逸らし、また戻る。

───まさか、こいつ。

ライルの中にある予測が生まれ、カッとはらわたが煮える。
煮える臓腑の熱で喉の奥が苦しいが、まず言葉でこの男を締め上げてやらねば気がすまない。
「…ひょっとして、待ってた?おれのこと」
締め上げても、刹那は無言だ。
無言のまま、もう逸らせない視線を、ただこちらに向けている。
あまりにわかりやすい無言の肯定に、ライルの口元が歪み、笑いが漏れる。
漏れた笑いは、音もなく湯気と溶け合って消えた。
シャワールームに踏み込み、刹那の腕をつかんで引き寄せる。
引き寄せられまいと、本当にわざとらしく、刹那が身体をねじる。
「……おまえの服が濡れる」
「うるせぇな」
そんなのはどうでもいい。
湿った背中に腕を回し、湿った顎を捉えてこちらを向かせ、湿った唇を唇で貪ると、何の抵抗もなく、刹那は舌を差し出してきた。
相変わらずの従順さに、ライルの臓腑はますます煮える。
煮える熱の原因は多すぎてもうよくわからない。
言葉をぶつけても、感情をぶつけても、この男から返答がないことへの怒りか。
返答しないくせに他人の欲は素直に受け止める、この人形めいた態度へのいらだちか。
それとも単に、オアズケを食らいまくったストレスの集大成か。
刹那の舌の温かさが、ライルの思考の輪郭を溶かす。
柔らかい舌を深く追いつめ、舐め上げ、舌で絡め取る。
微重力の中で、刹那の身体がライルの力を受けて宙を滑った。
もう数歩踏み込んで、シャワールームの最奥の壁に、ライルは刹那を押しつける。
最奥といってもごく小さな、円筒形のブースの内側面だ。狭苦しいことこのうえないが、重力がほぼゼロでも漂うことなく密着できる。
ぶる、と刹那の肩が震えた。
その舌の裏側の、小さな凹凸をすみずみまで味わい、ことさらゆっくりと奥まで舐め進む。
「……く…ゥ…」
舌の付け根をじりじりと擦ってやると、たまりかねたような呻きが、刹那の喉の奥で潰れた。
壁とライルに挟まれて、刹那に逃げ場はない。
重力が乏しいばかりに、足元さえおぼつかない。
床に吸着する(磁石入りの)ブーツを履いているライルと違って、刹那は素足だ。
体勢を保つのが難しいのか、命令しなくても刹那はライルの肩に腕を回してきた。
それに気を良くして、ライルは両手で刹那の臀部をつかみ、揉みしだきながら後孔へと指を滑らせる。
「うっ、…!」
湿った孔へ性急に指を挿し込むと、首を振って刹那はライルの唇から逃れた。
顔を背けたままの刹那をさらに壁へと押しつけ、耳の下に舌を這わせる。
「……ぁ…っ」
きつく締まる孔の中を、指一本でやわやわと撫でてやると、ライルの唇の下で、柔らかい刹那の首筋の皮膚が震えた。
唇に伝わってくるその細かい震えは、ライルの喉を通して下半身に回り、粘度の高い熱に変換される。
熱すぎて、腰骨までが痛いような気さえする。
刹那の鎖骨のくぼみに溜まった水滴を一口すすると、ミントによく似た洗浄クリームの匂いが鼻先に広がった。
冷感のあるその匂いの中に、刹那の匂いが混じっている。
酸味のある果物を舐めているようだ。
腰骨の中心部がさらに熱くなる。
皮膚を焦がされるようなその熱さに耐えきれず、ライルは目の前の鎖骨に歯を立てた。