星は辺りに雨と降り -5-
***
いったい、何がどうなっているのか。
低軌道ステーションの一室で、彼女は小さなチェアに座って小さくうずくまっていた。
かろうじて警官に拾ってもらった例のファイルケースと、刹那が残していったマフラーをまとめて腕の中に抱きしめ、ただ背中を丸める。
今回の人質事件について事情聴取をしたいと言っていた女性警官は、急な呼び出しで今、部屋を出て行った。
ジャンク屋も今頃、別室で事情聴取をされているのだろう。
フラッグの無許可売買が当局に知られたら、ただではすまない。
しかし、輸送艇ごとソレスタルビーイングに引き渡されたそれは、表向きには宇宙用ワークローダーということになっていて、検品にもひっかからない特殊なセンサー偽装を施しているから、ことが露見する確率は高くない。
停泊ポートの解錠ナンバーも、もうジャンク屋からもらっている。
後は、刹那が輸送艇を操縦してトレミーに帰投すれば、ミッションは完了するはずだったのだ。
刹那は今どこでどうしているのか。
手錠をかけられたまま、あの男の輸送艇に連れ込まれ、もうステーションから離脱してしまったのだろうか。
泣いている時間など一秒もない。
彼女は、ファイルケースから自分の端末をつかみ出した。
人目のなくなったこの隙に、何としてもトレミーと連絡を取らねばならない。
エージェントである彼女を守ろうと、刹那はあらゆる努力をしてくれた。
彼は、感情のない人間ではなかった。
彼は、自分の行動でしか、自分の感情を表さない人間なのだろう。
手錠をかけられ、あの隔壁が閉まる直前、刹那はこちらを振り向いて「気にするな」と言った。
自らの弱さを謝ることしかできなかった彼女に、それ以上謝るな、と。そう言ってくれたのだ。
また目頭が涙で痛む。
それでも彼女は端末からホロスクリーンを立ち上げる。
画面を緊急連絡モードにチェンジしようとした瞬間、着信音が鳴り響いた。
発信元は、「サバーニャ」。
「…えぇっ!?」
端末に浮かび上がる文字のありえなさに、思わず声が出てしまう。
間髪入れずに、画面が有視界通信に切り替わった。
『ハァイ。ミズ・ファン、初めまして。こちらロックオン・ストラトスだ』
画面に現れたのは、アクターかモデルのように顔立ちの整った、切れ長の、碧の目の男。
───『成層圏を狙い撃つ』。
そのバカげたコードネームには聞き覚えがある。
ありすぎて脳が思考を停止する。
バカげた名前を軽薄に名乗った男は、コクピットの中だろうにヘルメットもかぶっていない。
そしてアクターも顔負けな微笑みを浮かべて、そっとこちらをのぞき込んでくる。
『ケガはないかい?』
薄暗がりの中で、何枚ものコクピットモニターの照り返しを白い頬に受けていても、その美しすぎるマイスターは、あまりにもマイスターのイメージからかけ離れていた。
「けっ、ケ、ガは、ないです…っ」
喉を詰まらせたオウムのような受け答えしかできずに、彼女はさらに混乱する。
『そりゃ良かった。話は刹那から聞いてるぜ。王家にはこっちから手を回しとくから、あんたはできるだけ早くリニアに乗って地上に帰ってくれ。オーケイ?』
「お話って、いつ…」
『みーんな筒抜けだ。刹那の端末が途中からスピーカーモードになってたんでね。そこにあるだろ?』
「あ…」
しかたなく刹那から取り上げてきた刹那の携帯端末は、腕の中のファイルケースの奥底にしまわれている。
では、さっきまでの刹那の声も、犯人とのやり取りも、彼女の現在の状況も、その端末によって全てトレミークルーに把握されているということか。
「刹那さんをここで待っていてはダメですか?端末もマフラーもお返ししなければいけませんし…」
それに、まだ礼も何も言えていないのだ。
『そっかあ。端末ねぇ…』
切れ長の目をさらに細めてロックオンは数秒考え込み、ふと顔を上げた。
『そんじゃ、例の荷物が入ってる輸送艇の中で待てるかい?』
例の荷物とは、購入したフラッグのことだろう。
「…わかりました」
『それからさ。あんた、輸送艇の操縦はできるかい?』
「訓練はしたことがあります」
『もしいろいろ間に合わなかったら、あんたが輸送艇を操縦してトレミーに来てくれ』
「え……」
『だーいじょうぶだって。おれがサバーニャで迎えに行くよ』
「…わ…かりました…」
『サンキュー。じゃ、また連絡するから』
フ、と通信用のホロスクリーンが一枚、消え失せた。
耳に痛い静寂が戻る。
間に合わなかったら、とはどういうことだろう。
刹那がもしもステーションに戻れなかったら。
刹那がもしもトレミーに戻れなかったら。
刹那がもしも、命を失くしてしまったら。
あの犯人の気が変わり、あの銃のトリガーにほんの少し力を込めれば、すぐに何もかも取り返しがつかなくなってしまうのに。
どうしてあんなに、ロックオン・ストラトスは陽気に落ち着いていられるのだろう。
静かな部屋の中で、彼女はスティック状の端末を握りしめたまま、苦しく吸気した。
***
ひどく旧式の輸送艇だった。
複座式のコクピットシートの一方に座らされたまま、刹那は前方の星空を見つめる。
解像度の低い旧式のホロスクリーンに映る星々は、輪郭が白くぼやけている。
「もうすぐ迎えが来る。そしたらおまえもそこで放り出してやるから、それまでちょっとガマンしてな」
隣りで操縦桿を握る男は上機嫌だ。
封鎖されていた低軌道ステーションの発着ゲートは、いとも簡単に開いて、この輸送艇を宇宙空間に送り出してくれた。
手錠をはめられているために、刹那はノーマルスーツに着替えることもできず私服のまま、シートベルトで身体を固定されている。
機体のコントロール権はすべて男に掌握されている。副操縦席のパネルはメインシステムから完全に遮断され、刹那はそこに座っていながら、目の前の操縦桿を操作することも、シートベルトを外すこともできない。
「心配すんなって。丸裸で宇宙に放り出したりしねえよ。ちゃんとこの機体ごと置いてってやるからよ?」
ちらりとからかうような視線をこちらによこし、男は鼻歌でも歌い出しかねない陽気さで、操縦桿を微妙に傾け、小さな宇宙デブリを避けた。
男は、自分のアジトまで刹那を連れて行く気はないらしい。
この近辺の宙域で仲間と落ち合い、この輸送艇から太陽炉を運び出して積み替え、さらに逃亡する算段なのだろう。
「連邦のバカどもが追っかけてくるかと思ったけど、案外あきらめがいいんだな。ほんとに王家サマサマだ」
「…王家に交渉条件は出さないのか」
「おまえの身代金と、太陽炉の値段じゃあ比べもんにならねぇしなあ。ポリス野郎と連邦軍から逃げられれば、あとはどうでもいい。それに」
男は片手で口元を軽く掻き、面倒そうに口の端を持ち上げる。
またもうひとつデブリを避け、機体がわずかに傾く。
「基本、オレらはコロシはやらねぇんだ。いい子にしてりゃ何もしねぇよ」
銃を突きつけてきた時の態度とはうってかわった、男のその穏やかさをどう受け止めていいかわからず、刹那はまた黙り込む。
ピー、ピー、と甲高い警告音が繰り返される。
前方のホロスクリーンの下部に、オレンジ色の警告サインが浮かび上がった。
「ちっ。またかよ」
男は舌打ちして、モニターをもう一枚、ホロスクリーンに映し出す。
刹那はそれを、食い入るように見つめた。
モニターの中には、先端が欠けたコーンスラスターが映っている。
無残に傷つき、歪んだその丸いスリットの奥から、ぼんやりと光のようなものが漏れている。
これが、この輸送艇の格納庫に詰め込まれている太陽炉なのだ。
電源は失われているとはいえ、この男が試しに通電した時の名残なのか、ドライヴの内部にはGN粒子が残留しているらしく、それがこの輸送艇のセンサー系統を干渉しているようで、さっきから何度も警告音を響かせている。
干渉がある限り基本的なレーダーも効かないのだから、連邦軍が追いかけてこないのも道理である。
「ったく、通信もろくにできやしねぇ。どうなってんだ」
男が繋ごうとした通信は切れ切れになり、音声が乱れる。
刹那は固唾を飲んだ。
───『粒子の色は?』
───『赤かったぜ』。
───『連邦のシリアルナンバーがねぇのよどこにも』。
どの宙域で、この男はこの太陽炉を拾ったのだろう。
男の言っていたことがすべて真実なら、その条件に当てはまる太陽炉はこの世界に二種類しかない。
スローネドライの太陽炉か。
そうでなければ。
───アルケーガンダム、なのか?
その名前は、ヴェーダが奪還されてから知った。
ヴェーダに内蔵されたティエリアが「知る必要はないが、知っておきたいなら目を通せばいい」と渡してくれたデータの中に記録されていた。
アリー・アル・サーシェスが、搭乗していた機体。
ライルが大破させた、あの。
サーシェスの最期を、刹那は詳しく知らない。
ライルも刹那に多くは語らなかった。ケルディムがサーシェス機と交戦し、そのパイロットの死亡を確認したと、トレミーに報告がされたのみだった。
刹那の自意識の都合なのか、脳量子波の作用なのか、スローネドライのイメージは、今の刹那の中にまったく浮かんでこない。
浮かぶのは、忌まわしく赤い、粒子の絶え絶えな光のイメージと、右肩に刺さる銃弾の記憶だけだ。
もう、あの男に撃たれることは、二度とない。
それなのに、残るイメージだけが鮮やかだ。
この太陽炉を他人の手に渡してはならない。
スローネやアルケーの赤い粒子には、毒性がある。
スローネドライの攻撃によって負傷した、ルイス・ハレヴィのあの苦しみを、もう誰であろうと味わってはならない。
トレミーのメンバーなら、今の刹那の意図を理解してくれるはずだ。
今この時も、スメラギが何らかの策をめぐらせていることは間違いない。
「…ようし」
隣りの男が、息をついて輸送艇を減速させた。
輸送艇は、小さな岩のような小惑星が散在する、見通しの悪い宙域に到達していた。
迎えの機体を隠すのも、この宙域なら簡単だろう。
ひとかけらの不安が、刹那の思考に重くのしかかった、直後。
───来る。
刹那の身体の中で、目に見えない熱が、光のようにぎらりと集結した。
集結したそれははじけて、思考のそこかしこを駆けめぐる。
「………衝撃に備えろ」
「はァ?」
いきなりの命令に、男はきょとんと刹那を見つめた。
「対ショック準備だ、伏せろ!」
「何言ってんだおまえは!?」
輸送艇はまだ完全に停止していない。
操縦桿を握ったまま、男はきょろきょろと周囲を見回し、何事もないのを確認してまた、刹那をにらみつける。
「いきなり脅かしてどうこうしようってのか?」
もう時間がない。
刹那は手錠の腕を伸ばす。
自席の操縦桿をなんとか片手で握り、うずくまるように上体を伏せて、
そして。
光があふれた。
激しい振動と、轟音。
「うあああっ!!」
後ろから突き飛ばされるような衝撃の後で、男の悲鳴と共に、何種類ものアラートがコクピット内で鳴り始める。
「ど、どぉなってんだ!連邦軍か!?」
悲鳴も覚めやらず、男の声が裏返る。
刹那は顔を上げた。
───来た。
ライル・ディランディが。
ロックオン・ストラトスが来たのだ。