星は辺りに雨と降り -3-



***

下肢がだるい。
低軌道ステーションの通路を急ぎ足に漂いながら、刹那は首元のマフラーの端を、肩口へと揺すり上げた。
ゆっくり歩いていては、エージェントとの待ち合わせに遅れてしまう。
思っていたよりステーションへの到着が遅くなったのは、起床時間が遅れたからだ。
今朝、スメラギに通信で起こされるまで、刹那はトレミーの自室でぐっすり眠り込んでいた。
通信端末は自室に置きっぱなしにしていたから、昨晩、ライルの部屋に泊まらなくて本当によかったと思う。
昨晩はライルにサングラスを借りに行ったのだが、まさか、深夜まで自室に帰れないはめになるとは予想していなかった。

───『もっと正直なカラダにしてやるよ』。

ライルの言葉を思い出すだけで、頬に熱がこみ上げそうになる。
いつものようにドアに押しつけられ、噛まれるようなキスの後で、反応してしまった股間を思う存分、足で擦り上げられた。
ベルトを外された時に抵抗しなかったのは、快感で判断力が薄まっていたからだろう。
その時に気がついたのだ。
ライルに触れられたかったのだと。
ハルートの一件以来、ライルは刹那と距離を取るようになっていた。
テスト飛行で倒れたライルに対して、冷静でいられなかったことがライルの不快を呼んでしまったのか。
言われるまま刹那から口付けた、あの行為が出すぎていたのか。
単にライルは、過剰な接触行動に飽きたのか。
理由はわからない。
ただ、物理的にライルに近づくと、憎悪とも嫌悪とも微妙に違う、落ち着かない不安のような感情が伝わってきて、胸元がざわついた。
そのざわつきの中で、はっきりと落胆している自分を発見して、刹那はさらに落胆した。
その落胆の正体は、欲だったのだ。

───『あーあ。こんなになっちまって』。

ベルトを外され、ファスナーを広げられ、一気にめくり下げられた下着の中から剥き出された刹那のペニスを見下ろして、ライルはほほえんでいた。
剥き出しのそれは、まったく言い訳もできないほどに硬くそそり立っていた。
ほほえんだまま、ライルは硬いそれを素手で包み、握りしめて上下に擦り上げる。
睾丸から持ち上げられるようなその恐ろしい力は、実際に浮遊感を呼び、微重力の中で、刹那の足を床から数センチ浮かせた。
たまらずにライルの肩にすがると、ライルはフフ、と満足げに吐息をもらして刹那の耳を噛み、手の動きを速めた。
耳の痛みと、ペニスを擦られる刺激が混じり合い、脳が破裂するかと思った。
そしてどういう作用なのか、一気にせっぱつまった快感が、下肢から駆け上がってくる。

───『……、……出、る…、』
───『出せよ』。

ここではだめだ。
バスルームならダクトが水滴を吸ってくれるが、こんな、部屋のドアのそばで射精などできない。

───『飛び散る、前に、なんとか、してやっから、』

腕の動きと一緒に揺れるライルの声が、刹那の耳元を温めた。
ライルの指が、カリを絞り上げる。
耐えられなかった。
ドアとライルに挟まれたまま、刹那がわずかに腰をくねらせると、快感が容赦なくはじけた。
ほぼ失禁のような緊張の中で、固く目を閉じたまま、ライルの手の中に熱が吐き出される。
あふれたそれは、ぬるぬると絶望的に、刹那のペニスにまとわりついた。
それでも絶望に浸りきれずに刹那は目を開ける。
ライルが器用に刹那のカリとその周辺を扱き上げる。
羞恥のあまりに息を飲むと、ライルは蝶を捕まえた子供のように、両手指で檻を作り、刹那の吐精を捕まえていた。

───『おっと』。

ライルの指の隙間から、ふわりと水滴がこぼれた。

───あの水滴の白さを思い出すだけで、汚れた熱が、今度は口元からあふれそうになる。
熱があふれないように、刹那は手のひらで固く口元を押さえる。
通路の彼方から、誰かが自分を探している気配が流れてきた。
エージェントはもう、この先のラウンジに到着しているのだ。
早く行かねばならない。
ただちに人命にかかわるミッションではないとはいえ、あまりに集中力が足りない自らを叱咤して、刹那は通路の床を蹴り、前進するスピードを早めた。


***

「ママ、みて!おほしさまがいっぱいだよ!」
低軌道ステーションの、巨大なガラス壁に両手をぴったり貼り付けて、子供が歓声を上げる。
年は、五歳かそこらだろう。
地上に残してきた娘と同じくらいの年だ。
宇宙空間を見つめる家族連れの隣で、男は彼らと目を合わさないよう、ガラス壁の外に視線を戻した。
広大なラウンジに隣接する展望スペースは、学生や家族連れでいっぱいだ。気軽にリニアトレインに乗り、気軽にステーションを観光できる裕福な彼らに恨みはないが、裕福とは縁遠い生活をしている自分の家族を思うと、胸の底が少し痛む。
五年前のケガがもとで、男は割のいい仕事にありつけなくなっていた。
利き腕が満足に動かなければ、宇宙でデブリ拾いはできない。
スペースデブリ拾いは、危険極まるヤクザな仕事だが、デブリの中にはごく稀に、モビルスーツの破片が含まれていたりする。その「アタリ」なデブリを拾って闇ルートに流せば、まさしく一攫千金だったのだ。
ジャンク屋として一線を退いてから、男は営業マンとして生きてきた。調達されてきたデブリや、出どころの怪しいモビルスーツを売りさばくのはやはり危険を伴うが、非合法な分、他の仕事よりも実入りが良い。
それに、危険と言っても、営業屋のそれは単に法的な危険であって、宇宙空間でのデブリ拾いのように、生命の危険に直結するものではない。
まだ幼い娘のためにも、自分はもう死ぬわけにはいかないのだ。
楽しげに星を見つめる子供の歓声を耳に留めながら、男は、さらに遠くの星に目をやった。
いきなり、胸元から電子音が響く。
ジャケットの胸ポケットに指を伸ばし、男は携帯電話を取り出した。
電話のホロスクリーンには、今日の取引先からのメッセージが浮かんでいる。
ボタンを押して有視界通信に切り替えると、黒髪の若い女性が、落ち着いた口調で話しかけてきた。
『初めまして。ファン・シェンイーです。本日はよろしくお願いいたします』
フラッグを一機まるごと買いたいなどという怪しげな上客が、どんなコワモテを契約によこすのかと身構えていたが、拍子抜けした。
拍子抜けしたが、女性の背後には、ボディガードらしきサングラスの男が立っている。
ボディガードにしてはずいぶん身なりが質素だ。
そして、体格が貧相だ。
低軌道ステーションという観光スポットに服装を合わせたのだとしても、その男は観光客を装うには、何か雰囲気がちぐはぐだった。
要注意である。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
胸の内をおくびにも出さず、ホロスクリーンに向けてにこやかに挨拶し、男が振り向くと、ラウンジの入り口から、ホロスクリーンに映っているそのままの二人組が、こちらに向けてゆっくりと歩いてくるのが見えた。


***

フラッグの購入契約は、あっさり完了した。
他の観光客に端末画面が見えないよう、展望スペースのガラス壁を背にして、彼女は画面上の決済ボタンをそっと押す。
顔を上げると、同じように手元の小さな端末をいじっていた「ジャンク屋」が、実にさわやかな笑みをよこしてきた。
「ありがとうございます、ミズ・ファン。これで決済も終了ですね。あとは輸送艇の停泊ポートの解錠ナンバーをお渡ししますので、荷物を実際にご確認ください」
フラッグを一機まるごと売りつけるなどという怪しげなジャンク屋が、どんな大男を契約によこすのかと身構えていたが、拍子抜けした。
どこにでもいるような───それこそ休日の公園に出かければ、こういう小綺麗で少しくたびれた風の父親が、幼児を連れて山ほど歩いていることだろう。
男の濃いブルネットのこめかみ近くには、数本、白く光るものがある。
過労を思わせるそれからすぐ目を逸らし、彼女もにっこり笑いながら、端末をファイルケースにしまい込んだ。
「ありがとうございます!」
「では停泊ポートまでご案内いたします」
「はい!」
金を払ったからといって、フラッグの現物をこの目で確認するまでは安心できない。
男は彼女の先に立ち、展望ラウンジの出口に向かって歩き始めた。
それについてゆきながら、彼女はちらりと後方を振り返る。
契約の最中もずっと無言だった刹那・F・セイエイは、やはり無言でついてくる。
護衛はしゃべることが仕事ではないといえ、必要最小限しか話さない彼がどういう人間なのか、まったく推測することができない。
彼が、常人には想像もつかないような厳しい選抜と訓練を経たガンダムのパイロットだということは知っていても、その事実が本当なのか疑わしくなるくらい、その容姿や言動は、鍛え抜かれた人間のそれには見えなかった。
そして何より、刹那には表情というものがほとんどない。
たとえサングラスで目元を隠していても、口調や態度でその人間の表情はうかがい知れるが、刹那の口調には、感情というものがおよそ見当たらない。態度にも、何の起伏も見当たらない。
こんなに感情のない人間でなければ、ガンダムマイスターにはなれないのだろうか。
それとも、自分の生命より太陽炉を優先するミッションをこなし続けると、人間の感情というものは消え去ってしまうのだろうか。
設計上、ガンダムの太陽炉には緊急射出装置が付いているが、マイスターが乗り込むコクピットにそんな装置は存在しない。
仕事をする中で、それを知った時のショックを、彼女はこわごわ思い出す。

───それを、知ってたくせに。

マイスターに会える、と、多少なりとも、いやかなり舞い上がっていた自分は、とんでもなく能天気な人間だった。
自己嫌悪を胸に、彼女は停泊ポートへの通路をたどる。
このエリアは貨物用であるため、通路の幅は広いが、通行人は前方にも後方にもほとんど見当たらない。
前を歩くジャンク屋から少し遅れそうになり、微重力の中で床を蹴って、前方へと急いだその時。
「…!」
急に後ろから両肘をつかまれ、彼女は今日三度目の悲鳴を飲み込んだ。
また耳元に声が降る。
「待て」
感情がなかったはずのその声は、急に緊迫感を帯び、いっそう低い。
「なっ、なんですかいきなり!?」
返す声は、とうとう裏返った。
まるっきり、背後から刹那に抱き止められる体勢で床に足を下ろすと、前方を歩いていたジャンク屋も振り返った。
「どうかしましたか?」
「戻った方がいい」
立ち止まった刹那は、ぴたりと前方を凝視したまま、ズボンのポケットに入れていた端末を取り出そうとしたが、すぐに一歩踏み出し、
もう一度ジャンク屋に呼びかけた。
「戻った方がいい。早く!」
言うが早いか、今まで歩いてきた方向に彼女を突き飛ばす。
「えっ?」
ぽかんとしたまま、ふわりと滑るように数メートル逆走させられたところで、広大な通路いっぱいに、けたたましい警告音が響き渡った。
「緊急事態発生のため、一時的にこのエリアの隔壁を閉鎖します。通行中の皆様は、頭上にご注意下さい」
通路のどこかに設置されているマイクロスピーカーから、AIの合成ボイスも流れ出す。
「なお、隔壁の閉鎖時間は約十分です。通気口は閉鎖されません。空気は供給されますのでご安心下さい」
何が起こっているのかわからない。
はるか後方───誰もいない通路の、100メートルはあるだろう彼方の天井から、ゆっくりと隔壁が下り始めた。
この距離では、走っても隔壁の向こうに脱出することはできないだろう。
「走れ!」
目にも止まらぬ速さで、刹那が飛びすさってくる。
「でも、」
間に合わない、と言いたいのに、言ってしまうのが怖い。
「いいんだ!できるだけ、1メートルでも多く戻れ!」
腰に手を回され、手首をつかまれ、姿勢はエスコートのそれなのに、ひどいスピードで空中を引きずられ、目がくらんだ。
くらんだ視線の先で、隔壁が無情に行く手をさえぎり、閉まってゆく。
映画のように、床と隔壁の間にできた隙間をすり抜けることもかなわず、刹那は彼女を抱えたまま、数秒前に閉まった隔壁を蹴ってスピードを殺し、そのそばに降り立った。
床に足がつくなり、刹那は彼女を隔壁に押しつけてくる。
「…あのっ、ちょっと…」
刹那の赤いマフラーが、また頬に触れる。
隔壁に両手をついた刹那の顔が間近に迫り、黒いサングラスを透かして、さらに黒い彼の目がこちらを凝視しているのが見えた。
「俺から離れるな」
緊急事態だというのに、状況はまるっきりロマンス小説───いや、セクハラである。
「何かあったら俺の身体を盾にしろ。声はできるだけ立てるな」

───えっ?

盾、という言葉にゾッとして、ロマンスもセクハラも瞬時に吹き飛んだ。
刹那の肩越しに、こちらへ走ってくるジャンク屋が見える。
その後ろからもう一人が、こちらへ走ってきている。
前方の隔壁に締め出された通行人だろうか。
刹那が彼らを振り返る。
振り返っても、刹那はほぼ動かずに、隔壁と自分の背中の間に彼女を閉じ込めたままだ。
ようやくジャンク屋がすぐそこまで来た時、その後ろの通行人の顔がはっきり見えてきた。
ジャンク屋と同年代くらいの男だった。
この通路には空気があるというのに、男は白いノーマルスーツと、宇宙用のヘルメットを装着したままだ。
そして。
その手には、小さな拳銃が握られていた。
再びゾッとする間もなかった。
彼はその銃口をぴたりとこちらに向けて、野太い声を張り上げた。
「動くな!」