フレイアの子供たち -1-



フレイヤはアース神族の女神のなかでもっとも重要な女神であり、男神たちの偉業に負けず劣らず有名な功績をなした数少ない女神のひとりである。
(中略)
フレイヤは女神たちのなかでもっとも美しく、もっとも欲望の的となる女神であるばかりか、情事の仲立ちを頼みたいとき、あるいは寝室で助けが必要なときに祈りをささげる女神でもある。

トム・バーケット著 井上廣美訳
『図説 北欧神話大全』2019年






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まるで、植物のような男だと思っていた。
笑わない。
怒らない。
落ち込んだ顔も、機嫌のよさそうな顔も、見たことがない。
もちろん泣き顔など、想像がつかない。
声にも抑揚がなく、彼よりAIの方がよほど人間らしいと思うこともあった。
「メシ、食うか?」
「………。ありがとう」
珍しく在宅していたそのルームメイトに、ライルが手製の夕食を分けてやると、拍子抜けするほど彼は素直にテーブルに着いた。
白い曇天に薄い緑の染料を流したような、何度見ても立派すぎる大理石のテーブルの上に、ライルはかちりとスプーンを置いてやる。
ほろ、と音を立てて崩れそうなジャガイモと、鮮やかな色のままのニンジンが、皿の中で湯気に浸かっている。
彼は───刹那は、音も立てずにスプーンを持ち上げた。
「………うまい…」
シチューをひと口、静かにすすってからの、一言。
何の抑揚もないその声とは裏腹に、刹那の赤茶の目には、ライルの見たことのなかった光が溜まっていた。
刹那の対岸に座ってライルも同じく食べ始めたものの、虚を突かれて滑らかに動けない。
ぎこちないライルをよそに、刹那は黙って食事を続ける。
この男は、黙って食事をすることが平気なのだ。
確信は、急にライルの胸の中に落ちてきた。
この男は、別にライルの存在を面倒がっているわけでもなく、誰かと食事をすることが嫌いなわけでもない。
ただ、何もかもが顔に出ないだけなのだ。
いや、今までは、ライルの観察力が足りなかっただけなのだろう。
こんなにも今、彼は満足そうに、ライルが作ったシチューを食べている。
満足そうだということが、ライルにはわかる。
彼の小さく整った唇が銀色のスプーンに触れ、その唇に浸みかかった白っぽいシチューが、音もなく吸われて消えてゆく。
ただそれだけのことなのに、ライルの腹の、もっと下の方が、ざわざわと落ち着かない感覚に襲われる。

───ヒトがメシ食ってるところって。

こんなにエロいもんだったっけ?
思ったとたんに喉に熱いイモがつかえ、激しくライルは咳き込んだ。


***

事の起こりは、半年前。
ライルの端末に、電話がかかってきたのだ。
飲み会の誘いもデートの約束までも、すべてネットワーク上で済ませられるこの時代にかかってきた、その電話の内容は、ライルの予想通りのんびりしたものではなかった。

───『ルームメイト、代わってくれないか?』

大学時代の友人の声は、せっぱつまっていた。
付き合っていた彼女の妊娠が判明して、急遽婚約したのだという。
『だから今のこの部屋を出て、彼女と暮らすことにした。おまえ、来月から、この部屋に住んでくれないか?』
彼は大学時代からずっと、とある高級アパートメントで、ルームメイトと家賃を折半して暮らしていた。
彼が急にそのアパートメントを出てしまうと、残されたルームメイトに、来月の家賃が全額のしかかってしまうというのだ。
「ク~ラ~ウ~ス~。おまえってヤツは…」
ライルの低い唸り声にも、旧友はまったく動じない。
『俺はやましいことはしていない。いつかはと思っていた予定が予定外に早まっただけだ』
「だから全然予定じゃねぇだろうが!」
『おまえも良いところに勤めてるんだから、金はあるだろう?金さえあればこんな部屋に住みたい、って大学の時言ってたじゃないか』
「くっだらねぇこと覚えてんなぁ…」
『とにかく時間がないんだ。今決めてくれ』
「バカ言うな!一日考えさせろ!」
『じゃあ三十分で』
「短すぎだろ!!」
『三十分でおまえが決められなければ他を当たる』
「………くそったれが………」
『で、どうなんだ?』
「後で電話する!待ってろ!」
三十分で、ライルの引っ越しは決定した。




勢いで引っ越しを決めたものの、アパートメントの豪華さより何より大事な問題を、ライルは忘れていたわけではない。
ルームメイトとの相性が悪ければ、どんな豪華な部屋も意味をなさないのだ。

───『その点については保証する。彼はとても真面目な人間だ。何も心配ない』。

あの慎重で抜け目のないクラウスが、ああもきっぱりと断言するのは、本当に珍しいことだった。
旧友クラウス・グラードは資産家の息子だ。
大学の頃から、社会勉強のために家を出され、ルームメイトと住まいをシェアしていたが、彼に与えられた住まいは学生にしては豪華が過ぎた。
最初のルームメイトはクラウスより一足先に結婚して、二年前に出て行ったという。
その次のルームメイトが、その真面目な彼───刹那だった。
このあたりではあまり見ない、白くも黒くもない肌に、真っ黒な髪。
初対面から、かっちりとこちらを見つめてくる赤茶の目には妙な迫力があり、一瞬ウッと気圧されそうになったことは彼にもクラウスにも秘密だ。
刹那は変わった男だった。
現在は大学生で、時々アルバイトのためにふらりと夕方に出て行っては、次の日の昼に帰宅している。
時にはバイト先と学校を往復しているのか、数日帰らないこともあり、ライルと住み始めても、彼とライルが共用のダイニングルームで顔を合わせる機会は少なかった。
在宅時間が、極端に少ない。
これは、まさに好条件なルームメイトと言えるだろう。
二人で住んでいながら、ライルは「ほぼ」、一人での暮らしを満喫できるのだ。
このアパートメントの高価な家賃を半分払うために、彼はアルバイトに明け暮れているのかもしれない。しかし、あれだけバイトばかりでは、授業に出ているのかどうかも怪しい。
そこまでして住みたいアパートメントに短時間しか在宅しないのは本末転倒である気がするが、人にはいろいろと事情というものがある。
謎の多いルームメイトのことを、ライルはそう納得していた。




事態が少し変わったのは、二か月ほど前だ。
同僚との飲み会の帰りに、ライルは歓楽街を歩いていた。
そこで、刹那を見かけたのだ。
知らない男と連れ立って歩く刹那は、ライルの見たことのない顔でほほえんでいた。
あまりに表情が彼らしくないので、最初はよく似た別人がいるものだと思った。
だが、その「よく似た別人」は、あまりにも見覚えのある赤いマフラーをしていた。
刹那に違いなかった。
ライルに気づいていないのか、刹那はこちらを見なかった。
刹那の肩に置かれていた男の手が、歩きながらずるずるとだらしなく下がる。
彼らを呆然と見送るライルの目の前で、下がった男の手は、ごく自然な動作で刹那の尻をつかんだ。
何の抵抗もせず、刹那も手を男の背中に回す。
寒気と混乱で、しばらくライルはその場に立ちつくした。


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ルームメイトを、交代する。
急にクラウスにそう宣言されて、戸惑わなかったと言えば嘘になる。
刹那にとって、クラウスは素晴らしいルームメイトだった。
この世の中で、金持ちの性格は善人とクズの両極端に分かれるが、クラウスは希少な前者だった。
誠実で、思いやりにあふれていて、それでいて刹那に自分の価値観を押しつけず、必要以上にかまってくることもない。彼の振る舞いは、良い意味で驚くことばかりだった。
加えて、彼はずっと同じ女と交際していて、男には全く興味がなさそうだった。それも、刹那にとっては安心の材料だったのだ。
物心ついた頃から男に追いかけられていると、どうしても人付き合いには慎重になってしまう。
自分の何がそんなに男に好かれるのか、未だによくわからないが、それでも男とするセックスが、刹那は嫌いではなかった。
いや、どちらかというとかなり好きだ。
最初こそ尻が痛かったが、仕事でたまに上手い客に当たると、我を忘れる快感を得られる。
その感覚が好きで、仕事もやめられずにいる。
付き合うだの別れるだの理解できない面倒なプロセスを踏まずに、いろいろな男とその場限りのセックスができて、おまけに金までもらえるのだ。
大学を出て就職するまでの、つなぎのアルバイトのつもりだったが、不自然なまでの高給に慣れてしまい、仕事の内容そのものも気に入ってしまっている。
今のこの豪華なアパートメントも、勤め先の店長に、ストーカー避けとしてルームシェアを勧められたのが始まりだった。
彼はどうやって、こんな資産家の息子と暮らせるようなツテを探し出してきたのだろうか。
不思議すぎて、あの店長はやはり得体が知れない。
その不思議なまでの幸運の象徴だったクラウスは、つい半年前に、自分の古い友人を、新しいルームメイトとして紹介してくれたのだった。

───『彼の人柄については保証する。軽い男を装っているが、とても真面目な人間だ。何も心配ない』。

そうしてこのアパートメントにやってきたライル・ディランディは、真面目も不真面目も吹き飛ばしてしまうほど、ひどく容姿の整った男だった。
すらりとした体躯に、透明感のあるブラウンの髪。彫像のようにまっすぐ整った鼻筋の上に並ぶ、白人の中でも珍しい碧色の瞳。
何十人もの男の相手をしてきた刹那だが、このライルほど見かけの良い人間に会ったことはなかった。
クラウスの言った通り、彼は人当たりが柔らかく、柔らかすぎて一見軽薄にも見えたが、根は堅実で真面目だ。
同居を始めて数か月たった頃、刹那はライルに問い詰められたことがある。
仕事中の姿を、どこかで見られてしまったようだった。

───『あれ、さ。おまえの彼氏なわけ?』
───『いや。違う』
───『じゃあどういう関係なわけ』
───『仕事の相手だ』
───『どういう、仕事なんだよ』
───『セックスを換金しているだけだが?』

詮索されるのが面倒で、あえてストレートに言ってやると、ライルは今までの、飄々とした態度を全身からそぎ落として、その碧の目を小さく見開いた。
とても不快だった。
見たことのなかったライルの表情を見ただけで、どうしてあんなに胸元が締めつけられるような不快感があったのか、刹那には未だにわからない。
あれ以来、帰宅するたびにその不快感を反射的に思い出す。
それがまた不快で、刹那はますますアパートメントに帰らなくなっていた。
ある程度の着替えや学用品は店のロッカーに置いてあるので、客と一緒に朝まで過ごした後に店に戻り、そこから登校すれば、帰る必要は実はあまりない。
ただ、どうしても他人のベッドで他人と寝る日が続くと疲れてくる。
やはり週に一度は自分の家の自分のベッドで眠りたい。
なんだかバカバカしいとは思いながらも、ライルの出勤日を狙ってライルのいないアパートメントに帰り、夕方までひと眠りするのが、最近の刹那の習慣になっていた。
そんな時に限って、ライルは早く帰宅して夕食を作っていたりする。
クラウスは外食が多かったので、ダイニングで彼と食事を共にしたことはほぼなかった。
せっかく作った料理が減るのは不本意だろうと思い、刹那が寝たふりをしていると、ライルはしつこく刹那の部屋のドアをノックし、料理を分けてくれた。
とても美味いシチューだった。
そこらの店で食べたどのメニューとも違う、シンプルな味だった。
シチューが美味すぎて、ライルの顔があまり見られず、食べ終わった後に礼を言うのを忘れた。
食べる前に挨拶はしたような気はするが、ライルは怒っていないだろうか。
考えるだけムダなことだった。
だが、気になった。
そして、あの美味だった夕食のことを思い出すたび、刹那はまた、アパートメントに帰りたくなくなるのだった。


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仕事を、しくじった。
騒がしい通りを歩きながら、ニールは長い息を吐き、品のないイルミネーションに囲まれた明るい夜空を見上げ、また息を吐いた。
ビルの窓から眼下の人間を狙撃するのは得意だが、今日はターゲットがいきなりしゃがみこんで靴紐を直し始めたせいで、彼の頭をぶち抜くはずだった弾が彼の首筋に当たり、無用な苦痛を与えてしまった。
無用に飛び散った赤い飛沫と、転げ回るターゲットの姿を思い出すだけで、ニールの胸はどんよりと重いものに圧しつぶされる。
報酬はいつも通りなので、完全に仕事をしくじったわけではない。
だが、静かに目立たず、最小限の苦痛で、ターゲット自身も気づかないうちにターゲットを仕留めるのが、ニールの信条だ。

───『今日はずいぶん道路を汚しちまったんだってな、クライミング・ボーイ?』

高所からの狙撃を揶揄する、仲介人のあの口調が耳から離れない。
悔しさで、胸が、重いのを通り越して爆発しそうだ。
いつもの店には行きたくなかった。
いつもよりひどい気分なのを、馴染みの店員に悟られたくなかった。
知らない店で全然銘柄も知らない酒を流し込んだせいで、嫌なふうに頭に酒が回っているが、まだ完全な素面には戻りたくない。
いつもはまったく踏み込まない路地に踏み込み、路地を出た先でまた、ニールは違う種類のイルミネーションに照らされる。
氷を透かしたような、ペールブルーに光る立て看板の前に、黒髪の少年が一人、立っている。
こんなところでこんな時間に他人と待ち合わせをする子供など、不自然にもほどがある。
要は、そういう店なのだろう。
その愛想のかけらもない真っ黒な目にひかれて、ニールは彼に声をかけた。
「仕事中?いくらだい?」
真っ黒だと思った目は、ペールブルーのハイライトを浮かべ、不思議な色ににじんで、ニールを見上げてくる。
遠目には高校生に見えたが、意外にがっしりした身体をしている。これは大学生かもしれない。
彼の小さな唇が、小さく開かれる。
「………」
言葉が出ないほど、彼は驚いている。
その表情に、ニールは見覚えがあった。
今までの人生で、何度も見てきた表情だ。
初対面の人間がこんな顔をする時は、きっと。
「…ひょっとして。あんた、ライルの知り合いかい?」
先手を打ってやると、彼は我に返ったように二回、ぱちぱちとまばたきした。
「…そう、だが」
かわいい顔立ちに似合わず、応える声は低い。
だがその、驚きを懸命に耐える低空飛行の声と態度がたまらなかった。