沈黙の名前 -5-
地球上に存在する三本の軌道エレベーターの中で、最も新しいアフリカタワーには、物資も、人の流れも、次々に集中するものだと思われていた。
かの「ブレイクピラー」が起こるまでは。
昨年の事件後、タワー周辺の人口は激減した。崩壊したタワーそのものの復旧は数ヶ月でめどがついたが、タワー崩壊の危機を間近に見てしまった周辺住民は、その被害の大きさに恐れをなして、多くが住居を移してしまったのだ。
復旧したタワーの安全性を、いかに地球連邦が熱心に民衆に向けて説いても、人々の記憶から、恐怖は簡単には消え去らない。
南米タワーや人革連の「天柱」よりも、このアフリカタワーステーション内の人通りは格段に少ない。
現在が早朝であることを考慮しても、だ。
人通りのまばらな、ステーション通路に直結したホテルの───ロビーのソファにだらりと腰掛けて、ライルは約半日ぶりに煙草を吸っている。
大西洋上でのミッションを完了し、このアフリカタワーにほど近い待機場所にガンダムを預けて、ライルと刹那は数日の休暇を指示された。地球のどこで休暇を満喫しようとほぼ自由なのだが、さして行動の目的もない二人は、宇宙へ戻るのに便利な、軌道エレベーターのそばで宿泊することを選んだ。
ロビーの、真っ白なソファの足元にはクリーム色の人造大理石が敷き詰められ、足を組んだライルの靴の影が、冷たく映り込んでいる。
ギリシャの神殿でも模したのか、このホテルは壁も床も、フロントデスクもすべて大理石で構成されている。姿勢の良いベルボーイがエントランスを目指して歩いてゆくと、硬く鋭い靴音がロビー中に反響した。
ソレスタルビーイングの最近の資金難もあって、ここまでのハイクラスのホテルにマイスターが泊まれることは珍しい。それも皆、ブレイクピラー事件による地価の急降下のおかげ(?)なのだ。
「刹那ぁ」
向かいのソファに座っている律義な同僚に、ライルは声をかけた。
「ここ、喫煙スペースだぜ?休憩するなら部屋に帰った方がいいんじゃねぇの」
ソファの肘掛け部分に埋め込まれたパネルスイッチを片手で弾き、ライルは膝の上にテレビ用のホロモニターを呼び出す。
ずっしりと頭にしみるような疲労をひとかけら、煙と共に口から吐き出して、煙に透かしたモニターに映し出されるニュース番組を、気力無く眺める。
「てか、おまえ寝てねぇだろ。仕事は終わったんだから、さっさと部屋で寝りゃいいじゃねぇか」
「寝ていないのはおまえも同じだろう」
開いた膝頭に両手を添えた、妙にきっちりした姿勢でソファに腰掛けたまま、刹那が切り返してくる。
その顔には「おまえが部屋に戻るところまでを見届ける」と書いてある。
面倒くさい。
「おれはコレ一本吸ったら部屋に帰るさ」
「そうか」
と言いつつソファから動こうとしない刹那にうんざりして、ライルは膝上のテレビに目を向ける。
刹那の気遣いが面倒くさい。
今は誰とも会話する気はないと、こうしてどんなに態度で示してやっても、刹那はライルのそばから離れない。
───こっちが捕まえたら逃げようとするくせに。
おれのこういう気分こそイノベイター能力で読み取れってんだ。
脱力したいらだちをまた煙と共に吐き出して、やっぱりテレビを消そうとライルはパネルスイッチに指を伸ばす。
『では次のニュースです』
指に小さな力を込める前に、ふと固まる。
『今日未明、北大西洋のアイルランド領海付近で、大型貨物船が炎上しているのを、低軌道リングのカメラが捉えました。救難信号を元に分析したところ、炎上したのは二隻の船で、一隻はアイルランド船籍、もう一隻は北アメリカ船籍ということです』
モニターを見るライルの目が、わずかに細められる。
モニターを透かした向かい側に座っている刹那の目線も、ふと上がる。
女性アナウンサーの落ち着いた、だが不穏な声に合わせて、ニュース画面が、現場海域の空撮映像に切り替わる。
焼け焦げた巨大な鳥のくちばしのような「あの船」の船首が、ほの明るい夜明けの海上に浮かんでいるのが見える。
数時間後には、あの船首も海面下へ沈むことだろう。
『二隻の船が衝突した様子はなく、付近の島で特殊粒子の残留反応があったことから、二隻とも海上で何らかの勢力から攻撃を受けて炎上・沈没したとみられています。現在、地球連邦軍が乗組員の救助活動を行っていますが、生存者は確認されていません』
足元のローテーブルに置かれた、これまた大理石の灰皿に、ライルは短くなった煙草を押しつけ、小さくあくびをする。
───生存者がいないことに、安心してるなんて。
おれは将来、どのくらいハイクラスな地獄に行くことになるのかねぇ。
慣れ切った、小さな自嘲が、胸の底にぽつりと落ちてゆく。
───いや。
行くことになるんじゃなくて。
ここが、刹那と二人で座っているこの清潔で平和な、貧しい者には手の届きようもない、快適で美しいこの空間が、すでに地獄なのかもしれない。
『また、海域周辺でモビルスーツの残骸が発見され、船上でも大規模な爆発が起きていたことから、二隻の船は、民間での大量輸送が禁止されている武器や爆発物を積んでいた可能性もあるとみて、連邦軍が調査しています』
画面がまた切り替わり、今度は北アメリカのどこかの、港の映像が映し出された。時差のために、こちらはまだ真夜中だ。
真夜中にも関わらず、多数の人間が───沈没した船の、乗組員の家族が───情報を求めて、湾岸のオフィスに詰めかけている。
ひしめき合う報道陣の間で、女性が取材を受けている。
ブルネットのその女性が誰かに似ていることを思い出して、ライルの胸が、ゆらりと冷たくなった。
女性は、報道陣に自分の携帯端末の画像を示して、涙を流している。
画像の中では、その女性の夫らしい、三十代くらいの男性が二人の幼児を両脇に抱きしめて、満面の笑みをこぼしている。
二人の幼児の顔は、瓜二つだ。
───双子。
胸からあふれた冷気が、指先にまで染みとおる。
数時間前に、スナイプシステムのトリガーを滑らかに引いた指先が、テレビモニターのパネルスイッチの上で、抵抗もできず凍りつく。
凍りついたその指は、正面から伸びてきた別の手に、いきなり払いのけられた。
ライルの指ではないその別の指がスイッチを押し、テレビを消し去る。
「見るな」
いつの間に歩み寄っていたのか、向かいに座っていた刹那が席を立ち、ライルの足元にひざまずいていた。
貼り付けられたようにソファに座ったままのライルの顔を、表情のない、赤褐色の瞳が見上げてくる。
この、清潔で平和で、快適で美しい地獄の中でも、赤い瞳には濁りがない。
その濁りのなさが、耐えられない。
真横になぎ払うように、だがゆっくりと刹那の肩を押しのけ、ライルはソファから立ち上がった。
黙ってそこから離れ、客室棟へのエレベーターへと歩く。
背後で刹那が立ち上がる気配がしたが、靴音は追ってこなかった。
なるべく単独行動を装うために、ライルと刹那は、ホテル内で階層の違う離れた部屋を、それぞれリザーブしている。
本当は、違うホテルにそれぞれ泊まるのが一番いいのだが、ソレスタルビーイングの武力介入規模が圧倒的に小さくなった今、ヴェーダの指示はどうも昔より「ゆるい」ような気がする。
ライルの宿泊に充てられた部屋のドアを前にして、刹那は立ちつくしていた。
人造大理石に彩られた、客室棟の長い廊下は、他に人の気配もなく、静まり返っている。
ライルが階下のロビーからこの部屋に戻って、十五分ほどしかたっていない。
ライルが寝入ってしまう前に、昨日借りたライルのコートを返しておきたい。
昨晩のミッションの間中、エクシアリペアⅢのコクピットの片隅にしまっておいた薄手のコートを小脇に抱えて、刹那はライルの部屋のドアチャイムを鳴らすかどうか迷い続けている。
ホテル内の空調は完璧だ。コートを着る必要はない。屋外に出る機会があったとしても、アフリカタワーステーションは赤道直下にあり、寒さを感じることはない。いや、日差しを避けるために、白人のライルは肌を露出しない服装をした方がいいのだろうか。
それでも、コートなぞ、トレミーやラグランジュ3に帰ってから彼に渡しても、問題ないような気もする。
あらゆる言い訳をいくら頭の中で巡らせてみても、刹那の思考は、最後には同じ場所に行き着く。
───ライルは、今落ち着いているのだろうか。
ニュースを見ていたライルの精神状態は、良くなかった。
この状況でライルの部屋を訪ねることが、あまりにもあからさまな行為であるのはわかっている。
ライルの感情に触れてはならない自分がこんなことをしているのは、完全に間違っている。
この状況で刹那にできることは、ほぼない。
ライルを一人にして自分の部屋に戻るか、ライルを一人にしないためにこのライルの部屋にとどまるか。
その二択だ。
ライルが望むならそのどちらでも構わないと思いながらも、心の上澄みに浮かび上がってくるその自分の嘘に、わずかに吐き気を覚える。
───俺は。
どちらでもいいわけではないのだ。
───俺は。ライルの、そばに。
罵られても、短い時間でも構わない。
そうしてライルのそばにいて、彼の心を落ち着かせるために刹那がやれることなど、一つしか思い浮かばない。
───俺は、望んでいるのか。
昔、「神のための」戦闘から帰還してきた大人たちは、大人であるのにいつも精神が不安定だった。その不安定さのはけ口に、幼い「ソラン」は幾度も身体を提供させられた。だが、事が済めば、大人たちはいくばくかの落ち着きを取り戻して、優しくすらしてくれた。
あの冷え冷えとした法則が、ライルに当てはまるかどうか、自信などまったくない。ニールにその法則を試した時は、叱られてしまったのだから。
その前に、法則すら成り立たない可能性がある。
幼い頃は、あんな行為を望んだことなど一度もなかった。
あの行為は、幼い「ソラン」にとっては災害と同じで、なるべく穏便に済ませるために、耐え抜くものでしかなかった。
相手によっては、快感らしきものを得られる場合もあったが、行為を要求してくる相手を憎むことも、まかり間違って好ましく思うことも、「ソラン」にとっては気力の無駄遣いでしかなかった。だから、あの法則は、「ソラン」の無感情さがなければ成立しないのだ。
───『そういうことはなぁ。宇宙で一番好きな人間とだけするもんなんだよ』。
いつかのニールの優しい叱責が、頭の中で響き続ける。
未だに、あの言葉の意味を、刹那は理解することができない。
いや、頭ではわかっている。世の中の大多数の人間は、気に入った異性や同性と結ばれ、家庭を作り、幸福に暮らしている。
ただ、刹那にはその幸福が体感として理解できないのだ。
他の誰とも違う、過度な感情を抱いている相手とあんな行為をしてしまったら、自分はどうなってしまうのだろうか。
想像もつかない。
だからそんなことはしない方がいいと、心のどこかで警報が鳴り響いている。
こんなに、自分の都合ばかり考えているのだ。
これはまったく、ライルのための行動ではない。
今すぐ、このドアの前から立ち去るべきだ。
それなのに。
その警報に聞く耳を持たない、卑しく、狡猾な何かが、刹那の心の中から、どうしても出ていかない。
あまり長い間ここにいると、人目につく。
廊下の防犯カメラにはもう映ってしまっているだろうが、膨大に蓄積される映像データの中に情報が残るのと、人の記憶に目撃情報が残るのとでは、速報性が違う。
───戻ろう。
自分の部屋に。
目の前のドアから顔を逸らして、こつりと一歩、刹那が歩きかけると、小さな電子音が鳴った。
内側から開錠されたドアが開く。
「…何やってんだ?用があんならチャイム鳴らせよ」
のんびりした口調とは裏腹に、顔を出したライルは右手に銃を握っている。
「足音が部屋の前で止まって、ずーっと動かねぇからさ。とうとう連邦警察のお出ましかと思ってドアスコープ覗いたら、おまえが立ってんだもん」
眠たげにため息をつく彼に、腕を引かれる。
問答無用で部屋の中に引きずり込まれ、殺気の残ったその空間に、刹那の身体の芯が震える。
ドアを隔ててライルが発していたはずの、ついさっきまでの、この殺気になぜ気がつかなかったのだろう。
気配を完全に消すことも、スナイパーの能力に含まれるのだろうか。
廊下に人影がないか、鋭い視線で確認してライルはドアを閉める。
殺気の名残をにじませるその横顔に、刹那は息を飲んだ。