沈黙の名前 -4-



「これのどこが島だってんだ…」
ライルはコクピットで悪態をついた。
デュナメスリペアが着陸した、大西洋上のその「島」の直径は、わずかに三十メートル。海面からの高さも同じくらいあるかどうか。
「どう見ても岩だろ。こりゃ」
周囲に他の島影はない。
角の丸い、それでいて歪(いびつ)なダイスが、ぽつりと絶海に浮かんでいるかのような「島」だ。
ダイスの頂上にはごつごつと岩が出っ張り、平らな部分などゼロである。
その小さすぎる歪なダイスに何とか腰掛け、デュナメスリペアは腰部にホールドされていたスナイパーライフルを右腕につかみ取る。
「デュナメスリペア、座標値28VGH、63575955にて待機行動に移る」
短い暗号をトレミーとエクシアリペアⅢに送信して、ライルは操縦桿を握り直した。
待機、といってもその時間は数十分にも満たない。
刹那からの通信によると、あと十五分もすれば、ターゲットの船は射程範囲に侵入してくる。
月光は薄雲に遮られ、心もとない。
夜の海は少しずつ荒れ始めている。
この天候の変化を見越して、例の船は出航を早めたのだろう。
コクピットのホロスクリーンいっぱいに、見渡す限りの黒い波がゆっくりと揺れている。
スクリーンを暗視モードに切り替えても、半径二十キロ以内に熱源反応の存在しない海はただただ黒い。
突然、コクピットの足元がガリガリと音を立てて振動する。
「おっと」
デュナメスがわずかに体勢を崩したのを、ライルはすばやく立て直す。
「くそ…」
狙撃のために固定した腰部近くの岩が、少し崩れたようだ。
ポッドの上のハロが、キラリと目を光らせる。
「コテイヤリナオシ、コテイヤリナオシ」
「わかってるって!」
ほぼオートモードで腰部のリアユニットの角度を変えたハロに、ライルは軽くやつあたる。
これから撃つライフルの反動に、この「島」の岩盤は耐えられるだろうか。
今回の狙撃用に、スナイパーライフルに充填する粒子の量も、圧縮率も、メカニックに無理を言ってほぼ限界まで上げてある。
「ハロ。固定しっかり頼むぜ?宇宙デブリよりもここらの岩は柔らかそうだ」
「マカサレテ、マカサレテ」
頼もしい回答に、ライルは一息つく。
もう足元から振動は伝わってこない。
まだターゲットは海上に現れない。
それでも、いつでも撃てるように、ライルはコクピットの天井から、スナイプシステムをガシャリと目前に引き下ろす。
かつてのケルディムのそれよりもはるかに大きい照準器は、しっくりとした重さをライルの指に伝えた。
照準器のボディには無数の細かい傷がついている。
これは、デュナメスが大破した時に、宇宙空間に投げ出されたのを奇跡的に回収して、内部のセンサー系だけをリペアしたものだと聞いている。
ニールが、その人生の一番最後まで握りしめていたものを、こうして今も、あたりまえのように、握りしめている。

───兄さん。おれはここにいるよ。

初めてこのシートに座った時からずっと繰り返してきた言葉を、ライルは胸の内で、呪文のように唱える。
自分がソレスタルビーイングにいることについて、ニールがどう思うか思い煩っているわけではない。
もうそんな感傷は捨てた。
この呪文は、役に立つかどうかも定かでない単なる儀式というか、ゲン担ぎのようなものだ。
狙撃が上手くいっても、いかなくても、このコクピットにいる時は、ニールを一番近くに感じる。
それだけだ。
ただ、今日はそのゲン担ぎに加えて、少し胸が悪くなるような雑念が、ライルの意識を揺らしている。

───兄さんあんたは。

ずいぶんと、あの刹那に想われたもんだな。
雑念は、このコクピットの、ホロスクリーンに映る黒い海のように、ライルの意識の表層も深層も、ゆっくりと揺らし続ける。
ああいうタイプを落とすの、あんたなら簡単だっただろ。
でもあんたは、落としたつもりなんかない、って言うんだろ。
昔っから、誰にでも親切ふりまくけど、自分の大事なモンは絶対に誰にも見せないし渡さない。あんたはそういうズルい奴だ。
でもな。
刹那はあんたのズルいとこをわかってて、あんたを想ってる。
こうなるともうズルいどころじゃねぇだろ。

───呪いだぜ。そりゃ。

気持ちの乱れは、何よりも狙撃の精度に影響する。
いかにデュナメスの自動照準システムが優秀だったとしても、トリガーを引く手元が震えては意味がない。
わかっていても、つい数時間前に抱きしめた、刹那の髪の匂いが思い出されて、ライルの肺は酸素不足に陥る。
女性の柔らかく甘い匂いとはまったく違う、乾いた砂を面前ではたかれたような、そっけない匂いだった。
あのそっけない匂いを、ニールは何度嗅いだのか。
嗅ぐだけではすまなかったのか。
喉元につかえてくるじりじりとした不快感を、ライルは力を振り絞って吐息に変え、吐き出す。
考えるな。
考えても、何もかも無駄だ。
思わず目を閉じて、足りない酸素を精いっぱい肺に取り込んだところで、小さな電子音がライルの耳に襲いかかった。
ハッとして、目前の照準器の奥を覗き込む。
彼方の黒い海面に、小指の先よりも小さい熱源反応が現れている。
暗視モードのせいで蛍光グリーンに輝くそれを、可能な限りの倍率で拡大する。
大型の船だ。おそらくは、船首をこちらに向けている。
しばらく待っても、船はそれ以上前進する気配はない。密輸品を受け渡す、取り引き相手が同じ海域に到着するのを待っているのだろう。
熱源反応を見つめている間に、また別の電子音がコクピットに響く。
『エクシア、ターゲット2を追尾中。間もなく座標値28VGHに侵入する』
くだんの「取り引き相手」を追尾している刹那の声は、動揺というものを知らないかのような低さだ。
ライルは照準器の奥を見つめ続ける。
あの、蛍光グリーンに輝く船の中に、人を人とも思わない奴らが乗っている。
両親とエイミーがたどった運命を、またどこかで再生産しようとしている気狂いどもが、あの船の中で、のうのうと呼吸している。
雑念など瞬時に吹き飛んだ。
『ロックオン。応答しろ』
返答を促す刹那の声に、ごくりと冷たい固唾を飲んで、ライルはスナイプシステムのトリガーに指をかけた。
「…了解。デュナメスリペア、射撃体勢に入る」




ひとつ、ふたつ。
海上のターゲットが、ホロスクリーンの中で炎と共に膨れ上がり、一瞬の光芒を放って、ゆっくりとそのものの形を失った。
上空十キロ、雲の上での待機を終え、エクシアリペアⅢの高度を下げながら、刹那はコクピットのスクリーンを、マイクロウェーブモードから暗視モードに切り替える。
デュナメスリペアの狙撃は正確だった。
狙いにくい船首からの狙撃を外すことなく、たった二射で、二隻の大型船の底部をまっすぐ圧縮粒子で貫いた。
アラートが鳴る。
崩壊した船の熱源反応よりもはるかに小さい熱源が、中空を滑ってゆくのが見える。
母艦を失った、モビルスーツだ。
ユニオン製の、旧型フラッグ二機。
奇跡のタイミングで甲板から離陸し、爆散を免れた彼らは、海上のデュナメスに接近している。
ガンダムを視認されてはならない。
視認されたならば、目撃者を生きて帰してはならない。
すぐさま一機をロックオンし、刹那は上空から、その機体のフライトユニットをライフルで撃ち抜いた。
ライフルの粒子ビームはコクピットまでも貫き、蛍光グリーンの煙を全身にまとわりつかせたフラッグはすぐに失速して、真っ黒な海中へと消える。
『刹那。手を出すな。…最後はおれが仕留める』
押し殺したように静かなライルの声に、刹那はぞくりと肩を震わせた。
デュナメスのスナイパーライフルは大きい分、取り回しが悪い。
小回りのきくフラッグを撃ち損じれば、距離を詰められて接近戦に持ち込まれる可能性がある。
最後の一機は振り向きもせず、デュナメスが着陸している島へと直進している。船に飛来した圧縮粒子の方角から、デュナメスの位置を特定したのだろう。
相手は死に物狂いだ。
万一ということがある。

───ライル。

小さな戦慄をこらえて、刹那はエクシアを上昇させた。
デュナメスの射線上から、外れなければならないと思った。
フラッグは加速しながら、リニアライフルをデュナメスに向けている。
ライルはまだフラッグを撃たない。
ぎりぎり近くまで相手を引きつけるつもりなのか。
圧倒的優位であればあるほど、戦闘は早急に決着をつけねばならない。
感情に引きずられて、優位を驕れば、それは死を引き寄せる行為となる。

───ライル…!

祈るような気持ちで──本人に知られれば、確実に唾棄されるような焦燥を身体の底に押し込めて───刹那は高度を保ったまま、エクシアのスクリーンを凝視する。
フラッグがリニアライフルを発射した。
闇の中で、デュナメスのライフルも圧縮粒子を放つ。
たった一機のモビルスーツを撃つには、あまりにも多量の粒子だ。
ライルの憎悪を具現化したような圧縮粒子は、数秒かからずに海上のフラッグを溶解した。
ほぼ同時に、デュナメスの肩をミサイルがかすめ、背後の岩が粉砕されて、粉塵でデュナメスの姿が見えなくなる。
「っ、…ロックオン!」
思わずライル、と呼びかけそうになり、刹那は息を詰めた。
急いで有視界通信に切り替える。
映像を見る限りでは、デュナメスのコクピット内に損傷はない。ライル自身も無事なようだ。
ほとんど身動きの取れない射撃体勢でも、ハロの微細な回避運動は功を奏したらしい。
「大丈夫か」
「………ああ」
うつむき加減のライルの目元は見えない。
そのバイザーの奥の、唇の歪み具合から、かろうじて笑っているように見える。
モニターの向こうから、ため息とも、笑みともつかない、ライルの不穏な長い吐息が聞こえてきた。
「おれとハロのコンビを甘く見るんじゃねぇよ……」
独り言めいたその言葉は、刹那に向けたものなのか、溶解したフラッグのパイロットに向けたものなのか。
彼の低い声には、数ミリほどの温かみも含まれていなかった。