沈黙の名前 -3-



持っているカップが、急に重みを増した。
刹那はゆっくりと、ミルクの入ったカップをテーブルの上に戻す。
カップにかかる重力が、実際に増したわけではない。
精神的にカップを指先で支えづらくなった、その理不尽な現象を自覚しながら、刹那はテーブルの向こう岸のライルを見つめる。
まばたきすら忘れたように見開かれた碧色の目が、刹那の視線を捉えてくる。
「なんであの時、おれに名乗らなかったんだ?」
逃げられない。
言い逃れようもない。
ライルの記憶の曖昧さに期待して、一瞬でも事実をごまかそうとした過失を、刹那は心底から後悔した。
さっきからライルの精神状態が安定していなかったのは、深層の記憶が突然掘り起こされたからだったのだ。
いくらイノベイターとして他人の感情を読み取れても、他人の心に刻まれた記憶を外部から封じ込めたり、書き換えることはできない。
カップを手放して、嫌な感じに軽くなった自分の指をなだめるように、テーブルの上で、刹那はそっとこぶしを握りしめた。
「……あの時、おまえは幸せそうだった」
もう嘘はつけない。
非難するような、呆れ果ててその非難すら冷え切ったようなライルのまなざしは、ぴくりとも揺らがない。
「だから、俺はおまえに関わってはいけないと思った。だから名乗らなかった」
嘘はついていない。
だから疑わないでくれ。
自分の傲慢をひりひりと感じても、刹那は祈る。
それでもライルは納得してくれない。
「あんなに前から、おまえはおれを監視してたのか?」
ライルの目の中に、怒りにも似た、ソフトで冷たい感情が浮かぶ。
「監視はしていない」
「でもおれの居場所は調べたわけだ」
「以前に、ニールからおまえのことを聞いていた。弟がいる、と」
「相変わらずおしゃべりだなー。アノヒトは」
口の中で舌打ちして、ライルは椅子の背もたれに体重を預け、小さくうなだれた。
が、すぐに立ち直って顔を上げる。
「で?なんでもう一回おれのとこに来たわけ?」
「………」
ライルには言えない。
刹那にとって、ライルを勧誘した理由を話すということは、ライルに惹かれた理由を話すのと同じことだからだ。
あのままカタロンに属し続ければ、ライルの命は保証できなかった。
ライルを死なせたくなかった、刹那のその一心は、ニールへの大きな思慕から始まっている。
始まりがそこである限り、それは、ライルには不愉快なものでしかない。余計なおせっかいでしかない。
刹那に従ってソレスタルビーイングに来ても、ライルが戦い続ける限り、ライルの命は保証できないのだから。
「いっくら人手不足だからって、無茶だろ?兄さんと違って、おれは何の特技もない一般人なんだぜ?」
「おまえの特技はニールと同じだろう」
「ライフルならガキの頃やめちまったぜ。兄さんと違ってものにならなかったんでね」
「それでも優秀な成績を残している」
「…んっと、兄さんはおしゃべりだな」
「ニールに聞いたわけじゃない」
「ストーカーかよ、ったく」
あの時、ライルについて調べられることは、すべて調べた。
ライルの過去。
ライルの当時の生活状況。
ライルのカタロンでの任務。
ヴェーダ無しに情報を得ることには手数がかかったが、王留美の把握している情報ルートをたどれば、そう困難なことでもなかった。
カタロンの保有する旧式のモビルスーツに搭乗して、対アロウズ戦で成果を挙げ、生還することは容易ではない。
ライルにそれが可能だったのは、彼が、ずば抜けた動体視力と狙撃能力を有していたからだ。
だが、ライルが自分の能力でモビルスーツの旧式ぶりをカバーできても、資金の潤沢なアロウズの技術革新には追いつけない。
アロウズの新型モビルスーツに捕まれば、ライルの命はその才能と共にあっさり消え去る。
一定の時間が過ぎれば必ず訪れたであろうその帰結に、刹那は耐えられなかったのだ。
そんな事実を、ライルに知られたくない。
テーブルの上で握りしめたこぶしを解いて、刹那は立ち上がった。
「…待機場所に戻る」
「待てよ!」
一方的に会話を打ち切られたライルの感情が熱を増すのがわかったが、刹那はそれを無視して、会計を済ませるためにカウンターへと向かった。




「なんでおまえが怒るんだよ?おれは訊きたいことを訊いてるだけだぜ?」
「別に怒っていない」
コンパスの違いなのか、可能な限り速く歩いても、ライルはすぐに刹那に追いついてくる。
店を出て、刹那はガンダムの隠し場所へ帰るべく、海岸への道をたどった。
夏のアイルランドの日は長い。
夕刻もかなり遅いのに、絶壁の眼下に広がる海はまだ青く、空も青灰色に曇ったままだ。
何も遮るもののない彼方の海上から、うなりを上げて潮風が吹きつけてくる。
目に小さな砂粒が入り、わずかに顔を伏せると、ライルに横から腕をつかまれた。
その握力の強さに、歩くことをあきらめて刹那は立ち止まる。
海を見下ろす絶景ポイントだというのに、強風を避けたのか、周囲に観光客は見当たらない。
岩場にしがみつくように生えた短い草が、突風にあおられて、ザッと音を立てた。
刹那を立ち止まらせたライルはすぐにその手を離した。
そして、いきなりコートを脱ぎ始める。
「?」
てっきり、怒りをぶつけられるのだと思ったが。
強風で身じろぎのしにくい中、刹那がライルの意外な意図を悟った時にはもう、そのコートは刹那の肩に掛けられていた。
「寒いんだろ。着てろよ」
ライルのお気に入りらしい、見覚えのある裾の長い薄手のコートは、刹那の膝下を残して、刹那の身体のほとんどを覆った。
ライルの感情をこれ以上損ねないよう、コートに袖を通すべきなのか迷ったその瞬間に、コートごと、両腕を引かれる。
「!」
魚を投網ですくうように、刹那の身体が、ライルの胸元へ絡め取られる。
ライルの肩口に唇をぶつけそうになり、刹那はとっさに顔を逸らした。
結果的に頬をそこへ擦りつける姿勢になり、ますます身動きが取れなくなる。
「おれの質問に答えろよ。刹那」
ライルの声はなぜか穏やかだ。
穏やかなのに、その心の奥には、ゆるい痛みを伴った、さざ波のようなものが立って、ざわめいている。
「なんでおまえは、もう一回おれを迎えに来たわけ?」
ライルの腕が刹那の背中に回る。
まるで、恋人を抱きしめるように。
痛みに満ちてざわめく彼の心とは裏腹に、その腕は奇妙に優しい。
ライルの肩口に落ちるライルの長い髪から、煙草の匂いがする。
刹那はかすかに息を飲んだ。
ライルは、刹那の本心を知っているのではないだろうか。
知っていて、刹那を追い詰めにかかっているのか。それとも、ぼんやりとしか見通せない、刹那の思考の不確実さに腹を立てているだけなのか。
これ以上ライルの思考に立ち入りたくない。
知りたくない。
知られたくない。
ライルの心を知るのも、ライルに心を知られるのも、ただ恐ろしい。
抱き留められたまま静かに煩悶する刹那の耳元に、ライルの低い声がねじ込まれる。
「ライフルにしたって、おれ程度の腕前のやつはどこにでもいる。おれをソレスタルビーイングに呼んだのは、なんか他に理由があんだろ?」
ライルの動体視力はニールのそれをはるかに超える。かつての、ケルディムのオペレーションシステムに蓄積されたデータが、はっきりそれを証明している。
いつになったらライルはそれを自覚するのか。
いらだちのようなもので内心の煩悶を押しのけ、刹那はライルに釘を刺す。
「おまえほどの腕を持っている人間は、簡単には見つからない。兄と比較して自分を卑下するのはやめろ」
「……。言ってくれるじゃねーの…」
ライルの声がさらに低くなる。
心臓ごと殴られるような、見えない波動がライルの全身からはじけ、それは無数の火の粉のように、鋭く熱く、刹那の身体にまとわりついた。
息が詰まる。
ライルの最大の、痛点に触れてしまった。
あえてやったことではあるが。
容赦なくぶつかってくる彼の感情をなんとか遮断しようと、せめてもの努力で、刹那は目を閉じた。
反射的に、身体と心が、ライルの感情を受け止めようとしている。
今ここで受け止めて、踏み込んでしまったら、この目の、虹彩が金色に変色してしまったら、いっそうライルは激高するだろう。
されるがままだった上半身に力を込め、顔を伏せて、刹那はライルの胸元を手のひらで押し戻す。
「逃げんなよ」
怒りに震えていても、ライルは刹那を離さない。
「おまえを迎えに行ったのは、おまえの能力に期待したからだ。…それでいいだろう」
「そーゆー言い方がさぁ。素直じゃねーんだよ」
イノベイターではないはずのライルは、なぜこんなにも敏いのか。

───どうすれば、どう言えば、ライルを納得させられる?

わからないまま、ライルの腕の中で刹那は歯を食いしばった。




強情にもほどがある。
着せかけたコートごと刹那を捕まえながら、ライルはやっと舌打ちをこらえた。
こちらの胸元を押し返そうとする刹那の腕の力と、それを許さないライルの腕の力は拮抗している。
それでもやはり、刹那は本気で抵抗してはいない。
人間の関節の急所を知り尽くしていて、指一本で、大の男に悲鳴を上げさせる技術を持っているこの男の抵抗が、こんなにぬるいわけがない。
本気で逃げたいなら、この体勢からライルの喉元や顔面を攻撃することは簡単なはずだ。
だが、刹那という人間は決してそうしない。できない。
そんな確信をライルは持っている。
離してもらえないことに絶望したのか、ライルの肩を押し返そうとする刹那の腕から力が抜けた。
それをいいことに、ライルはますます力を込めて、刹那を捕まえる。
いや、抱きしめる。

───『おまえほどの腕を持っている人間は、簡単には見つからない』。

かつての兄の口癖を、まさか今になって、こんなところでこんな男から聞かされようとは。
怒りによく似た、だが既に郷愁となった感情を、ライルは口元で噛み殺す。

───なにやってんだかな。おれは。

わかりきっている答えを、こいつに無理やり言わせたって。
こいつの、おれの、何が変わるってんだ。
海鳥の悲鳴のように、強い風が一声鳴いて、耳元をかすめてゆく。
顔を上げない刹那の髪に、ライルは鼻先を埋める。

───どうせ、兄さんに惚れてたとかそんな理由なんだろ。

兄さんと同じこの見てくれと、ちょっとばかし人より上手いライフルの腕があれば、おまえも、ソレスタルビーイングの皆も、それでよかったんだろ。
そんなこと最初からわかってたさ。
わかってて来たんだから、文句なんか言うもんじゃねぇって、それもわかってるさ。
いつもそうだった。
始まりは、おれの周りのヒトが心を動かすきっかけは、いつも、おれじゃなくて兄さんなんだ。
なんでそんな、昔っから決まりきったことを、おれはガキみたいにいつまでもこだわってんだ。
兄さんの後釜、誰にも務まらないそのポジションを思いっきり利用してやるって思って、その通り利用してきたじゃねぇか。
なのに。
こいつを見てると、全部放り出したくなる。
自分のこの見てくれも、「ロックオン」のコードネームも、おいしいポジションも、デュナメスも、ソレスタルビーイングも。
全部投げ捨てたくなっちまう。

───『嘘ね。ライル。自分でわかってるでしょう?』

耳の、意識の奥深くで、あの声がした。
何度も何度も耳元で聞いて、その声すら唇で捕らえて舐めねぶった、もう戻らない、優しすぎる声が、ライルの耳の奥を抉る。

───やめてくれ。

わかってるから。
的確で、辛辣で、そして震えが来るほど温かかった彼女の声に、ライルの意識は咆えかかる。
わかってる。わかってるから、言わないでくれ。
そう。
おれはわかっている。
こいつも、トレミーの皆も、もうおれと兄さんを混同したりしない。
おれが投げ捨てて壊したいのは、おれのこのポジションじゃない。

───おれが壊したいのは。

刹那だ。
おれの思い通りにならない、おれを好きだとも言わない、言うはずもない、目の前の、頑固で哀れなこいつを、粉々に壊して、壊した破片をひっぱがして、その奥に残ってるはずの、こいつのほんとの姿を。
おれは。
見たいだけ。

耳元で鳴く風の音に、違う音が加わった。

腕の中の刹那の肩がびくりと震える。
その電子音は、刹那の下半身と、ライルのズボンの尻ポケットから聞こえてくる。
二人が同じく携帯している、通信用の端末が鳴っているのだ。
ミッション中に、同一行動をしている二人の端末が同時に鳴るということは、緊急通信である可能性が高い。
「ちっ」
今度こそ舌打ちして、ライルは刹那の背中に回していた腕を解いた。
刹那も我に返って、自分の服のポケットを探っている。
上着を着ていない分、ライルの方が端末操作は速かった。
着信ボタンを押してコール音を黙らせると、端末の暗いパネルの上に、簡潔な文章が浮かび上がった。
ターゲットの船が、予定よりも早く出航したらしい。
「急ごう。すぐ出発しないと狙撃ポイントまで間に合わない」
ライルよりも数瞬遅れで端末を確認した刹那は、もうそれを自分のポケットに戻している。
直後、肩に掛かったままのライルのコートをどうするか迷って、刹那はライルを見上げてきたが、ライルは顔をそむけた。

───面倒くせぇ。着て帰れよ、ガンダムまで。

腹立ちまぎれにため息を天に吹き付け、ライルは海岸の洞窟へと駆け出した。