サムシング・スカーレット -4-



こちらに気づいて少しだけ表情を硬くしたものの、「虎徹」は特に何の怒りも焦りもないような無表情で、廊下の端からバーナビー宅のドア前までの短い距離を、静かに歩いてきた。
階下のエントランスのドアは、インターホンを通じてちゃんとバーナビーに開けてもらえたらしい。めでたいことだ。
別に息せき切って走ってきたふうでもなく、虎徹は息一つ乱していない。だが彼のシャツのボタンは上から二番目までが外れているし、家の中で掃除でもしていたのか、ただぼんやりくつろいでいたのか、シャツの袖は肘まで折り返されてしわが寄ったままだった。

───そんだけカッコもかまわず来るんならもうちょっと早く来いっての。

「遅かったな。『バニーちゃん』はもういただいちまったよ」
ドアにもたれたまま言い放ってやっても、虎徹は表情を変えない。
これは相当キテるかもしれない。
あからさまに怒鳴られるよりも、無表情の方が、怒りレベルとしては数段上だ。
「真に受けんなって…ウソだっての。あったりまえだろ?ちゃんとあいつの顔見て確認してみろって」
無表情を崩したくてフォローしてみても、虎徹はごく小さく、閉じた唇を歪めただけだった。
「間違っても『バニーちゃん』を責めたりすんなよ?…じゃーな。ちゃーんと話してやれよー」
殴られる前に退散しようと、ライアンはバーナビー宅のドアから背中を浮かせた。
虎徹の歩いてきた方へ帰ろうと、虎徹とすれ違う。
「…おい」
肩と肩がぎりぎりで触れ合わない、わざとの近距離ですれ違いかけた瞬間、虎徹が呼び止めてくる。
これは戦闘態勢に入った方がいいのだろうか。
ポケットにつっこんだ両手をポケットの中で握りしめ、ライアンは立ち止まった。
虎徹は手を出してこない。
胸倉をつかまれる前に先制したかったが、虎徹は腕力を行使する気はないようだった。
「ん?まだなんか用?」
ポケットの中の手をゆるめながらも、ライアンは気を抜かずに問い返す。
緊張感はそのままで、虎徹の目が、ちらりと力なく光った。
直後の彼の言葉は、少し、いやかなり信じがたいものだった。
「悪いけど。バニーと俺が話し終わるまで、帰らないでくれ」

───はぁ?

思わず間抜けな声が出て、両手どころか全身から力が抜けて、ライアンは立ちつくす。
「あのー。帰らないでオレにどうしろっての?」
「俺があいつに話し終わるまで、あいつと一緒にいてやってくれ」
「意味がわかんねんだけど。あんたがここに来たんならオレは用無しだろ?」
「いいからいてくれ」
言うなり虎徹はライアンの肘を引いて、数歩先のバーナビー宅のドアに向き合い、チャイムを鳴らした。
いきなり肘を捕らえられ、ポケットに突っ込まれていたライアンの右手がずるずると引き出される。
「おーい、おっさん?」
引き出された右手を所在なくプラプラさせながら呼びかけても、虎徹は正面のドアを見つめているだけだ。
数秒もしないうちにそのドアが開いた。
中から現れたバーナビーは、何か思いつめた顔で虎徹を見て、そして次に驚いた顔でライアンを見た。
「…どうしてライアンがいるんですか」
ぎっちり捕まえられたライアンの右手を見て、バーナビーはライアンでなく、虎徹に尋ねた。
共同エントランスのモニターで応対した時には虎徹しか映っていなかったのだから、当然と言えば当然の質問だろう。
「俺が、いてくれって頼んだんだよ」
つぶやくような虎徹の答えに、バーナビーの目がますます困惑の色に染まる。
ひと通り黙って困った後、バーナビーは何か言いかけたが、その唇が開き切る前に、虎徹が尋ねる。
「ケガの具合はどうだ。ベンさんに聞いた。撃たれたんだってな」
言いかけていた言葉を飲み込み、バーナビーがふと目を伏せる。
「………本当に、かすり傷です。出動にも支障ありません。大丈夫ですから」
「そうか」
そこからの短くない沈黙は、さしものライアンも逃げ出したくなるような重苦しさだった。
いたたまれないなんていうレベルではない。
何を考えて、虎徹はこんな気まずさを濃縮還元したような場所にライアンを引きとめているのか。
酸欠でも起こしそうな気まずさの海の底で、虎徹の手がライアンの肘をそっと離したが、こんなタイミングで解放されても、とても今はここから脱出できそうにない。
「バニー」
やっと聞こえた虎徹の声は、あくまで静かだ。
バーナビーが、怯えたように目を上げて、虎徹を見た。
「俺さ。ベンさんにまた再就職世話になることになったから。…再就職っつっても、またどっかでヒーローやらしてもらうまでのツナギみたいな感じで行こうと思ってる」
「そう…ですか…」
「でもな」
「…?」
「もし、俺がアポロンメディアに戻れることがあっても、俺はもうおまえと一緒にやっていくつもりはない」

───何言ってんだおっさん。

思わず首をかしげて、ライアンは虎徹を見た。
そしてすぐにバーナビーを見た。
バーナビーのグリーンアイズは、完全に硬直している。
「…って言っても、会社の方針でもうおまえとは組ませてもらえないと思うけど」
ふっ、と虎徹はかすかに苦笑したが、バーナビーの硬直した瞳は、微動だにしない。
バーナビーにこんなことを言うために、バーナビーにこんな顔をさせるために、わざわざ虎徹はここに来たのだろうか。
だとしたら。

───あんまりじゃねぇの?おっさん。

「金は大事だよ。ギャラを第一に考えるおまえは間違ってない。ただ、俺がその考え方についていけねぇ、それだけのことなんだ。…こないだのアメジストタワーのあれ、テレビで見てたぜ。おまえらいいコンビじゃねぇか。しっかりやんな」
「おっさん、ちょっと」
耐えられずに、ライアンは声を出した。
いくらなんでもあんまりすぎる。
「あんたさ。本気でそんなこと思ってんの」
アンバーの瞳をちらりと滑らせて虎徹はこちらを見たが、ライアンの質問に向き合おうという意志はまったく感じられない。
「仮に本気だったとしても、そんなの今ここでわざわざジュニアくんに言うことじゃねぇだろ?」
「…ジュニアくん?」
それは誰のことだと虎徹は不愉快そうに小さく目をすがめたが、すぐに合点がいったようだった。
「あんたジュニアくんのこと、どう思ってんの」
「やめて…やめてください!」
頭のてっぺんからつま先まで硬直しきっていたバーナビーが、我に返ってライアンを止めにかかってきたが、もう関係ない。
「ジュニアくんのこと、好きなの嫌いなの?ぶっちゃけシゴト仲間?それ以上?それ以下?」
「ライアン!!」
黙らないライアンの肩でもつかもうとしたのか、バーナビーの腕が伸びてくる。
その手をライアンは振り払い、すぐに手首を捕らえて空中に固定した。
捕らえられたバーナビーの手首は、虎徹の鼻先で震える。
二人の腕力の拮抗を見つめながら、また虎徹はライアンに視線を滑らせた。
「別に。単なる、前の仕事の相棒だ」
暗く沈んだアンバーアイズは、ライアンを真正面から見つめようとしない。
ライアンの手の中で、バーナビーの手首がぴくりとけいれんした。
「じゃあなんであんたジュニアくんにキスなんかしたの」
爆弾を落としてやると、沈んでいたアンバーが瞬間、ぎらりと燃え上がった。
「…………おまえには関係ない」

───またマジ声かよ。

関係ないならオレを呼び止めんなよ。
そんなマジ声出してるヒマがあったら、さっさとジュニアくんをなんとかしてやれよ。
反射的にカッとはらわたが煮えて、ライアンはバーナビーの手首をまたもや振り払うように解放した。
「じゃあオレがジュニアくんもらってもいいんだな?」
空いた手を腰に当てて、ふんぞり返って下目遣いに虎徹を見下ろしてやっても、冷たく燃え上がったアンバーの目はそのまま固まって動かない。
「ああ。大事に。してやってくれ」
かすかに、片側の口角だけ不自然に下げて、言うなり虎徹は身を翻した。
ライアンから視線を逸らして顔を逸らして、バーナビーを振り返ることすらせず、早足で廊下を遠ざかってゆく。
呼び止めるのも腹立たしい。
虎徹の背中が廊下の角を曲がって消えていっても、しばらくライアンは声が出せなかった。
バーナビーも、声一つ上げない。
ライアンが振り向いても、バーナビーはライアンの顔を見ない。
ただ呆然と、虎徹が消えていった廊下の果てを見つめているだけだ。

───なんでオレが、こんな気分になんなきゃいけねーのよ。

虎徹へのいらだちは、ライアンの腹の中で不快に湿り、ねじ曲がり、曲がって回転して、きりきりと内臓じゅうに痛みをまき散らす。
今、ライアンの目の前で突っ立っているのは、クールで頑固で実はウブな、あのバーナビーではなかった。
幽霊だってもう少し質感があるだろうと思うくらいに生気を失くした、ただの人形(ひとがた)の、抜け殻だった。
まばたきを忘れた彼のグリーンアイズは、ただただ透明で、どこまでも空っぽで、美しくすらあった。
バーナビーにかける言葉が見つからない。
何をどう言ったって、こんな顔をしているバーナビーの心には届かないだろう。

───『俺があいつに話し終わるまで、あいつと一緒にいてやってくれ』。

バーナビーがこうなることを見越して、虎徹はライアンを帰らせなかったのだろうか。
ライアンが虎徹を煽らなくても、最初からバーナビーにあんな言葉を浴びせるために、虎徹は自分から電話をかけてきたのだろうか。
バーナビーの真意を何一つ聞き出そうともせず言いたいことだけ言って、後はポイと、たまたまその場にいたライアンにすべてを押しつけて。
苦過ぎる唾が、ライアンの喉いっぱいに満ちる。
苦過ぎて舌までがなんだか痛い。
バーナビーを手に入れるために排除しなければならなかった、最大の障害というか目の上のタンコブが自分から消えて行ってくれたのに、ほんの少しも、まったく、全然、嬉しくない。
かける言葉が見つからなくても、このまま男二人でマンションの廊下に突っ立って夜を明かすわけにはいかない。
「中、入んな。ジュニアくん」
軽く肩を叩いて家の中に戻るよう促しても、バーナビーはうつむくだけで、動かない。
この家のドアは指紋認証しなければ開かない。
強引に手を取って、認証パネルに指先を近づけてやっても、バーナビーは動こうとしない。
本当に、大きな人形を操っているような感触だ。
「ほら。ちゃんとタッチしろって。あんたが開けなきゃ開かないんだから」
バーナビーの指は、氷のように冷たい。
身体に不具合を起こす前に、家の中で座らせるなりベッドに寝かせるなりしてやりたい。
バーナビーの指の冷たさがあまりにも桁外れで、ライアンの中からは、急速に欲が萎えていった。
どんなに千載一遇のチャンスでも、今のこの状態のバーナビーをどうこうする気にはとてもなれない。
ライアンの手の中で、バーナビーの指はやっと、のろのろと暗証ナンバーをたどり、認証パネルに行き着いた。
まるで瀕死の魚だった。
ドアが開いたので、バーナビーの手を取ったまま、ライアンは中へと踏み込んだ。
バーナビーは何も言わない。
つい三十分前にあれほど怒っていたのに、ライアンに触れられていても、室内で再び二人きりになっても、一言の文句もない。
「今日はもう寝な」
バーナビーの手を離し、ライアンは彼の顔をそっとのぞき込んだ。
「何も考えんなって言っても無理だろうけど、あんた横になった方がいい。ベッドルームあっちか?」
リビングとは別方向のドアを指さしてやっても、バーナビーはうつむいたままだ。
「オレを信用できねぇのもわかるけど。マジで、あんた休め」

───今のあんたをベッドルームでどうにかしようなんて思ってねぇし。

口に出すとますますうさんくさくなるセリフをぐっと飲み込んで、またバーナビーの手を引こうとすると、はた、と小さな何かが床の上に落ちた。
床の上で弾けた水滴は、形もなくただ四散した。
続けざまに、はたはたと水滴が落ちる。
うつむいた前髪で半分以上も隠されたバーナビーの両頬に、白い筋が光り、浮かび上がる。
頬を拭う気力すらないのか、バーナビーの両腕はだらりと垂れたままで動かない。
いや、だらりと垂れて、ほんのわずか、小刻みに震えていた。
途切れることなくバーナビーの頬が光り、水滴が床に落ちる。
耐えられずに、ライアンは腕を伸ばした。
バーナビーの背中に両腕を回し、引き寄せる。
崩れ落ちるように、バーナビーの身体がライアンの腕の中に捉えられる。
抵抗すら、バーナビーは忘れている。
バーナビーの無気力が、バーナビーの身体の感触を通じて、ライアンの身体の中にも浸み込んでくるようだ。
がくりとバーナビーの身体が重くなったので、ライアンもバーナビーに付き合って、床にひざまずく。
自分の足で立つ意志すらなくしたバーナビーの身体が、深くライアンの胸に沈み込んだ。
バーナビーの肩も腕も、震え続けている。
どこまで抱きしめ続ければ、この震えが止まってくれるのだろう。
夜の長さにかなり絶望しながら、ライアンは両腕に力を込めた。




ライアンが、何か言っている。
「おい立て」だろうか。
「泣くな」だろうか。
とにかく何か、短い言葉で言ってくれているのはわかるが、その内容がバーナビーには聞き取れない。
もう立ちたくない。
立てるとも思えない。

──たったひとつの希望が消えた。
──嫌われても、愛想を尽かされても、立派なヒーローでありさえすれば、半永久的にあの人のそばにいられるはずだった。

この床に転がって、聞きわけの悪い子供のように泣き叫びたいのに、バーナビーの身体はしっかりとライアンに支えられ、抱きしめられている。
床に膝をついたような気もするが、いつの間にかバーナビーは、床に尻を落として座り込んだらしいライアンの足の間で、うずくまるように抱え込まれていた。
頬に直接、ライアンのシャツが触れる。
シャツの下の胸板は、温かすぎて暑いくらいだ。
いや、暑いのは涙が止まらないせいかもしれない。
止めようとも思わないし、たぶんしばらく止まらない。
もうどうでもいい。
身体の中にため込んでいた何かが、みっともなくあふれ出して止まらない。
恥ずかしいという気持ちすら流れてあふれて、どこかに行ってしまった。

──一部と二部に道が分かれても、所属会社さえ別になってしまっても、ワイルドタイガーを尊敬して、信頼している「バーナビー・ブルックス・ジュニア」でありさえすれば、あの人は死ぬまで、ヒーローであるバーナビーを心の中に留めておいてくれるはずだった。
──あれは誤解だと、言えばよかったのだろうか。
──ギャラが必要なのは自身の生活のためではなく、他に目的があるのだと正直に言えば、虎徹は黙って、今までの関係をうやむやにしておいてくれたかもしれない。

空っぽになったはずの身体から、涙はいつまでも流れ続ける。

──いや。
──それは僕自身の、願望でしかない。
──虎徹に真実を話しても、立派なヒーローを演じ続けたとしても、どのみち虎徹がバーナビーから離れていくことは避けられなかっただろう。
──あの言葉はたぶん、虎徹の最大限の思いやりだったのだ。
──バーナビーのおかしな感情に気づいていたことには露ほども触れずに、ただヒーローとしてのあり方が違うという言い方で、バーナビーの感情の後ろめたさにベールをかぶせてくれたのだろう。
──バーナビーの傷は浅くはないが、もっと深い傷にはならないように、虎徹なりに決別の言葉を選んでくれたのだ。

涙がどうしても止まらない。
いっそ不思議だった。
空っぽになったのなら空っぽらしく、人形のように乾いていればいいものを。

──どっちが、よかったんだろう。
──バーナビーにはもうわからない。
──このグロテスクな恋心を否定される方がましだったのか。
──ヒーローとして否定される方がましだったのか。
──結局は、両方否定されて───つまり、バーナビーの存在のほとんどすべてを否定されてしまったわけだけれども。
──恋心も、ヒーローのプライドも、すべて虎徹がバーナビーに与えてくれたものだ。どちらが起点でどちらが結果であるのか、そもそも起点も結果もあいまいすぎて強烈すぎて、もはやバーナビーには何がなんだかわからなくなっている。
──感情と仕事をしっかり分けきれなかったからこうなってしまったんだろうか。
──だけど。
──あれを分けるのは無理だった。
──途方もないいらだちと憤懣の果てに、あの人がくれた信頼は、青天どころか宇宙の霹靂だった。

空っぽなのに未練がましく汚れて濡れる、こんな身体を、ライアンは投げ出さずに抱きしめてくれている。

──家族でも恋人でもない、たまたま仕事で隣にいるというだけで、何の見返りも求めない虎徹の思いやりは、バーナビーの経験と想像の域をはるかに超えたものだった。
──見返りどころかしっぺ返しを食らっても、虎徹の温かい感情はチラとも揺らがない。
──あんなふうにふるまえる人間が存在することが、ただ驚きだった。
──驚きすぎて、自分がボーダーラインを超えていることにも気づけなかった。
──あの虎徹の温かい感情に、恋愛で応えてはいけなかったのだ。
──あんなふうに思いやりをかけられたからといって、虎徹に恋心なぞ抱くことは、決定的に間違っていたのだ。

身体に力が入らない。
「…ジュニアくん」
なのに、ライアンはバーナビーが倒れないように、このぐらぐらな上半身を支えてくれている。
「あのおっさんはさ」
目を開けるのももう嫌だ。
「あのおっさんは、あんたに、……ただけだ」
ライアンの声は、やはりよく聞こえない。
じめじめと汚く湿ったこの闇の中で、世界が終わってしまえばいいのに。
とぎれとぎれのライアンの声が、とても低くて、とても優しいことはわかるのだけど。
ただ何もかも、終わりたい。
聞くことも、話すことも、考えることも、感じることも。
もう、終わりにしたい。
背中に回されたライアンの腕に、また力がこもった。
この腕の中で終われるなら、もうそれでいい。
降り止む雨の最後のひとしずくのように、バーナビーの身体の中で、ライアンへの感謝がわき上がる。
さっきまであれほど憎らしかったのに、現金なことだ。
ふと笑いたくなったが、唇をゆるめることすら、もう面倒くさかった。
暑さと湿り気と果てしない脱力感の中で、透き通るひとしずくの気持ちは、罪悪感に塗り替えられて、ずるずると闇の底へ沈んでいった。


「ジュニアくん。あのおっさんはさ。あんたに、愛想尽かすフリしただけだ」




頭が重い。
まぶたはもっと重い。
泥のベッドに浸かって寝たら、こんなふうになるんじゃないか。
バーナビーはやっとのことで、薄目を開けた。
目の前のシーツの色味がはっきりわかるほどに、部屋の中はぼんやりと明るい。
ブラインドを下ろした窓の向こうは、完全に夜が明けていた。
今が何時なのか反射的に気になったが、指示があるまで出社しなくていいと言われていたことを思い出して、バーナビーはもう一度、がっくりと目を閉じる。
閉じてもまだ、まぶたが重い。
おそらくこれは、人前に出られる状態ではない。鏡を見なくてもわかる。
鈍く痛むまぶたを、バーナビーは両手のひらで覆った。
昨夜、いつどうやってこの寝室に戻ったのか思い出せない。
ライアンが来て、虎徹が来て、虎徹がすぐに帰って行って、帰れと言ったのにライアンはいつまでも帰らなくて。
暗がりの中でただただ泣いた記憶はあるのだが、虎徹が帰ってからの記憶は、ひどくあいまいだった。
記憶がないのにこのベッドに寝ていたということは、誰かにここまで連れてこられたのだろうか。
そこまで考えて、ふと胸が冷える。
バーナビーをこの寝室まで連れて来られる人物は、昨夜の状況から考えて、ライアンしかいない。
手のひらをまぶたから下ろして、バーナビーは目を開けた。
仰臥したまま、自分の腕や下半身にふと触ってみるが、服装は昨日のままの、長袖シャツとパンツだった。脱がされた形跡も、着替えさせられた形跡もない。
下世話な想像で冷えた胸の中に、軽薄な安堵が戻る。
その安堵と引き換えに、いっそう下世話な疑問がわき上がってくる。
ライアンはどうして昨夜、何もしなかったのだろう。
虎徹が来る前に、ライアンはバーナビーを欲しがっていた。
バーナビーが自分を失っていたあの時間に、バーナビーの同意なしにセクシャルな行為を遂げることなど、朝飯前だったはずだ。
そもそもライアンは今どこにいるのか。
バーナビーの醜態にあきれて、早々に帰ってしまったと考えるのが一番妥当だろう。
彼がいつ帰ったのかもわからないくらい錯乱していたのかと思うと、恥ずかしすぎて震えが来る。
ライアンにどう思われようと、何を見られようと昨日はあんなにどうでもよかったのに、この感情の振り幅は大きすぎて身勝手すぎて、さらにそのことが倍増しで恥ずかしくなる。
次に出社した時、どんな顔をして彼に会えばいいのか。
謝ればいいのか礼を述べればいいのか。
そのどちらも必要な気がするものの、他人の家にずかずかと押しかけて居座っていた人間に、礼を言うのはかなりシャクだ。
だいたい、バーナビーに部屋を追い出された後も、ライアンは帰宅せずにそのへんをウロウロしていたのだ。ウロウロの途中でおそらく虎徹に会って、虎徹に言われるまま玄関先にまで戻ってきたのだろう。
あけっぴろげなようでいて、ライアンという人間は何を考えているのかよくわからない。
不真面目で適当で鈍感なように見えても、彼の観察眼を舐めてはいけない。それだけは、昨夜しっかり学習したのだが。
バーナビー宅に居座る以上に、バーナビー宅の周囲をうろつくことは、今の時点でかなりの危険行為だ。狙撃犯はまだ捕まっていない。顔出ししているライアンが次の標的になる可能性は非常に高い。

───なのに。

ライアンはそんな危険を少しも気にしていなかった。
無理やり引き合わされて、まだ何週間も経っていないような仕事のパートナーのために、そこまでの危険を冒す必要性がわからない。
必要性イコール恋、の一言で片づけるのはバーナビーにとってとても簡単で不愉快なことだが、ビジネスマンとしても非常に優秀なあのライアンが、恋ごときで大事な自分の身体を危険にさらすだろうか。
昨日からずっと拭えないでいる違和感を改めてかみしめると、いっそう頭が重くなった。

───僕は、本当にバカで現金だ。

何も考えたくないと思いながら、ライアンのことばかり考えている。
重すぎるまぶたをやっとのことで持ち上げて、ぼんやり天井を眺めて寝転がって、一生懸命虎徹のことを思い出すまいと逃げている自分がひたすら愚かに思える。
バーナビーはごろりと寝返りをうった。
ベッドにうつぶせると、ため息でシーツが嫌な感じに温まった。
その嫌な温もりをじわりと頬で受け止めて、やっぱり目を閉じる。
二度と虎徹に触れることはできない。
身体に力なんか、入るわけがない。
いつか街中ですれ違って、挨拶を交わすことくらいは許してもらえるだろうが、もう、あの指が、あの腕が、あの唇が、バーナビーに触れることはない。
触れることができるのは、シーツに染み込んだ、この香水の香りだけ。
急に小さな嗚咽がこみ上げ、ベッドに伏せたまま、バーナビーは歯を食いしばる。
その忍耐を挫くように、至近距離で電子音が鳴り響いた。
携帯に、電話がかかってきている。
嗚咽をあらんかぎりの力で飲み込んで、バーナビーは顔を上げた。
ベッドのどこに放り出したのか、ブランケットを引っ張って見渡しても、電話は見つからない。
いつもの位置からはるか遠くに吹き飛んでいた枕をひとつ、手元に引き寄せると、その下からようやく電話が転がり出てきた。
液晶画面には、Alexander-Lloydsという文字が浮かんでいる。
連絡を寄こしてきた人物が、虎徹でもライアンでもないことに深く安心して、バーナビーは画面をタップした。
「はい。バーナビーです」
『おはよう。ケガの具合はどう?』
「まったく問題ありません。今すぐ出動できる状態です」
出動ならマスクをかぶるから、このひどい顔はカメラにさらさずにすむ。
『それはよかった!こっちもグッドニュースだよ。狙撃の犯人が捕まったんだよ』
「えっ?」



* *


『グリフォンへ。近いうちに、ネメシスに操られた三人が現れる。君は、『ダンサー』と『ナイトメア』と『ラウドネス』、誰に会いたい?』
『………』
『グリフォン。なぜ黙っている?』
『悪夢も騒音もゴメンだ』
『わかった。では『ダンサー』を手配する』
『それよりあんたら。狙撃の犯人でっちあげんのはかまわねぇけど、どうでもいい余計な情報を流すんじゃねぇ』
『余計な情報とは?』
『グリーンとのコンビ解散を恨んだファンとか、そういうくだらねぇ作り話をこっちに流すなってんだよ』
『犯罪行為には動機が要る。警察が納得する理由をつけたまでだ』
『オレはあんたらの要望に従うと言った。あんたらはなんでオレの要望に従わない?』
『以後善処する』
『…反省ゼロってか。…ちっ』


***

バーナビーを狙撃した犯人は、あっさり捕まった。
一般市民にも、他のヒーローにも知られることなく、事件は秘密のうちに解決した。
もちろん本当は「解決」したのではなく、それは「彼ら」から指示を受けた犯人役が、「彼ら」の計画通りに「捕まって見せた」だけのことであるが。
裏社会ではよくあることだ。犯人役は指示に従い、捕まってみせ、服役してみせ、刑務所を出所後にいくばくかの報酬を「上」から得るのだろう。
「タイガー&バーナビーの熱狂的なファンだった」。
それが、犯人役の「動機」だった。
あっさりコンビ相手をチェンジしたバーナビーの薄情を恨んで犯行に及んだのだと、警察はバーナビーに説明した。
ロイズもベンもライアンも、その説明をその場で一緒に聞いた。
ロイズは苦虫を噛み潰し、ベンはひたすら哀しげだった。
あの時きちんと困った顔ができていたかどうか、ライアンには自信がない。
新参者として嫌われるのも仕事のうちだ。「ゴールデンライアン」が一部の市民にどう嫌われようとかまわない、その態度をアポロンメディアの連中の前で崩すわけにはいかない。
ただ、事件を演出して犯人をでっち上げた「彼ら」が、無駄にバーナビーの心情をかき回すことが許せなかった。
虎徹に「愛想尽かし」をされて、バーナビーはただでさえ弱っている。
そんなところに、要らぬ情報を無神経につきつけて欲しくなかった。

そして今日も。
バーナビーは疲れている。
一堂に会したヒーローたちの一番後ろから、ライアンはバーナビーの横顔を盗み見た。
正体不明の老人のNEXT能力を受け、病室のベッドに横たわるファイヤーエンブレムを、白い横顔は───バーナビーは、じっと見つめている。
白いどころかその顔色はあちこち青白い。
何食わぬ顔で今日もバーナビーは出動していたが、顔色がよくない上にライアンとの会話も必要最低限で、心の不調を悟られまいと気を張る気配がひしひしと伝わってきた。
至近距離で見ているライアンにとっては、痛々しいという感想しかない。
「なあなあ。で、結局女神って何すんだよぉ?伝説で」
バーナビーに質問したつもりだったのに、振り向いたのは、その先に立ってファイヤーエンブレムの炎を鎮火していたブルーローズだった。
「知らないの!?」
心底意外そうな声に、少々脱力する。
「知らねぇよ。この街の人間じゃねぇんだから。で、何?」
数歩バーナビーに近づき、ライアンは質問を続ける。
ヒーローズが勢揃いしたこの状況で、質問を無視されることはないだろう。
そんな下心もいくばくか混じった問いに、バーナビーはライアンの目も見ないで、淡々と答え始めた。

───女神の伝説、ねぇ。

ライアンはバーナビーを見つめる。
河べりで長時間の救助活動をこなしたせいで、身体が冷えているのかもしれない。滑らかに言葉を吐き出すバーナビーの唇の色は、健康的なものではない。
女神の話なんか、本当はどうでもいいのだ。
あれは「彼ら」の単なる演出で、カモフラージュで。
正義を気取る憎悪の女神は、アポロンメディアのオフィスの奥深くで、今頃午後のコーヒーでもすすっていることだろう。
「…じゃあ次は、街に穴が空くってことか?」
っかー、と内心で「憎悪の女神」冷やかしてやりながら、ライアンは鼻の頭を掻く。
相変らず痛々しいバーナビーが、やっとこちらを見た。
視線に質量があったなら、こちらの顔面にぶすりと刺さりそうな、鋭いまなざしだった。
バーナビーは、自分が冷やかされたと思ったに違いない。

───いや、それよりも。

疑われているのだ。色々と。
見られていることに、ライアンは気づかないふりをした。
気づかないふりをして、鼻の頭をぐるぐると掻く。
見つめ返したら、バーナビーはすぐに目を逸らすだろう。
バーナビーは、良い感情でこちらを見つめているのではない。
その逆だ。
それなのに、バーナビーからアクションを起こして「見つめられている」、ただそれだけで、ライアンの身体は奥の方からじりじりと熱を持ち始める。
おそらく最悪の感情で見つめられているに違いないのに、この身体は言うことをきかなさすぎる。

───お望みなら、そこらに大穴空けてやってもいいけど。

あんたを守れるなら、あいつらがそう望むなら、しかたねぇかもな。
誰に屈することもなく、誰もを地面に這いつくばらせてきたこのゴールデンライアンが、何という体たらくだろう。
だが、目の前にバーナビーがいるだけで、ライアンの身体の中のプライドは羽根のように軽く、どこかへ飛んでいってしまう。

───ジュニアくん。

あんたを今すぐ連れて帰って、バスルームにぶち込んでやりたい。
その血色の悪い唇にキスしまくって、あっためてやりたい。
くだらない女神の伝説も、くだらないあのおっさんのことも、みんなドロドロに溶かして、あんたの頭の中から追い出したい。
耐えられずに顔を上げて、ライアンはバーナビーを見つめ返した。
わずかにあわてたように、バーナビーはあさっての方向に目を逸らした。

いいカンだなジュニアくん。
そう、明日はあんたの言うジャスティスデーだ。
誰も知らないけど、オレは知ってる。
明日の19時に、あいつらの本当の祭りが始まる。
そう。
だからあんたがオレを疑ってるのは、間違いじゃない。




───ライアンが。

ライアンが、一連の事件に関係しているかもしれない。
医務室のベッドの中で、バーナビーは身体を縮こまらせた。
頬の下にある枕は清潔すぎるほどの消毒液の匂いでいっぱいで、眠るにも落ち着くにも程遠い状況だったが、就業時間内のバーナビーにとって、他に逃げ場はなかった。
昼間の出動で確かに疲れてはいるが、横になりたいと思うほどではない。しかし場所が場所だけに、社内ドクターの手前、バーナビーはベッドにもぐりこむしかなかった。
ドクターは、休みたいというバーナビーの訴えを少しも疑わず、逆に顔色が悪いと心配までしてくれた。
罪悪感は当然ゼロではないが───とにかく少しでも、ライアンから離れていたかった。
ライアンには何も言わずにここに来たが、今日の出動の事後処理が終わって彼がオフィスに戻れば、バーナビーがいつものデスクにいないことはすぐに知れてしまうだろう。
終業まであと三十分もない。
オフィスワークを終えたライアンがここに押しかけてくるまでに、考えを整理しておきたかった。
考えれば考えるほど、ライアンが一連の「女神伝説」事件に関係しているような気がしてならない。

──まるで「事件」に関わるためにスカウトされてきたようなタイミング。
──伝説をなぞるのにふさわしい、重力操作の能力。
──事件が次々に起こることを前もって知っていたかのように、彼はヒーローとして活躍している。
──女神伝説をまったく知らないと主張するのも、つたないカモフラージュの一環か。

あの狙撃だって、ひょっとしたら「女神伝説」事件に関係があるのかもしれない。犯人は、聴くのも嫌になるような動機を語っていたが、真の目的は、事件に立ち向かうヒーローへの牽制だったかもしれないのだ。
ライアンはあの狙撃犯を一切恐れていなかった。
銃火器での攻撃は彼の能力と相性が悪い。なのに、自分が撃たれることなど万にも億にも絶対ない、と言いたげな落ち着きぶりだった。
彼を事件の関係者だと仮定すると、何もかもつじつまが合うのだ。
横になったまま、バーナビーは真っ白な枕の端を握りしめる。
ライアンの能力に抵抗できるヒーローは、今のところバーナビーだけだ。
そのバーナビーの能力を封じるために、何者かがライアンをアポロンメディアに送り込んできたのだろうか。
事件を起こすために、邪魔者であるヒーローの懐に入り込み、ヒーローの手の内を盗んで懐柔しようとしているのだろうか。
ライアンのあの機転も、あの気遣いも、あのごり押しな好意も、みっともなく泣きじゃくるバーナビーを抱いていてくれたあの思いやりも、すべて「目的」のための演技だったのだろうか。
嘘だ、という叫びが胸の内にわき、その痛みにバーナビーは息を詰めた。
痛みの原因が、わかっているのにわからない。
今まで見ていたライアンの存在そのものを、すべて嘘かもしれないと仮定しただけなのに、それだけで目の前が暗くなる。
事実と仮定を認めて分析して、最善の防御を今は考えなければならないのに、考えることがヒーローの仕事なのに、この頭の中に詰まっている脳細胞は、ちっとも働いてくれない。
なぜこんなことになってしまうのか。
息が詰まる。
そこらじゅうが、真っ暗になる。
身体中から、力が抜ける。
力が抜けるのに、形の見えない痛みが身体中に炸裂する。
「…ライアン…」
痛みの中で、ほとんど声にならない吐息を絞り出す。
その吐息に呼応するかのように、遠くでドアの開く音が聞こえた。
「ジュニ…バーナビーここに来てますかぁ?」
脳天気なその声にすくみあがり、バーナビーは固く目を閉じる。
まだ終業時刻にもなっていない。
そんな規則などものともしないのがライアンという人物であることはわかっていたはずだが、今はそれどころではない。
ベッドの仕切りカーテンの向こうから、足音が近づいてくる。
バーナビーは、目を開けることができなかった。
足音に背を向け、毛布を鼻先まで引き上げた数秒後に、カーテンがひっぱられる音がした。
「具合どう?ジュニアくん」
答えたくない。
とっさに寝たふりをしてしまった以上、今はそれを押し通すしかない。
数秒の沈黙の後、ため息のような、少し長いライアンの吐息が聞こえた。
のんきに眠り込んでいる相棒に、あきれたのだろう。
早くカーテンを閉めて出て行って欲しいと思うのに、ライアンは動く様子もない。
目を閉じた暗闇の中で、心臓が喉までせり上がってきそうな緊張を、バーナビーは耐える。
背後で、ベッドのスプリングが小さく振動した。
ライアンがベッドに腰掛けたのだ。
ひときわ大きくなる心臓の拍動を、バーナビーはさらに耐える。
カーテンの向こうにドクターがいるとはいえ、ここはほとんど密室だ。
出て行かないライアンは、バーナビーのそばに腰掛けて、何をしようというのだろう。
どく、どく、と脈打つ心臓が、今にも喉から転がり出そうだ。
キシ、と音がして、腰掛けたライアンが身じろぐのがわかる。
「寝てるんだったら…それでいいんだけどよ」
低い声が、バーナビーの頭のずっと上の方から降ってくる。
「あのさぁ。ジュニアくん」
さらりと髪を撫でられて、意識が端から飛びそうになる。
「具合悪いなら悪いって言えよ。いっきなりあんたいなくなるから、何事かと思ったぜ」
大きな手のひらが、ゆっくりとバーナビーの頭に乗せられる。

───どうかこの脈拍が、頭にまで響きませんように。

バーナビーはただ祈る。
「目が覚めたら一緒に帰ろうぜ。タクシーで送ってってやるから。もうあんたの家に入れろとか言わねぇし。マンションの玄関の前までな?」
ライアンの手のひらがゆっくりと動いて、、バーナビーの頭骨の曲線をなぞる。
ライアンは、バーナビーが覚醒していることに気づいているのではないだろうか。
「まあ報酬ゼロってのもサミシイから、チューぐらいはしてもらおっかなぁ…」
指先で軽く髪をかき回され、バーナビーの体幹に、弱電流のようなかぼそい衝撃が走った。
かぼそい衝撃はバーナビーの下肢に集まり、じわりと熱を呼ぶ。
覚えのあるはしたない感覚に、バーナビーは叫び出しそうになる。
「でもなぁ。そーゆーこと頼んだらまたあんた怒りそうだし」
ライアンは気づいている。
気づいているならなぜ、バーナビーに「起きろ」と言わないのか。
こんな言葉を延々と聞かされているくらいなら、乱暴に叩き起こされた方がずっとましだ。
「…やっぱ無理なのかねぇ…」
意味のわからないことをつぶやいて、ライアンの指がようやくバーナビーの髪から離れてゆく。
最後につんつんと髪束を引っ張られて、また弱電流にやられる。
我慢できずにとうとう、バーナビーは身じろいだ。
あらぬ刺激で、あらぬ場所が反応している。
髪を引かれたぐらいでこんなことになるなんて、信じられない。
「ま、いいや」
キシ、とまた音を立てて、ライアンがベッドから立ち上がる気配がする。
「入口のロビーのとこで待ってっから。裏口から帰ったりしたらタダじゃおかねぇぞ」
捨てゼリフなんだか脅しなんだかよくわからない言葉が、少し遠ざかりながら降りかかってきた。
数歩の靴音の後で、カーテンが無造作に引かれる音がする。
「ありがとドクター。じゃ」
カーテンの向こうの声と靴音が遠ざかり、ドアの開閉音と共にそれは消えた。
「……っ」
やっと訪れた静けさの中で、バーナビーは手足を可能な限り縮めて、声にもならない声でうめいた。




これは、とても勝率の高い賭けである。
正面玄関に最も近い柱にもたれて、ライアンはサングラスを鼻梁から持ち上げた。
持ち上げたそれを、いつも通りに前髪の上に乗せる。
終業時刻を少し過ぎ、このアポロンメディアを退社する社員たちは、ほぼ全員こちらを振り返ってからこのロビーを去ってゆく。
見つめられることはあたりまえであるものの、ライアンが待っている人物はこの世に一人だけなので、通り過ぎる誰とも目が合わないようにサングラスをかけていたが、かけてもかけていなくても目立ってしまうなら、視界は明るい方がいい。
アイコンタクトも重要なファンサービスだ。
何人かの女子社員に振り向かれ、目が合うので手を振ってやると、小さな悲鳴とともに力いっぱいのバイバイが返ってきて、実に気持ちがいい。
バーナビーはまだ来ない。
さっき医務室のベッドでダウンしていたバーナビーは、殊勝にも寝たふりをしていた。
仮に、彼が本当に眠り込んでいてライアンの言葉を聞いていなかったとしても、彼は退社する時、ほぼ100パーセントの確率でこのロビーを通る。
そしてまた仮に、寝たふりがバレてしまったと彼が内心で焦っているなら、その時も彼は裏口から逃げたりせず、平静を装ってここを通るだろう。

───ジュニアくんはそういうヤツだ。

だから、今日この場所で退社寸前のバーナビーを捕まえられる確率は、ほぼ100パーセントなのである。

───はぁ。それにしても。

バーナビーの狸寝入りは「ヘタクソ」の一言に尽きた。
閉じたまつげがほんのちょっとでも震えている時点でもうアウトなのに、意地でも降参しないあの姿勢は、もはや尊敬に値する。
髪をいじってやるたびに、バーナビーの肩は毛布の下で音もなくこわばっていた。
そういうもろもろが、あんな至近距離でバレないとでも思っているのだろうか。
もっとあちこち触ってイタズラしてやればよかったとも思うが、ちょっとベッドの端に座っただけであんなに身構えられては、逆にイタズラもやりにくい。
バーナビーはライアンをいろいろな意味で疑っている。
具合の悪いところをああいう密室で接近されて、身の危険を感じるなと言う方が無理なのかもしれない。

───尻撫でたとたんにハンドレッドパワーとか、シャレになんねぇし。

自分のために能力は使わないバーナビーだから、実際にそんなことはあるはずがないものの、狸寝入りのバーナビーの緊張ぶりはハンパではなかった。

───あーあ。どーしたもんかねぇ。

身体のどこかからこみ上げてくる、しょっぱく生ぬるいいらだちの正体がわかりすぎるくらいわかりすぎて、自分で自分が嫌になる。
やはりサングラスをかけ直そうと、頭に手をやった瞬間に、早い靴音が聞こえてきた。
長い足から繰り出される靴音は、ロビーを一直線に突っ切って、ライアンに近づいてくる。
さっきまでベッドに沈んでいたとはとても思えない、軽快な響きだ。
軽快なのにどこか神経質な響きの靴音は、まったくスピードを落とすことなくライアンの目前までやってきて、ぴたりと止まった。
ロビーの中に、小さなどよめきが降る。
「よ。ジュニアくん。具合はどうよ」
どよめきをものともせず、ライアンは笑ってやる。
「タクシーで送ってやるよ。ん?」
サングラスをまた前髪に戻しながら尋ねてやると、バーナビーはその白い眉間に薄く薄くシワを寄せ、耳を疑うような質問を返してきた。
「…あなた。今日これから、空いてますか?」