サムシング・スカーレット -5-



***

虎徹は走った。
街は、いつもと違う活気に満ちていた。
明日のために、いたるところで色とりどりのカニのマスコットが飾り付けられている。
大小さまざまなカニは店先のガラス窓に貼られ、軒先に吊り下げられ、ぬいぐるみになってそこらじゅうに積み上げられている。
そして、普段のこの時間帯ではまず見かけない、旅行者ふうの家族連れが通りをわらわらと歩いている。
祭りのために、彼らは泊りがけでシュテルンビルトを訪れているのだ。
カラフルなカニと人の群れの中を、虎徹はただ走った。
このシュテルンビルトでヒーローの仕事を得てから、ジャスティスデーをゆっくり楽しんだことはない。
ヒーローとはそういうものだと思っていたから、祭りを楽しむ一般市民を羨ましいと思ったこともない。
ただ、友恵と幼い楓を祭に連れて行ってやれなかったことは今でもうっすらと切ないが、それももう、ただの思い出になりつつある。
歩行者天国になっている道路を走って横切ろうとして、親子連れの子供の方にぶつかりかけ、とっさに「ごめんな!」と声をかけて、虎徹はまた走る。
アポロンメディアの社屋はもうすぐそこだ。
ファイアーエンブレムが入院している病院からはごく近い。
この時間にバーナビーがオフィスにいる可能性は低いが、どうしても今、バーナビーに会わなければいけないと思った。

───『バーナビーは、ちゃんと理想を追ってるよ?』

頭の中で繰り返し、さっきのブルーローズの声が再生される。
バーナビーの理想は、大金を得ることではなかった。
知らなかった。
知らなさすぎた。
知ろうともしなかった。
知ることができなかった。
自分の感情とバーナビーの態度にひるんで、おびえて、自分勝手に苦悩しまくって、バーナビーの本質を見据えることすら忘れてしまっていた。
取り返しがつかないことはわかっている。
今バーナビーに言葉をかけたからといって、バーナビーが虎徹のものになるわけでもない。「今さらなんなんですか」と、うっとうしがられて終わりだろう。
それでも、バーナビーに会わなければならない。
酸素不足なのか、激しい後悔のせいか、少しずつ頭が痛くなってくる。
じわりじわりと浸みてくる痛みの中で、虎徹の思考は整合性も失い、ただ浮かんで、流れる。
あの、ギャラが欲しいというバーナビーの希望が、口実ではなかったとしたら。
あれは虎徹から離れるための口実ではなかったとしたら、もしかしたら、もしかしたら。

───俺が、あいつに隠したみたいに。

俺があいつに隠したみたいに、あいつも俺に、本当の気持ちを隠してたんだとしたら。
何もかも都合よく考えてしまうことを止められない。
息を切らして虎徹は走る。
脳内のブルーローズの声にかぶさるように、バーナビーの声が次々と思い出されてきて止まらない。

──『僕は、あなたの相棒ですから』。
──『何やってるんですか情けない!』
──『すごいですね、一部は』。
──『不自由だと思いませんか』。
──『あなたは…知っていたんですね?だったら、どうして僕に』。
──『あなたのヒーローへの思いは、そんなものだったんですか』。

ゼロでも、いいのだ。
バーナビーはもう戻ってこない。虎徹の手の中に残るものは何もない。
ゼロ、それでいい。
これはただの自己顕示だ。
バーナビーに誤解されたまま終わりたくない。
バーナビーの中の「元相棒」の存在を、濁ったものにしたくない。
それだけだ。

───俺は、あいつを、一番良く知っている、知っていた、相棒になりたいだけ。

とりどりの街の明かりが揺れ、視界が揺れ、息が切れて足が重くなる。
それでもただ、虎徹は走った。


***

「正気かよ。パトロールなんて」
チェイサーのサイドカーに寝そべりながら、この期に及んでライアンはぶつぶつと文句を言っていた。
ロビーでバーナビーに捕まえられ、バーナビーの後についてメカニックルームに戻り、ヒーロースーツを身につけた時点でライアンはもう夜間パトロールに行く決心を固めてくれていたはずだが、チェイサーに乗り込んでもまだ止まない彼の愚痴りに、バーナビーはいいかげんうんざりする。
「明日を楽しみにしている人が大勢いますから。いいですよ、これは僕一人で」
かなり本気で言ってやると、ライアンは少しも動じずに口の端を上げた。
胸元がひやりと冷えるのを感じて、バーナビーは精いっぱいの無表情を装う。
どんなに装ってもこの男にはすべて見透かされているかもしれないが、どうしても無条件降伏する気にはなれない。
医務室での寝たふりがバレていようといまいと、もう関係がない。
そうやって身構えれば身構えるほど、自身の心の弱さが胸の底からえぐり出されてくるのも自覚しているが、ライアンにも、自分にも、どうしても負けたくない。
「んなわけにゃいかねーよ。ジュニアくんだけ好感度上がっちまうだろ」
口の端を上げたライアンが、ニヤニヤと口元の笑みの量を増やす。
「は?」
「一人だけおいしい思いはさせねーよ」
「僕はただ純粋に」
「『市民を守りたいんです!』、だろ?」
勝ち誇ったようなライアンの口マネに、バーナビーの腹筋から力が抜ける。
どうして、こんなところで気づいてしまうのだろう。

───彼は、昔の僕だ。

そして、僕とは全然違う。
市民の幸福よりセルフプロデュースを気にするところも、相棒に手柄を持って行かれたくないと公言するところも、昔の僕とそっくりだけれど。
ライアンは、バーナビーを認めてくれている。
虎徹を粗雑に扱った昔のバーナビーとは、全然違うのだ。
無視されても、怒鳴られても、拒まれても、ライアンはバーナビーを粗雑に扱わない。
冷えた胸元がまた痛い。

───これが、本当に、演技なのだろうか?

ライアンのこの態度は、本当にバーナビーを手なずけるための周到な演技なのだろうか。

───それとも。

力の抜けた腹筋を立て直そうと、バーナビーは身体に力を込める。
ライアンの本心がわからない。
わからなすぎて、もうわかりたくない。
顔にも自動的に力が入ってしまったのか、こちらを見ていたライアンが、ごく小さく首をかしげた。
「ジュニアくん、ちょっと」
長い爪付きのグローブの人差し指が、ちょいちょいとバーナビーを招いて曲げられる。
「なんですか」
警戒心丸出しで動こうとしないバーナビーにがっかりしたのか、ライアンは人差し指を立てたまま大げさに肩を落とした。
「……あのなぁ。ジュニアくん」
サイドカーに寝そべっていた身体を起こして、けだるげにライアンの顔が近づいてくる。
近すぎる。
またがっていたチェイサーから飛び退くこともできずに、バーナビーは肩をこわばらせた。
「途中で具合悪くなったら、今度はすぐ言えよ?」
低い小さなつぶやきが、至近距離からバーナビーの左頬に刺さる。
柔らかく刺さったそれは、一瞬で唇の感触になり、すぐにバーナビーの頬から離れていった。
手を、振り上げることもできなかった。
ライアンを殴れないまま、バーナビーの左手は低く宙に浮く。
身構えた名残なのか、口づけられた頬を拭おうとしたのか、バーナビー自身にもわからないまま、浮いた手は下ろされ、ゆっくりとチェイサーのハンドルに戻された。
「…行きますよ」
「おう」
フェイスガードを閉じ、エンジンをかけ、瞬く間にバーナビーはチェイサーを発進させる。

───わかりたくない。わかりたくない、のに。

余計な感情は仕事の邪魔だ。
ハンドルを握りしめ、バーナビーはひたすら前方だけを見つめて、チェイサーを加速させる。

優しく口づけられた頬の湿りは、マスクの中ですぐに消えた。




キーを操作し、電子ロックを解いて、かなり重い造りのドアを、ライアンは勢いよく開けた。
今日も部屋の床にはチリひとつ落ちていない。
もっとも、このホテルの部屋でライアンが過ごす時間はとにかく短いから、この部屋担当のハウスキーピングレイディは、仕事がずいぶん楽だとホクホクしていることだろう。
パトロールの後の、遅い夕食にバーナビーを誘ったが、「僕はパトロール前にすませましたから」と軽くかわされてしまった。
ウソつけあんた、パトロール前は医務室でぶっ倒れてただろと突っ込みたかったが、くだらないやりとりでバーナビーを消耗させるのは本意ではなかったので、あっさりと引き下がり、このホテルへ帰ってきたわけなのだが。
サングラスをリビングのテーブルにポイと置き、腕から抜いたバングルもそこに放り出すと、大理石の天板がバングルの輪っかに擦れて、ちりちりと鳴った。
さっさとシャワーを浴びてベッドにダイブしたいが、小さな扶養家族を抱えている身ではそうも言っていられない。
リビングから続くドアをそっと開けて、ライアンは「彼女」専用の部屋に踏み込んだ。
「遅くなって悪かったな。マイ・スウィーティ」
極力家具を撤去し、彼女お気に入りのウッドタワーをいくつも組み立ててある部屋の中は、うっすらと暑い。爬虫類である彼女には快適な温度だが、冷え込む春の夜気の中から帰ってきたライアンには、すぐさまの適応が若干難しい。
「ちゃんとディナーはすませたか?」
最もお気に入りのウッドタワーの、最も高い枝に寝そべって目を閉じていた彼女は、まん丸い目を音もなくぴたりと開けた。
その目のそばの狭い頬を、ライアンが指先でそっとくすぐってやると、彼女は眠たげにまた目を閉じた。
彼女の世話人は彼女にきちんと夕食を与えてくれたようだ。空腹や、何かの不安を訴えるような忙しいしぐさもなく、悠々と目を閉じてライアンに撫でられている彼女は、本当に満たされた顔をしていた。
「やっとシュテルンビルト(ここ)にも慣れてくれたってのになぁ…」
彼女の頬に指で触れたまま、ライアンは鮮やかなグリーンに彩られたその身体を、ゆっくりと観察する。
コンチネンタルからここに来る前に、輸送用の狭いケージの角で傷めた尻尾の傷は、痕がほとんどわからないほど回復した。
ライアンが雇った「シュテルン(こちら)の世話人」に慣れずに、彼女が食事を数回拒否した時は、世話人と一緒になって、ライアンも何時間か彼女をなだめたものだった。
「あのな。モリィ」
閉じられた彼女のまぶたをじっと見つめて、ライアンは切り出す。
「せっかくここの暮らしに慣れてくれたのに、ほんとに申し訳ねぇんだけど」
モリィが薄く薄く目を開ける。
「何日かしたら、またコンチネンタルに戻ることになるかもしれねぇんだけど、怒らねぇ?スウィーティ?」
薄目のモリィは、けだるくまばたきする。
「…いや。回りくどいのはヤメだ。モリィは怒るだろうけど、オレにも仕事があってさ。その仕事の相方が、ちっと危ない目に遭ってんだ。そいつを助けて、オレも無事にモリィのとこに帰ってこれる方法を、ここんとこずーっとずーっと考えてたんだけど」
かすかにあくびをするように、モリィはゆっくりと口を開け、また閉じる。
「それをやろうと思ったら、どうしても最後はモリィと一緒にコンチネンタルに帰んなくちゃいけねぇんだ。なんとかさ…許してくれねぇ?」
迷いは捨てた。
こうして「決心」を口にすることで、ますますその決心が強固になればいい。

───カッコ悪ぃにも、ほどがあるけどな。

口にしなけりゃ決められねぇなんて、迷いまくってる証拠だろうがよ。
自分で自分を叱りながら、ライアンは笑みの形に唇をゆがめる。
さっきのパトロールの前に、バーナビーはライアンを殴らなかった。
ライアンと少々違う意味ではあるけれども、バーナビーも、迷っていた。
ライアンを事件の犯人一味かと疑いながら、疑いきれないようだった。
もう少し仕掛ければ、もう少し重力をかければ、バーナビーはこちら側に落ちてくる。
バーナビーの感情は、慣れると本当に読みやすい。
ライアンには見える。
あのきれいな顔には、でかでかと「嫌いじゃありません」の文字が浮かんでいる。
浮かんでいるどころか、文字はヒーロースーツと一緒に蛍光ピンクに光っている。
わかりやすすぎる。
気の迷い、それでいいのだ。迷いも吹っ飛ぶくらいにもう一度モーションをたたみかければ、あのクソ真面目でウソが苦手なお人好しバーナビーは、必ずこちら側に落ちてきてくれる。

───ここまで、来たってのに。

雨上がりの空のごとくすっきりと、チェックメイトへの道のりが見通せたのに。
手に入りそうもなかったものが、すぐそこまで転がってきてくれてるのに。
やはりしょっぱく生ぬるい迷いが、ライアンの体幹をキリキリと焦がす。
モリィがまた、口を開けた。
親指で、ライアンは彼女の薄すぎる唇をなぞってやる。
突然、モリィがこちらをにらむように、ぐるりと首をねじった。
指を引くひまもなかった。
「…っ…!」
モリィの口の中に、ライアンの親指が飲み込まれる。
とっさに指を引きたくなるのをこらえて、ライアンは息を飲む。
イグアナの歯は鋭い。噛まれて指を引けば、裂傷はさらに大きくなってしまう。
モリィは穏やかな性格だ。ライアンと暮らすようになってから、人を噛むようなことは一度もなかった。
甘噛みするクセもないはずだった。
ちくり、とライアンの親指に痛みが走る。
硬い歯の感触をひとすじ残して、モリィは指を吐き出した。
ふた呼吸も三呼吸もおいて、ライアンは自由になった親指を引き寄せる。
親指から血は出ていなかった。
ただ、曲がりすぎた三日月のような歯型が、真っ赤になって残っていた。
「…スウィーティ」
腕を下ろして、ライアンは枝の上のモリィを見上げる。
「コンチネンタルに帰ったら、元通りのいつもの庭で、思う存分休暇取ってさ、のんびりしようぜ。モリィの好きなフルーツも、思いっきり買ってきてやるから、好きなだけ食べてくれ。な?」
迷っているのを叱られたのだと、思った。
この淑女な「相棒」は、何もかもわかってくれているのだ。

───さすらいの重力王子に、安っぽいチェックメイトは似合わねぇ。そーゆーことだろ?

サンキュー・スウィーティ。
小さくささやいて、ライアンはパンツのポケットから携帯を取り出し、登録アドレスの一つをすばやくタップする。
「ああ。オレ。え、ボイスが遠い?オレ様の声を忘れるってあんた、どこの新人エージェントよ?」
この部屋のどこかに取り付けられまくっているであろう盗聴器に聞かせるつもりの大声で、ライアンは通話する。
「例のムッシュウに連絡取ってくれ。でっきるだけ丁重にな。重力王子は、やっぱりムッシュウの偉大さが忘れられないって言ってる、って。なに?違約金?そんなのムッシュウに払わせられるわけねぇだろ。オレだってそんくらいの金とプライドは持ってるっつーの。そっちに帰ったら、ムッシュウの言う通りに契約書書く(サインする)、って伝えて。え、ヤバイ口約束すんな?オレは思いっきり本気よ?マジマジ、マジだって!」
あわてるエージェントに、なかなか話は通じない。
モリィに噛まれた時と同じように、ふた呼吸も三呼吸もおいて、ライアンは声色を変えた。
「だけどな」
いきなり地を這った声に、電話の向こうのエージェントも押し黙る。

「だけどその代わりに、ひとつだけ、重力王子からムッシュウに頼みがある、って。そう伝えて欲しい」






* *


『グリフォン。ムッシュウとは誰だ?』
『オレのプライベートだ。今日の19時になったら、教えてやるよ』


***

うっすらと憂鬱な、祭りの日(ジャスティスデー)が来た。
夜の、祭り本番からのパトロールが主軸になるので、バーナビーは昼過ぎから出勤した。
パトロールをしようにも、ヒーローの人数は全然足りない。
ファイヤーエンブレムはまだ目覚めない。
ブルーローズはファイヤーエンブレムの病室から離れられない。
ワイルドタイガーは解雇された。
そして、頼りになるはずの、バーナビーの「パートナー」は、敵か味方かわからない。
わからないのに、いや、わからないから、バーナビーの感情も義務感も持って行きどころがなくなって、平静を保つのが難しい。
だが保たねばならない。
申し訳程度のオフィスワークと並行して、今日のパトロール場所の地図をくまなく確認したいのに、ライアンはオフィスから出たり入ったりで、なかなか突っ込んだ打ち合わせができなかった。
「インターバルだよ、インターバル」
軽口を叩いて、休憩コーナーで悠々とヨーグルトドリンクやらカフェオレやらをすするライアンを、午後から何度捕まえに行ったことだろう。
遅々として進まない打ち合わせにいら立っているうちに、無情に時間は過ぎた。
今日三回目のライアンのインターバルはあまりにも長い。
バーナビーは三回目どころでないため息をついて、自分の椅子から立ち上がった。
(ライアンを)探してきます、と、事務員のミセスに簡略すぎる断りを入れ、オフィスを出る。
逃げ出した猛獣は、やはりさっきと同じ場所にいた。
廊下の隅の休憩コーナーの、大きな窓の前で、こちらに尻を向けて、熱心に携帯を覗いている。
靴音を立てて後ろから近づいても、ライアンは振り向かない。
街の風景を撮るために、彼は窓に向けて携帯をかざしているようだった。
窓の外は、夕焼けが目にしみるほど赤い。
「何してるんですか」
できるだけ威圧的に聞こえないように、馴れ馴れしくないレベルで柔らかいトーンを意識して、バーナビーはライアンに声をかけた。
その方が、他人を糾弾する時は効果的だからだ。
彼が写真を撮っているのはわかっているが、質問の意味はそういうことではない。
携帯を通して窓の外を眺めていたライアンは、携帯を窓に向けたまま、こちらを振り向いた。
「夕焼けがベリービューティフルだからさ。撮ってんの」
「ブログにでも上げるんですか」
「そんなめんどくせーもんやってねぇよ。撮りたいから撮ってるだけ」
言うが早いか、ライアンは携帯ごとバーナビーに向き直り、パシ、と渇いた電子音をバーナビーの鼻先に浴びせた。
「ちょっ、…」
いきなり撮られて、ひるんでしまう。
ひるんだバーナビーをからかうように、薄っぺらい携帯の向こう側から、ライアンのペールグリーンの瞳がひょっこり現れる。
「パパラッチには気をつけなプリンス。…ってあんたはもう慣れてるか、そんなもん」
「いくらパートナーでも、勤務中に撮った写真を許可なくアップロードすることは禁止されています」
フフ、と、本当に皮肉いっぱいに、ライアンは笑う。
「固ぇなぁ…相変わらず」
夕日を背にしたライアンの髪が、白く燃え上がるように光っている。
逆光の薄暗がりの中にいても、彼の肌はどこまでも不敵に白い。
「オレがあんたの写真を流出させるわけがねぇだろ?」
白い頬の上にはめ込まれた目も、不敵に光る。
不敵に光っていても、その目はどこか、バーナビーには理解しようもない諦観のような渇きを含んでいて、バーナビーはどうしても、彼の視線を完全に憎むことができない。
「それとも、そんなにオレはあんたにとって信用できない相手なの?」
きっぱりと痛んだのは、心臓か、胃袋か。
それとも、全身の神経から直結している、脳か。
痛み続ける良心の真ん中を射ぬかれて、バーナビーは動けなくなった。

───やっぱり。

端から端まで、全部見抜かれているのかもしれない。
敵か味方かわからないあなたを泳がせているつもりで、本当は、あなたの手のひらの上で、僕が泳いでいるだけなのかもしれない。
「………いいえ」
ライアンの視線からわずかに視線をずらし、バーナビーは答える。
間を置きすぎた返答は、不自然以外の何ものでもなかった。
ライアンが、携帯をポケットに突っ込んだ。
突っ込んで空になった手が、スローモーションでバーナビーの肩に伸びてくる。
危ないと、わかっているのに動けない。
伸びてきた手は、こちらに崩れてこいと言わんばかりに乱暴に、バーナビーの肩を引き寄せた。
抵抗できなかった。
どん、と音を立てて、バーナビーの肩がライアンの肩にぶつかる。
光の速さで腰を抱き込まれ、バーナビーは思わず目をつぶる。
頬に、温かいライアンの頬が触れる。

───何を。

何を。
何を。
何をやっているんだ僕は。
肩をつかまれたならつかみ返して、腕いっぱいに抱き込まれたならその腕をねじり上げて、噛みついてでも蹴飛ばしてでも、ここから逃れないといけないのに。
なのに、足にも手にも力が入らなくて、腕もだらんと下ろしたままで、よろよろによろけて、何の抵抗もせず、捕まえられたままで。
目までつぶったままの、納得しきれない暗闇の中で、ライアンの指が顎に触れてくるのを感じ、バーナビーは思わずまぶたを上げた。
「ジュニアくん」
ライアンの両の目が、食い破れそうなほどの至近距離で濡れている。
低く低く、耳の底に溶けてしまいそうな声が、バーナビーの唇のそばで吐息になる。
指でわずかに顎を持ち上げられ、吐息が近づいた。

「…………だ、め、…です…」

吐息に、飲み込まれる。
バーナビーがあきらめかけたその時に、けたたましい音が耳に刺さった。
PDAだった。
廊下じゅうに響き渡るその音源を巻いた腕で、バーナビーはライアンの胸板を突き飛ばす。
「おっと」
わざとよろけてみせながら、ライアンも腕を上げて、自分のPDAを確認している。
コーラスでもするように、バーナビーのPDAも、ライアンのPDAも鳴っている。
ライアンの腕からすり抜けて、自由になったバーナビーは、数歩後ずさりながら、PDAに応対した。
「は…い、こちらバーナビーです」
声がかすれて、ただみっともない。
『ボンジュールライアン&バーナビー、あなたたち今どこなの?』
アニエスの声が、せわしなくPDAを震わせる。
彼女はライアンとバーナビーの二人に、同時に通信を繋いでいるようだ。
「会社です」
『もうカメラも現場に出てるんだから、早くパトロールに来てちょうだい!ただでさえ人数が少ないんだから、あなたたちがいないと画面がスカスカになっちゃうのよ!お願いね!』
言いたいことだけ言って、通信はぷつりと切れた。
黙って回線を開いていただけのライアンが、PDAの腕を下ろして、あきれたように苦笑する。
「はぁ~…せっかちなレイディだぜまったく」
「………行きますよ」
彼のその苦笑からおおげさに顔を逸らして、バーナビーは廊下の出口へときびすを返した。
頬に血の上った顔を、もう見られたくなかった。




19時が、迫っている。
マスクのインナーモニターで時刻をちらりと確認して、ライアンは視線を前方に戻した。
隣りのバーナビーが運転するチェイサーは、程よい速度でライアンをパレード会場へと運ぶ。
会場近くでまたあの不気味な声が聞こえていると、アニエスから通信があった。
サイドカーに寝そべって風を受けながら、ライアンは横目で周囲をうかがう。
きょろきょろしてはいけない。これ以上バーナビーに疑われては、元も子もない。
バーナビーにも斎藤にも内緒で、ヒーロースーツの脇腹に隠した携帯はまだ鳴らない。
今日の19時に「祭り」が始まるようだと、「彼ら」は言った。
「祭り」の内容は具体的にはわからない。
牛やら馬やらを川に落とし、人々を眠りの病に罹らせ、例の「伝説」の順番で行くなら、次は大地に大穴が空く番だ。
ベタに考えるなら、人が集まるパレード会場が、大々的に崩れ落ちるということになる。
三層構造のこの街の柱を壊すという脅しなら、ちょっと前にも騒動があったらしいが、「彼ら」がそんな二番煎じを実行するかどうか。
柱を壊すにしろ、地面に穴を空けるにしろ、実行するにはかなりの量の人手と手間と、爆薬が必要になる。あるいは、それだけの特殊能力を持った兵器なり、NEXTなりを揃えなければならない。
ターゲットを「蟹」のエサにと「彼ら」は言っていたが、その蟹はいつどこで出てくるのか。そもそも人なのか兵器なのか。
あいつらも、計画の全貌を把握してはいないのかもしれない。

───ってゆーか。ほんっとマジで、オレが一人でそこらに穴空けた方がよっぽど早いんじゃねーの?

こんな状況なのに笑えてきて、ライアンはスーツのマスクに感謝する。
この格好だと、黙ってさえいれば笑っていようが仏頂面だろうが、誰に見えることもない。
バーナビーはずっと黙っている。
いつもなら、ライアンがあれやこれやと話しかけて、運転しながらも面倒くさそうに彼は答えてくれるのだが、今日はそのライアンが黙りこくっているので、会話が起こるきっかけがない。

───さあ…気まずいんだか照れてんだかあきれてんだか。

オレがそんなに信用できないの?と突っ込んでやった時の、あのバーナビーの顔は最高だった。
図星です、という文字が彼の額の上で輝いていた。
バーナビーは最高に困っていて、最高に意地を張っていた。

───そんで、サイコーに。

可愛くて。
ゆうべの決心もうっかり揺らぎそうなくらいに可愛くて。
思わず手を出してみたら、バーナビーはまるっきり抵抗しなくて。
あんないいところでPDAが鳴るなんて、どこまでもオレはこの街の女神様に嫌われている。
確かにあの瞬間、バーナビーはライアンのものだった。
キスしてもかまわないと、バーナビーは全身で語っていた。
運命の後ろアタマは、冗談抜きでツルッパゲだ。
今その運命をわしづかみにしなければ、二度目はない。
どんなに安易なラブアフェアだって、タイミングを間違えれば手に入らないのだ。
ましてやこんな、難攻不落に等しかった純情王子様が手の中に落ちてきてくれるスペシャルレアな事態は、もうこれ以後、絶対に発生しないのだ。

───こんな、スーパースペシャルゴージャスチャンスを捨てんの?オレ?

意地を張るなと、風を切るマスクの耳元で、もう一人のライアンがライアンにささやく。
重力がかかっているかのように、身体のどこもかしこもが重い。
自分で自分の重力場にはまったことはないが、重力場で這いつくばっているやつらは、いつもこんな気分なんだろうか。
いやいや違うだろうと自分の感傷を横へ片付ける余裕が、今のライアンにはない。

───マジ初めてな、ことばっか。

苦しくてコーフンして我慢できなくて我慢しちゃって重くてやっぱり苦しくて。
重力王子が「重くて苦しい」なんて口に出したら、それはただのコントだ。
ふと思い出して、マスクの顎を撫でるふりをして、自分のグローブの指先にそっと、ライアンはキスを落とした。
「相棒」が、ゆうべつけてくれた歯型を裏切るわけにはいかない。

グローブごと指先が熱くなったような気がしたその時、前方遠くから、地面を揺らす爆発音が鳴り響いた。




19時ちょうど。
パレード会場に、大穴が空いた。
まさに女神の伝説そのままだった。








夜の闇と粉塵に阻まれて、その穴がどこまで深いのか、バーナビーは見通すことができない。
パレード会場から少し離れた場所をパトロールしていたため、バーナビーもライアンも傷一つ負わなかったが、崩れ落ちた広場のこの惨状を見ていると、その幸運も素直に喜ぶことができない。
辺りに、生体の熱源反応は見当たらない。
負傷者の救助がこの場で必要ないのなら、やることはひとつだ。
虎徹の娘に教えられた通りに、怪しい人影を追って、バーナビーはがれきを踏み散らして走る。
隣りで走っているライアンの顔は暗くてよく見えない。
スーツに着いた大きな翼をものともせずに、バーナビーにぴったり足並みを揃えて、ライアンは走っている。
走る彼の気配に、泣きたくなるほどの安心をおぼえる。

───彼は、「違った」。

ライアンは「あちら側」の人間ではなかった。
シュテルンビルトの街に穴を空けたのは、彼ではない別の人物だった。
まだ確信するには早いと思うのに、バーナビーの喉元にまでつかえていた疑いは、勝手にさらさらと溶け去って、空でも飛べそうに軽やかな感覚を呼び覚ます。
軽やかな一方で、悶えたくなるような恥ずかしさや後悔も、胸の底にわいて溜まって、流れてゆく。
恥ずかしがっている場合じゃない。
安心している場合じゃない。
今は安心する時じゃない。
広場を粉々にした犯人を、犯人の情報を、追うことだけに集中しなければならない。
がしゃ、と大きな音を立てて、ライアンががれきを跳び越えた。
石くれの上に降り立ったそのタイミングで、彼は大きく息を吐く。
「なあ」
すぐに走り出してバーナビーに追いつき、ライアンがニヤリとこちらを向く。

───この人は、わかっている。

僕が何を考えていたのか、考えているのか、この人は、みんなわかっている。
バーナビーは直感した。
コンビ発表から今までの、バーナビーの無礼な振る舞いの数々に腹を立てることもなく、もっと無礼に疑われても、コンビを投げ出さず。

───なんにも言わずに、この人は、ただ。

ただ、僕の隣りに立ち続けている。
それがどれだけ大きなことか、バーナビーはよく知っている。
それこそもう、嫌になるほど痛感している。
どうしても認めたくなくても、もう抵抗は無駄だ。

───僕の、負けです。

心でつぶやいたのを聞いていたかのように、ライアンはさらに笑って、言った。

「なあ。あんた、オレのこと疑ってたろ?」


* *



『グリフォン。蟹が現れた。すぐに蟹を追え。ターゲットは蟹に追われている。返信を願う』



* *


『グリフォン。返信を願う』



***

「おおー。見えた見えたアレか!しっかしブキミだなぁ…おお、タイガーすげぇ!ちゃんとぶら下がってんじゃん!!」
サイドカーから、ライアンは身を乗り出す。
走行中のチェイサーがバランスを失わないギリギリの範囲での身じろぎだったが、隣りで運転するバーナビーにとってはかなりの負担だったようだ。
「ちゃんと座っててください!」
とっさにハンドルを傾けてバランスを取り直し、バーナビーがたしなめてくる。
一日限定でアニエスに復帰させられたタイガーは、シュナイダーと、シュナイダーを捕らえた謎のクリーチャーを追って、どういうわけだかそのクリーチャーにぶら下がりながらシュテルンビルトの空を飛行している。
ダイナソーパークで「ダンサー」なる女を確保して、そこからのバーナビーの行動は実に鮮やかだった。
通信回線を開けてヒーローTVの中継に周波数を合わせ、クリーチャーの位置情報を大まかに得ながら、チェイサーで走ってタイガーのバイタルサインを追う。
高速道路に入ってからは、運転に集中するために、ライアンにクリーチャーの位置情報を追わせる徹底ぶりだ。
そして、その高速道路を走行しながら、やっと直接に視認できたクリーチャーは、黒光りする金属の翼にタイガーをぶら下げたまま、林立するビルの向こうへ飛び去ろうとしている。
あれが、「蟹」なのだろうか。
さっきから、何度も何度もライアンの脇腹でライアンの携帯が振動しているが、とても電話やメールに出られるタイミングではない。
「彼ら」もそれはわかっているだろうに、うっとうしいことこのうえない。
高速道路の行く手はがらんとしている。
非常事態だということで早々に規制が敷かれ、警察とヒーロー関係者以外はこのルートに進入できなくなっているのだ。
ルートに沿って、クリーチャーは飛行を続けている。
高速道路の上には建物がないので飛行しやすいのだろう。
だが、動線が少しでもずれれば周囲のビルに激突してしまうし、ビルにぶつからなかったとしても、道路上に墜落炎上すれば、大惨事は避けられない。

───ったく、無茶するオッサンだぜ。

ライアンは舌打ちをこらえた。
クリーチャーを見失うわけにはいかないのはわかる。
ワイヤーアクションが、彼の得意技であるのもわかる。
ここで活躍しなければ、本当に彼には「あと」がないのもわかっている。

───けど、マジで、ここまで命張るか?

どんな性能なのか構造なのかもわからないあのクリーチャーが───いや、「蟹」が───気まぐれに墜落すれば、確実にタイガーの命はない。
「蟹」はシュナイダーの命が欲しいのだから、いつどこで、彼を道連れに自爆しないとも限らない。
危険すぎる。
明らかに、市民向けの、テレビ向けのパフォーマンスにしては、危険の度合いが大きすぎる。
バカ、と言ってしまえばそれまでだ。
調子に乗りすぎ、肩に力が入りすぎ、と言えばその通りかもしれない。
あの、ワイヤーの先にちんまり必死にぶら下がっている白と緑のスーツの中に入っているのは、ただのオールドロートルヒーローだ。
気があるオトコにろくに手も出せないような、臆病で卑怯な中年だ。
なのにこの、いらだちも滑稽も通り越した、変に胸の底がすくような気分はなんなのだろう。
爽快じゃない。
スマートじゃない。
格好なんて、少しもよくない。
それでも、タイガーは身体と命を張って、ヒーローでいようとしている。
「あらー。ビルの隙間に隠れっちまったなー…」
飛行するクリーチャーが、道路上から姿を消した。ああも蛇行されると、とてもこの道路からは追いかけられない。
「虎徹さんのバイタルサインを見逃さないようにしてください!このまま、できるだけ離れないように追います!」
いつカメラで中継されるかわからないのに、バーナビーは元相棒の本名を堂々と叫んで、チェイサーを転がし続けている。
「離れないようにって、…おっと、これちょっとマズくねーか!?」
ライアンのインナーモニターにも映るグリーンのバイタルサインが、大きく弧を描いて方向転換した。
高速道路のはるか前方で、ビルが火を噴く。
道路脇のビルの横っ腹をぶち抜いて、クリーチャーがまた視界に現れる。
これまでか、と心臓が冷えたが、飛び続けるクリーチャーの直下にはちゃんとタイガーがぶら下がっていた。
と思ったら、身体ごと道路灯に次々衝突したあげく、ワイヤーが切れた。
切れたワイヤーごと宙を舞い、落下し、道路のガードレールを突き破り、タイガーの姿が消える。
思わずフェイスガードを開け、ライアンはタイガーの消えた方角を目で追う。
バーナビーが、急ブレーキをかけた。
「うおぉっとぉ!」
左真横にハンドルが切られ、振り落とされそうになってライアンはサイドカーにしがみついた。
急旋回の余波で、バーナビーの腿がライアンのスーツの肩に触れる。
体勢を立て直そうとした時、目の前が暗くなった。
チェイサーのエンジンも止めずに、バーナビーの顔が近づいてきたからだ。
いつの間にフェイスガードを開けていたのか。
深い真緑の目が、鼻先で、キラリと光ったと、思ったら。
口元に柔らかい何かが当たって、目を閉じたバーナビーの顔が目の前いっぱいの超絶アップになって。

「…すみません」

時間にして、それは一秒にも満たない出来事だった。
低く、でもたまらなくスウィートな声でひとことささやいて、バーナビーはひらりとチェイサーから飛び降り、タイガーがぶち破ったガードレール穴に向かって駆けていった。

───なに?今の。

サイドカーの上で呆然としたまま、ライアンは動けない。
今のは、どう考えてもキスだった。
偶然お互いの唇がぶつかったわけではない。
ライアンがバーナビーを無理やり引き寄せたわけでもない。
いつカメラに映されるかもわからない勤務中に、バーナビーが、自分から、顔を近づけてきたのであって。
キスして、謝って、ただ走っていったのであって。

───なんで、今なの。

キスしたことを謝罪したのか勤務中なのを謝罪したのか意中の男をわざわざ助けに行くことを謝罪したのか。
謝られる意味がわからない。
謝るぐらいならキスなんかしなきゃいい。
タイガーなんか助けに行かなきゃいい。
ずっとこのオレの、手の中にいればいい。
ライアンの身体の中で、何かがのたうってねじ切られ、粉々に砕け散る。
散ったのはプライドか、憎しみか、後悔か、それすらももう、何が何だかわからないのだけども。
自分が自分であるために、ライアンがライアンであるために、その苦痛の重さは、誰にも知られてはいけない。
そんなことに耐えるのは不可能だと叫べれば、少しは楽になるだろうか。

───いや。

他のヤツには不可能かもしれないが。
オレは、不可能も信じきって可能にする、ヒーローだから。
だから、オレにこの手の不可能はない。

オレは、ゴールデンライアンだから。

サイドカーから、ライアンは上体を起こした。
起こして、可能な限りの平静を振りかぶって、チェイサーの横っ腹をトントンと指でつついて咆えてやった。
「おいおい。ンなヤツほっとけよ!獲物が逃げちまうだろ!」
タイガーを道路上に引っ張り上げていたバーナビーは、夢から覚めたようにこちらを振り向いた。

───重力場の底に落とされたら、こんなふうに心臓がつぶれるかもな。

苦痛を、不可能を耐えながら。
誰にも聞こえない挨拶を、ライアンはひっそりと吐息でつぶやいた。


ここでお別れだ。ジュニアくん。




遠くで、花火が炸裂している。
ライアンは薄目を開けた。
赤く伸びる閃光と、緑色に跳び散る閃光。
パラパラと、爆竹が連続してはじけるような音と一緒に、ドンと大きな衝撃音が腹の底にしみる。
衝撃で、地面までが揺れている。

───ちょっと、おかしくね?

花火は空の上で炸裂するものだ。
こんなに地響きが続くのは、何かおかしい。
頬が冷たい。
頬からじかに、地響きが伝わってくる。
遠くで、真っ黒な「蟹」が、光を放ちながらのたうっている。
頬が冷たいのは、コンクリートに触れているからだ。
ぷっつりと途切れていた記憶が、ライアンの脳裏でやっと繋がり始める。
ライアンは完全に目を開けた。
身体も手足もひどく重い。
周囲は暗闇なのに、潮の匂いがする。
ヒーロースーツを着けたまま、湾岸倉庫のそばの、コンクリート舗装の上に倒れているのだと、やっと自覚する。
ゆっくりと頭を上げ、身体を起こす。
こめかみよりも少し上の側頭部が、ズキズキと痛む。
あのヴィルギルが引き寄せた、特大級のガラクタが飛んできてからその先を覚えていないのだが、ガラクタはライアンのマスクを直撃したようだった。
吹っ飛んだマスクはどこに行ったのか、影も形もない。
遠くでまた、「蟹」がのたうつ。
「蟹」の周りで光っているのは、赤と緑のスーツだけではない。
引きつけ工作を振り切って、他のヒーローたちも「蟹」退治に加わっているのだろう。
すっかり見せ場は奪われてしまったが、まだあきらめるのは早い。
その場にあぐらをかいて、側頭部の痛みを耐えていると、脇腹の携帯が振動した。
今日何度目の着信だろう。
それとも、この無様なゴールデンライアンの姿を、どこかから意地悪く眺めつつ、「彼ら」はこの悪趣味な遊びの仕上げにかかっているのか。
ライアンは脇腹から携帯を取り出した。
「アロウ?」
わざとコンチネンタルふうに返事してやってから、相手の返答も待たずにライアンはたたみかける。
「ウロボロスさんとやら。オレが手ぇ出さなくても、ターゲットは蟹のエサになるみたいだから、オレはあんたらの計画からイチ抜ける」

───悪い遊びは、もう終わりだ。

「ターゲットを煙たがってるヤツは、あんたらの他にも山ほどいたってこった」
シュナイダーの死を願う、憎悪の女神(ネメシス)は星の数。
星の数どころか、シュナイダーの敵は、シュナイダーの懐の一番深いところにまで入り込んでいた。
「ターゲットは死ぬさ。社会的にな」
街の悪党(ウロボロス)が手を出さずとも、シュナイダーは飼い犬に手を噛まれて自滅してくれる。
「けど、ターゲットの命は誰にも渡さねぇ。オレもヒーローだからな」

───ああこういうの、すっげぇジュニアくんの受け売りみてぇ。

「それから、『ムッシュウ』に話はつけた。オレは近々、コンチネンタルのあの『ムッシュウ』と契約する。あんたらの世界であのムッシュウの名前知らねぇヤツはいねぇだろ、とぼけてる場合じゃねぇぞ?」

───虎の威を借るのが、かっこ悪いってか?

「たった今から、オレとオレの周りの人間に手ぇ出したら、ムッシュウが黙っちゃいないからな。忘れんなよ」

卑怯?
身売り?
ヒーローらしくない?
王子キャラ台無し?
何とでも言え。
オレは決めた。
もう決めたんだ。

───オレの身体一つで「スカーレット」が守れるなら、それで。

「じゃあな」

闇の中で、ごく普通に通話を終わらせる。
携帯を握り、ライアンは立ち上がった。
側頭部が痛み、ぐらりと視界が揺れたが、それも一瞬だった。
一度だけ肩で息をつき、手の中の携帯を、両手でへし折る。
妙に湿った音を立てて、液晶画面は粉々にひび割れた。
すぐさま大きく振りかぶり、キャンディ細工のように曲がったそれを、潮の匂いのする方へ投げ入れる。
ほんのひと呼吸の間をおいて、小さな水音が聞こえた。
「アデュウ」
またコンチネンタルふうにつぶやいて、ライアンはのたうち続ける「蟹」を振り返った。


重力王子の出番は、まだ終わっていない。










***

「ライアンくん?ああ、携帯失くしたって言ってたね」
ロイズの執務デスクの前で、バーナビーはぐったりとうなだれた。
ヴィルギル───いや、アンドリュー・スコットが起こした事件から、一週間が経っていた。
オーナーの失脚、ヴィルギルたちの逮捕、タイガーの復帰、殺到するマスコミへの対応。
街と、このアポロンメディアオフィスの復旧作業もままならない中、ロイズの疲労も極限に達しているのだろう、痛々しい絆創膏の下の、彼の顔色はとてもさえない。
ヒーローとして最低の睡眠時間は確保しているものの、バーナビーの疲労も似たようなものだった。
その殺人的なスケジュールの中で、ライアンに連絡を取ろうとしたのだが、それが繋がらないのだ。
最初の三日間はしかたがないと思った。
四日目に、ライアン側の携帯の呼び出し音が鳴っていないことに気づいた。
五日目に、その状態が変わらないことに気づいた。
六日目に、ライアンが出社してこないことに気づいた。
そして、今日。
たまりかねて、バーナビーがロイズにライアンの連絡先を尋ねると、衝撃的で絶望的な答えが返ってきたのだった。
「コンチネンタルの富豪からオファーがあったそうだよ。うん、彼と我が社との契約ももう終了してるから」

───そんな、バカな。

執務デスクに着いているロイズを見下ろして、バーナビーは立ちつくす。
あの時、ライアンは、カメラの前でタイガー&バーナビーを称賛してくれた。
たくさんの市民と、ほかならぬライアンに、タイガー&バーナビー再結成を後押ししてもらったことは、素直に嬉しかった。
嬉しすぎて、バーナビーはまだ虎徹ともろくに話ができていない。
そして。
あの時のライアンは、カメラ映りを意識したいつもの軽薄な口調で、バーナビーのパートナーであり続けることをあっさり拒否した。
ライアンに、まだ訊いていないことがある。
ライアンに、まだ言いたいことがある。
タイガー&バーナビーを残して自らだけが潔く退場する、あれが、あのパフォーマンスが、ライアンの気持ちのすべてであるはずがない。
カメラのないところで、ふたりきりで、本当の気持ちを、話し合いたかったのに。
「今夜七時半の飛行機で、シュテルンビルト(ここ)を発つって言ってたよ。彼」
そんなことも聞いていなかったのかという驚きを少量含んで、デスクに着いたまま、ロイズがあきれたようにこちらを見上げてくる。
気が遠くなりかけた。
「すみません、今…何時ですか」
頭痛でも耐えるように、額を強く手のひらで押さえて、バーナビーはロイズに尋ねる。
「…五時四十五分だよ。見送りは構わないけど、くれぐれもマスコミには気をつ」
ロイズの言葉を最後まで聞かずに、バーナビーは執務室を飛び出した。




飛び込んだエレベーターの中で、バーナビーは携帯の画面を確認する。
電子決済は十分にできる状態だ。
タクシー代も問題ない。
急げば、七時には空港に着ける。
アプリ操作を終えて、それを尻ポケットに突っ込み、はらはらとエレベーター内の電光掲示が階下へ移動するのを見つめる。
───あの時、なぜライアンにキスしてしまったのか、今となってはよくわからない。
彼を疑っていたことを詫びたかった思いもあった。
虎徹とはまた別に、バーナビーの中で、ライアンの存在は特別なものだった。
今さら触れてくるなとライアンに責められても、また逆に受け入れられても、どちらでもいいと思っていたことも嘘ではない。
彼の契約期間が、バーナビーにひとことの挨拶もなく、もう終わってしまっているなんて、にわかに言われても信じられない。
他に想う人間がいるくせに軽率なことをする男だと、やはり嫌われてしまったのだろうか。

───もういい。嫌われていても、なんでも。

なんでもいいから、最後に会いたい。
これで、これで終わるなんて。
そんなバカな。

恐ろしくゆっくりと、エレベーターが一階に到着する。
さらにもったいをつけるように、ドアがのんびりと開く。
手のひらでそれをこじ開け、バーナビーはエレベーターから走り出た。


***

夕方の空港は、ビジネス客でごった返していた。
銀色の、ジュラルミンにも似たスーツケースに足を轢かれかけ、虎徹はあわてて身体をかわす。
網の目のような鉄骨を支柱にした、総ガラス張りの壁面からは夕日が降り注ぎ、広大な空港ロビーを外から覆う白い支柱は、何かの花びらのように鮮やかなオレンジ色に染まっている。
ライアンから電話をもらったのは、ほんの数時間前のことだった。
雑誌インタビューの帰り道だったのをそのまま直帰扱いにしてもらい、虎徹は急きょ、この空港に足を向けた。
ライアンが、虎徹を呼んだ意図はよくわからない。
先週の事件から一週間、殺到するマスコミの取材申し込みに応対するだけでいっぱいいいっぱいで、虎徹がライアンと個人的に話をする時間はなかった。もちろん、バーナビーとも。
そんなどさくさの中で、ライアンが既に契約を終え、もうシュテルンビルトを出るという知らせは、なかなかに衝撃的なものだった。
ライアンの鮮やかな機転と行動力には、驚くほかない。
ただ。
バーナビーと相思相愛に見えたライアンが、なぜそんなにも急いでここを去るのだろう。
二人でチェイサーに乗り込み、パトロールにでも出かけようとしていたのか、あの出がけに、ごく自然に彼らはキスを交わしていた。
その後のライアンとバーナビーに何があったのか、虎徹にはわからない。
彼らが今どういう関係なのかも、知りようがない。
バーナビーがライアンと繋がっていてもいなくても、バーナビーは虎徹の相棒に戻った。
どれほど虎徹の胸の底がざわざわと騒いでも痛んでも、ただの相棒なのだ。
それはこれからも変わらない。
それ以上を望む資格は、虎徹にはない。
心からの願いではなかったとはいえ、虎徹は一度、バーナビーをライアンにを譲ってしまっていたのだから。
どれほどライアンと会うのが不快でも、ライアンは虎徹をヒーローに復帰させてくれた恩人の一人である。見送りの挨拶と、感謝を述べるくらいは、きちんとしておくのが筋だろう。
考えがまとまらないまま広大なロビーを横切り、電話で言われた通りに、チェックインカウンターの前まで歩いてゆくと、背後で聞き覚えのある声がした。
「おっさん!こっちこっち!」
不本意ながら振り向くと、彼方の壁際の、巨大な観葉植物の下で、初めて会った日と同じに上から下までキンキラなグラサン男が、ご丁寧に夕日をしょって手を振っている。
人波をぎこちなくすり抜けて、やっと虎徹はグラサン男のそばに到着する。
夕日がまぶしい。
まぶしいガラス壁にだらしなくもたれたグラサン男が、ふいと目元のそれを外し、前髪の上に押し上げた。
「その後、調子はどうよ?」
礼儀もへったくれもない問いに、妙にほっとして、虎徹は息をついた。
「おかげさんでな。何とかやってる」
「このオレ様がキューピッドしてやったんだから、しっかりやってくれよ?頼むぜ」
「それは…本当に感謝してる。ありがとな。でも」
「ん?」
「こんな急ぎで行っちまうなんて、思ってなかった」
「そ?こんなにバッチリの『長居は無用』シチュエーションも、そうそう無ぇと思うけど」
「…おまえ」
「あん?」
「いや、やっぱりいいや」
「言いかけてやめるとか、感じワリーぞおっさん」
「…………すまん」
「謝んなくていいから。で、なに」
「……おまえ。バニーはどうすんだ」
「へ?」
「おまえたち、付き合ってるんじゃねぇのか」
「はァ?」
「付き合ってんだったら…、その、こんなに急いでここ出るのは…アレなんじゃねぇのか。バニーにちゃんとこの時間、教えたのか?見送りは?」
「ジュニアくんには教えてあるよ。七時半の飛行機だって」
「…?おまえさっきの電話で、六時半って言ってなかったか?」
「ああ。ホントの出発時間は六時半だから」
「…おまえ…!」
とっさに虎徹は腕時計を確認する。
時刻は、六時を過ぎていた。
「オレが出発したら、その後すぐにジュニアくんがここに来るだろうから、ちゃんと空港デートして帰れよ?」
「どういうことだよ」
問い返すと、ライアンの両目がすいと細められた。
虎徹が初めて見る、ライアンの表情だった。
バーナビーよりも色素が数倍薄い、透明感にあふれたグリーンアイズは、ただ冷ややかだ。
テレビカメラを通した時の、ライアンのあの懐っこさは、もうどこにもない。

───こいつ。

まるで、夕暮れの草原で、本物の猛獣とにらみ合っているような。
そんな冷ややかな視線と空気にのまれ、ひるんだその一瞬に、胸倉をつかまれた。
透明なグリーンアイズが、間近に迫る。
「おっさん。一個教えといてやる」
虎徹以外の、誰にも聞こえないほどに押し殺されたライアンの声に、虎徹の額が冷える。
いや、全身が冷える。
虎徹の瞳から、十センチと離れていないペールグリーンアイズが、逆光の中で、凶悪にこちらを見下ろしてきた。
「あんたがクビになった時、オレジュニアくんに言ったの。『愛してるって言ってくれたら、タイガーにヒーローの仕事紹介してやる』って」
それはそれは冷酷に、ライアンはほほ笑む。
「オレのコネクションはコンチネンタルじゃ絶大だからさ。おっさんに仕事一個取ってくることなんてカンタンなわけ。そしたらジュニアくん、なんて言ったと思う?」
片方だけ上がったライアンの口角が、唇と一緒にわずかに震えた。
「さっくりとさ。言ってくれたんだぜ、『愛してるライアン』って」
虎徹は息もできない。
「あんたのために、あんたのためだけにさ。ジュニアくんったら嘘八百言いきったんだぜ?」
息ができないのは、胸倉を締め上げられているせいじゃない。
酸欠で視界が歪みかける寸前に、胸元から突き飛ばされた。
かろうじて倒れずによろめき、虎徹は咳き込む。
床にも夕日が反射して、うつむいて咳き込みながら、まぶしてくてたまらない。
目をくらませながら顔を上げると、光の中でこつりとブーツを鳴らして、もうライアンは歩き始めていた。
「じゃあな。空港デートがすんだらさっさと帰ってジュニアくんとエッチしとけよ。市民のミナサンにも結婚お祝いされてるっつーのに、早々からセックスレスなんて詐欺だからな」
「誰が結婚だ。コンビ再結成しただけだ」
「似たようなもんだろ」
「似てねーよ!」
「いいかげんにしとけよオッサン?あんまりわっかんねーこと言うと、ワイルドタイガーはインポだってネットで言いふらすぞ?」
さっきとはうって変わった、ロビーに響き渡る大声でカラカラと笑われ、虎徹は憎まれ口すら返せない。
荷物はもうカウンターに預けてしまったのか、手ぶらの両手をパンツのポケットに突っ込んで、悠々とライアンは歩いてゆく。
振り向かずに手を振られ、別れの言葉も言えずに、虎徹は夕日の射すロビーの片隅に立ちつくした。


***

飛行機のエンジンが、ひときわ大きくうなりを上げる。
すぐに浮遊感が訪れ、ライアンは座席横の小さな窓から、外を見下ろした。
離陸した機体は、素晴らしいスピードで上昇する。
視界の少し後方に見える飛行機の翼の下で、どんどん地上の建物が小さくなってゆく。
空は、ため息をつきたくなるほどに、真っ赤だ。
シュテルン湾は、どちらの方角だろう。
ろくに確認もできないまま、窓からの視界は、空の赤一色になってしまった。
バーナビーはもう、空港に着いただろうか。
まだ七時にもなっていない。
スケジュールをぶっちぎって、七時半を目指してくれたなら、少し嬉しいとライアンは思う。
ムッシュウは約束を違えない男だが、万一ということがある。
バーナビーの危険を避けるためにも、バーナビーはこれ以上ライアンに接触しない方がいいのだ。
今、こうしてライアンが無事にシュテルンを離れたことで、バーナビーは真からの安全を手に入れた。
本人がそれを知らないままであることが、本当に喜ばしい。
身体の中で張りつめていた何かがふわふわと蒸発して、ライアンの全身から力が抜ける。
力が抜けたのに、ひとしずくの熱が、唇の上に湧き上がる。
あの短い吐息と、わずかな香水と、汗と、マスクの金属臭さが混じったあの匂いと、パウダーシュガーのように溶け散ったバーナビーの唇の感触が、まだ唇に残っている。
あの唇が、そう遠くない未来に───いや、ヘタをすると数十分後かもしれない未来に───アライグマのおっさんのものになるのかと思うと、アライグマも、自分の脳ミソも重力場のどん底に叩き込みたくなるが、それではゴールデンライアンの名がすたる。

───そんでもやっぱ、一発ぐらいあのオッサンぶん殴っときゃよかったかな。

あれだけジュニアくんを泣かせたアライグマに、あの制裁は少し生ぬるすぎたかもしれない。
もっときわどい嘘をついて、アライグマを憤死寸前に追い込んでおけばよかったかもしれない。
でも、アライグマに制裁を加えれば加えるほど、バーナビーは悲しむだろう。

───あーマジ、ジェントルマンってのは疲れるぜ。

疲労というよりもそれは、もっと熱くてもっと深くて、怖くて重くてクラクラする何かだった。
自分で自分を騙すのは好きじゃない。

───でも。

この街で、生まれて初めて、オレは自分を騙した。
誰よりもカッコよく、自分を騙してジュニアくんを手放した。
飛行機は上昇を続ける。
水平線ごと、空が燃えている。
あの赤い海の下に、携帯と、携帯で撮った夕焼けと、携帯で撮ったバーナビーが沈んでいる。
真紅い(あかい)、ものばかり。
赤いものを見るたび思い出していては身が持たない。
もう見えないシュテルン湾に思いをはせ、ライアンは目を閉じた。
あの携帯は、あそこに沈んでいてもらわないと困るのだ。
バーナビーのためにも、自分のためにも。
自分で自分を騙すのは、本当に好きじゃない。
そして、自分で自分を騙すのは、本当に、クラクラするほど難しい。
「…早く携帯買わねぇとな…」
つぶやいて、ライアンはすぐに目を開けた。
新しい携帯を買っても、写真フォルダは当分空っぽのままだろう。
コンチネンタルに帰っても、夕焼けの赤さは変わらないだろう。
でも、真紅色(スカーレット)を嫌いには、ならない。
いや、なれない。
これから先も、ずっと。



機内の小さな窓の中で、真紅の空はひとすじの切れ目もなく、翼の行く手を照らしていた。