サムシング・スカーレット -3-



「来るなと注意されたはずです。なぜ来たんですか」
「相棒心配すんのがそんなに悪いワケ?」
バーナビーの叱責にもめげず、ライアンはリビングの窓際で、夜景をバックにあくびをしている。
「窓際から離れてください!一応防弾ガラスにはなってますが、何があるかわかりませんから!」
バーナビーはいらだちながら、彼の腕を乱暴に引いて、窓際から離れさせる。
窓からの狙撃を避けたくて、リビングの照明は最小限に絞っている。
人の顔色もほとんどわからないほど暗い部屋に、ライアンは散歩でもするような足取りで入ってきた。

───無謀にも、ほどがある。

一流のヒーローらしく、このライアンは多少のことでは動じないようだが、いくら重力を自由に操れても、どこから飛んでくるかわからない銃弾から身を守るのは至難の業だ。
なまじ度胸があるのも考えものである。
ここならなんとか安全だろうと、窓際から離れた暗がりでバーナビーは足を止めた。
引いていたライアンの腕を放し、しばし途方に暮れる。
今は、このリビングで客をもてなすことはできない。かといって、立ち話をするためだけに、客を寝室やキッチンに案内するのもおかしい気がする。それにそもそもこのライアンはもてなすほどの客ではない。会社の指示を無視して、のこのこ自分から危険の巣窟に飛び込んできた、どうしようもない愚か者なのだ。
「肩撃たれたって聞いたけど?ダイジョブ?」
ほんの数センチの背後から、相変わらず陽気な声がバーナビーの耳に刺さる。
だが、その陽気なトーンの中には、明らかに、興味本位でもからかい半分でもない一種の真剣さが含まれている。
含まれていることが、バーナビーにはわかってしまう。
「ほんの擦り傷です。問題ありません」
振り向きもせずに、バーナビーはライアンから一歩離れた。
「どっち撃たれたの。右?左?」
「左です。…!」
もう一歩踏み出して、もっとライアンから離れようとしたのに、背後からゆるく肘を捕らえられてしまう。
離してくださいと言う間もなく両肘を捕らえられ、その肘を経由して、ライアンの両腕が背後からバーナビーの腹部にゆるく回された。
ゆるすぎるその拘束は、かえって振りほどくことができなかった。
バーナビーの左耳に、ライアンの吐息がかかる。
「…は、なして、…」
口の中で苦く固まった舌は、満足に言葉を発せない。
全身を硬直させて、バーナビーは左耳に触れてくるライアンの髪の感触を耐える。
だがライアンは、バーナビーの左肩に顔を伏せて、そこに鼻先を触れさせているだけで、服越しのその感触は、飛ぶ虫に触れられているようにごくかすかだった。
だからバーナビーも動けなかった。
どのくらいの間そうしていただろう。
長い沈黙の中で、言葉にも形にもならないライアンの感情が、左肩にずっしりと染みてくるような気さえする。

───放っておいてくれればいいのに。

ライアンが愚か者であるもう一つの理由を、バーナビーは思い出す。
あれだけ不真面目にバーナビーにセクハラを仕掛けておいて、あれだけきっぱりバーナビーに拒絶されたのに、このライアンは、身の危険を冒してまで、この家に来てくれた。
二重の意味で歓迎されないことなどわかっているだろうに、どうして彼はここまでの行動に出られるのか。
バーナビーにはわからない。
わかりたくもない。
危険も拒絶もすべて超越したライアンの感情が、やっぱり自分に向けられているかもしれないなんて、考えたくもない。
聞いたこともないほど静かなライアンの声が、耳元で響く。
「大丈夫だ」
声の近さとその内容に、バーナビーは息を飲む。
「あんたを撃った犯人はすぐに見つかる。だからさ、」

───前にも、こんなことがあった。

ずっと前にも、僕にこんなことを言ってくれた人がいた。
あの人も、確証も何もないのに、ただ僕を安心させるために、僕が探していた「犯人」は見つかると、断言してくれた。
ひどいデジャヴに頭がくらくらする。
「…だからあんたはもう安全だよ」
ここで泣き叫べば楽になるだろうか。
ライアンに背後から抱かれたまま、バーナビーは肩をこわばらせ歯を食いしばり、震える吐息を噛み殺す。
もう思い出させないでくれとこのライアンを突き飛ばせば、喉を刺されるようなこの苦しさから逃れられるだろうか。
答えはノーだ。
やっぱり涙すら出ない。
自分の無力さに嫌気がさして、ずるずるとバーナビーはしゃがみ込む。
バーナビーにならって姿勢を低くしたライアンは、それでも腕をほどかない。
「…離してください」
「離したらあんた逃げるだろ」
「ここは、僕の家は安全じゃない。僕は誰にもここに来て欲しくなかったんです。だから早く帰ってください」
「誰にも来て欲しくないってのは、ウソだろ」
「ウソじゃない!危ないって言ってるんです、早く帰ってください!!」
腹部に回されたライアンの腕をつかみ、それを引き剥がそうとバーナビーは暴れたが、逆にいっそうきつく抱きしめられ、咳き込みそうになる。
「あんたはさっき、インターホンでオレを見てがっかりしてた。ってことは、オレ以外の誰かさんに来て欲しかったってことだろ」
咳き込みそうになった呼吸が、止まりかけた。
「ピンポーンって鳴って、おっさんかと思ったらオレだったから、がっかりしたんだろ?」
フラフラと軽薄にそこらを漂っているふりをして、精密なカメラのように、この男は周囲を、バーナビーを観察している。
彼のうわべにすっかり騙されていたことに、バーナビーはおののいた。
ライアンの顔を振り向くヒマも与えられずに、ひざまずいた姿勢から、床の上に押し倒される。
やっと見えた彼の顔を、力いっぱいにらみ上げてももう遅かった。
振り上げた腕をそのまま頭の上で固定され、完全に身体にまたがられて、動きを封じられる。
左肩の擦り傷がひきつれるように痛んだが、痛みをじっくり味わう余裕はもちろんない。
「こないだから思ってたんだけどさ」
ライアンの顔から、笑みが少しずつ消えてゆく。
「あんた、オレにこういうことされても本気で抵抗しねぇし、絶対能力も使わねぇよな。なんで?」
「……」
「オレにケガさせて、また事業部長サンに怒られんのがそんなにコワイ?」
ライアンの顔に、いつもぴったりと貼りついている笑みが消えてゆくのが怖い。
自覚するのさえ苦しいが、この感覚はどう考えても恐怖としか思えない。
「怒られるぐらいなら、オレにテイソー奪われた方がマシなの?あんたのプライドはいったいどこ行っちまったのよ?」
貞操やプライドのありかなんて、バーナビーにもわかりはしない。
「それともさぁ」
わかるのはただ、このライアンを嫌い抜くことができていないという事実だけで。
「実はあんたもオレに気があって、本気で抵抗しようと思ってねぇとか?」
急所をわずかに外したところにライアンの言葉が刺さり、バーナビーは二の句も告げない。
「返事しねぇんだったら、このまま好きにやらせてもらうよ?でも、レイプはオレ様の趣味じゃねぇからな。あんたのこっちの手、空けといてやるから気が向いたらいつでもコレ使いな」
いつの間に尻ポケットから抜き取ったのか、それともこのどさくさでそれは床に落ちていたのか。バーナビーの携帯を、ライアンはぽんと床に置いた。
「どこにでも電話しなよ。警察でも、おっさんの家でも」
仰臥させられたまま、バーナビーは自由になった左手と、左手を伸ばせば届く位置に置かれた小さな携帯を交互に見つめる。

───こんな状況で、電話?

誰に、何を言えというのか。
僕はヒーローですが、ヒーローだから抵抗できなくて困っています助けてください、って?
警察に?
虎徹さんに?
電話する?
僕が?
電話に手も伸ばせずにいると、顎をぎっちりと指で捕まえられた。
容赦なく上を向かされたその顎に、ライアンの唇が落ちてくる。
一瞬で唇を塞がれ、バーナビーはうめいた。
キスと言うより、それはひたすら侵入だった。
触れるだけだったこの間とはまるで違う、暴力的な動きで、ライアンの舌はバーナビーの口腔を舐め、押さえつける。
目を開けていられない。
抵抗するならもっと、状況を見ていなければ、見極めなければいけないのに。

───違う。違う。違う。

目を閉じた闇の中で、たった一つの言葉を、バーナビーは念じ続ける。
違うこれは虎徹さんじゃない。
虎徹さんのキスはもっと柔らかくて温かくて、もっと、かすかで。
違う。何もかも違いすぎる。

───だけど。

だけどこんなふうに、乱暴でもいいから、虎徹さんが僕を求めてくれていたら。
「う…ふ、ぁう…っ…」
バーナビーの思考をまっぷたつに断裁する勢いで、ライアンの舌がバーナビーのそれを捕らえた。
まるごと食らいつかれ、目の奥までひりひりするほどの力でそこを吸い上げられる。
ライアンは怒っている。
ただ、舌に舌で強制的に触れられているだけなのに、そこからライアンの感情が洪水のようになだれ込んでくる。
ライアンはきっと、すべてわかっているのだ。
ライアンの感情がこうして流れ込んでくるように、バーナビーの感情も、ライアンの中に勝手に流れてしまっているに違いない。
だからライアンは怒っている。
こんなゼロ距離で口腔を犯されていても、バーナビーは虎徹のことを考えているのだ。怒らないわけがない。
「…ぁ…っ」
シャツの裾をまくり上げられ、すぐに胸の突起を親指で潰されて、経験したことのない感覚が、バーナビーの身体に広がった。
唇を塞がれたままバーナビーが首を振ると、拍子抜けする素直さでライアンはキスを中断した。
「電話しねぇの?」
短い問いは、ただ冷ややかだ。
答えられずに、バーナビーはライアンをにらみ上げることしかできない。
そのバーナビーの視線から逃げるように、ライアンは顔を背けた。
背けた顔は、バーナビーの胸元に落ちて、潰れた突起に噛みついた。
「う!」
痛みに、バーナビーの体幹が跳ねる。
痛みはすぐに、湿った熱になり、熱は粘りついて、敏感なそこを覆い尽くす。
舌で乳首を転がされる感覚に、バーナビーは震えた。
痛みの中からわき出してきた、悪寒にそっくりなその感覚は、ぞっとするのに、払い落すことができない。
思わず足をばたつかせても、ライアンの舌も、その感覚も、バーナビーの身体から離れてはくれない。
ぬる、とライアンの舌が、乳首を包み込む。
「ライアンッ…!」
さっきの恐怖とは違う恐怖に、思わずバーナビーは声を上げた。
空いている左手でライアンの額を押し退けても、倍の強さで乳首を吸われ、すぐに手の力が入らなくなってしまう。
「…!」
ベルトを締めたままのパンツに手を突っ込まれ、腰骨を撫でられて息を飲む。
ライアンの手のひらは、腰骨を滑ってすぐに、バーナビーの身体の中心を握りしめた。
半身をよじることもできなかった。
「やめっ…!」
ライアンの手を追ってバーナビーは下半身に左手を伸ばすが、ブロックの外れたライアンの頭部がまた起き上がってきて、乱暴に唇を塞がれる。
「ふ、ぁ…っ!う、うぅ──っ!!」
親指で亀頭を擦られ、悲鳴を上げることもできずに、長く長くバーナビーはうめいた。

───違う。

違う。これは単なる反射だ。
僕はこんな行為を喜んでなんかいない。
僕はこの男に恋なんかしていない。
違う。違う。
これは反射で、これは快感なんかじゃない。
違う。
何度心で叫んでも、熱は身体中にこみ上げて、逃げ場もなく中心でそそり立つ。
ライアンの腕に爪を立てても、そこを握り込み、擦り上げてくる彼の手の動きはまったく止まない。
「ふっ、ぅぐっ…、」
塞がれたままの唇の端から、唾液があふれるのを感じる。
顎を伝うその水の感覚にまた震え上がり、バーナビーの身体に余計な熱が溜まる。
耐えられなくて首を振ると、水の感覚に沿って、ライアンの唇がそこをなぞってきた。
やっと解放された唇で、バーナビーはただ喘ぐ。
荒く上下する喉を、ライアンの唇が、とどめを刺すように這い回る。
這い回る唇がバーナビーの耳元に近づいて、その唇もやはり荒い吐息を漏らしていることにやっと気づく。
いつのまにか、下半身で動いていたライアンの手が止まっていた。
止まって握り込まれたままなのに、バーナビーのそこから熱は去らない。
「…感じる?ジュニアくん」
自分自身がおぞましくて、バーナビーは歯を食いしばった。
奥歯を噛んでも、熱はぐるぐると身体をめぐるだけで、かけらも噛み潰すことができない。
「ち、がう…」
悔しくて、叫ぶ代わりに声が漏れた。
「何が違うの?」
バーナビーの耳元に唇を這わせたまま、ライアンが問い返してくる。
その唇の動きにさえ、身体が燃える。
答えられずに、バーナビーはもう一度奥歯を噛んだ。
「……」
「あんたは別に感じてるわけじゃない、って?」
「……っ」
「別にかまわねーよ。あんたが今オレを好きじゃなくても」
「……」
「そう。あんたはゲスでもインランでもビッチでもなんでもない。あんたは今オレの手に感じてるだけで、オレに感じてるわけじゃない。だから、ちょっと勃っちゃったからって、あんたが罪悪感感じる必要はどこにもねーんだ」
家電製品のトリセツでも読み上げるように、ライアンはバーナビーの心を手軽に読み上げる。
読み上げられて、一言の反論もできない。

───逃げられない。

僕はライアンの目から、彼の観察眼から逃げられない。
服を脱がされるどころか、皮膚の中まで、心の中まで暴かれて、全裸にされるより恥ずかしいそれを、穴が開きそうなほど眺められて凝視されて。
消えてしまいたい。
この場で即時に、今すぐ。
「でもオレは、嬉しいよ。オレの手だけでも、あんたが感じてくれて」
バーナビーの感情を覆うすべてのものを乱暴に引っ剥がしておきながら、ライアンはただ微笑している。
さっきまで、あんなに冷ややかだったのに。
そんな落ち着いた、そんな穏やかな顔で、こっちを見ないで欲しい。
見られたくない。
今すぐ消えてしまいたい。
苦しまぎれに彼の視線から顔を逸らすと、ぽつりと床に置かれた携帯が目に入った。
あれに左手を伸ばせばなんとでもなるのに、どうしても、バーナビーにはその選択肢が受け入れられない。
ふー、とわざとらしく長く、ライアンがため息をついた。
とたんに拘束がゆるみ、バーナビーのパンツからライアンの手が引き抜かれ、床に固定されていたバーナビーの右手も、あっさり解放された。
「どしたの?殴るならさっさとしてくれよ?」
仰臥するバーナビーの顔の両脇に、悠々と手のひらをついてライアンはこちらを覗き込んでくる。
倒した獲物の弱り具合を確認する、猛獣のように。
「それともやっぱ電話する?」
それだけは嫌だ。
ライアンの穏やかな笑顔と優しい声音が、怖くて悔しくて腹立たしくて、頭がおかしくなりそうだ。
テレビカメラの前でヒーローを演じるライアンと、今のこのライアンのギャップが、ただただ不可解だ。
バーナビー自身、カメラの前で演じることは慣れているし、人前に出る職業ならば、誰だって演技するのだと認識していたが、ライアンのこのギャップはどこか異質で、そんな認識とはかけ離れているような気がする。
「…オレが電話してやるよ。あんたがどーしてもイヤだっつーなら」
ふと真顔に返ったライアンが、床上の携帯に向かって手を伸ばした。
「!」
制止の言葉も言えずに、バーナビーは上体を起こす。
下半身はライアンにまたがれたままで自由がきかない。
しがみつくようにライアンの右腕をつかむと、聞き慣れた電子音が部屋中に鳴り響いた。
不安定な姿勢のまま、二人ともその場で固まってしまう。
床に置かれた、バーナビーの携帯が鳴っている。
薄闇の中で着信画面が光り、暗さに慣れた目には、それがひどくまぶしい。

まぶしい画面の中には、くっきりと「Kotetsu」の文字が浮かび上がっていた。






***

だるい。
虎徹はぐったりとソファの背もたれに寄りかかった。
いつのまに日が暮れていたのか、部屋はもう真っ暗だ。
タイガー解雇のニュースを知って、電話をかけてきてくれた兄の心遣いは嬉しかったが、正直言って、電話口でも平静な声を保つのが難しかった。
部屋の照明を点けるのさえもう面倒だ。
受話器を置いたとたんに身体が重くなり、ソファに全体重を預けたまま、しばらく動けそうもない。
不思議に、激しい悲嘆のようなものは感じない。
二部リーグで復帰した時から、いつかは引退するのだとおぼろげな覚悟ができていたからかもしれない。
不安定ながら、あるべき場所に戻ったような、変に軽やかな気分だ。そして、身体だけがひたすらだるい。

───ああ。ひょっとして、これ。

ぎりぎりと思考を絞らなくても、気づいてしまった。

───俺。安心してる。

気づいたとたんに自己嫌悪がわくが、その暗い感情さえ、どこか他人事めいて、軽々しかった。
解雇されたのなら、もう、能力や体力の減退に怯えなくてもいいのだ。
どれほど気にしないようにしていても、若いヒーローたちの───とりわけバーナビーの───身体能力や、妥協を知らない考え方を見せられるたびに、胸の底は痛んでいた。
虎徹も、彼らぐらいの年の頃は、この若さが永久に続くのだと思っていた。自分自身が一日ずつ老いていくことなど、観念でしか理解していなかった。
今なら、八百長に手を染めたミスター・レジェンドの気持ちがよくわかる。
足元から崩れ落ちるような不安を、誰にもわかってもらえず、誰に気づかれるわけにもいかず、誰に打ち明けることもできず。

───つらかったでしょう?レジェンドさん。

胸の中に住むヒーローに、すがるように問いかけて、虎徹は長く息を吐く。
もう、終わりなのだ。
かろうじて道を踏み外す前に、虎徹はヒーローの職を解かれた。
もう虎徹は、不安に負けて不正を働くことはない。
もちろん不正を働こうと思ったことなど一度もないが、能力の持続時間の短さに歯噛みするたびに、ふと真っ暗な考えが頭の中をよぎったことは、何度かあるのだ。
それがただ、恐ろしかった。
その恐怖が完全に終わることが、嬉しいような気さえする。
もうヒーロー最年長だからと、肩肘を張る必要もない。
危険な仕事だからと、母や楓を心配させることもない。
バーナビーをやきもきさせることもない。
この恐怖と劣等感を───バーナビーに知られないよう、仮面をかぶる努力も、する必要がなくなった。
いや、バーナビーは知っていて知らないふりをしていてくれたのかもしれない。虎徹が二部での仕事に心底満足していても、彼はことあるごとに一部へ戻りたいと漏らしていた。
あれは、彼自身の希望であり愚痴であり、そして、虎徹への勧誘だったのだろう。
「虎徹さん、一緒に一部へ戻りましょう」とバーナビーは言いたかったのだろう。
そうやって遠回しに激励されるごとに、バーナビーのまったく混じり気ない、澄みきった期待や信頼や気遣いがズキズキとこちらに伝わってきて、その重さとありがたさに応えきれなくて、虎徹はわざと彼の真意に気づかないふりをした。
一部でも二部でも、ヒーローには変わりない、と彼を諭して。
そうこうするうちに、バーナビーも疲れてしまったのだろう。
ギャラへの不満を彼が口にした時は少し信じられなかったが、その驚きも、虎徹の中では一瞬で納得へと変わった。
資産家の息子として育った彼にしてみれば、二部のあのギャラは薄給以外の何ものでもない。
そして、自分の能力に絶対の自信を持っている彼が、ギャラの額にこだわるのはごくあたりまえのことなのだ。
ヒーローとしての志からかけ離れた、ギャラに対する考えの違いのせいでバーナビーと距離を取ることになるなど、それまでは想像もつかなかった。
まだ信じられない思いも、虎徹の中に残ってはいる。

───けど。もしかしたら。

あれは、バーナビーが苦悩の末に考え出した、とっておきの口実だったのかもしれない。
ぼんやりと意味もなく、虎徹は目の前のテーブルと電話機を見つめる。
もう本当に、身じろぎすることすらだるい。
理解不能な、重すぎる感情を向けてくる虎徹から円満に逃げるために、バーナビーはとうとう、とっておきの口実を口にしたのかもしれない。
そう考えても、あれはまったく不自然ではなかった。

───今までなんにもなくやれてた、そっちの方が、不自然だったし。

キスをしても、バーナビーは何も言わなかった。
ただ全身を硬直させて、いつまでも歯の根をカタカタと震わせていた。

───あん時、俺はあいつに「ごめん」って言ったっけ?

いくら思い出そうとしても、思い出せない。
もっと言葉を尽くして謝ればよかったのに、あの時は頭が真っ白になってしまっていた。
しかし、答えなど訊かなくても、バーナビーは全身で虎徹を拒否していた。それは確かだ。
あのキスの次の日も、バーナビーは顔色一つ変えずに「おはようございます」と虎徹に声をかけてきた。
ただただ彼は、あのキスをなかったことにしたがっていた。
当然だろう。
虎徹との仕事に波風を立てたくなくて、あれからどれほどバーナビーが耐えていたのかと思うと、うっすら吐き気がする。
本当に吐き気がしていたのはバーナビーの方だったろうに。
目を閉じかけて、やっとの思いで虎徹はまたまぶたを押し上げる。
目を閉じて吐き気に集中してしまうくらいなら、絶望の象徴のような、真っ暗なこの部屋を眺めていた方が、いくらかましだ。
暗いたくさんの影を眺めていると、今度は耳の中でバーナビーの声がする。

───『僕を、騙したんですね!!』

電話機のそばに横たわっていたPDAを力なくつまみ上げ、ごく低い高さから、虎徹はまたそれをテーブルの上に落とした。

───あいつ、もんのすごく怒ってた。

オーナーにしてやられて、相棒を取り換えられたことで、バーナビーは怒り狂っていた。
どうして僕に事実を教えてくれなかったのかと、あの廊下で、噛みつかんばかりの勢いで言い募られた時は、とても不謹慎に嬉しかった。
もう少しで、涙が出るところだった。
だがバーナビーはすぐに気づいたようだった。
重苦しく常識外れの感情を持ち続けている虎徹に、バーナビーは応えられないのだから、そんな一方通行の関係は仕事の支障であり、人間関係そのものの支障だということに。
支障は無くさねばならない。
関係そのものが支障なら、関係を無くさねばならない。
虎徹から離れたがっている自分を、離れなければならない自分を、バーナビーはあの時やっと確信したのだろう。

───今度こそあいつを、俺から自由にしてやれる。

ああして怒ってくれただけで、もう充分だった。
あの時のバーナビーの顔を思い出すだけで、虎徹は今でも幸せな気持ちになれる。
あんなに激しく怒るほど、まだバーナビーは、虎徹との仕事を重く考えていてくれたのだ。

───全部、俺が悪いんだから。

能力が衰えているのに仕事にしがみついていたことも。
変なプライドにこだわって、バーナビーの励ましに気づかないふりをしていたことも。
うっかり、バーナビーをレンアイ感情なんかで見つめてしまっていたことも。
全部虎徹が悪いのだから、関係を断つ決定打が横から降りかかってきて、本当にちょうどよかったのだ。

───次の仕事、探さないとなぁ。

この胸の中の、余計な熱の残骸を噛みしめているヒマなどない。
いくら噛みしめてもそれは膿んでゆくだけで、未来も発展性も甘さも輝きも生まれてはこない。
盛大に転んでできた盛大な擦り傷は、膿む前に、今のうちに強烈な消毒液をぶっかけておけば、すぐに治る。
若い頃のように、痛みだけに泣いていられる純粋で優雅な時間は、もうないのだ。
解雇については、あのオーナーの秘書に通告を受けただけで、これからの身の振り方について、まだベンと詳しく話し合っていない。
今までの感謝も伝えきれていないのに、またベンには世話になるしかなさそうだ。
だが、ほんの数十センチ先の電話の受話器を持ち上げて、ベンに電話する力が、今の虎徹には残っていない。
ただもう、身体がだるいのだ。

───もうちょっと。あと十分…いや、十五分だけ。

あと十五分だけ、このソファで休憩したら、ベンさんに電話しよう。
重い重い腕に巻きついている腕時計の盤面をやっと見やって、虎徹は深くソファに沈み、ゆっくりと目を閉じた。




この社員証も、あと何回使えるのだろうか。
社屋のカード認証ゲートを通過して、虎徹はヒーロー事業部へと廊下を歩く。
昨日解雇を告げられたからといって、朝からのんびりしている時間はない。ロッカーの私物はすぐに片付けなければならないし、昨夜の電話の続きを、ベンと話し合わねばならない。
だが、事業部には独特のざわめきが蔓延していた。
時折すれ違う社員たちの顔には妙な緊張感が満ちているし、急かされるように廊下をばたばたと走る社員の数が、異様に多い。
中の一人を捕まえて「何かあったの?」と尋ねても、「急いでいるので」としか答えは返ってこなかった。
ロイズの執務室とは違う部屋に虎徹がようやくたどり着くと、部屋の主のベンはすぐさま、小さなソファから立ち上がってきた。
「…っはようございます、ベンさん何すかこれ?なんかあったんですか?」
廊下の異様な空気をすぐに虎徹が質問すると、いつも楽天的に笑んでいるベンの顔が、さらに曇った。
「…昨日の晩、バーナビーが狙撃された」
あまりにもベンの言葉の内容が唐突すぎて、虎徹は思わず首をかしげる。
「は?バニーが?ソゲキ?」
虎徹を見上げるベンの眉間に、難しい形のしわが寄る。
「マンションの玄関先で、ストーカーぽいのに何発か撃たれたらしい。ケガはかすり傷で仕事にもまったく問題無いんだが、犯人がまだ捕まってないってんで、バーナビーはしばらく仕事は休みだ」
「かすり傷…って、バニーは今病院なんですか!?」
「あわてるな。ほんとにバンソーコー程度の擦り傷だ。バーナビーは家でおとなしくしてる。けど、巻き添えが怖いから、関係者はバーナビーの家に行かないようにって、ロイズさんからお達しが出てるんだよ」
「電話は?」
「ゆうべ遅くに俺が話したよ。顔色は普通だったが…やっぱり、会って話さねぇとほんとのとこはわかんねぇなあ」
視線を落とすベンを見つめることがつらくて、虎徹も思わずベンの顔から視線を逸らす。
誰も訪れないあの部屋で、たった一人で不安に耐えるバーナビーを想像しただけで、腹をえぐられたように体幹が重くなる。

───けど。俺には。

俺にはバニーを気遣う資格がない。
虎徹は唇を噛んだ。
ロイズの指示など無視して今すぐバーナビーの様子を見に行きたいが、バーナビーはきっと、虎徹と二人きりになることを嫌がるだろう。
そんなことを言っている場合じゃないと、それももちろん思うのだが、たとえバーナビーを訪ねたとしても、傷の具合を尋ねる以外、彼に何を言えばいいのか、虎徹にはさっぱりわからない。
虎徹の存在はバーナビーの心の安定には繋がらないのだ。
それならば、距離を取ったままでいる方が、ずっと彼のためになるだろう。
「だから、会社のやつらがあわててんのはそういうわけだ」
渋い表情の虎徹を気遣いながら、ベンが言葉を続ける。
「マスコミもなんとか抑えてるとこだから、わかってると思うけどこの件は外部に漏らすなよ。他のヒーロー連中にもだ」
「他のヒーローが、標的にされる可能性は…」
「顔出ししてるのはウチだけだからな。他の連中は、プライベートの範囲じゃ問題ないだろうよ。むやみに不安にさせたくねぇし。ちゃんと黙ってろよ」
「あの若いのは大丈夫なんですか」
「…ライアンか?あいつには目立たないようにSP付けてるよ。本人には嫌がられてるけどな。とりあえず、出動があったらヤツだけに出てもらうことにはなってる」
今、この場で、虎徹がバーナビーのためにできることは何もない。
なのにただ、ちりちりと腹の底が痛んで重くなる。
虎徹がもう一度、ベンから視線を逸らそうとすると、それを阻止するかのように、ベンがたたみかけてきた。
「とりあえずな、」
重い。
昨晩の体のだるさが、丸々全部、よみがえってくる。
「やりづらいかもしれねぇが虎徹、今日のいつでもいいからバーナビーに電話してやってくれ。あいつに電話するのは、俺よりおまえの方がずっといいに決まってるんだから」
この重い身体の中に詰まっている感情を、まるっきり見透かすような。そんなベンの言葉が、虎徹の意識の中でさらに重く響き渡った。




タオル。
シャツ。
ハンカチ。
いつ脱いだのかわからない下着。
何だかわからない丸めた書類いくつか。
何が入っているのかもうわからない箱もいくつか。
拾ったのかもらったのか買ったのか、もはや忘れたおもちゃの数々。
人気のないロッカールームで、荷物とも言えないようなロッカーの中身を手当たり次第にダンボールに放り込み、虎徹は一息をついた。
一息をついて、ダンボールのそばにしゃがみこむ。
私物を持ち帰るためのダンボールはひと箱におさまりそうにない。完全に目測を誤った。
この会社のロッカーを使い始めて三年も経っていないのに、この荷物の多さはどういうわけだろう。
トップマグからの移籍が突然だったので、整理する間もなく私物をここに放り込んだ、基本的にはあの時のままの状態でこの小さなスペースを使い続けてきた。
扉を開けるたびに中から何かが落下してくるのを、あきれ顔のバーナビーに何度も皮肉られたものだった。
少し離れた壁面にある、バーナビーのロッカーに目をやり、また目を逸らす。
その扉に名前など書かれていないが、バーナビー専用のそれが、壁のはじから何番目にあるか、虎徹はちゃんと記憶していた。
着替えも、身づくろいも、片付けも。何をする時もバーナビーは実にすばやい男だった。
バーナビーへの妙な感情を自覚してからは、出動後に着替える彼の姿から必死で目を逸らしてきたのだが、そんなにも努力しているのに、なぜかバーナビーからの視線を背中に感じて、振り向いてしまったことがある。それも一度ではなく。
振り返る寸前の、視界の端で捉えたバーナビーは、見事な、本当にギリギリのタイミングで虎徹から顔を逸らしていた。
ギリギリのタイミングでフイ、と虎徹に背を向けるバーナビーの横顔はたいてい、困っているような苦々しさに満ちていた。
バーナビーは何を思って、虎徹の背中を見つめていたのだろう。
やはり虎徹の邪心に気がついて、不快感を抑えられなかったのだろうか。
言いたいことがあるなら言えと、以前の虎徹ならあの場で言えただろう。
だがあの状況では、あたりまえに何も言えなかった。
バーナビーが、虎徹に不快感を持つのは当然だからだ。
「あの朝のキス」の後は、なおさらだった。
それでも、突然の虎徹の解雇に、バーナビーは怒ってくれた。
よっこらしょと立ち上がり、虎徹はバーナビーのロッカーのそばに歩み寄る。
歩み寄って、こつりと額を彼のロッカーの扉に預ける。

───ありがとな。

俺はおまえの足を引っ張ってばかりだったのに。
足を引っ張ってるそのうえに、もっとおまえの心の邪魔になる、気持ちの悪い存在だったのに。
それでもおまえは俺を一言も責めないで、仕事を投げ出すのかと、ヒーローの誇りはどうしたんだと、ただそれだけを怒ってくれた。
「ありがとうな。バニーちゃん」
実際に声に出すと、底抜けに息が苦しくなった。
バーナビーの生身の肌には程遠い、冷えきった金属板は、虎徹の額の、思考を司るごくごく深い部分までを、針のように冷やした。
冷たすぎるその反動か、たった一度しか触れていないバーナビーの唇の感触が、鮮明に思い出される。
起きぬけで、リップクリームも塗っていなかった、渇いたあの唇は、ただ柔らかくて、ただ震えていた。
「もっかい…したかったなぁ…」
キスだけでいいから。
ゲスな望みを口に出すと、急に鼻が痛み始めた。
目元までがいきなり制御できない熱に襲われ、虎徹は固く目を閉じて、すぐ開ける。
元同僚のロッカーに額をくっつけて泣く中年男など、変態以外の何ものでもない。

───でも、これでいい。

これで、切り替える。
切り替えたら、今夜バーナビーに電話する。
ケガの具合だけ聞いて、すぐ切ればいい。
そのあとは、ただの付き合いの薄い、いや、付き合いを復活させることもないただの元同僚になればいいだけだ。
変態ついでにロッカーの扉に口付けて、扉に背を向けて、きつく鼻をすすって涙を身体の奥に流し込み、虎徹は元の整理作業に戻った。

間接キスにもならなかったキスは、ただ金属臭かった。






***

「やめろ!」
怒鳴っても無駄だった。
どんなに腕に力を込めても、ライアンに跨られているこの体勢では、たいした抵抗はできない。
床上の携帯電話は、「Kotetsu」の文字を液晶画面に浮かべたまま、鳴り続けている。
どうしても電話をライアンに拾わせたくなくてバーナビーはもがいたが、バーナビーの指が届く前にライアンはそれを床上で滑らせ、軽快な動きでつかみ上げてしまった。
「返せ!!」
ライアンの腕に食らいついても、ライアンは電話を離さない。
彼の手の中で電話の液晶の色が変わり、通話モードになるのが見えた。
「ライアン!!」
バーナビーの叫び声は悲痛にかすれる。
バーナビーのすべてを無視して、ライアンは電話を耳元に当てた。
「ようオッサン。ゴールデンライアンだ。今から十五分以内に『バニーちゃん』のマンションまで来ないと『バニーちゃん』のバージンは無理やりオレがいただいちゃうからそのつもりで」
あまりといえばあまりなセリフに、バーナビーの頬にも頭にも、わけのわからない血が上る。
「何言って…っ!!返せ!この、…っ」
「通話終了~、っと。もう切っちゃったもんねー」
ようやく電話をライアンからもぎとっても、取り返しがつかない。
たった今のバーナビーの叫び声も、ライアンのあくどい冗談も、全部虎徹には聞こえてしまった。
「ホラ。おっさん来るまで、ちゃんと椅子に座って待ってよーぜ?」
バーナビーの身体の上からひらりと立ち上がり、ライアンが手を差し伸べてくる。
仰臥の姿勢からやっと半身を起こし、バーナビーは差し伸べられたその手のひらを、渾身の平手打ちで払いのけた。
許せない。
液晶画面も歪みそうな力で電話をきつく握りしめ、バーナビーは立ち上がった。
「いっ…てぇ…!…そんなに怒んなってー」
ぶたれた右手をひらひらさせて軽薄に痛がるライアンに腹が立って腹が立って、ただもうめまいがする。
怒りで震える唇を落ちつけようと、バーナビーは前歯に力を込めた。
腹が立ちすぎてもうしゃべれない。
しゃべれないのに、次々と喉の奥から不快に熱い何かがわき出してきて、あっという間にそれはバーナビーの唇の裏でぎゅうぎゅうに濃縮された。
「出ていけ!!!」
耐えきれずに唇から熱が弾け飛ぶ。
数歩向こうに立っているライアンの口元から、ふと笑みが消えた。
笑みのない彼の真顔を目にして、バーナビーの身体の底の、感知するのも難しいほんのひとすみが、ひやりとする。
ライアンを怒鳴りつけたのは自分なのに、怒鳴ってしまったことを後悔なんかしている自分がますます腹立たしい。
「早く!出ていけ今すぐ!!」

───そんな顔をするなら出ていけ。

僕が怒鳴ったくらいでそんな顔をするのなら、最初からこんなところまで押しかけてくるな。
僕をからかいたいのなら、最後までふざけていろ。
最後までふざけていられないのなら、今すぐ、即刻、出ていけ。
怒鳴ったせいで濡れた唇をひたすら震わせて、バーナビーはライアンをにらみ続けた。
十秒は経っただろうか。
先に目を逸らしたのは、ライアンだった。
「…わかった。出てくから、そんなに怒んなって」
笑みのなくなった顔で、ごく静かに、ライアンはつぶやく。
「せっかくおっさんが来るんだから、ココのしわはちゃんとほぐして、ちゃんとイイ顔見せてやんなよ」
眉間を指でつつきながら言われても、とても従えそうにない。
「……虎徹さんは来ない」
短く吐き捨てて、今度はバーナビーがライアンから目を逸らす。
「なんでそう思うの?」
「あんなウソ臭い話を、虎徹さんが信じるはずがない」
「それはないと思うけどなー」
「ああいう冗談は、あの人が一番嫌いなタイプの冗談だ。あんなものを、あの人が真に受けるはずがない」
「だからぁ。真に受けても受けなくても、おっさんは来るって」
「わかったふうに言うのはやめろ!」
なぜ僕は自分の部屋で、こんな知ったかぶりの男といつまでも会話しているのだろう。
怒鳴らないぎりぎりの声音でライアンの言葉をさえぎり、バーナビーは視線を彼の顔に戻した。
魂の底から嫌悪を込めてにらみつけなければ、この男は帰りそうもない。
「帰る。帰るって、わかったから。じゃあな」
バーナビーの心の声が聞こえているかのように、素直にライアンはきびすを返した。
廊下へと続くリビングのドアが開いて、閉まる。
やっと訪れた静寂は、重苦しい。
暗いリビングの端でつっ立ったまま、バーナビーはやっと手の力をゆるめた。
手の中の携帯電話はすっかり汗ばんでしまっていた。




もう三十分は、経ったような気がする。
バーナビー宅のドアに、立ったままだらしなくもたれて、ライアンは小さくあくびをした。
あくびをしてから、また手元の携帯のアプリゲームに戻る。
ヒマすぎて、ゲームでもやっていないと耐えられない。
バーナビーに部屋を追い出されてから、もう三十分は過ぎた気がするが、アライグマのおっさんは現れない。

───つくづく、オレもバカなことやってんなぁ。

怒り心頭に達してしまったバーナビーはもう、ライアンを部屋には入れてくれないだろう。
だからさっさとこのマンションから離脱すればいいと思うのに、それができない。
バーナビーにはああ言ったものの、アライグマが本当にここに来るかどうか、ライアンには最後の確信が持てなかったのだ。
アライグマを待ち伏せて、二人の会話の内容をデバガメしようなんてことはカケラも考えてはいない。
二人の仲が決裂しようが再構築されようが、この際もうどっちでもいい。
ただ、バーナビーがアライグマに会えたかどうか、それさえわかればいい。
バーナビーがアライグマに会えれば、結果はどうあれバーナビーの気持ちに一区切りがつく。区切りがついていなさそうなら、そこからまた、改めてバーナビーを攻略する方法を考えればいい。
アライグマに会いもしないでグダグダと落ち込んでいるバーナビーを見るのは、もうまっぴらだった。
しかし、この調子だとアライグマは本当に来ないつもりなのかもしれない。
バーナビーが言っていた通り、ライアンがアライグマに聞かせた冗談は、本当にアライグマの地雷ストライクだったのかもしれない。

───オレの勘も、ニブってきてんのかねぇ…

直感力200パーセント、的中率ゴールデンなオレの勘では。
「虎徹」は、確実にバーナビーに気がある。
さっき、電話の向こうの虎徹はひどく落ち着いていた。
ライアンのふざけた呼びかけに、ひどい低音でたった一言、「なんだと?」と言ったきり黙っていた。
あれは、マジ声だった。
だいたい、いい年をしたバツイチのおっさんが、仕事場の同僚に一度でもチューをかますこと自体、相当な覚悟プラス下心がないとできない芸当だ。
あのクソ真面目なジュニアくんがあれだけ執着するのだから、ヒーローとしての成績はどうあれ、アライグマは心底ふざけた男ではないはずだ。
心底ふざけてない男がシラフでチューをかましてくる、それがどれだけ重大なことか、ジュニアくんはまったく理解していない。
あとでどんなに知らん顔されたとしても、それはふざけてない男の重大な覚悟の裏返しだということになぜ気づかないのか。
やっていられない。
やっていられないが今はアライグマを待たねばならない。
アライグマがここまで来ないと今夜は眠れそうにない。

───しっかしこりゃー寝れないコースかもしれねぇわ。

あきらめが入ったとたんに指が滑り、アプリゲームの画面の中で大爆発が起こった。
あと少しでテトリスがキメられるところだった無念を奥歯で噛みつぶして、ライアンはアプリを終了させる。
携帯をポケットに放り込み、誰も聞いていないのを承知でハアーと声にまで出してため息をつくと、廊下の角からふと人影がわいて出た。
アライグマだ。