サムシング・スカーレット -2-



* *



『グリフォンへ。『スカーレット』に近づくなと言ったはずだ』
『うるせぇよ。黙れ』


***

正午を過ぎた。
数少ない事務員もランチへと出払い、オフィスにはランチタイム特有の、静かで緩んだ時間が流れ始める。
窓の外は、目を開けているのもつらいほどの晴天だ。
親指一本にひたすら力を込めて、ライアンはのっそりとパソコンの電源を切った。
伸びのついでに両足を自分のデスクに引っかける。
行儀にうるさいジュニアくんにどれほど注意されようとも、このオフィスではこの姿勢が一番ラクなのだ。
そのうるさいバーナビーはまだキーボードをパチパチやっている。
これは「ランチお断り」のサインだ。
ライアンがこのオフィスに出入りするようになってまだ十日も経っていないが、バーナビーはいじらしいほどにわかりやすい男だった。
時間の使い方までお行儀のいいバーナビーが、ランチにずれ込むほどの仕事を、この時間に持ち込むわけがないのだ。
わざわざ時間オーバーの仕事をして、バーナビーはライアンがランチに出て行くのを待っている。
だから、キーボードの音にかまわず、ライアンはリラックスした姿勢のままで隣席に話しかけてやる。
「なァ。オレに乗り換えなって」
「なんですかいきなり」
キーボードの音は止まない。
「こないだのハナシの続きじゃん」
「オフィスでする話じゃないでしょう」
「今はランチタイムであんたとふたりっきりで誰もオレらの話は聞いてねぇし。なーんもモンダイねぇと思うけど?」
「僕は今、話をする気分じゃないんです」
「ずーいぶん気まぐれなんだなぁ。こないだはあんなにおハナシしてくれたのにぃ」
キーボードの音が止んだ。
どんな顔で隣席のバーナビーがうつむいているのか、舐め回すように眺めたくてたまらないが、ここは我慢した方が紳士的だろう。
尻の下の椅子をギシギシと揺らしながら、ライアンはバーナビーに目を向けずに、自らのデスクに飾った「カワイイ相棒」の写真を見つめるふりをした。
「おっさんのことオレに話したら、スッキリしただろ?オレはあんたに、ちょっとでもスッキリして欲しいだけなんだけど」
これは嘘だ。
誰にも言えなかったであろう、煮え切らないおっさんの話をぶちまけて、バーナビーにスッキリして欲しいのは神に誓って真実だが、それだけが望みかというとまったくそうじゃない。
こちらを向いたバーナビーの視線を感じながら、ライアンはさらに椅子を鳴らす。
今日も写真の中の「相棒」は、透き通ったグリーンの尻が美しい。

───頼むぜジュニアくん。

スッキリして、ガチガチに固まったその脳ミソをちょっとほぐして、そうやってちょっとこっち向いて、できればこっち向いたまま落ちてきて欲しい。
人間のココロも重力で落とせりゃいいのに。
そんな子供のような考えがふと浮かび、ライアンは可笑しくなった。

───いやいや。わりとこの世の中、重力で何でも落とせるし。

金も名誉も人からの好意も、この能力のおかげですべて手に入れることができた。もちろんこれからも、この生き方を変える気はない。

───でも、ひょっとしたら。

ひょっとしたら、この生き方のままじゃ、ジュニアくんをモノにはできないんじゃないだろうか。
ライアンは、椅子を鳴らすのをやめた。
こちらを見ているだろうバーナビーは、まだ何も言わない。
なんだかもやもやする。
さっきまであんなに眺め回したかったジュニアくんの顔なのに、なんだか急に、そっちに目を向けるのがイヤになった。
ライアンの意志とは関係なしに、ライアンの胸の中で、もやもやの正体は急激に色彩を帯びてゆく。

───ああ、そうか。

手に入らないかもしれないから。
だから、オレはこんなにジュニアくんが怖いんだな。
もやもやに納得して、ライアンは再度、椅子をギシリと鳴かせた。
手に入らないかもしれないコトって、こんなにコーフンするもんなのか。
コーフンしすぎてアソコもおっ勃ちそうだ。
怖いのがちょっと、いやかなりイイなんて、オレはマゾか。
マゾヒストのキモチなんて地球が爆発したってわっかんねーと思ってたけど、これはハマるやつがいてもしょうがない気もする。
やっぱりこういうのは初めてだ。
オレの初めてをかっさらっていくくせに、このジュニアくんは自分の初めてをちっともオレにくれやしない。
ギシ、ともう一声椅子を鳴かせて、ライアンはデスクから足を下ろした。
下ろして、膝に手を置いて、勢いをつけて立ち上がる。
「ま、いいや」
ホントは全然良くもなんともないけれど。
ここでこのハナシは強制終了させとかないと、オレのランチもオレのアソコも、ジュニアくんのご機嫌も───色々な意味でヤバい。
「オレもランチ行ってこよ。ジュニアくん、こないだ食べてたホットドッグってどこで買ったの?店教えて?」
やっと見返すことができたバーナビーの目に浮かんでいるのは、嫌悪だろうか。困惑だろうか。不信だろうか。
もっと見つめられたいのに、もっと見ていたいのに、そのどちらの行為にも、ライアンは得体の知れない恐怖を感じた。

ああ。
怖くてヨすぎてたまらない。
初めてって、苦しい。


***

ブレーキを力いっぱい踏むと、がくりと身体が前につんのめった。
ハンドルにのしかかるようにして、バーナビーはその衝撃を耐える。
顔を上げると、フロントガラスの向こうで、対向車の運転手がひどく驚いた顔をしていた。
彼の驚きがこの車の急ブレーキのせいなのか、この車の運転手が「バーナビー」だったからなのか、その両方なのかさっぱりわからないが、今はそんなことを考えている場合じゃない。

───落ち着け。

落ち着いて信号と前方と対向車をよく見ろ。
赤信号に突っ込みかけてる場合じゃない。
汗でぬめるハンドルを握り直して、バーナビーは大きく息を吐いた。
今日も、孤児院からのこの道のりを、いつも通りに満ち足りた気分で帰ってくるはずだった。
今日はたくさんの荷物を子供たちに届けて、いつもよりもっと気持ちが満たされていたはずなのに、帰り際に見たあのニュースのせいで、何もかもがひっくり返ってしまった。

───二部ヒーローの、廃止なんて。

ビジネスと言われれば、それまでなのかもしれない。
ヒーローは、市民の役に立たなくてはいけなくて、人気がなくてはいけなくて。その両方の条件を満たしていない未熟なヒーロー見習いに投資する余裕がないと会社に言われれば、それまでなのかもしれない。
だが。
良いとは言えない労働条件の中で、二部の彼らは真面目に努力している。
そして、市民に愛されている。
視聴率を稼げなくても、広告効果がないに等しくても、街の中で、彼らは温かく注目を浴びている。
ワイルドタイガーは、本当に市民に愛されている。
虎徹は、自らの職業と市民を、本当に愛している。
こんなに突然に、理不尽に、それが奪われてしまうことが、どうしても許せない。

───早く。会社へ。

早く会社へ行って、あのオーナーを捕まえなければ。
今度という今度は逃がさない。
前方の信号の色が変わるやいなや、バーナビーはアクセルを踏み込んだ。
派手なエンジン音が交差点じゅうに響き渡る。
しかし、バーナビーにはもう何も聞こえていなかった。




「あれ?ジュニアくん、今日はオフじゃなかったの?」
真正面から声をかけたのに、バーナビーは重戦車のような勢いで歩いてきて、ガン無視でライアンの前を通り過ぎてゆく。
ひょいと腕を捕まえてやると、ひどい力で振り払われた。
「離せ!僕は急いでるんだ!!」
これはどうも、よろしくない事態だ。
携帯を忘れたことに気づき、トレーニングセンターからライアンはこのオフィスまで戻ってきたが、これはのんびりトレーニングに戻っている場合じゃないだろう。
ライアンは、反射的にバーナビーの腕を捕らえ直した。
今度はそれを、がっちりと宙に固定する。
「離せって言ってる!!」
もがくバーナビーを無視して、ライアンは指に力を込めた。
骨に響くほど腕を締めつけられて、バーナビーが顔を歪める。
とにかく、今は何か別の刺激を与えて、バーナビーの意識を怒りから逸らした方がいい。
「…そんなにコーフンしてちゃ、うまくいくモンもいかなくなるぜ?」
また指に力を込める。
「…く、…ぅ…」
増す痛みに、バーナビーが小さくうめく。
そんなビミョーな声出されちゃこっちは別の意味でコーフンしちゃうぜと茶化したいのをやっとこらえて、可能な限り穏やかな声を出すために、ライアンは短く深呼吸した。
「なんかあったの?ジュニアくん」
「…あなたには関係ない」
予想通りの返答だ。
が、こんな答えにいちいちめげていたら、このジュニアくんとはつきあえない。
「だからさ。その関係ないヤツに事情話してみれば、もうちょっと落ち着けて、もうちょっとコトがうまくいくかもよ?あんたに今必要なのは、目的の達成じゃなくて、ただ落ち着くことだと思うけど?」
「…勝手なこと言わないでください」
切り返しはとげとげしいものの、バーナビーはもがくのをやめた。
力の抜けたその腕を、ここぞとばかりにライアンは引く。
「ちょっと!どこへ、」
「ここじゃ誰が来るかわかんねーから。こっちの部屋の方がいいだろ」
隣接するミーティングルームのドアを開け、ライアンはさらにバーナビーの手を引いた。
比較的素直に部屋に入ってきてくれたバーナビーの腕をやっと離し、ひょいとライアンはその場のデスクに尻を乗せる。
バーナビーの背後で、ミーティングルームのドアが閉まった。
「で?何を急いでるんだって?」
固く唇を噛んでいたバーナビーは、ひと呼吸もふた呼吸もおいて、やっと口を開いた。
「二部ヒーローの廃止を…撤回してもらいたいんです」
「ああ…トレセンで他のヒーロー連中も騒いでたなァ。んなこと言ったって、採算が取れなきゃしかたねーんじゃねぇの?」
「それでも…あのやりかたはあんまりだ」
「それで、あんたがオーナーに直談判しに行くと」
「そうです」
「それで急いでる、と」
「ええ。もういいでしょう。だから、僕はこれで」
くるりときびすを返し、もうバーナビーはミーティングルームのドアノブに手をかけている。
軽くジャンプして、ライアンは尻を預けていたデスクから降り立った。
バーナビーの肩を背後から軽くつかんで引き寄せると、イラつくグリーンアイズが、噛みつくようににらみあげてきた。
「なんですか!」
「直談判って、ほんとにあんたが行くの?」
「そうです!いいかげん離して、…」
「あんた、あのオーナーと渡り合えんの?軽―くひっかけられて契約のサインさせられちゃったあんたが?一人で?」
またも急所を突いてやると、グリーンアイズが燃え上がった。
「僕はアポロンメディア関連会社の株式を保有しています。関連会社の取引を停止させて、この会社を孤立させることだって不可能じゃないんだ!」
だめだ。全然ジュニアくんは落ち着いていない。
怒りに燃える頬は上気して、少し荒い息が色っぽくてたまらないが、これは放っておくわけにはいかない。
バーナビーをドアから引き剥がし、無理やりこちらを向かせる。
「で、この会社を孤立させて、あんたはどうすんの」
「どうするって、」
「あの腹ぐろーいオーナーのことだからなぁ。あんたの脅しを聞くふりして、あんたを潰しにかかってくるかもよ」
「かまいません」
「下手すりゃ、あんたもヒーロー事業部もまとめて潰されるぜ?二部の復活なんて夢のまた夢になっちまう。あんた、ヒーローやれなくなったらそのあとどうすんの?」
「……」
「あんたがヒーローやれなくなったら、あのおっさんなんかもーっと確実にヒーローやれなくなるぞ?そんなんでいいのかよ」
「…まだ、そうなるとは決まっていない」
「決まってなくても、そんなイチかバチかのでっかいリスク背負うわけ?」
沈黙が落ちる。
こちらをにらみ上げていたバーナビーは、噛みちぎりそうな勢いで唇を噛みしめ、視線を落とした。
「好きなんだろ?おっさんが」
そう。
その調子で、落ち着けジュニアくん。
「だったら、何をしたらおっさんが喜ぶか、あんたはもうちょっと慎重に考えた方がいいんじゃねーの?」

───我ながら、これはキマったと思う。

ここにあのアライグマのおっさんはいないけど。
ついこの間、怒り狂うジュニアくんをものの数分で説得コンプリートしてたおっさんは、ジュニアくんにとって最高最強の精神安定剤だから。
それに、あのオーナーは、黙っていてもそのうち潰されるから。
オレもその失脚に、一役買わされそうになってんだから。
ていうか買うかもしれないんだから。
だからここはこらえて待ってろ。
オレはあんたを、あんなゴタゴタに巻き込みたくねぇんだよ。

───あー、ジェントルマンってのは疲れるぜ。

あの「ワイルドタイガー」の本名はなんといったか。
コテツさん、とこのジュニアくんは呼んでいたような気がする。
あのコテツのことなど、本当は今すぐきれいさっぱりバーナビーに忘れてもらいたい。
ライアンは、バーナビーの両肩に載せていた手のひらを、そっと下ろした。
自分でキスを仕掛けておいて自分で勝手に怖気づいて、このクソ真面目なバーナビーを勝手にほったらかしてバックレてるようなケツ穴極小のおっさんよりも、オレの方が何億倍もイイ男だ。
ライアンの胸の中に、ざわりと波が立つ。
コテツのことを口に出したのは自分なのに、そのおかげでバーナビーはちゃんと落ち着き始めているのに、バーナビーが今コテツのことを考えていると思うだけで、ライアンの身体の中には嫌な波立ちが生まれて、不快に揺れる。
「…なぁ、」
声をかけると、バーナビーはずいぶん悔しそうに顔を上げてきた。
ヒーローとしてのライアンをいつも無視しているくせに、バーナビーは時々、こうやってどうしようもなく悔しがりながら、ライアンの存在を受け入れようとしている。

───どこまでも失礼で、ボケナスな王子様だぜ。

悔しいのは、こっちだっての。
嫌な唾をやっと飲み込んで、ライアンはバーナビーの顔に手を伸ばす。
びく、と身構えるその震えをねじ伏せるつもりで、彼の顎を指で捕らえて固定する。
「ジュニアくんがオレの言う通りしてくれたら、オレも協力するぜ?」
固まったバーナビーのグリーンアイズが、疑問に濁る。
「……何を協力してくれるんですか」
不安を押し殺して、顎を捕らえられたままやせ我慢しているバーナビーの可愛さは、もはや異常だ。
「オレがコンチネンタルにコネつけてやるよ。タイガーを雇ってくれ、って」
バーナビーの顎がまた震える。
別に取って食ったりしないのに。
いや、食っちまいたいのはやまやまだが、この王子様がこうして身体を緊張させているうちは、どこをどう舐め回しても、色っぽい声一つ出してくれないだろう。
飲み込んだはずの嫌な唾が、ライアンの喉の深部でますます不快に燃える。

───落ち着け。

バーナビーにではなく、今度は自身に言い聞かせる。
せっかくジェントルマンらしくキメたのに。
せっかくジュニアくんはオレの話を聞いてくれてるのに。
それをオレは。
それをオレは、自分で、ぶっ壊すのか?
不快な唾がせり上がって、舌まで燃える。
その不快さに、ライアンは負けた。

「んで、コネつけてやるからさ。だからジュニアくん、オレにキスして?」

ああ、台無しだ。
ジェントルマンも説得コンプリートもジュニアくんの精神安定も、みんな。
見開かれたバーナビーの目に、怒りとはまた違うものが溜まり始める。
「キスがハードル高いんなら、『愛してる』って言ってくれればいーや。安いもんだろ?」
顎を捕われたまま、バーナビーはライアンの指を振り払おうともしない。
「別に、言うだけよ?嘘八百のリップサービスでいいんだぜ?おっさんのこと忘れろとか大層なことは言わねぇからさ」
ここでバーナビーが困り果てても。
逆にためらいもせずライアンの要求に応えたとしても。
どちらに転んでも、ライアンの身体の深部で燃える不快はなくならない。なくなるどころか、増幅する予感がある。
今、こうしてバーナビーが返答に迷っている状態でさえ、許しがたく不愉快だ。
本当に、台無しだ。
台無しにしてしまった。
ライアンは、捕らえていたバーナビーの顎を放り出した。
放り出して、バーナビーを抱きしめた。
バーナビーの沈黙に、もう耐えられなかった。
「…離し…、っ、んぅ」
バーナビーを抱きしめながらバーナビーの後頭部をつかみ、ライアンは自分の肩口にバーナビーの顔を押しつける。
もう一言だって、拒絶の言葉は聞きたくない。
「ぅ、…」
ライアンの肩口で、バーナビーの唇は声も無くもがいている。
こんな時まで、バーナビーは能力を使うそぶりすら見せない。
そこを突っ込んだところで、どうせクソ真面目ジュニアくんはこう言い放つのだろう。
「この能力は、自分のためじゃなく市民のために使うんです」と。
ジジ臭い主張だ。
自分の安全も守れなくて何が市民の安全だ。笑わせる。
ヒーローは犠牲者になっちゃいけない。基本だっつーの。
「『愛してる』って言ってくれたら、離してやるよ」
こっちはもうほとんどヤケクソで言い放つと、バーナビーの抵抗がとたんに弱まった。
弱まったというよりは、ライアンの言葉に対して、嫌々考えを巡らせているようだった。
バーナビーの後頭部に置いた手の力をゆるめ、それでもバーナビーの身体は抱きしめたままで、ライアンは不快な時間を耐える。
耳元に、バーナビーの吐息がかかる。
吐息は、震えて、途切れて、また震える。
無言で困り果てているバーナビーが、気が遠くなりそうに憎くて好きだ。
何の香水をふりかけているのかフレグランスガムでも直前に噛み砕いていたのか、バーナビーの吐息はミントアイスの匂いがする。
ライアンは息を飲んだ。
自分でももう何をやっているのかわからなくなったその時に、耳元のミントアイスが、小さな声に変わった。
「あ…愛し…て、…」

───そんなに、言いづらいってか。

まさにデッドエンドだ。
バーナビーに拒否されても、服従されても、どっちにしろ最悪だ。
天井を仰いで、ライアンはきつく目を閉じる。
飲んだ息そのままを、この場でシャウトしてしまいたい。
吐き出したいのに吐き出せない。
この熱く不快な感情には、出口がない。
「…聞こえねーよ?誰が誰を、アイシテルって?」
出口がなければ、その感情は、ライアンが自身の身体の中だけで始末せねばならないということだ。
「ぼ、くは。あなたを、…愛して」

───ダメだ聞きたくない。

「やめだ」
その両肩をつかんで、バーナビーを二、三歩後ろへ退き下がらせる。
彼の驚いている顔すら、もう視界に入れたくなかった。
「やめにしとく。コネだのなんだのオレがつけたって、どうせあのおっさんは応じねぇだろ」
カーテンを窓端に寄せるようにバーナビーを押しのけて、ライアンはミーティングルームのドアノブに手をかける。
「おっさんってのは、どんなにへにゃへにゃに見えてもプライド高いイキモンだしさ」
おっさんじゃなくたって、プライドは高いけどな。
内心で瞬時にセルフ突っ込みを入れてしまう自分がもうどうしようもなくうっとうしい。
振り向きもせずにドアノブを殴ってドアを開け、ライアンはミーティングルームから逃亡した。
数分前のバーナビーとほぼ変わらない、重戦車のような勢いで。




携帯電話をサイドテーブルに置き、崩れ落ちるようにバーナビーはリビングチェアに座り込んだ。
サイドテーブルの上にはつけっぱなしのパソコン画面が光っている。
「タイガーとうとう解雇」というネットニュースの見出しが、ホログラムの中に容赦なく浮かんでいる。
そんなものは目につかないように閉じてしまえばいいと思うのに、この自宅に戻ってから何度も何度もニュース画面を呼び出してしまう自分に疲れて、今のバーナビーは自虐的にパソコンの電源を落とさずにいる。
薄暗い部屋の中で、残酷なニュースは光り続ける。
しかし、光るパソコンの横に置いた電話は、画面ごと真っ暗だ。
どうしても虎徹に電話がかけられなくて、電源ごと切った。

───虎徹さんは今、どうしているのか。

ロックバイソンやファイヤーエンブレムに、虎徹から連絡が来ていないか訊こうかと思ったが、この事態は飲み会の相談とはわけが違う。
おそらく虎徹は、ヒーローの誰にも連絡を取っていないだろう。
家族には連絡を取っているだろうが、バーナビーが虎徹の実家にまで電話をかけるのは、どこか非礼だ。
電話をかけられない理由ばかりが胸の中で膨れ上がり、膨れ上がったそれは、バーナビーの胸の中にひっそり沈んでいる感情を、ちくちくと傷めつける。
おまえなど要らない、色恋沙汰なんかまっぴらだとすっぱり虎徹に拒否されていたら、ここまで悩む必要はなかっただろう。
そうだったなら、バーナビーは解雇された虎徹を、名実共に「関係ない人」として無視することができたはずだ。
あるいはただ単に、過去の職場の過去の知り合いとして、業務連絡のように淡々と、虎徹を慰めることだってできたかもしれない。
いや。
拒否ならもうされていた。
虎徹のキスに応えることも、その理由を尋ねることもできなかったバーナビーは、もうとっくに虎徹から無視されていた。
すがすがしいまでにバーナビーの私的感情や私的生活に干渉しない、あの虎徹の完璧なビジネスパートナーぶりが、拒否でなかったらなんだというのか。
とてつもなく間口が広いように見えて、虎徹という人物はとても用心深い。どんな人間も分け隔てなく自分の庭に招いてもてなすが、玄関ドアは決して開けない。
誰にも見せない涙をバーナビーに見せ、命の危険も冒してバーナビーの記憶を取り戻させ、誰も見たことのないような笑顔でコンビ復活を喜んでいたあの虎徹に、「玄関」から招き入れてもらったような気がしていたのは、バーナビーの勘違いだったのだ。
だから、虎徹の近況が知りたければ、業務連絡のように淡々と電話するしかないのだ。
「虎徹さん、僕はあなたを心配しています」と。
なのにそれができないということは。

───結局僕は。

自分が可愛いだけだ。
無神経な人間だと世間や虎徹さんに非難されるのが怖くて、動けないだけ。
虎徹さんをあきらめることもできず。
虎徹さんをビジネスパートナーとして気遣うこともできず。
虎徹さんのために、なりふりかまわないでライアンに頼ることもできず。
ばかばかしいまでに無力な愚か者になって、ただ座り込んでいるだけ。

───座り込んでいるだけならまだ可愛いのに。

ちりちりと頭さえ痛む気がして、リビングチェアの上で、バーナビーは片手で額を押さえてのけぞった。

───座り込みながら、僕は彼のことを考えている。

払いのけても、払いのけても伸びてくる彼の腕は、気まぐれにバーナビーを抱きしめ、気まぐれにバーナビーを押し退けていった。
立場上、もう彼を殴ることができないバーナビーの弱みを突いて、とことん卑怯にふるまう彼の顔が、思考の深層から出ていってくれない。

───消えろ。

ライアン。もう僕の邪魔をするな。
僕をこれ以上、汚い人間にしないでくれ。お願いだから。
自分の思考と、思考の中のライアンに命令すればするほど、彼の腕の感触や、耳元で響いた声が、鮮明によみがえってくる。
あまりに呼吸が苦しくなり、バーナビーは勢いをつけてリビングチェアから立ち上がった。
この感覚は過呼吸に似ている。
じっと座っていたら、その場で意味不明の言葉を叫んでしまいそうだ。
早足で、そしてすぐに駆け出して、バーナビーはリビングを出た。
そのまま何も持たずに玄関に直行し、ドアの外に飛び出した。
散歩でもジョギングでもなんでもいい。
泥に浸かったように疲れ果てたら、ぐっすり眠れるかもしれない。
ライアンと自分から逃げたくて、バーナビーは不気味に静かな廊下をただ走った。
エレベーターに乗って降りて、マンションのエントランスに出ると、春の夜の、生ぬるい冷気がバーナビーの背筋を刺した。息苦しさから逃れたい一心で、ジャケットを着ることすら忘れてしまっていた。
ぶる、と一瞬だけ肩をすくめて、バーナビーがエントランスの長い階段を一段、降りた時。
肩に何かがぶつかった。
小石のように小さい何かが、バーナビーの左肩をかするように衝突し、目にも留まらぬ速さでどこかへ飛んでいった。
そこらの通行人に何か投げつけられたのかと思ったが、バーナビーの足元に広がっている長い階段にも、そのふもとの歩道にも、人影は見当たらない。
背後のマンションの上階から何か落ちてきたのかとも思って、振り向いて見上げてみても、エントランスのポーチを通過して階段を降りかけたこの位置に、上階から物を投げつけることは角度的に無理がある。
きょろきょろしているうちに、左肩が急に痛み出した。
ふと自分の肩に目をやって、バーナビーは息を飲んだ。
長袖シャツの布地が裂けて、肩の地肌が見えている。
布地の裂け目に、ささくれた糸くずが無残にからまり、糸くずは鮮血に濡れ始めている。

───小石じゃない。

夜の冷気に冷えた背筋が、いっそう凍った。
動きを止めたとたんに、また足元に何かがぶつかった。
ぱん、と小さいが甲高い音を立てて、足元の敷石が砕かれ、ひとつかみほどの白煙が上がる。
明らかにそれは小石ではなかった。
石よりもはるかに硬く、人が投げるよりもはるかに速く、視認できないスピードで視認できない遠くから射出されてきている小さな、この物体は。

───銃弾だ。

直感したバーナビーがエントランスに駆け戻ると、その高級マンションらしい重厚なドアは、バーナビーの鼻先で、金属的な音を立てて破砕された。



* *



『グリフォンへ。『スカーレット』に警告を与えた。例の件の迅速な返答を願う』


***

「狙撃?」
執務デスクのそばの執務チェアに沈み込むロイズを見下ろして、ライアンは訊き返した。
先日の医務室行き事件の時よりももっと疲れた風情で、ロイズは深いため息をついている。
「ケガはかすり傷だそうだけどね。犯人がまだ捕まらないから、バーナビーくんには大事を取って休んでもらってるよ」
朝イチに呼び出され、今度は何の説教かと不埒にわくわくしながら事業部長室に来てみれば、話の内容はライアンにとって、まるっきり血圧が下がりそうに深刻なものだった。
時間に勤勉なバーナビーが朝のこの時間になっても出勤してこない理由を聞かされ、身体が冷えるばかりで、ライアンはロイズに何のリアクションもできない。
「バーナビーくんの自宅を知っている悪質なストーカーだとは思うんだけど…どうもやり方が普通じゃないみたいなんだよ」
何が普通じゃないのか早く聞きたいが、ライアンの喉はいきなりの緊張に枯れ果てて、吐息を押し出すことすら困難だ。
「…こう、高いビルの上から、信じられない長距離で撃ってきたみたいでね。撃ち方も、射殺が目的と言うよりは、バーナビーくんの動揺を楽しむような感じだったらしくて」
すう、とすべてが冷えていく。足元も、大事な急所も、腹も、胸も。
「ドラマなんかでたまに見るけど、射殺できるのにあえて外す、っていうのは普通レベルの技術じゃないそうだよ。警察が捜査してるけど、状況次第では、ライアン&バーナビーの活動も自粛というか中止しなくちゃいけないだろうね」
胸に喉に、最後に頭が冷えて、ライアンは声も出せずに目を細めた。
「あ。わかってると思うけどこれ、社外秘だから。マスコミも今、全力で止めてるとこだから。口外は絶対ナシの方向でお願いね。ヒーロー連中に訊かれても、『バーナビーは体調不良』で押し通してくれる?」
「………はーい…」
本当に、やっとのことで声が出た。
ライアンはゆっくりと、不快に固まりきった唾を飲む。
「じゃ、とりあえず、もしも今日出動がかかったらライアンくん、君一人で出てもらえるかな」
「……っかりました」
「…君、」
「何ですか」
「君も顔色悪いよ。君はあまりこういうことに動じない性格だと思ってたんだけど」
「どーゆー意味ですかそりゃ。オレだって仕事のパートナーの心配ぐらいはしますって普通に」
「失礼。あ、でも君も顔出ししてるんだから、いくら心配でも今はバーナビーくんの家に様子見に行ったりしないでね。君まで狙撃されたら洒落にならないから」
「…りょーかい…」



* *


『グリフォンへ。返答は?』
『…わかった。あんたらの依頼を受ける』
『感謝する』
『依頼は受けるから、オレ以外の人間に危害を加えるな。誓え』
『『スカーレット』への警告は、我々のミスもあった。我々は『スカーレット』を負傷させる意図はなかった。ミスをした当人は処罰されたので安心してほしい』
『言い訳はいい。ただ誓え』
『我々は、このシュテルンビルトにおいて、貴君と貴君の周囲の安全を引き続き保証する』


***

幸いその日、ライアン&バーナビーに出動要請はかからなかった。
地獄のように退屈だったオフィスワークを終えて、アポロンメディアの社屋の真正面で、ライアンはタクシーを捕まえた。
「ゴールドステージの、ここのマンションまでヨロシク~」
あれっ、という顔をして振り向いた運転手に、バーナビーの住所を呼び出した携帯電話の画面をぐいと見せつけ、ライアンはすぐさま後部座席にふんぞり返る。
行くなと言われると、どうしても行きたくなるものだ。
しかも、バーナビーはもう安全なのである。
それを知っているのは、この世でたった二人───正確には二者と言うべきか───ライアン・ゴールドスミスと「彼ら」だけなのであるが。
「お客さん、ひょっとしてゴールデンライアン?」
初老の運転手の目は、子供のようにキラキラと期待に輝いている。
「おう、ひょっとしなくてもゴールデンライアンだ。短い時間だけどよろしく頼むぜミスター」
キラキラの目で運転手はイエッサーとほほえみ、すぐさま前を向いた。
やや性急なアクセルで車が動き出し、口の端を上げたまま、ライアンはその加速を軽くやり過ごす。
「ヒーロー乗せるなんてツイてるなぁ。なんかいいことありそうで嬉しくなっちゃうね」
「もちろんだ。ミスターは今日からゴールデンにツキっぱなしになること間違いなしよ?馬券は当たるし財布は拾うし行きつけの店のおねーちゃんは全員ミスターにメロメロさ、保証する」
「若いのにデキたこと言ってくれるねぇヒーロー、俺があんたにメロメロになりそうだ」
「いくらでもメロメロになってくれ。ミスターのそのパワーがオレを本物のヒーローにしてくれるのさ」
ははは、と心底楽しそうに運転手は笑う。
今までのヒーロー活動で、子供に群がられることはあっても、中年以降の人間に好意を示されることはあまりなかった。
この街には本当に「ヒーロー」が根付いているのだと、ライアンは実感する。
そこから先はひとしきり、さすらいの王子はどこをさすらってたのかだのシュテルンビルトの食事は口に合うかだのと運転手からの一方的な世間話が展開され、対マスコミ用の武勇伝ストックをライアンが三分の一ほど話し終えたところで、タクシーは静かに目的地のマンション前に止まった。
「ああ、残念だヒーロー。あんたの話の続き聞きたくってたまんねぇから、またいつでも乗ってくれ」
「サンキューミスター。この街でオレを全力で歓迎してくれたのはミスターが初めてだ。これから毎日帰る時はタクシー使うことにするぜ」
小銭を混ぜない多めのチップを、ライアンはポケットからつかみ出す。
マジシャンのようなしぐさでその紙きれを運転手に渡してみたのに、運転手はもう笑わなかった。

───あれ?チップ少なすぎた?

街ごとに違うチップの相場を読み違えたかと思ったが、運転手は紙幣を丁寧にしまい、なんとも複雑な柔和さを顔ににじませて、再度ライアンを振り向いてきた。
「あんたがタイガーを押し退けた、みたいなこと言ってるヤツもいるかもしれねぇけど、ニンゲン誰だって年は取らァな。若いモンに道譲んのも、ベテランの務めだよ。気にしないでくれヒーロー」

───ああ、そーゆーこと。

この街で「初めて」歓迎されたなんて言ったから、気遣われてしまったらしい。
運転手の気遣いはどこかヤブヘビ的でズレていたが、そのズレっぷりが彼をいっそう単純で善良に見せていた。
見えるだけでなく、中身まで本当に彼は単純で善良なのだろう。
車から降りたライアンに、運転手は窓からなおも告げる。
「ヒーロー、身体大事にな。若い時間は一瞬だからな」
いずれはライアンも、タイガーのように職を退くのだ。
この街じゃ、嫌な噂も耳に入るだろうがあんたは悪くない───似たようなセリフを会社のロッカールームで聞いたような気もするが、このミスターの善良さは、ライアンの胸を実にまっすぐに、混じりけなく温めた。
「ありがとうよ。ミスターも元気で」
温められすぎて、気の利いた「ヒーローのセリフ」も、すっかりどこかに吹き飛んでしまう。
遠ざかるタクシーのエンジン音は、じんわり泣けてきそうなほどに穏やかだった。




とにかく驚いた。
いきなり鳴ったインターホンに出ようとして、バーナビーは盛大につまづく。
リビングチェアのサイドテーブルに右手をかけたまま床に膝をつくと、右手から伝わった振動で、テーブルの上から、つかみ取れなかったモニターのリモコンやら写真立てに入った写真やらが、ガラガラとなだれ落ちる。
なおも鳴り続けるインターホンに心臓が縮み、バーナビーは這うようにして床のリモコンを拾い上げた。
ケータリングサービスの担当者はだいぶ前に帰ってしまったし、ネット通販を頼んだ覚えもない。
警察の事情聴取も今日の分は終わっているし、会社関係の人間は狙撃の巻き添えを避けるためにここには来させないとロイズが言っていた。

───それなら。

もしかしたら。
来てくれたのだろうか。
警察と会社とマンションの関係者以外でバーナビーの自宅の部屋番号を知っている人間は、今現在、この世にたったひとりしかいない。
その彼だって、ついこの間までは「会社関係者」だったのだけれども。
どうやって狙撃の件を知ったのかわからないが、もしかしたら、バーナビーを心配して、来てくれたのだろうか。
縮んだ心臓がさらに痛み、床から立ち上がる時間も惜しくて、バーナビーは膝をついたまま、あわただしくモニターに向かってリモコンの操作ボタンを押した。
「よお、ジュニアくん」
すぐに陽気な声が、広いリビングに響き渡る。
壁面のモニターいっぱいに広がった金髪とペールグリーンの瞳に、バーナビーの身体から力が抜ける。
「反応遅いぜ。このオレ様が何回鳴らしたと思ってんだ?さっさとドア開けてくれよなー」
立ち上がることも忘れてひざまずいたまま、呆然とバーナビーはモニターの中の彼を見つめた。