サムシング・スカーレット -1-



『ターゲットのそばには、ネメシスがいる。おろそかに扱うな』



***

───この、香りだ。

バーナビーは、指先に力を込めた。
指先に、じっとりとガラス瓶の硬さが染みる。
親指と人差し指でつまんだ、その極小の瓶の中から、かすかに甘くてかすかに苦い、忘れられない「彼」の匂いが、ふわりと鼻をくすぐってくる。
インターネットが発達している昨今、たいていのものは通信販売で買えてしまうが、「香り」はパソコンの画面上で映すことができない。従って、銘柄のわからない香水を探したければ、こうして街中のフレグランスショップに足を運ぶしかない。
まだ一軒目の店だ。
名前もわからない香水を、自分の記憶だけを頼りに探すのだから、店を何軒かはしごする覚悟もしていたというのに。
バーナビーの探していた「香り」は、比較的スタンダードなものだったようだ。
「落ち着いたシトラス系ですので、男性にとても人気の品ですよ。プレゼントとしてお買い求めのお客様も多くいらっしゃいます」
三十代になるかならないかといった年恰好の女性店員は、程良くにこやかだ。香水を買うなら贈答用なのか自分で使うのか、といった質問すらしてこない。そして何より「ヒーローであるバーナビー」を、まるきり普通の客として扱ってくれる。
もっとも、今のバーナビーは二部ヒーローとして活動しているので、マスコミへの露出は格段に減っている。世間の関心も薄れていて、バーナビーの顔を忘れた市民が増えていたとしても不思議ではない。
それでも、彼女の構えない態度が嬉しくて、バーナビーはすぐにその香水の購入を決めた。




この行為を他人に知られたら、十中八九は笑われるだろう。
心で自嘲しながら、バーナビーはベッドにもぐり込む。
横になって毛布を眼前まで引き上げると、風呂上がりに手首につけた「あの香り」が、ふわふわとベッド中に広がった。

───あの人が、そばにいるみたいだ。

毛布の中でバーナビーはうずくまる。
この香水は、虎徹が使っているのと同じものだ。
以前、一度だけ彼に抱きしめられた時、彼の耳元から、この匂いがしていた。
一度だけ抱きしめられて、一度だけ、キスされた。
前の晩に二人で飲んで、彼をこの家に泊まらせた翌朝の、別れ際だった。
触れるだけのキスではなかった。
彼の唇は、探るようにバーナビーの上唇を撫でて、そこを押し開いて、バーナビーの歯の根がカチカチと鳴っているのに気づくと、静かに離れていった。
何が起こったのかわからなくて、抱きしめ返すこともできなかった。
じゃあな、という声が聞こえたと思ったら、もう彼は玄関ドアの向こうに消えていた。
歯の根がしばらく合わなくて、突っ立っていることもできなくて、バーナビーは玄関口で数分もへたり込んだのだった。
あれ以来、虎徹はこの部屋に来なくなった。
それまでは、たびたび終電を逃すまで飲んで、泊まってくれていたのに。
そのくせ、虎徹の態度は変わらない。会社での会話もふるまいもまったく変わらないので、あのキスの理由を尋ねることができないまま、バーナビーは数ヶ月も過ごしている。
虎徹に対する自分のこの感情は、恋ではないのかと、自問したことはある。キスをされる、ずっと以前から。
だがその疑問はバーナビー自身にはとてもおぼろげで、どちらかといえばばかばかしいものだった。
それが確実に恋愛感情だったとしても、相手が仕事上のパートナーで、しかも男性である以上、バーナビーの感情が成就する確率は天文学的に低い。
天文学的にありえないことを気に病むのは時間とエネルギーの無駄だ。
だから、バーナビーはそれを考えないことにしていた。
だから、虎徹と二人きりで食事をするのも、互いの家を訪ね合うのも、同じ部屋で眠るのも、平気だった。
あんなに完璧に、自分で自分を騙せていたのに、自分を騙していることすら忘れていたのに。
キスをされたあの日から、バーナビーの世界はまっさかさまにひっくり返ってしまった。
自分を騙せても、虎徹を騙すことはできなかったのだろうか。
無自覚を装っていたバーナビーの本心は、バーナビーの知らないうちに、虎徹に伝わっていたのだろうか。
あのキスは、からかいだったのか。これ以上近づくなという、虎徹の捨て身の牽制だったのか。
それともまさか、虎徹もバーナビーと同じ感情を抱いてくれていたということなのだろうか。
どれだけ考えてもわからない。
いや違う。わかってしまうことが怖い。
理解したいと、自分の意識の奥底をたどるたびに、すくみ上がるような恐怖にぶつかってしまい、バーナビーの思考はそこから先へ進まない。
かろうじてバーナビーに理解できるのは、虎徹があのキスを「なかったこと」にしたがっている、ということだけだ。
関係の取り返しがつかなくなったとたんに、目の前が暗くなるような息苦しい感情が、バーナビーの心身を食いつぶした。
食いつぶされて耐えきれずに、とうとう、こんな香水ごっこにうつつをぬかしている。
明日も会社で虎徹と顔を合わせるが、起きぬけのシャワーで、この匂いはバーナビーの身体から洗い流される。虎徹が、バーナビーのこの女々しい香水ごっこに気づくことはないだろう。
ベッドの中で、バーナビーは自らの肩を抱く。
虎徹の香りの中で、肩を抱く腕に力を込めると、虎徹に抱きしめられているような気分になる。
泣いても無駄だ。
いや、涙さえ出ない。

───誰か、助けて。

吐息でつぶやいて、みじめさに、今度こそ喉が枯れ果てる。
毛布をかぶった闇の中で、丸めていた背中をさらに丸めて、バーナビーはその、痛みにそっくりな渇きを耐えた。


***

うさんくさい人間には慣れている。
ウッドチェアに寝転んで、ぺたぺたと指先で携帯電話の画面をはじき、ライアン・ゴールドスミスはアプリケーションを終了させた。
何度読んでも、あのメールの文面はうさんくさい。
あのシュテルンビルトの、なんたらメディアとかいう会社から来たアレだ。
メールを寄こした会社も、メールを書いた人間も、メールの中の仕事内容もうさんくさい。普段なら、五秒眺めて削除するレベルのものだ。
しかし。
慇懃に羅列されたうさんくさい単語の群れに、たったひとつだけ、ライアンの目を射るものがあった。

───コンビヒーロー…ねぇ。

なんたらメディア社所属の若手ヒーローが、相棒の引退を受けて、コンビを組む相手を欲しがっている、というのだ。
なんでも、その会社では長年、ヒーローをコンビで売り出しており、それが絶大な人気を得ているらしい。

───誰かサンの後釜なんて、まっぴらゴメンだぜ。メールの送り先間違えてんじゃねーの?

このオレ様にアトガマ埋めさせようなんて、ずいぶんイイ態度じゃねーか。
パンツのポケットに電話を押し込み、ウッドチェアの上で、ライアンは伸びをした。
心地良いサンルームの中とはいえ、まだ冬だ。爬虫類をここで散歩させるには少し気温が低い。ここは早めに部屋に戻って、オレの現在の「カワイイ相棒」をかまってやった方がいいような気もする。

───ま、オレの魅力と実力をもってすれば、誰と組もうが相手はみーんなオレの引き立て役になっちゃうわけだけど?

そこまで考えて、「コンビ」の単語に過剰反応している自分に気づき、口元からふと苦笑いが漏れた。
自分で自分を騙すのは好きじゃない。
腹が立っても、いや、腹が立つほどキョーミがあるのなら、ちゃんとぶち当たってみればいいのだ。

───会ってやるぐらいは、してやるか。

あのうさんくさいメールの中に、近いうちに交渉人を寄こすという記載があった。こちらの返信も待たずに直談判を匂わせているのも、なかなかイイ態度だ。
うさんくさくても、契約と条件さえきっちりしていてくれれば、文句はない。だいたい、ヒーローなんていう職業そのものが、かなりうさんくさいのだ。
そして、うさんくさい仕事も、やり通せば一周回ってステイタスになる。誰も手をつけそうにないほどうさんくさければ、何周も回って、もっとステイタスになる。
物事は、徹底させることが大切なのだ。
よっこらしょ、とライアンはウッドチェアから足を下ろした。
膝を折って、ゆるみきったブーツのひもを乱雑に結ぶ。
陽光でほのかに暖められた地面には、まだ芝生さえ生えていない。
能力を発動する時と同じ姿勢でひもを結び直し、ライアンはゆっくりと立ち上がった。


───オレの力をもってすれば。

世界中の人間が、オレの足元にひざまずく。
それを不可能だと笑うヤツはどこにでもいる。
だがそれでいい。
不可能であることと、不可能を信じることは別物だ。
不可能を信じきる、それができるヤツこそが、ヒーローなんだから。



* *



『これから我々は、貴君をグリフォンと呼ぶ。
他のヒーローや、所属会社の人員のコードネームは、追って知らせる。
我々は、貴君に依頼する。
ターゲットを、跡形もなく蟹のエサにしてほしい。
報酬は、可能な限り貴君の要望に従う。
ターゲットのそばには、ネメシスがいる。忘れるな。
なお、このメールは閲覧後六十秒で自動的に削除される』



***

「お先に失礼します」
「ああ。また明日」
オーナールームを出る前に、バーナビーはシュナイダーと、彼の執務デスクのそばに立つ虎徹に声をかけた。
部屋から数歩踏み出すと、バーナビーの背後で静かにドアが閉まった。
嬉しくて、まだ少し胸が痛い。
一部リーグに復帰させてもらえることも嬉しかったが、何よりも、虎徹の喜ぶ顔を見られたことが、本当に嬉しかった。
重苦しい色味のフィルムをするりと剥がしていくように、彼の頬までが上気していく、あんな彼の表情を見られたのは何ヶ月ぶりだろう。
出動後の帰宅途中に、いきなりシュナイダーに呼びつけられた時は何事かと思ったが、新オーナーであるシュナイダーは、想像していたよりもずっと気さくな人物だった。部下に対する横柄な態度が少し気になるが、自らの才覚ひとつで成り上がってきた人物ならば、いたしかたない側面だろう。こうして、採算の合わない二部ヒーローにまでチャンスを与えてくれるのだから、芯まで冷酷なビジネスマンではないのかもしれない。それに、彼は過剰に演出された経歴を持つバーナビーにこだわらず、実績ある年長者として、虎徹を丁重に扱ってくれている。ヒーローのなんたるかをわかってくれている彼なら、事業部をむやみに切り捨てることもないだろう。
すべては、これからの、タイガー&バーナビーの頑張りにかかっている。
これが、突破口になると思った。

───僕の推測が正解だったとしても、間違っていたとしても。

これを、突破口にする。
社屋の玄関ロビーを早足で歩きながら、バーナビーは高ぶる感情を懸命にこらえた。
一部にもう一度上がりたいという願望を、虎徹は今まで、決して口にしなかった。
「俺だって上がりたい」と言って欲しくて、バーナビーは何度も虎徹の前で一部への羨望を口にしてみたが、虎徹がそれに乗ってくることは一度もなかった。
あきらめてほしくなかった。
二部リーグにいる限り、コンビである限り、虎徹はバーナビーに気兼ねし続ける。
能力の減退など、コンビでいれば工夫次第でなんとでもなると思ってはいても、日々の出動で失敗を積み重ねれば、不安も焦りもそれなりに積み重なってしまう。
バーナビーへの気兼ねを、虎徹は巧妙に隠していた。
体力の衰え。
能力の衰え。
バーナビーが虎徹よりずっと若いことも、虎徹がヒーローとしては限界の年齢に近づいていることも、誰のせいでもない。誰も、何も悪くない。
そんな中で、どうしても透けて見えてしまう虎徹の本音と哀しみを、バーナビーは彼に指摘することができなかった。
指摘すれば、虎徹がすべてを受け入れて、ヒーローであることをあきらめてしまうような気がした。
そんな人ではないとわかっているのに、バーナビーの不安は、バーナビーを臆病にした。
だが一部に上がれれば、虎徹の引け目もある程度は払拭されるだろう。
いつまで一部でやれるのかという不安は残るが、あの虎徹のことだから、当面は、あてどない心配を腹に抱えたりはしないだろう。
何より、バーナビーが隣にいれば、虎徹のどんなミスもフォローしてやれる。コンビとして実績を上げ続ければ、虎徹の精神面も待遇面も、十分に改善できる。
たとえプライベートで彼との関係が悪化しても、ヒーローとしてなら、彼の隣に立っていられる。彼も、バーナビーの隣に立っていてくれるはずだ。
虎徹の諸々の引け目が、ほんの少しでも虎徹の本当の感情を邪魔していたのなら、そこを突破するチャンスは、今なのだ。

───僕の推測は、間違いでいい。

僕に対する引け目のせいで、虎徹さんが僕への感情をあきらめたのだとしても、そうでなかったとしても、もうどちらでもいいのだ。
僕も虎徹さんも、本当に望むヒーローの形に、やっと戻れるのだから。

だから、今度こそ。
今度こそ、あのキスの理由を、あの人に尋ねようと思っていたのに。




ステージ最前列の、閃光の中から現れたのは、ワイルドタイガーではなかった。
せり上がったステージ最奥の壇上で、バーナビーは息を飲んだ。
何が起こっているのかわからなかった。
これは、コンビの再結成イベントじゃなかったのか。
今の今まで、舞台下で控えていた虎徹さんはどこへ行ったのか。
この、ギラギラ光る翼を背負ったヒーロースーツの中には、どんな顔をしたどんな人間がおさまっているのか。
「なんだぁ、その顔は?せっかくオレ様が出てきてやったのに」
バーナビーの心を写すように、不穏にざわめく報道陣に向かって、聞いたことのない声が投げられる。
これは誰だ。
これは何だ。
僕は、タイガー&バーナビーのバーナビーだ。
アナウンサーは、いったい何を言っている?
誰と、バーナビーがコンビだって?
聞こえない。
聞こえない。
何を言っているのかわからない。
下品に光るヒーロースーツの姿勢が、ふと低くなった。ライティングの角度が変わり、金の翼が真っ白に瞬いて、バーナビーの目を容赦なく刺す。
薄紫色ににじんだ視界を痛いと感じた、その一瞬。
内臓までも揺るぎそうな振動が、その場を凍らせた。
ステージから遠くに見えていた豪奢なシャンパンタワーが、紙屑のようにひしゃげて、消える。
床に吸いつけられるように、いっせいに人が、その場で倒れ込む。
これは。
地震?
事故?
趣味の悪い、何かの演出?
石化したように、バーナビーの身体は動かなかった。

───アナウンサーは、いったい何を言っている?




「僕を、騙したんですね!!」
バーナビーが小走りに追いすがっても、シュナイダーは振り向かない。
パーティにもならなかったパーティの後、やっとこの廊下でつかまえたのに。
その細い肩をつかんで引きずり回したい怒りに駆られて、バーナビーが息を継いだ時、真横からけだるそうな声が降ってきた。
「なーにダダこねてんだよ。こっちはイージー、悪い話じゃねーだろ?」
これがあの金ピカスーツの中身らしいが、邪魔なことこのうえない。
何なのだろう、この縦にも横にもカサ高い、上から下まで金ピカの若造は。
「あなたは黙っててください!」
怒鳴りつけても、カサ高い若造は眉を上げてニヤつくだけだ。
カッと頭に血が上るが、今はこいつにかまっている場合じゃない。
「待って!待ってください!!」
金ピカを押しのけてシュナイダーを追おうとすると、今度は別の角度から低い声が降ってきた。
「…もうそのへんにしとけ?」
虎徹だった。
こんな廊下で虎徹が待ち構えていて、虎徹がこんなに落ち着いているということは。
「あれ、あんたが噂のアライグマ?」
金ピカが大きな図体をねじって、壁際に立つ虎徹をのぞき込む。
金ピカはもう虎徹のことを知っていて、虎徹ももう金ピカのことを知っていて。

───知らなかったのは、僕だけか。

シュナイダーに対するのとはまた別の怒りが、いっそうバーナビーの頬を熱くする。
視界を阻む金ピカの腕をつかみ、バーナビーは突き飛ばす勢いで、その若造を視界の外へ追い出した。
追い出して、虎徹に噛みつく。
「…あなたは…知っていたんですね?だったら、どうして僕に…!」
噛みついて、言葉が決壊する寸前で、息を止める。
今日までこれを黙っていることが、虎徹サイドの契約内容だったのかもしれない。
そんな手の込んだ契約内容じゃなかったとしても、虎徹が虎徹の意志でこれを黙っていたのだとしても、今日ここに来た虎徹の心が、無傷であるわけがない。
でも。
でも。
どうして怒らないんですか。
あなたと一緒に一部リーグに戻れると思って僕が浮かれていたこの数日間、あなたは怒りも何もすっかり受け止めて噛み砕いて、あきらめてしまったということですか?
僕は、あなたの怒りを受け止める価値も度量もない人間だと、あなたに思われているんですか?
僕は、あなたにとって、たったそれだけの、取るに足りない存在なんですか?
言えない山ほどの言葉が熱のかたまりになって、バーナビーの喉元と目元で煮える。
虎徹が、吐息と一緒に肩をすくめた。
その身じろぎがあまりにもはかなげで、衣擦れの音と一緒に虎徹が消えてしまいそうで、バーナビーはとっさに手を伸ばした。
腕組みをしていた虎徹の右手首を握り取り、胸元に引き寄せる。
人に慣れない猛獣のように、虎徹の腕が瞬間、震えた。
怯えられたのが悲しくて、バーナビーは歯を食いしばる。
手首をつかまれたまま、虎徹はバーナビーにではなく、バーナビーの背後の金ピカに話しかけた。
「悪かったな。ライアン…だっけ?今ちょっとだけ、相棒貸してくれないか?」

───誰が、誰の相棒だって?

本当に、この人は何を言っているのか。
僕はまだ何も納得していない。僕の相棒はあなたで、あなたの相棒は僕だ。
「虎徹さん!」
やっと出た声は、息でかすれてひっくり返った。
「…ああ、どーぞ。ごゆっくり~」
ライアンと呼ばれた金ピカが、小憎らしい態度で虎徹を見下ろしている。
腹立たしいそいつに気を取られた隙に、虎徹はバーナビーの腕を振りほどき、逆にバーナビーの手首を握り返してきた。
「バニー」
そのまま腕を引かれ、出口へと虎徹に連行される。
最初の数歩によろめきながら、虎徹の指がひどく冷たいことに気づき、バーナビーの感情はもう一度、わけもわからず煮えたぎった。


***

「よぉ、お疲れさーん?」
声をかけても、真っ黒なアンダースーツ姿のままうなだれるバーナビー・ブルックス・ジュニアは、顔も上げない。
ふうう、と聞こえよがしにライアンはため息をついた。
マッタクもう、あんたオレより年上なんだろいつまでもグダグダしてんじゃねーめんどくせー、というニュアンスをめいっぱい込めたこのため息は聞こえただろうに、バーナビーはロッカーそばの休憩ベンチにぐったりと座り込んだまま、顔を上げない。
パーティ直後のいきなりの初出動で、バーナビーがオーナーにグダグダと文句を並べるヒマも吹き飛び、アメジストタワーの危機を救ったライアン&バーナビーの名前は、なかなかセンセーショナルにイイ感じで、シュテルンビルト中に放送された。
コンビの相手が違うと怒り狂っていたこの男が、ヒーロースーツを着てチェイサーに乗り込んできだ時は少し驚いた。あの怒りっぷりを見るに、出動なんぞボイコットするんじゃないかと思っていたのだ。
あのおっさんに何をどう説教されたのか知らないが、アライグマのジュニアくん説得能力はハンパない。
そして仏頂面こそ直らなかったものの、このバーナビーは、能力発動をけしかけたライアンの意図を瞬時に理解し、重力場の外へと跳び出していった。救助がすんだ後も黙ってライアンの隣に並び、テレビカメラの前でポーズをキメていた。全然空気が読めないわけでもなく、文句言いながらもちゃんとお仕事はできる、デキたジュニアくんなのだ。
「ハンドレッドパワーっての、すげーなぁ。オレの重力場の中で立ち上がれたヤツ、初めて見たぜ」
褒めてやっても、座り込んだ彼は微動だにしない。

───わりと本気で言ってやってんだけどなぁ。

オレはお世辞は言わない主義だ。
このオレの賛辞ってものがどれだけ貴重か、このジュニアくんはちっともわかっていない。頭はいいが、ボケナスの類だ。
ファスナーを下ろし、ライアンはアンダースーツを脱ぎ始める。
右袖から腕を抜くと、肘関節の内側がひりひりした。
「あてて。あんたにさっきつかまれたとこ、痕になってら」
これでオレを無視するようなら、こいつは本当のボケナスだ。
ライアンは座ったままのバーナビーを見やった。
予想通り、うつむくバーナビーの前髪がひくりと揺れて、髪の間から、どんより濁ったグリーンアイズが覗いた。
「………すみませんでした」
つぶやいて、グリーンアイズはまた床に視線を落とす。
「あなたが悪くないのはわかっています。でも、僕はまだ納得したわけじゃない」
「ナニを納得してねぇの?自分がうっかり、コンビ取り換え契約書にサインしちゃったことかぁ?」
言ってやったとたんに、グリーンアイズの様相が変わる。
重力の言うこと何でも聞きますよと言いたげに垂れていたバーナビーの頭が、わかりやすく獰猛に、グイと持ち上がった。

───あれ?

さっきから、オレはこいつを怒らせてばかりいる。
一回目はオレのせいじゃなかったが、今のは、オレのせいだ。
オレが、こいつを怒らせようと思って怒らせた。
ジュニアスクールで、クラス一の美人に、ちょっかいかけるみたいに。
頭に血が上りすぎたのか、グリーンアイズの目の縁は、うっすらピンクに染まっていいる。
その刺すような目つきに、一瞬だけ、ぞくりとする。

───あれ。あれれ。

オレの好みは───アタマ良くてビシッとキメられるとこはキメてちょっとシャイでウェスト細めで太モモむっちりでバストはそれほどなくてもよくて───ってジュニアくんわりとまんまじゃねーか。
これは、こいつの股ぐらにナニカ付いてなきゃ即お持ち帰り物件だったってことか。

───いや、なんか。

この際、多少ボケナスでも股ぐらにナンカ付いてても別にいいとか今思わなかったか、オレ?
自分で自分を騙すのは好きじゃない。
だが、このぞくりとする熱苦しい悪寒?の原因を正確に分析するのは、少し骨が折れそうだ。
分析の覚悟をつけるためにももう少し見つめ合っていたかったのに、バーナビーは怒りで真っ赤になった顔を、ふいとライアンから逸らした。あんまり勢いよく逸らしたせいで、わずかにアッシュがかった金髪が、はらりと形を崩す。
バーナビーのアンダースーツの肩も、小刻みに震えている。痛いところを指摘されて、よほど腹が立ったのか。
彼に拒絶されればされるほど、ライアンの熱苦しい悪寒は、ライアンの身体の中で体積を増す。
コギレイな男なら、ヒーロー業を始めてからコンチネンタルで山ほど見てきた。しかし、同業者にここまでシャットアウトされたのは初めてだ。たいていのヒーローは、ライアンに気圧されたり、ライアンと張り合ったり、負けを認めてライアンに賛辞を送ったりしてきた。
それがこのバーナビーは、どれにも当てはまらない。彼はライアンを視界にとどめることすらしていない。

───初めて重力場突破されて、初めてガン無視くらって。

これは、燃える。
俄然燃える。
多少ボケナスでも股ぐらにナンカ付いてても、こいつは。このバーナビーは。
「ま、明日からよろしく頼むぜ、ジュニアくん?」
ばん、と景気よくロッカーの扉を閉めて、ブーツを履くためにライアンも休憩ベンチに腰掛ける。もちろんバーナビーとは、人ひとり分の距離も取らずに。
腰掛けて、グダグダになっていた靴ひもをピンと引っ張り上げると、相変わらずそっぽをむいていたバーナビーが、がばりと立ち上がった。
同じベンチに一緒に尻を預けることすら腹が立つ、といった風情だ。
「さっきも言っただろう!その呼び方はやめろ!」
ぎろりともう一度振り向いてくれた瞳は、どこまでも冷たくて、どこまでもキュートだった。



* *



『グリフォンへ。依頼した件の返答を願う』
『オレ、あんたらのこと通報しちゃうかもしんないよ?』
『当局の中枢にも我々の同志は存在する。貴君の行動は入国直後から監視されている』
『怖ぇなーもう。返事考える時間もないっての?』
『ではジャスティスデー当日、19:00まで待つ』
『それまでにオレが返事しなかったら?』
『我々は、貴君の安全を保証できなくなる』
『どっちにしろ怖ぇなー』
『もうひとつ。『スカーレット』とは距離を取った方がいい』
『距離も何も、仕事中以外はオレ、ガン無視されてるけど?あいつはまだ『グリーン』のことばっか考えてるぜ?』
『そのぐらいでいい。どのヒーローとも、近づきすぎるのは危険だ』
『あーそれは大丈夫。どいつもこいつも、『グリーン』のことばっか考えてやがるからさ。それにしても、『グリーン』ってな、どんなおっさんなわけ?時代遅れのロートルじゃねーのかよ?』
『我々がその質問に答える義務はない』
『ケチだなーもう!』


***

笑えない。
「バーナビーさん、もう少し笑ってもらえますか」
さっきからもう、何度このセリフを浴びせられたことだろう。
唇がもう、筋肉痛になりそうだ。
丸く虚ろに黒光りするカメラのレンズに向けて、バーナビーはもう一度口角を上げた。
パラソルのような反射板を備え付けた撮影用のライトで、複数の方向から照らされ続けていると、じきにその熱で顔が痛痒くなってくる。
一年ちょっと前までは、こんなグラビア撮影などごくあたりまえのことだった。熱いだのカユイだの、考える間もなかった。
虎徹と一緒に撮影に呼ばれたのに、バーナビーのみの撮影時間が彼の数倍だったこともあった。それでもコンビとして撮ってもらえることが嬉しくて、楽しくて、どんなに疲れていても、バーナビーはカメラの前で笑顔を忘れたことはなかった。
それなのに、今は。
「おぉーい、どしたぁ?コってんのはここかー?」
背後から伸びてきた手に両頬をぐりぐりと揉みしだかれて、バーナビーは飛び上がる。
「ひゃにふるんれすかっっ!はらしてくらさいっ!!」
「ちっがーう。カメラマンも言ってんだろ、ここは笑うトコ」
虎徹とは似ても似つかぬ男に、なんでこんなところで頬肉を撫で回されなければならないのか。
顔の上の手のひらをひき剥がしたくてその手首をつかむと、小さな硬い金属の感触が、ごろりとバーナビーの指を刺した。
「ちょっとそこカフス!痛いって!」
本当に痛みなど感じているのだろうかと思うくらいに陽気な声で、ライアンが腕を振り回す。
袖のカフスボタンごと、彼の腕を握り込んでしまったらしい。
見かけよりもずっと太く精悍なライアンの手首を、放り投げるように解放してやると、彼はまたあの嫌な感じの笑顔で、ことさらおおげさに自分の腕を撫でている。
「おー、痛ってぇ。痕がつきそうだわコレ。どうせ痕つけんなら、キスマークにしてくんね?」
そして一番嫌なタイプの冗談を、スタジオの隅々にまで響くような大声で飛ばしてくる。
腹立ちを通り越して額が冷たくなるような不快感を耐えて、バーナビーはライアンの顔を見上げた。
この男は大きい。
並んで立っているのに、少し見上げなければ視線が合わない。
視線など合わせたくもないが、彼に不快感を確実に表明するには、彼の目を見上げなければならない。
いまいましい彼の目は、限りなく金色に近いペールグリーンだ。同じ白人なのに、彼は目も肌も髪も、非常に色素が薄い。こうしてスポットライトに照らされていると、彼の髪も肌も、強い光に端から溶け散ってしまいそうだ。
「何?オレそんなにキレイ?いーよ、もっと見つめてくれ」
バーナビーの額がまた冷たくなる。
言い返す気力さえ失くしてカメラに向き直ると、カメラマンは絶望したようにファインダーから顔を離して、言った。
「バーナビーさん、もう少し笑ってもらえますか」




無様だ。
控室のソファに背中を預けられるだけ預け、喉を反らしてバーナビーは宙を見つめる。
ライアン&バーナビーの、初めてのグラビア撮影は、さんざんなものになった。
疲れ果てた唇を、バーナビーはまた歪める。
さんざんだった原因が、主に自分であることはわかっている。
ちゃんと笑顔でいたつもりなのに、何度も何度もカメラマンに笑えと注意され、何度もライアンにからかわれて。

───いや、違う。

からかわれていたんじゃない。
バーナビーにはどうにも受け入れがたい軽薄なジョークの連続だったが、ライアンは真面目に仕事をこなそうとしていた。
ジョークの方向性がバーナビーには合わないだけで、彼はバーナビーをフォローしようとしてくれていた。なんとか笑わせようとしてくれていたのだ。
この情けない感覚には覚えがある。

───いつも勝手に家まで押しかけてきて、勝手に食事を作ってくれて、うっとうしく脳天気にそばにいてくれて。

いつもその時のバーナビーにはわからなかった。
後になって、あれはあの人の精いっぱいの気遣いだったのだと、やっと理解できた。
あの人の気遣いがあったから、だから、今こうして、腹立たしいとしか思えなかったライアンの真面目さに気づくことができている。

───虎徹さん。

会いたい。
会って話したい。
この情けなさも、この自己嫌悪も、このもどかしさも、全部。
話しても呆れられるだけかもしれないけれど、伝えなければ、何もわかってもらえない。

───あなたに会わなければ、僕は、人間の本当の感情というものを理解できなかっただろう。

理解できないまま、「人」に限りなく似た人形のように、人間を装って、装っていることにすら気づかずに、「人」のふりをしてけろりと生きていただろう。
ソファの上で喉を反らしたまま、バーナビーは目を閉じた。
控室の奥から、水音が聞こえ続けている。
ライアンがシャワーを浴びているのだ。バーナビーのせいで撮影が長引き、ライトに照らされ続けた二人はひどく汗をかいた。
控室に戻るなりライアンはドレスシャツを脱ぎ捨て、シャワールームに入って行った。「一緒に浴びねぇ?」という冗談と、ニヤニヤ笑顔も忘れずに振りまいて。
バーナビーは目を開けた。
ソファの前のローテーブルには、ライアンのカフスやら、バングルやらのアクセサリーが散乱している。こんな乱暴な扱いをして、よく失くさないものだと思う。
いや、乱暴なように見えるけれど、実は彼なりに保管の工夫をしているのかもしれない。
出動中のライアンの機転を思い出しながら、バーナビーはテーブルの上のアクセサリーを、ひとつひとつ並べ直した。カフスは二つひと組でくっつけて。散らばったバングルも、腕を通しやすいようにひとところにまとめて。
ライアンは腕時計をしない主義なのだろうか。ふと、意外に凝った造りだった虎徹の腕時計を思い出す。
何を考えていても、結局は「虎徹」に戻ってしまう。
お互い別の道を進んだ方がいいと一方的に諭され、しっかりやって来い、とライアン&バーナビーの初出動に送り出されたあの日から、バーナビーは虎徹と連絡を取っていなかった。
話はまだ全然終わっていなかったのに。
あの時の虎徹は、口元でしか笑っていなかった。
出動中に負ったケガの痛みを隠している時と、同じ顔だった。
虎徹の嘘は、まず口元に出る。小さく口を尖らせたり、口角の片方だけが下がったり、まず唇が不自然に動く。
そのことを、バーナビーは虎徹に指摘したことはない。指摘すると、もっと故意に嘘を上塗りされそうな気がしたからだ。
能力が減退を始めた時も、虎徹は本当に巧妙にそれを隠していた。その時のバーナビーは、彼の唇の法則を見破れなかった。
もう二度と、虎徹の一大事を見過ごしたくなかった。
別の道を行くなんて、二部ヒーローのままでもかまわないなんて、あれが全部、虎徹の本音なわけがない。
相棒以上の感情でまとわりついてくるバーナビーがうっとうしかったのだとしても、そんなことが、虎徹のヒーロー観の根本にに影響するわけがない。
だが、そう信じていたいと思えば思うほど、今の虎徹に何を話せばいいのか、バーナビーにはわからなくなってくる。

───ヒーローでありたいと思う心を、あの人が失っていないのなら。

それなら、こんな状態で虎徹がバーナビーと話し合うのは、虎徹にとっては苦痛でしかないのではないか。
今のバーナビーが二部ヒーローに戻れないように、今の虎徹も自分の意志だけでは一部に戻れない。
そんな状態で何を話しても、いい方向には転がらないような気がする。
ヒーローうんぬんに関係ない、人間としての感情を、バーナビーが虎徹に伝えても、納得できる返事は返ってこないような気がする。

───それなら、いっそこのままで?

今なら、まだ誰も深手を負っていない。
あの虎徹のキスも、なかったことになっている。
これ以上、今の虎徹を悩ませてはいけないのも、ある意味真実だ。
このままバーナビーも黙っていれば、虎徹の傷も、バーナビーの傷も、ほんのかすり傷ですむだろう。
不穏に濁る感情が、バーナビーの胸をじっとりと塞ぎ始める。
前に進むことは、このかすり傷を大きく広げることと、ほぼ同義だ。
傷つけたくない。傷つきたくない。
どうにも動けない。
「おい、具合悪いのか?」
どさ、と隣りにいきなりの振動が降る。
いつの間にシャワーから出てきたのか、バスタオルだけを身に着けたライアンが隣りに座り込んでいた。
ペールグリーンの目が、けげんそうに細められている。
はじかれたように、バーナビーはソファに預けきっていた背中を起こした。
「…なんでもないです!おどかさないでください」
「べっつにおどかしてねーよ。気分悪いなら横になったら?オレしか見てねーし」
「大丈夫です」
「ホントにぃ?」
「ホントです」
ライアンの剥き出しの肩が、バーナビーのドレスシャツの肩に触れて、そこがかすかに湿ってくるのを感じる。
自分の身体くらいちゃんと拭いておいてほしい。
どうしてこの男はいちいちこんなに身体を近づけてくるのだろう。
肩をすくめて避けたいところだが、とっさにバーナビーはその動作をこらえた。
今のバーナビーに、この男をおとしめる資格はない。
この男の気遣いがバーナビーの要望にまったく沿っていなくても、だ。
今回の撮影が長引いたのは明らかにバーナビーの過失なのに、それを一言も口にせず、ライアンは真からバーナビーを気遣ってくれている。
彼も、この場で深刻ぶるのが嫌で、ふざけているふりをしているだけなのだ。

───昔の、虎徹さんみたいに。

喉の底にまで詰まる寂しさが、またバーナビーの唇を硬直させる。
「ホントに頼むぜ、ジュニアくん?」
声が近づいて、急に目の前がチカチカして、まぶしさに目を閉じると。
硬直していた唇が、強制的に濡らされた。
濡らされて。
温かく塞がれて。
悲鳴を漏らす余裕すら、根こそぎ奪われる。
やっと目を開けると、ライアンの伏せられたまつげが間近に迫っていた。
迫っているそれは糸のように白く光りながら、バーナビーの視線の数センチ先で、ぴくりと一度だけ震えた。

彼に、キスされている。

ようやく認識して、真っ白になった思考の中で、バーナビーは反射的に右手を振り上げた。




「…君らしくないね」
静かなロイズの声が、バーナビーの耳を刺す。
「……いや。とても君らしいと言うべきかな?」
ロイズの執務デスクの前で、バーナビーはロイズに困り眉で見上げられている。
「明日も君たちには撮影の仕事が入っているんだよ。顔の目立つ所に傷があったらどんなに困るか、君がわかっていないわけはないでしょ?」
小一時間前、グラビア撮影の控室でバーナビーはライアンを殴った。
ついさっきまではライアンもこの部屋に呼ばれていたが、ロイズは頬を腫らしたライアンの状況説明と言い分をひと通り聞くと、すぐに彼を放免してしまった。
「どんなに不本意でもね。ライアンくんは、君のパートナーなんだから。冗談くらい軽く流さないと」
あの立派なセクハラを、冗談と言うのか。
確かにライアンのあの説明では、冗談にしか聞こえないのだろうが。
胸のむかつきを、バーナビーはかろうじて耐える。
「ビジネスなんだから。わかってるでしょ?」
きついながらも、ロイズの口調には、バーナビーへの同情もかすかに混じっている。
あの卑怯で気まぐれな新しいオーナーの機嫌を取るのは、並大抵のことではないのだろう。
人心を無視したオーナーの策略にしてやられたのは、ロイズもバーナビーも同じなのだ。
「……すみませんでした。以後気をつけます」
とてもロイズに反論する気になれず、バーナビーは静かに頭を下げた。
この場からハンドレッドパワーを使って飛び去りたい気分でロイズの執務室から出ると、聞くに不愉快な声が至近距離から降ってきた。
「終わった?ジュニアくん」

───何なんだ。

せっかく今から頭を冷やそうと思っていたのに。
やっとのことで鎮火した怒りが、またバーナビーの下腹で燃え上がる。

───嫌いだ。

僕はこの、ライアン・ゴールドスミスが嫌いだ。
僕に大切な相棒がいると知っていても、僕がビジネスに徹しきれずにこの男をないがしろにしても、僕に愛想を尽かさずにいつもニヤニヤ笑っているこの男が嫌いだ。
ニヤニヤ笑いながら、冗談も本気も境目のないわけのわからなさで僕を気遣うこの男が嫌いだ。
わけがわからないから。
僕はどうしていいかわからないから。
どうしていいかわからないこの気分に覚えがあるから。
だから嫌いだ。
「…医務室に行ったんじゃなかったんですか」
「場所がわかんねーのよ。案内してくれる?」
見えすいた依頼に、バーナビーの下腹は怒りで燃えちぎれそうになるが、ライアンの頬は赤く変色し始めている。
それを間近で目に留めて、バーナビーは懸命に罵倒の言葉をこらえた。




キスしてカオに一発。
医務室のベッドに、ライアンはどっかりと寝転がる。
バーナビーに殴られた頬は熱を増してきていたが、社内専任のドクターに冷湿布を貼られて、かなり気持ちがいい。
頭も痛いからしばらくここのベッドで休憩させろとドクターに迫ると、あっさり許可が下りた。
もちろん、バーナビーも一緒だ。
できれば添い寝をお願いしたいが、ドクターの手前もあることだし、ベッドそばに付いていてもらうくらいで勘弁してやることにする。
イヤとは言わせないし、この状況で彼がイヤと言えるわけもない。
卑怯すぎるのはわかっているし、バーナビーの怒りの炎に油を注ぐことになるのもわかっているが、どうしてもバーナビーともう少し、話したかった。
いや、話すべきだった。

────いっきなりグーパンだもんなぁ。あークソ真面目って怖ぇ。

女性と子供に絶大な人気を誇っているらしい元KOH・バーナビーブルックスジュニアは、まだパパとママのキスしか知らないのかもしれない。
意外すぎてぐうの音も出ないというか、それはそれでアリのような気もするというか。
顔出しヒーローの不自由さは多々あれど、金と美貌にまったく不自由していない彼が、今まで男遊びも女遊びもしたことがないとはとても信じがたい。
が、キスに対する彼のあの反応は、「過剰」の一言に尽きた。
ベッドに寝転がりながら、ライアンはベッド脇のスツールに座っているバーナビーの手首を握った。
びくり、とバーナビーの全身が震えて止まる。
この世の終わりのような顔をして、バーナビーは自分の腿をつかみ止めていた。力の抜けていない彼のその手首を握って持ち上げるのは、少し骨が折れた。
骨が折れたが、ライアンの手の中に収まったそれは無抵抗だ。
無抵抗な手のひらに、ライアンはさらに指を絡ませる。
「なあ。あんたさ、オンナいるの?」
指で指を割って、いわゆるコイビト繋ぎにしてやると、バーナビーの全身がまた震えた。
「……どうして。そんな質問に答えなきゃいけないんですか」
指を捕らえられたままうつむいて、でもライアンとは目を合わせずに、バーナビーは必死で感情を抑えている。
「あんたにステディ居んなら、悪かったなって思ってさ。で、どうなのよ?居んの?」
「居ません」
うつむいたまま、プイとバーナビーは横を向く。
そのしぐさに、ライアンの中の何かが溶解した。
溶けたのは、脳か、肺か、心臓か。
寝転がっているのに、目が回る。

───はァ。文字通りの、悩殺ってか。

脳から殺されたライアンは、のたうち回る代わりに、しかたなく、残った片手で頬の上の冷湿布をさする。
さすっても、どろどろと脳内で溶けてゆく理性や理屈は、沸騰したハチミツになって、甘くて不快な感触でライアンの頭蓋にあふれ、止めようがない。
「じゃ、キスしたのオレで何人目?」
あえて、寝たのは何人目とは訊かないでおいてやる。
今のジュニアくんにとって、その質問はたぶん過激すぎる。
ハチミツ漬けの脳ミソでも、まだそのぐらいの分別は忘れてはいけない。
「だから、なんでそんな質問に答えなきゃならない?」
彼の敬語が消えた。
またもやジュニアくんは本気で怒り始めている。
プイと横を向いたままで、凶悪に可愛く目を伏せて。
ライアンの脳も肺も心臓も分別も、もう溶けてどろどろだ。
握り返してこないバーナビーの指を割り、ライアンはさらにきつい恋人繋ぎで彼の手を拘束した。
「オレは、あんたが好きだからさ。気になるのよそういうこと」
どろどろの脳のまま言い放ってやると、手のひらを拘束されたまま、バーナビーがやっぱり震えた。
短い間をおいて。
そっぽを向いた唇から、小さな声が漏れる。
「…僕は…男ですよ…」
バーナビーの敬語が戻った。
動揺してくれている。しかも良い方向に。
これはまさか、ひょっとして。
「見りゃわかるって」
ひょっとして、いけるかも。
拒絶より先に動揺が来るということは、まだバーナビーの感情に、ライアンが割り込める余地があるということだ。

───可能も不可能も、信じきれ。

そうやっていつもやってきた。オレは。
バーナビーの手を離さずに、ライアンはベッドから半身を起こした。
頬の湿布をさすっていたもう片手も伸ばして、既に捕まえていたバーナビーの手のひらを、両手でがっちり捕獲する。
「別に、嘘でもいいんだぜ?あんたの経験人数がゼロ人でも百人でも、オレは信じるから。あ、でも数は少なけりゃ少ないほど嬉しいかなぁ。ファーストキッスの相手がオレなら、オレあんたのこと一生大事にするからさ」
「…バカじゃないんですか」
「そう?」
そして、願わくばあんたの初めてを全部、オレにくれ。
「で。オレは、何人目?」
バーナビーの手は冷たい。
動揺しているせいだろうか。
動揺して困ってくれるのは嬉しいが、彼を困らせすぎると、この突破口は台無しになる。
「なぁ。教えて?」
両手で包んだバーナビーの手を、ライアンは口元に引き寄せた。
バーナビーがやっと、こちらを向く。
全身で彼は怯えている。
こらえようとしてもこらえきれずに、怯えている。

───観念しろ。

観念して答えないと、今度はこの手にキスするぞジュニアくん?
キスどころか指先から食べてしまいたいと思いながら、ライアンはバーナビーのグリーンアイズを見つめ続けた。
さっきよりもずっとずっと長い間をおいて、ようやくバーナビーが口を開く。

「…………二人目ですよ」

また逸らされたグリーンアイズも何もかも、もうこの場でカケラも残さず食っちまいたい。
脳内で暴発するハチミツを、ライアンはようやく耐えた。
耐え抜いた反動が、ぽろりと口をつく。
「ふーん。んで、一人目は誰よ?あのアライグマのおっさんとか?」
あさっての方向の冗談のつもりだったのに。
バーナビーの顔色が変わった。
グリーンアイズがぱっちり固まって、白っぽかった顔色が蒼くなって、そのあと赤いインクを脳天から注いだみたいに真っ赤になって。

───ビンゴ、ってか。

嘘のつけないクソ真面目なジュニアくんに、嘘をつかせないように仕向けたのはオレだけど。
嘘でも答えてくれれば嬉しいと思ってたけど。
その答えは。それは。
それはちょっと出来すぎで、それはちょっと安直で、それはちょっとマズいんじゃないの?
捕まえて、口元にまで持ち上げていたバーナビーの手のひらを、ライアンは自分のあぐらの膝に下ろした。
まだこの手は離さない。
離してる場合じゃない。
バーナビーの手のひらを両手で捕らえたまま、よっこらしょと座り直し、ライアンは、グリーンアイズを隠すバーナビーの長い前髪ににじり寄る。
「おっさんとはもう終わってんだろ?」
「違う」
バーナビーは顔を上げない。
いつもいつもこうやってうつむいて、このクソ真面目なお坊ちゃまヒーローは、あのおっさんのことばかり考えている。
「違うって、あんたさっきステディ居ねぇって言ったじゃん」
どうしてもはっきりさせたい矛盾を突くと、うつむきっぱなしの唇が、ぶるぶると震え始めた。
「…終わってない。始まっても…ない…」
「は?どーゆーこと?」
頼む。
泣かないでくれ。それはナシの方向で。
泣かないで欲しいが質問は止められない。話のキモはここからだ。
ライアンは力を込めて、バーナビーの手を握り直す。
ふっ、とバーナビーが喉を鳴らした。
「?」
とたんにバーナビーの腕が暴風のようにひらめき、ライアンを振り払う。
ライアンの胸元をかすっていったバーナビーの拳は、ライアンの指を逃れてふらりと下ろされ、宙で震え続ける。
「僕にだってわからない…!!わかるわけない、あの人が何を考えてるかなんて!!!」

───ワケアリすぎだ。こりゃ。

医務室に不似合いすぎる絶叫に、仕切りカーテンの向こうで、ドクターが立ち上がる気配がする。
涙こそこぼしていないものの、悲愴に充血したグリーンアイズに真正面からにらみつけられ、ライアンは観念した。

「…………ちょっとハナシ。聞いてもいい?」