ホット・クエスチョン -2-



「ほんとにさ、たいしたことねんだよ。服の上からだったし。おまえも早く手ぇ冷やせ。俺よりひでぇことになってんじゃねぇのか」
「ちょっと黙れませんか」
オフィスの給湯室で、タオルを巻いた保冷剤を抱かされ、どこから持ち出してきたのか、その場でスツールに座らされ。
まるで怒っているように無表情なバーナビーに見降ろされ、虎徹は視線のやり場がない。
トレーニングセンターの帰りに、茶でも一杯飲もうと思っただけなのだ。それが、とんだ展開になってしまった。
バーナビーの顔を、とても見ていられない。
下げた視線をさまよわせ、正面に立っているバーナビーのカーゴパンツの足を眺め、床を眺め、バーナビーの脇のシンクを眺める。
虎徹をにらみ下ろして気が済んだのか、バーナビーはすいとシンクに近づき、蛇口のレバーを上げた。冷蔵庫の保冷剤は、虎徹の分しかなかったのだろうか。静かに落ちる水に、手のひらを浸けている。
痛みを我慢しているのか、それともそれほど痛くはないのか、シンク前のバーナビーの背中は、ぴくりとも動かない。
穏やかな水しぶきの音だけが、沈黙の中に響き続ける。
虎徹の胸元で、保冷剤が申し訳なさげに、ちりちりと冷える。
なのに、胸の最奥の鼓動までは冷え固まらない。何かしゃべっていないと、むずむずする。

───ていうか。これ脱ぎてぇ。今すぐ。

着慣れない白衣は、覚えのあるあの匂いでいっぱいだ。

───シャンプーだか香水だかも変わってねぇな、こいつ。

こんなもんを本人の目の前で、しかも素肌の上から着なくちゃなんなくて、しかも平気なフリしてなくちゃ…なんて、どんな罰ゲームだよ。
頭を抱えたくなったが、虎徹の両手は今、保冷剤でふさがっている。
緊急事態だったとはいえ、バーナビーにネクタイをゆるめられた時は本当に焦った。大変な勢いで脱衣させられたあの時、服が濡れたの濡れないのという意味とはまったく別方向で───下半身がどうかなったらどうしよう、と、虎徹の回らない頭はあらぬ方向にフル回転してしまっていた。

───くそ、いい匂いすぎる。これ。

そんで、俺はバカすぎる。
コーヒーで少し茶色くなった白衣の胸元を見下ろし、虎徹は保冷剤を抱き直した。やけどの痛みはまったくない。赤くなっている範囲も、虎徹の手のひらより小さいくらいだ。コーヒーはほとんどベストに染み込んでいたし、その水分は、虎徹の腹に染みる前に、あらかたバーナビーが絞り落としてくれた。
シンク前のバーナビーは、やはり動かない。
これ以上の沈黙は耐えられない。
もうとりあえず早急に迅速に大至急、バーナビーから離れたい。が。

───ほっといてくれ、って、言わねぇ方がいいんだろうな。

こっくりとうなずくように、虎徹は頭を垂れた。
バーナビーは、虎徹を心配してくれている。
そしてその次に、虎徹にコーヒーを浴びせた、自らの過失を悔やんでいる。
怒ったような態度を取っているのは、そのせいなのだろう。

───俺も、悪かったのに。

今のこの事態は、確かにバーナビーの過失だが、いきなりバーナビーの背後から声をかけた虎徹にも非はあった。
昨日のあの会話をなかったことにしたくて緊張していたのは、バーナビーも同じだったのかもしれない。
嫌いだと言い放った人間の、こんなかすり傷を、こんなにも気遣ってくれるのだ。さっきからバーナビーは、虎徹に一方的な指示ばかり出しているが、その焦りと真剣さに、嘘はなかった。
「ヒーロー」にケガをさせれば、業務に支障が出る。
そんなビジネスライクな責任感を全うしてくれた方が、今の虎徹にとっては気楽なのだが。

───俺の願望かな、って思う時もあるけど。そう思ってたいけど。

それでも、追ってしまう。見えてしまう。
ちらちらと、無防備に、たまに大胆に、こぼれてくるのだ。バーナビーが抱えている、本当の気持ちが。
別にそれは虎徹への特別な感情ではなく、ごく一般的な、強がりだの、照れだの、気遣いだのというあたりまえのものだ。
誰に対してもそつなく接するバーナビーだが、その「そつのなさ」は、それ自体が強力な壁となって、バーナビーと外界を隔てている。
その壁にはドアも窓もないが、壁の向こう側にある、「あたりまえな」ものの気配を、いつの頃からか、虎徹ははっきりと感じ取れるようになっていた。

───全部。シャットアウト、できねぇもんかな。

本能が、それは無理だと吠えている。その一方で、それができねば破滅だぞと、理性が訴えてくる。
虎徹はもう一度、保冷剤を抱き直した。
同時に、ふとシンクの水音が止む。
「ロイズさんに、着替えを借りてきます。これもクリーニングに出してきますから、僕が帰ってくるまで、ここで休んでいてください」
シンク脇に積んでいた虎徹の服をまとめて持ち上げ、バーナビーは足早に給湯室を出て行こうとする。
出て行ってくれるのは大歓迎だが、そんなに簡単に結論を出されては困る。
「いーよそんなの。おそれ多くて着られねー。ロッカー戻って、アンダースーツでも着とくよ」
ドアの数歩手前で、ふー、と肩を落としてから、バーナビーは振り向いた。
「アンダースーツで家までは帰れないでしょう?服を今からクリーニングに出しても、夕方には間に合いません。僕は着替えを持ってませんし、斎藤さんの服じゃ、サイズが違いすぎます」
「だからいーんだよ別に。俺ぁ車で帰るから。おっさんが夕方に多少変なかっこで車乗ってても誰ものぞかねぇって」
「…行ってきます」
「こら!俺の話聞けよ!」
怒鳴ったつもりはなかったのに、バーナビーの肩がぴくりと跳ねた。
これはどうも…本当に、やりにくい。
動きを止めたバーナビーの、無表情の仮面が剥がれかかっている。
ここで完璧にそれを剥がしてしまうということは、バーナビーのプライドをもずたずたに剥がしてしまうということだ。
「…あのな」
可能な限りに普段通りの声を出して、虎徹はバーナビーの視線を柔らかく受け止めた。
「あのな。そんなに肩ひじ張んなよ。さっきぶつかったのは、俺がおまえを脅かしたせいでもあるし。おまえも手にやけどしたし。これでもう十分あいこだろ?」
「でも、僕があなたにケガをさせたことに変わりはないです。手当てするのも弁償するのも当然ですし、そうさせてくれないと僕が困ります」
「だーかーら!……だあっ、もうわかったっ、クリーニング代はおまえ持ち!そんで俺はほとんどケガしてねぇからこれ以上手当ての必要なしっ!あとは、もういつも通りで頼む!やりにくいんだよっ」
握り潰さんばかりの勢いで保冷剤を握りしめ、床に向かって吠えたものの、返事がない。
不安にかられて虎徹が顔を上げると、剥がれかかったバーナビーの仮面が、ふわりと表情を変えた。
「あの。怒ってないんですか。昨日のこと」
「あん?」
何を言い出すかと思えば。
やっぱり、そうだったのか。
とっさに知らないふりをしてやりながら、たたみ込まれるような安堵を感じて、虎徹はゆるみそうになる唇を、ぐっと引き締めた。
バーナビーの目がかすかにすがめられ、深い色に濡れた虹彩が、こちらを見ている。
寝ている時もそうだったが───苦しげな顔をしているバーナビーは、どうしてこんなに幼く見えるのだろう。
「あんなことを言われて、いい気分になるヒーローはいないと思うんですが。あなたは、どうして」
「別に。ヒーローってのは、おまえの言う通りの生き物だよ」
これ以上バーナビーに話させたくない。
だが威圧はしたくない。
バーナビーから目を逸らし、虎徹は手元の保冷剤を見下ろして、切れ目なく言葉を継いだ。
「どんなにがんばったって、助けられるのはいつも、ほんの少しだ。テレビに映ってたって、誰も助けられねぇ時もある。ほんとにヒーローってのは非力だよ。でもな」
保冷剤の中身は溶けかかっている。虎徹がパッケージを軽く振ると、小さな水音が聞こえた。
「ヒーロー続けてれば、これから先、誰か一人でも助けられるかもしれねぇだろ。ゼロと1の違いって、すげぇと思うわけ。で、俺はゼロのままでいたくない。そんだけのことだよ」
バーナビーが苦しげに、まばたきをする。
まばたきをして、生まれ変わったように、またふわりと表情を変える。
たったそれだけのしぐさが幼くて、胸に迫る。
「今まで俺みたいなヒーローと付き合ってきて、気分悪いことも多かっただろうけど、おまえはほんとに真面目に仕事してるじゃないか。別に、今さらヒーロー好きになる必要もねぇだろ。そのままでいてくれ」
そして、気分よくこの場を去ってくれ。
限界はオーバーしている。五分でいいから一人になりたい。
虎徹の焦りをよそに、バーナビーはまたまばたきをして、こちらに向き直ってくる。
「…あの」
何かを決めたような、緑の目が怖い。
「あの。僕は」
いいからもう、そのドアを開けて、出て行ってくれないか。
「僕は……ヒーローはやっぱり好きになれません。でも、僕は、あ、なたのことは」

心臓が、跳ねあがった。

虎徹の呼吸が止まりかけた時、携帯電話の無機質な着信音が、給湯室いっぱいに響き渡った。
着信音は、バーナビーのカーゴパンツのポケットで鳴っているようだ。
「あ、」
ポケットを手のひらで押さえ、ポケットから電話を取り出し、表示されているらしい発信元をちらりと見やって、バーナビーは険しい表情になった。
「仕事か?」
「…はい」
「『あっちのラボ』から?」
「はい」
「なら、早く出ろよ」
バーナビーの唇が、一度だけ、ひく、と震えた。

───『僕は、あなたのことは』。

どうしても言いたかったのだろう言葉の続きは、無残にちぎれて、空気に溶けた。
内臓まで痛むような安心が、虎徹の胸に落ちる。
言葉を聞くはめにならなくてよかった。
俺はまだ、友恵に守られてる。
そっと息をつこうとすると、今度は虎徹の手首のPDAが、すさまじい音を立てた。
「どわぁっ!」
二つの異なる着信音が、閉ざされた空間に響き、なんとも不快なハーモニーを奏でる。
今度こそ、心から安心して虎徹は立ち上がる。
白衣の胸元を押さえながら保冷剤をスツールに置くと、ドア前に突進し、バーナビーの横をすり抜け、給湯室から飛び出した。
「じゃあ俺も行ってくっから!クリーニングだけ頼む!」
バーナビーの目を見返すことは、できなかった。




やっぱり僕は矮小で、卑怯で、愚鈍だった。
地下のラボで、アンダースーツを身につけながら、バーナビーはため息をかみ殺した。
すぐそばのブースでは、これから着る黒いメカニックスーツが、鈍く装甲を光らせている。

───僕が、ぐずぐずしてたから。

あとひと呼吸、あと一言ぶん、言葉を発するのが早ければ、最後まで伝えることができたのに。
それをぐずぐずしていたから、虎徹に言葉を伝えることはおろか、謝罪することさえできなかった。
おまえはそのままでいてくれと、虎徹は言った。ヒーローなど嫌いなままでいいから、これまで通りに仕事をしてくれ、と。
僕はそのままで、いるべきなのか。
そのままで、いた方がいいのか。
そのままの方が、楽なんじゃないのか。
自問はどれも、不快感に満ちていた。
バーナビーは目を閉じる。
力いっぱいまぶたに力を込めても、この自分の愚鈍さと、不快感を押し潰すことはできない。

───気持ちを全部ひっくり返すことはできないけれど、そのままでいたくなかったから、僕は。

自分で自分の本心を認識することが、ひどく苦しい。
ぐずぐずと苦しんでいる自分が、とてもみっともなく思えてきて、バーナビーは、目を閉じたまま額を押さえた。
「ゼロのままのヒーロー」でいたくない、という虎徹の信条は、嘘ではないのだろう。
だが、虎徹のヒーロー魂なるものを教えてもらったというのに、彼にちっとも近づけた気がしない。それどころか、以前より遠ざかってしまったような気さえする。

───ただあのおじさんの手のひらの上で、僕がひとりで後悔して、ひとりで震えてただけなんだ。

以前はあんなに遠ざかってほしい、近づいてこないでほしいと思っていたのに、この虚脱感はどういうことなのだろう。
苦しい。苦しすぎる。
「大丈夫ですか?どこか具合でも悪いんですか?」
はっと顔を上げると、ラボのスタッフが、心配そうにブースの陰から顔をのぞかせている。
「いえ。なんでもありません」
あわててアンダースーツの上半身に袖を通すと、耳元で、ぷつりと小さな音がした。
バーナビーの足元に、小さな金属片が降る。
「…あ…」
ネックレスを外すのを、忘れていた。
ぴったりと身体に密着するスーツの布地にひっぱられて、鎖がちぎれてしまったのかもしれない。
金色のトッププレートを拾おうとしたバーナビーを制して、スタッフが、すばやくそれを拾い上げる。
「預かっておきますから」
そういえば、心だけでなく物理的にも、ぐずぐずしている場合ではなかったのだ。

───落ち着け。今は、忘れろ。

半端な精神状態で、ルナティックとは向かい合えない。
妙に汗ばむ指先でアイパッチをつまみ、目元にそれを貼って、バーナビーは隣りのブースへ飛び移るように、一歩を踏み出した。




「それにしても変わった格好をしているなタイガー?寒くないのか?」
「バニーの白衣借りてるだけですよ。それはいいから、今のもっかい説明してください」
社用の駐車場に停めたままのトランスポーターの前で、斎藤は仁王立ちして、虎徹を待ちかまえていた。
「…本日アッバス刑務所に身柄を移されるジャック・ブラウンの護送ルートが外部に漏洩して、強盗団の残党が彼を奪還しようと護送車を狙っているらしい。既に護送ルートに爆弾を仕掛けようとした残党の数人が拘束されているが、彼らの自白によると、他の爆弾がまだ当初の護送ルートのどこかに仕掛けられたままだそうだ。タイガーの仕事は、護送車を警察と共に護衛するか、爆弾を探しに出るか、アッバス刑務所の手前で残党を待ち伏せするか、今ならまだ選べる。どうする?」
コーヒーで汚れた白衣をひっかけたままの格好でかがみこみ、斎藤の口元に耳を寄せていた虎徹は、よどみない彼の二度目の説明を聞き終わると、短くうなった。

───えっと。

平たく言やあ、犯罪者の護送と、爆弾探しと、待ち伏せの、三択。
そんで俺が苦手なのは待ち伏せ。
探しモンは苦手じゃないけど、護送車なんておいしいエサを、「あいつ」と「あいつ」が見逃すわけがねぇ。
ならば、答えはひとつだ。
「護送車の護衛で頼みます!」
「OK」
背筋を伸ばした虎徹を見上げ、斎藤は歯を見せて微笑した。




湿ったように赤い夕空の中に、ふと青い煙が湧いた。
煙のように見えたそれは、何秒もたたないうちに、蒼くきらめく小さな火柱に変貌する。
鉄塔の上の、その火柱めがけて、バーナビーは跳んだ。
「また貴様か。懲りないことだ」
つぶやいて、ルナティックは指先をくねらせ、火柱をもてあそぶ。
青い火柱が、その指の動きを喜ぶように肥大する。
「私の裁きを邪魔する『ウロボロス』。貴様もタナトスの声が聞きたいか?」
青い炎を操る腕が振り下ろされる、直前。
鉄塔の真下から緑色の光が射し、細い蛇のようなワイヤーが、ルナティックの腕を拘束した。
とっさに足下に気を取られたルナティックの顔面めがけて、バーナビーは空中で振りかぶる。
不気味なマスクが眼前に迫った。
そのマスクを捕らえるべく、バーナビーはこぶしを繰り出す。
瞬きをする間もなく、重い抵抗が、紅く光る腕と指先にかかって、きしむ。
薄紅色の閃光の中で、バーナビーのこぶしを受けたマスクの顎部分が、はらはらと砕けた。
砂のようなその破片を視界の縁に留めながら、バーナビーはルナティックの喉元に手を伸ばしたが、彼は顔を押さえて、ふらりと鉄塔から落下した。
「よっしゃああ!ウサちゃん、ありがとよ!」
ルナティックを拘束していたワイルドシュートをすばやく解いて、鉄塔の真下から、今度はワイルドタイガーが跳躍してくる。
ルナティックに襲われかけた護送車は、どんどん遠ざかってゆく。この化け物のようなNEXTを、ここで足止めするのがタイガーの役目なのだろう。
鉄骨につかまって身体を支えながら、バーナビーは落下してゆくルナティックと、それを捕らえようとするタイガーを見下ろした。
ここぞとばかりにハンドレッドパワーを駆使して、タイガーがルナティックを受け止める。
重なった二人の影をバーナビーが追おうとした時、眼下でまた、真っ青な炎が噴き上がった。
「だあああっ!?」
スーツを緑色に光らせたまま、蹴落とされるようにタイガーが下方へ遠ざかる。
『!』
その瞬間、逃げるルナティックの行方より、タイガーの安否を気にしてしまったことが、バーナビーの失敗の始まりだったのかもしれない。
高所から落ちても、ヒーローはヒーローだ。ワイルドシュートを鉄骨に絡ませて、クモのような身軽さでタイガーは鉄塔に取り付き、悪態をついている。
「あんにゃろうっ!またフェイントか!」
小さな安堵を胸の底で押し潰して、バーナビーはすぐさま鉄骨を蹴り、ルナティックを追うべく跳んだ。
タイガーがダメージを負ったのなら、彼の追跡の勢いはゆるむだろう。
だが彼は、ダメージを負っても、それを他人に感じさせない。
テレビカメラに映っている時も、そうでない時もだ。
安堵の後の不安をまたねじり潰して、バーナビーは跳ぶ。
鉄塔からいくらも離れていない、建設中らしいビルの隙間に、ルナティックは消えて行った。
ビルの壁面に沿う足場に飛び移り、まだがらんどうのビル内部をのぞき込む。
人影はない。今日の建設作業はもう終わったのだろう。
ルナティックの影も、どこにも見えない。
がらんどうの中にそそり立つ柱の陰から、一直線に狙い撃ちされるかもしれない。
待ち伏せされる緊張をぐっと飲み込んで、バーナビーはビル内部の足場へ踏み込んだ。




スーツに少々傷はついたが、熱で装甲が溶けるほどではなかった。
ルナティックと、彼を追っていった「ウロボロス」を追って、虎徹もまた、建設中のビルの足場に飛び移る。
一目散に逃げずに、ルナティックが現場で隠れるのは初めてのことだ。
「ウロボロス」のさっきのパンチが、効いているのかもしれない。

───つくづく、すげぇヤツ。

「ウロボロス」のNEXT能力はまだはっきりしないが、パワー系であることは間違いない。通常をはるかに超えたあの身体能力は、虎徹のハンドレッドパワーにも通ずるものがある。

───あいつにゃ、俺みたいな時間制限ってもんがないんだろうか。

ヒーローとしてのショーアップ効果を無視できず、「ワイルドタイガー」のスーツは、能力を発動して五分経つと発光しなくなってしまうが、あの「ウロボロス」は常に、スーツの装甲を薄紅色に光らせている。

───「裏組織」の末端にしちゃ、目立ちすぎるんだよな。

隠れなければならない人間に、ショーアップは必要ない。
社会の表舞台に出てこれない組織の人間が、復讐を果たしたいと思うのならば、復讐の対象を「闇から闇へ」葬った方が、彼らにとって安全で、確実なはずだ。

───「ウロボロス」は、俺たちに何を見せつけたいんだろう。

ルナティックに対抗できる能力のデモンストレーションか。
ヒーロー業界への痛烈な皮肉なのか。
それともただ、市民の不安をあおりたくて、劇場型犯罪を目指しているのか。
「ウロボロス」のおかげでヒーローTVの視聴率は上がり、アニエスは喜んでいるようだが、「ウロボロス」を追えば追うほど、虎徹の中には、違う側面からの疑問がわき上がってきて、落ち着かない。
『タイガー!聞こえる?』
突然、虎徹の心をのぞいたかのようなタイミングで、マスク内にアニエスの通信が響き渡る。
「だっ!脅かすなっ!今はちょっと静かにしてくれ!」
ほとんど吐息でささやいて、虎徹は足場を伝い、ビルの内部へ踏み込んだ。
「ルナティックがこのビルの中に隠れてんだよ。声出すとやべーから、通信は後にしてくれねーか」
『緊急事態よ。すぐにそこから退避して』
「なんだよ、今こっから退くわけにゃいかねーんだよっ」
『だから緊急事態なの。爆弾の場所が判明したのよ、そのビルの中なの!』
「えぇ?」
『強盗団の残党がやっと自白したの。爆発の予定時刻は18時ちょうど、もう時限装置を解体する時間もないわ。今すぐそこから離』
アニエスの言葉が終わらないうちに、虎徹のはるか頭上で、蒼い炎がはじけた。




その蒼い炎を避けられたのは、ほとんど偶然だった。
ビルの内壁にはぱっくり穴が開いている。その穴のすぐそばで、壁に背を預けて、バーナビーはライフルのトリガーを引いた。
ライフルから放たれた光はルナティックのマントをかすめ、向こう側の壁にまた穴を開ける。
「ウロボロス」に扮してから、バーナビーがここまで建物を壊すのは初めてだった。だがこんな閉鎖空間で、一方的にやられるわけにはいかないのだ。
顔面を手で覆ったままのルナティックは、あきらかに動きが鈍くなっている。
ビルを破壊するのはしのびないが、彼を捕獲する、こんな絶好の機会は二度とめぐってこないかもしれない。
バーナビーの対角線上の壁にもたれて、ルナティックはうずくまっている。
『投降しろ。そうすればもう撃たない』
もう一度トリガーを引きたくなくて、バーナビーは呼びかけた。
足場の上にうずくまったまま、ゆっくりとルナティックが顔を上げる。
「貴様のような者に、投降?……笑止だな」
月のように青白いマスクは、もう下半分が崩れ、そこを覆うルナティックの指の間から、生身の唇がちらちらとのぞいている。
何か、体温も持たない化け物のように感じていたが、この仮面の男も、間違いなくひとりの人間なのだ。
ふらりと揺れかかった銃口をバーナビーが構え直した時、緑色の光が、眼下で動いた。
「おまえら、早くここから逃げろ!」
組まれた足場のはるか下から、ワイルドタイガーが、鉄柱を伝って駆け上がってくる。
眼下に逸れた視線をバーナビーが正面に戻すと、ルナティックの唇も、こちらを見ていた。

───だめだ、危ない。

「おまえ、撃つな!爆弾が!」
半分意味不明な、そのタイガーの言葉は、ルナティックとバーナビー、どちらに向けられたものだったのだろう。
トリガーにかけたバーナビーの指がけいれんする。
緑色に輝きながら駆け上がってきたタイガーのスーツが、バーナビーの鼻先に迫る。
ルナティックからバーナビーをかばうような体勢で、タイガーが何か叫んだ時、蒼い炎と共に、タイガーの肩の装甲が吹き飛んだ。

───おじさん…!

叫ぶこともできずにバーナビーは息を飲む。
たちの悪いスローモーション映像のように、タイガーの───いや、虎徹の生身の右肩が、むき出しになる。
茶色く散ったのは、血しぶきだろうか。
飲んだ息を、バーナビーが吐き出そうとすると。
轟音と、強風が足下から湧いた。
身体と意識が、宙に浮き。
その後は、何もわからなくなった。


***

───「『ジサツ』はいけないよ。そんなことをすれば、天国に行けなくなるからね」。

あれは、ジュニアスクールの時の、担任の先生だった。
白く混濁する意識の中で、バーナビーは唐突に思い出す。
何がきっかけで、先生がそんなことを言っていたのかは、すっかり忘れたが。
その日の前に何か、人が亡くなる事件だか事故だかがあって、そんな話をクラス全員の前でしていたのだと思う。
じゃあこれまで自殺してしまった人は一体どこへ行くのかとか、死にたいと思うまでに悩んでいた人が、死んでまで天国に行けないのはかわいそうすぎないかとか、幼いバーナビーの頭の中には色々な疑問がわき上がったが、それを人前で先生に質問する勇気はなかった。
いや、たとえ先生と一対一であったとしても、訊けなかっただろう。
死んだら、両親に会える───それが、バーナビーに残された、唯一の真実だったから。
その時のバーナビーに、死にたいという気持ちはなかった。
両親の復讐を果たさずに死ぬわけにはいかない。
ただ、自分の死が、これから何十年も先に来るのだと思うと、退屈で、待ちきれなかった。
死のうとは思わないけれど、今、何かのはずみで死んでしまうなら少し嬉しい───そんな気持ちは、決して誰にも話してはいけないのだと、わかっていた。
その気持ちと一緒に、ずっとひとりで生きて行くのだと、思っていた。


***

『…ビー。バーナビー?聞こえるかい、バーナビー?』
耳元で羽虫がうなるような音声で、目が覚めた。
バーナビーは、重いまぶたをやっと押し上げる。
周囲は闇に閉ざされている。
だが、ゆっくりと目を凝らすと、狭い空間のすみずみには小さな穴が開いていて、そこからオレンジ色の明かりが、ちらちらと揺れながらもれてくるのがわかった。
潰れた鉄骨や剥がれたコンクリート材が折り重なり、それらがこの空間の壁となって、周囲を塞いでいる。
がれきの壁の外では火災が起きているのだろう、この空間は猛烈に暑い。

───エレベーターの…昇降ホールか、何かか?

この空間は左右に狭いが、上下には限りなく広い。頭上高くから、空気が対流しているのを感じる。しかしNEXT能力はとっくに切れてしまっている。何分失神していたのかはわからないが、あと数十分は経たないと、このがれきの壁を登ることはできそうもない。
『バーナビー。私だ。聞こえたら返事をしてくれ』
このスーツの通信機能は、他のヒーローから完全に隔絶された独自回線を使っているが、万一のために、活動中は「ウロボロス」のコードネームを使うはずだった。
仰向けの姿勢から、バーナビーはゆっくりと身体を起こす。
あちこち身体は痛むが、骨折はないようだ。メカニックスーツも、あちこちに削れたような大きな傷がついているものの、しっかりと原形をとどめている。
『………僕です。何が、起こったんですか。…今、何時ですか』
通信の向こうで、マーべリックが息を飲む音が聞こえた。
『無事だったのか!ケガは!?』
『大丈夫です。スーツの破損が、少々ありますが。それより、この状況は、何が起こったんですか』
『強盗団の残党が、そのビルに爆弾を仕掛けていたんだ。情報が遅れて、君に通信できなかった。本当にすまない』
『がれきに囲まれてはいますが、能力が戻れば、すぐ脱出できると思います。今、何時…』
訊きかけて、バーナビーは、小さく悲鳴をあげそうになった。
向こう側のがれきの壁が、ごとり、と動いたのだ。
白いがれきと思ったそれは、のっそりと身を起こして、みるみるうちに、ワイルドタイガーのスーツの形になった。
とっさに、指で耳元の通信スイッチをはじいて、バーナビーは回線を切る。
虎徹がいる空間で、外部とこれ以上の会話はできない。
「いて……っ、くそ……」
駆け寄りたいのをこらえて、バーナビーは身体を起こした虎徹を見すえた。
彼が座っている場所までは、立って歩けば数歩の距離だ。バーナビーのスーツが未だに発光していることもあって、光源から離れている虎徹の表情は、よくわからない。
「…おまえ。ケガは?」
何の前置きもなく質問してきた、虎徹の声はかすれている。
答えにつまったバーナビーがゆっくりと立ち上がると、長い吐息が聞こえた。
「動けるみてぇだな。よかったぜ」
言い終わるそばから、唇をこするような短い吐息が散る。
身体の痛みをこらえているのだろう。
がれきの壁にもたれ、虎徹は片膝を立てて座っている。
「…うまいこと、落ちたもんだなぁ。やっぱエレベーターのホールか、ここ」
「ウロボロス」への称賛ではなく、自画自賛なのだろう。片足をだらしなく投げ出したまま、虎徹はのんきに頭上を見上げている。
『立てないのか?』
たまらずバーナビーが尋ねると、虎徹は上向いていた顎をひょこんと戻して、こちらを見た。
いつの間に開けたのか、落下した衝撃で開いてしまったのか、タイガーのフェイスガードは開いている。
「いんや。あっちこっちイテーけど、たいしたことねーよ」
さんざん追い回してきた標的を前にしての、強がりだろう。まったく信用できない。
ぎっしりと積もったがれきを踏みわけ、ようやくバーナビーは虎徹に歩み寄る。
ふとライフルを失くしたことに気づいたが、今、ライフルはあまり役に立たないだろう。周囲のがれきにビームで穴を開けても、絶妙な加減で折り重なっているそれのバランスを悪くするだけだ。
「…なんだ?俺ぁ今、能力切れてっからな?」
近づいてくるバーナビーを前に、一見ふてぶてしくも見える態度で、虎徹は座ったまま両手を上げ、戦意がないことを表明している。

───なんて、度胸だ。

赤子の手をひねるように殺されてもおかしくないこの状況で、ヒーローとは、こうも落ち着いていられるものなのか。
モニターや、テレビカメラを通している時はわからなかった、虎徹のもう一つの顔を見た気がして、バーナビーの肺に、息苦しい思いが満ちる。
虎徹の右側に回り込み、バーナビーはひざまずいた。
アイパッチの奥の虎徹の瞳が、きらりと光を反射する。
軽い口調とは裏腹に、ずしりと重い視線が、バーナビーの動きを追っている。
その視線を無視して、バーナビーはほのかに光る自分の腕を、虎徹の肩口にかざした。
装甲の吹き飛んだそこは、赤黒く染まっている。人の唇のように濡れた傷口と(傷の大きさもほぼ唇のそれだ)、そこに刺さる小さな装甲の破片が、薄紅色の光の下で、痛々しく浮かび上がった。
『腕を下ろせ』
ホールドアップの姿勢を解くよう、バーナビーは虎徹に命じた。
この場で完全な処置はできないが、傷口の破片だけでも取り除きたい。
「いいのか?腕下ろしたら、俺、何するかわかんねぇぞ。能力切れてるからって、あんまり見くびんなよ?」
つまらない脅しとわかっていても、背筋がぞくりとする。
こういうのを、凄味と言うのだろうか。
『傷口の応急処置をする。死にたくないならじっとしていろ』
「ウロボロス」らしく、高圧的に命令しながら、バーナビーは、自分のスーツの脇腹に装備されている、応急キットに手を伸ばした。