ホット・クエスチョン -3-



聞き慣れてしまった、デジタルボイスで目が覚めた。

───『がれきに囲まれてはいますが、能力が戻れば、すぐ脱出できると思います。今…』。

とても遠くから聞こえたような気がしていたその声の主は、今、虎徹のそばで身体を発光させながら、ひざまずいている。
ライフルを失くしたらしい彼に撃たれる心配はなかったものの、この「ウロボロス」が、がれきを踏んでこちらに向かってきた時は、少し肝が冷えた。彼のNEXT能力も今は切れているようだが、今までの腹いせに、身体のどこかしらに一発二発、お見舞いされても不思議ではなかったからだ。
真っ黒に汚れた自分のスーツの手足を眺め、虎徹は意識的に呼吸を整えた。
手足は動かせる。能力なしのガチ勝負なら、それなりに対処できるだろう。しかし、右肩と、そこに連なる鎖骨のあたりが、強烈に痛む。骨にひびでも入っただろうか。
爆風の衝撃にやられたのか、マスク内の通信機能はダウンしている。現在位置を確かめて、斎藤に救助を求めることはできない。
「…っ、つ…」
右肩に電流のような痛みが走り、虎徹は息を詰める。
「ウロボロス」が、血濡れの金属片を、虎徹の足元に投げ捨てた。
親指の先ほどのそれが、肩の傷口に刺さっていたらしい。
「ウロボロス」は、両手の黒いグローブを外して、素手だ。
本当に、今の虎徹に危害を加える気はないらしい。
こんな暗い空間でも、その肌は真っ白なのがわかる。

───こいつ。白人なのは確定だ。それに。

骨ばってはいるものの、その長い指は節くれ立つこともなく、爪の先は恐ろしくきれいに手入れされている。重労働とは無縁の手だ。

───たぶん、そこらの庶民じゃねぇ。

犯罪組織の「末端」じゃなしに。こいつはもっと、組織の「上」の方に所属する人間なのか?
そこまで考えたところで、虎徹の脳内に、せっぱつまった記憶がひらめく。

───そうだ、タトゥー!

「ウロボロス」の一員ならば、そしてバーナビーの両親の仇ならば、身体のどこかにタトゥーがあるはずだ。そこまでバーナビーに情報をもらっておきながら、犯人の身体のどこにタトゥーがあったのか訊いていなかったことを思い出し、虎徹は奥歯を噛みしめた。

───くそっ、こんなチャンス、もう二度とねぇってのに…!!

「ウロボロス」は、スーツのどこから取り出したのか、テーピング材のようなものを、虎徹の肩に貼りつけている。
間近で動く彼の白い手を、虎徹は凝視した。
彼の手に、タトゥーは彫られていない。右手にも、左手にも。
違和感を感じるほど丁寧にテーピングをすませた右手が、薄紅色の光の下でひらりと遠ざかった、その時。

───赤い、アザ…?

「ウロボロス」の右手のひらに、やけど跡のようなものが見えた。
皮膚のひきつれるケロイドではない。ごく薄い、アザのような、シミのような。
さっきからの、言いしれない違和感が、虎徹の中で暴力的に膨らむ。
いや。
違和感と言うよりは、既視感、だ。
整理も確信もできないその感覚を虎徹が吟味する前に、「ウロボロス」は立ち上がってグローブを着け、虎徹から遠ざかっていった。
歩きづらそうにがれきを踏み、虎徹が手を伸ばしても届かない距離で足場を整え、彼はすいと座りこむ。
「どうした。こっから逃げねぇのか?」
問いかけても、返事はない。
「ひょっとして、おまえも俺と同じに、能力の復活待ってんの?」
当然のように返事はない。
反論が返ってこないということは、ほぼこれで正解なのかもしれない。
虎徹が目覚める寸前に、「ウロボロス」は外部と通信していた。
彼の仲間が助けに来る可能性は、五分五分。
虎徹と同じように、彼もこの空間でしばらく時間をやり過ごせば、確実にここから逃れることができるのだろう。

───しっかし。保(も)つかな、俺たち。

がれきの外では火災が起きている。消火活動をしているらしい物音も、聞こえてはくる。それでも、燃えて安定しなくなった鉄骨やら何やらが、いつ崩れてくるかわからない。安定しない足場と火災に阻まれているから、このエレベーターホールの天井から引き上げてもらうことも、今はできないだろう。
空気穴は盛大に開いているとはいえ、この空間に一酸化炭素が充満する危険も、十分にある。
そして───この暑さ。
喉をやけどするほどの暑さではまったくないが、このヒーロースーツを着けたままで、あと何分耐えられるだろうか。
一酸化炭素中毒をできるだけ回避するために、マスクは外せない。
が、脱水症状もまっぴらごめんだ。
上げていたフェイスガードをもう一度下ろしたものの、目玉まで溶けそうな暑さに、虎徹は吐息でうめく。
「…おい」
消耗するとわかっていても、黙って時間を過ごすことが、たまらなくつらい。
「おい。おまえ、いくつだ」
返事などはなから期待していないが、「ウロボロス」と会話できるこの状況も、無駄にしたくない。
「おまえ、いつから『ウロボロス』なんかやってんだ?それ以外に、生きてく方法はなかったのか?」
数メートルの彼方に座っている「ウロボロス」は、ふい、とマスクをこちらに向けたきり、黙っている。
彼の耳元で光る、流線形の装甲が暗がりに浮かび上がって、やはりウサギみたいだと思う。
「人を…殺したり、したことあんのか?」
デリカシーも何もない質問だが、バーナビーのためにも、これは訊いておきたい。
『………ない』
ずいぶん間をおいてから、くぐもったようなデジタルボイスが虎徹の耳に届く。
その言葉は真実とは限らないのに、虎徹の心はふと軽くなった。
バーナビーの両親のことも、この「ウロボロス」に訊きたいが、バーナビーの究極のプライベートを、まだ逮捕もしていない人間に漏らすのは軽率かもしれない。
迷いに迷って、また沈黙してしまっていることに気づく。
「なんか、話してくれ。黙ってると、気がどうにかなりそうだ」
暑い。
マスクを頭から引き抜いて、外気を吸いたい。
こうも暑いと、無味無臭の一酸化炭素などどうでもよくなってくる。
虎徹がフェイスガードに手をかけた時、またもやずれたタイミングで、デジタルボイスが聞こえてきた。
『なぜさっき、私をかばった?』
「へっ?」
驚いて、虎徹はフェイスガードを上げる。
蒸し暑い空気の向こうに座っている「ウロボロス」は、こちらを見すえたまま動かない。
『私をルナティックからかばわなければ、おまえはここから逃げられたはずだ』
あきれられて、いるのだろうか。
それならそれでかまわない。
会話の内容が何であれ、「ウロボロス」が返答してくれたことが嬉しくて、虎徹は目を細めた。そんなわずかな表情筋の動きにつられて、滝のような汗が、こめかみを流れ落ちてゆくのを感じる。
「…おまえにな。死んでもらっちゃ、困るんだよ」
まばたきすると、汗が目に入った。
座っている「ウロボロス」の姿が、虎徹の視界の中で、ぐにゃりと一瞬、ゆがむ。
「俺の大事な知り合いが、おまえに会いたがってる。おまえをあいつに会わせるまで、俺はおまえを死なせるわけにはいかねぇんだ」

───おまえを、バニーに会わせるまで、絶対に。

もう一度まばたきしても、虎徹の視界の中で、まだ「ウロボロス」の姿はゆがみ続けている。
目がどうにかなったのかと、虎徹はアイパッチごしにまぶたを押さえた。
まぶたの奥で、頭痛のようなものが脈動している。
急に身体を起こしているのがつらくなり、虎徹は頭を抱え込むようにうつむいたが、鎖骨が痛んで、前屈みの姿勢は取れなかった。
しかたなく、がれきの壁にそっと背を預ける。
耳元で繰り返される、荒くて速い呼吸音が、自分のものとは思えない。

───これ。思ってるより…ヤバイかも。

夜空に抜けた天井を仰いで、虎徹はもう一度、まぶたを押さえた。




───931、932、933。

暑い。
外気を、吸いたい。

───934、935、936。

マスクのフェイスガードを、上げたい。
バーナビーはがれきの上に座り込んだまま、膝の装甲に爪を立てた。
いくらアイパッチを顔に着けていても、フェイスガードを上げて、髪や目元を間近で虎徹に見られれば、正体はまず、ばれる。

───937、938、939。

少しずつ早くなってくる自分の呼吸が心細い。
虎徹の肩の処置をしてから、十五分ほどは経った。誤差はおおいにあるだろうが、もう千近くまで数を数えているのだ。爆発で失神していた時間を五分とすると、あと三十分ほど経てば、能力は戻ってくる。
余計な機能がついていないのがこのスーツのいいところだが、今となっては、斎藤がお遊びでタイガーのスーツに組み込んだ、あの時計機能がうらやましい。
なのに、隣りの虎徹が、その時計機能を使う気配はなかった。それどころか、外部と通信する様子もない。GPS機能で、タイガーの居場所は斎藤に知れているだろうが、この危機的な状況を虎徹が斎藤に訴えないということは、タイガーのスーツの内部は、かなり破損しているのではないだろうか。

───通信や、バッテリー系統が、全部ダウンしているのだとしたら。

意図的に通信を切っているバーナビーと違って、虎徹は関係者の通信回線から孤立しているのだとしたら。
思わずカウントを中断して、バーナビーは虎徹を見つめた。
ぐったりとがれきにもたれ、フェイスガードを上げたまま、虎徹は動かない。暑いのだろう、天井を仰ぎ、大きく肩だけを上下させている。
黙っていると気がどうにかなりそうだと言った彼が、もうずっと黙っている。
ゆっくり数を数えている場合では、ないのかもしれない。
バーナビーは、脇腹の応急キットにもう一度手を伸ばした。キットの中には、災害救助用の経口補水塩チップが装備されている。ほんの数センチ大のチップだが、封を切って舐めれば、脱水症状を緩和することができるゲル化剤だ。

───同じものが、おじさんのスーツにも装備されてるのに…!

いつだったか。
虎徹が、スーツの説明書を読むのを面倒がったあの時に、なぜ一番に、この装備のことを説明しなかったのか。
派手なギミックにばかり気を取られて、こんなに大事な、命にかかわることを、この人に説明しなかったなんて。

───『俺の大事な知り合いが、おまえに会いたがってる』。

バーナビーの耳の中で、つい先刻の、虎徹の声が響く。
たかが知り合いの、しかもヒーローが嫌いな男のために、命まで張るような、こんな考えのない浅はかな人に、こんな大事なことを説明しておかなかったなんて。

───メカニック、失格だ。

叫びたいような思いでバーナビーはチップを握りしめ、立ち上がった。
虎徹に応急キットの存在を教えれば、バーナビーの素性がばれる。
虎徹が持っているチップを虎徹が使えないのだとしたら、この状況の解決法はひとつしかない。
暑さのせいか、足元が揺らいだが、今はそんなことにかまっていられない。
「どうした?」
再び近づいてきたバーナビーを見上げて、虎徹は首だけを動かした。
「ウロボロス」への警戒心が薄くなっているのか、身体の痛みでとっさに身動きできないのか。
十五分前に「ウロボロス」を威嚇したワイルドタイガーは、あの獣のような凄味を失っていた。
止血がうまくいかずに、脱水症状が進行している可能性もある。
『飲め。脱水を防ぐ補水塩チップだ』
指でつまんだそれを、虎徹の鼻先にかざしてやる。
「んー?何の、チップだって?」
『そのままでは脱水症状がひどくなる。ここから無事に出たいなら、飲んでおけ』
凄味を失った虎は、口の端で、ふと笑んだ。
「これが、毒じゃない保証は?」
凄味を失っても、この虎は、判断力まで失ったわけではないらしい。
『……保証はない』
だが今は、その判断力が邪魔だ。
能力が復活する前に、熱中症でいきなり意識を失うことだって考えられる。
笑んだ虎徹の口元が、さらに優しくゆがんだ。
「正直モンだな、おまえ」
ふっ、と吐き出される笑みと一緒に、汚れた装甲を着けた腕が伸びてきて、補水塩チップはバーナビーの指ごと、ゆっくりと押し退けられた。
「…おまえが飲め。おまえのチップだろ」

───笑ってる、場合じゃないだろう。

怒鳴りつけたいのをこらえて、バーナビーは歯を食いしばった。

───なんで、こんな時に笑えるんだ。

「ウロボロス」が信用されないのはあたりまえだけれど。
だけどあなたは、こんな姿の僕をかばって、黙って静かに応急処置を受けてくれて、おせっかいに、「ウロボロス」の将来の心配までしてくれて。
「ウロボロス」を疑うふりをして、命綱のチップまで、僕に譲ろうとしている。
笑ってる場合じゃないだろう。そこは、僕を突き飛ばしてでもチップを奪って、生きる努力をする場面だろう。
なんでそんなに簡単に、あなたは自分を投げ出すんだ。
手のひらの奥深くに握りしめたチップが、バーナビーのやけど跡を、グローブ越しにちりちりと刺す。
「早く飲めよ?」
短くせかして、虎徹はまた天井を仰ぐ。

無言でバーナビーはチップの封を切った。

虎徹から顔をそむけ、フェイスガードを鼻先まで上げて、ぱち、と開いたチップの飲み口に唇を付け、中身を強く吸い込む。
そして。
振り向いて、虎徹の左肩に残った装甲を、突き飛ばした。
「…っ!」
ふいうちに対処できず、虎徹は後方に倒れた。
仰向けになった虎徹に飛びつくようにのしかかり、バーナビーは虎徹の左手を、右膝で押さえつける。
「おまえ…!」
虎徹の右手も片手で封じて、もう片手で、バーナビーは虎徹の目元を塞いだ。
「うあ…っ!」
ひねり上げた虎徹の右手から、右肩の傷に多大な痛みが伝わったようだ。とっさにそこから手を離し、バーナビーはマスクのフェイスガードを上げた。
そのまま身体をかがめて、虎徹に口付ける。
口付けて、口の中に含んでいたゲル化剤を、虎徹の喉に押し込んだ。
「ん…うぅ、う…ふっ…!」
片手で虎徹の目をしっかり塞ぎ、もう片手で虎徹の顎を押さえ、唇を閉じられないよう、固定する。
虎徹の右手がバーナビーのマスクをつかんできたが、力の入っていないそれは、何の脅威にもならない。
「ぐぅ…んっ、ん…」
虎徹は、バーナビーの意図をやっと理解したらしい。
低く喉を鳴らして、容赦なく流し込まれるそれを、飲み込んでいる。
もちろんそれは積極的な行動ではなく、あきらめに近いような、なげやりな動きだったが。
最後のひとしずくを虎徹の舌に舌で押しつけて、バーナビーは唇を離し、フェイスガードを下ろした。
虎徹は激しくむせている。最後のひとしずくが、うまく飲めなかったようだ。
「こ…っ、このや、…ろっ…、」
彼の目元を塞いでいた手をようやくどけて、バーナビーは虎徹から飛び退いた。
飛び退いた先で、また足元がふらつく。
コンクリートのがれきが、がらがらと数個、足元で崩れ転がる。
膝をついてしゃがみこんだまま、バーナビーは竜巻のように視界を揺すぶってくる、恐ろしいめまいを耐えた。




暑さで、意識がもうろうとする。
虎徹は、がれきの壁のそばでうずくまっている「ウロボロス」を見つめ続けた。
信じられない方法で補水塩チップとやらの中身を飲まされて、もうどのくらい経っただろう。
がれきの壁のはるか上───抜けた天井からのぞいていた月は、かなり傾いて、ほとんど見えなくなりつつある。
焦ってもどうにもならないから、時間の経過を測るために、のんびり月を眺めていただけなのだ。
そうしたら。
いきなりピンクのウサちゃんに肩を突き飛ばされて、とんでもない目に遭わされてしまった。

───なに、かんがえて、やがんだ。こいつ。

散々追いかけ回され、彼の本来の目的であるルナティックへの復讐を阻まれ、「ウロボロス」が虎徹に良い感情を抱いていなかっただろうことは、簡単に想像できる。なのに彼は今しがた、虎徹の傷を手当てし、気が遠くなるほど強引なやり方で、虎徹の脱水症を阻止しようとした。

───義理堅いなんて、レベルじゃ、ねぇぞ。

なんなんだ。なんなんだ。これ。
確かに虎徹は「ウロボロス」をかばって負傷した。それを、彼にうっすら感謝されたり、逆に嫌味を言われたりするのなら想像がつくが、これほど唐突で過剰な借りの返し方は、虎徹の予測をはるかに超えている。
しかし。
もっと奇妙な事実が、虎徹の正常な思考能力を、真横からなぎ払ってゆく。

───暑さでとうとう、アタマやられちまったのか?俺?

口移しでチップの中身を飲まされて。
思い出したくもないぐらい接近したあいつの、あいつの口元から。

───バニーに、そっくりな。

匂いがしたのだ。
忘れたいのに忘れられない、あの髪の、あの白衣の、匂いが。
なぎ払われ、崩壊する虎徹の思考は、寒気のするような記憶の断片を、猛スピードで集め始める。
まさか。
ありえねぇ。どう考えても。日系人が体臭薄いのとおんなじで白人も似たような匂いがしてるだけだろ、やな偶然でおんなじ香水が匂ってるだけだろ。けどオレが「ウロボロス」追っかけてる時バニーがメカニックに戻ってたことって今まであったか?出動中にバニーと通信したのってどんくらいの確率だった?思い出せねぇってことは、ほぼゼロか?けどバニーはメカニックの仕事減らしてるし最近メカニックに居ねぇことの方が多いし。けど。けど。パワー系のNEXTで能力使える時間に制限があるって、ひょっとしてそれバニーと同じじゃねぇの?それに。それに。さっきのこいつの手、あのアザやけどじゃねぇのか?ついさっきの出動前に、バニーもやけどしてなかったか??
おい。うそだろ???
空の月は傾ききって、もう見えない。
上げた視線をまた落とし、虎徹は口元を押さえる。
大きく開いたその指の隙間から、相変わらず荒い吐息が、嵐のようにこぼれる。
「…お、まえ…」
ゆっくりと重い頭を上げ、虎徹は数メートル先にしゃがみこんでいる「ウロボロス」を、もう一度ねめつけた。
ねめつけたまま、幽霊のようにふらふらと立ち上がる。
「ウロボロス」のマスクが、かちりとこちらを向いた。
「おまえの。顔。……見せてくれ」
言い終えた虎徹の唇が、青く燃え上がる。
機能がダウンしていたはずの、ワイルドタイガーのスーツも緑色に燃え上がる。
回復したハンドレッドパワーで、虎徹が「ウロボロス」に駆け寄るのと、「ウロボロス」が抜けた天井に向けて跳躍するのは、ほぼ同じタイミングだった。
「待て!!」
叫んで虎徹も、夜空へひと飛びに跳躍した。




気がつくと、ベッドの中だった。
虎徹は横たわったまま、点滴のつながれていない方の腕を上げて、鼻の下を指で軽く掻く。
崩れたビルから脱出して、逃げてゆく「ウロボロス」を追おうと、何度か跳んだことは覚えている。
「あんまり、無茶してもらっちゃ困るんだよねぇ」
虎徹が寝かされているベッド脇で、ロイズは立ったまま腰に片手を当てて、これ見よがしにため息をついた。
「『ウロボロス』追っかけるのはいいけどね。視聴率稼いでくれるのはいいんだけど、意識失っちゃったら、ハンドレッドパワーどころじゃないんだよ。もうちょっとで墜落死するとこだったんだよ君?治ったら、ひとことバイソンくんにお礼言っときなさいね。えーっと。ケガはね。肩のやけどと裂傷と鎖骨にヒビ。それから軽い脱水症状。とりあえず三日間の入院ってことになってるから。はいこれ、保証人のサインもしておくよ?」
バインダーに挟んだ入院申込書にさらさらと署名を済ませ、サイドテーブルにそれを置くと、ロイズはさっさと病室を出て行った。
「あ、……っと…」
鼻を掻いていた指をかざして、虎徹はロイズを呼び止めようとしたが、病室の自動ドアは、実に閉まるのが早かった。
いつも虎徹には厳しいロイズだが、最近はワイルドタイガーの人気がアップしたこともあって、その態度はかなり軟化していた。
だが今回の件で、それも元の木阿弥だ。
多少のケガはヒーローに付きものとはいえ、入院までしてしまえば、番組に穴が空く。予定していた仕事のキャンセルによって発生する違約金の存在は、賠償金と同じく、地味に虎徹とアポロンメディアの首を絞めるだろう。
仰向けのまま、病室の照明を見つめるのがつらくて、虎徹は腕で目元を覆った。
点滴を受けると、あっという間に脱水症状は治まった。あのがれきの底に閉じ込められていた時の頭痛は、もう跡形も無い。
けっこう出血もしていたのにここまで元気でいられるのは、「ウロボロス」の、あのチップのおかげかもしれない。
閉じ込められていた間のことは、まだ誰にも話していない。カメラ機能がダウンしていたので、録画も録音も、残しようがなかった。
残らなくてよかったと虎徹は心から思っているが、ヒーロースーツの修理のために、メカニックの人間にいくらかは、あの状況を説明せねばならないだろう。映像で中継できなかった分、どこかのマスコミから、あの「密室タイム」について取材が入ることも考えられる。

───どうやって、説明すんだ?アレを。

「ウロボロス」は、寡黙で、義理堅くて、……自分を犠牲にしてまで、ヒーローを助けてくれました、ってか…?
塞いだ視界の中で、薄紅色に光る、メカニックスーツが浮かび上がる。
すらりとしたそのシルエットと共に、彼の唇の感触や、あの匂いまでが、噴きこぼれるようによみがえってくる。

───バニー。今すぐ来てくれ。

今すぐここに来て、あれは俺の勘違いだ、って言ってくれ。
僕をあんなやつと一緒にしないでください、って言って、怒ってくれ。
おまえが「ウロボロス」じゃないなら、すぐにここまで来れるはずだろう?
来てくれ今すぐ。お願いだ。
ぐらぐらと定点の定まらない感情は、突拍子もない要求を呼び起こす。
バーナビーは虎徹の家族ではない。付添い人でもない。
彼はいつも通り、真面目に仕事をしているはずだ。ワイルドタイガーのスーツがあんなに壊れてしまったら、修理に忙しくて、虎徹への説教は当分あとまわしになるだろう。
それに、また「ウロボロス」を逃がしてしまった、無能なヒーローの様子を見に来るなんていうヒマが、彼にあるはずもない。
彼がここに現れないことが、何よりも、彼のアリバイなのだ。
吐息を噛み潰すと、首筋に痛みが走った。
止めた息を再度とろとろと吐き出しながら、虎徹は目元に乗せていた腕を、シーツに落とす。
白い照明に痛む目を開けると、ドア向こうの廊下から、速い足音が近づいてきた。
誰かを叱責するような、女性の声も聞こえる。
足音の主は、異様なスピードで走っている。看護師がそれを注意したのかもしれない。
足音は間近になり、急に停止した。
だん、と病室のドアに何かがぶつかり、オートモードももどかしく、こじ開けられる。
痛みの治まりきらない首をびくりと回して、虎徹が入り口に視線をやると。
そこには、自動ドアに指をかけたバーナビーが、荒い息をつきながら立っていた。




───おじさん…!

ベッドの上の虎徹を見たとたん、砂がこぼれるように、バーナビーの身体から力が抜けた。
崩れたビルから脱出した後、逃げるのに夢中で、虎徹が無事にトランスポーターに帰れたのかどうかも確かめられなかった。
地下のラボに帰り着いて、倒れ込んだところをスタッフに支えられ、ヒーローTVの中継のあらましを聞いて、いてもたってもいられなかった。

───ワイルドタイガーが。ビルから転落して、意識不明?

身体がふらついて、着替えすらスタッフに手伝ってもらったが、脱水症状ごときで倒れ込んでいるわけにはいかなかった。
いつものジャケットすら着るのがもどかしく、Tシャツ姿のままで、ラボを飛び出してきた。
今、目の前のベッドに横たわっている虎徹は、こちらを向いて、まん丸く目を見開いている。
その瞳のブランデー色は、まったく普段通りの透明度だ。
がくがくと膝が震える。
また倒れ込みそうになるのを、ドアの縁をつかんで必死に耐える。
「…バニー?大丈夫か?」
普段通りの間抜けな声が、泣きたいほどの柔らかさを含んで、バーナビーの耳にしみる。

───バカじゃないのかこの人は。大丈夫って、それは、僕のセリフだ。

怒りたいのに、言葉が出てこない。
渾身の力で膝を立て直し、つかんでいたドアを離して、バーナビーは虎徹のベッドに向かって歩いた。
仰臥していた虎徹は、もぞもぞと腕を動かして、半身を起こそうとする。
「そ、のまま、寝ていてください!!」
怒鳴ったつもりが、息苦しさに阻まれて、バーナビーの声は少しも格好がつかない。
ますます目を見開いて、虎徹はおとなしく仰臥の姿勢に戻った。
「…えっと。……バニー?」
ベッド脇に到着しても、バーナビーの息苦しさはおさまらない。
肩で息をしながら、バーナビーは虎徹を見下ろし続けた。

───意識不明、って聞いたから。

もっとひどいケガを負っているのだと思っていた。
なのに、虎徹は集中治療室でもない一般病棟のベッドに横たわっていて、点滴の管一本につながれたきりで血色も良く、きらきらと濡れた目でこちらを見上げている。

───目を、開けて、くれてる。

虎徹の顔色も、声も、普段と何も変わらない。
怒りともうひとつ、まったく別の感情が、バーナビーの身体の中を駆けめぐり、どうしていいかわからない。
数十分前まで汗みどろだったバーナビーの身体は、内側から乾ききっているのに、胸が湿り気のようなものでむかむかして、それが喉を経由して、目元にまでせり上がってくる。
「…またスーツ壊して、ごめんな」
低く抑揚のない虎徹の声に、もっと目が湿る。
言うに事欠いて、あなたの第一声…いや、第二声はそれか。
しかも、茶目っけひとつ混じっていない、真面目な、小さな、消え入りそうな、僕が今まで聞いたこともないような声での、謝罪。
「……そんなことはどうでもいいです」
言葉を小さく放り投げると、目頭がじんと痛んだ。
痛んだそこからこぼれそうな水分が、陽炎のように揺れて、バーナビーの視界を歪ませる。
歪む視界の中で、わずかに笑んでいた虎徹が、冷凍された魚のように表情を固くするのがわかった。

───僕は何をやってるんだ。

ひたすら腹を立てながら、バーナビーは祈る。
陽炎のように揺れる目の中のその水分が、なんとしてもこぼれ落ちないで欲しい、と。
僕は何をやってるんだ。
仕事で担当してるヒーローが重傷だって勘違いして、あんなに親切にしてくれてるラボのスタッフが止めるのも本当に乱暴に振り切って、病院の廊下も走り詰めで、通りかかった看護師に走るなって叱られて。それでフタを開けてみたら、重傷のはずのヒーローに大丈夫か、って言われて、こんなところで突っ立ったまま、なんにも言えなくなって。
こんなところで泣いたりしたら、僕が。

───僕が、ものすごく、この人のことを心配していたみたいじゃないか。

心で絶叫したとたんに、ぬるい涙がひとすじ、こぼれた。
バーナビーは動かない。
意地悪く頬を伝い、顎へと逃げてゆくその水滴を、拭えば負けだ。
歪みが消え、クリアになったバーナビーの視界の中で、虎徹はますます冷たく固まっている。珍獣を見るような目つきだ。
話す隙など与えてやらない。
そんな目つきをする、腹立たしい人間には。
バーナビーは虎徹をにらみすえた。
「それより。ビルから脱出する前に、経口補水塩チップは飲みましたか」
「ふぇっ!?な、なに?」
頬も拭わず、真顔で質問してくるバーナビーがあまりに意外だったのか、虎徹は急にうろたえ始めた。
そのうろたえぶりまでが腹立たしくて、バーナビーは両手を握りしめ、腹に力を込める。
「ヒーロースーツに装備されてる応急キットですよ!災害救助用に、脇腹の部分に着いているんです!あんながれきの中に閉じ込められたら、暑くて脱水症状起こすでしょう!どうせあなたのことだから、スーツの説明書もナナメ読みで、キットの存在も知らなかったんでしょう!?」
一気に吐き出して、また肩で息をする。

───これは茶番だ。しかも、僕が作り出した茶番。

実際にチップを口にしても、虎徹の脱水症状はそれほど改善しなかった。
虎徹が応急キットの存在を知っていたとしても、今のこの負傷は避けられなかったのかもしれない。

───だけど、それでも。

応急キットのことを説明しなかったのは、僕のミスだ。
謝らなくちゃいけないのは僕なのに、頭の中がゆで上がったみたいに熱くて、考える前に口から、言葉が。
「だいたい、身体を張ってターゲットをかばうヒーローなんて、無謀にもほどがあります!」
固まっていた虎徹の唇が、ふとゆるんだ。
「見殺しにしたくないとかあなたは言うんでしょうけど、もうすぐ爆弾が爆発する、っていう現場に自分から突っ込んでいくなんて、人命救助の範疇を超えてますよっ!!」
見開かれていた虎徹の目が、少しずつ細められる。
細められて、あの、いらいらするほどにお人好しそうな、小さな小さな笑いじわが、虎徹の目尻にうっすらと現れる。
「危険をちゃんと回避してこそのヒーローでしょう!暑苦しい自己犠牲なんて、今時流行りませんよ!…ちょっと、聞いてるんですか!?」
笑いじわを浮かべているのに、虎徹は苦しげだ。

───こんなに苦しそうに笑う人を、僕は見たことがない。

「…………身体が、どこか、痛いんですか?」
怒鳴るのを中断すると、病室の静けさが急に強調されて、心もとない。
「病院で痛みを我慢するのは美徳でも何でもないですよ。看護の効率も下がりますから、早くナースコール、を」
伸ばしかけたバーナビーの指は、ベッドヘッドの押しボタンには届かなかった。
虎徹の指に、捕まえられたのだ。
虎徹の表情を、もう一度確認するひまもなかった。
「あ、」
温かい虎徹の指は、予想もしていなかった力でバーナビーの腕を引き、もんどりうつように、バーナビーの上半身は、仰臥している虎徹の上へ倒れ込んでしまう。
「なに、するん…」
引かれなかった方の腕でかろうじて身体を支え、バーナビーは虎徹の身体に衝撃を与えまいと、踏ん張った。
しかし、虎徹の片腕が首根に絡みついてきて、踏ん張りもむなしく抱き寄せられる。
ざらりとした感触が顎に触れる。虎徹のヒゲだ。
不思議なその感触に、鳥肌が立った。




───だめだ。

仰臥したままバーナビーの頭を抱きしめ、虎徹は固く目を閉じる。
不要なナースコールを、阻止したかっただけなのに。
けれど、彼の指に触れたら、もう止められなかった。
この病室まで走ってきて、あんなに息を乱していたのに、バーナビーの指はひやりと冷たい。
頬で頬に触れ、やはりその冷たさを空恐ろしく思いながら、柔らかいバーナビーの匂いを虎徹は鼻腔いっぱいに受け止める。

───違う。こいつが、「ウロボロス」なわけがない。

どんなに「匂い」が似ていようと、あのNEXTは、バーナビーじゃない。
仕事を放り出して、真っ青な顔色で、いけ好かないヒーローのために、こんな病室まで走ってきてくれたこのバーナビーが、得体のしれない組織とつながっているわけがない。
バーナビーの頬は濡れたままだ。それがどうしようもなく愛おしくて、頬から顎へ、たったひとすじ濡れたそこを、唇で拭う。
疑心も、抑制も。
ただ、砕け散る。
「……っ…」
バーナビーが息を飲んだ。
ベッドについた両手を突っ張り、彼は虎徹から逃れようとする。
砕け散った抑制のひとかけらが、虎徹の心臓を刺した。

───だめだ。だめだ。

離したいのに、離せない。
バーナビーの抵抗を上回る力で、虎徹はバーナビーの頭を抱きしめ続けた。
バーナビーが涙を流した理由はわからない。
余計な仕事ばかり増やす、目障りで格好の悪いヒーローを、泣くほど心配する理由が、彼のどこにあるというのか。彼は自分でも、泣くまいと耐えていた。耐えきれなくなって流れた涙が、自分でも不思議でしょうがない、という顔をしていた。
バーナビーは悔しかったのかもしれない。自分の作ったスーツが不具合を起こして、「中身」を負傷させてしまったと、メカニックとして歯噛みしているのかもしれない。
それでも、どうしても、手を伸ばさずにはいられなかった。
誰の前でもなく、虎徹の前で、バーナビーは感情を解放してくれたのだ。その感情の内容が、虎徹の浅ましい期待とはかけ離れたものであっても、まっさらなバーナビーの気持ちを、宙に浮かせたままにしておくことは、できなかった。

───言い訳、ばっかりだ。俺は。

「……う…」
耳元で、バーナビーが小さくうめく。
その吐息と声にぞくりとする。
これ以上は、本当にだめだ。
自ら引き寄せたはずの状況が急に恐ろしくなって、虎徹の腕と下腹から力が抜けた。
バーナビーの口角にたどりついていた虎徹の唇は、一番柔らかなそこに触れることなく、離れた。
「…気持ち、わりぃことして、悪かった」
薄っぺらに謝っても、もう手遅れだろう。
これからバーナビーは、決定的に、虎徹と距離を取るだろう。物理的にも、精神的にも。
ヒーローのメカニックに見切りをつけて、「あっちのラボ」に完全に異動してしまうかもしれない。

───それでいいんだ。それが、常識的な結末ってもんだろ。

頭の中は妙に冴えているのに、虎徹の身体の底の底の、覚えのある小さなひとすみが、焼けつくように痛む。
この痛みは、存在しなかったことにしなければならない。
どんな痛みも、時間が経てば、いずれ薄れる。
死にも等しい「彼女の不在」さえ耐えているこの心が、この程度の痛みに耐えられないわけがないのだ。
「おい?」
腕をゆるめても、バーナビーは動かない。
飛び退くかと、思ったが。
「おいバニー、ちょっ…いでででっ!」
それどころか、急に彼の体重が虎徹の上半身にみっしりとかかってきて、ひびの入った虎徹の鎖骨に、更なるダメージを与えている。
抱き返されるのとは、何かが違う。
だらりと力の抜けた、バーナビーの両腕が、とんでもなく重い。
「おい!……っ、いてぇよ…」
吐息でそこを濡らしてしまいそうなほどに、バーナビーの頬は近い。
バーナビーの目は、虎徹の耳元に埋もれている。
横目で、虎徹はその目をやっとのぞきこむ。
「バニー!?」
冷たすぎる頬の上辺にはめこまれた緑の目は、閉じられていた。
完全に脱力したバーナビーの身体は、もうぴくりとも動かない。
のしかかられたまま、虎徹はバーナビーの肩を片手で揺すったが、黒いTシャツの大きな肩は、がくがくとおとなしく、振動に従うだけだった。
これは。まさか。
「どうした!?おいちょっと、しっかりしろ!!」
ベッドヘッドのナースコールボタンが、こんなに遠いとは。
肩の激痛をこらえながら、虎徹は頭の上のそれに向けて、思いきり手を伸ばした。




気がつくと、ベッドの中だった。
「気分はどうだい?」
優しい声で尋ねられて、そちらを見ると、マーべリックがベッドのすぐそばに座っていた。
状況がすぐに把握できずに、バーナビーは横たわったまま、白い内装の部屋を見渡し、自分の腕に点滴がつながれているのを確認し、そこからもう一度、マーべリックに視線を戻した。
「タイガーくんの病室で、倒れたそうだね。まだここは同じ病院の中だよ。どうしても気分が悪いなら、ここで一晩休んでいきなさい」
状況を簡単に説明されて、途切れていた記憶が、ばたばたとドミノ倒しのように、バーナビーの中でよみがえる。
重傷だと思っていたワイルドタイガーは、かなり元気そうで。
重傷だと勘違いしたのが情けなくて、あの病室で泣いて、怒鳴り散らして。
急に、抱き寄せられて。

───頬にキス、されたところまでは覚えている。

頭の中の整理棚にようやく納まった記憶は、どうにもこうにもいたたまれないものばかりだ。
マーべリックの顔を正視できなくて、バーナビーは唇にこぶしを押し当てた。
おかしな形に歪んでいるであろう唇を、マーべリックに見られたくなかった。
「大丈夫だよ。タイガーくんや他の皆には、君は過労で倒れたと言ってある。熱中症は深刻な状態ではなかったから、この点滴が終わったら、もう一度診察を受けて、その時動けるようなら、私と一緒に家まで帰ろう」
バーナビーは我に返った。
「…ありがとう、ございます…」
伏し目のままで礼を述べながら、こぶしに唇をいっそう押しつける。
マーべリックはいつからここに座っていたのだろう。
いつも忙しい彼が、こんな時間にこんなところまで来るためには、いろいろな予定をキャンセルしなければならなかったはずだ。
地下のラボで、醜態と言っていいほど騒ぎ立てて、斎藤のラボにも戻らずにこの病院に駆け込んだバーナビーの先刻の行動は、もうすっかりマーべリックには筒抜けなのだろう。
地下のスタッフの意向は、そのままマーべリックの意向だ。それをあんなにもあからさまに振り切って、あげくの果てに出先で倒れ、マーべリックの今夜のスケジュールを台無しにしてしまった。
叱責の言葉を待つほんの数秒が長くて、バーナビーの目はもう一度、くらみそうになる。
マーべリックはいつも、諭すようにバーナビーを叱る。
その物言いは理路整然としていて、バーナビーの良くなかった言動を、データ解析を進めるようにバーナビー自身に説いていく。
マーべリックの解析はいつも的確で、その場で納得できるものであり、少し時間が経ってから、あああれは叱られていたのだなとバーナビーが振り返ってしまうほどに、穏やかで効果的だった。
しかし今回は、「諭して」なんかもらえないだろう。
「バーナビー」
口元のこぶしをぎこちなくシーツの上に戻すと、蕩けそうに柔らかな声で、名を呼ばれた。
伏せかけたまぶたを、バーナビーはまっすぐ押し開ける。
「ラボのスタッフから、これを預かってきたよ」
スーツの内ポケットから、マーべリックは小さな包みを取り出した。
指先でつまめるほど小さなそれを、バーナビーは仰臥したまま受け取る。
白っぽい、ぬめりのある布でできた包みの中に、何か重いものが入っている。
「あ、さっきの…」
ラボで落とした、ネックレスだ。
「鎖がちぎれていたんでね。大至急で修理してもらったんだ。今、着けるかい?それとも、ここに置いておいた方がいいかな」
「…着けます」
サイドテーブルを指すマーべリックに、バーナビーは即答した。
サイドテーブルにこんな小さなものを置いておいたら、忘れて帰る確率が高くなる。ただでさえ気持ちは落ち着いていないし、点滴が終わったら、すぐにでも帰りたいのだ。
「じゃあ、着けてあげよう」
そっと、包みごと、マーべリックにネックレスを取り上げられる。
「いえ、大丈夫です。自分で着けます」
「点滴の針が抜けてしまうよ。そのまま寝ていなさい」
起き上がろうとした肩を押し止められ、バーナビーは頭を枕に戻した。
ネックレスの鎖の両端を捧げ持ったマーべリックの両手が、バーナビーの首筋に絡められる。
「迷惑ばかり、かけて。すみません」
頭を少し持ち上げて、バーナビーはマーべリックの動作を補助する。
マーべリックの手で後頭部をすり抜けた金色の鎖は、音も立てずにエンドパーツが繋げられた。
ちり、と胸元に戻った金のプレートは、バーナビーの鎖骨を慣れた感覚でくすぐる。プレートが冷たくないのは、長い時間、マーべリックの胸元で温められていたからだろう。
マーべリックの指が、金の鎖から離れる。
離れて、バーナビーの耳元をゆっくりと滑り抜け、それは流れるような動きで、バーナビーの両頬を捕らえた。
「…心配、したんだよ?」
天井の照明をさえぎり、逆光で暗く陰ったマーべリックの顔が、鼻先にまで近づく。
息が吸えない。
けいれんするように一度だけ、バーナビーは肩を震わせた。
「爆発のあと、ビルに閉じ込められてから、どうして通信を切ってしまったんだい?君が中で倒れているんじゃないかと思って、気が気じゃなかった」
固唾も飲めず、バーナビーはマーべリックを見つめた。
「あの時は、ワイルドタイガーが…そばで、起き上がってきたんです。通信している会話を聞かれたら、正体がばれるんじゃないかと思って…通信を切りました。本当に、すみません」
頬に食い込んでくる指は温かい。
だが。
「彼に、何かされたのかい?」
「いいえ。ただ…」
「ただ?」
「タイガーは、ケガをしていたので…応急キットで、手当てを」
「抵抗されなかったのかい?」
「…はい…」
温かいのに、その指には、ぞっとするような、冷酷な圧力が込められている。

───いつもの、マーべリックさんじゃない。

あのビルの中での出来事を、今のこの人に話すことはできない。
本能でバーナビーは判断する。

───タイガーは、僕を威嚇して、僕を気遣って。僕に、あのチップを譲ってくれて。

言えない言葉が、バーナビーの喉元で熱く渦巻く。
マーべリックの指が、いっそう強く、バーナビーの頬に食い込んだ。
「……ふ…っ…、」
唇に触れてきた唇は、温かくて、恐ろしかった。
「ん……ぅ、」
可能な限り顔をそむけ、バーナビーはマーべリックから逃れようとしたが、横たわっているせいか、両腕にうまく力が入らない。
「お願い、です。今は…」
のしかかってくる肩を、必死に押し上げる。
点滴をつないでいる方の腕が、ずきりと痛んだ。
「今は、やめて…やめて、ください…!」
初めて口に出した拒絶の言葉で、バーナビーの身体の芯までもが、しびれるように痛む。
今は誰にも触れられたくなかった。
触れられれば、身体のあちこちがざわめいて、あの、頬をなぞってくれた、彼の唇の記憶が、上書きされてしまう気がする。
押し上げたマーべリックの肩から、ふと力が抜けた。
「…君は。このごろずっと、キスをさせてくれないね」
背筋が凍りそうなほどに、その声は柔らかい。
バーナビーの唇のそばで、柔らかくて恐ろしい唇はもう一度うごめいて、言葉を発した。
「好きな人が、できたのかい?」
凍りそうな背筋が、震えた。
「……ち、」
喉から唇にまで伝わった震えを耐えて、バーナビーはやっと言葉を吐き出す。
「違います…!」
「なら、どうしてキスが嫌なんだい」
「……わかりません…わからないんです。自分でも。本当に…すみません。ごめんなさい…!」
また目の奥が痛み、バーナビーは歯を食いしばった。
みっともない顔を間近で見られたくなくて、のしかかってきていたマーべリックの胸元に腕をねじ込み、手の甲で自分の目を塞ぐ。

───僕は、どうかしてる。

どうかしてる。
どうかしてる。
どうしたらいい?
頭の中に、何も浮かばない。
こんなにマーべリックさんを困らせているのに、マーべリックさんを安心させる言葉が、何ひとつ、浮かばない。
浮かぶのはただ。
苦しそうに笑っていた、あの人の顔だけで。
本当に。
どうかしてる。

「謝らなくてもいいんだよ」

目を塞いだだけの狭い暗闇に、マーべリックの声が静かに響く。
その静かさが怖いと思うのは、罪悪感の裏返しだろうか。
髪をそっと撫でられる感触の後で、マーべリックの気配は、バーナビーから遠ざかっていった。
目を隠していた手を、バーナビーがおそるおそる下ろすと、マーべリックはもう、ベッド脇のスツールから立ち上がっていた。
「私の方こそ、すまなかったね」
やはり静かに謝罪するマーべリックは、もういつもの社長の顔に戻っている。
「私がここにいると、君をもっと疲れさせてしまうようだから、今日はこれで退散するよ。メカニックと、あちらのラボには連絡しておくから、君はここで一晩休んで、明日の朝、家に帰りなさい」
バーナビーの返事も待たずに、マーべリックはきびすを返した。
その背中に声すらかけられず、手早く開いて閉まった自動ドアを、バーナビーはベッドの上から、茫然と見つめ続けた。





***

『ああ…私だ。手が空きそうな者がいれば、頼みたいことがあるんだが。…都合はつきそうかね?そうか。では、監視の対象の人物を、一人増やしてほしい。新しい対象の名前は───鏑木・T・虎徹。そう。我が社に所属する、ヒーローだ』