ホット・クエスチョン -1-



青い奔流が、バーナビーの頬をかすめるようにして、後方へ飛んだ。
マスクごしでも、平手打ちを食らったような衝撃だったが、バーナビーは構わずに跳び続けた。
名は体を表すのか、ルナティックはいつも、日没後にしか現れない。
彼が飛ぶために炎を発するタイミングと、こちらを攻撃するためのそれがなかなかつかめず、彼を追うバーナビーの足取りは乱れた。
都市特有の明るい闇の中で、ルナティックの背中が遠ざかってゆく。
ルナティックよりも低い角度から彼を追うことはできない。彼の放つ炎が、市内の建物を傷つける可能性があるからだ。
歯を食いしばり、バーナビーはもう一度跳躍した。
シュテルン湾上にまで逃げられれば、もう追うすべがない。このメカニックスーツは、バーナビーの跳躍をかなりのウェイトでサポートしてくれるが、長い距離を飛行することはできない。
能力はあと三分ほどで切れる。
マスクの中で、イレギュラーを告げる警告音が鳴り響く。
さっきの炎で、肩の装甲が少々溶けたようだ。

───まだ動かせる。問題ない。

真っ赤に点滅するインナーモニターを無視して、バーナビーは湾岸倉庫の屋根を蹴った。ルナティックはもう湾上に達している。これが今日の、最後のチャンスだろう。
ふと、中空のルナティックが振り向き、動きを止めた。
宙を突進しながら、バーナビーは腕を伸ばす。
限界まで伸ばした腕の先に、ふわりとしたものが触れる。
ルナティックのマントだ。
そのいまいましい布きれを指に絡める間もなく、バーナビーの視界は真っ青にはじけた。
『あ!』
マントが燃えて散り、バーナビーの視界から、ルナティックは消えた。
方向感覚を失い、バーナビーは落下する。
海上に落ちるわけにはいかない。
相変わらず続く警告音の中で、バーナビーが赤いインナーモニターをにらんだ、その時。
「もらったぁぁ!」
どこか遠くから、聞き覚えのありすぎる声がした。
ぷつり、と胸元にかすかな衝撃があり、そこから胸倉をつかまれるように引っ張られる。
バーナビーの視線の下方には、オレンジ色に光るワイヤーと、黒々とした海面があった。
生き物のようにうごめく黒い波は、くらくらするような速さでバーナビーの視界の後ろへ飛び去ってゆく。
スーツの胸元にワイルドシュートを撃たれ、斜め下方から引っ張られているのだ。
瞬時に方向感覚を取り戻し、バーナビーはワイヤーの先を見た。
港に停泊している小型タンカーの甲板から、ワイルドタイガーが、こちらを見上げて腕を伸ばしている。
空中で体勢を立て直し、数秒にも足りない短い時間で、バーナビーは考える。

───この体勢なら、蹴りが一番有効だけど。

引かれながら落ちていくこの加速のままで、タイガーを蹴るのは危険だ。
あのスーツのどこを蹴っても、彼の装甲の大幅な破損は間違いないし、打ちどころが悪ければ、タイガーは重傷───あるいは死に至る。
彼がぎりぎりで避けられるように、絶妙な角度を狙い、バーナビーは蹴りのモーションのままでワイルドタイガーの横をすり抜け、甲板に飛び降りた。
「おおっとぉっ?」
蹴りのフェイントをくらって、身構えていたタイガーはよろけている。
その隙を逃さず、バーナビーは指先から閃光を放った。




「で?なんで俺のワイヤーは切れちまったんだ?さっき」
「ワイヤーの切れ端を分析しましたが、たぶんビームライフルの一種でしょう」
時刻は深夜に迫りつつある。
バーナビーは疲労をこらえて、メカニックルームに詰めていた。
「さっき」まで出動していた、虎徹と共に。
タンカーの上で、タイガーに絡められたワイヤーを切り、やっとのことで例のラボに帰りついたものの、切れたワイヤーのメンテが気になってメカニックルームに上がってみると、なぜか虎徹がモニターの前に張りついていたのだ。
「捕まえたと思ったら、バーッと光って、なんも見えなくなっちまってさ。あいつ、そんな武器まで持ってやがんのか…」
そう、あれだけはまだ使いたくなかった。
「ウロボロス」の録画映像に張りつく虎徹の背後で、バーナビーは気づかれないように唇を歪める。
こんなに早い段階で、「ウロボロス」が銃器を隠し持っていることを、外部に明かしたくなかった。
まだ能力は発動していたのだから、ワイヤーなど素手でひきちぎってしまえばよかったのに、ひどくあわててしまった自分が悔しい。
しかも、ワイヤーを切った時、タイガーにはライフルが見えていなかったのだ。なのに、こうしてメカニックに戻って、わざわざ分析を加えてそれをバラさねばならない皮肉な立場の自分も、脱力してしまいそうなほどに悔しい。
あのメカニックスーツの右足に隠されているライフルは、ルナティックの炎に対抗する最後の手段として、マーべリックに装着させられたものだ。

───『君は気が進まないかもしれないが…君の命を守るためだ』。

ああ言ってはいたが。
彼は、ルナティックを殺害することもやむなしと、考えているのかもしれない。
胸の底に震えを覚えて、バーナビーは小さく固唾を飲んだ。
震えるなど、今さらなのに。
復讐とはそういうことだ。はるか昔に、決めたのだ。
右手にタトゥーのあるあの犯人を、必ず、両親と同じ目に遭わせると。
いまいましい録画を再生するモニターから、バーナビーは目を逸らす。
ふと、虎徹がこちらを振り向いた。
椅子に座った姿勢からじっと見上げられて、思わずバーナビーは視線を泳がせてしまう。
なんですか、と訊こうとしたその瞬間に、虎徹の唇が開いた。
「あの、な、その…」
「……なんですか」
「その。悪ィな。もうちょっとで『ウロボロス』捕まえられるとこだったのに」
捕まえられてしまっては元も子もないのだが。
複雑すぎる気持ちを飲み込んで、バーナビーはやっと虎徹を見下ろす。

───ひょっとして。

気を、遣われているのだろうか。
モニターから目を逸らしていた自分は、きっと険しい顔をしていたのだろう。それをほんの少し、誤解されているのだろうか。
バーナビーの知る限り、虎徹は他人の機嫌を取らない人間だ。
上司にも、同僚にも、まったく同レベルのへらへら笑いを振りまき、軽い人間を演じてみせながら、実は誰にも決して媚びることがない。
それに気づいたのは、新プロジェクトのラボに移ってからだった。あのラボのスタッフたちは、優秀ではあるが、誰もかれもがみな均質で、マーべリックに従順で、あまり感情の彩りが感じられない。
それまで、感情が豊かすぎる虎徹にかかりきりになっていた反動でそう感じるのかと思ったが、そうではなかった。
優秀なスタッフたちとスムーズに意見を交わし、スムーズに仕事をこなす───それはバーナビーの理想だったはずなのに、なんだか自分でもわからない「何か」が、彼らには足りないような気がするのだ。
その足りない何かを持ち合わせているはずの虎徹が、人に媚びない彼が、今、バーナビーの機嫌をうかがっている。
「もどかしいとか、思ってんのか?やっぱり」
なげやりなのか、優しさなのか、自棄なのか。
珍しいと言うよりも、こんな態度の虎徹などありえない。
「なんも言ってくれねーの?」
想像もしていなかったほどに───虎徹はしょげている。
そのことに驚いて、バーナビーは動けなくなる。
「ウロボロス」がテレビカメラの前に現れてからというもの、本当に皮肉なことにヒーローTVの視聴率は上がり続けている。「ウロボロス」を熱心に追い、お約束のように彼に逃げられるワイルドタイガーの人気も、何のはずみか上昇中だ。
だが虎徹は、そんな周囲の事情にはまったく興味がないようだった。
どんなに不利な状況に陥っても、カメラの前で醜態をさらして失笑されようとも、ただただ、「ルナティックの殺人を阻止」し、「『ウロボロス』を捕獲」する、その目的を果たすために、必死になっているようだった。
「バニーおまえさ…ヒーローになろうとか、思ったことねーの?俺と同じ能力で、しかもそんだけ頭が回るんだったら、おまえ自身がヒーローになってウロボロス追っかけた方がいいんじゃないか?」
突然何を言い出すのだろう。
「ウロボロス」を、たった数回取り逃がしただけで、この人は、ヒーローである自分を否定するのか?
ウロボロスなら、僕は全力で追いかけている。
あなたと同じようにスーツを着て、あなたの、すぐそばで。
「ヒーロー」になりたいと思ったことはあったけれど、それは、僕の信条でも、憧れでも、なんでもなく。

「ヒーローは、嫌いなんです」

口に出したとたんに、こみ上げる何かが、バーナビーの唇を裏側から圧迫する。
この場で、こんなことを口にする自分が信じられない。

───違う、僕が言いたいのは。

虎徹は、少し目を丸くした後、本当にかすかに笑んだ。
その表情は、苦渋とも、自嘲とも、同情とも取れた。
彼のアイデンティティーを冒す、失礼極まりない爆弾発言をされているのにもかかわらず。
「嫌いなのに…なんでメカニックに?」
低く温かい声が、バーナビーの肺にまで響く。
「会社の命令です。僕はロボット工学を究めたいだけです」
言い訳がましい自分の言葉に、頭痛がする。
「なんでヒーローが嫌いなんだ」
言うことを聞かない子供を諭すように、虎徹は穏やかだ。

───嫌いで結構、俺は俺の思うようにやる、って、言って欲しかったのに。

そういう答えが返ってくると思っていたのに。
そんなふうに訊かれたら、言ってはいけないことを、誰にも言えなかったことを、言ってしまいそうになる。
虎徹の顔を直視できなくなり、バーナビーは立ったまま彼に背を向けた。
今すぐ走って逃げ出したい。
足が動かない。
背後で椅子が柔らかくきしみ、虎徹がそこから立ち上がる気配がした。
「なあ。なんで?」
穏やかに尋ねてくる声が、ただ怖い。
「教えてくれ」
背後から、白衣の肘をそっとつかまれて、全身がしびれた。
振り払おうと思えば、簡単に振り払えるのに、腕が動かない。
虎徹の指先にほとんど力はこもっていない。逃亡するのも、返答するのも、どこまでもバーナビーの自由なのだ。
今日の虎徹は本当におかしい。
力のこもっていない彼の指先から、体温が流れ込んでくる。
白衣の布ごしなのに、なんて温かい指なのだろう。
恫喝も拘束もされていないのに、形状すら感知できない何かが、バーナビーの心を責め立て、揺さぶっている。
揺さぶられ、バーナビーの唇は、勝手に開いた。
「………ヒーローは、」
ぽつりと決壊した言葉が、唇のそばで、空気に溶ける。
溶けてしまったその軽さに戦慄する。
「ヒーローは、テレビカメラのあるところにしか来てくれません」
戦慄しても、いっさいはもう、元には戻らなかった。
「ヒーローは、本当に…本当に困っている人のところには、絶対に来ない。だから僕は、絶対に、そんなやつには、なりたくない。…それだけです」
クリスマスツリーの燃える、あの部屋に。
父と母が、血に染まって倒れていたあの部屋に、ヒーローは来てくれなかった。
誰も。来てくれなかった。

───場違いな恨みを、僕は、この世で一番不適切な人間に、ぶちまけている。

おしまいだ。
明日からもう、この人は僕を見ないだろう。
「ウロボロス」を追うことも、やめてしまうだろう。
追跡をやめてもらえれば、どんなにか気楽になるはずなのに、思いもかけず、バーナビーの喉元に、何かがひっかかる。

───嫌じゃ、なかったんだ。

背後のこの男が、目を輝かせて「ウロボロス」を追うと言ったあの時、バーナビーの中に嫌悪感はわかなかった。
ただわけがわからなかった。
大金が手に入るでもない、ポイントが稼げるでもない、他人から称賛を集められるわけでもない、ただただ危険極まりない、まったく無駄な仕事を、なぜこの男は自らに課すのかと。

───わけがわからなかったけど、僕は、あの時。

心の裏側の、自分自身でさえめったにのぞき込まないような、もやもやとした霧の中で、僕はほんの、ほんの少し。
嬉しいと、思っていなかったか。
バーナビーの中の小さな覚醒から逃げるように、温かい指が、バーナビーの肘からそっと離れてゆく。
「…そうか…」
穏やかすぎる相槌と一緒に。
違う。僕が言いたかったのは。
懲りずにまだ喉の奥から何かがこみ上げてくるのを、バーナビーは両こぶしを握りしめて耐えた。

───僕があなたに言いたかったのは。

そんなにしょげるなんて、あなたらしくないですよ。
って、それだけだったのに。




大人げないことをしてしまった。
ただ、その一言に尽きる。
自宅のソファに大の字で寝転がり、虎徹はゆらゆらと揺れる天井を見つめた。
別に地震でも、近所の工事の振動でもない。
飲んだ酒が、血管を通してゆらゆらと脳みそに吸収されているだけだ。
いいかげん午前様なのだから、さっさと寝た方がいいに決まっているのに、いくら飲んでも、目が嫌な具合にさえて眠れない。
今日の──いやもう昨日か───昨日のあれは、失態だった。
またも「ウロボロス」を取り逃がしたことも失態だったが、その後で、バーナビーにとんでもないやつあたりをしてしまった。

───ヤケクソを気取って。あんな子供に、愚痴垂れ流して。

「ウロボロス」が逃げてしまって、一番悔しいのはバーナビーだ。
自分で現場に出れない分、倍も万倍も悔しいはずだ。
なのに。
また何秒か、能力の持続時間が短くなったのが、不安で。
「ウロボロス」に逃げられる、自分に腹が立って。
バーナビーの、がっかりした顔を見るのがつらくて。

───あいつにわざと食い下がって、あいつが言いたくなかったことまで、言わせた。

こんなにバーナビーをがっかりさせているのに、バーナビーが残業に付き合ってくれたことが、嬉しくて。
嬉しいと思っている自分が、どうしても、汚く思えて。
殴られてもいいと思って、バーナビーの腕をつかんだ。
いや、殴ってほしかった。その手のひらで、その言葉で。
ひどくされればされるほど、きっと、あきらめがつく。

───ああ、嘘だ。嘘だ。嘘だ。

腕を上げて、虎徹は視界を塞ぐ。
視界を塞ぐといっそう苦しくなり、ソファの上で、横向きに身体をねじり、縮こまる。
この感情を捨てたいと思うそばから、不快に心拍数が上がる。

───俺はただ。

ただ、バーナビーの言葉を聞いていたかった。
それが、ヒーローである自分への罵倒であったとしても。
飾らず、何も構えず、バーナビーが心の奥底で大事に握りしめていた、おそらく誰にも言わなかっただろう言葉を投げかけてもらえることが、嬉しかった。
後見人のマーべリックにも、その周囲にも遠慮して、本当の気持ちを押し殺して、バーナビーはここまでやってきたのだ。
それがヒーローへの逆恨みだったとしても、虎徹はバーナビーを責める気にはなれない。
誰かを恨まないと、耐えられなかったのだろう。
そして今でも、その逆恨みを支えにして、バーナビーは耐えているのだろう。

───バニーは、ちゃんとわかってる。俺にはわかる。

「逆恨み」を自覚しているバーナビーを、背中ごと抱きしめてやりたかった。
バーナビーが向こうを向いてくれていて、本当によかった。あの時バーナビーの顔を見てしまっていたら、我慢できずにもう一方の腕を伸ばしてしまっていたことだろう。
同情と肉欲はこんぐらかり、ねじ曲がり、のたうち回って、虎徹の体幹を、内側からじわじわと痛めつける。
何がどうして、こうなったのだろう。
友恵を亡くしてしばらくは、女性全般…いや人間全般に興味がなくなったものだが、さすがにあれからもう五年だ。
欠落感はまったく消えないが、街中やテレビで美女を見かければ、それなりに心が浮き立つ。俺も少しは人間らしい人間に戻れたなぁと、妙な感慨すら覚えていた矢先に、これだ。
俺は実は男もいけるクチだったのか。
それとも、そこらのアクターも真っ青なバーナビーの美貌が悪いのか。
いや、いくらキレイでも、あのキレイさは完璧すぎて、俺の好みからはズレてたはずだ。
完璧な美貌の中に、デコボコなんてもんじゃない、とにかく何が出てくるかわからない予測不能な性格が詰まってて、その予測不能さに驚いて、ちょっと楽しくて、あいつが動くたびに、何か言うたびに、つい、手を伸ばさずにいられなくて。
人への好意の理由など、考えれば考えるほどわからない。
わからないとわかっていても、相手が男である以上、どうしても考えないわけにはいかない。
考えないわけにはいかないが。
…この無限ループも、そろそろ限界だ。
縮こまったまま、虎徹はまた、半分だけの寝返りをうつ。
このたちの悪いクイズの正解は、至って簡単だ。
どうにもならないなら、耐えればいい。
ただ黙っていればいい。
バーナビーにも、周囲にも、黙っていれば、虎徹の本当の気持ちなど誰にもわからない。
真実を垂れ流すことの重大さに比べれば、こんな忍耐など、まったく大したことはない。
初恋に頭の沸いた、中学生とは違うのだ。
「俺は、耐えられるよな。友恵」
無理やり言葉を口に出すと、乾ききっていた唇のささくれが、ぴりりと痛んだ。少し、裂けているのかもしれない。
血を舐めるのが嫌で、虎徹は寝転がったその姿勢から、もう一度、ローテーブルの上の酒瓶に手を伸ばした。




初出勤の時だって、こんなに緊張はしなかった。
バーナビーは車から降り、ドアをロックする。
あんなに早く家を出たのに、今日もまた道路工事にひっかかり、通り慣れない道を迂回していたら、こんな時間になってしまった。
早くメカニックルームに向かわないと、虎徹が出勤してきてしまう。
車のキーをパンツのポケットにねじ込み、ほとんど小走りに近いスピードで、バーナビーは歩く。
社用の駐車場から社屋の入口に飛び込んで、今朝の段取りを頭の中で組み立てながら、ロッカールームに向かう。

───こんな時に限って。朝から「こっち」の仕事だなんて。

虎徹と顔を合わせたくない。
虎徹がいつ来るかもわからない、メカニックルームに行きたくない。
せめて、「こっちのラボ」に閉じこもっていたい。

───何か。何か、ラボでできるメンテナンスか実験を、斎藤さんが言いつけてくれないだろうか…

スーツの耐火試験は、もうとっくに斎藤さんが済ませてしまってる。でも、ルナティックに対抗するために、もうワンランク上の耐火機能をつけた方がいいんじゃないかってこの間から斎藤さんが言ってるから、スーツの素材をリニューアルするか、装甲を耐熱コーティングするか考えなきゃいけないし。ナノメタル素材は結局、スチール系とアルミニウム系のどちらが耐熱性能が高いんだろう。そこからリニューアルしなきゃいけないとしたら、塗付の難しい耐熱コーティング剤を塗る手間と比べて、どっちがコストパフォーマンス的に優良か僕には予想がつかない。スーツ内の空調も、酸素供給の面からもっと組み直さないといけないし。ああどっちにしろ斎藤さんとミーティングしなくちゃいけないのか。予算のことも考えなくちゃならないし、データをシミュレーションするだけならメカニックルームにこもりきりになってしまうし。

考えて、考えて、考えながら、バーナビーはロッカールームで着替えをすませ、廊下を歩く。
ここまでなんとか虎徹とは遭遇しなかったが、あの男はいつも神出鬼没だ。
その前に、ヒーローの出動要請はいつ来るか、それは誰にもわからない。
否応なしに虎徹と会わねばならない、突然のその時のために、開口一番のセリフぐらいは考えておいた方がいいんじゃないか。

───おはようございます。おじさん、仕事ですよ。
───着替えてください。
───スーツの装着お願いします。
───用意はいいですか。

こちらからいつもの流れに持ち込めば、あの人は、何もなかったようにふるまってくれるだろうか。そもそも、出動前の緊張感の中でややこしい話をしているヒマなんていつもないから、こちらさえ普通にしていれば、どうにでもなるのだし。
「何もなかったように」ふるまう虎徹を想像したところで、ふいにバーナビーの胸の中は、ひやりとざらついた。
寡黙な虎徹を、バーナビーは見たことがない。出動前の緊張感の中でも、雰囲気に飲み込まれることなく、おちゃらけすぎることもなく、いつも虎徹は絶妙なバランスで軽口をたたいている。

───バニーちゃん、今日も頑張ってんなぁ。
───白衣のここ、汚れてんぞ?替えとかあんのか?
───ま、汚れててもカッコイイぞ。イケメンは得だねぇ。
───お、ちょい離れてくれ。準備体操すっから。
───今日もスーツ壊さねぇように頑張るからな。なんだよそのため息。俺はいっつも真面目よ?
───よっしゃ、行ってくる!

あの軽口は、たぶんもう聞けない。
虎徹は普通に挨拶して、普通にこちらの指示に従ってくれて、普通にスーツを着て、普通に出動してゆくだけだ。
「普通に」接してくれる虎徹を思い浮かべると、ざらつく胸の中で形を成した痛みが、バーナビーの全身に拡散した。
とりかえしは、もうつかない。
虎徹にぶつけた言葉を引っ込めることはできないし、バーナビーは今でも、ヒーローという存在が嫌いだ。
それでも、胸が痛い。

───謝るしか、ないんだ。

虎徹に謝っても、虎徹の態度は元には戻らないだろうけども。
この胸の痛みを緩和する方法は、それしかない。
あるいは謝ったせいで、緩和どころかもっと痛むかもしれないが、それは自業自得というものだろう。
この痛み以上の痛みを、バーナビーは虎徹に与えたのだから。

───『失礼なことを言って、すみませんでした』。

謝らなくてはいけない。
たとえ目を逸らされても、黙り込まれても、聞こえなかったふりをされても。

───でもやっぱり僕はヒーローが嫌いです。
───でも。
───僕は、あなたのことは。
───ヒーローを真面目に務めようとするあなたのことは。

嫌いじゃ、ないんです。

言わなくては、ならない。




十時になっても。
十一時になっても、ランチの時刻を過ぎても、メカニックルームの内線電話は、神妙に押し黙っている。
ヒーロー出動要請は、いっこうにかからない。
「ワイルドタイガー」が、ひょっこりこの部屋に現れることもない。
静寂の中をたったひとり、緊張感にさいなまれつつ、バーナビーはデータをパソコンに打ち込み続けていた。
脳内の半分を入力作業に使い、もう半分で、バーナビーは緊張しすぎて痛み始めた、自らの心臓を嘆く。

───罰ゲームにしてはあんまりだ。

いや、ヒーローの出動要請がないのは、本当に喜ばしいことだ。
でも、いつ鳴るかわからない電話の前に座っていなければならないなんて、それでその電話がかれこれ五時間近くも鳴らないなんて、こういうのを神経衰弱ゲームと言うのではないだろうか。
いやいや、それもこれも自業自得だと、何度言い聞かせれば、この胸の痛みはおさまるのか。
虎徹は、普段のこの時間はトレーニングセンターに行っている。

───いっそのこと、こちらから。

「待ち」の姿勢は捨てて、こちらから虎徹の居場所へ出向いてしまうか。
いやいやいや、いくらなんでも不自然すぎる。トレセンには他のヒーローたちもいるはずだし、そんな人目のあるところに裏方のメカニックふぜいが現れたりしたら、虎徹まで奇異の目で見られてしまう。
ヒーロー同士、親睦を深めてはいるようだけども、彼らは仲間であると同時にライバルだ。メカニック担当が現れることで、スーツの技術開発的にはトップの位置にあるアポロンメディアの内情まで疑われかねない。
そこまで考えて、バーナビーは指を動かすのをやめた。
キーボードの上から腕を引っ込め、両手のひらを、ぱたりと腿の上に落とす。

───気が小さいにも、ほどがある。

人ひとり傷つけておいて、自分から、謝りに行くこともできない。
僕は矮小だ。
卑怯だ。
愚鈍だ。
ヘタレだ。
椅子に座ったままがくりと頭を垂れ、思う存分自分を罵っていると、脇のデスクの電話が鳴った。
NEXT能力も使っていないのに、椅子から数センチは浮き上がった気がする。
とうとう、来た。
絶望的なスイマーのように、両腕でぎこちなく宙を掻いて立ち上がり、
バーナビーは受話器に向かい、それを持ち上げる。
『バーナビー!!そろそろ休憩にしよう!!ラボまでお茶を持ってきてくれないか!!!』
鼓膜が、痛い。
受話器を耳から外して、バーナビーは崩れ落ちるようにデスクにつっぷした。
どういう拡声機能を使っているのか、耳元で炸裂した斎藤の声は、いつにも増して強烈だった。




休憩ロビーの自販機で、バーナビーは紅茶とコーヒーを一杯ずつ淹れた。小さくてもいい、トレイを持ってこなかったのはまずかった。ラボまで歩かなければならないのに、両手がふさがってしまうのを面倒に思いながら、片手にコーヒーの紙カップを握って、紅茶の抽出を待っていると。
「よう、バニー」
耳元で、声が響いた。
バーナビーは硬直する。
硬直して、紅茶を持ち上げようとして、やっぱりやめて、たいした勢いで振り向いてしまう。
「うわっ…あああ熱っ!」
「あっ…!す…すみません!!!」
バーナビーにその存在を忘れられた片手のカップの中身は、背後に立っていた虎徹の胸元にぶちまけられてしまった。
空になったカップを床に投げ捨て、バーナビーは虎徹の胸倉をつかむ。
「おわぁっ!なにすんだおまえぇぇっ!!」
「身体、かがめてくださいっ!」
飛びのきかけた虎徹をぐいと引き寄せ、その後頭部を押して無理やりお辞儀させ、茶色く濡れたベストの水分を、素手で絞って床に落とす。
「……く、」
熱いなどと言っている場合ではない。
これ以上、虎徹の服を濡らしてはいけない。虎徹の下半身まで濡らさないようにするには、これしかないのだ。
「おまえ、手が!」
お辞儀をしたままの虎徹がバーナビーの手首をつかんできたが、それも振り払い、バーナビーは虎徹のネクタイをゆるめ、上から順に、シャツやらベストやらのボタンを外しにかかる。
「ここここらっ、自分で脱げるから、離せって!」
「黙っててください!」
虎徹の後頭部を押さえつけたまま、ベストを脱がせ、シャツを脱がせ。
むき出させた虎徹の胸元は、赤くなっている。さすがに皮膚がめくれるほどではないが、とにかくすぐに冷やさなければならない。
「これ着てください。給湯室で、氷か保冷剤をもらって冷やしましょう」
バーナビーは白衣を脱いで、虎徹の肩にかけた。
緊急事態とはいえ、虎徹に、半裸で会社の廊下を歩かせるわけにはいかない。
「おい、おまえのコレも汚れるぞ…?」
「どうでもいいですそんなこと!早く着てください!行きますよ!」
床に払い落した虎徹の服を、すばやく拾って小脇に抱え、バーナビーは虎徹の白衣の胸元を、引きずるようにつかんで歩き出した。