ブラック・プリズム -8-



力の入らない指で、虎徹は自らのフェイスガードを上げた。
そして、力の入らない腕で、倒れているバーナビーの半身を抱き起こした。
砂礫のようなもので、バーナビーの白い頬は灰色に汚れている。
閉じられたまぶたにかぶさる金色の髪も、粉がふいたように汚れを含んでいる。
ほのかに青く、彼の身体全体が発光している。まだNEXT能力を発動しているのだろう。
薄く紫がかった唇から、幾筋か血がこぼれている。
周りじゅうが───空気も建物も虎徹もバーナビーも───爆風に撒き散らされたほこりで灰色に汚れているのに、そこだけが、目を射るように赤い。
やはり力の入らない指で、虎徹はその血を拭った。
拭っても、あとからあとから血はこぼれてくる。
その果てなさに、指先が震える。
声にならない叫びが、虎徹の身体の中で限界まで広がり、凍結する。
じゃり、じゃり、と金属片を踏むような音が聞こえた。
叫びを凍結させたまま、虎徹はゆっくりと振り向く。
「さァて。来てもらおっか」
軽く散歩でもすませてきたような風情で、ジェイクは両手を腰に当てて立っている。
「………誰が、どこへ行くんだ」
怒りすらなぎ払われた静かな声で、虎徹は尋ねる。
ジェイクは実に面倒くさそうに、肩をすくめた。
「おまえと、その『ウロボロス』ちゃんを、俺のおウチに連れて帰ってやるよ」
「連れて帰ってどうする」
「ま、本音言やあ、おまえみてーなムサクルシイクソッタレヒーローなんざ連れて帰りたくねーけどよォ。俺がちゃんとおウチに帰るまで、他のクソヒーローに邪魔されたくねェからな?」

───人質か。

「俺が黙ってついて行くと思うのか」
「そりゃ、来るだろ?ヘンなワガママ言うと、そのクソ生意気な『ウロボロス』ちゃんを、今度こそコナになるまで燃やしちゃうぞ?」
「…こいつはおまえの仲間なんじゃないのか。同じウロボロスの」
ぷっ、とジェイクが噴き出す。
「ぅふ、は、ははは、あはははァ!」
ひーひーと息を吸いながら、笑い声があふれた。
「なかま!ナカマねェ!そういえばそうだったかもしれねェな!!」
目尻の涙を拭って、ジェイクが一息つくまでに、何秒かかったことだろう。
「あー、笑いすぎて腹が痛ェよ。メンドクサついでに教えといてやる。このまんまじゃー、あんまりにも『ウロボロス』ちゃんがかわいそうだからな」
薄暗い廊下が、ふと明るくなった。
大きな天井穴から、薄まった白煙を透かして、日光が射してきている。
まるで、ジェイクのための、スポットライトのようだ。
「ほれ。よーく見ろ。ってアレレェ~、端っこから上手く剥がれねェや!最近のシールはよく出来てんな!」
光が、ジェイクの顔と、顔の前にかざされた手のひらに降り注ぐ。
白く照らし出された右手の甲を、ジェイクは爪でひっかいている。
右手に染み込んでいるはずの黒い蛇の環は、爪でひっかかれて、いとも簡単に形を変えた。
「ダメだァ。ちゃんと風呂で洗わねーとダメみたいだわコレ」
剥がれきらないタトゥーシールを、ぺしん、と左手で叩いて、ジェイクはにっこりとほほえむ。
見ていられずに、虎徹はバーナビーを抱きしめた。
こぼれていた血は、バーナビーの口の端で、もう固まりかけている。
内臓からの出血ではないのかもしれないと思うと、こんな状況なのに、張りつめた意識の一部分がゆるみそうになる。
「手にシール貼れだの、『ウロボロス』ちゃんを殺さねー程度にいたぶって来いだの、もーアイツは注文ばっかでさー。ほとほとイヤになったわけよ。わかる?」
ジェイクの声が遠くなる。
煙が晴れて日が射しているのに、ジェイクの暴露を受け止めきれない虎徹の意識には、もやがかかっているようだ。
それでも訊かねばならない。
「アイツって誰だ」
ジェイクは心底うっとおしげに虎徹を見下ろした。
「はァー、さっすが見境のねぇ賠償金野郎は頭が悪いなァ。その『ウロボロス』ちゃん…っていいかげんメンドくせーな、そのバニーちゃんの親を殺ったヤツに決まってんじゃねーか」
「誰なんだ」
「それは、おまえの方がよーくわかってんじゃねェの?」
その通り、わかっている。
今、はっきりしたのだ。
それでも虎徹は認めたくなかった。
「犯人」がどれほど狡猾で、どれほど残忍だったとしても、バーナビーがずっとずっと、家族同然に思っていたその人物を、虎徹は自分の推理だけで断罪したくなかった。、ヒーロー失格だと言われても、その人物の名を最初に口に出すのは、自分以外の、バーナビー以外の誰かであって欲しかった。
「アイツは今頃後悔してるぜ。上からの命令通り、二十年前にバニーちゃんも殺しときゃよかった、ってさ。中途半端なコロシなんかするから、上から見捨てられんだよ」
憐れむように目を細め、ジェイクは射してくる光を見上げた。
ヘリコプターのプロペラ音が、ひときわ大きくなる。
だが、天井穴からちらりと見えた機体は、ヒーローTVのそれではなかった。
「おっと、迎えが来ちまった!クリーム!!もういいぞ!!」
がらんとした廊下の一角にジェイクが呼びかける。
すると、数メートルも離れていない、へしゃげた扉の一つが、がたんと音を立てた。
おそらくジェイクが、あらかじめそこを壊しておいたのだろう。
中から蹴飛ばされでもしたのか、鉄格子つきのその扉は、簡単に外れて外側に倒れた。
頭を丸坊主に刈られた女が、倒れた扉を踏みつけながら、廊下に出てきた。
「…ジェイク様」
感極まったように駆け寄ってきた女を、猫をあやすようにジェイクが受け止める。
「ひでェ頭にされちまったもんだなァ…悪かったな、遅くなって」
「いいえ。いいえ、ちっとも」
涙声の女の両肩を、ジェイクは実に優しく叩いた。
いきなり、廊下の端から爆発音が聞こえる。
バーナビーの頭を抱え込み、虎徹は背を丸めた。
爆風が、鉄格子ゲートを透過して真横から叩きつけてくる。
ゲートの向こうの、作業場だか運動場だかが、爆破されたようだった。
せっかく煙の晴れていた廊下が、また白煙で満ちる。
煙の中で、ジェイクが咳払いしている。
ほとんど故障したと思っていた通信が、虎徹の耳元で、自動的に開かれた。
『……タイガー!!…女子棟で爆発が続……が大丈夫か!!ジェ…クの仲間らしい武装ヘリが近づい…る!!!退避も考…!!!無理するな!!!』
斎藤の声はとぎれとぎれだったが、内容は理解できた。
煙を吸い込まないように気をつけながら、虎徹はマスクの内蔵マイクに向かって叫ぶ。
「『ウロボロス』、が!ジェイクにやられて負傷してます!受刑者の救助と合わせて、こいつの救助も、お願」
言い終わらないうちに、ヒーロースーツの喉元を絞め上げられる。
「ほれ、余計なクチきーてんじゃねェよ。行くぞ、立て?」
バーナビーを抱いてひざまずいたまま、数十センチも引きずられ、せめてジェイクをにらみ上げようと、虎徹が首をひねった、その視界の端で。
青く輝く影が、ジェイクの身体を何メートルも向こうにはじき飛ばした。
クリームと呼ばれた女が、悲鳴を上げる。
飛ばされたジェイクの身体は、爆風で壊れかかった鉄格子のゲートを突き破り、爆破されて天井のなくなった作業場に落ち、細かいがれきの上をごろごろと転がった。
何が起こったのかわからなかった。
まだ床にひざまずいた姿勢で、虎徹はグローブの指先を震わせた。
手の中にあったはずのバーナビーの身体が、消え失せている。
今度こそ、見失うわけにはいかない。
身体の芯に力を込めて、NEXT能力を発動させると、宙に浮かぶ青い人影が、目に飛び込んできた。
バーナビーが、跳躍している。
いつ覚醒したのか。
焼け焦げたアンダースーツ姿のままで、倒れたジェイクを追って、バーナビーは駆けてゆく。
ハンドレッドパワーが、虎徹の動体視力をかさ増ししていた。能力を使わなければ見ることのできない、バーナビーの動きだった。
腹を押さえて倒れたジェイクが、言葉にならない声で叫び、悶えている。
「ジェイク様!」
女が、ジェイクに駆け寄ろうとした。
雷のように、ヘリコプターのプロペラ音が降り注ぐ。
作業場のジェイクをピックアップするつもりなのか、機体はひどい低空飛行で降下してきた。
バーナビーが、ひときわ高く跳躍する。
ライフルを失ったバーナビーは、ジェイクを蹴り潰すつもりだ。
何度も見た、あの「ウロボロス」の───いや、バーナビーの蹴りの構えにぞっとする。
空中のバーナビーに向かって、ジェイクが吠えた。
バーナビーを追って、虎徹も跳ぶ。

ジェイクが放った赤い光が、バーナビーの右足に突き刺さった。

バーナビーを空中で抱き留めて、虎徹は作業場の隅に降り立った。
降り立つと同時に、背後でまた、爆発が起こった。
爆風によろめきながら膝をつき、バーナビーを床に下ろす。
振り向くと、横っ腹を何者かに撃ち抜かれたヘリが、床に接して炎上していた。操縦席も銃撃されたのか、跡形もなく大破している。
ジェイクも、あの炎の下だろう。
周囲を見回しても、かなり上空でヒーローTVのヘリが旋回しているだけで、大がかりな銃撃を仕掛けられる機体や銃器は見当たらない。
短い咳が聞こえる。
ふと見ると、バーナビーが咳き込みながら半身を起こしていた。
「だめだ起きるな!寝てろっ!!」
怒鳴って、虎徹は左腕から、ワイルドシュートのワイヤーを自分で引き出した。
「……ェイクは、」
バーナビーは、虎徹の手首をすさまじい力で握りしめてくる。
「ジェイクは死んだ。今は何も考えるな」
オレンジ色に光るワイヤーを、虎徹はバーナビーの右腿に何周も巻きつける。止血帯の代わりだった。
ジェイクの光がまともに刺さったバーナビーの右足は、滝のように出血している。腿の血管は人間の急所だ。救助を待つのすらもどかしい。
「………」
放心したのか、虎徹の手首を握っていたバーナビーの手が、ずるりと床に落ちた。
一緒に、起こしていた上半身も、ぐったりと横たわる。
「バニー!!」
寝ていろと命令したのは自分なのに、全身の毛が逆立つような恐怖に襲われて、虎徹は思わず叫んでいた。
灰色に汚れたバーナビーの顔は、透き通るように青さを増している。
「……僕に、」
バーナビーの能力の発動時間はとっくに過ぎている。生命力にあふれたあの青い輝きとはまったく別の青が、バーナビーの肌を染めている。
「僕に、触る、な…」
うわごとのようにつぶやいて、バーナビーは目を閉じた。
スーツ越しとはいえ、ライフルの熱源で身体を焼かれているのだ。右足以外にも、彼のダメージは計り知れない。

───輸血も点滴も間に合わねぇ。

ヒーロースーツの脇腹を探って、虎徹は小さな小さなパッケージを───あの、経口補水塩チップを取り出した。
こんなところで、こんなものを使わなければならないのが、悔しかった。
「ワイルドタイガー」が一人でもたくさんの人を助けられるようにと、このチップをスーツに組み込んでくれたのはバーナビーだったはずだ。
なのに。
歯噛みしても、嘆き悲しんでも、そんな感情は今、何の役にも立たない。
「バニー、飲め」
取り出したチップの封を前歯で食いちぎり、バーナビーの口元に含ませると、紫色の唇が、小さく震えた。
「僕に、…触るな」
「くだらねぇこと言ってる場合じゃねぇっ!!」
怒鳴りつけると、バーナビーの目が、うっすらと開いた。




右足が痛む。
火傷よりももっと、焼けつくような痛みが、右の腿で脈動している。
横たわったまま、バーナビーは短く息を詰めた。
痛みはどんどん膨張してくる。
口元に、また塩辛いゼリーのようなものが押しつけられる。
「早く!飲めって言ってんだよ!!」
ワイルドタイガーの声が、びりびりと耳元にまで響く。
なんてやかましいのだろう。
声は聞こえるのに、ワイルドタイガーのマスクはシルエットだけで、「中身」の表情がわからない。
わからないことが、どうしてこんなに不安なのか。
鏑木虎徹は、バーナビー・ブルックス・ジュニアの敵だ。
彼の表情をうかがう必要など、どこにもない。
不安が増す。
ジェイクは死んだと、タイガーは言った。
なぜそんなことが断言できるのか。
この男が邪魔したせいで、ジェイクにとどめを刺せなかったのに。
不安と怒りが混じり合って、声も出せない。
すぐに起き上がって、ジェイクの様子を確かめたいのに、ハンドレッドパワーの切れてしまった身体はとてつもなく重くて、頭すら持ち上げることができない。
右足が猛烈に痛む。
あふれかえる不安が、バーナビーの視界を狭くする。
ここは刑務所だったはずなのに、建物が爆破されて天井が崩れたはずなのに、そして今日は晴天だったはずなのに、周りじゅうが薄暗い。
そして猛烈に暑い。
すぐ近くで火災が起きているような暑さだ。
「早く飲め!おまえが作った、おまえのチップだろ!?飲めよ!飲めったら…飲めっ!!」
僕の。
僕のチップ?

───それは僕のじゃない。



からからに渇いた喉の奥底で、何かが動いた。



動いたそれは、目もくらむ白さで閃いた。
暗闇と。
暑さの中で。
ぱちぱちと爆ぜるように。
遠くで何かが燃えていて。
僕はあの時も不安でしかたがなくて。

───あの時も、あなたはチップを僕に譲ろうとして。

だからそれは、僕のじゃない。
「…それはあなたの、」
そのチップはあなたの、あなたが飲むべきの、あなたが飲まなければならなかった、
「あなたのチップ、…でしょう?」
「何言ってやがんだバカッッ!!!」
悲鳴のように怒鳴られる。
暗い視界の中で、こちらを見下ろしているワイルドタイガーの吐息が、湿り気を増す。

───泣いて、くれてるんですか?

虎徹の顔が見たいのに、あの黒いアイパッチの奥には、とろけそうなブランデー色の目がはめこまれているはずなのに、彼のシルエットすら暗い空に暗く溶けかかって、何も見えない。
バーナビーの口元から、飲みこぼしたゲル化剤がとろりとひとすじ、流れ落ちた。
流れ落ちたそれは、とてつもなく柔らかなもので拭われ、また唇に戻される。
顎を乱暴につかまれ、バーナビーが思わず唇をゆるめると、量を増したゲル化剤が、再び口の中に注ぎ込まれた。
柔らかく、そして固く、唇を唇で塞がれているのがわかる。
喉の底で閃いた記憶まで、濡れそうだ。
ようやく二口、バーナビーはゲル化剤を飲み込んだ。
閃いた記憶が、いっそう白く、バーナビーの全身を駆け抜ける。

───あの時、あなたは少し、笑っていた。

笑って、僕が差し出したチップを、僕の指ごと押し返して。
僕は腹が立ってしかたがなくて、あなたが死ぬかもしれないのが不安でどうしようもなくて。
僕はあなたが、あの時から、ずっと。

「好きです」

口に出すと、目の前がいっそう暗くなった。
意識の最奥で、もはや硬化しかかっていた言葉を剥がした代償だろうか。
「好きなんです。あなたが」
「……へっ?……」
虎徹がおかしな声を出した。
救急車のサイレンが聞こえる。一台の音ではない。
重なり合うサイレンの洪水の中で、虎徹が何か言っている。
目を開けられずにいると、半身を強く抱きしめられた。
真っ暗な視界の底で、意識の半分以上は痛覚でいっぱいになっているのに、硬く触れてくる虎徹の腕や、すり寄せてくれるマスクの感触が嬉しくて、息ができない。
もっと触れたい。
あの温かい手に、頬に。唇に。
金属か何かのように重くなった自らの腕を上げて、バーナビーは虎徹の腕に触れたが、ヒーロースーツの表面は、衣服と違ってつるりとひっかかりがない。
指先に、ひやりとした装甲の感触を記憶したところで、バーナビーの五感は途切れた。


***

暗い視界の、暗い記憶の中から、声がする。
聞き慣れた、温かい声だった。

───『どうしたんだい、こんなところで座り込んで』。

あんなに優しい声だったのに。

───『そんな格好では、風邪をひいてしまうよ?』

玄関で、僕は立ち上がれなくなった。

───『さあ。ベッドに戻りなさい』。

後ずさりすらできなかった。
それから。


***

「さあ。ベッドに戻りなさい。ひどい顔色だね」
ひざまずいてきたマーべリックの、大きな白い手のひらが、バーナビーの頬をそっと捕らえる。
バーナビーは動けない。
バスローブ姿のまま投げ出した素足に、もう力が入らない。
「本当に、何も食べていないのかい?だめじゃないか」
いったい誰から事情を聞いたのか。
マーべリックの別邸から飛び出して、三日前にこの家に帰ってきてから、バーナビーは誰とも連絡を取っていない。帰宅してから会話をしたのも、昨夜の虎徹が初めてだった。
明け方、バーナビーが眠っている間に、虎徹がマーべリックに連絡したのだろうか。いや、そんなはずはない。バーナビーが「思い出した」、あの話を聞いた虎徹が、よもやこの男に連絡などするはずがないのだ。絶対に。
「…さ…」
限界を超えて振り絞った声が、バーナビーの舌をいっそう凍らせる。
「さわら、ないでください…!」
腕を上げてマーべリックの手を払うこともできず、バーナビーは弱々しく首を振った。
頬の上のマーべリックの手のひらは、蛇のような動きで、バーナビーの耳元へ滑る。
「さわらないで!僕に、触るな!!」
がくがくと震える手を床につき、床に座り込んだまま、やっとのことでバーナビーは後ずさる。
ふとマーべリックが、腕を下ろした。
頬を解放されて、バーナビーはまた数センチ、後ずさる。
ひざまずいたまま、マーべリックは悲しげに息をついた。
「…そんなに、私が恐ろしいかい?」

───そんな。

そんな質問に、どうやって答えろというのか。
「あの時も、君は今と同じような顔をしていたね」
何を言われているのか、まったくわからない。
「いや。あの時の君は、こんなに怖がってはいなかったかな。ただ驚いて、綺麗な目をそれはそれは大きく開けていた」

───わからない。

「な、んの」

───いつの、なんの、話?

「なんのこと、ですか…?」
絶望に裏打ちされた、かろうじての質問は、我ながらどこか白々しい。
白々しくて───世界が全部、この場に、この床に、粉々になって崩れ落ちてきそうだ。
「思い出したんだろう?バーナビー」

二十年前の、あの事件を。

「どうして…、どうして、」
身体と一緒に凍ったバーナビーの脳は、完全に思考を止めた。
唇から、もう言葉が出てこない。
ただひとつ、「Why」の単語を除いては。
「君の両親は、正義感にあふれた人だった。でも、正義だけで、世の中は良くなったりしないんだよ」
もう見たくないのに、マーべリックの顔から目が離せない。
「しかたなかったんだ。ウロボロスと手を組んだことを知られてしまったら、もう私には、他に方法がなかった」
「どうして、」
「やっと軌道に乗った、ヒーロー事業部を存続させるためだよ。ヒーローには、常に事件と悪役が必要だからね」
「どう、し、て」
「心配しなくていい。君の両親は、苦しまずに亡くなった。奇跡的に二人とも、一発ずつの致命傷だったんだ」
次々と、崩れ落ちる。
バーナビーの膝元に、世界を構成する、透明で硬い何かが、無数に。粉々に。
崩れ落ちた透明ながれきの中から、マーべリックの腕がまた伸びてくる。
「う、して……どうしてっ!!!あ、あああっ!」
頬をもう一度包まれ、バーナビーは悲鳴を上げた。
震える手で、頬の上の、マーべリックの手のひらを引き剥がす。
もう、手も足もほとんど動かせなかったが、それだけは捕らえねばならないという本能が、バーナビーの指に最後の力を与えた。
つかんだマーべリックの手首を鼻先に引き寄せ、噛みつくように、バーナビーはそこを凝視した。
ありえなくて。
ばかばかしくて。
考えすぎた末の、幼稚な直感で、そこを見なければならないと思った。
鼻先の、白く大きな、見慣れた手の甲に浮かんでいたのは───蛇の環だ。
腫れたように赤黒い蛇が、マーべリックの皮膚の中で、自分の尾を飲んでいる。
「生まれつきの、アザでね」
こともなげな、マーべリックの声がする。
「神経が昂ぶると、浮かんでくるんだ。ずっと、君の前では抑えていられたんだが」
「あ…あ…」
「私の愛しいバーナビー。また、忘れてくれるね?」
マーべリックの瞳が、青く燃え上がった。
身体の奥底までが勝手に震えて、バーナビーの視界全体も、かすかに青白く染まる。
いつのまにか、バーナビーも能力を発動していた。
「…私を、殺すかい?」
マーべリックの声が笑む。
「殴るかい?それとも首を絞めるかい?いや、そもそも。君に私が殺せるのかい?」
バーナビーに握られたままの右手を、またマーべリックが伸ばしてくる。
ウロボロスの浮かび上がるその手を振り払うと、バーナビーの喉元で、嫌な音がした。
「……!」
手首の骨でも砕けたのか、マーべリックが腕を抱えて床に崩れる。
その脇に、粉々になった金の鎖が、流星のように散らばった。
ハンドレッドパワーの余波で、バーナビーのネックレスがちぎれたらしい。
金のトッププレートも真っ二つに割れ───金属のかたまりだと思っていたその割れ目から、銀色の砂粒のようなものが漏れ出している。
「ああ…なんて、ことだ」
腕を抱えて床に転がり、マーべリックがうめく。
「抜群の、音質。だったのに」
全身を青く光らせて、バーナビーは震え続ける。

───ま、さか。

プレートから漏れた銀の砂は、目を凝らすと、ごく微細な電子部品のかけらに見えた。
プレートの中に精密機械を埋めることはできても、それで電波を送受信することはできないはずなのに。
金属は電波を遮断するはずなのに。
まさか。
「き、んぞくなのに、」
うわごとのようなバーナビーのつぶやきに、マーべリックは横たわったまま、吐息だけで笑った。
「よく、出来てるだろう…?光沢メッキの、プラスチックだよ。難しい注文だと、先方には叱られたがね…」
また、透明な何かが、バーナビーの足元に崩れ落ちる。
こんなに崩れてしまったら。
もう、立ち上がれないのではないか。
面白いように震える指で、バーナビーは壊れたトッププレートを───いや、盗聴器を───拾い上げる。
力の加減ができずに、その小さな機械は、発光するバーナビーの指先で、今度こそ砂のように砕け散った。
「さあ。嫌な夢は、全部私に移しなさい」
どこかで聞いたセリフが、間近から耳に注がれる。
昨日も、おとといも、その前も、何もかもすべて、この床に横たわっているこの男に、ずっと聞かれていたのだ。
「大丈夫。移せば、楽になるよ」
夢を移し、記憶を消す。そんな子供だましが、本当にできるのだろう。この男には。
這うようにうなだれたバーナビーの頭を、白く輝くマーべリックの手のひらが、ゆっくりと撫でた。

「おやすみ。バーナビー」






***

バーナビーは目を開けた。
見覚えのある壁と天井が目に入ったが、ここがどこだったか、思い出せない。
今は朝か、夕方かもわからない。
窓から斜めに射し込んでくる光のせいで、真昼ではないことがうかがえた。
さっきまで、数え切れないほどの夢を見ていた。ほとんどは悪夢だったが、中には、悪夢のような記憶のリプレイも混じっていた。
混じっていたことはわかるのに、どれが夢で、どれが自分の記憶だったか、判然としない。
もっと頭の中がはっきり覚醒すれば区別がつくのだろうが、覚醒していくことそのものが、バーナビーにとっては、うすら寒く恐ろしい。
恐怖が、バーナビーの呼吸を早くしていた。
そっけないクリーム色の、上質とは言えない薄さの毛布が、バーナビーの喉元までを覆っている。
その毛布の色で、ここが病院の、入院棟の一角であることを、バーナビーは思い出すことができた。
身体のあちこちにごわごわした感触がある。手指にも、胸元にも、下半身にも、かなり広範囲に包帯が巻かれているようだ。
左腕には点滴らしい管が挿し込まれている。
しかたがないので右腕をそっと動かすと、重い何かが、ずるずるとシーツの上に落ちる気配があった。
明らかに体温を持っているその重い有機物にぎょっとして、バーナビーは起き上がれないまま、自分の身体の右側を見やった。
ベッド脇に、誰かいる。
ベッド脇のスツールに腰かけて、横たわったバーナビーの腰付近に顔と腕を突っ伏して、見覚えのありすぎる黒髪を振り乱して、彼は眠っている。
ますますぎょっとする。
右腕に感じていた重みは、彼の手のひらだったらしい。
バーナビーの恐怖が、混乱に変わる。
ビームライフルを破壊され、右足を撃ち抜かれて意識を失った後で、おそらく自分はこの病院に運び込まれたのだろう。
そこまでは容易に推測できる。
だが、なぜ今、医師や警官や裁判官でなく、虎徹がそばに居るのかがわからない。
ジェイクに「ウロボロス」のマスクを破壊され、虎徹にはすべてを知られてしまったはずだ。
ジェイクがどうなったのか、マーべリックが今どうしているのかわからないが、「ウロボロス」を騙っていた自分が、あの状況で、警察やヒーローTVの追跡から逃れられたとはとても思えない。
額にわいた、冷や汗のようなものを自分で拭いたくて、バーナビーは毛布の上の右腕をもう一度動かした。
しかし。
動かしたそこが、いきなり熱い指先につかみ上げられ、悲鳴に近い吐息をもらしてしまう。
バーナビーの腕をつかんだまま、異変を察知した猛獣のように、虎徹はがばりと上体を起こした。
まともに、目が合った。
いっぱいに見開かれたブランデー色の瞳の中に、怒りや、憎悪の感情はかけらもにじんでいない。
ほとんど無感情に見えたそこに、ゆらりと白い光が浮いた。
白い光は、彼の目の中ですぐに限界まで膨張し、音もなく水に変質して、虎徹の両頬を滑り落ちていった。
「……ぁい、どうだ」
温かい、だが不明瞭な声が聞こえた。
「足、…ぅしても痛いなら、薬増やしてもいいって、医者が言ってたぞ?」
無表情な虎徹の頬を、あとからあとから絶え間ない涙が滑り落ちてゆく。
滑り落ちた涙は、虎徹の顎を伝い、そこからシャツの襟元へ容赦なくしたたる。ネクタイも締めていない、開かれてしわだらけの襟の緑色が、したたった粒の分だけ、黒く染まる。
虎徹の中から、何かの感情が、決壊していた。
オーバーフローして、オーバーヒートして、彼の表情筋は逆に凍結してしまったのだ。
誰に説明されなくても、バーナビーにはそれが理解できた。
ぐしゃぐしゃに乱れた虎徹の前髪が、まだらに伸びてむさ苦しいことこのうえない虎徹の顎ヒゲが、腕を握りしめてくれる虎徹の指の熱さが、彼の感情のすべてを語っていた。

───今だけ、忘れよう。

この人の、この涙が乾くまで、僕は僕の犯した罪を忘れよう。
今だけ僕を、許してください。
虎徹に詫びているのか、両親に詫びているのか、神に詫びているのか、もうわからないまま、バーナビーは震える唇を開いた。
「…痛いですけど。具合は。悪く、ない、です」

───涙が乾くまで、あと何分か、わからないけれど。

その何分かだけ、僕はただの僕になって、この人の涙を、僕だけのものにしたい。
虎徹の中から決壊して流れてきた何かが、バーナビーの喉さえも濡らした。
喉が濡れ、鼻の奥が濡れ、目頭が濡れて、それはバーナビーの発声のじゃまをする。
「薬も、後で、……いいですから」

いまいましくて温かすぎるそれが、ぽろりと一粒、バーナビーの目尻から墜落した。