ブラック・プリズム -9-



───ジェイクの腕の、鑑定結果が出ました。

薄く大きな封筒が、鼻先につきつけられる。
入院棟の廊下で、ぐったりと長椅子に座っていた虎徹は、顔を上げた。
賠償金の裁判で顔馴染みの裁判官が、封筒を持って、目の前に立っている。
裁判官の肩越しに、私服の警官が立っているのが見える。警官は、そばの病室のドア前で、貼りついたように動かない。ジェイク事件その他もろもろの、重要参考人かつ容疑者である「ウロボロス」が───いや、バーナビー・ブルックス・ジュニアが、その病室に入院しているからだ。
バーナビーがここに運び込まれてから、虎徹は家に帰っていなかった。
ほとんど、この病室前の廊下に籠城していたと言ってもいい。
マーべリックの手が、この病院に及ぶのが恐ろしかった。軍も警察も司法局も信用できなかった。どこにマーべリックの配下が食い込んでいるのかわからないのだ。病院関係者の手を通して、入院中のバーナビーの口を封じることなど、彼らにとっては朝飯前だっただろう。
出血多量で危険な状態だったバーナビーが意識を取り戻した数日後、
バーナビーの証言によって、マーべリックは拘束された。
メカニックスーツをまとった「ウロボロス」の正体も、マーべリックの画策も、大々的に報道され、アポロンメディア社の評価は地に落ちた。
───その、地に落ちた会社に所属する、引退寸前のヒーローのために、このペトロフ裁判官は骨を折ってくれているのだった。
やっと長椅子から立ち上がって、やっとペトロフから封筒を受け取り、虎徹はその場で封筒の中身を取り出した。
中身の報告書を読み終え、ぽつりとペトロフに尋ねる。
「この、ジェイクの遺体をヘリの下から持ってきたロボットが、ヘリも撃ったってことで、間違いないんですかね?」
「そうです。そちらの報告はまだ書類に上がってきていませんが。H‐01というコードネームの、非常に精密なアンドロイドだったそうです。おそらく、ミスター・ブルックスの身代わりとして作られたのでしょう」
「そのエイチゼロワンは、今どこに?」
「ヘリの火災による損傷が少々あったようですが、本体は、警察が保管しています」
「…斎藤さんに、分析させてやりてぇなぁ…」
「ミスター・サイトウ?どなたのことですか」
「あ、いや。こっちの話です、すんません」
刑務所でヘリが炎上し、バーナビーが救急車で搬送されていった後に、H‐01は現れた。
バーナビーが着ていたのと、そっくり同じメカニックスーツを着た「ウロボロス」が、もうひとり存在していたのだ。
H‐01は、炎上するヘリに悠々と歩み寄り、通常の人間とはかけ離れた腕力で燃える機体をかき分け、ジェイクの右腕だけをそこから引きずり出した。
そして、右腕を握ったままヘリから少し離れたところまで歩き、急にひざまずいて、そこからもう動かなかった。
鬼気迫る光景だった。
火災に耐えられるスーツを着ていたH‐01の動力中枢が、なぜ不具合を起こしたのかはわからない。ジェイクの右腕にこだわったのも、意味不明だ。
そもそも、アンドロイドに自由意志などありはしない。
ヘリを撃墜するよう指示したのはマーべリックかもしれないが、タトゥーの有無の証拠となるジェイクの右腕を、ヘリの下からわざわざ引っ張り出すという指示を、マーべリックが出すはずもない。
精密なアンドロイドが故障すると、とっぴな行動を取るものなのだろうか。
たとえ斎藤が、H‐01の本体を分析する機会を得ても、謎は解明されないような気がした。
解明されない方がいいのではないかと、虎徹は思う。これ以上バーナビーを悩ませたくはない。
「ああ。昼食の時間のようですね。では失礼します」
食事用のワゴンを押して、廊下の向こうから看護師が近づいてくる。
その独特の車輪の音を耳にとめたのか、ペトロフは一礼し、さっさときびすを返して行ってしまった。
質問を追加するヒマも、礼を言うヒマもなかった。




サラダ、チキンの蒸し焼き、ベーグルを二つに、オレンジを数切れ。
それからミルク。
それが、この入院棟の───バーナビーの、昼食だった。
ベッド脇からアームを伸ばした簡易テーブルの上に、殺風景な彩りの食事トレイが載っている。
虎徹はそれを、うさんくさげに見下ろした。
「いっつも少ねぇなぁ、このメシ」
「じゃあ横から食べるのやめてください」
一切れつまんだオレンジが予想外に酸っぱく、虎徹は思わず咳き込む。
貴重な食料を奪われたバーナビーの目は、あきれながらもどこか笑んでいる。
その笑みの温度がふと下がり、優しく低い声が聞こえた。
「さすがにもう、毒見の必要はないと思いますよ」
ごくりと両肩を上げてオレンジを飲み込み、虎徹は思わずベッドの上のバーナビーを見返した。
すっかり、バレている。
バーナビーの意識が戻り、普通の食事ができるようになってから、虎徹はずっとバーナビーの病院食に手をつけていた。
毒殺も十分ありうる状況だったからだ。
バーナビーに気づかれないよう、廊下で食事トレイを受け取った際にこっそり手をつける時もあれば、先刻のように、冗談めかしてバーナビーの目前で皿の上のものを強奪する時もあった。
平たく言えば虎徹は毎回つまみ食いを働いていたわけだが、どう罵られようと、バーナビーの安全には代えられなかった。
バーナビーはいつも、虎徹を責めなかった。
殺風景な病院に閉じ込められ、監視され、尋問され、気が抜けるのは食事時くらいのものなのに、その大事な楽しみを虎徹に邪魔されても、ひとことふたこと憎まれ口を浴びせてくる程度で、少しも怒っている気配がなかった。
怒っていなかったのは、虎徹の意図を最初から理解していたからなのだ。
いたたまれずに、虎徹は昼食のトレイと、バーナビーから視線を逸らす。
バーナビーが、ふ、と笑みを吐く気配があった。
「あの人は拘束されましたし、もともとウロボロスの組織は途中からあの人を見限っていたみたいですから。あの人に繋がっていた僕を殺すメリットも、もうほとんど無いはずです。だから大丈夫です」
マーべリックという名前を、バーナビーは入院してから一度も口にしない。
それだけで、空恐ろしいほどにバーナビーが傷ついていることがわかる。
今までの経緯を考えれば不思議なほど、バーナビーは以前と同じ態度で虎徹と会話してくれているが、彼は虎徹の前で一度も、恩人で、そして仇だったあの男の名を口にはしない。
バーナビーの心の傷を実感するたびに、硬い石を飲んだような苦しさで、虎徹の身体は重くなる。
バーナビーに訊きたいことは山ほどあった。

足の具合はどうか。
火傷の傷跡はちゃんと消えそうか。
もしアポロンメディアを辞めるのなら(辞めさせられるのなら)、ひとりでこれからどうするのか。
『ウロボロス』を演じていた間、何を考えていたのか。
両親の仇を追うためならば、周囲に嘘をつくのは、なんでもなかったのか。それとも、苦しいと思っていてくれたのか。
いつマーべリックのNEXT能力に気づいたのか。
どうしてあの時、急に記憶が戻ったのか。
虎徹のことが好きだと言ったあれは、本当はどういう意味なのか。
単なる、うわごとだったのか。

どれも、訊かなくてもよい、どちらかといえば訊く必要のない質問ばかりだ。
ヒーローを辞め、家族のもとへ帰ることになっている虎徹にはもう、バーナビーに寄り添える時間は無い。
実家近くに住む兄から、楓も母も無事だという連絡をもらってはいるが、今度こそ、兄に任せるのでなく、自分で家族を守っていかなければならない。
バーナビーの退院日は明日に迫っている。NEXTであるせいなのか、彼の傷の治りは早かった。なのに半月も入院期間があったのは、マスコミと「本物の」ウロボロスをシャットアウトして、警察がバーナビーの尋問を進めるのに都合がよかったからだ。
その長くて短い半月の間に、虎徹がバーナビーと会話できる時間はあまりなかった。
バーナビーが意識を取り戻すまでは付き添いも許されたが、事件の重要参考人とされたバーナビーには監視がつき、彼への尋問が佳境を過ぎるまで、虎徹は病室に入ることができなかった。
重要参考人の同僚として、虎徹も監視されながら、病室前の廊下で籠城するしかなかったのだ。
そして今、マーべリックの企みの全貌が見えてきて、バーナビーの不起訴がほぼ確実になり、やっと監視カメラ付きの病室内で、こうして会話を許されている。
だから今、言わなければならなかった。
バーナビーがフォークを手に取り、静かに皿のレタスを刺し、口に運ぶ。
その一連の動作を見届けて、虎徹は彼のベッドの脇で突っ立ったまま、腹に力を込めた。
「…食べながらでいいから、聞いてくれ」
レタスを咀嚼していたバーナビーの口元が静止する。
「俺、あさって実家に帰るわ」
静止していた唇が、かすかに震えたのを視界の端に留めて、虎徹は病室の窓へと視線を逸らした。
窓を覆う白いブラインドは、真昼の日差しをさえぎるためか、半分以上も閉じられていて、外の景色はほとんど見えない。
景色を眺めるふりをすることもできず、虎徹は視線をただ下げた。
「…早すぎませんか。契約は、今月末までの予定だったんでは?」
短い咀嚼と短い沈黙を終えて、バーナビーが問い返してくる。
バーナビーの下半身を覆う白い上掛けを見つめながら、虎徹はまた腹に力を込める。
「会社はあんなんなっちまったし。社長が捕まっちまった会社所属のヒーローが、のこのこテレビに出られるほど状況は能天気じゃねぇからな。どうせ出動できねぇんなら、とっとと切り上げて帰っちまおうか、って」
なんとかつっかえずに、言えた。
バーナビーは黙っている。
「おまえも退院できるし、不起訴は確実だろうってペトロフさんも言ってたし。こう言っていいのかどうかよくわかんねぇけど…よかった、な」
バーナビーは何も言わない。
やはり言葉選びを間違えたかもしれない。
バーナビーが「よかった」と思えることなど、何も起こっていない。
彼はマーべリックに裏切られ、マスコミの餌食にされ、その心の癒し方もまだわからないまま、これから本当にたったひとりで、濁った都会の空気の中へ帰っていかねばならないのに。
今までありがとうな、という別れの言葉を、ここからつなげるのがとても苦しい気がして、虎徹は鈍く固唾を飲んだ。
かち、と食器が鳴る音がする。
バーナビーが、持っていたフォークを皿に置いたようだった。
「…………あの、」
沈黙の中からこぼれるバーナビーの声に、虎徹はびくりと顔を上げる。
バーナビーが、こちらをまっすぐに見つめている。
「最後に。僕に何か訊きたいことは、な…いんですか?」
虎徹も苦しいが、バーナビーも苦しげだ。
バーナビーの言葉尻だけをとらえると、責められているようにも聞こえたが、彼の声はかぼそかった。単語の途中で息が途切れている。
「訊きたいことって、…」
ぶつかった視線から逃れられずに、虎徹はバーナビーの唇を見つめた。とても目を見られる状況ではなかった。
「僕があなたを騙していた間、何を考えていたのか、とか」
心臓が縮み上がる。
「どうして僕の記憶が急に戻ったのか、とか」
心を見透かされた気がして、なのに、ますますバーナビーの唇から目が離せない。
「………そんなん。訊いて、どうすんだ」
「会社を辞めるあなたにはもう関係のない話かもしれませんけど…僕が、言いたいんです。たちの悪い独り言だと思って、聞いてくれませんか」
この場から走って逃げ出したいのに、硬い石を飲んだような虎徹の身体は、ますます重くなる。
その重苦しさが、スポンサーに贈呈された、いつかのチョコレートのようにほろ苦くて甘いことにすぐ気づいてしまい、虎徹は物理的な抵抗をあきらめた。
「…好きに…しろよ」
ため息をつくふりをして、ベッド脇に放置されていた小さなスツールを引き寄せ、実に乱暴なしぐさで、それに腰掛ける。
ハンチング帽を深くかぶり直そうとして、頭の上に何も乗っていないことを思い出し、うつむいたままイライラと髪を掻く。
虎徹から視線を返されないことにも構わず、バーナビーはトーンの変わらない声で話し始めた。
「…あの人に、『ウロボロス』を演じてみないかと言われた時、僕は迷いませんでした。何年も両親の仇を探し続けて、結果が出なくて、それに疲れていたんだと思います。『ウロボロス』を名乗れば、警察やヒーローに追われることもわかっていましたが、逃げ切りたいと思う以外は、何の感想もありませんでした。本物のウロボロスをおびき出せるのなら、あの人のためにルナティックを捕まえられるのなら、もう何でもよかったんです」
バーナビーの手が、簡易テーブルの下で静かに握りしめられる。
「僕は爆弾事件でビルの中に閉じ込められた時も、正体がばれるのが嫌で、あなたに経口補水塩チップを渡しませんでした。あなたの命より、自分の嘘を優先したんです」
「待て。おまえはあん時…割とムリヤリに、俺にチップ、飲ませた、だろ?」
思わず虎徹は顔を上げたが、落ち着き払った緑の目に射られて、盛大に赤面してしまう。
「だから。あれは僕のスーツに付いていたチップです。あなたのスーツに付いていたチップのことを、僕はあなたに教えなかった」
「あ。そうだっけか…」
「H‐01が僕の身代わりをしてくれるのをいいことに、僕はあなたを騙し続けて、コケにして、危険な目に遭わせました」
「え、ちょ、」
「…もう少し、聞いてください。お願いします」
しゃべり続けて唾が絡むのか、バーナビーは自分の喉元を軽く押さえて、息をついた。
「僕は、両親の事件の直後から、あの人に何度か記憶を改ざんされていました。子供の頃からいつも、精神的な違和感が長く続いて、気持ちが悪かったのを覚えています。あれは改ざんされた直後の感覚だったんでしょう。あの人のNEXT能力は───能力としては、完璧ではなかったようです」
トーンの下がった声に、虎徹の赤面も追い払われる。
「あなたのことを忘れている間は、特に気持ちが悪かった。会社の休憩室のコーヒーの匂いを嗅いで、なんとなくあなたを思い出しかけたこともありました。あ、あなたとここの廊下を歩いたことがある、って」
赤面は追い払われて、冷たく湿った何かが、虎徹の体幹にじりじりと切り込んでくる。
「あなたをあんなにないがしろにしていたのに───僕は、あなたを忘れていたことが苦しかった」
告白している今ですら苦しげに、バーナビーはゆっくりとうつむいた。
ほとんど伏せられた、金色の長いまつげが震えている。
スツールに座ったまま、虎徹は動けない。
じりじりと冷える身体は、指先まで、唇の皮一枚まで、もう滑らかに動いてくれない。
「あなたは、僕の正体を知っても、ヒーローらしく僕を助けてくれた。ジェイクにやられた僕に、あなたのチップを飲ませてくれた」
バーナビーの白い頬が、苦しげにゆがむ。
すらりとした眉も、鮮やかに湿った唇も、見たことがないほどゆがんでいるのに、それが、気が遠くなりそうなほどきれいだと思う。
「あなたがチップを飲ませてくれたから、思い出したんです。あなたのことを」

虎徹の息が、数瞬止まった。

「僕がここに入院してからも、あなたは僕にずっと付いていてくれた。自分も死ぬかもしれないのに、僕の食事が安全かどうかまで、確かめようとしてくれた。そうやってあなたにひどい負担をかけているのに、僕はあなたを遠ざけることができなかった。どうしてもあなたが好きで、たまらなくて」/
呼吸が再開できない。
いま起こっていることは、いま耳に流れ込んだバーナビーの声は、本当に現実なのだろうか。
満足に酸素を取り込めない口元が、下顎が、勝手に震えてくる。
「僕は、あなたも僕のことが好きなんじゃないかと勝手に思っていました」
「…………あ、のな。バニー」
「でも、それが確実かどうか悩むのはもうやめました。あなたは誰かを助けることがあたりまえな、ヒーローですし。それ以前に最初から、僕はあなたに必要な人間じゃなかったから」
「バニーちょっと待て」
「必要どころか、僕はあなたの人生を邪魔している。あなたと、あなたの家族を危険にさらしている」
「待てって」
「それにやっと気づいて、そのうえで今、あなたに好きだのなんだのと垂れ流している最低な心根の人間なんです」
「ちょっと待てって言ってんだろこんにゃろおおお!!!」
ばん、とこぶしで簡易テーブルを叩く。
皿の上に残っていたオレンジが、衝撃でぱたりと倒れた。
こぶしをテーブルの上に置いたまま、虎徹は肩で息をする。
危険を察したウサギがピンと耳を立てるように、バーナビーは固まっている。
虎徹に、バーナビーを責める権利はない。
虎徹が自分なりに答えを出して、バーナビーから離れようとしたように、バーナビーもバーナビーなりに答えを出して、虎徹から離れようとしているだけなのだ。
結果としての答えは同じなのに、その過程の違いに、愕然とする。
何も言わずに去ろうとした自分と、何もかも告げて去ろうとしているバーナビー。
バーナビーは、自責の念から、わざと自身を悪しざまに言っている。
だが相手に気持ちをぶちまけて、フォローもせずに立ち去るのは、残酷なやり方だ。

───だけど。

ぶちまけられて、俺は、嫌なのか?
バニーを、許せないと思うのか?
バニーには、同情しか感じないのか?
モラルがどうこうヒーローがどうこう友恵がどうこうと、ありとあらゆる理由をつけて俺はバニーから逃げようとしてきたけど俺は今、頭がガンガンして心臓がバクバクして、息がしにくくて身体が動かしにくくて指先が震えてきてるけどそれは、それを自覚するのも怖くて震えてるけど、ただバニーが、ウサギのくせにこっちを食い殺しそうな勢いでガン見してるこいつが、舌噛んで死んじまいたいぐらいにキレイだと思ってしまうそれは。それは。
「それ」は誰にも祝福されないだろう。
それどころか、罵倒されたって文句は言えないだろう。
だけど、今ここで自分の中の「それ」に背いたら、今度こそ、絶対に、取り返しのつかないことになるような気がする。
「…………俺は、」
簡易テーブルの上にこぶしを置いたまま、やっと虎徹は声を出した。
唾で濁ってしまった声とは裏腹に、身体の中の敗北感は、恥ずかしいほど甘く無責任に、透き通る。
「俺はおまえを一度、見捨てたんだぞ?」
「は?」
「おまえが俺を忘れてた時、俺は、マーべリックが怪しいってわかってたのに、状況がヤバイからって辞表書いて、おまえをマーべリックのとこに置いていこうとしたんだぞ?」
「あなたには家族がいる。自分と家族の安全を優先するのはあたりまえでしょう」
「おまえがジェイクにやられても、指くわえて見てただけの役立たずだし」
「僕はジェイクを殺そうとしました。あなたはそれを止めてくれた」
透き通る敗北から遠ざかりたいのに、まだ逃げられるものなら逃げたいのに、バーナビーに反論すればするほど、虎徹の意識は元の場所に───甘い敗北の真ん中に戻ってきてしまう。
耐えきれず、息を継いだ。
「俺はこれから、おまえのそばにもいられねぇのに、」

───突き刺され。

見開かれたバーナビーの目の最奥に、その心の最奥に、この言葉が、自分勝手で卑怯なこの言葉が、まっすぐ突き刺され。
「そばにいてやることもできねぇのに、俺はおまえが好きとか思ってる大バカだぞ」

沈黙が、病室に満ちた。

もう少し、気の利いたことが言えればよかったのに。
友恵の時もそうだったけど。
もっと優しくて、もっと温かくて、もっとバーナビーを納得させられる言葉があるはずなのに、俺はいつも、肝心なとこで、バカみたいなことしか言えなくて。
幽霊でも見ているように、バーナビーの視線は虚ろだ。
「そ、ばに、いてくれなんて、言いません」
いや。
どうしても予測できなかったことが起こった時、人はかえって虚ろな顔をするのかもしれない。
自分も今、ひょっとしたらこんな顔をしているのかもしれない。
バーナビーが虚ろなままの視線を下げ、虎徹のこぶしと昼食が載った簡易テーブルを見つめる。
壊れたガラス片に触れるように、バーナビーの中指の先端が、握られたままの虎徹のこぶしに触れた。
人さし指。
薬指。
小指。
最後に親指が触れ、虎徹のこぶしは完全に覆われる。
温かいバーナビーの手が、虎徹のこぶしの上で、けいれんするように細かく震えている。
「たい…いんして、あした、から、あなたが、僕のそばにいてくれたら、」
手と同じに、バーナビーの声も震えている。
「そうしたら、僕はきっと、ダメになってし、まう。あなたに、迷惑をかけてしまう。でも。もしも、もしもほんの少しでも、あなたが僕を許してくれるのなら、いえ、許してくれなくてもいいですから、あなたのメールアドレスだけ教えてもらえませんか。送信なんかしませんから。僕はあなたのアドレスを知っていたら、知っているだけで、僕は明日から、ひとりで生きていけるような気がするんです」
どうして、離れたら終われるなんて思っていたのだろう。
実家に帰ったって、数時間列車に揺られてこの街に来れば、バーナビーに会えるではないか。
声を聞きたければ、電話をかければいいではないか。
透明でまぶしい敗北感に浸されて、虎徹は思わず目を閉じる。
天国には列車も電話も通じていないが、シュテルンビルトには、ありとあらゆる交通と通信手段があふれている。
バーナビーは生きている。
同じ空の下で、たった数十キロの彼方で、きっと生き続けてくれる。
そんな簡単なことが、どうしてわからなかったのだろう。
虎徹は目を開けた。
目を開けて、テーブル上で捕まえられている指を開いて、そこに被さって震えていたバーナビーの指を、乱暴に握り返す。
どんなに手を伸ばしても届かないと思っていた温かみが、ここに、こんな近くにある。
「あのな。ヒトにアドレス聞いといて送信しないなんてワケわかんねぇこと言ってんじゃねーよ」
「…え、」
「メールしてくれ。俺もするから。電話もくれ」
虚ろだった緑の目が、見開かれて、また伏せられる。
金色のまつ毛がみるみるうちに湿り、水滴が、音にもならない音を立てて、バーナビーの膝元に落ちる。
「僕はずっとあなたに嘘をついていました。何ヶ月も。今だって」
「もういいよ」
「許してくれなくてもいいなんて、嘘なんです」
「いいから」
「謝らせてほしい。許してください。ごめんなさい。ごめんな、さ、…」
「バニー。こっち向け」
涙をこらえ続けるバーナビーの顎を、虎徹は無理やり引き寄せた。
愛しくてうるさい口は、塞ぐしかない。
まだ何か言い募ろうとするのを封じると、声になりかけていたバーナビーの息の振動が、ダイレクトに虎徹の歯茎に染みた。
びくりと震え直したそこが、吐息を漏らす。
「あ、…んぅ…」
吐息は、頭痛を誘うほど甘く湿っている。
感電するように腰がしびれ、かえって理性が揺り戻される。
監視カメラの前で、バーナビーを押し倒すわけにはいかない。
「いいから。もう黙ってろ」
今まで、何度も何度も触れていたそこなのに、バーナビーの唇は、別人のように、どこまでも温かかった。
濡れたまつ毛を指で拭ってやり、それでもまだ目尻からあふれてくる涙を、とろけるように真っ白な頬の上で、そっと擦り取る。
肌に肌をもっと押しつけて、彼の温かみの深さを探りたい。
その頬の、その唇の、その首筋の温かみを、ひとかけらも逃がしたくない。
だが、虎徹は全霊で理性を振り絞った。
バーナビーの温かみに溶けかけた唇を、悔しいながらも、どうにか離す。
離す代わりに、バーナビーの肌の奥まで届けきれない「それ」を、彼の唇の数ミリ手前で、小さく小さくささやいた。
この病室の監視カメラの録音機能はさほど優秀ではない。
言葉はおそらく、バーナビーにしか聞こえないはずだ。
バーナビーの顔も見ずに、虎徹はスツールから立ち上がった。
「じゃ。俺も、昼メシ食ってくるわ」
この後廊下に出て、監視中の警官と顔を合わせるのが果てしなく気まずいが、どうしても立ち上がらずにはおれなかった。
「待ってください!」
シャツの袖口を、ありえないほどのすばやさで捕まえられ、虎徹は前のめりによろけた。
「うお、おまえ、危ねぇよ!」
ベッドヘッドの鉄柵に手をついて、かろうじて体勢を保つが、バーナビーは手を離さない。
「今の、もう一度言ってくれませんか」
溺れる者はワラをもつかむ。
運命の後ろアタマはハゲている。
唇と一緒に溶けかかった虎徹の脳内に、あらゆることわざがなだれ込んでくるが、どれもしっくり来ない。
それほどの、バーナビーの必死の表情だった。
「また今度な」
「じゃあ、あなたの声紋認証のパスワードでいいです」
「おまえなぁ…」
どっちも内容同じだろ、立ち直んの早すぎねぇかと突っ込むのも恥ずかしすぎて、どうにもならない。
「覚えてたのか、あれ」
「普通に覚えてますよ。記憶が戻っても、あなたを忘れていた間の記憶が消えたわけじゃないですから」
「そんなもん。そんなシステム使わなくても、」

───これからずっと言ってやるよ。

かぼそく、だが必死でそう言い捨てて、虎徹はバーナビーの指からするりと逃れ、病室の外へと逃亡した。
私服警官の姿などもう、あって無きが如しだ。
廊下の長椅子に放りっぱなしにしていたハンチング帽をひっつかんで、子供のように虎徹は駆け出した。
さっきまで虎徹が籠城していたその廊下は、陽光とそれ以外の何かで、目を開けていられないほどまぶしかった。







***

相変わらず物騒だ。
両腰に手を当てて、虎徹はブロンズステージの低いビル群を眺めた。
雑居ビルの屋上から見下ろす街の灯は、相変わらず美しくてむさ苦しい。
とっぷり日の暮れきった、都会の明るい闇の中で、粉砂糖のような雪がはらはらと散っている。
街灯に照らされた狭い道路の端を、サンタ姿のコソ泥が、えっちらと逃げてゆくのが見える。
久しぶりに装着したヒーロースーツは変わらず優秀だ。こんな天気でもフェイスガードを下ろしていれば、寒さ一つ感じない。

───復帰初の出動がクリスマスイブなんて、シャレてんだか残念すぎなんだか。

マーべリックが逮捕され、虎徹が実家に戻ってから、一年と半年余りが過ぎていた。
虎徹がアポロンメディアに再雇用してもらえたのは、ほとんど奇跡だった。
ロイズに能力の減退を告白し、ダメ元でヒーロー事業部を訪ねると、応接セットのソファで、なぜか斎藤とベンが談笑していた。
虎徹のいったんの引退後も、アポロンメディア社はマーべリック事件のイメージを払拭できず、なかなか新ヒーローを雇えずにいたらしい。

───ハンドレッドパワーが一分じゃあねぇ。二部からの出発になるし、一部に昇格できる保証もまったくないよ。それでもやれるの?

ロイズのあきれたような問いに、ハイと大きく答えると、敏腕の事業部長は悩ましげに、額を手のひらで押さえた。

───じゃあ。再デビューの条件をひとつ言うから。

その条件にもなんとか虎徹はハイと答え、数ヶ月のトレーニングと、紆余曲折の手続きの後に、こうして出動することができている。
今日は───クリスマスイブは、バーナビーにとって大切な日だ。
去年は二人で墓参りに出かけたが、今年はバーナビーの方から予定のキャンセルを言い渡された。
去年、虎徹とほぼ同時に会社を辞めたバーナビーは、最近になって急に就職活動を始め、虎徹への連絡が激減していた。
就職活動を口実に、バーナビーが虎徹から離れようとしていても、それは別に不思議なことではない。
若さも美貌も才能も備えた彼を、世間の男女が放っておくはずがない。
好きな人ができました、と彼が虎徹から去っていく確率は、虎徹が彼と添い遂げられる確率よりも、圧倒的に高い。

───まあ、わかってたけど。

だからこのタイミングで再デビューできて、本当によかったと虎徹は思う。
先のことはともかく、もう一度、ヒーローとして生きていくことができるのだ。
必死でやっていれば、この胸の痛みも、いつか薄れる。
バーナビーには、再デビューのことを話していない。
もしも話すなら、能力の減退もセットで話さねばならないから、それがどうしてもつらくて、言えないままだった。
二部ヒーローはまったくと言っていいほどテレビ中継されない。ヒーロー嫌いのバーナビーは、そちら系の雑誌にもネットニュースにもほとんど目を通さないから、虎徹の再デビューが彼の耳に入るのは、当分先のことだろう。

───ま、その頃には俺ら、コイビトじゃなくなってるかもしれねぇけど。

痛みというよりは絶望的な予感に近い感情に、やっとのことでぎっちりフタをして、虎徹は能力を発動する。
見下ろした路上のコソ泥に向かって、屋上から一気に飛び降りようと身構えた時、頭上遠くから、ヘリコプターのプロペラ音が聞こえた。
思わず見上げた暗い空には、ヒーローTVの派手なロゴが、小さな機体と共に小さく舞っている。
見慣れたロゴ付きのヘリは、虎徹を撮りに来たわけではなさそうだ。
この距離と現在時間から予想すると、一部のヒーローを中継した帰りだろう。

───おっと。見苦しい雑念は払っちまえ、っと。

どうせ、ついでにも中継はされないだろうし、中継されて、うっかりお茶の間にワイルドタイガー・ワンミニットの姿が放送されたら、バーナビーに事情が筒抜けになってしまう。
一瞬目を逸らしたせいで、あやうくコソ泥を見失うところだった。
コソ泥サンタが背負った白いプレゼント袋を目標に、虎徹は屋上から息を詰めて、飛び降りる。

───あ。やべ。

やっぱりワイルドシュートで降りるべきだった。
キメポーズで飛び降りて、コソ泥の進行方向に立ちふさがるつもりが、シャーベット状に積もった雪に足を取られ、盛大に尻もちをつく。
「のおわぁぁぁっ!」
「のおうぉぉぉっ!」
コソ泥もおかしな悲鳴を上げて、隕石のように落ちてきた前方のワイルドタイガーにつまづき、シャーベットの上で二人は絡みあって転がった。
遠くで、通行人の悲鳴らしきざわめきが聞こえる。
サンタのプレゼント袋がひっかかり、コソ泥は一回転もしない間に背中を路上に打ちつけ、ぐう、とうめいた。
「あいててて…っと、観念しやがれこの野郎!……ん?ありゃ?」
猫の子を捕獲するようにコソ泥の首根を押さえ、ずるりと引き起こすが、失神したのか偽サンタはぴくりとも動かない。

───『能力終了、三十秒前』。

インナーモニターの警告を横目に、虎徹は耳元のスイッチを探り、回線を開いた。
「こちらタイガー。さっきの犯人を確保しました。今から最寄りのポリスボックスに引き渡し…え、うごほぉっ!!!」
偽サンタのしたたかなヒールキックが、虎徹の横っ腹に食い込む。
これが本当のタヌキ寝入りというものだろう。
気絶していたはずのコソ泥は、いきなり全身を青く光らせ、虎徹の腕を簡単に振り切って、手近なビルの屋上へと跳躍した。
「へへん!跳べるのがおまえだけだと思うなよ!」
虎徹も腹をさすりながら跳ぶ。
「こ、のやろ…っ、も、いいかげんに、しや、がれぇっ!!」
飛び乗った屋上から、コソ泥が飛び降りる。
虎徹も跳ぶ。
跳んで、飛び降りて、また跳んで、コソ泥の首根に、もう一度手を伸ばす。
白いフェイクファーに縁取られたその首根の、その毛先に、ヒーロースーツの指先が触れる。

───『2、1、ゼロ』。

能力終了。
警告音が、マスク内に響き渡った。
コソ泥は、あっという間に彼方へと跳躍してゆく。
空中に取り残された虎徹は、あっという間に重力に引かれて落下する。
ワイルドシュートを撃とうにも、周辺の雑居ビルには、ワイヤーを引っかけられるポイントが見つからない。

───え、俺、これで終わりかよ?

なんか前にもこんなことがあった気がするけどそれにしても間抜けすぎる、やっぱバニーのことでモヤモヤしててちゃんと集中できてなかったからかヒーロー失格だやっぱこのシゴトやめといた方がよかったんだろか、楓にもバニーにもまだクリスマスプレゼント渡してねぇのにちょっと待ってくれって!

その時、横殴りの風が吹いた。

歯噛みしながら、虎徹は閉じていた目を開ける。
背中にも、膝裏にも、硬い金属のような感触が寄り添っている。
何かにぶつかった衝撃は確かにあったが、虎徹は地面に激突したのではなく、宙を飛んでいる。
「え?!」
虎徹を空中で抱きとめたのは、あの「ウロボロス」だった。
いや、正確に言うと、バーナビーがかつて演じていたあの「ウロボロス」にそっくりなメカニックスーツを着た人物が、虎徹を姫抱きスタイルで抱えて宙を飛んでいた。
その「ウロボロスもどき」のスーツは、かつての「ウロボロス」とはカラーリングが違っている。流線形をベースにした装甲、ウサギのようなマスクの両耳はそのままなのに、全身が鮮やかな赤に覆われている。
何が起こっているのか状況がつかめないまま、虎徹は一番近いビルの屋上に運ばれた。
そこへ軽やかに着地し、「ウロボロスもどき」が、虎徹の足をそっと下ろす。
「大丈夫ですか。無理はいけませんよ?」
その声に、胸を刺される。
そんなのはありえないと思うのに、どこかで予想をつけて納得しかかっていたような気持ち悪さが、虎徹の体内を急加速で巡る。
「ウロボロスもどき」が、親指一本でフェイスガードを上げた。

───おまえか。

数ヶ月ぶりに見る緑の目は、涙をこらえているのか、笑みをこらえているのかわからない。
なんとも表現しがたいその表情はすぐに消え、バーナビーの顔は、いつもの端正さを取り戻した。
「…なんでおまえ、そんなカッコしてんだ。まさか、ロイズさんの言ってた条件って」
「そうです。僕が事業部に行った時もそうでした。ヒーローとしてデビューするなら、誰かとコンビを組むこと。それが僕の…そしてあなたの、デビューの条件です」/
業界初の、コンビヒーロー。
悪印象を払拭できないアポロンメディアのヒーローが注目されるには、目新しさが必要だとロイズは言った。
それにしてもこれは少し、やり過ぎではないのか。
「おまえそのスーツ…『ウロボロス』、まんまじゃねぇか」
世間はあの、後見人にだまされて操られた、気の毒な「ウロボロス」をまだ忘れていない。かろうじてバーナビーは罪に問われなかったが、マーべリックとの繋がりを連想させるこのメカニックスーツが、新ヒーローの衣装として世間に温かく受け入れられるとはとても思えない。
「これは、H‐01のスーツを、斎藤さんが改良してくれました。あなたのスーツと合わせて、地上最強の耐久性だそうですよ」
「だから、俺が言いたいのはそういうことじゃなくて」
「『ウロボロス』のスーツの原型を開発したのは、僕の両親なんだそうです。批判もされるでしょうけど、僕のそういう過去やこのスーツは、親子愛がどうこうと美談にしてもらえる可能性も高いです。最終的に、ヒーローとして世間に注目してもらえるのなら、僕は使えるカードは全部使います。嘘は混じってませんし」
フェイスガードからはみ出したバーナビーの前髪に、雪がひとひら積もり、すぐに風にさらわれてゆく。
寒さなどまったく感じていないかのように、バーナビーは晴れやかにほほえんでいる。
いつからバーナビーは、こんなに前向きで図太い人間になっていたのだろう。
この一年と半年、頻繁に会えないながらも、彼とは何十時間も電話で語り合ったはずだった。
虎徹もそっとフェイスガードを上げる。
「デビューのこと、なんで俺に黙ってた」
凍る外気に、思わず目をすがめる。
外気と一緒に、バーナビーの言葉が、虎徹の頬骨にぶつかってくる。
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。なんで再デビューのことも、能力が減退してたことも教えてくれなかったんですか?」
いつか来ると思っていた、質問だ。
鼻腔にまでしみる外気にとどめを刺され、どこにも逃げ場が見つからない。
この二年近く、このバーナビーに言いたかった言葉を、虎徹は意識の底から、渾身の力で引きずり出した。
「何回も言おうと思ったけど。…言えなかった」
「なぜ?」
「言えなかったんだよ」
「……」
「おまえが俺んちに来てくれた時も、おまえがスーツの認証システム作ってくれた時も。もう力が五分保たねぇ、ヒーロー続けられねぇ、って言おうと思ったけど、どうしても言えなかった」
バーナビーは唇を噛んでいる。
そのしぐさは、怒りからのものではないようだった。
「…じゃあ。再デビューのことはどうして黙ってたんですか」
詰問の勢いを失くした声が、雪と一緒にはらりとこぼれる。
虎徹を問い詰めながら、そのことを苦しんでくれているバーナビーの温かさは、雪の中でも健在だ。
「デビュー黙ってたのはお互い様だろ?」
「それは、そうですけど」
「バニーちゃんは急に電話くれなくなるし、予定はどんどんキャンセルしてくるし、今日の予定キャンセルされた時、俺のキモチがどんなだったか、今から全部説明してやろうか?」
「…すみません」
「俺はなぁ、おまえに振られても、おまえがいなくなっても、今日からずっと、ワイルドタイガーワンミニットやってくつもりだったんだぞ!そうやって悲壮な決心してたのに、真っ赤っかなウロボロスもどきが急に現れて、コンビ組みましょうとか急に言われて…、もう、俺は、さっきから、」
怒ってんだぞ、と言いたいのに、アイパッチの奥が急に湿って、あわててそこを指で擦る。
「デビューをあなたに言ったら、反対されると思ったんです」
バーナビーの両手が、ゆっくりと虎徹の頬を包んだ。
包もうにもマスクに邪魔されて、バーナビーの指は、タイガーのマスクの側面をつかむ形になったのだけれども。
「そんなん。俺だって一緒だよッ」
「はい」
優しくマスクを撫でられて、ますますアイパッチが湿りそうになり、虎徹はその手を両手で引き剥がす。
「でもこれだけは言わせろ」
バーナビーの両手のひらをそれぞれ握り、虎徹はキッ、と視線を緑の瞳に据えた。
「どういう心境の変化か知らねぇけど。ヒーロー嫌いなやつがヒーローなんかやってどうすんだ?自分の仕事を肯定できないやつが、市民に肯定されるとでも思ってんのか?」
緑の瞳は、雪を浴びたのか、一度だけ力強く瞬き、笑んだ。
「僕は、今の自分と、自分の仕事を肯定しています」
世界中の自信とプライドを集めたような、そのほほえみ。
バーナビーの顔をもう正面から見ていられなくて、虎徹は雪を避けるふりで、目を擦った。
頭上で、またヘリの音がする。
バーナビーが顔を上げ、虎徹ももう一度空を見上げる。
どこで油を売っていたのか、ヒーローTVの中継ヘリが、また近づいていた。
「カメラのレンズがこっちを向いています。中継されてますよたぶん。ほら、手を振って」
そんなわけがあるかと反論しかけたが、バーナビーはまだ能力の発動中だ。ハンドレッド視力できっと、ヘリの中の様子もはっきり見えているのだろう。
「おゎ、おまえっ」
ぐい、と乱暴に肩を引き寄せられ、ガツンと派手な音を立てて、二人のスーツの肩が衝突する。
もちろん、地上最強の耐久性を備えたヒーロースーツはびくともしない。
強引に虎徹と肩を組み、にこやかに上空に手を振り続けるバーナビーに、虎徹は半ばあきれてしまっていた。
が、ふと隣を見つめて我に返り、すっとんきょうな声を上げる。
「おまえ、顔!」
「静かにしてください」
「フェイスガード下げろって言ってんだ!カメラの前で、なに素顔さらしてんだバカッ!!」
「余計なお世話です。…ちょっと、手をどけてください!」
「余計とはなんだ!いいからこれ下げろ!」
「だから静かにしてくださいったら!!中継続いてますよ!い、痛!」
クリスマスイブの放送延長枠内で、ほんの偶然に中継されたタイガー&バーナビーのデビューは、さんざんなものとなった。




もみ合っているうちに、ヘリはいつしか遠ざかり、バーナビーの耳元に、通信音声が割り込んでくる。
『やあ、タイガー&バーナビー!!!話はついたか!!!???』
うっ、と息を飲んで身を屈め、耳元のスイッチを探って通信のボリュームを落とすと、隣りの虎徹もまったく同じ姿勢を取っている。
コンビらしく、虎徹とバーナビーの回線は相互オープンになっているらしい。
これまた相変わらずの、斎藤の声だ。
『さっきタイガーが取り逃がしたコソ泥だが!!!ラッキーなことに他のヒーローに追われて、そこのビルの近くに戻ってきているらしい!!!位置情報を送るから、二人でもう一度捕まえてきてくれ!!!』
「はい!」
「うぉっし了解!」
人差し指一本でフェイスガードを下げ、バーナビーは虎徹に向き直った。
「僕の能力も残り少ないです。犯人確保は今から一分以内にキメます」
「一分て、おい」
「行きますよ、おじさん!」
虎徹がフェイスガードを下げたのを確認するやいなや、バーナビーは虎徹の両足をすくい上げて、またも姫抱きスタイルで跳躍する。
「のうぉゎああっ!何すんだ下ろせバカウサギぃぃっ!」
「じっとして!二人で効率的に移動するにはこれしかないです!」
視界のはるか下方で、街の明かりが雪に潤み、流星よりも速く後方へ流れてゆく。

───まだ僕は、本当のウロボロスに近づけていない。

ヒーローとして、ああやって素顔をさらしていれば、彼らがいつか、「バーナビー・ブルックス・ジュニア」を標的にしてくれるかもしれない。
市民とマスコミの前に素顔をさらせば、バーナビーの過去も現在も、もう一度暴露されるだろう。
だが隠し通すよりも、その方がヒーローの姿勢としてはまだマシだ。
虎徹には、また後でこっぴどく叱られるだろう。
そしてこの、密かで終わりの見えない目的は、いつか虎徹にばれてしまうだろう。
その時が来たら、今度こそ彼に愛想をつかされてしまうかもしれない。
けれど、未来を憂えてばかりいても、何ひとつ変わりはしない。
精いっぱい努力していれば、いつか、虎徹に認めてもらえるかもしれないのだ。
「…ったく、さんざんなデビューだなぁ…」
高速で運ばれながら、バーナビーの腕の中で、虎徹がつぶやく。
自嘲なのか、バーナビーへの嫌味なのか、同情なのか。
「たった一人でもいいんです。ヒーローの嫌いな人間に、ヒーローを好きになってもらえたら、僕はそれで」
「たった一人とかシケたこと言ってんじゃねーよ」
「だって、あなたも言ってたでしょう。ゼロと1は全然違うって」
「おまえどーでもいいことはよく覚えてんのな…」
「どうでもよくないです。あなたのヒーロー生命に関わる、大切な信条なんでしょう?」
「だぁっ、もう!勝手に決めつけてんじゃねー!!」
「ほら!犯人見えました、下りますよおじさん!」
夜はまだ長い。
長いが、この都会の、シュテルンビルトの夜は美しい。
物騒でむさ苦しい街の灯は、希望の中の一滴の涙のようで、涙の中の一滴の希望のようで、ますます皮肉に美しい。
一滴でも多く、希望を作り出す。
雪に汚れたワイルドタイガーを抱きしめながら、できうる限りの、最高にソフトな感触で着地できるよう、バーナビーは背中のバーニアの出力を上げた。




真紅のヒーロースーツに身を包んだ、史上初の顔出しヒーロー・バーナビー・ブルックス・ジュニア。
彼が、相棒のワイルドタイガー・ワンミニットと共に爆発的な人気を得るのは、それから一年後のことである。