ブラック・プリズム -7-



───どうかしてた。

ぼんやりとシャワーを浴びながら、虎徹は前髪を伝い落ちる無数の水滴を眺める。
眠り姫じゃあるまいに。
キスで、相手の記憶がよみがえるなんて、そんなことがあるわけがなかった。
こういう時は酒に頼って眠ってしまうのがいいのかもしれないが、酔ってしまうと書類が───辞表が、書き上げられなくなる。
シャワーで体が温まったせいか、昼間バーナビーに殴られた頬が、じわりと痛む。平手打ちだったのが、不幸中の幸いか。
あのプライドのかたまりのバーナビー・ブルックス・ジュニアに、真正面からセクハラを働いたのだから、拳で殴り倒されてもちっともおかしくはなかった。
過呼吸を起こしかけていた彼を落ち着かせたくてやった行為だとしても、虎徹を憎悪している彼にとって、あれは悪質な嫌がらせでしかなかった。
もっと他に、バーナビーの記憶を呼び覚ます方法はなかったのか。
もっと慎重に、バーナビーの感情をできるだけ損なわない方法で、もっと静かに、もっと長く、彼に寄り添っていなければいけなかったのかもしれない。
だが虎徹には時間がなかった。
ビルの爆破事件で負傷してから、ほとんどNEXT能力を使っていないが、その持続時間は、もう四分を切りそうになっている。
これ以上、能力の減退を隠し続けるのは無理だ。
バーナビーのために、とうとう「ウロボロス」も「ルナティック」も捕まえてやれなかったが、あの社長なら、もっと有能な新人ヒーローを見つけてくるだろう。それこそ、バーナビー自身がヒーローになって、社長の全面的なバックアップのもとで「ウロボロス」を追いかけたっていいのだ。
何の気まぐれか、その社長からクビの通達はまったく来ないが、社長は虎徹の辞職を望んでいる。バーナビーが虎徹の記憶を失くしたことを、歓迎しているのだ。

───本当にこれでいいのか?

やっとシャワー栓を止め、バスルームの壁に頭を預けて、虎徹はぼんやりと考える。
まだ、バニーにしてやれることはあるんじゃないか?
あの社長が、もしも本当に、バニーの両親を手にかけていたとしたら。そんな人間のそばに、俺は、バニーを置いていくのか?
いや。
真実がどうあれ、ジェイク・マルチネスにもウロボロスにも、司法局の深部に食い込めるほどの黒幕がついている。これ以上、その黒幕たちや、マーべリックの意図に反した行動を取れば、虎徹の実家に圧力がかけられる可能性だってあるだろう。楓はまだ十歳で、父親の本当の職業すら知らない。自分の身を守るすべを何も持っていない。

───ひでぇ卑怯モン、だ。

黒幕やマーべリックを卑怯というなら、彼らの力に屈する虎徹もまた卑怯者だ。
娘を守るふりをして、バーナビーを見捨てるのだから。

───だけど。

金も権力もない、NEXT能力すら失いかけている名ばかりのヒーローに、これ以上何ができるというのか。
バーナビーがこの先、虎徹のことを思い出そうと思い出すまいと、もう虎徹にはほとんど関係のないことだ。
バーナビーは今、虎徹に抱いていた奇妙な執着心を忘れ、虎徹に自分から抱かれたことも忘れ、虎徹に話そうとしていた「大事なこと」も忘れている。
それでよかったのだ。
そのまま、彼はウロボロスを追い詰めて、いつか真実をつかみ取り、そのまま、いつか優しくて誠実な女性に出会い、幸せに暮らせばいい。
バーナビーの未来に、虎徹はもう必要ないのだ。

───「もう」、ってのもずうずうしいか。

最初から、あいつに俺は必要なかった。
バスルームの壁の冷たさが、額を経由して、虎徹の頭の芯にまでしみる。
風邪をひく前に身体を拭いて、書くものを書かねばならない。
冷えた額と、一瞬だけ熱を持ちかけた目頭を、虎徹は腕ですぐに拭った。




ドアを開ける。
未だにどこに何があるのかよくわからないメカニックのラボだが、白と黒と緑で彩られたワイルドタイガーのスーツは、いつも同じブースで、堂々と立ったまま収納されている。
「…っはよー、ございます」
できるだけ通常に近い声音で虎徹が挨拶すると、頂上部が限りなく薄い黒髪頭と、いつもながら器用にサイドを巻いた金髪頭が、揃ってこちらを見た。
今まさに開けようとしていたアイスのカップを、作業デスクにことりと置いて、斎藤の唇が、「おはよう」の形に動く。
椅子から立ち上がった彼に手招きされ、虎徹は斎藤に歩み寄った。
腰を折り、いつものように彼の口元に耳を寄せる。
「事業部長から聞いたんだが。辞めるって、ホントか?」
ささやき声ながら、斎藤の声音も、いつもより優しい気がする。
叱責は当然だろうと思っていたのに。
最新の、虎徹専用のヒーロースーツを、いつも最高にチューンナップしてもらっておきながら、たった半年余りでそれを放り出してしまうのだ。技術者として真面目にやっていればやっているほど、自分の作品が無駄になってしまう落胆は大きいだろう。
「ほんとに…すいません。謝ってすむことじゃないのはわかってるんですけど……すいません」
腰をかがめたままハンチング帽を取り、虎徹はさらに深く頭を下げた。
「なんでまた、急に?」
「急にじゃないんです。実は。前から薄々考えてたことで」
「『ワイルドタイガー』の人気は今のところ上々だ。もったいなくないか?」
「トシには勝てません。惜しんでもらえるうちに、カッコよく引退しようかと」
「………理由はホントにそれだけか…?」
ひと呼吸置いた後の、まさにつぶやくような問いに、虎徹の心臓はひやりと痛んだ。
能力減退のことは、ロイズに渡した辞表にも書いていない。
責めるのでなく、問い詰めるのでもなく、虎徹を暗に気遣ってくれる斎藤のつぶやきが、嬉しくて怖い。
彼の洞察力をずいぶん今まで見くびっていたのだと気づき、さらに恥ずかしさと申し訳なさが胸に迫ってくる。
「…ホントに、それだけですよ」
にやりと口の端を上げてみせると、斎藤の小さな目が不審げに細められ、もっと小さくなった。
「それより、用事ってなんですか」
斎藤の視線に耐えられず、すかさず話題を転換すると、背後から、まったく感情というものが感じられない声が飛んできた。
「あなたに用事があるのは僕です」
冷えた心臓が無駄に鼓動するのを耐えて、虎徹は振り向く。
「ヒーロースーツの、本人認証システムがほぼ完成しました。退職までの残務処理の期間中に、出動が何回かあるはずです。認証システムの使い方を説明します」
白衣の白さが、いっそうバーナビーの全身をすらりと細長く見せている。数日前まで食事を摂れなかった身体はまだ元に戻っていないのかもしれないが、明度の上がった瞳の輝きに合わせて、彼の顔色は劇的に良くなった。昨日の資料室の一件で、また体調を崩してはいないかと、それだけが心配だったのだが、杞憂だったようだ。
「認証システムを試用する前に、声紋認証に必要な、あなたの声を録音します。斎藤さん、申し訳ないですが、今からあまり物音を立てずに静かにしていてもらえますか」
感情はまったく見えないが、いつも通り、バーナビーの声はどこか硬くてどこか柔らかい。こんな状況なのに、そんなバーナビーの声すらいとおしい。
一瞬の感傷と自虐に浸っていると、くいくいと横からシャツの肘を引っ張られた。
「じゃあ、私はコレを冷蔵庫に入れてくるから」
デスクに置いていたアイスのカップをひょいと持ち上げて、斎藤はとことことラボの出口に向かってゆく。
「…アイス、冷蔵庫に入れるんだってさ」
虎徹が親指で斎藤の背中を指し、バーナビーに状況を説明してやると、数メートル向こうからこちらを見据えていた緑の瞳が、かすかに苦しげな光を溜めた。




「で、録音てどうすんの?」
あんなふうに気を利かせて斎藤が出ていったということは、バーナビーは資料室でのことを、斎藤にも話していないのだろう。斎藤があの「セクハラ」の件を知っていれば、彼は上司として、バーナビーと虎徹を決して室内で二人きりにはしないはずだ。
「パソコンの専用ソフトであなたの声をデジタル処理します。このコンデンサーマイクに向かって、パスワードにする言葉を吹き込んでください。二語以上、五秒以内でお願いします」
テレビニュースのアナウンサーばりに淡々と、ただ用件を説明しながら、バーナビーは魚肉ソーセージのように細いマイクを、虎徹にずいと突きつける。
いや、アナウンサーの声音の方が、今のこのバーナビーよりもよほど、感情にあふれているだろう。
「パスワード…て。じゃあ何しゃべったか覚えてなきゃいけねーの?」
「そうです。万一忘れてしまっても虹彩認証がありますし、パスワードは変更できます。別の言葉を録音し直せばいいんですが、緊急時にそんな作業はやっていられないので、きちんと自分で覚えていられる言葉にしてください」
「それが五秒以内、と」
「二語以上、五秒以内です。音節が短すぎると認証ミスが起こりやすくなりますから」
ソーセージ大のコンパクトなマイクは、コードの端が直接、パソコンの本体に繋がれている。
押しつけるように虎徹にマイクを渡すと、すたすたとバーナビーはパソコンの前に戻って腰かけた。
「パスワード、考えましたか」
質問しているのに、バーナビーのその声音は、ひとりごとのように棒読みだ。

───俺。やっぱり、おかしいんだな。

こんなに憎まれても、他人事みたいだなんて。
ため息もつけずに、虎徹は握ったマイクとバーナビーを交互に見つめる。
自嘲の他に浮かんでくるのはただ、胸をかきむしられるような思い出だけだ。
まだ過去を振り返るのは早すぎるし、そもそもバーナビーと一緒に仕事をした時間は一年にも満たない。
それなのに、虎徹の心は無意味な感傷から抜け出せない。
全部、バーナビーは忘れている。
白衣を貸してくれたことも。
病院で、泣きながら虎徹の負傷を心配してくれたことも。
謝りたいと言って雨の中、何時間も虎徹の家の前で待っていてくれたことも。
ヒーローを辞めないでくれと、言ったことも。
同じベッドで眠ったことも。
バーナビーの世界では、なにもなかったことになっている。

───壊せ。俺らしく、全部。

「マイクのスイッチをオンにします。…どうぞ」
白く長い指が、カシ、と無造作に、キーを叩いた。
ごく真面目に、マイクに向かって虎徹はささやく。

「愛してるよ。バニーちゃん」

バーナビーの顔色が変わる。
顔色が変わっても、バーナビーの表情は静かだ。
静かな表情筋のその奥に、周囲の空気の温度さえ変えてしまいそうな、猛烈な憎しみが浮かび上がる。
「真面目に、やってください」
「やってるよ」
「あなたが辞表を出していなかったら、今すぐ事業部長にこのハラスメントを報告しに行くところですよ」
「行けば?別に、かまわねーけど」
「開き直るんですか?…悪質な」
「おっと。何べん消したって、俺ァ同じパスワードしか言わねーよ?」
ファイル内の音声をデリートしようとしたらしいバーナビーの小指が、キーボードの上で、ぴくりと止まった。
息を飲んだような気配の後で、椅子を蹴立ててバーナビーが立ち上がる。
この、怒りでふちが赤くなったグリーン・アイズも、悪くすれば今日で見おさめだ。

───もう迷うな。
心で自分を鼓舞したとたんに、PDAが鳴った。
手首で鳴り響くそれを、なぜか安堵のような気持ちで虎徹は見下ろす。
バーナビーがデスクのそばで立ったまま、乱暴なしぐさでパソコンの画面を閉じた。
「声紋認証機能は、明日以降に調整します。出動準備してください」
白衣の裾が、あわただしく翻った。

───おまえももう、迷うな。

バニー。
おまえはもっと怒って、もっと憎んで、もっと跡形もなく、俺の記憶を消し去ればいい。




こつりと一歩を踏み出す。
遠大な廊下の果てから、何かが破裂したような音が、小さく響いてくる。
マスクのフェイスガードをしっかりクローズして、虎徹は足を速めた。
刑務所に足を踏み入れるのは初めてではない。ヒーローは、犯人の捕獲者であると同時に、事件の目撃者でもある。面通しのために、拘置中の容疑者に会うこともたまにある。
だが、事件そのものの解決のために刑務所内に立ち入るのは初めてかもしれない。

───『ボンジュール、ヒーロー』。

PDAの向こうの、アニエスのテンションは珍しく低めだった。

───『アッバス刑務所に侵入者よ。刑務官に死傷者が出ているわ』。
───あのなぁ…刑務所に侵入されるって、どゆこと?

警備体制みたいなのはいったいどーなってんの、シュテルンビルトの砦の名が泣くぜと、アニエスの第一報に虎徹があきれてみせると、OBCの女傑はさらにイラついたような声を返してきた。

───『いいから早く現場に向かってちょうだい。犯人の能力はまだはっきりしないけど…とにかく凶暴なNEXTなの。ライフルで撃たれてもびくともしないそうよ』

侵入者がパワー系のNEXTであることは間違いなく、銃器も持たずに素手で鋼鉄製のドアを破って回っているそうだ。

───『人数は一人。三十代から四十代の、かなり体格の良い男よ。あとは情報が入り次第また知らせるわ』

あれから通信はとんと入ってこない。
侵入者は、ご丁寧に監視カメラまで壊して回っているらしく、映像データすら送られてこない。
他のヒーローたちもとうに現場に到着しているのだろうが、広大でありながら閉鎖されたこの建物のどこに待機しているのか、ほとんどわからない。
「斎藤さん。刑務所内の見取り図、まだ司法局からもらえないんすか?」
廊下をえっちらと走りながら、マスクの耳元のスイッチをはじいて斎藤に連絡を取る。
迷子になるのはごめんだと、虎徹はここに着いてから何回もデータ送信を依頼したのだが、斎藤にしては珍しく、刑務所データのダウンロードに手間取っているようだった。
『すまないタイガー!!さっきから何度も司法局のデータベースにアクセスしてるんだが、データをダウンロードしようとするとエラーが出る!!!アクセスが集中してるのか、何者かにブロックされてるのか、原因を究明中だ!!!』
これはもう、期待できない。
さっきよりもずっと近い場所から、また破裂音が聞こえてくる。
人の悲鳴らしき声も聞こえて、虎徹はいっそう足を速めた。
『……おっ!!!』
「なんですか!ダウンロードできました!?」
『タイガー、今どのへんに居る!!!』
「だから、それがよくわかんねえから見取り図を…」
『大体でいい!!一階か二階か三階か!!!女子棟か男子棟か!!!』
「えっと。たぶん女子棟の入口です、一階です!」
『頭上に気をつけろ!!!なるべく上階には移動するな!!!』
「なんでですか!」
『刑務所の屋上にいつものヤツらが現れた!!!建物の破損が心配だ!!!』
「ヤツらって、」
『ルナティックと、ウロボロスだ!!!』
上は大火事、下は洪水。
そんな場違いで間抜けななぞなぞが、せっぱつまった虎徹の脳裏にひらめき、消える。

───答えはフロ…って、あれは下が大火事だろ。

実際のところ、「下」には洪水にも火事にも匹敵する、いやそれ以上の凶悪犯が一人。
いくらNEXTでヒーローとはいえ、虎徹の腕は相変わらず二本しかなく、とても三人を一度に捕まえることはできない。
「……了解。頭上に注意しつつ、屋内の侵入者を」
追います、と言いかけた瞬間に、耳をつんざくような勢いで、通信に割り込まれた。
覚えのあるシチュエーションに、虎徹の意識はまた冷えたが、聞こえてきたのはデジタルボイスではなく、落ち着き払った女傑の声だ。
『刑務所の屋上にルナティックとウロボロスが現れたわ。ファイヤーエンブレムとブルーローズ、どこからでもいいから外に出て、延焼を防いでちょうだい。ほんとはタイガー、あなたにウロボロスを追ってもらいたいんだけど、あなたは最初の侵入者をそのまま追って』
ワイルドタイガーがいつも通り、屋根の上でピンクのウサちゃんを追う方が視聴率が取れるのかもしれないが、今日に限ってアニエスはそれをあきらめたようだ。
『それから、その侵入者の名前が判明したわ』
虎徹はマスクの耳元を押さえる。
はからずも通信のボリュームが上がり、さっきよりももっと心が冷え切りそうなその内容が、虎徹の耳に突き刺さる。
『侵入者の名前は、ジェイク・マルチネス。四年前にそのアッバス刑務所を出所している、元受刑者よ』

───これは、運命じゃない。

陰謀だ。
思わず虎徹は立ち止まる。
破裂音はもう、ごく近い。またドアでも壊されたのか、床と壁を伝ってびりびりと振動が伝わってくる。

───マジでやばいかも。これ。

昨日、ジェイクのデータを検索した事実が漏れているのか。
それともあのデータは、今日のための撒き餌だったのか。
虎徹の行動は、おそらくマーべリックによって監視されている。だがそれは、マーべリックがバーナビーを守りたいがための、素行調査的なものだと思っていた。

───司法局のデータベースにまで手が出せる人間、ってことは。

マーべリックが司法局を丸め込んでいるのか司法局がマーべリックを丸め込んでいるのか、それともまったく別口の敵なのか。別口の敵がウロボロスなのか。ヤツらは対立し合いながらただ標的を鏑木虎徹に定めているのか。斎藤が刑務所データをダウンロードできないのもヤツらの仕業なのか。
この広大な、中継カメラも入れない檻の中で、ヤツらは「ワイルドタイガー」ごと虎徹を抹殺しようとしているのかもしれない。

───マジで、死ぬかも。

死ぬことは、実はそれほど怖くない。
ここで虎徹が死ねば、もうわけのわからない輩が楓を狙うことはないからだ。
そして、死ぬということは、友恵に会えるということだからだ。
今の虎徹の心変わりを怒って、彼女が彼岸でヘソを曲げている可能性もなくはないが、あの友恵のことだ。職場のしかも若い男の子に惚れるなんてホントにマジメにしょうがなかったわねぇ、と怒りながらも、きっと迎えに来てくれるだろう。
胸の前で、虎徹は両のこぶしを握りしめる。
ヒーロースーツのグローブの感触が、指の皮膚深くにまで染みとおる。
その触覚に誘われるように、哀しみにも、あきらめにも似ていない、妙に温度の高い感情が、虎徹の体内でざわざわと揺らめき始めた。
だが今、この感情が何なのか、分析している時間はない。

───もう少し。

もう少し待ってくれ友恵。

短い呪文に似た言葉を胸の底に沈め、虎徹は再度駆け出した。




トランプの背中のように、刑務所の廊下の両脇には、数十の同じ扉が並んでいる。
同じ扉の中には、それぞれ受刑者が入れられているはずだが、女子棟の彼女たちは、おびえているのか驚いているのか、押し黙って声も立てない。
棟の入口を仕切っていたはずの鉄格子状のゲートは、飴細工のように砕け散り、破片が床にばらまかれている。
壁の一部も崩れ落ち、天井の照明もあちこち壊され、空間に充満する薄闇と白煙の中で、虎徹は目を凝らした。
マスクのインナーモニターを、赤外線モードに切り換える。
モニターがふと光り、数メートル先に、赤く熱源反応が浮かび上がった。

───あ?

浮かび上がったそれが、人の形だと確信したのと同時に、虎徹の目の中で火花が散った。
鈍い音を立てて、ヒーロースーツの背中に硬いものがめり込んでくる。
何かの圧力で正面から吹き飛ばされて、廊下の壁際に身体ごとめり込んでいるのだと気づいた時にはもう、昨日資料室で見たばかりの顔が、鼻先に迫っていた。
「はっはァ。とうとう来やがったな、クソヒーロー」
衝撃のはずみか、マスクのモニターはひとりでに通常モードに切り替わっている。
過激に染めた、ジェイクのピンク色の前髪が、ワイルドタイガーのマスクに触れそうだ。司法局のパソコンに収められていた画像とはまったく違うヘアスタイルだが、不思議にジェイクの顔の印象は変わらない。
その至近距離の彼の、胸元をつかみ上げようと虎徹は振りかぶった、が。
また目の中に火花が散った。
嫌な浮遊感覚の直後に、背中から床に落下し、息の根が止まりそうになる。
仰向けに倒れたまま、やっと虎徹が頭を上げると、ジェイクはもう何メートルも彼方に突っ立って、ぼりぼりと頭の後ろを人差し指で掻いている。
さっきからのこの衝撃はなんなのか。
一瞬で人間を何メートルもはじき飛ばせるこの力こそが、ジェイクのNEXT能力なのだろうが、その正体がわからない。
スカイハイのような風使いなのか、ビームライフルのような熱源の束なのか。
これに加えて、本人はライフルで撃たれても傷一つ負わないというのだ。虎徹やバーナビーのようなハンドレッドパワーに、熱や衝撃波をプラスした能力、ということなのだろうか。
「フーン…賠償金ばっかし払ってるクソ貧乏ヒーローにしちゃ、キモが据わってんだなァ。…一途なヤツは好きだぜ?ん?」
ジェイクは値踏みするように、廊下の彼方からじろじろとこちらを見下ろしている。
「でもよォ。おまえ、ホントに怖くねぇのか?おまえこのままじゃ、確実に死ぬぜ?んー?カメラは入ってねーからシチョーリツも取れねぇし、それに死んだらおまえらの大好きなクソポイントも稼げなくなっちゃうよ?いいの?」
仰向けの体勢から床に肘をついて、虎徹は身体を起こそうとしたが、痛みすら通り越し、上半身に力が入らない。
「お、れは。おまえを捕まえれば、ポイントなんか、どうでもいい…」
やっと半身を起こして出した声は、奇跡的にジェイクに届いた。
「ふはっ!やっぱ一途だなァ、クソヒーロー!!」
肩を大げさに震わせて、ジェイクが笑う。
「でもな。いくら一途でも、おまえは俺のだーい嫌いなクソッタレヒーローだからなァ。やっぱそこでおネンネしてな。俺は忙しいんだよ」
「…何が、目的だ。刑務官に復讐、しに来たのか?仲間を…脱獄、させたいのか?」
「あはははァ。どっちだと思う?」
虎徹が答えられずにいると、急に、地響きのような振動で、建物中が揺さぶられた。
足を投げ出して床に座る格好になっている虎徹の下半身にも、ダイレクトに振動が伝わる。
だがそれは、地中からの震えではなかった。
「危ねぇ!!そこから避けろっ!!」
動物のような勘で宙を見やり、ジェイクに叫ぶと、その語尾に被せるタイミングで、ジェイクの真上の天井が、青い光であふれかえる。

───ルナティック!

ドン、という爆発音が、青い閃光のすぐ後に、はじけた。
爆風が、虎徹の身体を横殴りに一回転させる。
受け身を取って転がり、なんとか起き上がりかけるが、また白煙が撒き上がり、周囲は真っ白だ。

───ダメだ。赤外線、イカれちまった。

マスクの耳元のスイッチをいくらはじいても、インナーモニターは通常モードのままだ。
ジェイクはどうなったのか。
周囲の受刑者も負傷しているのではないか。
もう一度耳元のスイッチをはじき、虎徹が通信回線を開こうとした時、白煙を切り裂くように赤い閃光が湧き、天井に開いた穴へと抜けていった。
それに呼応して、青い炎がまた降ってくる。
しかし、青い火柱は、その場に根を下ろす前に、砕け散った。
「このジェイク様を燃やそうなんざ、千年早ええんだよォ!」
白煙の中でジェイクの声がする。
赤い光が火柱を食い破り、青と入り混じって紫色に輝くのを、虎徹は茫然と眺める。
ルナティックの炎に対抗できる何かが、燃えている。
この赤いビームみたいなものを操っているのが、ジェイクなのか?
ファイヤーエンブレムをも凌ぐ、現在確認されている最強レベルのNEXT火力を持ったルナティックを、このジェイクは押し退けることができるというのか?
立ち上がるために、虎徹はヒーロースーツの膝に手を当てた。
そこから妙に柔らかい感触が伝わってきて、ぞくりとする。
そこにあったはずの装甲は吹き飛ばされ、アンダースーツが剥き出しになっている。
先日の爆弾事件でも、少しへこむ程度だったのだ。この、斎藤とバーナビーの最高傑作である「ナノメタル」スーツは。
ジェイクのNEXT能力が、ますますわからない。
さらに戦慄していると。
白煙の中に、人影が降ってきた。
天井に開いた穴から、獣のようにしなやかに、飛び降りてきたのだ。
煙の中でも、そのウサギのような流線形の長い耳は、薄紅色に輝いている。
『ジェイク・マルチネス!!どこにいる!?』
そのデジタルボイスは、今まで虎徹が聞いたこともないほど、憎悪に満ちていた。




赤い閃光が、ルナティックをはじき飛ばした。
わずかに息を飲んで、バーナビーは立ちすくむ。
アッバス刑務所の侵入者を追って現れたルナティックは、建物の天井ごと燃やしたはずのその侵入者に肩を撃たれ、屋上から転がり落ちていった。
「このジェイク様を燃やそうなんざ、千年早ええんだよォ!」
未だ屋上で立ちすくむバーナビーの、足元に開いた穴の中から、忘れもしない声が聞こえてくる。
ついこの間、バーナビーもあの赤い光で、こめかみを焼かれた。

───『君の探している男が、とうとう現れたよ』。

ジェイク・マルチネスが現れた。
ここに来る前に、地下のラボでマーべリックにそう教えられ、めまいがしそうになった。
身体の中に、これでもかと蓄積された怒りと焦りが、バーナビーの五感を燃え上がらせ、その熱さにくらくらする。
この時のために、生きてきたのだ。
ダウンタウンでこづかれても、ドラッグを舐めさせられても。
一人の家族すら、友達すらいなくても。
ヒーローに追われる「ウロボロス」になりすましてでも。
どれほど心と身体が限界を訴えようと、この時のために、今まで生きてきたのだ。
ルナティックの炎を吹き飛ばせる火力を持った、ジェイクのNEXT能力に、どこまで対抗できるかはわからない。
わからなくても、やらなければならない。
なんとしてもジェイクを追い詰めて、あの右手を捕らえて、タトゥーをこの目で確認しなければならない。
確認して、その後は。

───『彼の捕獲が難しければ、やむを得ないこともあるだろうね』。

マーべリックは何も明言しなかった。
何が起こっても責任は私が取ると、言うだけだった。
バーナビーは、自らのスーツの右足にそっと触れた。
その右足の隠しホルダーには、ビームライフルが装着されている。
マスクのモニターを通して見えている世界が、ふと遠くなる。
頭上の中継ヘリのプロペラ音も、相変わらず晴れ渡る空も、足元に開いた穴から噴き出す白煙も、硬いガラス越しに眺めているような感覚だ。

───ジェイクを、撃ち殺せば。

ジェイクが両親にそうしたように、これでジェイクを撃ち殺せば、もう一度、このガラス張りの世界の質感を取り戻せるのだろうか。
確信が持てないまま、バーナビーは白煙を噴く目の前の穴の中へ、ひらりと飛び込んだ。
『ジェイク・マルチネス!!どこにいる!?』




時間の経つのが遅い。
視界をさえぎる白煙が薄まるのを待ちながら、虎徹は身構える。
この天井が崩れ落ちて、視界が真っ白になってから、もう五分は経った気がするが、実際はたぶん、数十秒というところだろう。
不安が、時間感覚を狂わせるのだ。長年の経験から、虎徹にはそれがわかっている。
「…建物の破損がひどい。受刑者も負傷してる可能性が高い。ドンパチの場所は俺が移動させるから、ここの棟の受刑者を救助してやってくれ」
ささやくようにアニエスに通信して、虎徹は前方を見つめた。
狙撃も恐れず、白煙の中に飛び降りてきた「ウロボロス」は、薄紅色の光に包まれながら、黙り込んでいる。
「おい!」
呼びかけると、薄紅色の耳と一緒に、黒いマスクがかちりとこちらを振り返る気配があった。
「おまえの標的はルナティックだろう!俺らの仕事の邪魔すんな!」
『…おまえこそ。私の邪魔をするな!!邪魔するなら、今日は容赦しない!』
明らかに、いつもの「ウロボロス」ではない。
あの感情というものがほとんど見えない、ローテンションなデジタルボイスは、人が変わったように落ち着きを失っていた。
ルナティックはどうなったのだろう。彼がジェイクの赤い光にやられてしまったから、「ウロボロス」はこんなに興奮しているのだろうか。
小さな疑問は、白煙の奥から湧いた閃光に跡形もなく砕かれた。
「ウサちゃん伏せろ!!」
壁際に飛び退き、虎徹は姿勢を低くする。
バシ、と数メートル先の床に穴が開き、砂礫を散らしてコンクリートがひび割れる。
赤い閃光に撃たれたはずの「ウロボロス」は、いつ跳躍したのか、くるりと天井を蹴って、廊下の奥へと降り立った。
そのさらに奥から、次々と赤い光が「ウロボロス」に降り注ぐが、ほとんど視認できないスピードで彼は光を避けて、ジェイクに迫っていく。
『待て!!』
いつのまにかジェイクは、女子棟の端の、侵入したのとは反対側のゲートの前に立っていた。鉄格子状のゲートの向こうに見える広い空間は、受刑者の作業場か、運動場のようだ。
いきなり立ち止まった「ウロボロス」の右手が、腿に添えられた。
「ウロボロス」の右足から、恐ろしい速さで、見覚えのあるライフルが引き出され、銃口がまっすぐ、前方のジェイクに定められた。
「やめろっ!!」
「ウロボロス」は虎徹を振り向かない。
銃口と共に、ただジェイクを見つめるだけだ。
『一度しか言わない。投降しろ』
「ウロボロス」にはもはや、虎徹の言葉が聞こえていない。
『投降すれば撃たない』
ここで「ウロボロス」をはがい絞めにすれば誤射を招く。
銃弾とは違うビームライフルの熱は、簡単に建物を傷つけ、崩壊させてしまうだろう。
かといって、「ウロボロス」に触れずにワイルドシュートでライフルを絡め取っても、彼がジェイクに攻撃される。
ならば、ジェイクを絡め取るしかない。
「ウロボロス」の背後で、虎徹が腕を構えると、鉄格子のゲートにだらりともたれかかったジェイクの目が、赤く光った。
その目のそばで、あきれたようにひらひらと手が振られる。
「あー、なんかメンドくさくなってきた」
振られた手の甲に、泳いでいるような黒い蛇の環が浮かぶ。
「ちょっと早いけど終わりにするわ、『ウロボロス』ちゃん。あ、これ、トーコーするって意味じゃねーからな?」
語尾をかき消すように、「ウロボロス」のライフルが火を噴く。
ジェイクの身体を貫くはずだったビームの熱源は、ジェイクの身体の前で、光のパラシュートのように広がり、四散した。
虎徹は動けない。
刹那の時間を、ただ見つめるだけだ。
光のパラシュートを引き裂いて、その向こう側から、ジェイクの笑顔が覗いたような気がした。
カチリと音がする。
「ウロボロス」が、もう一度トリガーを引いたようだった。
直後。
薄紅色の光が、破裂音と共に「ウロボロス」の全身を包んだ。
風圧に、虎徹は思わず顔を伏せる。

───暴発?ライフルの?

声も出なかった。
ジェイクが、ライフルごと「ウロボロス」を燃やしている。
光の中の「ウロボロス」に、手を差し伸べることも、駆け寄ることもできない。
何が、ハンドレッドパワーだ。
何が、ヒーローだ。
こんな一瞬の判断も誤って、こんな大事な時に役に立てないなら、こんな力は無いも同然だ。
永すぎる、刹那の時間が終わる。
虎徹が立っている場所よりもはるか後方で、がしゃ、と音がした。
人が、倒れている。
人が倒れたのに硬い金属音がしたのは、彼が身に着けていたメカニックスーツの破片が、倒れると同時に床にぶちまけられたからだ。
いつのまに、あんなところまで吹き飛ばされたのだろう。
彼までのほんの短い距離を、虎徹は駆けた。
ジェイクのことなど忘れていた。
駆け寄って、ひざまずいた。
黒と白と薄紅色に彩られていたスーツは、原形をとどめていない。
膝下からの装甲がわずかに残っているだけで、上半身は、アンダースーツの繊維まで焼け焦げ、人間の皮膚が剥き出しになっている。
剥き出しの皮膚は出血していなかったが、赤く変色していて、目を覆いたくなるほどの痛々しさだ。
そして。
目すら覆えない虎徹は見た。
マスクを完全に吹き飛ばされた、「ウロボロス」の素顔を。

見たことがある顔だと思った。
見たくはなかった顔だと思った。
どうしても、いつかどこかで、見るはめになるような気がしていた顔だと思った。
本当は、もう一度見たいと思っていた顔だった。
こんな状況下でなく、もっと静かに、もっと落ち着いた時間の中で、この顔が笑いかけてくれたなら、割に思い残すことはないと思っていた。

「…バニー」