ブラック・プリズム -6-



暑い。
バーナビーは目を開けた。
鼻先に褐色の肌が触れ、眠いながらもどきりとする。
照明を落としたこの寝室は変わらず薄暗いが、これは深夜の暗さではない。たぶん夜はもう明けかかっている。
バスローブの肩にかかった虎徹の腕が、温かくて重い。
何も着ていない虎徹の胸元にしがみつくようにして眠っていたことに気づき、さらにバーナビーの頬は熱くなる。
こんなに密着していては、虎徹もかなり暑いはずだ。
昨夜、バスローブを着せられて、もうろうとしたままこのベッドまで運ばれたことは覚えているが、その後の記憶は途切れ途切れで、いつ虎徹がベッドに入ってくれたのか、いつ眠りについたのか、よく思い出せない。
ただ、とても夢見が悪かったことは覚えている。
そして、虎徹が起こしてくれたことも。
自分の額と同じに汗ばんだ、目の前の胸板に、バーナビーはそっと指を滑らせた。
本当にこれが、自分より一回りも年上の男の肌なのだろうか。人種の違いなのか、虎徹が特別なのかわからないが、この、きめ細かく張りのある肌の持ち主が、三十歳を過ぎているとはとても思えない。
暑いのにそこから離れがたくて、バーナビーは指先に力を込める。
汗のせいか、ベッドの中には虎徹の匂いが満ちていて、眠気の取れないバーナビーの意識を、嫌でも覚醒させてくれる。
胸が苦しい。

───この人とこうしていられる時間は、あと何時間、いや、あと何分くらいなのか。

ゆうべ、僕は寝言で何か叫んでしまわなかっただろうか。
とても恐ろしいことを、この人に打ち明けてしまった気がするあれは、夢だったのか、現実だったのか。

───この期に及んで、僕は。

身体の底に、しんと居座る罪悪感が、さらにバーナビーの眠気を奪ってゆく。

───この人の同情を、労力を、時間を、ここまでこの人に恵んでもらっておきながら。

僕はまだ、自分の嘘を守ろうとしている。
下半身にはまだ、この人を受け入れている最中のような、熱が残っているのに。
胸どころか、覚醒していることそのものが、苦しくなってくる。
苦しくて目がくらみそうなのに、こうして二人で寝床に居ることが、叫びたいほど幸福だ。

───どこにも、どこにも。

行かないでほしい。
「実家」になんか、帰らないでほしい。
叶いそうもない願いが身体中に満ちてくるのに耐えられず、バーナビーは身じろいだ。
身じろいで、もう一度目前の胸板に額を預ける。
たとえバーナビーがすべてを打ち明けたとしても、虎徹がこの街から去ってしまうのなら、こんな罪悪感など感じるだけ無駄なのかもしれない。
そんな捨て鉢な思いの裏にも、自己防衛ばかりが貼りついていて、情けないことこの上ない。
嘘を守り抜きたいと願う一方で、本当は、言いたくてたまらないのだ。
この、鼻先で眠っている、美しい肌を持った、自己犠牲の過ぎる壊し屋ヒーローに、全部。
今までの嘘も、今僕が持て余している弱さも、疑問も、恐怖も、この人に、すべて。
虎徹に身体を擦りつけるように、毛布の中でバーナビーは小さく縮こまる。
苦しくて、吐き気がする。
「……ぅ」
虎徹の胸に額を預けたまま、バーナビーは唇を押さえた。
「…どした?また夢見たのか?」
毛布の外から、つぶやくような低い声がする。
その温かい声は、バーナビーの額に触れている胸板から、かすかな振動になって伝わってきた。
額までが、温かく震える。
「大丈夫。大丈夫だから」
だらりと肩に乗っていた虎徹の腕が、ゆっくりバーナビーの後頭部に回され、包帯の上からそこを撫でてくる。
「それは、ただの夢だ。だから大丈夫」
ひたすらバーナビーに与えられるその言葉は、ほとんど呪文だった。
何の科学的根拠も、物的証拠もない、「大丈夫」。
以前のバーナビーなら、状況もよくわかっていないくせにいいかげんなことを断言するなと、激怒したことだろう。
だが今は違う。
離れがたい相手からかけられる言葉は、それが恋情からのものでなくても、そして恋情から遠ければ遠いほど、胸にしみる。
他人が他人の心を完全に理解し、完全に癒しきることはできない。そんなことは痛いほどわかっているのに、虎徹の声で虎徹の言葉を聞いていると、本当に「大丈夫」なような気がしてくるのだ。

───いっそ、好きだと。

この人に向かって、そう叫んでしまおうか。
あなたは同情で男を抱ける人間なのかと、詰め寄ってやろうか。
僕が食事できるようになれば、この人は帰ると言った。それなら、ハンストしてやろうか。
このまま、何事もなかったようにこの人に去られるぐらいなら、最後にいっそ、どうしようもなく困らせてやろうか。
バーナビーの脳内で、思考は何一つまとまらない。
その薄汚い思考が詰まってはちきれそうになっているバーナビーの頭を、虎徹の手は繰り返し撫でる。
ほんの頭蓋骨一枚隔てた下で、バーナビーの脳細胞のひとつひとつによって自分が呪われていることも知らず、撫でてくれている。
撫でてくれる手のひらは、やがてバーナビーの頭頂部を通り過ぎ、額にたどり着いて、おどけたようにそこを包帯ごと、小刻みに擦った。
「嫌な夢は、こっから俺に移せ。全部」

───痛い。

瞬間、バーナビーの目の奥で、何かが燃え上がった。
バスローブを着せられて、ただでさえ毛布に埋もれて暑いのに、虎徹の短い言葉を聞きとったとたんに、目の奥から、激痛を伴う熱があふれ出す。
あふれたそれが、容赦なく頬を濡らす。
夢など他人に移しようがない。そんな子供だましを大真面目に告げられたくらいで、どうしてこんなに、意識のすみずみまでもが痛むのか。

───言おう。

唇を押さえていた手を頬に滑らせても、熱はあふれ続ける。
もう抵抗できない。
この熱にも、この人にも。
声も出せず、虎徹の腕の中で、バーナビーは胎児のようにうずくまった。

言おう。
朝になったら、この人に、全部。




もう一度目を覚ました時、虎徹はベッドに居なかった。
氷を踏み抜いたような、冷えた恐怖に襲われ、バーナビーは毛布を蹴り落とす勢いで身体を起こした。
同時にまた、こめかみが痛み、ベッドの上で這ったまま、動けなくなる。
下半身も嫌な感じにきしみ、内股の辺りから、筋肉に溶け込むような鈍痛が響いてくる。
痛みを逃がすために息を長く吐くと、部屋の中に覚えのある匂いが流れてきていることに気づいた。

───よかった。

バーナビーはさらに長く息を吐く。
虎徹はまだこの家にいて、キッチンでまた、スープを温めてくれているのだ。
拍子抜けして、バーナビーはベッドにやっと尻を落とす。
シャワーを浴びに行くか、キッチンに行くか、数秒迷っているうちに、寝室のドアが開けられた。
「お。起きてたか」
独り言のようにつぶやいて、虎徹はスープ皿をトレイにも載せずに持ってきた。
「今食えるか?」
「…いただき、ます」
「昨日とおんなじのだけど」
「別にかまわないです。…あ。でも、あなたの食事は」
「あァ。気にすんな。すぐ買い出し、行ってくっから。スープの他に、なんか食いたいモンあるか?」
明け方にハンストまで考えたバーナビーの頭の中には、ほとんど何も浮かばない。この数日は固形物を口にしていなかったので、何か思い浮かんだとしても、それを実際に身体が受け付けるかどうかがわからない。
スープ皿を慎重にバーナビーの膝に預け(バスローブ越しなので火傷はたぶんしない)、虎徹が鼻から長い長いため息を吐いた。
この沈黙をなんとかしなければいけない。
膝上のスープからようやく視線を上げて、バーナビーはベッドそばに立つ虎徹を、すがるように見上げた。
ふと、合ったはずの視線が逸らされる。
「食欲、ねぇんだな…?」
困ったように窓の外に視線を投げる虎徹は、もういつも通りのシャツとスラックスを身に着けている。

───買い出しなんか、必要ないです。

もう少し。あと少しだけでいいから、僕のそばに。
出せない声が、バーナビーの喉の底でぐるぐると渦巻く。

───でもそれじゃ、この人の朝食が無い。
───冷蔵庫に水以外のものは入っていない、どうしたって何か買い足さなきゃいけない。
───今すぐ買い物に行こうにも僕はこんな姿で。
───この人が優しい言葉をかけてくれているうちに、何か、何か言わないと。

焦るあまり、喉に空気のかたまりがひっかかる。
そんなバーナビーをチラとも振り返らず、虎徹は窓の外に視線を固定したまま、ひっそりとつぶやき続ける。
「食いたくねぇのはしょうがねーけど。…おまえがこれからどうすればいいか、俺もおまえと一緒に考えるから。考えんのも体力要るから、だからその前になんか食ってくれ」

───『考える』?

何を考えてくれるというのだろう。
昨夜の途切れがちだった記憶を総動員しても、バーナビーの中に明確な解答は見つからないが、どこかしら絶望的な予想はつけることができた。

───あれは、やっぱり夢じゃなくて。

思い出してしまったあのことを、きっと僕はこの人に話してしまったんだろう。
完全に覚醒していなかったとはいえ、僕はどこまでこの人に迷惑をかけているのか。
話してしまった言葉は、もう元には戻せない。
膝の上のスープ皿を、バーナビーは両手で強く包み込んだ。
すべてを話す、という数時間前の決心が、ここに来て揺らぎそうになる。
虎徹にすべてを話しても、楽になるのはバーナビーひとりだ。
バーナビーの秘密を知った虎徹に降りかかる新しい危険のことを、どうしてここに来るまで予測できないでいたのか。
「どうしても食いたくねぇなら、点滴だ。病院まで引きずってくぞ。いいか?」
やっと、虎徹は振り向いた。
窓から降り注ぐ朝日が逆光になって、虎徹の瞳は見慣れないブラウンに沈んでいる。
その乱暴な言葉遣いにまったくそぐわない、胸の底にまでしみとおる、温かいブラウンだ。
「………返事。してくれ。お、れのことは…嫌いでいいから」
せっかく振り向いた虎徹の目が、また伏せられる。

───また、痛い。

目を精いっぱいしばたいて、バーナビーは網膜に届きそうな苦痛を耐える。
違う。違う。ちがう。
僕のこの気持ちを、どうすれば、どこから説明すれば、この人に、そっくりそのまま間違えずに伝えられるのか。
胸の底は焼けつき、温度の高い何かでいっぱいになり、ますます何も、喉を通りそうにない。
それでも、目の前の、なかなか視線を合わせようとしない男の深いブラウンが愛おしくて、これまた痛む喉を必死に振り絞る。
「……果物なら。たぶんたべられ、ます」

───どうしたって、抵抗できない。この人には。

どうしたって話さずにおれないのなら。
せめて、地獄に落ちるのは僕だけにしなければ。




十分後。
「あの。大事な話があるんです。買い物の後で…聞いてもらえますか」
バスローブ姿のままでベッドから降り、バーナビーは虎徹を追いかけた。
スリッパも履かずに、両足を小走り程度になんとか回転させ、玄関のドア前で、ようやく彼を呼び止める。
十分前に、やっと胃に流し込んだスープが、ひどくバーナビーの腹を重くしていた。
「んん?大事なら、今言ってくれ」
玄関のドアノブに掛けていた指を下ろして、虎徹はバーナビーに向き直ってくれた。
「込み入った話なんです。…だか、ら」
どうしても、声が震える。
言葉をきちんと最後まで続けられず、バーナビーはうつむいた。
「その。おまえが『思い出した』っていう、アレか?」
「違います」
しっかり否定したくてバーナビーが顔を上げると、今度は虎徹が、考え込むように視線を下げる。
「え。じゃあスーツのアレか?えーと。おまえの作ってた、なんとかシステム?俺が抜けたら損害ヤバイっていうのがわかんねぇわけじゃねーけど、俺」
「違います」
「え」
「とても込み入った話なんです。長くなるので、後で」
一歩踏み出し、虎徹の肩に、こつりとバーナビーは顔を伏せた。
ほんのひと月前、ヒーローを辞めて欲しくないとねだったあの時と同じしぐさで、本物の恋人のように、馴れ馴れしく。
ずうずうしいと思われてもかまわなかった。
これ以上、虎徹に表情を覗き込まれたくなかった。
あと数十分後には、すべてを知った虎徹に、確実に愛想をつかされてしまうのだ。
だからせめて、最後の、ささやかな恋人ごっこを許してほしい。
顔を伏せたまま、虎徹に引き剥がされるのを待っていると、後頭部に、大きな手のひらの感触が降ってきた。
「わかった。じゃあ、後でな」
バーナビーの頭を軽く抱きとめるように、大きな手のひらに力が込められる。
そのわずかな圧力がただ嬉しくて、張り裂けそうに目が痛む。
それを耐えてバーナビーが顔を上げた時、虎徹の背中は、もうドアの向こう側に半分以上吸い込まれてしまっていた。
玄関ドアが、小さな小さな電子音を立てて、ロックされる。
一人になったとたんに、バーナビーの身体から力が抜けた。
寝室へ戻ることもできずに、その場でうずくまる。

───いや。

へたり込んでる場合じゃない。
あの人と過ごせる残り時間を計算してる場合でもない。
抑え込んでいた吐き気が、急に胃の中で暴れ出し、バーナビーの額がゆっくりと冷え始める。

───僕は、ジェイクを探し出さなければいけない。

昨日やっと、バーナビーはダウンタウンのあの店に行ってみたが、店はすっかりもぬけのカラだった。
かつて二度も鼻突き合わせたあの男が、ウロボロスの一員だと気づけなかった自分の間抜けさに、腹が立つと言うよりはあきれてしまう。
ダウンタウンで手袋をしている男を見つけたら、片っぱしからそれを剥いでいくくらいの猜疑心がなければいけなかったのだ。
吐き気が増す。
両親を殺したのは───いったいどちらなのか。
タトゥーのあるジェイクか。
はっきり記憶の中に現れた、マーべリックなのか。
考えれば考えるほど、胸に悪寒が満ちる。
この家に帰ってくる前も、その後も、何度か実際に嘔吐したが、苦痛は消えない。
これ以上もう何も考えたくないのに、考えなければ前にも後ろにも進めない。
犯人はジェイクであって欲しい。
そうであるはずだ。そうでなければいけない。そうでなければこの悪寒から逃れられない。
突然浮かんできたあの記憶は、狙撃されて頭を傷つけられたための、突発的な意識障害であって欲しい。
ジェイクは、ビームで狙撃しながら相手の脳にもダメージを与えられる、何らかのNEXTではないのか。
そこまで考えて、その思考の荒唐無稽さに、バーナビーはまた脱力する。
床に片膝をつくと、目の前の玄関ドアが、静かにノックされた。
なぜ虎徹は引き返してきたのだろう。まさか財布でも忘れたのか。そういえば、買い出しには行ってもらったが、その礼はいつすれば良いのか。立て替えてもらった金額を後で渡しても、彼には受け取ってもらえないような気がする。
ほんの数瞬でそんなことを考えながら、バーナビーは玄関ドアが開くのを待った。
指紋認証キーを使わなくてもここを開けられるように、虎徹には、非常用の暗証ナンバーを教えておいた。
ロックが解かれる音を耳に留め、バーナビーは膝に手をついて立ち上がる。

ふっ、と小さな風が、開いたドアから吹き込んだ。

「おはよう」
聞き慣れた、温かい声がした。
バーナビーのすべてが凍りつく。
手も、足も、目も、吐息も、意識も。吐き気すらも。
「どうしたんだい、こんなところで座り込んで」
立ち上がろうとした、はずだった。
「そんな格好では、風邪をひいてしまうよ?」
後ずさりすらできない。
「さあ。ベッドに戻りなさい」

───マーべリックさん。

膝がまた、床に崩れ落ちてしまったのだと気づいた時には、もう青灰色の瞳が、バーナビーの鼻先で笑んでいた。




辞表を、書いてくるヒマがなかった。
出社してくる人々を乱暴に押しのけ、小走りで虎徹はゲートを通過する。
「危ないですよ。気をつけてください!」
顔なじみの警備員に注意されても、振り返る余裕すらない。
いつもの出社予定より、三十分は早い。朝、アポロンメディアの社屋ゲートに、一番人があふれる時間帯だ。
警備員の叱責も、周囲の注目も無視して、虎徹は廊下を走る。
バーナビーに、会うために。
バーナビーは、忽然と消えた。
もっと詳細に言うと、昨日の朝、虎徹は彼の家から、締め出された。
在宅している時、中からドアをロックするのは当たり前の行為だが、暗証ナンバーが変えられたのか、それとも故障でもしたのか、買い出しから戻った虎徹は、外からドアを開けることができなかった。
インターフォンも、バーナビーの携帯も、まったく反応がなかった。
一瞬、バーナビーにとうとう本気で拒絶されたのかと思ったが、彼は出がけに、大事な話があると言っていた。
何かが、おかしかった。
ただ胸が騒いで、マンションのセキュリティセンターに開錠を依頼するのももどかしすぎて、能力を発動して玄関キーを壊してみたが、部屋の中は無人だった。
とどめに、壊した玄関のドア前で、小さな金属片を踏みつけてしまった。
踏みつけたのは、鎖だ。
とても細く短い、金色の鎖。
長さにして数センチのそれは、本来は、そんな長さでは役に立たないものだ。その鎖は本当はもっと長くて、留め金が端に着いていて、金色のトッププレートに繋がっていて──バーナビーの胸元で常に、揺られていなければいけないものだった。
何もかもがおかしすぎて、ぞっとした。
そして、何もかもがおかしすぎて、逆に、虎徹の中で奇妙な勘が働いたのだ。
ポケットに突っ込んでいた電話の着信履歴をたどって彼に連絡を取ると、ますますぞっとしそうに穏やかな声が、応答してきた。
「ああ、タイガーくん。今連絡しようと思っていたんだよ。バーナビーが家を飛び出して、私のところに来ているんだ。明日、時間が取れるなら、社長室まで来てくれるかい?」
そして。
ドアへのノックを放棄して、体当たりの勢いで虎徹が押し入ったその部屋に───バーナビーは居た。
いつものように巻き毛をきれいに整え、いつものライダースジャケットを着て、行儀よくソファに座り。こめかみの傷はもうふさがりかかっているのか、頭に包帯は巻かれていない。
彼の顔色だけはまだ青白かったが、その目は、昨日マンションの玄関先で別れた時とは別人のように、生気を取り戻していた。瞳のグリーンすら明度が上がって、前よりずっと鮮やかに見える。
ドアの開く大きな音に、バーナビーは驚いたようだった。
軽く見開かれたグリーンが、みるみるうちに不快そうな感情に染まってゆく。
バニー、と呼びかけようとして、虎徹は思わず息を飲む。
おととい、虎徹のそれと何度も触れ合ったはずの唇は、瞳よりももっと不快そうに歪み、信じられない言葉を、虎徹に向かって吐き捨てた。
「ノックぐらいしたらどうですか。誰です、あなた?」
飲んだ息が、止まった。
荒い息で上下していた虎徹の肩が、一瞬だけ、感電したように震えを散らす。
「何を……言って、んだ、おまえ」
「あなたこそ何を言ってるんですか。ここは社長室です。どこの部屋とお間違えなんですか」
「おい!ふざけんのもいいかげんにしろよ!」
怒鳴られても、バーナビーは眉ひとつ動かさない。
怒りに満ちた緑の目が、いっそう強く、虎徹をにらみ上げてくる。
「バーナビー。そのぐらいにしておきなさい」
窓際に置かれたデスクから、静かな声が飛んだ。
ゆっくりと椅子から立ち上がってきたマーべリックは、よく見ると、スーツのジャケットの下で、包帯を巻かれた右腕を吊っている。
「彼が、さっき説明した『ワイルドタイガー』だよ。君を心配して来てくれたんだ。あまり失礼な物言いをするのはやめなさい」
ソファの上で、えっ、とバーナビーが声を上げた。
声を上げて、また振り向いて、緑の目が心底驚いたふうに、突っ立ったままの虎徹を見上げてくる。
怒りから一転した、この戸惑っている表情が演技なのだとしたら、バーナビーは稀代のアクターになれるだろう。
何が起こっているのかわからない。
虎徹が絶句している間に、マーべリックはソファに近づき、バーナビーの隣りに腰掛けた。
「…っ、気をつけてください」
バーナビーはあわてて立ち上がり、マーべリックの手を取った。片腕を吊っているマーべリックは、肥満もあって、身体を動かす時にバランスが取りにくいようだった。
バーナビーの介添えで体勢を立て直し、アポロンメディアのCEOは、深くソファに沈みながら、心から気の毒そうな表情で、虎徹を見すえた。
「突然で、驚いたとは思うが。昨日から、バーナビーはずっとこんな状態なんだ」
「こんなジョータイ…って…」
「医者が言うには、健忘症なんだそうだ。おそらくは、何らかの外的ショックの影響で…バーナビーは今、君に関する記憶を失っている」
「は?」
「自分の身分も名前も覚えているし、『ワイルドタイガー』のメカニック担当として、仕事をしていたことも覚えている。ただ、ワイルドタイガーの正体が君であることを、バーナビーは忘れてしまっているんだ」

───そんな、バカな。

ソファの上で、ぴったりとマーべリックに寄り添うバーナビーは、、伏し目がちに視線を固定したまま、こちらを見上げようともしない。
「……あんた。バニーに、何したんだ」
低く、虎徹は咆えた。
マーべリックの目が、ふと無表情になる。
「バーナビーに何かしたのは、君の方じゃないのかい?」
「外的ショック」の密かな心当たりをやんわり突かれ、虎徹は返答に詰まった。

───確かに。

確かに俺は、具合の悪かったバニーを抱いちまったけど。
それが、記憶を無くさせるほど、奴にはショックだった、ってことなのか?まさか。
そんなことはないはずだと、自分自身に断言できないうしろめたさが、ますます虎徹の声を奪う。
「おや。ずいぶんと心当たりがあるようだね」
小馬鹿にしたようなマーべリックの声が、虎徹のなけなしの忍耐を逆撫でした。
「すっとぼけてんじゃねぇぞ…!」
大股でソファに近づき、間近でマーべリックをにらみ下ろそうとすると、今まで人形のようにおとなしくしていたバーナビーが、ぐいと立ち上がってきた。
「…いくらあんたがヒーローでも、限度ってものがあるだろう!」
聞いたことのないバーナビーの乱暴な言葉遣いに、最高に驚いて、最高にいらだつ。
「僕はNEXTです。あまり言いたくはないんですが、能力はあなたと同じ、五分間のハンドレッドパワーです。これ以上の無礼は僕が許しません。僕の言ってる意味、わかりますよね…?」
まがりなりにも現役のヒーローに脅しをかける、この無鉄砲な純粋さは、やはり虎徹の知っているバーナビーそのものだ。

───でも。

やっぱり何か、おかしい。
バーナビーの脳の中から抜け落ちているのは、虎徹に関する記憶だけではない。
バーナビーは、自身がマーべリックを恐れていたことまでも忘れているのではないか?
バーナビーの両親を手にかけた犯人は、ジェイクと呼ばれる男なのか、それともマーべリックなのか、まだわからない。
わからないがゆえに、バーナビーは苦しんでいた。
今、バーナビーがこんなに生気を取り戻しているのは、マーべリックの潔白が判明したからなのだろうか。

───それとも。

昨日、ネックレスの残骸を拾った時に降ってきた奇妙な勘が、虎徹の中で凶暴に膨らむ。
それとも、バーナビーはネックレスがちぎれるほどの暴力を誰かに受けて、自分が不安定な精神状態だったことも、暴力そのものも、まるごと忘れてしまっているのか。
虎徹は、目前に立ちふさがるバーナビーの、空っぽな胸元を目に留める。
どうしても納得がいかない。
このバーナビーがバーナビーであることに間違いはないのに。
何か、洗脳でもされたように、この目の前の彼の振る舞いは不自然だ。
バーナビーは、マーべリックに「何か」、されている。
「落ち着きなさい、バーナビー」
ソファに座ったままのマーべリックが、バーナビーの手首を、背後からそっと抑えた。
「仕事がおしていると、メカニックルームから連絡をもらっているんだろう?今日君が出社したのは、仕事を片付けるためじゃなかったのかい」
「……はい…」
仁王立ちしていたバーナビーは、肩を落とす。
その顔は、いかにも悔しそうで、ただただ、虎徹への嫌悪に満ちていた。
「でもまだ君の身体は本調子ではないよ。残業はやめておきなさい」
マーべリックの声に、バーナビーは口元をこわばらせた。
気持ちを一生懸命抑えようとする時の、いつもの彼のしぐさだった。
しぐさだけはどこまでもそのままなのに、バーナビーは虎徹にふいと背を向け、半身をかがめて、ソファの上のマーべリックに顔を寄せる。
マーべリックの吊っていない方の手が、バーナビーの頬に伸びた。
「…今日は早く、帰っておいで」
バーナビーの頬に、軽くキスが落とされる。

身体中の血が逆流しそうな気分で、虎徹は彼らから目を逸らした。




頭の中に、自分がもう一人、居る。
ラボでひとり、ヒーロースーツの調整をしながら、バーナビーは天井を仰いだ。
ジェイクに狙撃されてから、もう一週間近く経っている。
仕事を早めに切り上げて、バーナビーは毎日ダウンタウンに足を運んでいるが、彼の行方はまったくわからない。
入国管理局や司法局には、犯罪者データの検索を拒否された。
とうとうあのタトゥーの持ち主を見つけたのに、一介の会社員の身分では、データ検索ひとつできないのだ。がんとして首を縦に振らない、司法局の担当者の顔を思い出すたびに、バーナビーの心は焦りではちきれそうになる。
焦っているのに、心の中で、誰かがささやく。
そんなに焦る必要はない、と。
誰かではない。バーナビーにささやいているのは、バーナビー自身だ。
狙撃されて意識を失い、マーべリックの別邸で目覚めたあのときから、バーナビーの意識の中には、どこからどう分裂したのか、バーナビーを監視しているようなバーナビーが、もうひとり棲んでいる。
しかし、今までも、何年かに一度の割合でこんなふうになることはあった。この精神状態に陥るのは初めてではないのだ。
もうひとりのバーナビーは、口うるさい。
マーべリックの腕の包帯を見るたびに、バーナビーはわけのわからない罪悪感に襲われる。マーべリックは、自宅で転んで骨折した、と言っていたのに。
ダウンタウンに足を運んでも、家へ帰っても、気持ちは落ち着かない。果ては、自分の家の玄関キーが───開錠する暗証ナンバーまでが───時々あやふやになり、これでよかったのかと悩みながら開けている始末だ。
調整を終えた「ワイルドタイガー」のマスクを、ラボの所定のブースに収め、バーナビーは息をつく。
こうして自分の作ったヒーロースーツを目の前にしていても、そのスーツの「中身」のことが気になってしかたない。
忘れてしまったらしい「中身」のことを思い出そうとするたびに、もうひとりのバーナビーは、ひときわ口うるさくなる。あまりにうるさくて頭痛までしてくる。マーべリックはああ言っていたが、きっと、あの「中身」の人物は、バーナビーとあまり良い関係を築いてはいなかったのだろう。
過去はともかく、大した成績も上げていない、アポロンメディアが買収先で拾っただけのヒーローが、恩人の社長に対して、あんな口をきくのは許せない。

───きっと、僕は。

僕は、あのカブラギ・コテツが気に入らなくて、自分を抑えながら仕事をしていたんだろう。
メカニックを辞めれば、ウロボロスの情報が追いづらくなる。そう思って、淡々と自分の仕事だけに集中していたんだろう。
狙撃のショックで彼のことを忘れてしまったのも、常々、忘れたいと思っていたからじゃないのか。

───『バーナビーに何かしたのは、君の方じゃないのかい?』

マーべリックさんが冗談で、ああやって切り返した時も。
カブラギ・コテツは真面目に言葉を詰まらせていた。大なり小なり、何かの心当たりがある顔だった。

───僕は、彼に何をされていたんだろう。

頭痛がする。
もうひとりのバーナビーは、本当に口うるさい。
うるさすぎて、少しおかしくなりそうだ。
それでもただ、やり過ごしていれば、勝手に時間は経過する。
時間が経てば、この不安定な状態は自然に治まってゆくのだ。今までと同じように。
ほとんどふさがったこめかみの傷を、髪の上からそっと押さえて、バーナビーは頭痛をなだめる。傷が痛いわけではないし、それで頭痛がおさまるわけでもないが、なぜか不安で、押さえずにはいられなかった。
背後で、ドアが開く音がする。
押さえた手をあわてて下ろし、バーナビーが振り向くと、ラボの入口には、たった今の、頭痛のタネの人物が立っていた。
「…よう」
ほとんど視線がうかがえないほど目深にハンチング帽をかぶり、バーナビーの頭痛のタネは、感情を押し殺したように静かな声で、短すぎて無礼なあいさつを口にする。
ひときわ強く、バーナビーの頭蓋骨に痛みが響く。
「何か用ですか。今、出動要請はかかっていないはずですが」
痛みをどうにかこらえて、バーナビーは虎徹をにらみつけた。
返答もなく、彼はずかずかとこちらに歩いてくる。
「来い」
身構えた腕をつかまれ、思わず振り払う。
だが、予想外の力で手首を握り直され、バーナビーの全身が冷えた。
「どこに行くんですか!?」
「ジャスティスタワー」
「僕はトレーニングセンターに用はないです!」
「トレセンじゃねぇよ」
「じゃあ、何…」
「静かにしろ。ジェイクのこと、調べたいんだろ」
「え、」
恐ろしい力で手首を引かれ、ラボから廊下に引きずり出され。
事情が何も飲み込めないまま、バーナビーは虎徹に連行される。
「どうして、そんな」
「黙って歩け」
どうして彼が、ジェイクの名前を知っているのか。
どうして彼は、司法局でデータ検索を拒否されたバーナビーのことを知っているのか。

───カブラギ・コテツは、僕のことを、いったいどこまで知っているのか。

頭ががんがんする。
何ひとつ、虎徹に訴えることも、尋ねることもできない。
廊下の脇にある、休憩ロビーをほとんど駆け足で通り過ぎると、ロビー備えつけのコーヒーの自販機から、砂糖を空気に溶かしたような、甘ったるい匂いが漂ってくる。
この匂いには、覚えがある。

───いつもここを通ると甘い匂いがするけれど。

この匂いを嗅ぎながら、僕はいつだったか、この男と、ここを歩いたことがなかったか。
僕は今のこの、カブラギ・コテツのようにいらだっていて、急いでいて、彼と言葉を交わすのも面倒くさく思いながら、彼を引っ張って、この廊下を歩いたような気がする。
立ち止まって考えたいのに、虎徹は早足のスピードをゆるめない。
つかまれた手首が痛い。
「あ、」
バーナビーがつまづきかけても、虎徹は振り向こうともしない。
こんなに腹の立つ場面もそうないだろうに、なぜか虎徹の静かな気迫にのまれ、バーナビーは彼の手を振り払えない。

───なんて嫌な、やつなんだろう。

心で、悪態をつく。
だがその悪態は、虎徹に向けられるものなのか、自身に向けられるものなのか、それすらはっきりしない。
引きずられて歩きながら、バーナビーはただ、頭痛を耐えた。




虎徹が社員証とPDAを示し、小さな紙にサインすると、その担当者は、とうとう首を縦に振った。
現役のヒーローが付き添うという条件なら、なんとか一般人でも、この司法局の資料室に出入りできるらしい。
虎徹の後についてドアの中に踏み込み、初めて見る書架を見回して、デスクの上のパソコンに目を留めて、最後に───さっさとパソコンの脇へ歩いて行った虎徹の背中を見つめて───バーナビーは息を詰める。
詰めた息をどうにか飲み下して声を出そうとした時、虎徹はいきなり振り向いた。
「俺のIDを入力しろ。それで検索できる」
社員証が、無造作に突き出される。
突き出されたそれと、ハンチングのつばの影に今にも隠れそうな、虎徹の目を交互に見つめ、バーナビーは立ちつくす。
どういうことなのかわからない。

───僕はこの男が嫌いなのじゃなかったのか。

それなのに、この男は僕がメカニックを務める本当の目的を知っていて、ジェイクの名前まで知っていて、僕に嫌われているのにこの男は自分のIDを僕に貸すなんていうコンピューターの常識からしたら最低に危機感のないバカなことまでやってみせて、そんなのは常識どころか一歩間違えば自分のヒーロー生命まで危うくなるってことすらわからないんだろうか。

───声が出ない。

どうして僕は、この男にものを尋ねることができないのか。
問いただしたいことが山のようにあるのに、どんどん吐き出してこの男にぶつけなければいけないのに、喉に栓でもされてるみたいに、声が身体の奥で潰れて止まって出てこなくて。それどころか。

───この声の潰れた感じが、つい最近まで、何回も繰り返されたような気がするほど、覚えがあって。

資料室に着いて、ほんの少し遠のいていた頭痛が、バーナビーの中でまた、鮮明になる。
「いらねーのか?ID」
なげやりに焦れた虎徹の声に、はっと意識を繋ぎ止める。
ひどく重く感じる腕を上げて、バーナビーは再度突き出された社員証を受け取った。
受け取ったIDカードの薄さと硬さが、何とも頼りない指先にしみる。
「あなたは、」
息を吸うのがつらい。
「あなたは、僕のことを、どこまで知っているんですか」
潰れて止まって出てこなかった声が、ようやくあふれ出す。
「どこまで…って言われても」
「あなたは、僕のことをとてもよく知っている。以前の僕は、あなたにどんな話をしていたんですか。僕はあなたと、どういう関係だったんですか」
あふれ出した質問は止まらない。
「別に。フツーの、会社の同僚だよ」
「僕はいつ、あなたにジェイクの話をしたんですか」
止まらない質問の語尾が、かん高くかすれそうになる。
「この間…俺が、おまえんちに行った時に。手の甲にタトゥーのある、ジェイクってやつに狙撃された、って。そいつが、おまえの両親の事件の…犯人かもしれねぇ、って」
どう考えても、それは「フツーの会社の同僚」に話すべきことではない。そのうえ、この男は、バーナビーの自宅にまで入り浸っていたというのか。
「どうして僕が昨日、司法局に行ったこと、知ってたんですか」
質問は、悲壮感さえ帯びてくる。
「今日、賠償金のこと裁判所の人と話してたら、おまえの話が出たんだよ。アポロンメディアのメカニックの人が来てましたよ、ってさ」

───まだだ。

まだ、この男は、何か僕に隠している。
「もういいだろ。俺はその辺にテキトーに座ってっから、おまえは早く調べるモン調べろっての」
動悸で胸さえ痛んでくるが、確かに、この資料室を利用できる時間は無限ではない。
この男を問い詰めるのは、ここを出てからでもできる。
波のように打ち寄せる、微細な身体の痛みからどうにか意識を逸らし、バーナビーはパソコンの前に座った。




検索の結果は、予想通りかんばしくなかった。

ジェイク・マルチネス。
罪状は殺人、窃盗、誘拐。
元傭兵。
1962年にミスターレジェンドに逮捕され、アッバス刑務所に収監される。模範囚として1974年に出所。

───信じられない。

本当にこれが、司法局の厳重な管理下に置かれた犯罪者データなのだろうか。
知らず速くなる呼吸を落ち着かせようと、バーナビーはパソコンのディスプレイから目を逸らした。
逸らした目をぎゅっと閉じてうつむき、マウスを離した指で、髪を小さく掻きむしる。
「…どした?」
バーナビーの斜め後ろで、ぼんやり腕を組んで時間の経過を待っていた虎徹が、奇妙に真剣な声を出した。
「データが…おかしいです」
「どゆこと?」
「こんな重犯罪者の、刑期が短すぎます。普通なら、禁固100年だっておかしくない罪状だ。なのに、それが、たった十二年で出所なんて」
「出所の理由は書いてないのか」
「模範囚、としか」
「こいつが檻の中に入ってっと困るヤツがいるのか…こいつが檻から出てくると得するヤツがいるのか…なんにせよ、壮大にうさんくさいバックが、こいつについてるってことか?それが、『ウロボロス』、って?」
「ジェイクの手の甲のタトゥーまでは、確認できませんでした。やっぱり…本人を捕まえないと確認が取れない」
「ヤツの居どころは?ダウンタウンか?」
「入国管理のデータでは、シュテルンビルトを出た形跡はありません。…違法な越境で市外に出ている可能性もありますが」

───なぜ僕は、この男とこんな会話をしているんだろう。

悲壮な疑問の続きが、バーナビーの中で広がり始める。
あんなにどうでもよさげに社員証を出してきたくせに、なぜこの男はこんなに親身になって、ジェイクを追ってくれるのだろう。
考えても、頭痛がひどくなるだけだ。
今は、目の前のこのカブラギ・コテツじゃなくて、ジェイク・マルチネスのことだけを考えなければいけない。
前髪を掻き上げ、バーナビーは再度、ジェイクの顔写真を映すディスプレイに向き直った。
生身のジェイクを探し出す方法は、まだ残されている。
ジェイクは「ウロボロス」に扮したバーナビーを狙撃した。バーナビーがもう一度テレビカメラの前に現れれば、ウロボロスの偽物が健在であることをアピールすれば、また彼は、バーナビーを潰すべく、現れるのではないか。
だが、ルナティックがすぐに都合よく現れてくれるとは限らない。ルナティックを追わずに今すぐテレビカメラに映るには、どうすればいいか。一週間前のトレーラー事故の時、マーべリックはバーナビーが「ウロボロス」に扮することを許してくれなかった。

───ゆるして、くれなかった?

髪をさらに掻きむしるバーナビーの指の下で、生き物のように頭痛がうごめく。
なぜ僕はあの時、許してもらえなかった?
なぜ僕はあの時、ルナティックもいないのに「ウロボロス」のスーツを着たいと思った?
「…う…」
不完全な記憶にいらついて、胸がむかむかする。

───僕はあの時、ワイルドタイガーが現場に居るのを見て。

あの時テレビを見ていて、僕はそれから。
「う、…っ」
「おい!どうした」
椅子から立ち上がってきた虎徹に、返答することもできない。
意識ごと、身体ごと、この空間ごと、砕け散りそうだ。
思い出せない。
思い出せない。
僕はあの時、どうして、事故現場に、行こうと、思ったのか?
とうとう両手で頭を抱え込むと、両腕を、乱暴に引き上げられた。
「う、あっ!」
つかまれた二の腕の痛みに思わず声を上げると、頬にざらりと虎徹の顎ヒゲが触れる。
「は…離し…てっ、」
椅子から引きずり立たされ、背中に腕が回されて。
気がつけば、虎徹に抱きしめられていた。
顎ヒゲは頬を通り過ぎてゆき、虎徹の後ろ髪が、バーナビーの小鼻をくすぐる。
「落ち着け。ゆっくり、息吐け」
耳元で響く声に、バーナビーの全身の力が抜けた。
まるで、アンドロイドの電源が落とされたかのように、自動的に。
バーナビーはほとんど自力で立っていないのに、虎徹の腕は、びくともせずにバーナビーを抱き留めている。
「もっと。息吐いて。そしたら楽になるから」
痛む頭の中で、何かが動いた。
覚醒と言うにはあいまいすぎ、ひらめきと言うには情報が足りなさすぎたが、動いたそれは、確かに記憶の断片だった。

───知っている。

僕は、この男の髪の匂いを、こうして嗅いだことがある。

───『バーナビーに何かしたのは、君の方じゃないのかい?』

マーべリックの声が脳裏で響く。
まさか。
まさか、僕は、この男に。
おぞましい推測が、バーナビーの意識をじりじりと浸食する。
身体の芯から、冷たい震えが湧き上がる。
冷たくて、痛くて、身体の内側から、ねじ切られそうだ。
「息吐け。バニー」
大きな手で背中をそっとさすられて、震えが飽和する。
倒れ込むのが嫌で、反射的に虎徹の肩にしがみつくと、彼のかすかな吐息が、唇に迫った。

───嫌だ…!

吐息の意図を理解したとたんに、得体の知れない力が爆発し、バーナビーは腕を振り上げる。
乾いた音が、虎徹の頬で散った。
突き飛ばされ、よろけながらも倒れずに、虎徹は手の甲で、殴られた頬を押さえている。
なぜか、殴ったバーナビーの方が足腰立たない。
虎徹から一センチでも遠く離れたいのに、数歩後ずさったその場で、よろよろと膝から崩れ落ちる。
「バ、ニーって。誰のことですか」
身体は崩れ落ちても、身体の中の感情は崩れ落ちない。
怒っているのか脅えているのか驚いているのか、その全部が一緒くたになってとうとう気持ちが悪いのか、もうバーナビー自身にもわからない。
「僕はバニーじゃ、な、っ…」
崩れ落ちない憎悪のような感情が、バーナビーの発声の邪魔をする。
虎徹が、頬を押さえていた手を下ろした。
「く…来るなっ!」
彼の一挙一動が、恐ろしくてたまらない。
「それ以上僕に近づいたら、…殺す…!」

───死ぬのは僕だ。

声が、バーナビーの意識下いっぱいに響き渡る。
もうひとりのバーナビーの声だ。
僕は死ぬ。
頭痛と、動悸と、呼吸困難で、僕は死ぬ。
だから僕は、カブラギ・コテツに、近づいてはいけない。
カブラギ・コテツに近づくことは、耐えがたい苦痛だ。
今すぐその苦痛を回避しなければならない。

───カブラギ・コテツが僕をここに連れてきたのは、僕のためじゃ、なかったのか?

この男は、人目につかない場所でいかがわしい行為をするために、社員証を、IDを、貸してくれたのか?
今までも、僕はこうして、彼の策略にはまっていたのか?
だから僕は、この男の髪の匂いを覚えているのか?
だから僕は、この男に近づくと、この男が近づいてくると、苦しいのか?
最悪の推測が、バーナビーの意識下でわんわんと反響する。
なのに、その最悪の推測から、怒りは生まれない。
憎悪にも似ていたその感情は、ふと裏返せば、落胆のような、悲しみのような、身体の力が抜けそうなものばかりで。
それに気づいたとたんに、バーナビーの中のバーナビーが、黙り込んだ。
唐突に、頬が熱くなる。

───どうして、涙が。

何の抵抗もなく皮膚を滑り、熱いその水分は顎へと流れ落ちる。
立ち上がることもできずに、バーナビーは絶句した。