ブラック・プリズム -5-



腕に力が入らない。
だが、今出せる精いっぱいの力を振り絞って、バーナビーは虎徹の上体にしがみついた。
「うわっ!」
立ち上がりかけていた虎徹の両肘を捕まえ、ほとんど横倒しにして彼の上体をベッドに引きずり上げる。

───人に命じられるのが嫌いなあなたが。

人に媚びるのが嫌いなあなたが、なぜ、あの人の指示で僕なんかのところに来るんだ。長いものに巻かれるフリをして、本当に嫌なら、絶対に絶対に命令なんかに屈しないあなたが、どうして。命令されて来てるのに、どうしてそんなに親切なフリをするのか。それすら命令されてるのかあなたもあの人の仲間なのか。やめろ嘘だ、そんなはずはない、あるはずがない。あんなに一生懸命「ウロボロス」を追いかけてくれたあなたがそんなはず。あなたがあんまり親切だから、僕は、バカな期待をしてしまって僕はあなたに期待する資格すらないのに、嘘ばかりついてる僕に優しくしてもらえる資格なんかこれっぽっちもないのに。

───ああ、そうか。

そうだから、僕がそんなだから、あなたは、僕からしつこく逃げようとするのか。
「痛てぇ、おま…えっ」
ベッドに横倒しになった虎徹の肩口にしがみつき、バーナビーはそこへ顔を埋めた。
いくら物理的に虎徹を捕まえても、何も満たされない。捕まえても、捕まえても、彼は逃げ続けるだけだ。

───そんなことわかってたのに。わからなくちゃ、いけなかったのに。

こんなふうに絶望する日が来ることは、最初からわかっていたのに。
バーナビーは虎徹の首筋に頬を擦りつけた。
恋しい匂いを捕らえ、質量も不明なそれを、ただ噛みしめる。
全身をこわばらせた虎徹は、NEXT能力を使う気配もない。本気を出せば、こんなふらふらのケガ人など、彼は片手でねじ伏せてしまえるはずなのに。

───違う、その逆?

ケガ人だから、手が出せずにいるのか。僕がわけのわからないケガをして包帯をしてるから、殴り倒すこともできなくて、ただ縮こまって我慢してるのか。そんな、この人がそんなことを我慢するわけがない。僕がケガをしていようが、死にかけていようが、この人は、そんなこと、全然。
ぼろ、と目から涙がこぼれた。
ほんの瞬間、水分にさえぎられたバーナビーの視界はすぐ元に戻り、いがらっぽく体内に残ってしまった水分は、喉の中を熱苦しく伝い落ちてゆく。
水分と、虎徹の匂いで本当に喉が焼けそうだ。
この人の匂いはこんなに優しいのに。
僕は、この人が本当に優しいのか、わからなくなった。
違うそうじゃない虎徹さんは優しい人だ。ただその優しさが僕に向けられないだけなんだ。だめだ何を期待してる?苦しいのは期待するからだ期待するのは間違っている僕は「ウロボロス」なんだから。だから間違ってる。僕は。
ちぎれそうに熱くなった身体を起こして、バーナビーは虎徹を見下ろした。
肩を押さえつけられたまま、無抵抗でベッドに横たわる虎徹は、ブランデー色の目を絶望的に白っぽく見開いて、こちらを見上げてくる。
メガネをかけていないので、バーナビーの視界の焦点は合わない。合わなくてもわかるほど、虎徹の表情は冷たくこわばっている。
何か言って欲しいのに、虎徹は何も言わない。
何か言いたいのに、言いたくてたまらないのに、バーナビーの喉は何かにせき止められて、声が出ない。
せき止められた声は、またいがらっぽい水分になり、熱く目の縁にわき上がり、バーナビーの意志に関係なく、そこから無遠慮にこぼれ落ちる。
はた、とその一粒が、眼下の虎徹の頬を濡らした。
虎徹の瞳は微動だにしない。
彼の頬をひどく汚してしまった気がして、バーナビーは濡れたそこを、震える指でひとすじ拭った。
もうひとすじ拭おうとして、あきらめて、息が詰まった。
息が詰まって、もう我慢できなかった。
虎徹の両頬をわしづかんで、唇に、唇で触れた。
言えない言葉をどろどろに溶かした吐息を、そこへ流し込むかのように。
どれほど流し込めば、この気持ちをわかってもらえるのだろう。
だがわかってもらうことは、すべてが終わってしまうことと同義だ。
唇を彼の唇から離して、また口付けて、離して、また。
「う…う、…くぅっ…」
自分勝手に苦しい息を継ぎながら、彼の表情も確かめずに、確かめることもできずに、彼の吐息と柔らかい口腔を貪る。
身体は熱いのに、混線する意識の中心はぽっかりと空虚で、何もかもあきらめながら、それでもねじ込んだ舌で、彼の舌を探り、ぶつけて、引きずり出す。
すくむように虎徹の喉にひそんでいたそれは、突然、牙をむいた。
「ふ…ぁぅっ!!」
いきなり舌を噛まれ、バーナビーはくぐもった悲鳴を吐く。
脇下から背中に腕を回され、バーナビーの身体が、仰のいた虎徹の胸の上に崩れ落ちた。ちぎられるように中断されたキスの名残で、お互いに湿った頬が、熱く冷たく触れ合う。
やっぱり、何が起こっているのかわからない。
下から虎徹に抱きしめられたまま、もう一度身体を起こすことができずに、バーナビーはもがいた。
触れ合ったままの頬が、湿った音を立てる。
流してしまった涙が、虎徹の頬まで濡らして、汚している。
こんな汚い涙をなすりつけてしまうことが申し訳なくて、バーナビーは首の筋肉を限界まで伸ばして、虎徹から顔を背けた。
その動きを封じるかのように、虎徹の腕に力が込められる。
「うぁ…!」
これでもかと肋骨を圧迫されて、バーナビーの口からまた悲鳴が漏れる。
手加減を思い出してくれたのか、虎徹の腕が少しだけゆるんだ。
それに安心する間もなく、バーナビーの身体と視界が回転する。
最小限の動作で、虎徹は体勢を入れ替えた。
その通り名どおり、ネコ科の猛獣が、しなやかに獲物を押さえつける動きだった。
あっさりとシーツの上に固定され、空虚だったバーナビーの意識に、かすかな感情が戻る。
殴られるのか。
罵られるのか。
そのどちらでも、まったく不思議はない。
暗い予感が胸いっぱいに広がっても、虎徹がアクションを起こしてくれたことが、ひりひりするほど嬉しい。たとえ彼の顔が、何かを叫び出しそうに苦しげに、歪んでいても。

───僕がこの人を、こんなにしている。

これは支配の愉悦なのか。強烈な後悔なのか。
すっかり壊れた感情が、胸にも腹にもいっぱいになり、飽和した分はまた喉を駆け上がって涙になって、バーナビーの目尻から、みっともなくこぼれ続けた。
さくり、と音を立てて、バーナビーの耳のすぐそばで、シーツが濡れる。涙は、落下音まで無遠慮だ。
さくり。
さくり。
ささやかで無遠慮なその音が、バーナビーの鼓膜から完全に消え去る前に、低い声が割り込んできた。
「………ごめん。ごめんな」
声と同時に、きつく抱きしめられる。
意味がわからない。
言葉の意味を、考えている間などなかった。
虎徹の顔を、見返す隙すらない。
荒い一瞬の吐息と共に口付けられ、バーナビーの目の前が暗くなる。
反射的に目前のシャツの肩にすがると、胸元に指がねじ込まれ、着たきりだったジャケットの前ファスナーを下ろされた。
「ア、…」
ジャケットの中に押し入ってきた指はあまりに熱い。
性急なそれが、すぐに胸の突起を探し出し、バーナビーの意識はしびれるように跳ねあがった。




頬から耳へ。
耳から、首の筋へ。
温かい、いや、温かすぎて焼けつきそうな虎徹の唇が、バーナビーの皮膚の上を滑ってゆく。
唇と一緒に、速い吐息も、バーナビーの耳に染み込み、首筋に散る。
何の感情を耐えているのかわからないが、虎徹は落ち着き払っているわけではなさそうだった。バーナビーが着ていたジャケットもかなり手荒に脱がされたが、乱暴な動作の後で彼はふと我に返るらしく、そこから先は壊れ物を扱うように触れられ、バーナビーはただ混乱するしかなかった。
「ふ…、」
鎖骨のくぼみを強く吸われ、バーナビーは小さく顎を反らせた。
皮膚ごしに硬い骨をなぞられた、たったそれだけのことなのに、首を絞め上げられるように呼吸が苦しくなる。
苦しさは、甘さに裏打ちされている。
ただ虎徹に同情されているだけだとしても、彼が今この時、バーナビーに性的な意図を持って触れてくれていることは間違いない。
先のことなど、何も考えられない。明日のことも、一時間後のことも。
バーナビーは歯を食いしばる。
虎徹がバーナビーのTシャツの喉元をそっと引っ張ってきた。
ふとその意図に気づき、バーナビーも硬直した顎を引いて、おとなしく頭からTシャツを引き抜かれてやる。
「…悪い。痛かったか?」
頭の包帯がTシャツに擦れて、目をすがめてしまったのを見とがめられ、かすれた声で尋ねられる。その声を聞くだけで、バーナビーの呼吸はもっと苦しくなる。
「い、え。…大丈夫、です」
痛くない、と返答しているのに、この人はどうしてさっきよりも苦しそうな顔をするのか。
息づまる疑問は、いきなり胸の上に浴びせられた刺激に粉砕された。
「ぅ、うぅ!」
あらわになった胸元を吸い上げられ、もう片方の突起も潰すようにねじられて、バーナビーのかかとがシーツをもどかしく擦った。
思わず上げてしまった声が恥ずかしく、口元を手で押さえようとすると、顔を上げた虎徹にやんわりと手首をつかまれ、戻される。
「声、我慢しないでくれ」
両手首をシーツに固定されたまま、今度はもっときつく突起を吸われた。
「ふ、ぁあっ!」
もうほとんど痛いのに、びりびりと甘さが増し、増したそれは肺を熱し、熱はあふれて下半身へと打ち寄せてゆく。
吐息も、唾液も、全部一緒くたに絡めて、虎徹の舌はバーナビーをゆっくりと責め立てた。
大きく舌で押され、広く濡らされる。
「は、っ…」
濡らされたそこが、すぐに食まれ、噛まれ、吸い上げられる。
皮膚にただ触れられている、それだけのことなのに、触れてくる相手が虎徹でなかったら、これはたちの悪い遊びか、または凌辱でしかないだろう。
ダウンタウンで、見知らぬ男たちの欲望にさらされた時は、腕をつかまれるだけでも、寒気がするほど相手が憎かった。
される行為の内容は今も同じ──いや、それ以上のことをされているのに、今のバーナビーの身体の中にわき上がってくるのは、憎悪でも恐怖でもなく、ただ苦しく甘い、熱気だけだ。
恋とはこんなに都合良く、現金なものだったのか。
「は、ん…ん、ぁ…」
声がどうしても抑えられない。
「ぅ…!」
肋骨の上を吸われて、さっきまでとは少し種類の違う痛みが、ずきりとバーナビーの腰を震わせた。
そこから生まれた熱が、また欲望の中心に打ち寄せる。
そんな身体感覚はバーナビーにしか感受できないはずなのに、まるで打ち寄せる熱の行方が見えてでもいるように、虎徹は身体を下方へずらして、バーナビーのベルトを外し、カーゴパンツの前を広げた。
「あ、あまり見ないで…っ、」
反応しているそこをまだ見られたくなくて、バーナビーは虎徹の肩をつかんだが、虎徹の動作はまったく途切れず、ためらいもなく下着ごとカーゴパンツを引き下ろしにかかってきた。
「腰、上げてくれ」
既婚者の貫録なのか、こんなことは何十回もやってきたというような、ルーチンワークをこなすような静かな声で頼まれ、かえって抵抗できない。
「…上げてくれ」
再度性急にねだってくる声がいたたまれず、バーナビーは仰臥したまま目をきつく閉じて、腰を浮かせた。
恐ろしいスピードで衣服が下半身から剥がされる。
反射的にそこを隠そうとバーナビーは手を伸ばしたが、すばやい平手打ちで追い払われてしまった。
「あ、ああ、」
逃げ出したいほど大きくなっていたペニスを握り取られ、すぐさま湿った感覚に取り込まれる。
「ふっ…ン!ンン───ッ!!」
前置きもなく、そこが虎徹の唇の中へ埋まり、温かい虎徹の舌が絡みついてくる。
自慰とは桁違いの、まったく初めての、柔らかく鋭い快感が脳天にまで響き、バーナビーはかん高いうめきを長く漏らした。
気持ちがいいのに、逃げ出したい。
虎徹の頭に手を伸ばし、なんとかしてそこから押し退けようとするが、それは要求と受け取られたのか、虎徹は唇にきつく力を込めてきた。
「う、あ!あ!」
きつくくわえられたまま上下に扱かれ、もう逃げられない。
「あっ、だめですっ、んぅっ、んっ」
リズミカルに動く虎徹の頭をそこから引き剥がしたい。
すぐに、もうすぐに離れてもらわないと、大変なことになる。
「ア、はなし、離してくだっ…!!」
虎徹の両耳を塞ぐようにバーナビーは指先に力を込めたが、手遅れだった。
「ァ…!」
残酷に熱がはじける。
糸の切れた凧のように、まったく心身のコントロールができないまま、バーナビーは虎徹の口の中に精液を放った。
まだけいれんしている下腹部や腿が、あちこち濡れてゆくのを感じる。
彼の口の中に納まりきらなかったそれが、こぼれたのだろう。
「う、ん…」
きゅ、とダメ押しに亀頭を強く吸われ、ペニスが解放される。
慰められていた自分のそこも、虎徹の顔ももう見つめられずに、バーナビーはまた固く目を閉じた。
これではほとんど失禁だ。
鳥肌が立ちそうなほど恥ずかしい。
どうしていいかわからない。
目をつぶったまま虎徹の頭から手を離し、目尻にまた涙が噴き上がってくるのを、腕を覆って隠す。
射精すらろくに我慢できなかった、この情けない顔を見られたくなかった。
虎徹が咳き込んでいるのが聞こえる。
大切な人をむせさせるほど、ずうずうしく大量に欲望を吐き出してしまったのがただ恥ずかしくて、もう消えてしまいたい。
目を閉じた闇の中で、布が擦れるかすかな音がした。
太腿をガーゼで軽く拭われている感触に、バーナビーは跳ね起きた。
「自分で、やります…!」
自分で汚した自分の身体を、他人に任せるなど耐えられない。
虎徹が握っていたガーゼをひったくると、急に姿勢を変えたせいか、ずきりと頭が痛んだ。
「…!」
平衡感覚が保てずに上半身がふらつき、バーナビーはガーゼを持ったのとは逆の手でシーツを握りしめる。
「大丈夫か?」
虎徹がこちらを覗き込むようにしながら、肩に手を回してくる。
抱きしめるのでもなく、引き寄せるのでもなく、ただバーナビーの身体が倒れないように、そっと支えてくれる手が熱くて、優しげなのに悲しくて、バーナビーはそれきり顔が上げられない。
「……悪かった。頭、痛いならもう横になれ」
虎徹の声が、本当に耳元で響く。

───さっきから、あなたはいったい何を謝っているのか。

そう言って詰め寄りたいのに、答えをもらうことが怖い。
このまま、この人のこの単なる同情を、僕の都合のいいようにねじ曲げておきたい。
もめることなくただ静かにヒーローを辞めたくて、大声を出した僕をただ黙らせたくて、この人は僕に触れてくれているだけかもしれないけれど。
けれど僕は、それさえ嬉しくて。
嬉しいまま、勘違いしたまま、もう何でもいいから、千載一遇の、二度と訪れないだろうこの時に、この人のすべてを取り込んでしまいたくて。

───そうすれば、あなたは僕を忘れない。

僕から逃げて世界の果てまで行ったって、再婚して幸せな家庭をもう一度築いたって、この人の脳の、記憶の奥底には、今日の、僕の、思い出が残る。
わがままで頭のおかしい会社の同僚と、人に言えない関係を一度だけ持ってしまった、苦い思い出が残る。
いいかげん腫れた目が、またじわりと濡れそうになるのを、バーナビーはかろうじて耐えた。
泣いている時間はない。
肩に回されていた虎徹の腕を、バーナビーは振り払う。
振り払って、虎徹の顔も見上げずに、鼻先にある彼の胸板を突き飛ばす。
「…、バ、」
何度も触れたその唇から名前も呼ばせずに、バーナビーは虎徹をベッドに押しつけ、その下半身をこじ開けようと、彼のベルトのバックルをわしづかんだ。




「それは、だめだ」
やっと彼のベルトのバックルを外したとたんに、両手首を捕まえられ、バーナビーはもがいた。
「どうして。あなただって僕に、さっき、」
「おまえの傷に良くないからだめだ」
「平気です」
もがいて食い下がっても、石の手枷のように、虎徹の握力はゆるまない。
たった数日、食べることを忘れていただけなのに、もう虎徹とはこんなにも筋力の差がついてしまったのか。
どんなに力を込めても、この手首に絡みつく、彼の指を振り払うことができない。

───いっそのこと、能力を発動して。

底力で手首を押さえ込まれ、いらだった果てに、バーナビーの脳裏にはとんでもない考えがわき上がる。

───NEXT能力を発動して、それから。

この人の指を振り払って、この人を押さえつけて、僕がしてもらったようにこの人を慰めて、それから。
そこから先も想像したが、どうしても身体に力が入らない。
さっきから、ぽっかりと虚しい胸の底が、涙の残骸のようなものでちりちりと擦られるばかりで。
その一方で、自制心は紙のように薄くなり、今にも散り散りになりそうで。

───こんな力が、あるばっかりに。

涙も流せずに、バーナビーは奥歯を震わせた。
幼い頃、能力の制御ができなくて、たくさんのものを壊して泣いたあの時よりも、ずっとずっと、気が遠くなりそうに、この感情は汚らしくてみすぼらしい。
あれ以来、一度も、自分が能力者であることを悔いたことなどなかったのに。

───僕は、この力で、この人の心を、身体を。

確実に踏みにじることができると、思っているのだ。
踏みにじりたくてたまらないのだ。
この、獣にも劣る感情に、恋なんていう甘ったるい名前をつけていたなんて、自分の愚かしさに吐き気がする。
汚物と一緒に、このみすぼらしさも吐き出してしまえれば、どれほど楽になれるだろう。
「ほ、しいんです」
だが今バーナビーに吐けるのは、多量の二酸化炭素を含んだ吐息と、糸のように細い声だけだった。
「いま。どうしても。ほしいんです、…どうして、も」
あなたが、と言わずに耐えられたのは、奇跡なのか、究極の卑怯か。
「欲しいです。どうしても欲しいんです…!」
力を失い、手首を捕われたまま、虎徹に馬乗りになったまま、バーナビーはがっくりと上体を折り曲げた。
虎徹の胸元に顔を埋め、もっと余計な要求を吐き出しそうな唇を全力で噛みしめても、発露してしまった汚らしさはもう消えない。
さっきまでのように、泣いて同情を買えればよかったのに、どこまで間抜けなのか何の罰なのか、腫れて重苦しい目尻からはもう、涙の一粒もこぼれない。
舌でも噛んでしまおうかと思う矢先に、手首がふわりと軽くなった。
虎徹の胸元に額をつけたまま、バーナビーはふと、まばたく。
「……バ、ニー」
両頬が熱くなった。
手首を解放してくれた虎徹の手が、バーナビーの頬を包んでいる。
熱くて、息の根も止められそうだ。
そっと、本当にそっと慎重に、虎徹が両手でバーナビーの頬を誘導する。
顔を上向かされ、上体を引き寄せられ、また、下から抱きしめられる。
肩にゆるく回された指先が、断続的に、けいれんするように震えているのを感じる。

───どうして?

虎徹の顔を覗き込めないので、彼の感情が読めない。
彼の震えの理由など、訊けるわけがない。
バーナビーが身体を起こそうとした時、身体の下方で小さな金属音が響いた。
虎徹が、自分で自分のベルトを解いている。
「あ、」
ゆっくり驚く間もなく、はだけられたその熱い欲望が、バーナビーの剥き出しの腰骨に押しつけられた。
「口はだめだ」
自分から押しつけておきながら、虎徹は行動とは反対の要求をする。
「どうしてもって言うなら…おまえの、手で」
反論しようとしたバーナビーに言葉を挟ませず、虎徹はまたバーナビーの手首をつかみ、引きずるように自分のペニスへと導いた。
「……!」
バーナビーの背筋を、震えが駆けのぼる。
手のひらに押しつけられたその熱さと硬さは圧倒的だ。
ほとんど触れさせてもらっていないのに、虎徹がここまで身体を高ぶらせてくれていることが、意外だった。
さっきからバーナビーは、前戯とも言えない戯れにあっけなく射精して、下劣な要求を口にして、誰にも見せられないみすぼらしい姿を虎徹にさらし続けているというのに。
もしかしたら。
もしかしたら僕は、本当に、この人に。

───嫌われていないのかもしれない。

何度も何度も胸の中で抱きしめては手放し、手放しては引き留めていたそのはかない憶測を、ぐっと身体の底に飲み込み、バーナビーは指先に力を込める。
熱く愛しい虎徹のそこが、少しでも快楽を得られるように、指の圧力と、動かすスピードを細心の注意で上げてゆく。
上下するバーナビーの指に、虎徹は力無く手を添えたままだ。
それが単なる身体の反射でもかまわない。
この人に快感を与えたい。
快感を得ているこの人を見たい。
虎徹が苦しげに目を閉じた。
「く、…っ」
食いしばったその前歯の隙間から、どうしようもなくせっぱつまった吐息が漏れる。
バーナビーの指の動きに抵抗するように、そのペニスがじわりと体積を増す。

───感じて、くれて、いる。

この人が僕の、この指で。
その事実に、バーナビーの下肢も、またずきりと灼けた。




結局、唇で虎徹のペニスを慰めることはかなわなかった。
「頭の傷に良くない」の一点張りで、虎徹は、バーナビーの首から上に振動を加えるような動作を極端に避けた。
バーナビーの手で達した後も、虎徹は交代だと言わんばかりにバーナビーをベッドに横たわらせ、ひたすらそっと、静かに柔らかく、その全身に触れて回った。
納得のいかないバーナビーは何度も起き上がろうとしたが、とうとうその何度目かに短く叱責されて、後孔を指で挿された。
「痛いか?」
耳元で尋ねられ、バーナビーは首を振る。
虎徹の質問には、もうできるならやめよう、というニュアンスが多量に含まれている。
痛くないというのはもちろん嘘だ。
普段、排泄でしか使わないところに、男の筋ばった太い指を入れられて、痛くないほうが珍しい。
だが、痛いと一言いえば、この行為はもう終わってしまう。
それだけは嫌だ。
「ふ、……」
声が抑えられず、バーナビーは唇を噛もうとしたが、がくがくと歯の根が合わない。
腕枕をするように、虎徹は覆いかぶさりながら片手をバーナビーの首の下に回して、上体を固定するように抱いてくれている。
虎徹の二本の指が、狭い襞の中で、地団駄を踏むように別々に動いた。
「……!」
ぞくり、とバーナビーは肩をすくめる。
じんじんと下肢に広がる痛みの中に、違う感覚がもうひとつ、ぽとりと落とされる。
ゆっくり、ゆっくり、内壁に何かを塗り込むように、虎徹の指はバーナビーの深部へと這ってゆく。
「あ…そ、それ、…っ」
それやめてください、と口にしかけて、バーナビーは合わない歯の根にかろうじて力を込める。
燃え上がるような痛みの中に、ごく微量のしびれが湧く。
電流のような、と表現するには微量すぎるその波動のような感覚は、叫び出したい焦燥感と一緒に、バーナビーの下腹を這い回り始めた。
「…は、あ、ぁ、」
やめて欲しいのに、やめて欲しくない。
「あ!んっ!んっ!」
頬に、虎徹の唇を感じる。
「これ。少しはイイか?」
深く抱きこまれ、耳元でささやかれる。
「これ」を確認するように、後孔の中の虎徹の指が、動きを速めた。
「ああっ!」
ひときわ大きな声を上げて、バーナビーは虎徹の剥き出しの肩を押し退けようとした。
だが、固い筋肉に覆われたそれはびくともしない。
「痛いか?痛いなら言ってくれ。やめるから」
痛いのは痛い、だけどその中に、痛みを凌駕する何かが、うようよと不気味にのたうっていて。
「う…」
返事もできず、バーナビーはただただ首を振った。
「言ってくれ。頼む。やめるか?」
あくまで言葉を要求してくる虎徹の声は、興奮に濡れているというよりは、どこか哀しげだ。
やめてなどやらない。
あなたが最後までためらうなら、僕は、あなたを欲しいだけ、取り込む。
だから、

───やめないで。

その一言を発したとたん、ありえない動きで後孔を広げられた。
「あああっ、あぅ!!」
指が増やされ、叩きつけられるような圧迫感が、バーナビーの喉元までこみ上げる。
そのまま、大きな動きで指がまとめて抜きだされ、また突かれる。
ちゅくちゅくと間隔の短い抽挿が繰り返され、まるで、虎徹のペニスで犯されているような錯覚に陥る。
滑りを助けるクリームもほとんど使っていないのに、ぬるぬると何かが襞から浸み出して、湿った音を立てる。
この身体は、いったいどうなってしまったのか。
女のように喘いでいるうちに、変異でも起こしてしまったのか。
変異でも、変態でも、クレイジーでも、もう何でもいい。
「…虎徹さん」
呼びかけると、虎徹は驚いたように指の動きを───いや、全身の動きを止めた。
動きの止まったその指をつかみ、バーナビーはずるりとそれを引き抜く。
「はぁ、…はぁっ」
濡れたそこを隠しもせずに足を開いたまま、バーナビーはゆるく上体を起こして、虎徹の指から手を離し、滑るように彼のペニスを探った。
虎徹がかすかに息を吐く。
探り当てたそこは、隆々と硬いままだ。

───もしも。

もしも僕を、僕の身体を、少しでも、一瞬でも、好きだと思ってくれたのなら。
本当に少しの、一瞬でいいから。
僕を、他の誰とも違うように扱って。
他の誰にもしないことを。
誰にもできないことを、僕に。
「虎徹さん、」
嗄れた喉でもう一度呼びかけると、すくい上げるように、両の腿を抱え込まれた。
熱い肉茎が、濡れそぼったそこを数度、撫でるように往復し、次の瞬間、襞の中心に突き刺さる。
「ああ、ア、ア、アッ、」
皮膚感覚が無くなりそうなほどの圧迫感は、一度侵入を止め、止まったそこからとんでもなくゆっくり、襞を押し開いてくる。
バーナビーの視界も、意識も、真っ白にはじけ飛ぶ。
ずくん、ずくんと脈打つのが自分の内壁なのか、虎徹のペニスなのかもわからずに、バーナビーは声にもならない声で、嗄れた喉を鳴らし続けた。
「は…、…、」
「バニー」
「…ぁ、は、」
「もう…少しだけ、力、抜いてくれ」
「は、…ぁ…」
「もう少し。すこし…だけ、」
じりじりと、奥へ、奥へと押し開かれる。
それがある一定の深さに達した時、急に内壁の滑りが良くなった。
ずしり、とひときわ深く犯される。
喉を絞るようにバーナビーは悲鳴を上げる。
それは長く尾を引いて、広い寝室のすみずみにまで反響した。
痛みを突き抜け、身悶えしたくなる圧迫感が、先刻の電流のような、波動のような何かを、バーナビーの身体の奥へねじ込んでいる。
バーナビーの両足を、虎徹がもう一度抱え直した。
恐ろしいほど湿った音を立てて、交わりが深くなる。
両腕で抱きしめてくる虎徹の荒い吐息が、バーナビーの耳元に吹き込まれ、あふれる。
吐息が熱くて甘くて、耳元から溶かされそうだ。
「あぁ…あ」
もう、離れたくない。
唇を唾液で濡らして、バーナビーは喘ぐ。
痛みと一緒に、「何か」が頭の先にまで響き渡り、身体の中の虎徹の存在以外、何も感じ取ることができない。
虎徹がそっと腰を引いた。
動きを阻止するように、バーナビーは虎徹の首にしがみつく。
徐々に引き抜かれるペニスの感触に、鳥肌が立つ。
離れたくない。
離れたくない。
「い、いか、行かないで…っ、あぁっ!!」
なりふりかまわない懇願が、通じたのかどうか。
抜けるぎりぎりまで引かれたそれが、もう一度最奥に沈み、波動は快感に転化して、バーナビーの全身を巡り始めた。




時刻は深夜にさしかかっている。
サイドランプの明度を最小に絞った暗がりの中で、虎徹はだらしなくシャツをはおったまま、ベッドに腰掛けた。
暗がりの奥───広いベッドの真ん中では、バスローブ姿のバーナビーが、眠っている。

───とうとう、やっちまった。

壊したのは、自分のちっぽけな忍耐と、友恵への思いと、バーナビーとの正常な関係と。それからバーナビーの体調と、バーナビーのプライドと、自分のプライドと。それから。それから。
ほんの数時間前には虎徹の中で明確に形を保っていたものが、朽ちた石壁のようにバラバラと壊れて落ち、無数すぎるそれらは、破片さえ見つからない。
夢にまで見るほどだったバーナビーの裸体を抱きしめることができたのに、虎徹の心に満足感はまったく宿らない。
バーナビーから働きかけてきたこととはいえ、虎徹の理性と規範意識を崩したのは虎徹自身だ。しかも、バーナビーは明らかに、肉体的にも精神的にも普通の状態ではなかった。
そんな相手にのまれて、そんな相手を、乞われるまま、犯した。
相当な苦痛だったはずなのに、バーナビーは一度も痛いと口にしなかった。バーナビーから拒絶して欲しくて、自分では欲求を止められなくて、わずかに残った理性を振り絞って、虎徹は何度もバーナビーに苦痛の有無を尋ねたが、虎徹の望む答えは、彼からとうとう返ってこなかった。

───言い訳探すのだけはホント得意だな、俺。

ふー、と自嘲の息をついて、虎徹は座ったまま、深く頭を垂れる。
どんなに積極的に誘われたとしても、それも全部、言い訳だ。
唯一の救いは、興奮していたバーナビーを落ち着かせて、ほんのわずかながら、彼に食事を摂らせたことだろうか。
食事といっても、この家のキッチンには、ずいぶん前からストックしていたらしい缶詰のスープくらいしかなかったが、虎徹がスープを温めてベッドまで運んでやると、バーナビーは帰宅してきた時とは別人のように、目を細めて小さく笑んでくれた。

───でも、あれは。

あのバーナビーの顔は、限りなく笑顔に近い、別の何かだったような気がする。
虎徹と関係を持ったことを、彼も後悔しているのか。
虎徹が辞職を明確にしたことへのあきらめか。
いくらセックスで紛らわそうとしても紛れない、心にのしかかる何かを耐えているのか。
それでも、バーナビーが行為の最中に叫んだ言葉は、虎徹の身体の底に、深く刺さったままだ。

───『行かないで』。

勝手な感傷であることは百も承知だが、あの言葉は、単に、交わっている身体を離すなという意味ではなかったような気がしてならない。
社内で、あれほど虎徹はバーナビーに無体の限りを尽くしたのに、バーナビーはそれを恨んではいないらしい。
バーナビーを抱いた満足感はないが、虎徹の心は最奥まで冷え切ってしまったわけではない。

───ほんのいっときでも、俺を、欲しいと思ってくれた。

身体中の理性を総動員してそれを打ち消しても、打ち消しても、バーナビーの精神状態はさっきまで普通じゃなかったのだとどんなに自分に言い聞かせても、嬉しいという思いは、虎徹の心からどうしても出ていかない。
バーナビーから初めて口付けられ、セックスまでも彼は求めてくれたのだ。
ひょっとしたら、このままバーナビーのそばに居続けてもいいんじゃないかという、現実味のない願望までわいてくる。
願望はあくまで夢想であり、建設性のかけらもないが、実際問題として今、虎徹がこのマンションから立ち去れば、バーナビーの精神状態はどうなるかわからない。

───『帰らないでください、って言ったら、軽蔑、しますか?』

セックスの後、バスルームから寝室へバーナビーを抱き上げて運んだ時、虎徹の腕の中で、彼はぽつりとつぶやいた。
つぶやいた言葉には、言いようのない必死さがにじんでいた。口調が静かであるがゆえに、冷や汗が流れそうな切迫感があった。

───『明日まで居るよ』。
───『おまえがちゃんと立って歩いて、メシ食えるようになるまでここに居る』。

ただし出動が無けりゃの話だけど。
腕の中のバーナビーにそう言ってしまった、自分の意志の弱さが恨めしいが、虎徹の返事を聞いて、少し放心気味にほっとしていたあのバーナビーの表情を、どうしても、どうしても曇らせたくなかった。

───だから、あさってまでは、なんも考えねぇ。

明日一日、バーナビーにとにかく何か食べさせる。
その緊急ミッションをクリアするまで、余計なことは考えない。
きっと、あさって会社に行けば、辞表を出すより先に社長室に呼ばれて、即刻クビを告げられるのだろうけども。今は考えない。
沈む心にようやくひと区切りつけて、虎徹ははおったシャツを脱ぎ捨て、ベッド脇に下ろしていた足を、毛布に滑り込ませる。
「う…」
虎徹の身じろぎが伝わってしまったのか、ベッドの中で深く眠っていたはずのバーナビーがうめいた。
ぴくりともせず毛布に沈み切っていた肩が上下し、彼は何かを探すように、手のひらで空(くう)を掻き始める。
「…ん、……こ…つさん、」
バーナビーの唇の中で、よく聞き取れない言葉がくぐもっている。
またうなされているのだろうか。
虎徹はひやりとする。
くぐもっていた言葉はすぐに、聞き取れる形を成した。
「虎徹さん、ちが…、そうじゃなくて、僕は」
「どうした?」
「でも…、いや、嫌です、それはだめです違う、だめ、」
言葉は聞き取れても、まったくその意味がわからない。
「目を覚ませ。バニー」
「ん、虎徹さん、ちがう、ちがう!!」
「夢だバニー、起きろ」
「こて、こてつさ、」
「ほら。俺はここにいるから。大丈夫だから、目ぇ開けてみろ?な?」
降り回されるバーナビーの手のひらを握りしめ、頬を包むように撫でてやる。
「あ…っ、…?」
夢をどうにか断ち切り、バーナビーが苦しげに目を開けた。
「どうした?嫌な夢でも見たか?」
バーナビーの目はまだ虚ろだ。きょとんとせっぱつまったその顔を見つめながら、虎徹の胸に、重苦しい予想が満ちる。
マーべリックの別荘でも、バーナビーはこんなふうにうなされて、それを医者やマーべリックがこうしてなだめていたのだろうか。鎮静剤を使ったとマーべリックは言っていたから、実情はもっとひどかったのかもしれない。

───そんなに。俺の夢ばっかり?

夢の内容が悪夢でない保証など、どこにもないが。
バーナビーの夢にそんなに何度も登場するほど、自分の存在がバーナビーの心に響いていたのかと思うと、ますます虎徹の胸は重苦しくなる。
限りなく不謹慎ながらも、泣きたいほどに、バーナビーが愛おしい。
毛布の中からバーナビーの腕が伸びてくる。
伸びてきた白い手のひらは、バーナビーの頬に触れたままだった虎徹の手を、ゆっくりと剥がしにかかった。
剥がされた虎徹の手は、またゆっくりと白い指に握り込まれ、まだ肩で息をしているバーナビーの、唇へと引き寄せられる。
「どんな怖い夢見たって、俺が起こしてやる。大丈夫だ」
上体をかがめて、虎徹はバーナビーをそっと覗き込んだ。
薄闇に沈むこの緑の目は、どこまで覚醒してくれただろうか。
握られた指先に、バーナビーの吐息を感じる。
その乾いた唇に口付けたくなるのをこらえて、母親が幼児の熱の有無を計るように、額で彼の額に触れる。
額を通じて悪夢を移し替える、「オマジナイ」だ。

───悪夢よ、俺に流れ込め。

目を閉じて、虎徹は念じる。
この子供じみたしぐさの意味が、バーナビーに伝わらなくてもかまわない。
目を閉じた小さな暗闇に、未だ不規則な、バーナビーの呼吸音が聞こえてきた。
乱れた吐息の合間に、ようやく声が滑り込む。
「……わからないん、です」
「ん?」
「どうしたらいいのか、何を信じればいいのか、真実がどれなのか…わから、ない…」
目を開けると。
「ぼく、僕…おもい、だしたんです」
額ではなく、虎徹の鼓膜と網膜を通して、悪夢は流れ込んできた。
「思い出してしまったんです」

───僕の両親を殺した、犯人の顔を。

限りなく近いところにある、バーナビーの目の緑は、底無し沼の水面のようだった。