ブラック・プリズム -4-



折り重なった建材の隙間から幾筋か、白い光が差し込んでくる。
狭い空間に影と光が交錯し、いっそ不思議な光景だ。
「飲みたかったら、いくらでも飲んでいいんだぞ」
影と光と建材の底で、虎徹は腹ばいの姿勢のまま、横たわる子供の口元にペットボトルを押し当てた。
重いものに身体を挟まれた時に起こるクラッシュ症候群は、急激な脱水症状を引き起こす。身体を挟まれたままでも点滴を受けられれば、要救助者の容態は格段に良くなるが、あいにく医師はこの空間に入れない。医師ではないワイルドタイガーは、救助隊から預かったペットボトルの中身を、彼に与えることしかできなかった。
六歳だというその男の子は、足を建材に挟まれ、肩をおそらく骨折していた。通りの店の前で、母親の買い物を待っている時に巻き込まれたらしい。
彼の足を圧迫している建材を虎徹が持ち上げても、本人が身体を動かすことができないため、ここからの脱出がかなわない。

───くそ。なんで俺の手、二本しかねぇんだよ。

NEXT能力を使って背中で建材を支えたとしても、誰かが彼をこのトンネルの外まで引き出してくれなければ、話にならない。
クラッシュ症候群は、助け出された直後に早急な治療が必要だ。身体の圧迫を取り除いてもすぐに治療が受けられないのなら、挟まれたままの方がいくらか安全だと、救急隊員は言った。
もう事故が発生してから、二時間近く経っている。
遠くも近くもない場所から、重機のエンジン音が聞こえる。
建材を吊り上げるクレーン車だろうか。それともブルドーザーのそれだろうか。
痛みに泣き疲れたのか、光が十分に届かないせいか、子供の顔色は蒼白だ。
「タイガー。…これ飲んだら、ほ、んとうに、げんきに…なれるの?」
「そうだ。うん、しゃべらなくていい。がんばるんだ。俺がついてる。必ずお母さんの所へ連れてってやる」
ボトルの中身を半分ほども飲み干して、子供がよろよろと息をつく。
水分を摂ってくれる気力がまだあるのが、本当にありがたい。
いざとなれば、あの補水塩チップがある。
スーツの脇腹に着いた救急キットと一緒に、虎徹の脳裏に、あの何を考えているか皆目わからないメカニック担当の姿が浮かぶ。
浮かんだとたんに、目の前がちかちかするような衝撃で、思考がはじけた。

───なんで!なんで思いつかなかったんだ俺!

あのバーナビーをここへ呼べば、子供を引き出せるではないか。
出動中に無駄な考え事ができなかったせいなのか、基本的に意図的に、バーナビーのことは、この思考回路から全力で追い出していたせいなのか。こんなに明快で効率的で単純な方法を思いつかなかった自分の頭の悪さに、ほんの一瞬だけ、目の前が暗くなる。

───俺がこのガレキぶち抜いて、あいつが子供を抱いて跳べば、なんとかなるんじゃねぇか?

あいつはヒーロースーツ着れねぇけど、こっから真上にぶちぬいて真上に跳べば、あいつの身体に鉄骨当たらなくてすむかも。今日はあいつ、「あっちのラボ」で仕事みたいだけど。すぐ。斎藤さんに言って、すぐにあいつを呼び出せば。ていうか斎藤さんもなんで思いつかねぇんだよこんな簡単なこと!
息を弾ませてマスクの耳元のスイッチに指を伸ばすと、まだ触れてもいないのに、虎徹の頭蓋骨のすみずみにまで、いきなり大音量の通信が鳴り響いた。
『おいタイガー!!聞こえるか!!!』
「きっ…聞こえてますよ!今連絡しようと思ったんです!」
『私にも状況がよくわからんが!!!『ウロボロス』がさっき現れた!!!そこの現場に向かってる!!!ルナティックが近くに現れたのかもしれん!!!』
「んな朝っぱらから!?悪いけど俺は救助活動中です。この子を助けるまで俺はここから動きませんから!」
『わかってる!!!一応知らせておこうと思っただけだ!!!引き続き救助活動を頼む!!!』
「それなんですけど、大至急でバニー呼んでください!バニーに救助、手伝ってもらいたいんです。あいつならこの穴の中に入ってこれる。万一鉄骨が崩れても、能力使えばあいつは潰されない。ヒーローじゃない人間にこんなこと頼むのは契約違反かもしれねーけど、このままじゃ待ち時間が長すぎだ。手助けが欲しいんです!今!」
『…残念だがタイガー、それはだめだ!!!一般人のバーナビーにもしものことがあったら、賠償金どころじゃすまない!!それに付け加えて、さっきから『あっちのラボ』には電話が通じない!!!』
「バニーの携帯にかけてください!」
『そっちにも通じない!!どうしても!!!』
腹ばいのまま、地面を掻きむしって殴りつけたくなるのを、虎徹はようやくこらえた。
動揺してはいけない。
鼻先で横たわっている子供が、あらん限りの勇気を振り絞って、痛みと恐怖に耐えているのだ。
だが、虎徹の焦りは、その勇敢な彼に伝わってしまった。
「タイガー、外に出たいの?…おしごとに…いっ…ちゃうの?」

───情けねぇ。

彼を不安にさせてしまったことが悔しすぎて、心の臓が痛む。
「いいや。今の俺の仕事は、君と一緒にいることだ。君をお母さんの所へ連れていくまで、絶対にどこにも行かない」
この彼に何もしてやれないのなら、せめて、そばにいたい。
もし鉄骨が崩れてきても、発動した自分の能力の限界が過ぎてしまっても、鉄骨を支えきれずにこの腕が砕けても、彼についていてやりたい。
地面を掻くことを耐えた指をマスクに伸ばして、虎徹はフェイスガードを上げた。
アイパッチごしでもせめて、子供の目を見つめて、見つめられて、笑いかけてやりたかった。
「大丈夫。必ず助かる。心配しなくていい」
虎徹の笑顔を、笑顔と受け取ってくれたのかどうか。
子供の青白い頬が、かすかにゆるんだ。
それに安心して、虎徹がまた、開いたペットボトルの先を子供の口元に近づけようとすると。
繋ぎっぱなしにしていた通信に、甲高い雑音が入った。

───いて、いてて!耳が痛ぇ。なんだこの音!?

ザザザザ、と鼓膜まで掻き切られそうに不快な音は、ザク、という大きな破裂音の後で、いきなり静まった。
静まってもまだ痛み続ける耳を、虎徹は思わずマスクの上から押さえた。
痛みを治めるには無駄だと知りながら押さえたそこに、信じられない音声が響く。
『…聞こえるか。ワイルドタイガー』
明らかに、斎藤の声ではない。
一瞬、トランスポーターが誰かに乗っ取られたのかと思ったが、直前の雑音からすると、別系統の回線に割り込まれている可能性が高い。

───嘘だ。

何重ものセキュリティに守られたヒーロー専用回線が、突破されるなどありえない。
『…私の名は、』
そして、この、不自然にくぐもった、感情の見えない、耳に慣れすぎたローテンションのこの声は、間違いなく。

───こいつ…!

どうやってこのヒーロー専用回線に割り込んだのか。
独特のイントネーションすら覚えてしまった、無機質なデジタルボイスは、虎徹の耳の最奥に染みとおり、響き渡り、最奥にひそむ虎徹の意識ごと、ぐらぐらと揺すぶった。
『私の名は、ウロボロス。ワイルドタイガー、聞こえているなら返事をしろ』




道路は渋滞している。
いつも極秘にトランスポートしてくれていた、スタッフの助力は望めない。
黒いメカニックスーツの背中に付いた、バーニアを最大限に使って、バーナビーはビルからビルへと跳んだ。
現場に着くまで、NEXT能力は温存しておかねばならない。
一刻を争ううえに、立ち止まると余計なことを考えてしまいそうなので、跳びながら、バーナビーはワイルドタイガーの回線に割り込んだ。
『私の名は、ウロボロス』
地下のスタッフを振り切ってメカニックスーツを着る前に、ヒーロー専用回線に割り込めるよう、パスワードを調整しておいた。
『タイガー、聞こえるか。今そちらの現場に向かっている』
驚愕で口がきけないのか、警戒して黙り込んでいるのか、バーナビーが何度呼びかけても、虎徹からの応答はない。回線は、こちらと確かに繋がっているはずなのに。
『私が着くまで、まだ能力は発動させるな。私が現場の建材を除去する。それまで現状維持で耐えろ』
ヒーローTVの中継だろうか、それとも別のマスコミだろうか。背後高くから、ヘリコプターのプロペラ音が聞こえる。この姿をどう報道されてもかまわないが、警察に拘束されることだけはなんとしても避けたい。
『………おまえ。目的はなんだ?』
長い沈黙の彼方から、地を這うように低い声が、ぽつりとこぼれてきた。
『ここに、おまえの標的のルナティックはいない。現場を混乱させるのが目的だってんなら、俺はおまえを許さねぇ』
交差点には、何台もの救急車と消防車が集結している。
その惨状を一望できる、付近で一番背の高いビルの屋上に、バーナビーはやっと降り立った。
足下から、小さなどよめきが聞こえる。
事故現場を遠巻きにしている野次馬の声らしい。そこかしこの建物の窓からも視線を感じる。
銃を持っている人間がそれらの中にいないことを望遠カメラで確認して(狙撃されてはかなわない)、バーナビーはようやく虎徹に語りかけた。
『私は一般的な救助活動に興味はない。救助活動を混乱させる意図もない』
『なら邪魔すんな』
虎徹の声はどこまでもすげない。
『この次必ずとっ捕まえてやるから、今は引っ込んでろウサちゃん』
すがすがしいまでに「ウロボロス」は信用されていない。あたりまえだが。
『おまえが死ぬのを傍観しているのは、私の本意ではない。タイガー。おまえには、まだやらなければならないことがあるんだろう?』
ふっ、と虎徹が息を飲む音が聞こえた。
ほんの数秒の沈黙の後に、少し声色が変わった憎まれ口が響き渡る。
『こんくらいで死んでたまるか。ナメんのもいいかげんにしろ』
『今現場に到着した。もうしばらく待て。私が合図するまで絶対に能力は発動させるな』
『いちいち命令してんじゃねー!勝手なことばっかり言いやがってこんにゃろう!ここの鉄骨崩したらタダじゃおかねーぞ!!』
罵られても、その虎徹の声色はどこかしら温かい。
そんな自分本位の推測すらたまらなく恥ずかしいが、今のバーナビーに、ゆっくりと恋の病を嘆いている時間はない。

───バーニアの出力、最大値で。

警察や報道陣に邪魔される前に、一気に降下したい。
虎徹の罵りと、野次馬のさらなるどよめきをを無視して、バーナビーはふわりとビルの屋上から飛び降りた。




辺りが、急に静かになる。
崩れた建材の底で、寝転がったまま子供の手を握っていた虎徹は、建材の隙間からもれてくる光を、ふと見上げた。
徐々に近づいていた重機のエンジン音が止まり、折り重なった鉄骨から、わずかながら伝わってきていた振動も、不気味に消えた。

───どういうことだ?

やはりあの「ウロボロス」のせいで、現場が混乱しているのだろうか。
人のどよめきのような声も、何度か小さく聞こえたが、争っているような物音は一切しない。
「斎藤さん!外、どーなってんですか。ミョーに静かなんですけど、『ウロボロス』はどこ行ったんですか」
『『ウロボロス』は、レスキュー隊を脅して現場から退去させている!!!おまえがもぐっているガレキのそばには、今誰も近づけない!!!』
「はぁ!?何考えてやがんだあの野郎は!!」
『私に言われても困る!!!ヒーローTVのヘリからの中継によると、……』
ザク、と不快な音を立てて、再び通信は途切れた。直後にまた、いまいましいデジタルボイスが割り込んでくる。
『タイガー。私は今、おまえの足元にいる』
「はあぁ!?」
寝転がったまま驚きつつ、虎徹が自分の足元を───すなわち鉄骨トンネルの出口を見やると、薄紅色に光る物体が、確かにはいつくばって、こちらに向かってきている。
『私が子供の上の鉄骨を持ち上げて、可動空間を広げる。その後、私が合図したら、おまえは子供を抱いて垂直に跳べ』
耳のそばの通信音声と、足元から聞こえる実声が重なって、「ウロボロス」の声はわんわんと虎徹の聴覚を支配する。
思わず通信を切り、虎徹は足元の気配に感覚を集中した。
光と影が奇妙に絡み合う穴の底を這って、あっという間に、見慣れた薄紅色のウサギの耳が、眼前に迫る。
『可動空間を広げる。子供をガードしろ』
やはり薄紅色に光る装甲の腕が、メリメリと鉄骨を押し退け、「ウロボロス」は腹這いの姿勢から、うずくまるような姿勢に変わった。
その命令口調に憎まれ口をたたくヒマももうない。
バランスを失った鉄骨が落ちてこないよう、虎徹はすばやく身体をずらして子供に覆いかぶさった。
倒れかかってきた鉄骨の一本にひやりとするが、「ウロボロス」は絶妙なタイミングでそれも押し退け、その場の空間を広げてゆく。
子供の足を挟んでいた鉄骨も軽々と脇に押しやられ、空間は、人が二人、ひざまずけるほどの高さにまで広がった。
「痛い、痛いよう!」
広がった空間で、虎徹が子供をようやく抱き上げると、悲痛な泣き声が上がった。
もう少しだ。
「もう少しだけ、がんばれ!」
子供の肩関節をできるだけ圧迫しないように彼を抱きしめ、虎徹はそばでうずくまる「ウロボロス」のマスクをにらみつけた。
『私が天井に穴を開ける。すぐに跳べるな?』
おまえの望むことは全てわかっている、と言いたげな、自信に満ちあふれた「ウロボロス」の声だ。
虎徹の胸が、刹那の悔しさで掻きむしられる。
「わかってる!!早く跳べ!!」
息混じりに怒鳴り、能力を発動させる。
「ウロボロス」のスーツの薄紅色と、ワイルドタイガーのスーツの緑色が、薄闇の中で燃え上がって混じり合い、輝く。

───こんな時にまで、「キレイ」だとか思えるのか俺。

幻惑される心をねじ伏せ、薄紅色の光を追って、虎徹は空へ跳躍した。




ワイルドタイガーが、救急隊員に子供を引き渡しているのが見える。
子供に取りすがって泣いているのは、子供の母親だろうか。
ビルの屋上から、バーナビーは狭い下界を見下ろした。
まだNEXT能力は発動したままだ。
スーツの望遠カメラに頼らなくても、はっきり見える。
担架に乗せられた子供の顔も、タイガーに礼を述べる母親の顔も。
子供の意識ははっきりしているようだ。順調に手当てを受ければ、命は助かるだろう。
自分と虎徹のハンドレッドパワーで飛び散った建材も、周囲の人間を傷つけることはなかったようだ。ライフルを突きつけてレスキュー隊を追い払ったのは乱暴だったが、あれはあれでどうしても時間がなかった。
ワイルドタイガーが、他のヒーローたちにねぎらわれるように、肩を叩かれている。
それを見届けて、バーナビーはきびすを返した。
早くここから立ち去らねばならない。
バーニアをもう一度噴かせて、隣のビルへ跳ぼうとした、その時。
「おおい!ピンクのウサちゃーん!!」
ハンドレッドパワーで未だ鋭くなっている聴覚が、非常に不愉快な、下界からの呼びかけをとらえた。
振り向くと、フェイスガードを上げたワイルドタイガーが、こちらを見上げている。
「今日のところは見逃してやる!見逃してやるから、おまえの顔見せろ!」
とても下界へ怒鳴り返す気にはなれない。
無視するのが正解だとわかっているのに、バーナビーの指はふらふらと耳元のスイッチをはじき、タイガー専用の通信回線にまた割り込んでしまう。
『それはできない』

───こんな会話をしていたら、能力の発動時間が終わってしまう。

一刻も早く「あっちのラボ」に帰って、僕はマーべリックさんに叱られなければならないのに。
『…どうせ俺と一緒で、マスクの下もアイパッチかなんか着けてんだろ。それでもいいから、おまえの目だけでも見せてくれ。おまえの目を見て礼が言いたい』
温かい声が、バーナビーのマスクの中いっぱいに響き渡る。
それがどうしても心地よくて、心地よすぎて、目頭が、胸が、重くなる。
鏑木虎徹という人間は、どこまでお人好しなのだろう。
「得体の知れない組織に属しているウロボロス」は、礼を言われるようなことなど、何もしていない。

───ただ僕は、あなたを。

子供の命より何より、あなたの危機に耐えられなくて。
耐えられなくて、バーナビーはマーべリックの言葉に背いて、ただわがままを貫いただけだ。
『だめか?ウサちゃん?』

───なんて、声だ。

ルナティック捕獲のためなら、ウロボロスのタトゥーのためなら、器物破損も、果ては復讐と称して殺人までもいとわない僕に。
そんなにも、優しい声をかけないでほしい。
この距離でも、まだお互い能力を発動しているのだから、フェイスガードを上げれば、バーナビーの顔ははっきり虎徹に見えるだろう。
アイパッチの奥の、瞳の色まで、間違いなく視認できるに違いない。

───でも。もしかしたら。

瞳がまだ緑色に戻っていなければ、NEXT能力のおかげで青く光っているままなら、もしかしたら、フェイスガードを上げても、正体を悟られずにすむのではないか。
震えが来るほど安易な考えが脳裏に浮かび、バーナビーは愕然とする。
僕は。
僕は。
僕は。
あの人なら、すべてをわかってくれると、僕は思っているのか。
復讐も、マーべリックさんの力添えも台無しにして、すべてをあの人に打ち明けて、あの人につき続けた嘘をあの人に許してもらいたいと、僕は思っているのか。
そんなバカなことが、実現するわけがないのに。
そんなバカなことは、実現してはいけないのに。
あの人に今、顔を見せたら、本当のウロボロスを追えなくなるかもしれないのに、僕は、父さんと母さんの仇を追うことも忘れて、今、あの人に応えたいと、思って。
『…だめなら、しょうがねぇけどよ?…礼だけは言っとく』
耳元でまた響く虎徹の声に、全身が冷たくなるほど我に返る。
『ありがとよ。助かった』
低く真摯なその声に、心臓が跳ねあがりそうに痛む。
痛みは指先にまで染みとおり、感覚のなくなった指はよろよろと持ち上がり、フェイスガードに触れた。
そのまま、何かに憑かれたように、バーナビーはフェイスガードを上げる。
ビル街を吹き渡る風が唇に触れる。
さえぎる物のない世界が、バーナビーの網膜をじかに焼いた。
空。
反射するビルのガラス窓。
眼下の小さな人々。
その人々の中で白く浮き上がる───ワイルドタイガーのスーツ。
狭い下界をやっと半分、網膜に焼きつけた瞬間。

すべてが、砕けた。

すさまじい衝撃が、バーナビーのこめかみで炸裂する。

───狙撃、だ。

仰向けにのけぞって倒れながら、妙に冷静な判断が脳内に降る。
ハンドレッドパワーはまだ切れていない。
身体が屋上のコンクリートに叩きつけられる寸前に、バーナビーは、全神経を視覚に集中させた。
意識を失うほんの手前の、灰色に煙る視界の中で、覚えのある丸まった蛇の模様が浮遊する。
眼下の野次馬の中で片手を上げた、あの男は。

───ジェイク…!

狙撃手の手には、黒々とウロボロスが刻まれていた。








夢は、見なかったと思う。
だが、とても長く眠ったような、眠りすぎたような重苦しい心地で、バーナビーは目を覚ました。
部屋は暗い。
ここはどこだろう。
自宅でないことは確かだ。
病院とも少し違う。
じわじわと汚水が湧くように、頭が痛む。
仰臥したまま、また目を閉じ、バーナビーは自分のこめかみに指を伸ばした。
この感触は、頭からこめかみにかけて盛大に包帯を巻かれているようだ。
目を開けるのが怖い。
汚水のような痛みは頭の中にあふれ、隙間なく脳髄に浸みわたる。

───どうして、こんなに痛いんだ。

なにか、とても大切なことを忘れているような気がする。
しかも、その大切なことはひとつではなく、複数あったような。

───僕は社長室で、マーべリックさんと話して。
───社長室を飛び出して。
───無理やりメカニックスーツを着て。それから。

痛みの中で、ひとつひとつ、記憶をたぐり寄せる。
いつのまにかメカニックスーツを脱がされ、素顔に包帯を巻かれ、今、バーナビーはかなりきちんとした寝具の上に寝かされている。

───僕はワイルドタイガーに。あの人に、顔を見せようとして、フェイスガードを。

ぴくり、と胸の底に震えが生まれた。

───それで、ジェイクに。

次第に震えが増してくる。
指先に触れる頭の包帯は、嫌な感じに湿っている。
狙撃されたそこが、どんな傷になっているのか確認するのが恐ろしい。
だがあの時はまだ、能力の発動中だった。ハンドレッドパワーに守られて、かろうじて命は失わなかった。
あのビルの屋上から、誰がここまで自分を連れてきてくれたのだろう。
いっそう、身体の震えが増す。

───それで。ジェイクは。ジェイクは。

吐息までが勝手に震え始めた時、部屋に人が入ってくる気配がした。
バーナビーは反射的に目を開ける。
「痛むかい、バーナビー?」
静かな声音が、バーナビーの耳に浸みる。
耳までが、痛むようだ。
「ここは私の別荘だよ。医者も別室に控えている。もう心配は要らない。痛かったり、苦しかったりしたらすぐに言いなさい」
吐息が震え、唇が震え、バーナビーは声を出すことができない。


思い出した。


バーナビーの身体の、深い深い場所に取り込まれた記憶に、かちりともうひとつ、古くて新しいピースがはまる。

───ワイルドタイガーに近づくなと言って。事故現場のワイルドタイガーを見捨てた、この人は。

記憶のピースは、嵐のようにバーナビーの身体を揺さぶる。

───この人は、あの時、銃を持って。

燃え上がるクリスマスツリーのそばで。
倒れていた父さんと母さんのそばで。

───この人は、銃を持って、僕の方を振り向いた。

「顔色が、よくないね」
頬を撫でようとしているのか、マーべリックの指が、バーナビーの鼻先に迫る。
上流階級の人間らしく、爪先まで美しく整えられたその手は、どこまでも白かった。

───タトゥーがない…!

そこにタトゥーがないのは当たり前だ。
バーナビーが物心ついた時からずっと、その傷一つない白い手はバーナビーの頭を撫で、バーナビーの手を握り、バーナビーの身体を抱きしめてくれた。
どういうことなのかわからない。
タトゥーは、あのジェイクの手の甲にあった。
しかし、記憶の中にとうとう現れた犯人は、マーべリックの顔をしていて。
「…熱は?」
白い指に、額を覆われて。
バーナビーの唇から、獣のような悲鳴が飛び散った。




「え?また欠勤?」
メカニックルームのパソコン画面を横から覗き込みながら、虎徹は高くも低くもない声を出した。
ディスプレイの正面でキーボードを操る斎藤は、その指先を少しも停滞させずに、いつもの消え入りそうな声で答える。
「過労だそうだ。私としては非常に残念なんだが…バーナビーの仕事量はやはり多すぎるようだな。人員削減は実に困るが、そろそろ彼は、『あっちのラボ』の仕事に集中してもらった方がいいのかもしれん」
子供を救出した事故から、二日経っている。
あれきり出動要請がかからないのをいいことに、虎徹は「ウロボロス」の映像の解析を斎藤に願い出た。
「ウロボロス」が倒れ込んだあの直後に、虎徹もハンドレッドパワーで屋上へと跳んだが、どこをどう逃げたのか、彼の姿はもうどこにもなかった。
虎徹はマスクのフェイスガードを上げていたため録画データを取っておらず、アニエスに頼み込んで、ヘリで中継していた「ウロボロス」の映像を今日、やっと借り出したのだった。
本来のヒーロー業務にも、ポイントにも何ひとつ関係のない解析作業だが、「ウロボロス」は、バーナビーにとって重要な人物であり、貴重な情報源だ。
そして、バーナビーのためという理由を差し引いても、虎徹は「ウロボロス」に止みがたく感情移入してしまっていた。
彼の生死が気になったのだ。
虎徹の呼びかけに応えて、彼はためらいながらもフェイスガードを上げてくれた。結果、顔が見えるか見えないかというその瞬間を狙われて、撃たれた。
あれは組織内の口封じ───いや、この場合は顔封じか──の可能性が高い。
あの時、虎徹の周囲で銃声はしなかった。サイレンサー付きの銃であっても、近くにいれば何らかの音は耳に入る。それとも、銃声を捉えることさえ不可能な、長距離狙撃だったのだろうか。
整理しきれない疑問を頭の中でもてあましていると、そばでキーボードを叩く斎藤の指が、ぴたりと止まった。
「タイガー。これは、銃弾による狙撃じゃないぞ」
ディスプレイの中で、「ウロボロス」の映像が一時停止されている。
ヘリからの中継なので、鮮明さはあまり期待できないが、映像データはなんとかディスプレイ上の拡大に耐えてくれたようだ。
ビルの屋上でよろめき、今にも倒れそうな彼のこめかみには、赤く透けた光線が、突き刺さるようにきらめいている。
「銃弾じゃなかったら…何なんですか?」
斎藤と額を突き合わせて、虎徹もディスプレイをにらみつける。
かちり、かちりと映像をコマ送りしながら、斎藤は難しい顔でささやき続ける。
「光の色的には、ビームの成分に近い。角度から見て、ビルの下方から『ウロボロス』を見上げるように射出されている。現場の野次馬にまぎれてぶっ放したんだろうたぶん」
「野次馬の映ってる映像はないんですか!?」
「このへんだが…ライフルらしきものを構えてる人間は見当たらないぞ」
斎藤は、かちりかちりと画面を切り替え続けたが、野次馬はみな間抜けにビルを見上げているばかりで、武器らしきものの影すら映っていない。
求める情報がつかめないまま、画面はまた、屋上の「ウロボロス」に切り替わった。
彼が撃たれ、倒れ込む寸前に、何者かが彼を横抱きに捕まえている。
その動きは速すぎたのか、現れた第三者の映像は輪郭がぶれていて、黒っぽい人影らしきもの、としか確認できない。
「ハイスピードカメラで撮れば、見えたのになぁ…」
残念そうに鼻から息を吐いて、斎藤がコマ送りを続けていると、虎徹のズボンのポケットから、急かすような電子音が響いた。
「だっ!なんだぁ、こんな時に!」
いらだたしげにポケットを探り、つかみ上げたスマートフォンの画面をにらむと、そこにはまったく覚えのない番号が浮かび上がっている。
「誰だよ、もぉ」
短い恨み言を吐き、斎藤から数歩離れて、虎徹は電話を耳に当てた。
「はいもしもしィ?」
『…忙しい時間に申し訳ない。マーべリックだが』
聞こえてきた声に、吐息が逆流する。
「えぇぇ?しゃっ、社長!?」
パソコン前に鎮座したまま、クキュ、と息を鳴らして、斎藤が虎徹を見上げた。
『タイガーくん。今から、社長室に出てきてもらえないだろうか』
直立不動の姿勢を保つ虎徹の耳に注ぎ込まれるのは、一分の隙もなく、どこまでも優しげな声だ。
『欠勤しているバーナビーのことで…ちょっと、話しておきたいことがあってね』
そこから漏れてくる音声を握りしめるかのように、電話を持つ虎徹の指に、力がこもった。




想像以上の、高級マンションだった。
エントランス前の階段下から、夜目にそそり立つ建物の全体像を見上げて、虎徹は眉をひそめた。
急な出動要請もなく定時にオフィスを出て、教えられた通りに、バーナビーの住むこのマンションまで来た。
どれだけ見つめても、このマンションのグレードは、ハタチすぎの普通の若者が、個人で買ったり借りたりできるようなものではなかった。
メディア王・マーべリックの采配なのか、バーナビーの両親の遺産が莫大だったのか、その両方なのか。詳しい事情など虎徹には知る由もないが、バーナビーの生まれ育ちが、自分のそれとまったく違うことを改めて実感させられて、虎徹はため息をかみ殺す。
今日ここに来たのは、純粋な虎徹の意志ではない。

───『バーナビーが、ずっと君を呼んでいてね』。

呼び出された社長室でマーべリックから聞かされたのは、信じられない言葉だった。
バーナビーはケガをして、マーべリックの別邸で静養していたというのだ。

───『おそらくダウンタウンで負った傷だと思うんだが…何を訊いても彼は答えなくてね。当分私の別邸で休ませるつもりだったんだが、どうしても自分の家に帰るといってきかないんだ』。

バーナビーは別邸で、錯乱に近い状態で暴れたらしい。鎮静剤で眠らせても、夢にうなされて、ずっと虎徹の名前を呼んでいたというのだ。
根負けしたマーべリックはしかたなくバーナビーを自宅に帰らせたが、ケガ人を放っておくわけにもいかず、自ら見舞うこともできず、困り果てた末の、この事態なのだった。

───『タイガーくん。私の代わりに、バーナビーを見舞ってやってくれないか。君が行ってくれたなら、バーナビーも落ち着くだろう』。

それは違う。全然違う。
が、違う理由を、あの場でマーべリックに説明するのは不可能だった。

───『君は…バーナビーが、何をしにダウンタウンへ出かけていくのか、知っているんだろう?』

ある意味当然と言えば当然だが、バーナビーの復讐を───バーナビーの「犯人探し」を、マーべリックは承知の上で、後見人を務めていたのだ。今までは彼ら二人きりの秘密だったであろうその事実が、虎徹に漏れていると予測されたということは。

───これは。バレてる。

からからに乾いた胸の中が、ひびわれるように鈍く痛む。
マンションのエントランスに近づくこともできず、階段のふもとで突っ立ったまま、虎徹はうつむいた。
マーべリックは、虎徹とバーナビーの「奇妙な関係」を、おそらく知っている。
バレても構わないと思うことと、実際にバレることの差は、意外にも大きかった。
ひそかな動悸が、痛む胸をもっと痛めにくる。

───こりゃ牽制か?警告?ってか最後通告?

マーべリックの意図がわからない。
目に入れても痛くない養い子に近づく不埒な社員を、どうしてわざわざ野に放つのか。
牽制にしては、神経が太すぎないか。
それともこれは、弱ったバーナビーをエサにして、虎徹の「不埒」の証拠をもぎ取り、早急に退職させるための罠なのか。

───どれでもいいけど…腹くくんなきゃなんねぇ状況なのは、おんなじか。

痛む胸を撫で下ろすように、虎徹は深呼吸する。
今さら、保身の努力などほとんど無駄だろう。
そこをあきらめてしまうと、今度は純粋に、バーナビーの容態が気になった。
両親の仇を探すためなら、どんな苦労もいとわない彼だ。多少の体調不良をおしてでも、彼こそ真っ先に「ウロボロス」の映像を解析したがるはずだ。それが出社する気力もないほど、体調を崩しているのだろうか。
ケガそのものはたいしたことはないと、マーべリックは言っていた。ケガよりも、そのケガに付随して受けた精神的ショックの方が大きかったのではないか、と。
ダウンタウンでドラッグを舐めさせられ、うずくまっていたあの時よりも、バーナビーはもっともっとひどい目に遭わされたのだろうか。
自分でもぞっとするほどゲスな想像が脳内をよぎり、虎徹はハンチング帽ごと髪をかきむしった。
バーナビーにこれ以上関わりたくない気持ちと、バーナビーの容態を知りたい気持ちがグロテスクに混じり合い、うっすら吐き気がしてきても、この場所から決して引き返せないことぐらい、わかっている。

───もう一度だけ。

ヒーローを辞める前に、もう一度だけ、腰を据えてバーナビーと話すチャンスがもらえたと思えばいい。顔も見たくないと思われているかもしれないが、きちんと虎徹の口から彼に別れを告げれば、彼も少しは安心するだろう。
ハンチング帽を頭に置き直し、虎徹は顔を上げて、エントランスへの階段を上り始めた。




インターフォンは、無反応だった。
ボタンを一度押して、二度押して。
だいぶ時間を空けて三度目を押して、虎徹はマンションの廊下の天井を仰ぐ。
他の住人が帰宅するのにまぎれて、マンション自体のエントランスは突破できたが、この最後のエントランス───指紋認証キーを備えた、バーナビー宅の堅牢なドアは、開きそうにない。インターフォンごしに、断りの言葉すらもらえないのだから。
心のどこかで予想はできていたものの、ここで引き返して、この旨をマーべリックに報告するのは、かなり嫌な作業だ。
それに、部屋の中から反応のない理由は、バーナビーが意図的に拒否しているだけとは限らない。
インターフォンに出られないほどバーナビーの容態が悪くなっている可能性も、ゼロではないのだ。
そこをどうしても確かめたくて、虎徹はポケットから電話を取り出した。バーナビーが携帯に出てくれる可能性も限りなく低いが、かければ着信履歴が残る。彼と会話できなくとも、虎徹がコンタクトを取りたがっているという意思表示はできる。そして、バーナビーが体調不良で身動きできないのだとしても、携帯ぐらいはベッドに持ち込んだり、身に着けてくれているかもしれない。その場から起き上がれなくても、身体のすぐそばで着信音が鳴れば、出てくれるかもしれない。
電話を耳に当て、虎徹は繰り返される呼び出し音を辛抱強く聞く。
十数秒も、応答なく途切れないその電子音を聞いただろうか。
「こんなところで、何やってるんです?」
急に背後から声がした。
跳び上がるように振り向くと、いつの間に近づいていたのか、あきれたようにこめかみを押さえたバーナビーが、白い顔をもっと白くして立っていた。
「…おまえ…!」
外出できるほど、回復していたのか。
あまりにびっくりして、とっさに容態を尋ねることすらできない。
「誰にここの住所、聞いたんですか」
ひどく悲しげな声で訊かれて、この訪問が歓迎されていないことを、痛いほど知る。
電話をポケットにしまいながら、虎徹は苦い固唾を飲んだ。
「…斎藤さんに、聞いてきた。おまえがずっと欠勤してるっていうから。みんな、心配してる」
マーべリックの指示で来たことは伏せるよう、言われている。
負傷したバーナビーはとにかくマーべリックに対して大変な拒絶反応を示し、その名前が出るだけでも情緒の安定が保てないようなのだ。
「僕は…大丈夫です。明日は、出社しますので。…帰ってもらえませんか」
蒼白な顔色でバーナビーは虎徹の鼻先に腕を伸ばし、指紋認証キーを解除する。
キーパネルに触れたその指先は、小刻みに震えている。
カシ、と小さな音がして、ドアが解錠された。
「どいてください」
片手でドアノブを握り、もう片手は顔にやったまま、押し殺した声でバーナビーは虎徹を追い払おうとする。
なんとも不自然にこめかみを押さえるその指の間から、ほろりと何かがこぼれた。
「おまえ!血が出てるぞ!」
すがるようにドアノブを握るバーナビーの指を、虎徹は上からがっしりと握り込む。
片手を握り込まれたままの姿勢で、バーナビーは呆けたように、こめかみを押さえていたもう片手を離し、離した手のひらを見つめた。
見つめたそこは、真っ赤だ。
ひと呼吸も置かずに、ライダースジャケットの肩が崩れ落ちる。
とっさに虎徹はバーナビーを抱き留めたが、もう彼は意識を手放した後だった。




とにかく勝手がわからない。
バーナビーを抱き留めたまま、虎徹はバーナビーの家に踏み込んだが、照明のスイッチを探すのさえひと苦労だった。
どうにかドアを内側から閉め、しかたなくバーナビーを玄関口に寝かせて、大急ぎで家じゅうの照明を点けて回る。
恐ろしく何もない家だ。
キッチンは何日も使っていないのだろう。ミネラルウォーターの瓶は散らかっているのに、シンクには水滴一つ付いていない。
シュテルンビルトの夜景を一望できる広大なリビングには、椅子がひとつとサイドテーブルがひとつ。
そしてまた広大な寝室には、ベッドがひとつ。収納はすべて、壁面に作りつけの引き出しで間に合っているのか、ベッド以外の家具が見当たらない。
ベッドの上には、包帯やガーゼが散らかっている。新品も使用済みも入り混じったその散らかりようが、バーナビーの心情の不安定さを物語るようで、胸が痛んだ。
新品のガーゼと包帯をおおざっぱにより分けると、その下から赤い携帯電話が出てきた。それを舌打ちしたい気分で枕元に戻し、虎徹は玄関に取って返した。
抱き上げたバーナビーの身体は、見かけのイメージよりもかなり軽かった。数日寝込むことで、多少の筋肉は削げただろうが、この軽さには違和感を覚える。食事もろくにとっていないのだろう。
ベッドに彼を寝かせると、シーツに少し血がついてしまったが、リネン類の置き場所がわからないので、構わずバーナビーの頭の傷を消毒にかかる。
殴られたのか、どこかにぶつけたのか、バーナビーのこめかみには、かなり深い擦り傷がついていた。出血していなければ、髪に隠されてほとんど見えない位置だ。
美しい金色の髪に黒く血液が染み、ガーゼだけではそれを拭いきってやれないのが、いっそう痛々しい。
マーべリックのところで医者に診てもらってはいるだろうが、このまま目が覚めないなら、また医者を呼ばなければならない。
髪と一緒に傷口を消毒液で濡らしてやると、痛いのか冷たいのか、バーナビーは目を閉じたまま、顔をしかめた。
「…く、……」
短い吐息と共に、バーナビーのまぶたがゆっくりと上がる。
生気のないその緑の瞳を、ほっとしながら、しかし目を背けたい思いで、ようやく虎徹は覗き込んだ。
「じっとしてろ。消毒して包帯巻き直す」
状況をとっさに把握できなかったのか、首を振って周りを視認しようとしたバーナビーを、最低限の言葉で制止する。
虎徹の言葉に射抜かれたように、バーナビーは動きを止めた。
おびえたような彼の目に、ゆっくりとあきらめの色が戻る。
シーツにこぼれかけた消毒液を拭き取り、傷口にガーゼを当て、虎徹は黙々と手当てを続けた。
「起きられるか。包帯巻くから、身体起こしてくれ」
自分でやります、と拒絶されるかと思ったが、バーナビーは素直にベッドに肘をつき、起き上がろうとする。
かなり時間をかけて上体を起こしたバーナビーの、その背中を支えてやりたいのをぐっとこらえて、ガーゼの上から、包帯を巻きにかかる。
包帯がバーナビーの頭囲を二周ほどしたところで、小さな声がした。
「…なにも、訊かないんですか」
包帯をもう一周させ、虎徹も小さく尋ねる。
「訊いたら、答えてくれんのか」
「……答えられる、質問になら」
ばつが悪いのか、拒絶する気力もないのか、バーナビーはどこまでも、気味が悪いほどに素直だ。
「さっきどこ行ってた。動けるんだったら、ちゃんと会社に来い」
耳を避けて、頭に包帯を巻くのは難しい。何度かそこを巻き直して、虎徹は包帯の端を、やっとテープで止める。
「…ダウンタウンに。行っていました」
「また人探しか?」
「はい」
「おまえな。いっくらNEXTだからって、そんな無茶ばっかしてたら、いつか取り返しつかなくなんぞ?」
「………」
「医者行って、アタマのCTスキャンもちゃんと、」
「CTスキャンは問題ありません。単なる擦り傷です」
「擦り傷だけのヤツがなんでぶっ倒れるんだよ」
「………わかりません。僕にも」
「どうせちゃんとメシ食ってねぇんだろ」
「はい」
「ったく、そんなとこ即答かよ…」
消毒に使ったガーゼを、ベッドの上からかき集めて捨てたいが、ゴミ箱の場所がわからない。ガーゼの束を握りしめ、できるだけバーナビーの目を見つめずに、虎徹は彼の頭の包帯だけをにらみつけた。
「なんで食わねぇんだ。食わなきゃぶっ倒れるに決まってんだろ」
バーナビーからも、視線は返ってこない。彼は所在なく投げ出していた自分の手のひらを、不快そうにじっと見つめたきりだ。
頭の傷に気を取られて、バーナビーの手についた血を拭ってやるのを忘れていた。
赤黒く汚れ、ねっとりと乾いてしまった彼の手を取るか取らないか、数秒も虎徹が迷っている間に、無表情なバーナビーの唇から、ひっそりと言葉がこぼれた。
「どうしてここに来たんですか」
乾いて白くささくれた唇に、否応なく虎徹の視線は奪われる。
「どうして、こんな…傷の手当てまで、してくれるんですか。僕の食事のことまで気にするんですか。僕は…ヒーローが嫌いで、嫌々仕事をしている、自分のことしか考えていない、不真面目なメカニック担当です。僕が会社に行かなくても、あなたは何ひとつ困らないはずだ。ここに来ること、誰に頼まれたんですか。斎藤さんですか。それとも、」
言いかけて、バーナビーは口元を押さえた。唇をわしづかんだ指が、誰かに揺すぶられてでもいるように、わなわなと震え始める。
聡いバーナビーに、わからないわけがなかったのだ。
今日のこの出来事は、マーべリックの手のひらの上で起こっている。
それでも。
いや、だからこそ、虎徹はここに来たのかもしれない。
マーべリックに弱みを握られても。
ヒーローの仕事を失うことになっても。
バーナビーの心をこうしてまた痛めつけることになっても、虎徹は自分からここに来たいと願って、そうした。
バーナビーに関わりたくないと思うのは、自分の心が壊れるのが怖かっただけで。

───でも、これで最後にする。

だから許してくれ。
痛み続ける胸の底でつぶやいて、虎徹は声を絞り出す。
「俺は。おまえがちゃんと生きてるのか、確認したかっただけだ」
それは嘘でもあり、真実でもあった。
なのに、真実の部分が差し引かれれば嘘はほんの少ししか残らないのに、とてつもない重罪を犯しているような気がして、虎徹はバーナビーの目を見ることができない。
口元を押さえたまま、バーナビーが息を飲む気配がした。
吐き気をこらえてでもいるのか、うつむいて顔を伏せ、肩を震わせている。
いったい何が、誰が、彼をこんなに追いつめたのだろう。
どうして傷を負ったのか。
ダウンタウンで何があったのか。
どうしてあれほど慕っていたマーべリックを、避けようとするのか。
マーべリックと何かあったのか。
訊きたいことがありすぎるのに、それらを訊く権利は、もう虎徹にはない。
目の前で震えている肩を抱きしめてやる権利など、もっとない。
これで、最後なのだ。
「…一個だけ、言っとく」
ガーゼの束を、虎徹はいっそう強く握りしめる。
「俺、ちゃんとヒーローやめて、実家に帰るから。明日、ロイズさんに伝えるから」
「え?」
バーナビーが顔を上げた。
合ってしまった視線の先の、鮮やかな緑色の虹彩が、凍りついている。
そうだ、言えばいい。まっすぐ、その緑に向けて。
「だから明日から安心して会社行け。おまえにも、もうちょっかいかけねぇから」
「どうして、急に」
「急にじゃねぇよ。前におまえに言ったろ。俺は、辞めなきゃいけねぇ人間なんだよ」
「どうしてですか。意味がわかりません」
「いいや。おまえはわかってるはずだ」

───俺は、おまえに触っていい人間じゃないから。

バーナビーは、まばたきもせずこちらを見つめている。
言えない言葉は、虎徹の喉元を駆け上がってきて、硬直した舌の上で形にもならず、次々と苦く溶け去る。
俺は、社長に警告されたから。
俺は、NEXT能力を失いかけてるから。
俺は、おまえが好きだから。
だから辞める。
それ以上バーナビーの目を見つめることができず、虎徹はガーゼを握ったまま、膝に手をついてベッド脇から立ち上がろうとした。
「冷蔵庫に、なんか入ってるか?何でもいいから腹に入れて、」
哀しいほど強引な、話題の転換はかなわなかった。
ベッドの上で、這うように身体を乗り出したバーナビーの腕が、虎徹の肘に触れ、長い指が影を作るほどそこに食い込む。
「う、…」
短めのシャツの袖が皮膚ごと引っ張られて、剥がれるかと思うほど痛んだ。
すっかり水分と血の気を失った白い唇が、虎徹の眼前に迫る。
「わかりません。どうして、どうしてなんですか。僕には、わ、わからな……い、いや、いや、嫌だっ!!」
絶叫と共に両腕で捕まえられ、虎徹の視界がぐらりと傾いた。