ブラック・プリズム -3-




***

退院から半月ほどで、虎徹の傷は完治した。
しかしなんとも平和なことに、復帰から数日経った今日も、ワイルドタイガーに出動要請はかからない。
「そうです、そのまま…そこを覗いて」
虎徹が「こっちのラボ」を訪れるのは、何日ぶりだろうか。
今日の最終業務は、「こっちのラボ」の片隅に設置された、顕微鏡のような機械を覗き込むことだった。
「…そこの画面に小さな点が現れますから、できるだけ視線を動かさずにそれを見つめてください」
「…うんとぉ。じっと見つめてんの結構しんどいんだけど。何秒ぐらい見ればいい?五秒?十秒?もっと?」
「もう終わります……はい、これで」
「え、もう終わり?もう帰っていい?俺」
「はい。お疲れさまでした」
「ずいぶんと簡単なんだな。これでデータ取れたの?」
「ええ。角度を変えて、眼球内の虹彩の写真を撮るだけですから。これを暗号コードに構成する作業の方が時間がかかります」
バーナビーが考案した、くだんの本人認証システムとやらは、着々と完成に近づいているらしい。
この三週間近く、虎徹はごく普通の会社員としてごく普通に出社し、ごく普通に書類仕事を片付け、時間が空くのを見計らって、ごく平和にトレーニングセンターへ顔を出している。
こんなに穏やかな「会社員」の日々をこんなに長く過ごすのは、虎徹にとってめったにないことだ。
そして、そのめったにない穏やかな日々は、少し裏返せば、めったにない奇妙なものにもなりつつあった。
貼りつくように、虎徹はバーナビーの背後に立つ。
デスク脇で中腰になって、「顕微鏡」を操作していたバーナビーの手が、ふと止まった。
「…あの?」
帰るんじゃないんですか、と言いたげに振り向いてきたバーナビーの頬を、ひょいと指で捕らえる。
一瞬の静止の後に、バーナビーの口元から緊張が抜け、虎徹に抱き寄せられるその肩も、氷が解けるように柔らかくなる。
触れ合わせる唇はもう、脅えて冷え切ることもない。
温かいバーナビーの舌は、ゆるく閉じられた唇の奥で、いつも虎徹を待っている。
本当に、奇妙すぎる。
社内でバーナビーと交わしたキスは、もう両の指で数えても追いつかない。
出勤した朝の、ロッカールームで。
ふたりきりになったメカニックルームや、そのラボで。
たまたま顔を合わせた駐車場の、車の中で。

───ハタから見りゃ、まるで恋人か。

どんな状況でキスを仕掛けても、バーナビーは拒否しない。
さすがに車の中で押し倒した時は、軽く腕をつかまれて抵抗されたが、虎徹とて社内で、彼にキス以上の濃厚な接触を仕掛けるつもりは今のところ、ない。
だが。
こうして唇を触れ合わせながら彼の白衣の下に手を伸ばし、彼の薄いTシャツごしに、形の良い腹筋をなぞっていると、そんな自制も簡単にぐらつく。
最初こそ緊張が取れなかったものの、バーナビーは、虎徹に触れられることにすぐ慣れたようだった。
もちろん彼から虎徹に触れてくることはなかったが、虎徹がそれらしい動作を見せると、彼は瞬時にそれを受け入れる体勢を取った。
肉体的、物理的な彼との距離はほとんどゼロだ。なのに、虎徹に対して要求も、拒絶も一切ないバーナビーの態度は、分厚い強化ガラスのように、虎徹とバーナビーの心を隔てた。
姿は見えているのに、真実に触れられない。
バーナビーの行動は極めて協力的なのに、彼の本心は、存在すらあいまいだ。
こんな不埒な行為に嫌々付き合っていれば、人形のように反応が無くなりそうなものなのに、このバーナビーは毎度口付けられながら、妖しげに甘すぎる息を吐く。
「…は、ぁ……」
立ったまま腰を引き寄せると、白衣の肩が脱げかかり、バーナビーの美しい上腕筋があらわになった。
彼のこの身体は、ラボに閉じこもって研究を続ける、一介のメカニックにしておくには本当に惜しい。

───こんなに見栄えが良くて頭も回るこいつがもしヒーローになったら、どんだけ人気が出るんだろうな。

バーナビーの首筋に口付けて、嫌なふうに嗅ぎ慣れてしまったバーナビーの匂いを胸いっぱいに取り込みながら、虎徹は腕に力を込め、筋肉ごと潰さんばかりに彼を抱きしめる。
「あ、…それは……だ、…」
虎徹の腕の中で肩をすくめ、顎を反らしてバーナビーがうめく。
だめ、と言いかけて彼は自分で言葉を飲み込んだ。
バカ正直に、虎徹のこの行為を拒否すれば虎徹はヒーローを辞めてしまうと、まだ信じているのだろうか。
何がだめなのだろう。白衣など単なる上っ張りだが、やはり服を脱がされるというのは不安を増幅するのかもしれない。
別に、バーナビーを安心させてやるつもりはない。
彼の上体をそばのデスクに引き倒すついでに、彼の肘にひっかかっている白衣をさらに引っ張り、肘から抜いて容赦なく脱がせる。
「…ぁ、あ!…どうして!帰るんじゃ、ないんですかっ…」
虎徹にとって、バーナビーの訴えなど、かなりどうでもいいことだ。こんなおかしな関係は、長続きするものではない。能力の減退によって、虎徹は近い未来にこの会社を去ることになるだろうし、そこに至るまでもなく、バーナビーを猫かわいがりしている社長にこれがバレて、内々に首を飛ばされるかもしれない。
決まりきった結末が待っているのだから、今日明日のバーナビーに多少文句を言われようが、かまわないのだ。
「帰るっちゅうか。今日はこれから接待なんだよ。バニーちゃんの作ってくれたスーツのおかげで、ひっさびさにスポンサー様からお呼びがかかってさぁ…何年ぶりかなぁ接待なんて」
移籍してから、ワイルドタイガーの人気が上がった理由は、虎徹にはわからない。
それでも、斎藤とバーナビーの力を結集したあのヒーロースーツが、新生ワイルドタイガーの人気上昇の理由のひとつであることは間違いないだろう。
ヒーローとして、虎徹は接待やらパーティの類が好きではないが、ワイルドタイガーがまたスポンサーの期待を担える存在になれたことは、
嬉しくないと言ったら嘘になる。

───なのに俺は、刑務所行くみたいな気分で。

それを紛らわすために、同僚にセクハラかまして。
NEXT能力が減退を始めていなければ、こんなにこじれた感情をもてあましていなければ、どんなに素直に、今日のこの接待を喜べたことだろう。
「アポロンメディアの株価のために、せいぜいアイソ振りまいてくらぁ」

───その前に、充電させろよ。ちょっとだけ。

自分で自分がみじめすぎて、何も言葉にすることができない。
デスクの上に転がされ、不安げにこちらを見上げてくるバーナビーを、虎徹はさらに強くデスクに押しつけた。
「…う…ぁ、」
唇を塞ぎながら、彼のTシャツの裾をカーゴパンツから引き抜き、すぐベルトに手をかけると、これまでで初めてと言ってもいい勢いで、バーナビーの抵抗が強まった。
「…かんが、ありません。これ以上は、だめ、で…す」
「なんだって?」
「斎藤さんが…帰ってきます、もうすぐ。だから、…ん、う、」
うるさい口は、塞ぐに限る。
握ったバーナビーの手首が、相当な力で押し返されてくるが、抵抗というには、キレのない動きだ。
この立派な上腕筋の持ち主が、こんなに非力なわけがない。
彼は虎徹の辞職を恐れているのか、虎徹の負傷を恐れているのか。それともまさか、彼はこの破滅的な行為が気に入っていて、本気で抵抗する気がないのか。
深く吸い上げたバーナビーの舌に、噛まないぎりぎりの力加減で歯を立てると、いっそう湿った声が上がった。
「あぅ、…う、んん!」
バーナビーが何か言いかけ、高くなったその声と一緒に、バーナビーの手のひらが虎徹の額にかかる。
虎徹に手首を握られたまま、その手のひらは渾身の力で虎徹の額を押しのけてくる。
額からまぶた付近まで圧迫されて、虎徹の視界がふと歪んだ。
「時間がないって、言ってるでしょう!あなたはこんなところを…誰かに見られても、いいんですか!?」
時間があれば、ここが仕事場でなければ、誰にも見られていなければ、バーナビーはどこまでも虎徹の相手をしてくれるのだろうか。
「ああ…バニーちゃんには恥ずかしかったかもしんないな。悪い。おじさん意外と恥知らずなもんで、そのへん加減がよくわかんねぇんだ」
誰に見られようともうどうでもいい、いっそあの社長に見せてやりたいと半ば本気で思いこみかけている自分に気づき、虎徹は無駄に饒舌になる。
饒舌の正体は、恐怖だ。
「僕のことはどうでもいいです。ヒー…ローのあなたに、こういうゴシップは致命傷でしょう!二度とヒーロー業、できなくなっても、いいんですか…っ?」
距離にして、十センチ程度しか離れていない目前の唇が、とぎれとぎれに吐いたセリフはとんでもなく間抜けで、とんでもなくお人好しで───とんでもなく恐ろしい。

───自分のことはどうでもいい…だって?

こんな殺し文句を無意識で言っているのだとしたら、このウサギは、虎徹にとって真の脅威だ。
彼の本心がわからない、いやわかりたくない今現在ですら、彼の言葉は虎徹の身体の底の、気が遠くなりそうに原始的な部分をひどく刺激する。それがただ怖い。
ただでさえ制御を失っているバーナビーへの感情が、もっとおかしなふうにあふれ出してしまいそうで、寒気がする。
虎徹は唐突に身体の力を抜いた。
わしづかんでいたバーナビーの両手首を投げ出すように解放し、デスクに乗り上げていた片膝を下ろして、すぐに居ずまいを正す。
「…俺はまだ、無職になるつもりはねぇよ」
震える息を、嘲笑めいて短く、わざと鼻から吐く。
笑っているふうに、バーナビーに聞こえればいいのだが。
バーナビーもやっとデスクの上で身体を起こし、身体の下でくしゃくしゃになった白衣にのろのろと腕を通している。
いたたまれない光景を凝視できずに、虎徹は自らのベストの肩口を、指先で所在なく引っ張った。気休めにそこのしわをのばしながらも、虎徹の饒舌───もとい恐怖は治まらない。
「次は俺んち来い」
同じように白衣の襟を整えていたバーナビーが、はたとこちらを見た。
「時間がたっぷりあって、誰にも見られねぇ場所なら、今の続きやってもいいんだろ?」
嘘だ。本当は、バーナビーの顔など、もう二度と見たくないほど恐ろしい。
「狭っくるしくてイヤだっつうんなら、おまえんちでいいや。いいとこ住んでんだろ、おぼっちゃま?」
嘘に嘘が重なって、もう何が何だかわからない。
まん丸に見開かれたバーナビーの目を見つめる勇気は、もうこれっぽっちも残っていない。
「また電話する。じゃあな」
一刻も早くこの場を逃れたくて、虎徹は即座にバーナビーに背を向け、ひどい早足でラボを出た。
ひとことの返事すらしなかったバーナビーが、今日ばかりはありがたかった。




まだ手が震えている。
そして、閉まったドアの向こうで、虎徹の足音がどんどん遠ざかってゆく。
虎徹の虹彩を撮影した「顕微鏡」のそばで、ずるずるとバーナビーはしゃがみこんだ。
冷たい床に片膝をつき、寒さに耐える少女のように腕を組み、縮こまる。
ほとんど外れかかっていたベルトのバックルが、白衣の下でカシャ、と間抜けな音を立てた。
震える手でそれをつかみ、留め金をベルトの穴になんとか通して、また自分を抱きしめ直す。
虎徹にここまで触れられたのは初めてだった。唇に触れるだけのキスから、噛みつかれるような激しいキスまで、キスだけは何度もしていたが、今まで衣服に手を伸ばされたことはなかった。
どうしてこういう状況になったのか、バーナビーにはよくわからない。
虎徹と仕事を続けたい、というバーナビーの希望を虎徹はしぶしぶ叶えてくれたが、ここ数週間のこれは、虎徹からのささやかな復讐ということなのだろうか。
辞めない代わりに触らせろ、というのが虎徹の要求らしいので(それが明確に要求や交換条件であるのかどうかさえバーナビーには確認する勇気がない)、その通りに従ったつもりだった。
自らの辞職と引き合いに出すくらいなのだから、虎徹はバーナビーに触れることを嫌だとは思っていないのだろう。事実、なげやりな口調に反して、虎徹の口付けには、吐息を口移しされるような温かみがあった。激しく舌を貪られている時でさえ温かすぎて、背骨が震えた。
だから、心底からは嫌われていないのかもしれないと、胃の痛くなるような希望がわいてしまったのだ。
胃の痛くなるような、バーナビーの細い細いひとすじの希望は、バーナビーの身体の緊張を解いた。
緊張するどころか、この数日は出動要請もなく、虎徹がメカニックルームに現れなかったので、物足りなく思ったくらいだ。

───物足りないなんて言えるほど、単純なものか?これが?

うずくまりながらの自問が、バーナビーの胸を深く刺す。
あのがれきの底で、チップを口移しした時から、虎徹との接触に抵抗などなかった。

───ないどころか、僕は。

触れて欲しいと思っている。
触れたいと思っている。
触れたいけれど、僕からあの人に触れたら、あの人に見放されそうな気がして、それが恐ろしいと思っている。

───だから誰にも見られたくなくて。

社内で、ああいうシーンを人に見られて、彼とのこの奇妙な関係が破綻したら、二度と彼に触ることはできない。だから、彼の気分を少々害しても、さっきのキスを終わらせようと抵抗した。ヒーローのゴシップは致命傷だなんて、よくもあんな、偽善に満ちた理由がとっさに叫べたものだ。

───僕は、自分のことしか考えていない。

本当に虎徹のことを思いやるのなら、こんなわけのわからない関係はすぐに清算すべきだ。ついこの間、虎徹に向かって宣言したように、さっさとメカニックなど辞めて、彼との接触を断ってしまえば、彼のヒーローネームにも、彼の人生にも、何の傷もつかないはずだ。
虎徹に触れたいのに、虎徹から逃げたい。
逃げたいのに、逃げられない。
どうしても、あの温かい唇に、触れていたい。
触れてはいけないと思うと、いっそう触れたい。
僕はあの人を破滅させたいのか、自分で破滅したいのか。
自分で自分の内臓を切り刻みたいような焦燥にかられて、バーナビーはますます背を丸めてうずくまる。
自分の身体が、自分の心が、まったく自分のものではないような、コントロールの効かないこの感覚は何なのだろう。
虎徹はまた電話する、と言った。

───応じるべきじゃないと思いながら、僕はきっと。

僕はきっと、応じて、後悔して、また応じるに違いない。
応じた後に、毎回こうして、のたうち回るに違いない。
コントロールの効かない思考の中で、溺死しそうだ。
うずくまった姿勢のままで、やっとバーナビーが顔を上げると、「顕微鏡」を設置したデスクの真下に、何か落ちているのが見えた。
黒っぽい手のひらサイズの、紙きれのようなそれは、デスク下の暗がりにぴったり溶け込んでいて、こうして深くしゃがみこんで覗き込まなければ、まず気づかなかっただろう。
床に指を滑らせて、バーナビーはその紙きれを引き寄せる。
暗がりの中にかすかに浮かび上がっていた輪郭線から、嫌な予感はしていたが、手に取ってみると案の定だ。

───あの人が、落としていった。

あの人の性格からして、このアイパッチの予備を持ち歩いているとはとても思えない。
これがなければ、大事なスポンサー接待は、成り立たないのではないか?
震えていたことも忘れて、バーナビーは勢いよく立ちあがった。




とても、気は進まなかったが。
携帯に落とし物の件を電話すると、虎徹は素直に、接待会場まで持ってきてくれと言った。
教えられたホテルは、アポロンメディアの社屋からそう離れていない。
徒歩で十分ほどの道のりを、バーナビーは走った。NEXT能力を使えば、ものの数秒で着くのだろうが、格式あるホテルのロビーに、時速数百キロで駆けつけるのはあまりにも目立ちすぎる。

───だけどこれも、能力を使ったのと同じくらいの…注目度かも。

ホテルの玄関にやっと足を踏み入れ、行きかう着飾った客に振り返られながら、バーナビーは白衣を脱いでこなかったことを後悔した。ロッカールームまで、ジャケットを取りに行く時間が惜しかったのだ。
とにかくロビーへ向かおうと、バーナビーは広大なフロントを急ぎ足で横切る。
だが、虎徹はロビーで待ってはいなかったのだ。
歩きながら、バーナビーがふと外に目をやると、玄関のロータリーを一望できるガラス壁の端に、ついさっき見送ったばかりの背中があった。
虎徹が、外で誰かと話をしている。
その話相手は、どう見ても、今日の接待の相手ではなかった。
虎徹は軽く上体をかがめて、ロータリーに止まっているタクシーを覗き込み、中の運転手に話しかけている。
ホテルの照明の反射で、タクシーのフロントガラスは白くかすみ、運転手がどんな人物か、どんな表情をしているのかはわからない。
しかし、時折、とても穏やかな笑みを浮かべている虎徹の横顔は、はっきりと視認できた。

───あんな顔。僕は、見たことがない。

出動前のあわただしい時も、出動後のどこか弛緩した雰囲気の時も、メカニックルームでヒーロースーツに関するあれやこれやを話し合っている時も、虎徹はあんな笑顔をバーナビーに向けたことはなかった。
よく考えてみれば、バーナビーはいつも一方的に虎徹を急かしたり叱責したりしていたので、虎徹がほほえむ隙などなかっただけなのかもしれないが。
あんな安心しきった、どこか照れくさげな、それどころかもう、幼いと言ってしまっていいほどの虎徹の笑顔を、バーナビーは知らない。
彼が、ヒーローとして一般市民の安全をどれだけ気にかけ、実際に市民をどれだけ熱を込めて救助しているかはよく知っているが、あの笑顔は、救助した市民に向けるそれともまったく違う。
白衣のポケットに入れたアイパッチを、布地の上からぎゅっと押さえて、バーナビーはその場に立ちつくした。

───あれは、誰?

虎徹と話している運転手は、いったい誰なのだろう。
彼の知り合いの可能性が一番高いのだろうが。
彼の恋人?
彼の友人?
彼の親戚?
彼の家の近所の、顔なじみ?
わからない。想像がつかない。
僕は、彼のことを知らなさすぎる。
休日以外はほとんど毎日顔を合わせているのに、彼に子供がいることと、子供を預けられる家族がいること以外は、未だに何も知らないのだ。
虎徹は相変わらず、バーナビーの視線には気づかずに、運転手と談笑している。
その笑みが、ふと止んだ。
ガラス越しに見ているバーナビーにも、その顔色の激変が感じ取れて、息が詰まるほどだった。
開いていたタクシーの窓から、腕が伸びる。
黒い手のひらが虎徹の頬に触れ、そこをさするように小さく動かしてから、すぐに離れていった。
また虎徹は笑う。
数秒前の凍りついた表情とはうって変わって、嬉しそうに、恥ずかしそうに。

───え?

狙いを定めて殴られたように、急に胸元が痛んで、バーナビーはポケットを握りしめていた手を、襟元に伸ばした。
ひらひらと頼りない白衣の襟元を握りしめて、体幹に広がり始めた痛みに耐える。

───なんだ、これ?

痛みは爆発的な勢いで全身に広がる。
息苦しい。
この場にしゃがみこんでしまいたいほどに。
自分にも、虎徹にも、何が起こっているのかわからない。
「大丈夫ですか?顔色がすぐれないようですが、どうなさいました?」
いきなり声をかけられて、バーナビーの心臓はさらに痛んだ。
いつのまにか近づいてきたベルボーイが、手を伸ばせば届く距離で、バーナビーの顔を覗き込んでいる。
「ご気分がすぐれないのでしたら、休憩室にご案内いたします。お待ち合わせの方がいらっしゃいましたら、お呼びしますが」
「…いえ、大丈夫、です。待ち合わせが、ありまして」
動揺と呼吸困難で、おかしな受け答えしかできない。
「お待ち合わせの方が、いらっしゃらないのですか?ご宿泊のお客様でしたら、フロントに問い合わせてまいります」
「いえ。そこに居ますので。大丈夫です」
なんとかガラス壁の外を指さして、こわばる頬を自分で叱咤しながら、バーナビーは笑顔に限りなく近い表情を作った。
「さようでございますか。失礼いたしました。何かありましたら、いつでもお申し付けください」
さわやかな笑みを口元に浮かべて一礼し、滑るように速く優雅な足取りで、ベルボーイはロビーの奥に消えてゆく。
白衣がますますしわになるのも構わず、バーナビーは胸元の指に力を込めた。何か握りしめていないと、本当にしゃがみこんでしまいそうだった。
ベルボーイには、僕がどう見えていたのだろうか。
ホテルに迷い込んだ不審者?
家族を探す、仕事途中のだらしない息子?
研究室を抜け出して恋人に会う、不真面目な大学生?
自分で思い浮かべた、ばらばらで、妙にリアルな言葉が、脳内で拡散し、また形を成す。
拡散して、もう一度残ったのは、とても短い言葉だった。
パスワードを打ち込んだコンピューターが、全てを納得して超高速で演算を始めるように、その短い言葉は、バーナビーの心身を隙間なく駆け巡る。

───ああ、これが。

これが、答えだったのだ。
気が遠くなりそうな、自分で自分を切り刻みたいような、喉に詰まった澱み(よどみ)を吐き出したくて吐き出せなくて視界さえ暗くなってきそうな、この得体のしれない苦痛は。
写真の中の両親や、学校のクラスメイトや、研究室の同僚や、世の中の大多数の人々が、こんな苦痛に憧れ、こんな苦痛を喜んで受け入れているなんて、にわかには信じがたい。
自分で自分に、いや違う、そんなはずはないと反論したいのに、これ以外の答えや言い訳が、どうしても浮かばない。
ガラスの向こうの虎徹が、いきなり振り向いた。
心臓が、砕け散りそうだ。
虎徹と目が合ったとたんに、バーナビーの膝は細かく震え始める。
だめだ。こんな状態で、アイパッチなど渡せない。
虎徹は、タクシーの中をもう一度覗き込み、軽く手を上げて、その運転手に別れを告げている。

───まだ、まだこちらに来ないでください。

バーナビーが心で叫んでも、虎徹は長い足をするすると動かして、ホテルの玄関へ近づいてくる。
来ないで。
来ないでください。
まだ僕は何の準備もできていない。
この足の震えを止める準備も、笑顔を作る準備も、震えないで声を出す準備も、何もできていない。
僕はたった今、不可解で、理不尽な僕の感情を理解しただけで、それ以外のことが、何もできていない。
「バニー、」
遠くからあの人の声が聞こえる。
あの人が、さっきとは違う冷えた笑みを顔に貼りつけて、こちらに向かってくる。
何もかもあきらめて、バーナビーは握りしめていた白衣の襟をふらりと離した。



ああ、これが。
ただ痛くて、ただ熱い、これが。
これが、恋なんだ。


***

温かい水が、膝のあたりにまで満ちている。
揺れる水の重みに足を取られそうになりながら、虎徹は腰に手を当てて、周囲を見回した。
海だ。
砂浜はすぐ背後に広がり、視線の先の水平線は、ぼんやりと明るい空に溶かされて、ずいぶん近くに見える。
海水浴など久しぶりだ。虎徹の周囲にはまったく人影がない。まだ春先なのだから、無理もない。早く楓と遊んでやりたいのに、楓はいったいどこへ行ってしまったのだろう。

───違うだろ、おい。

自分で自分の思考に突っ込みを入れる。
これは夢だ。
春先にビーチで水遊びだなんて、どうかしている。
それに、この前帰省した時も、楓は一緒に風呂に入ってくれなかった。今さら海水浴に誘ってもついてきてくれるかどうか。
若干大きな波を浴びて、また足を取られた。
面白いほどふらついて、海水の中に尻もちをつく。

───そっか。俺、酔ってるしな。

かろうじて顎から上を水面に出して、水中で尻もちをついたまま、虎徹は髪をかきあげる。
久しぶりの接待から解放されて、自宅に帰り着いたのは 何時頃だったか。
接待で飲む酒は、自前のそれとはまた味わいが違う。
びっくりするほど高級なのであろうワインを、惜しげもなく注がれるのは、とても嬉しくて、とても気が抜けなかった。
そしてとうとう、先日のケガをスポンサーに心配され、固辞したのだが自宅までタクシーで送り届けられてしまった。これがロイズに知れたらまた小言だろう。

───あー。飲み慣れねぇ酒はマワるな、ほんと。

叩けばカーンと響き渡りそうな静寂の中で、ゆらゆらと波に揺られる。
風呂に浸かっているように気持ちがいい。送り届けられて帰宅したはいいが、さっきはろくに着替えもせずにベッドに倒れ込んでしまったから、虎徹の潜在意識は風呂に入りたいのだろう。

───ま、朝シャワーするし。てか、明日の朝起きられんのか俺こんなんで。

この異様な気持ちよさは二日酔いの前兆だ。
そんな予想をつけて、起床の心配をしている勤め人な自分が少し寂しい。

───遅刻したら、まーた怒られちまうし。

会いたくもない美貌の同僚を思い浮かべ、また波に揺られる。
あのアイパッチは、彼をデスクに押し倒して長々といじり回している最中に落としてしまったのだろう。
そんな恥ずかしい代物を、NEXT能力も使わずに届けてくれたバーナビーは、ひどく顔色が悪かった。
ラボで虎徹に服を脱がされかけたのが、ショックだったのだろうか。
あれだけおとなしくキスに応じておきながら、彼はそれ以上の接触を想像していなかったのだろうか。
俺の家に来いだの、おまえんちに押しかけてやるだのと、ついふっかけてしまったのはまずかったか。
どうでもいいはずだったバーナビーの感情は、想像がつかなさすぎて、やっぱり虎徹の胸中に重くのしかかっている。

───わかんねぇもんは、考えてもわかんねぇのに。考えるだけ無駄だっつーの。

病人のような顔をしてアイパッチを差し出してきたバーナビーは、用をすますと、逃げるように───いや、本当に虎徹から逃げた。しわだらけの白衣の裾をひるがえして虎徹に背を向け、疾走し、ホテルの入り口で一度転び、周囲の注目をものともせずにがばりと起き上がって、外へ逃げていった。

───バケモン見るみてーな顔しやがって。

そんなにも怯えさせてしまったのが腹立たしくて、もちろんバーナビーにも腹が立って、虎徹は投げ出した足のかかとで、水中の砂をぐるぐるとかき回した。ほぼ透明だった鼻先の海水が、灰色に濁る。なんてリアルな夢だろう。
遠くで虎徹を呼ぶ声がする。
あまりせっぱつまった声ではない。のんびりした響きのあれは、きっと。

───ああ、ベンさんか。

さっきホテルの前で会ったから、こんな夢にも出てきてくれるのだろう。再就職もなんとかうまくいっているらしい。ひと安心だ。
でもベンには嘘が通じなかった。おい虎徹笑い方が変だ、またなんかガマンしてるんだろ、と頬をはたかれて、あやうく涙が出そうになった。もう少しでNEXT能力の減退を告白してしまうところだった。
いや、あそこで告白しておけばよかったのか。言うべきだったのか。言ってしまうと戻せないが、告白のタイミングを練るのはいつでもできる。
まだもう少し。考えていたい。だからベンさん、俺を呼ぶのはもうちょっと後にしてほしい。
声を無視して、耳に水が入るのもかまわず、空を見上げる。
晴れているのか曇っているのかはっきりしない空は、ただ白く輝いて、目が痛い。
ずい、と急に波が高くなり、鼻にまで水がかかって、むせた。
思わず尻を浮かせて膝立ちの姿勢を取り、ごほごほと咳き込んでいるうちにも、波は小刻みに押し寄せる。
誰かがすぐ近くで、歩いているのだ。
怒ったようにざばざばと波を立てて、それは大変なスピードで虎徹の背後に迫ってくる。
振り向く前から絶望的な気持ちになり、虎徹は膝立ちの姿勢から、また水中に尻を落として顎まで水に浸かった。
「虎徹さん」
じゃぶ、とひときわ大きなしぶきの後で、聞き覚えのある声が、すぐ背後から降ってきた。

───もう見たくないっつーのに。

もう膝を抱えてうずくまりたいが、この水深でその姿勢を取り続けると遠からず溺死する。
「呼んでますよ虎徹さん。なぜ行かないんですか」
「おまえにゃー関係ねぇよ。向こう行ってくれ」
「いやです。せっかく服まで濡らして、僕がここまで来たんです。なにがなんでも行ってもらいます」
なんとも嫌な気分で振り向くと、バーナビーはいつものカーゴパンツをびっしり膝まで濡らして立っていた。

───夢の中なんだから水着ぐらい着て来い。そんなとこまで融通がきかねぇのかよおまえは。

全裸のバーナビーを何度か夢に見たことがある身の上としては、かなり控えめな憎まれ口を飲み込んで、虎徹はまたバーナビーから目を逸らす。
「行きましょう、虎徹さん」
背後のバーナビーの口調が、少しだけ柔らかくなった。
たったそれだけのことを嬉しく思ってしまうのが悔しくて、虎徹は再度振り向くことができない。
「行きましょう。ここにいても、つらいだけでしょう?」
何を知ったふうな口をきいているのだろうこのウサギは。コテツサンコテツサンって、馴れ馴れしーんだよ連呼すんな。
悔しいうえに腹が立って、ますます動きたくない。
数瞬の沈黙を過ごすと、また虎徹の頬にイレギュラーな波がかかった。
「…うぷ、…?」
もう一度むせかかった虎徹の鼻先に、黒く濡れたカーゴパンツの膝が迫る。
背後にいたバーナビーが、正面に回り込んできたのだ。
回り込んだだけでは足りないのか、ずぶずぶとパンツを濡らし、とうとうジャケットまで濡らして、彼は虎徹の前に膝をついた。制止する間もなかった。
後悔も、迷いもないエメラルドグリーンの目が、まっすぐこちらを見つめている。
さっきはあんなひどい顔色で逃げていったくせに、この変わり身はどうだ。まだほんの若造のくせに。

───スネた子供見下ろす、オヤジみてーな目つきしやがって。

どんなに内心で悪態をついても、そのエメラルドグリーンは優しくて、厳しくて───美しい。
濡れそぼったその身体を、潰れるほどに抱きしめたい。
触れて、なぞって、舐め上げて、押し込んで、貫いて、彼があげる甘い悲鳴を聞きたい。
これは夢だ。
虎徹が水中から両腕を伸ばしかけたその時、バーナビーが何か言った。
何か、と言うのは嘘だ。
はっきりとそれは虎徹の耳に届いたが、まともに受け止めれば、ダメージが大きすぎる。
夢なのだから、聞こえないことにするのは簡単だ。
なのに、バーナビーの唇は、ずっと同じ動きを繰り返す。

───やめろ。無駄だ。俺には聞こえてない。

もう読唇できてしまうその唇の動きから、目を逸らしたいのに、逸らせない。

───夢のくせに、なんでこんなとこだけコントロール効かねんだよ?

伸ばした腕で力無く水中を掻き、口汚く自分を罵っても、バーナビーの唇は静止しない。
ようやくバーナビーの両肩をつかむと、今度は猛烈な耳鳴りに襲われた。
サイレンのようなそれに、頭がくらくらする。

───耳鳴りじゃない、これは。

これはPDAの呼び出し音だ。
反射的に右手首を見るが、そこには何も着いていない。酔っていて記憶が定かでないが、家のベッドにもぐりこむ時に、ジャケットと一緒に脱ぎ捨ててしまったような気もする。
薄い膜をかぶったように不明瞭だった呼び出し音は、どんどん鮮明に音量を増している。
もうすぐ目が覚めるのだ。
虎徹の意識が夢から飛び立つ寸前に、すぐそばで、もう一度バーナビーの唇が動いた。

───『好きです』。

言葉は、覚醒する虎徹の意識とは反対方向の、どこだかわからない世界の底へ沈んでゆく。
そんなものは、聞けるはずがないのだ。
夢の中だろうと、現実世界だろうと。
どれほど、胸が痛もうと。


***

凄惨な事故現場だった。
『遅いわよ!何回鳴らしたと思ってるの!?』
PDAでアニエスにどやされながら斎藤と連絡を取り、ウエストブロンズのその現場に着いた時、虎徹は寝過ごしたことを心の底から後悔した。
巨大なトレーラーが、雑居ビルの一階に突っ込んで横転している。スピード超過で交差点を曲がり切れなかったらしい。
どこの工事に向かうつもりだったのか、トレーラーからは鋼鉄製の長い建材があふれて崩れ、破壊されたビルのがれきと混じり合って、通りを埋め尽くしていた。
地面の至る所に血痕がある。負傷者が出ているのだ。
「要救助者は!あと何人だ!?」
思わずマスクのフェイスガードを上げて、虎徹はそばにいた、救急隊の制服を着た男に尋ねた。
「あと一人…子供が、建材の下敷きになっています」
恐ろしい答えだった。
「タイガー!こっち手伝え!ここ支えてくれ!」
救急隊の人垣をかき分けると、ロックバイソンが、崩れかかった建材の山すそを、必死に支えているのが見えた。
山の向こう側では、ブルーローズががれきの足元を凍らせにかかっている。
「おい!子供は!ここの下なのか!?」
バイソンに駆け寄って尋ねた虎徹の耳に、遠くから小さなすすり泣きの声が届く。
「渋滞がひどくて…重機の手配が遅れてる。ここもいつ崩れるかわからんから、特殊レスキュー隊も入れなくてな。時間稼ぎだ、おまえも支えろ」
泣き声の出どころを追って、虎徹はバイソンの足元にひざまずいた。小さなトンネルを作るように折り重なった建材の一番奥に、人の、子供の腕のようなものが見える。
「…俺が行く」
迷いなど、一片も浮かばなかった。
このトンネルを腹ばいになって這っていけば、あの小さな腕に手が届く。
「この隙間なら、俺も入れる。上からコレが崩れてきても、俺の力ならなんとかなる」
「こて…タイガー、おまえ…」
「…斎藤さん!隙間にひっかかっちまうから、この肩パーツ外してくれ!大至急!」
うろたえるバイソンを無視して、虎徹は耳元のスイッチをはじき、トランスポーターに連絡を取った。




ワイルドタイガーが、崩れた建材の下にもぐってから、もう何分経っただろうか。
デスク上のパソコン画面にテレビ中継を映し、バーナビーは息を詰めた。
地下のラボで仕事を始めたとたんに、斎藤から連絡が入った。タイガーが取り込み中なので、万一の場合は「こっちのラボ」に出られるよう待機しておいてくれ、と。
そんなことを聞かされては、作業するキーボードの手も止まってしまう。
言い出しにくいながらも周囲のスタッフの承諾を得て、テレビ中継を見ながらバーナビーは書類の束と格闘したが、進まない救助模様に、すっかり手は留守になっていた。
『タイガーひとりの手では、今のところ救助は難しいようです!かと言って、パワー系の能力のない人間がこの穴に入るのは危険すぎます。やっと到着した重機が上から鉄骨をどけていますが、あと何分かかるかは見当がつきません!』
アナウンサーの声にも緊迫が増している。
建材の下敷きになった子供は、身体のどこかを挟まれているのだろう。
大の大人が腹ばいになって、やっと入れるような狭い空間では、NEXT能力を使っても救助は難しい。

───せめてもうひとり、あの空間に入れれば。

そうしたら、子供の周囲の建材を支えながら、子供を引き出すことができるのに。
もどかしく唇を噛んで、はっとする。
ラボの奥の、黒いメカニックスーツが保管されているブースに、バーナビーの目は釘付けになった。

───僕が、スーツを着て行けば。

そうすれば、NEXT能力の持続時間は、虎徹と合わせて十分間になる。
いや、十分も建材を支えて我慢しなくとも、四本の人間の腕があれば、子供を抱きながら建材の壁をぶち抜くことだってできるのだ。
ケガをした子供があと何分持ちこたえられるか。
折り重なった建材が、あと何分崩れずに持ちこたえられるか。
まだ能力を使わずに耐えている虎徹が能力を発動した時、その五分以内に救助が完遂できるのか。
次々と襲いかかってくる不安に、きりきりと胸が締めつけられる。

───僕は。とても、人でなしだ。

ケガをした子供の命よりも、僕は、あの人のことを心配している。
ヒーロースーツを着て、NEXT能力のある虎徹が、この救助活動で命を落とす可能性は極めて低いが、彼は、他人のためにためらいなく自分を犠牲にできる人間だ。まして、要救助者は子供である。彼のあの、行きすぎた犠牲精神が発揮される可能性は極めて高い。
バーナビーは立ち上がった。
間髪入れずに人差し指でテレビ画面に触れる。
空中に浮かび上がっていた透過ディスプレイは、瞬時に消去された。




「…どうして。どうしてだめなんですか」
総ガラス張りの窓に映る、空の青に目を焼かれながら、バーナビーはマーべリックに詰め寄った。
久しぶりに訪れた社長室は、以前よりも、がらんと広いような気がする。
窓際に立つマーべリックは、窓の外をじっと見下ろしてから、バーナビーに向き直った。
「君の演じる『ウロボロス』は、あくまで、本当のウロボロスをおびき出すための囮だ。ルナティックがこの事故に関わっているというのならともかく、単なる人命救助のために出て行くというのは、囮の本分から逸脱していると思うんだが」
「人命救助の何が悪いんですか?ルナティックを追わなくても、人を助ければ、目立つことはできます。目立てば、十分に囮の役割は果たせます」
「『ウロボロス』はね。『ヒーロー』じゃないんだ」
静かなマーべリックの声が、ぴしゃりと言い放つ。
声を奪われたように、バーナビーは黙り込んだ。
「囮として目立つことは大切だけれども、ヒーローと必要以上に接近するのは、危険だよ。特に君は、メカニックとしてタイガーくんと接触している時間が長い。何かのはずみで、君が『ウロボロス』だとタイガーくんにばれてしまったら、どうするつもりだい?」
やはり、声が出せない。
「今は落ち着いて、待つんだ。私は君を、物理的にも、精神的にも、これ以上の危険にさらしたくない」

───まさか。

マーべリックは、知っているのだろうか。
バーナビーが『ウロボロス』と同一人物かもしれないと、虎徹に疑われていたことを。
冷え切ったその場の空気に浸されて、バーナビーの脳裏にも、冷たいものが走る。

───マーべリックさんは、こんなにも僕のことを考えていてくれるのに。

マーべリックの言葉を、以前のように額面通り受け取ることができない自分に気づいて、バーナビーの意識は、ますます冷たいもので満ちてゆく。
時間がないのだ。
今こうしている間にも、建材の下敷きになった子供の息が絶えてしまうかもしれない。
子供をかばって、虎徹が建材に押しつぶされてしまうかもしれない。
とぎれとぎれに吸気して、やっとバーナビーは言葉を吐き出した。
「…ワイルドタイガーは…市民のためなら、自分の命さえ惜しみません。彼が市民を見捨てることができなくて…市民と一緒に危険な状態にさらされ続けるのは、アポロンメディアの損失ではないんですか?」
一刻も早く、虎徹を助け出したい。
こんなちっぽけな反論をするだけで震えてしまう、自分の唇がいまいましい。
こちらを見ているマーべリックの目からは、何の感情も読みとれない。
どんなに無表情だろうと、マーべリックの全身からにじみ出ていたあの温かさを、優しさを、見逃したことなどなかったのに。
本当に今は、何も感じることができないのだ。
冷えた静寂の中で、マーべリックの唇がふと動いた。
「ワイルドタイガーは、もうかなりのベテランだ。いつ引退してもおかしくないぐらいのね」

胸が、潰れそうだ。

言葉を最後まで聞かずに、バーナビーはマーべリックに背を向けた。
背を向けて、駆けた。
ドアを開けて、閉めもせずに、地下へのエレベーターを目指す。
廊下を駆けて、ボタンを押して、自分の身体を自動ドアの向こうへ押し込んで。
降下するエレベーターの中で、バーナビーは、嗚咽のようなものがわき上がってくるのを懸命に耐えた。

───死んでもいいと。

ヒーローなど───虎徹のような人間など、いくらでも取り替えがきくと、マーべリックは思っているのだ。
点滅して移り変わってゆく階層ボタンを見つめながら、むしり取るように白衣を脱ぎ捨てる。
一秒でも早く、メカニックスーツを装着したい。
泣いているヒマなどどこにもないのに、頬にひとすじだけ、涙があふれた。
それが悲しみなのか、憎しみなのかもわからないまま、バーナビーはそこを乱暴に拭った。