ブラック・プリズム -2-



床に、膝をついてしまいそうだ。
すがりつくように虎徹の肘を握りしめて、バーナビーはめまいを耐える。
この間の、脱水症状の時とそっくりだ。
床が揺れ、壁が揺れ、目前の虎徹の顔までが、バーナビーの視界の中で、ゆっくりと不自然に揺れる。まるで船酔いだ。
喉の奥の薄い吐き気を切り裂くように、肩が痛む。
虎徹につかまれて突き飛ばされた肩が、鮮やかに痛む。まだ倒れるなと、痛みに叱咤されてでもいるようだ。
湿りすぎた唇をもう一度拭って、バーナビーは目を上げる。
虎徹の顔が、揺れて、ゆがむ。
ゆがむのはめまいのせいだ。本当はわかっている。本当の虎徹は今、唇ひとつ、眉ひとつゆがめずに、冷ややかにこちらを見ているだけだ。
さっき唇に与えられたあの感触は、何だったのか。
言葉を発するためにあるはずの虎徹の舌は、何も言わずにバーナビーの唇をなぞり、舌をねじふせ、唐突に離れていった。

───どうして。どうして。

どうして、この人が僕に、キスなんか。
仕返しなのか。もしかしてこの人は、何もかも全部気づいてて、僕が「ウロボロス」であることもわかってて、チップを口移ししたことに怒ってて、嘘をつき続ける僕に怒ってて、それで、終わりだなんて言っているのか。僕が嫌いだから僕の質問に答えたくなくて、答える代わりに、キスで僕を痛めつけてるのか。でも、どうして。どうして嫌いな人間にキスなんかするんだこの人は。キスなんか、自分だって気持ちが悪いだろうに、そんな思いをしてまでも、僕を遠ざけて、切り捨てて、追っ払いたいのか。
「じゃあ、僕が辞めます」
言葉は勝手に口からこぼれた。
喉に何かが絡んで、泣き声のような声音になっている。

───いや、もう僕は泣いているのかもしれない。また、この人の前で、みっともなく。

「そんなにあなたが僕を嫌いなら、僕がメカニックを辞めます」
なんて厳しくて、冷たくて───温かい、目なんだろう。
虎徹がこちらを見ている。
少し驚いたような、まっすぐな瞳で。
「僕が、あなたの、目の前から消えれば、あなたは何も失わずにすむ」
この人がどんな人か、やっとわかりかけていたのに、僕は僕の失敗で、この人を失おうとしている。
「もともとやりたい仕事じゃ、な、かったんです、メカニックには未練ありません」
だめだ。考えるな。失うものなんて、僕にはないはずだ。
「本当にやりたい人が、あなたのメカニックを…担当すればいい、んだ」
ない。ないんだ。家族も、友達も。
愛も恋も、知ったことじゃない。そんなものを、望むことさえばかばかしい。
持っていない、望んでさえないものを失うわけがない。なんにもないから、僕はここまでやってこられたのに。
なのに。

───なんにも持っていないのに、この人ともう会えないと思うだけで、どうしてこんなにめまいがするのか。

「ヒーローを真面目に務めるあなたには、…そういう、真面目なパートナーが、ふさわ、しいん、です。きっと」
声がうまく出ない。
喉に濡れた何かがひっかかって、声まで、言葉まで、みっともなくべたべたに湿りきって。
あきれて声も出せないらしい虎徹の、空いていた方の肘も、どさくさにまぎれて捕まえる。
「ヒーローを、辞めないでください」 
両肘を捕まえて、踏み込んで。
バーナビーは、鼻先に迫った虎徹の肩口に顔を埋める。
「ぼ、くは。あなたが辞めるなんて、いやだ…!」
唇で薄いシャツに触れると、布越しに、固く巻かれた包帯らしい感触が伝わってきた。
湿布薬の匂いにまぎれて、虎徹自身の匂いが、騒がしく鼻腔をくすぐる。
あんなに乱暴に口付けられたのに、この匂いに、胸苦しいほど安心する。

───欲しいものなんか、なんにもなかったのに。

両親と家を失ったあの日から、ウロボロスの情報以外、バーナビーに欲しいものなど何もなかった。最低限の生活が保障されるなら、金など要らなかった。バーナビーの美貌や、不運な境遇にまとわりついてくる人間たちは、復讐を遂行する邪魔になった。恋人を欲しがるクラスメイトたちの気持ちも、まったく理解できなかった。

───それなのに今、僕は。

この人のこの匂いを、欲しいと思っている。
もう一度その匂いを深く吸い込もうとした時、バーナビーの耳元で、抑揚のない低い声が響いた。
「……まだわかんねぇのか。しょうがねぇ、バニーちゃんだ、な」
ぐらりと、視界が揺らぐ。
めまいのそれではない。
「あ、」
床を踏んでいたバーナビーのかかとが浮き上がる。
虎徹の両腕がバーナビーの背中に回り、抱きしめられるような格好で、身体ごと引きずられた。
浮き上がったかかとは床を擦り、借りていたスリッパが脱げて放り出される。
「あの…っ」
転倒しないためには虎徹の肩にすがるしか方法がない。
何をするんですかと問う間もないスピードで引きずられ、さっきまで座っていたソファに突き倒された。
「……く、そ…っ…」
肩が痛むのか、つらそうに口元をゆがめて、虎徹は悪態をつく。
悪態をつくが早いか、バーナビーの肩をつかんでソファに縫い止め、馬乗りにのしかかってきた。
虎徹の顔が間近に迫り、視界が陰る。
反射的に目を閉じると、また唇を塞がれた。
貪る、というのがふさわしい虎徹のその動きに耐え、無言で要求されるままに唇を開き、舌を彼に明けわたす。
「う、うぅ…っ…」
ちぎれるかと思うくらいにそこを吸われ、痛みでバーナビーの思考は白く崩壊しそうになる。
「ふ、う、あぁっ…!」
激痛が舌の側面に走り、思わず顔を背けるが、すぐにまた、唇は捉えられてしまう。
痛みにしびれる舌を探られながらも、虎徹の匂いが遠ざかっていかないことに、安心する。
虎徹の舌は、急にゆっくりとした動きになった。
唇の裏側。歯茎。頬の裏側。
確かめるようになぞられ、バーナビーの背筋に、熱を持った震えがわき上がる。
何かにすがりたくて、ソファの縁を握りしめた時、突然口元が解放された。
まだ続く背筋の震えに侵されながら、バーナビーは目を開ける。
バーナビーに馬乗りになったまま、虎徹がこちらを見下ろしている。
薄く降りかかってくる彼の吐息が温かい。
「なんで、抵抗しねぇんだ…?」
吐息と共に降ってきた虎徹の声に、詰問らしい硬さはない。
ただ何かを嘆くような熱が、ふらふらと散るだけだ。
抵抗する理由などない。
存在しない理由を、説明することができない。
答えられずにいると、また唇が近づいてきた。
また目を閉じて、バーナビーは虎徹の吐息を受け止める。
遠ざかっていかない唇は、何度触れても熱い。
貪るほどに求めてもらえるなら、今は、それで。
数センチの上空から、何度目かの温かい吐息が、バーナビーの唇に降る。
「…抵抗しろよ」
目を開けると、視界いっぱいに、ブランデー色の瞳が広がった。
「抵抗しろよ!!」
いきなりの怒声に、鼓膜が痛む。
「能力でも何でも使えばいいだろ!おまえ、こんなことされて、平気なのかよ!?抵抗しなきゃ、これだけじゃ済まねーんだぞ?まさか、このあとどうなるかわかんねぇなんて、寝ぼけたこと言うんじゃねぇだろうな!?」
この人は、僕に何を求めているのだろう。
僕を精いっぱい遠ざけようとしながら、僕から精いっぱい遠ざかろうとしながら、この人は、自分が本来持っていた何かを、壊そうとしている。
「なんとか言え!!黙ってんなら、もう容赦しねーぞ!!」
そうやって、僕の肩を押さえつけながら、この人は、目の前の僕を通り越して、自分自身を怒鳴りつけている。
「何か言え、バーナビー!!!」
虎徹の声が風圧さえ帯びて、バーナビーの顔面に降る。
かろうじて息を吸うと、貪られた舌の根が震えた。
「………僕は、」
何か言わなければ、またこの人は、僕から遠ざかってしまう。
虎徹の叫びを捉えた鼓膜は限界を超え、静かな耳鳴りが、バーナビーの頭蓋に広がる。
「僕は、あなたに避けられたくない」
要領が悪くて、頭が固くて。
「…あ、なたが、僕にこうやって触れ、たいなら…触れてください。僕はかまいません」
自分が受けた傷はギリギリまで隠して、カメラの前でも僕の前でも、ひたすら丈夫なヒーローのふりをして。
「おま、え。自分が言ってること、わかってんのか…?」
「わかってます」
「わかってねぇよ!!おまえなぁっ!!俺は、俺は……お、まえを、すっぱだかに脱がして女みてぇに抱くって言ってんだぞ!?子供にするみてぇな、そ、んな、ダッコとはワケがちが、」
「わかってますよっ!!!」
ちっとも自分を大切にしないで、他人の幸せばかり考えている、バカで間抜けで優しい、壊し屋タイガーな、この人は。

───この人は、本当は、僕を。

怒鳴り返したとたんに、いじましい憶測が浮かんだ。
その憶測をひねりつぶす勢いで、バーナビーは息を継ぐ。
「あなたの気がすむまで、あなたのしたいようにすればいい!」
頭の中で、きしりと一声、何かがゆがむ音がする。
「僕はただ、あなたに嫌われたくないんです。嫌われないですむ方法がそれだ、っていうんなら…そうします!それだけです!!」
ゆがむ、というよりは、ずれる、というのが近いかもしれない。噛み合わない歯車が一瞬動きかけて止まるような、深くて苦しいずれ込みの感触だ。
だが、いくら深くずれ込んでも、叫んだ言葉は戻せない。
本当に、どうしたらこの人は、僕のそばにとどまってくれるのか。
虎徹の目を、こんなに近い場所で見つめるのは初めてだ。
驚きを通り越したのか、あきれてものも言えないのか、彼の瞳孔はかすかに震えながら固まっている。
怒鳴って濡れた唇をどうにか閉じ合わせて、バーナビーは虎徹から目を逸らした。




ウサギが、横たわっている。
煮るなり焼くなり好きにしろと、言い放って。
虎徹はバーナビーの両肩から手を離した。
暗幕が一気に引かれたように、肩の痛みがよみがえる。
ソファの上で、彼に馬乗りになったまま上体を少しだけ起こし、肩の力を抜いて、痛みを逃がす。
バーナビーは横たわったまま顔をそむけ、リビングテーブルを見つめている。目を閉じていないのがかえって強い決心を感じさせて、虎徹の身体の中に、新しい震えが生まれる。

───プライドみたいなもんはねぇのか?こいつは。

ふっと脳裏に浮かんだつぶやきは、すぐに震えになぎ倒される。
プライドが服を着て歩いているバーナビーは、いったいどこへ行ってしまったのか。ただ一緒に仕事がしたいというそれだけの理由で、同僚の不埒かつ不当な要求をのむバーナビーという生き物が、心の底から理解できない。

───ひょっとして。

こいつはずっと、こうやって生きてきたのか?
ぐちゃぐちゃな頭の中を整理すらできずに、虎徹は痛み続ける自分の肩を押さえた。
親代わりの社長にそうさせてきたように、このバーナビーは、相手に身体を差し出すことが最上の人間関係だと思っているのだろうか。
本人すら気がつかないまま、バーナビーのプライドなど、実はどこにもないのではないか。
虎徹には想像もつかない育ち方をした彼は、今まで虎徹が感じてきたよりもずっと深いところで、取り返しがつかないほどの欠落を抱えているのではないか。
わからない。
わからない。
実はバーナビーはずっと前から虎徹の本心に気がついていて、知らないふりをして、仕事を円滑に続けるために、虎徹の出方をうかがっていたのだろうか。それで、虎徹の仕事ぶりを少しは認めてくれた結果が、この事態なのだろうか。

───『欲しいならこのぐらい、くれてやるから』。

だから、黙ってこれからも真面目にヒーローをやっていろ、と、そういうことなのだろうか。
わからない。
このバーナビーは、本当に、あのメカニック担当のバーナビーなのか。
息を吸うたびに、肺のそばで鎖骨は痛み続ける。
痛みを追い出したくて大きく息を吐くと、虎徹の身体の下から、白い手がひらりと伸びてきた。
「肩が、痛むんですか…?」
まったく、このウサギは、今自分が何をされているかやっぱり理解していない。
お人好しだとか、そんな生ぬるいバカさ加減じゃない。
羽が触れるような感触で、虎徹の肘に触れてくるその手のひらを、虎徹はとうとう見つめてしまう。
また痛む。
肩とはまったく違う場所が。
虎徹は息を止めた。
見たくて、不安で、のぞき込むことすらできなかったバーナビーの右手には、赤く透ける傷跡が、シミのようにこびりついていた。
このバーナビーは、本当にバーナビーなのか。
顔かたちだけ、口調だけ、匂いだけ、バニーに似せた、他の誰かじゃないのか。
赤い傷跡をひねりつぶすように、虎徹はバーナビーの指をまとめて握った。
握った指を呪うように、いや祈るように、自らの口元に引き寄せる。
「……なあ、」
どこもかしこも、わからないことだらけだ。
「おまえは、バーナビー・ブルックス・ジュニアだよな?」
「え?」
忘れたはずの疑心が、無残に散らかった虎徹の脳裏に浮き上がる。
「おまえは、アポロンメディアの、ワイルドタイガーのスーツの、メカニック担当だよな?」
「………は、い?」
ぐちゃぐちゃだ。
何もかも。
「おまえ、俺がこの間の出動でビルに閉じ込められてた時、何してた?」
頭がとっ散らかりすぎて、俺はぐちゃぐちゃになっている。
「おまえ、あの時誰と仕事してた?斎藤さんか?あっちのラボの誰かか?あのときおまえが会社にいた、って証明してくれるやつは、誰だ?」
俺を、これ以上ぐちゃぐちゃにしないでくれ。

握りしめたバーナビーの指が、すいと冷たくなったような気がした。




血の気が引いた。
自分で自分の顔色は見えないものだが、バーナビーは、自分の顔面から、血色が失われつつあることを確信した。
虎徹に握られた指先には、もう血が通っていないのではないか。
緊張とも、弛緩とも、絶望ともつかない何かが、しびれるような冷たさになって、その指先から浸み出してゆく。
「……急に、どうしたんですか」
なのに、唇だけは、ふわふわと滑るように、バーナビーの冷えた身体を無視して、白々しい言葉を垂れ流している。
「…おまえと、」
バーナビーの指を握ったまま、虎徹は窒息でもしそうな表情で目を閉じた。
「おまえとおんなじとこに、おんなじ右手に、ケガしてた。あいつ。『ウロボロス』、も」
世界が、白くかすれる。
「ビルに閉じ込められたあん時に、あいつ、俺の肩、応急手当てしてくれて。あいつが手袋外した時に、見えた。あいつおまえとおんなじ白人で、若くて、爪も手入れしてあって」
虎徹の指も、苦しげに閉じた目も、閉じた目を隠すように覆う前髪も、バーナビーの意識の中で質感を失って、ただ白くかすれてゆく。
「おんなじココに、あいつも。赤い、ヤケドみたいな傷が」

虎徹は気づいていたのだ。

「なあ。証明しろよ」
握られた指先に、もはや体温は残っていない。
残っているのは、けいれんしそうな、脅えだけだ。
「あの時おまえ、会社のどこにいたんだよ。誰といたんだよ?」

───ああ。

これで、終わりなのだろうか。
バーナビーの身体の中で飽和した脅えは、奇妙な静けさになって、バーナビーの意識を包む。
これでマーべリックさんの秘密プロジェクトは頓挫して、アポロンメディアのトップはすげ替えられて、法を犯した僕は裁かれて、ウロボロスはまた、どこか遠くへ消え去ってしまうんだろうか。
「…頼むから。会社に居た、って。証明、してくれよ…」
これで終わりなのだろうに、なぜこの人は、こんなに苦しそうなのか。

───まるっきり、泣いてるみたいな。

泣いてるみたいな声で、この人は、自分の疑問を、否定したがっている。
「…離してください」
この部屋は、静かすぎる。
こんなに弱々しい、僕の声だけが、響きすぎる。
「僕は、あの時、『あっち』のプロジェクトチームで仕事をしていました。それ以上のことは、あなたには教えられません」

───嘘は、言ってない。

言っていないけれど、それはただの逃げで、ごまかしで。
「……『あっち』で、社長と居たのか?」
低い声の問いと一緒に、いっそう強く指を握られ、鋭い痛みが肘にまで響く。
バーナビーの上体に覆いかぶさるように、顔を深く伏せた虎徹の目は、完全に前髪に隠されて、もう見えない。
「離してください!」
見えないことがいっそう恐ろしくて、バーナビーは反射的に虎徹から逃れようと、つかまれた指ごと、腕を振った。
とたんに虎徹の握力が増し、指の骨が折れそうな激痛に襲われる。
「う…!」
うめいて身体をよじると、何かがバーナビーの肘に当たり、それは硬い音を立てて、ソファの下へ転がり落ちた。
砂粒がはじけるような、一瞬のノイズの後。
静かだった部屋に、聞き慣れたアナウンサーの声が炸裂する。
「さあ本日もやってまいりました、ヒーローTVの時間です!」
ソファの下に転がったのは、リビングテーブルの端に放り出されていた、テレビのリモコンらしい。
「いきなりですが本日は、あの、生死が危ぶまれておりました、ルナティックの映像からお届けします!」
指の痛みも忘れ、とっさに首を伸ばして、バーナビーはテレビ画面に釘付けになる。
「先日のビル爆破事件に巻き込まれたはずのルナティックが、つい先程、メダイユ地区に現れました!」
虎徹にのしかかられたまま、腹部にかかる彼の体重も、バーナビーの意識から軽く消え去った。
「そして!ルナティックと言えば、もう皆様おなじみのあの『ウロボロス』も、彼を追って現れたもようです!」
びくりと虎徹の指先から力が抜ける。
捕われていたバーナビーの指は、自身の重力に従うように、ぱた、とソファの上に落下した。
薄黒く塗りつぶされたようなテレビ画面の闇の中で、あの流線形の、あの薄紅色の耳を、肩を、腕を光らせて、あのメカニックスーツを着た「ウロボロス」が、それは軽快に跳躍しながら、ルナティックの青い炎に猛追している。
「彼らを追う、ヒーローたちの足取りは乱れております!なんといってもあのワイルドタイガーがケガで休養中なのは痛い!タイガーの欠場を埋めるべくどのヒーローも懸命なのですが、相変わらずルナティックも『ウロボロス』も速い!この速すぎる動きについていけるのは、やはりハンドレッドパワーしかないのでしょうか!」

テレビに見入る虎徹の唇が、ほんのわずか、震えもせずに開かれる。
その硬直した横顔を、横たわったまま、ぼんやりとバーナビーは見上げた。




いつもより、サイドブレーキが重い。
ようやくマンションの駐車場にたどりつき、バーナビーは車を止めた。
サイドブレーキをかけてエンジンも止めようと思うのに、手に力が入らない。
もろもろの動揺に首まで浸かっていた身体は、あまり言うことを聞いてくれない。
あれから、虎徹の家を、どうやって出てきたのかよく覚えていない。
あの時、テレビの中に「ウロボロス」を見つけて、虎徹も、バーナビー自身も、放心してしまったことは確かだ。

───『悪かった』。

バーナビーの身体を解放して、ソファから立ち上がり、虎徹がただひとこと、そう言ったのも覚えている。
そこからの記憶はあいまいで、バーナビーはただひたすら、マーべリックに会いたい一心でタクシーを拾い、会社に戻った。
戻るなり「あっちのラボ」に飛び込んだ。
もう一人の「ウロボロス」の正体について、マーべリックに尋ねずにはいられなかった。

───ルナティックが急に現れて、そこから急ぎの作業だったんでね。君に事前に連絡できず、すまなかった。驚いただろう?

ちょうどラボを訪れていたらしいマーべリックは、あっさりと、もう一人の「ウロボロス」の名を教えてくれた。

───H‐01、というんだ。

バーナビーがこのプロジェクトに関わるはるか以前から、開発が進められていたアンドロイド。
「彼」は、データベース化したバーナビーの運動能力をプログラムされた、限りなく人に近い動きのできる、ロボットなのだという。

───「ウロボロス」を装って活動する君には、いつどこでどんな危険が降りかかってくるかわからない。この間のように、どこかに閉じ込められたり、君の身体に何かあった時に、君の助けになってくれる「もう一人の君」が必要じゃないかと思ってね。

確かに「助け」にはなった。
H‐01のおかげで、バーナビーは虎徹の疑惑を晴らすことができた。
マーべリックの言う「助け」の意味とは少し違ったかもしれないが。

───H‐01のプログラムは、簡単に書き換えられるんだ。君以外の、他の人物の能力データベースを上書きすれば、簡単に「彼」は君じゃない他人になる。あまり難しく考える必要はないよ。君が嫌なら、「彼」を出動させるのは可能な限り控えることにする。

人間に限りなく近い、アンドロイドを作ること。
それは、ロボット工学を選び、学んできたバーナビーにとって、ひとつの大切な目標だった。
その大切な目標が、ほぼ完全な形で達成されようとしているのに、バーナビーの心はなぜか浮き立たない。
自分がH‐01の開発の根本に関われなかった、という除け者気分とは違う。
ちょうどラボに戻ってきたばかりのH‐01は、息を切らすこともなくゆっくりと歩行して、ラボの奥にいつのまにか作りつけられていた「彼専用の」小さなメンテナンスブースに、立ったまま納まった。
ルナティックとそう激しくやり合ったわけではないらしく、H‐01がまとったメカニックスーツ───いつもバーナビーがまとっている、黒いそれだ───は、傷もなくいつも通りに、鈍く表面を光らせている。
複雑な思いでバーナビーが「彼」を見つめていると、隣りへ歩み寄ってきたマーべリックが、くすりと笑った。

───君にはわからないかもしれないが…H‐01は、歩き方まで君にそっくりだ。本当にすばらしい。

マーべリックの笑顔に、バーナビーは応えることができなかった。
それがほんの、三十分前の出来事だ。
やっと会社から自宅にたどりつき、やっと車のエンジンも切り、静かになった車内で、バーナビーはうなだれる。
会社から慣れた道を走ってきたが、途中、対向車や信号の切り替わりに反応するのが遅れて、ひやりとすることが何度もあった。よく事故を起こさずに帰宅できたものだと思う。
どうしても身体が重くて、運転席に座ったまま、バーナビーはぐったりとハンドルにつっぷした。

───これは。寂しい、っていうのだろうか。

最新鋭のアンドロイドを間近に見ても、マーべリックが本当に嬉しそうにほほえんでいても、どうしても笑えなかった、僕は。
つっぷしたまま、バーナビーは目を閉じる。

───僕は、寂しいのだろうか。

ずっと前から開発されていたはずのアンドロイドのことを、マーべリックさんに少しも教えてもらえなかったことが?
僕に何の断りもなく、僕のデータをアンドロイドに載せられたことが?
目を閉じて、自分の内心を探ってみても、この体内に沈んでいるはずの解答は、どこかに引っかかったまま、いっこうに浮かび上がってこない。
浮かんできたのはただ、H‐01のマスクのフェイスガードを上げた時に見えた、不気味な「彼」の瞳の輝きと、さっきのテレビ画面を凝視していた、虎徹の横顔だけで。

───そういえば。

動揺の連続で忘れていたが。
虎徹は、会社を辞めると言ったまま、その発言を撤回していない。

───いやだ。

あの人と、二度と会えないなんていやだ。
いやだ。
いやだ。
僕が泣いてもわめいてもダメだっていうのなら。
僕にだって、考えがある。

明朝の「仕事」を、折れそうな心の中で組み立てて、バーナビーはやっと本当に帰宅するべく車のドアを開け、駐車場のコンクリートに降り立った。




「本人認証システムの強化?」
翌朝早く。
始業前の一杯───ではなく、始業前のアイス一個のパッケージをことんとデスクに置いて、斎藤は視線を上げてきた。
パッケージはもう空だ。込み入った話を始めても、摂取した糖分に満足を感じて、斎藤は気分を害さないだろう。にこやかにデスクに着いている彼を正面から見下ろして、バーナビーは言葉を続けた。
「はい。ワイルドタイガーのヒーロースーツには既に、かなり精密な彼の身体特徴コードを搭載していますが、これは、ヒーロー自身の唯一性を確証できるものではありませんよね。似たような体型の人間ならば、誰でも装着することができてしまいます」
「この世で『ワイルドタイガー』しか着られないスーツを作る、ってことかい?」
「はい」
「具体的にはどうやるの?やっぱり指紋認証かい?」
「ワイルドタイガーが手を負傷する可能性を考えて、それ以外のいくつかの生体認証法を組み合わせたいと思っています。僕が考えているのは、虹彩認証と声紋認証です」
「コスト的な見通しは?」
「虹彩暗号化コード使用の際の、ロイヤリティさえ何とかなれば。声紋の方は技術的にもさほど難しくはないですし」
多少唐突でも、多少つじつまが合っていなくても。
あのスーツを着られるのは虎徹だけ、というシステムを作り上げれば、いや、作り上げようとしていれば、虎徹の辞職に歯止めがかけられるかもしれない。
本当に幸いなことに、今日はまだ、虎徹は出社していない。この件を斎藤に今すぐ了承してもらって、ヒーロー事業部を統括するロイズのところに持っていけば、ヒーロー事業部を挙げて虎徹を引き留められるかもしれない。虎徹が辞職すれば、システム開発上の損害が発生するのだから。
「また随分と急なんだねぇ。こんな朝早くに火急の件だなんて言うから、てっきり君から辞表でももらってしまうのかと思ったよ」
キヒ、と軽く息を吐いて斎藤は笑う。彼はひょっとしたら、バーナビーが一度はマーべリックに辞意を告げたことを知っているのかもしれない。
「…すみません。構想そのものは以前からあったんです。最近、テレポート能力のあるNEXTの犯罪が増えているので…万が一の。スーツの盗難も視野に入れた方がいいかと。素顔を隠さなければならないヒーローを支える僕たちにとって、一番ダメージが大きいのは、自社のヒーローを詐称されることです」
ほとんど口からでまかせなのに、そのでまかせのもっともらしさが素晴らしいと、冷めた内心でバーナビーは自賛する。
虎徹は、(おそらく)バーナビーのそばに居たくないから会社を辞めると言った。
それならば、自分が先に辞める、と、バーナビーはタンカを切った。
だが、頭を冷やして考えてみると、虎徹より先にバーナビーがメカニックを辞めても、虎徹は辞職を思いとどまってはくれないような気がしたのだ。
もともと、このアポロンメディアへの移籍は虎徹の本意ではなかったし、大企業の歯車になることを、虎徹はとても嫌がっているように見えた。虎徹自身の思い通りに、柔軟な姿勢でヒーローを続けさせてくれる会社があれば、古典的ヒーローとして頑なな彼は、給料の高低など気にせずに、そちらへあっさりと移ってしまうだろう。

───メカニックの仕事に未練はない、けども。

メカニックを辞めて、「あっちのラボ」に専念することはいつでもできる。
それならば、辞めるその時まで、バーナビーは悪あがきしたくなったのだ。
虎徹が辞表を出す前にロイズを丸め込んで。
あなたしか着れないヒーロースーツを作る、と、あの人に宣言して。

───話が終わるまで、あの人を社内(ここ)から出さない。

心は逃げられても。
身体だけは、身体だけでも、逃がさない。
彼の心が得られない空虚感に浸るのは、あがいてあがいてあがき尽くした、最後の瞬間でいい。
自分の口先で操っているその衝動的な理屈の裏には、今にも消え入りそうな、わずかな苦痛が混じっている。

───「ウロボロス」を騙り続けている僕に、そんなことを感じる資格はないのかもしれないけれど。

H‐01を見た時に。
H‐01を本当に愛しげに見つめるマーべリックを見た時に、直感したのだ。
ワイルドタイガーのコピーが、どこかで勝手に作られるのは嫌だ、と。

わずかな苦痛を、バーナビーはすぐさま自分の理屈にぐるぐると包み、それを意識の最深部に蹴り込んで、沈めた。




昨日の酒が、まだ脳髄の底に残っている。
「鏑木・T・虎徹さんですね?」
消極的にしくしくと痛む頭を首の上に乗せて、虎徹がほとんどヤケで出社してみると、入り口ゲートで実に物々しく、顔なじみの警備員に腕をつかまれた。
「ちょっと!俺は急いでんの!社員証、ちゃんと本物でしょ?離してくれよ!」
「ヒーロー事業部の、メカニックルームからの依頼です。あなたが出社してきたら、玄関で待ってもらうように言われていますので」
「なんだそりゃ」
「メカニックの方でも、急ぎの仕事があるそうですよ」
「どうでもいいよそんなん!離せって」
「頼まれたからには私もその仕事を果たさなければいけませんから」
「わかった!わかったから、そのメカニックにすぐ行くから、離してくんね?」
「何を言われても、ここで待ってもらうように言われています」
「……なんだとぉ…?」
虎徹はつかまれていない方の腕を上げて、自らの眉間にこぶしを押し当てた。
あの性悪ウサギが、何を考えているのかわからない。
……いや。
本当は、わかるような気がする。
眉間を押さえてため息をこらえ、虎徹は肩の力を抜いた。
警備員も、ほっとしたように虎徹の腕を解放する。

───会社の人間まで巻き込んで。

あの箱入りウサギちゃんにしちゃ、ランボーな方法だ。
頭痛が増したような気がして、虎徹はハンチング帽のつばを引き下げる。
いやランボーにさせてるのは俺か。いやいや。バニーが俺を捕まえたがってるなんて、決めつけるのはよくないかもしんねぇ。クソ真面目なあいつがまたヘソ曲げて、斎藤さんが困ってヘルプ出してきたのかも。
つくづく次の行動の予測がつかない男だと嘆きながら、帽子のつばを指先でさすっていると。
「おはようございます」
硬く透き通った声が、せわしない靴音と共に近づいてきた。
頭痛で重い頭を、虎徹はゆっくりと上げる。
バーナビーはもう、虎徹の眼前に立ち止まっている。
昨日と同じ緑の目が、頑固に輝きながら、こちらを見ている。
こいつの着ている白衣は、いつもこんなに白かっただろうか。
「急ぎの用事があるんです。すぐにメカニックルームに来てください」
少しの迷いもない声に、虎徹の腹から力が抜けた。




「で」
未だ座り慣れないメカニックルームの椅子の上で、長い長いバーナビーの講釈を、黙って聞いたあと。
「俺がそれでも辞めたいって言ったら、その認証システムはパァになるわけだ」
固まった首筋を、大げさにコキンとほぐして、虎徹はさらに肩の力を抜いた。いや、抜くふりをした。
長い講釈の前に、バーナビーは斎藤をラボへと追い払った。いや、実に丁重に仕事を彼に押しつけていた。
昨日とまったく同じに、バーナビーはデスクの向こう岸に座っている。ただ、彼の前にパソコンはなく、白いデスクの上には、彼の白い両手のひらが、ゆるく握られたまま乗っているだけだ。
白衣の肩が、ガチガチに緊張しているのがわかる。
バーナビーは、わかっているのだろうか。
自分のやっているこの行為が、稚拙な執着でしかないということを。

───若いってのは…いいもんだ。

口に出せば間違いなく激怒されるであろうセリフを、虎徹は不快に甘ったるい気分で喉の底に押し込んだ。
ゆうべ、ぐちゃぐちゃだった虎徹の脳内は、一晩明けてもさほど整理されていない。
バーナビーが「ウロボロス」でないとわかって安堵はしたが、バーナビーへのやっかいな感情は、虎徹の中で整理されるどころか、ひっくり返ってますます混乱している。
今日は本当は、それほど固く辞職を決めてきたわけではない。
バーナビーにああ言ったものの、今日から急に無職になる勇気はさすがになかった。虎徹がアポロンメディアに移籍してから、一年も経っていない。今季の成績を考えても、再度の移籍は難しいだろう。
今は、この箱入りウサギの言う通り、アポロンメディアに居続けることが一番良い選択なのだ。
しかし、虎徹には「やっかいな感情」の他にも、ヒーローを辞める動機があった。
きっちり五分間であるはずだった虎徹のNEXT能力は、確実にその持続時間が短くなっている。
もって、おおよそ四分四十五秒。
日によって数秒の差はあるが、最近は、ヒーロースーツに内蔵されているカウントダウン機能が作動する頃にはもう、能力が使えなくなっていることが多い。
ゆうべ、バーナビーと辞める辞めないで口論になったあの時、ヒーロー業に区切りをつけるいい機会かもしれない、と心の隅で思ったのは事実だ。

───いつか俺が、NEXTじゃなくなってしまったら。

誰にも相談できずにいたことを、今ここでぶちまけてしまえば、バーナビーはあきらめてくれるだろうか。
辞意を表明するに当たって、これほど周囲が納得できる理由もあるまい。
ヒーローTVという番組には、被差別者であったNEXTの地位を向上させようという暗黙の意図が盛り込まれている。その番組に、NEXT能力が無い者が出演することは、番組にとって無意味なのだ。
このまま能力の減退が止まらなければ、いつか必ず隠しきれなくなる時が来る。
その時になって、テレビカメラの前で本当の醜態をさらす前に、潔く告白して辞めるのが、真の職業人というものだろう。

───「それ」が、「今」だって、わかってるのに。

隠してきた能力の減退を、告白するのは今しかないとわかっているのに、虎徹は今、そのために唇を動かすことができない。
稚拙で、愚かで、執念深くて、そして───計算高くて、聡明で、我慢強いバーナビーが、こちらを見ているからだ。
どうしてもその色味のせいで、冷えているように見える緑色の瞳は、よく見ると、その周囲がうっすらと充血している。
ぎゅっと一文字に結ばれた唇は、よく見ると、数秒おきにかすかな収縮が繰り返されている。震えをこらえるためだろう。
いつも隙なく整えられている金色の前髪は、その束のいくつかがあさっての方向を向いている。髪も十分に整えずに、バーナビーは早々に出社してきたのだろうか。ただ虎徹を捕まえて、この唐突な講釈を聞かせるためだけに?
これまで見つめたくても見つめられなかった、見ることを虎徹自身で禁じてきたバーナビーの間近の表情は、ふいと見てしまえば、たまらなくわかりやすく、かつ難解なものだった。

───どこで、こいつのスイッチ切り替わっちまったんだか。

俺がこいつにやつあたりして、こいつに本音吐かせちまったとこからか。
ビルから落っこって重傷、ってかんちがいさせちまったとこからか。
病院でふんづかまえて、俺がチューかましたとこからか。
それとも、そんなの関係ない、ずーっと前からだったのか。
いくら考えても、他人の感情スイッチのありかなどわかりはしない。自分のそれだってわからなくて、おろおろしているぐらいなのだから。

───それに、こいつのスイッチは、壊れてるか、存在しない可能性だってある。

メカニックとして日々の仕事は完璧にこなせても、生き物として、人間として、大切なものがごっそり抜け落ちているバーナビーは、虎徹に対するこの異様な執着の理由を、ただ「嫌われたくないだけ」だと言い張るのだ。
本当に彼は何も自覚していないのか。
それとも、彼は背筋も凍りそうに巧妙なサイコパスか何かで、自らの存在をエサに、虎徹を思い通りに操ろうとしているだけなのか。
「………俺、」
頭が痛む。
昨日の酒が抜けきっていないのだ。
そして。

───操られるなら、それもいいかと思っちまうあたり。

酒どころか、昨日のめちゃくちゃな感情の残骸すら、この痛む頭の中から抜けきってはいないのだ。
虎徹がここで口を開かなければ、バーナビーは何時間でもこうして、虎徹を見つめて座っているのだろう。
だから。
だけど。
言うのだ。
「…俺別に、今日会社辞めようと思って、来たわけじゃねぇから」
こんなに情けないセリフを吐くのは久しぶりだ。
清く正しく力持ちな、ヒーローが聞いてあきれる。
先延ばしにしたって、何も解決なんかしない。
わかってるのに。
「おまえさ、」
わかってるのに、目が。
こいつの目が、じわじわ赤く湿っていくのを見てたら。
「おまえ、自分が昨日言ったこと、覚えてるな?」
こっち見てるこいつを見てたら。
息ができなくなってきて。
「昨日の、どの用件ですか」
よくもそんな顔で、しれっと質問できるもんだ。
やっぱりこいつは、どっかおかしい。
いやおかしいのはお互い様か。
「俺に嫌われたくないから、何でもするって言っただろおまえ?」
「何でも…とは言わなかったと思いますが。でも、意味としては、それに限りなく近いです」
「俺が辞めないでここで仕事する、ってことは、俺のむちゃくちゃなワガママを、おまえはいちいち聞いてかなきゃなんねーんだぞ?」
「はい」
「俺がおまえに暴言吐きまくっても、セクハラしまくっても、おまえはそれに耐えて仕事するんだな?」
「あなたはそんなことする人じゃないでしょう?」
二の句が告げないというのは、こういうことを言うのだろう。
形もない何かに喉を塞がれて、酸欠になりそうだ。
酸素の行き渡らない虎徹の脳は、ちかちかと怒りのようなものをせき止めて、これまた破裂しそうになっている。

───頭が痛い。

こんなに苦しいのに、なんでこの頭蓋骨は飛び散らないのか。
清い気持ちも正しい気持ちも、ヒーローであるプライドも、もうすっかりこの脳から飛び出して、どこかへ砕け散ってしまっているのに。
告げない二の句をやっと、くしゃくしゃに丸めて捨てて。
虎徹は凶悪に新しい言葉を、わななきそうになる唇から吐き出した。
「そんなら今ここで、俺にキスしろ」

バーナビーの肩が、ぴくりと持ち上がる。

まっすぐこちらに固定されていた彼の視線は、ふっと揺らいで、また元に戻る。
「しないなら、俺はロイズさんに『ヒーロー辞める』って言って帰る」
これは子供の言いがかりだ。
そして、恥ずかしいほど欲望に忠実な、ダメな大人の腐った駆け引きだ。いや、駆け引きなんて言うほど立派なものですらない。
「…わかりました」
それなのに、バーナビーは、澄んだ声で答えてくるのだ。
こいつはやっぱり壊れてる。
俺が今壊れてる以上に、もっと真から、ごっそりと、壊れてる。
「キスの意味はわかってんな?デコにチューもホッペにチューもナシだぜ?」
「はい」
「手にチューもナシだかんな」
「わかってますうるさいですよ」
淡々と返事をしながら、バーナビーはついと立ち上がってデスクを回り、椅子に座っている虎徹の真横に立ちふさがった。

───唇、噛んでやがる。こいつ。

さっきよりもずっと速いリズムで、バーナビーの唇は小さな小さな収縮を繰り返し、彼はそれを、なんとか治めようとしている。
ほんのちょっと気をつけて見つめるだけで、こんなにもバーナビーの表情は克明なのに、どうしてその心の中が、少しも見通せないのだろう。
震えるほどそんなに俺とのキスがイヤかいやいやそんなの当然だろ今ワルモノなのはこんなオヤジ根性丸出しのセクハラ要求を押しつけてる俺なわけで、ウサギちゃんが嫌がってるからって悲しがるのは見当違いってモンでワルモノはワルモノらしくウサギちゃんが泣いて嫌がりながら要求に応えてくれるところをじっくり見届けてればいいのであって。
虎徹の肺の中で何かが収縮し、痛覚を呼ぶ。
痛いのは頭だけだったはずだ。
バーナビーはデスクに片手をつき、覆いかぶさるように虎徹の顔をのぞき込んでくる。
伸ばされた長い首の果ての顎先が、白衣に負けず劣らず真っ白で、その透明感に目がくらむ。
想像したよりも冷たい唇が触れてきて、離れた。
バーナビーの吐息は、まだ虎徹の唇にかかっている。
そのわずかな距離を再度縮めるべく、虎徹はバーナビーの後頭部に手を伸ばした。
そこをわしづかんで、引き寄せる。
引き寄せて、なだれ落ちるようにぶつかってきた唇を、唇で捕獲する。
吐息ともうめきともつかない小さな音が、バーナビーのそこから漏れた。
その音すら飲み干して、彼の舌も捕獲する。
びっくりするほど無抵抗な舌は、宙に溶けていかないのが不思議なほど柔らかい。
絡めれば応えて絡み、吸い上げようとすると、それを察知したのか、脱力したそこがためらいもなく差し出されてくる。
こちらの侵入を待っていたかのような彼の舌の動きに、また肺が痛くなる。
本当は、もっと噛みついて、もっと引きむしって、もっと押しつけて。
もっと嫌がられようと、思ったのに。
「……は、……」
バカ。そんな気持ちよさそうに息なんか吐くな。
「ぅ、…ん、」
そんな変な声出すんじゃねぇ。
いいかげんにしろ。
おまえはこんなおっさんとキスしたかったんかよ違うだろバカっ!!
───バーナビーを、心中で思いきり怒鳴りつけて。
バーナビーの後頭部に回していた手を下ろし、空いていた片手で、虎徹はバーナビーの顎を押し戻した。
あまりの肺の痛みに、キスが続行できない。
みっともなく息が上がっているのは、バーナビーに腹を立てているからだ。
上がった吐息の向こうで、デスクに片手をついた当のバーナビーは、ただただ不思議そうに首をかしげている。
違う。これは首をかしげてるように見えてるだけだ。バーナビーは立ったままデスクに手をついて、不自然に上半身をかがめているからそう見えるだけだ。
そんな傷ついたみたいな顔してんじゃねぇ。
おまえも息なんか上げてんじゃねぇ。なに頬っぺた赤くしてやがんだこの間抜けウサギは!
おかしいだろ。
おかしすぎるだろ。
いくらおまえが壊れてるったって、こんな、こんなのは。
肺も頭も痛くてもう声が出ない。
一言も実声でバーナビーを罵れないまま、虎徹はデスク上に手を伸ばした。
わしづかんだバーナビーの手の甲は、唇よりよほど冷たい。
その冷気と、身体に充満する痛みに震え上がりながら、虎徹はもう一度、バーナビーの唇を捕獲した。


───なあ友恵。

天国で会えたら、また俺を思いっきり殴ってくれよ。