ブラック・プリズム -1-



気まずい。
いや、気まずいなんていうのはもうとっくに通り越している気もする。
虎徹は歪みそうになる自らの唇を、どうにか水平に保とうとした。
顔の周りの酸素は妙に薄い気がするし、ここでため息をつくなどもってのほかだ。
自在に呼吸することもできず、椅子に座ったまま、虎徹はピアノでも弾くように、自分の腿の上で所在無く指をうごめかせる。
間抜けにうごめく指は、デスクの影に隠れて、デスクの向こう岸のバーナビーには見えない。
小さなデスクの向こう岸に座っているバーナビーは、パソコンの透過型ディスプレイを見つめたきりで、虎徹に視線一つよこさない。
仕事中なのだから、余計な愛想を振りまく必要はないし、もともとバーナビーの笑顔など、虎徹はほとんど見たことがない。
経験に基づく条件がそれほど揃っていても、今日のこのバーナビーの不愛想さは、虎徹にとって、ほとんど恐怖だった。
カタカタと鳴るキーボードの入力音をBGMに、ひたすら静かな声で、バーナビーの質問は続く。
「ヒーロースーツは、右肩の破損がひどかったですが、破損した時の状況を詳しく教えてください」
「……………」
キーボードの音がふと止まる。
「なんで黙ってるんですか」
「…おまえ、怒るもん。絶対」
「なんで僕が怒ると思うんですか」
「ターゲットをかばうヒーローはムボーなんだろ?病院でそう言ってたじゃねーか」
「……ターゲットをかばって、右肩が壊れたわけですね?」
「まあ…その…そんなカンジで」
「だから、どんなカンジだったか詳しく教えてくださいと言っているんです。スーツの破損の状況から、どんな衝撃を受けたかある程度分析はできますが、ヒーロースーツを効果的に強化するには、あなたの状況説明が必要なんです」
「…………そのー。ルナティックのあの、燃えてるボウガンみたいなので撃たれて」
キーボードの入力が、再開される。
「それから?」
「撃たれた時に肩の透明なアレが割れてたから、ルナティックのボウガンは熱だけじゃなくて、なんか圧力のある、衝撃波みたいな効果があるんじゃねーかな」
「肩だけじゃなくて、スーツの他の部分も破損していましたよね。それもルナティックの攻撃で?」
「いんや。グローブ野郎に食らったのは肩の一発だけで…あとは、『ウロボロス』抱えて爆風で飛ばされたから、そのせいだと思う」
「他の部分が破損したのは、全て爆風のせいだ、と」
「はっきり俺も覚えてねーけど…爆風じゃなくて、エレベーターホールの下まで落っこちたせいもある…かな」
「落下の衝撃があったんですか?」
「うん、まあ」
不愛想、というよりは、無表情、というのが近いかもしれない。
機械的に質問を繰り返すバーナビーの顔には、何の表情も浮かんでいない。
時々、ミリ単位で目尻や口角が動くぐらいで、その美しい顔に載せられたパーツは、ロボットか人形のように微動だにしない。
カタカタと、虎徹の言葉を画面に書き取るキーボードの音だけが、痛いほど静かなメカニックルームに響き続ける。
予想はしていたが、心を閉ざしてしまったバーナビーの態度は、それ以上にシビアなものだった。

───そりゃあ、無理はねぇけども。

以前からずっといけ好かないと思っていた職場の中年男にいきなり捕まえられてキスされて、以後もその中年男とこうやって連携を取りながら、バーナビーは仕事を続けていかねばならないのだ。育ちがよくて真面目な彼には、耐えがたい状況だろう。

───でも、普通に、挨拶することも許してもらえねぇのは…キツイ。

自業自得、の四文字は、虎徹の心をずっしり押し潰す。
が、まだそこに残っている虎徹の自尊感情は、挨拶ぐらいしてくれてもいいだろうと、内心でバーナビーに卑しくすがっている。
三日間の入院を終えて、まだ出動はできないものの、虎徹はこうして出社して、ヒーロースーツの修理に協力している。
あの病院で、ナースコールをバーナビーのために押してから、虎徹にできることは何もなかった。看護師を通じて、バーナビーは過労で体調が良くなかったと聞いただけだ。バーナビーへの電話は通じず、倒れるほど疲れていた彼がきちんと帰宅できたのか、家で十分に休養を取れたのか、あのあと会社は休んだのか、虎徹に教えてくれる人間は誰もいなかった。
情報がないと、心配は積もる。
ようやくつながった斎藤への電話で、バーナビーはあの後も普通に出勤していたと聞けたのはついさっき───ほんの、今朝の話だ。
なのに、三日ぶりに会ったバーナビーは、キーボードばかり見つめていて、こちらを見ようともしない。
おまえ体調はもういいのか、という虎徹の問いも、黙殺された。
夜の眠りも浅くなるほど気になっていた問いを無視されて、ずっしり後悔するのと同時に、バーナビーが受けたショックの大きさが、わかったような気もする。

───あんがい。

案外、こいつがぶっ倒れたのって、俺のせいかも。
オーバーワークなとこに男からセクハラされて、あん時は緊張の糸がプチッと切れちまった、とか。
また別方向からの罪悪感は、虎徹の心をさらにぺしゃんこにする。
信頼、とまではいかないけれども、バーナビーは、虎徹に歩み寄ろうとしてくれていた。ヒーロー嫌いを虎徹に告白したことを後悔したのか、謝罪すらしようとしてくれていた。
その初々しい彼の努力を、あのキスで、台無しにした。
ディスプレイの向こうに透けているバーナビーの顔を、もう見つめることができない。
虎徹は自分の腿の上の指に視線を落とした。

───なんでバニーは、メカニック辞めないんだろ。

あの社長におねだりすれば、どんな異動の希望だって叶うだろうに。ああ、メカニック辞めたら「ウロボロス」が追っかけづらくなるからか。それにこいつ真面目だから。ヘドが出そうなくらい嫌いなやつと仕事してても、仕事は仕事だから投げ出しません、とか言いそうだ。ていうか俺、前こいつに説教したような気がする。好き嫌いで仕事投げ出すな、って。あー。説教聞いてくれんのは嬉しいけど、まさかこんなとこでこう効いてくるなんてなぁ…
「…あのビルの中で覚醒した時には、通常インナーモニターで表示されるほぼ全ての機能がダウンしていたのですか?」
バーナビーはまだ質問を続ける気だ。
バーナビーが何を言っているかは聞き取れるが、その内容が、もう虎徹の頭の中には染み込んでこない。

───人にエラソーに説教垂れといて、俺は。

仕事の真っ最中だというのに、自分はこんなにも、「好き嫌い」に左右されて、同僚の質問の内容も理解できないでいる。
腿の上で遊ばせていた指で、虎徹はそっと自らの脇腹をつかんだ。
バーナビーに、プライベート面で無視されていることがつらくて、ただそれだけで、はらわたがしくしくと痛み、はらわたのどこかに挟まっている心までがしくしくと痛み、痛みを感じた脳細胞は、活発な思考を構築することをやめてしまった。

───おいおい、どうなってんだ。テストの前に腹痛起こす小学生じゃねぇってのに。

キーボードの音が、また止まる。
「どうしてまた黙るんですか」
バーナビーの目が、今日初めてこちらを見た。
以前と何も変わらない、涼しげなその目の緑が、綺麗すぎて、哀しい。
「黙っていると、何も進みません。いいかげんに」
「…バニー、」
やっと出た声は、声というより、吐息に近かったかもしれない。
だがまともにしゃべれなくても、最低限の礼儀として、無言でここから立ち去るわけにはいかなかった。
片手で脇腹をつかんだまま、虎徹は椅子から立ち上がる。
「まだ俺、身体の調子が戻んねぇみたいだ。…悪いけど、今日はこれで帰る」
視線を下げて、それだけやっとつぶやいて、メカニックルームのドアへと、きびすを返す。
バーナビーは無言だ。
唐突な行動に出た虎徹を、追いかけてくる気配もない。
その沈黙が、ドアを開けた虎徹の腹を、さらに刺し貫いた。
脇腹をしっかり握りしめて、虎徹は廊下へと逃亡する。
逃亡した背後で、容赦なくドアは閉まってしまう。
ドアの内外の静けさが、ただ、痛くてたまらなかった。




恥ずかしい。
いや、恥ずかしいなんていうのはもうとっくに通り越している気もする。
バーナビーは震えそうになる自らの唇を、どうにか水平に保った。
顔の周りの酸素は妙に薄い気がするし、ここで深呼吸をするなどもってのほかだ。
自在に呼吸することもできず、椅子に座ったまま、バーナビーはピアノでも弾くように、キーボードの上で流暢に指を走らせた。
心と身体ががちがちに緊張していても、指だけは動いた。これでなんとか、この緊張を緩和できないだろうか。
虎徹はもうすでに、バーナビーの異常に気づいている。どんな時も軽口を欠かさない彼が、椅子に座って、不機嫌な顔で黙り込んでいる。
それは当然と言えば当然だった。虎徹がこのメカニックルームに入ってきてから、バーナビーは虎徹とまともに目が合わせられず、会話はおろか、まともに挨拶すらできなかったのだから。

───言葉が。言葉が、出てこない。

今日のこの作業に入る前に、考えられる限りの脳内シミュレーションは済ませたのに。

───おはようございます。
───身体の具合はどうですか。
───まだ休んでいた方がいいんじゃないですか。
───強がりはほどほどにしてください。無理は禁物です。
───この間は、みっともないところをお見せして、すみませんでした。以後気をつけます。
───僕は、大丈夫です。僕のことは気にしないでください。
───まだ医者から、出動のゴーサインは出ていないんでしょう?今日の聞き取り作業も、なるべく早くすませます。

頭の中で用意していた言葉は、虎徹の姿を見た瞬間に、煙のように消え去った。
やっと言えた言葉は、「座ってください。ヒーロースーツの破損状況を説明します」という、ロボットのアナウンスめいたセリフだけで。
虎徹と、目が合わせられない。

───僕は、この間、この人の身体の上で気絶して。

ケガ人の上で気絶するなんて、みっともないなんていう言葉で済ませられるレベルのエピソードじゃない。
僕はどれほどこの人の身体を傷めて、どれほどこの人を驚かせて、どれほどこの人に面倒をかけたかわからない。
「…ヒーロースーツは、右肩の破損がひどかったですが、破損した時の状況を詳しく教えてください」
やっと滑らかに動くようになったバーナビーの唇からは、味気ない質問だけが、するするとこぼれてゆく。
「……………」
虎徹は答えない。
首筋を締め上げられるような恐怖がわき、キーボードの上を走っていたバーナビーの指は、電池が切れたように停止して、こわばった。

───やっぱり、ダメか。

キーボードの上空数ミリで、バーナビーの十本の指はこわばり続ける。
おじさんは、いつも通り、声をかけてくれたのに。
おはよう、おまえ体調はもういいのか、って。
そのごく普通の声を聞いたら、この間自分がやったことが、この間の何十倍も恥ずかしくなって、口元を動かすことすらできなくなって。
いくら仕事と言ったって、挨拶も、謝罪も、返答さえもできない礼儀知らずの僕に、この人がまともな答えをくれるわけがない。
やっぱり、ダメなんだ。
「…なんで黙ってるんですか」
怖い。この場の、この人の沈黙が、怖くて怖くてしかたないのに、こんなとんちんかんな質問だけは、勝手に口から出て。
怖くて息が苦しい。
本当に、見えない何かに首を絞められているような気がする。
「…おまえ、怒るもん。絶対」
低く聞こえてきた声は、子供のいいわけのように、ほんのわずかに、すねたような響きが含まれている。
やっと返ってきた虎徹の答えに驚いて、そして嬉しくて、バーナビーの十本の指は、音もなくキーボードの上に降り立った。
まだ苦しい息を、これ以上ない、触れれば崩れ落ちそうな慎重さで、静かに静かに整えて、バーナビーは質問を続ける。
「なんで僕が怒ると思うんですか」
「ターゲットをかばうヒーローはムボーなんだろ?病院でそう言ってたじゃねーか」
「……ターゲットをかばって、右肩が壊れたわけですね?」
「まあ…その…そんなカンジで」
「だから、どんなカンジだったか詳しく教えてくださいと言っているんです。スーツの破損の状況から、どんな衝撃を受けたかある程度分析はできますが、ヒーロースーツを効果的に強化するには、あなたの状況説明が必要なんです」
「…………そのー。ルナティックのあの、燃えてるボウガンみたいなので撃たれて」
はやく。早くキーボードで入力しないと。
入力を続けないと、この人がしゃべるスピードに、僕の指が追いつかなくなる。
バーナビーはようやく重い指を持ち上げて、キーを打ち始めた。
「それから?」
「撃たれた時に肩の透明なアレが割れてたから、ルナティックのボウガンは熱だけじゃなくて、なんか圧力のある、衝撃波みたいな効果があるんじゃねーかな」
「肩だけじゃなくて、スーツの他の部分も破損していましたよね。それもルナティックの攻撃で?」
「いんや。グローブ野郎に食らったのは肩の一発だけで…あとは、『ウロボロス』抱えて爆風で飛ばされたから、そのせいだと思う」

───また。また指が。

キーボードの上でまた凍りつきそうな指を、心で思いきり怒鳴りつけて、バーナビーは入力を続ける。
張り裂けそうな唇に力を込め、胸の底から噴き出す感情を、懸命に耐える。

───爆風にあおられて、僕は何も覚えていないのに。

そんな間抜けな僕を、あんな極限状態で、抱えた、なんて。
「他の部分が破損したのは、全て爆風のせいだ、と」
質問を続ける声が震えないのは、まさしく奇跡だ。
「はっきり俺も覚えてねーけど…爆風じゃなくて、エレベーターホールの下まで落っこちたせいもある…かな」
これで、「ウロボロス」のメカニックスーツに破損が少なかったわけがわかった。バーナビーを抱きかかえて、虎徹はおそらくあのビルの壁面を、滑り落ちるように下まで落ちたのだ。
擦過の衝撃も、落下の衝撃も全て、ワイルドタイガーのスーツに集中したから、バーナビーはほぼ無傷だったのだ。
「落下の衝撃があったんですか?」
「うん、まあ」
震えてはいけない。
震えてはいけない。
呪文のように念じても、小指でエンターキーを打つ一瞬の間に、手先が震える。

───僕は…この人に守ってもらった。

バーナビーの脳裏で、積もっていた記憶が、なだれ落ちる。
病院で、頭を抱いてくれた腕の、きっぱりとした強さが。
頬に触れた、胸筋の厚さが。
頬を拭ってくれた、唇の柔らかさが。
なだれ落ちて、それらはバーナビーの下半身によどみ、あふれて、熱く騒々しい痛みになった。
嫌悪感はなかった。何度思い返しても、何度考えても、虎徹に触れられて気持ちが悪いという感覚は、なかった。
ないことが、急に恐ろしくなった。
唇なら、もう先に触れていたのだ。
あのビルのがれきの底で、バーナビーは、虎徹の唇どころか、彼の舌や歯茎にまで触れてしまっていた。
あの時はただ必死だった。虎徹が脱水症状で倒れてしまうかもしれない、何かのはずみで死んでしまうかもしれないと思うと、じっとしていられなかった。彼が助かるのなら、後で「ウロボロス」が彼にどう思われようがかまわなかった。
だがメカニックに戻って状況が落ち着いてみると、あのがれきの底での記憶が、バーナビーの意識の裏にぴったりと貼りついて、剥がれなくなっていた。

───僕は、この人を助けたかった。それだけだと思っていた。

けれど。
僕はあの日から、あの唇の感触を、心の底でずっと思い返し続けている。
「…あのビルの中で覚醒した時には、通常インナーモニターで表示されるほぼ全ての機能がダウンしていたのですか?」
もう、自分で自分が何を言っているのか、ほとんどわからない。
ここに座っているのは、バーナビー・ブルックス・ジュニアなんていうやつじゃなく、ただの、アナウンスロボットだ。
虎徹はまた、黙り込んでいる。
今度こそ、なじられるんだろうか。
おまえのような人間の質問には答えたくない、と言われた方が、いっそのこと、楽になるんじゃないだろうか。
「どうしてまた黙るんですか」
処刑を待つ心地で、バーナビーは視線を上げた。
うつむき加減だった虎徹も顔を上げ、ブランデー色の瞳が、まともにこちらを刺してくる。
こちらの目の網膜まで、刺し貫かれそうだ。
「黙っていると、何も進みません。いいかげんに…」
いつもくるくると表情を変えながら輝いているブランデー色は、苦しそうに白い光を溜めて、揺れた。
「…バニー、」
かすれた声で、あだ名を呼ばれる。
虎徹は脇腹を押さえて、椅子から立ち上がった。
「まだ俺、身体の調子が戻んねぇみたいだ。…悪いけど、今日はこれで帰る」
視線は逸らされ、ブランデー色はもう見えない。
拒絶されたのだ。何もかも。
指の震えが抑えられない。
キーボードの上で凍りついていたバーナビーの指は、意図しないまま、カチカチといくつかのキーに触れて、文字を打ち込む力も無しに、そこをきしませた。
足早に部屋を出て行った虎徹に、きしんだキーの音は聞こえなかったようだ。
ずるずると引きずるように両手をキーボードから下ろし、バーナビーは力の入らない手でデスクの縁をつかんだ。
椅子から、立ち上がれない。
僕はまったく、本当に、救いようがないほどの。

───小心者だ。

今のキーの音が、おじさんに聞こえていなくて、よかったなんて思っているのだから。




結局、午後から仕事をすることはできなかった。
斎藤からバーナビーに、クレームがついたのだ。

───顔色が、悪すぎる。今すぐ帰れ。

平静を装っていたところへ、そんな直球の言葉を投げられて、バーナビーの緊張感はがっくりと砕けた。
「タイガーもそうだが、君も、自分の体調に無頓着すぎる。ミスを犯してからじゃ困る。さっさと帰って寝ろ」
メカニックルームの回転椅子から立ち上がり、斎藤はバーナビーの白衣の胸元をつかんで腰を落とさせ、強圧的にささやいてきた。
「経費で落としてやるから、帰りはタクシーを使え。帰宅途中に事故でも起こしたらシャレにならないからな」
強圧的な命令の後で、クフ、と喉の奥を鳴らして笑ってくれた斎藤に、バーナビーは一言も言い返せないまま、メカニックルームを追い出された。
のろのろとロッカールームに向かい、着替えようと自分のロッカーを開けると、緑色のシャツが目に飛び込んでくる。
おとといからずっとそこに掛けてある、虎徹のシャツだ。
バーナビーがコーヒーで汚してしまったシャツは、モノトーンのベストとセットになって、クリーニングショップから戻ってきていた。
あの出動の日以降、虎徹は病院にいたので出社できず、バーナビーは彼にこのシャツを手渡すタイミングをつかめずにいた。
もちろん、そういう時は、虎徹の病室にシャツを届けるのが一番礼儀正しい行為であることはわかっていたが、あの病室での自分の振る舞いを思い出すと、どうしてももう一度そこに足を運ぶ勇気が出なかった。

───先送りにしたって、何も解決しない。

薄暗い自分のロッカースペースに浮かび上がる緑色を見つめて、バーナビーはぎゅっと息を詰める。
全てを先送りにした結果、また今日も、虎徹にこれを返すことができなかった。
そして、どうしても果たさなければならないその努力を、明日に延ばしても、次のタイガー出動要請にまで延ばしても、もはや望ましい結果を出すことは不可能に近くなってしまった。
虎徹はバーナビーを拒絶しているからだ。
バーナビーから虎徹に働きかけなければ、このシャツはもう、永久に彼のもとへは戻らないかもしれない。

───どうせなら、盛大に。

どうせなら盛大に、正面から堂々と拒絶されて、終わりにしよう。
毎朝ロッカーを開けるたびに、このシャツの緑が目に刺さる日々を過ごすのは、ごめんだ。
今度こそ終わらせて、ウロボロスのタトゥーを追うことに専念しよう。
虎徹がどうしても許してくれなければ、メカニックを辞めたっていい。
詰めていた息をそっと口元で解放して、バーナビーはハンガーごと、緑色のシャツをロッカーから取り出した。




頭の芯にまで、酔いは回っていない。
ふらふらと歩きながら、虎徹は空を見上げる。
店にいる時は土砂降りだった雨は、かなり小降りになった。
夕焼けの染みた雲の間から力無く射す陽光が、霧のような雨粒を気まぐれに照らしては、また翳(かげ)る。
会社からほとんどエスケープした後、虎徹は遅い昼食を食べに出た。そこで昼酒に手を出して、小さなその店の主人に顔をしかめられるまで飲んで、やっとここまで───自宅のワンブロック手前まで───帰ってきた。
包帯を巻いた右肩が熱っぽいが、そんなことはどうでもいい。
周囲がまだ明るいのに、そして退院したばかりなのに酔っているという状況がとてもだらしなくて破滅的で、今の気分になかなか合っている、と虎徹は思う。
家にはまだ帰りたくないが、店をはしごする気力がなかった。加えて正直なところ、もうこれ以上は飲めない。酒量としては、いつもの限界の七割程度だが、すでに足に「キて」いる。ここをオーバーすると自力で歩けなくなるのだ。たった三日間の入院だったのに、肩の負傷と、つかの間の脱水症状は、虎徹が思う以上に虎徹の身体を痛めつけていた。

───はは。トシか。年取ると、ヤケ酒も好きに飲めねぇのか。ブザマなもんだ。

酒を過ごしても、叱ってくれる人はもういない。
本当に仕方ないわねぇ、と恐ろしく、そして可愛らしく眉をひそめてくれた彼女はもういない。
ヒーローの自覚に欠けますよと、辛辣に叱ってくれるだろう同僚も、遠いところに行ってしまった。

───何をごちゃごちゃ、考えることがあるってんだ。

心配することなど何もない。
誰に叱ってもらわなくとも、俺はちゃんと家に帰ってシャワーして着替えて寝て、明日の朝も時間通りに起きられる。
明日の朝会社に着くまで、誰とも一言も話さなくてもそれはかなりあたりまえのことだし、会社の同僚が挨拶さえしてくれなくても、それは喜ばしいことだ。
耐えきる自信がなかった、このやっかいで不埒な虎徹の感情から、バーナビーは逃げてくれたのだ。
こんなに喜ばしいことはない。
それなのに。
頭上の帽子を押さえていた手を離し、空に向けて存分に濡らした顔を正面に向け直して、虎徹はのしのしと歩いた。

───……うん?

幻覚を見るほど酔ってはいないはずだ。
ブロックの端から目視でドアの数を数えたが、数え間違えてはいない。あそこは間違いなく自分の家のドアであるはずなのだが。
それなのに、ポーチの階段を上がりきったそのドア前に、誰かが立っている。
誰か、じゃない。
毎日手間をかけているのだろうきれいな巻き毛はぺったりと体積を失い、お気に入りなのだろういつも穿いているカーゴパンツは泥のようにまっ黒く濡れ、まったく良くない顔色で、天敵に出会ったウサギのような目でこちらを見ている、こいつは。
ポーチの階段に足をかけることができない。
霧雨の中、虎徹は茫然と階上の、喜ばしく逃げてくれていたはずの、バーナビーを見つめた。




電話をしたら、逃げられてしまうと思った。
「ああ、そんなら明日、会社の俺のデスクの上に置いといて」と言われておしまいになるのは、目に見えていた。
どうしても虎徹の顔を見て、個人的な話がしたかった。
バーナビーは、手元にたたんだシャツを抱きしめる。
昼過ぎにタクシーでここまで乗りつけたが、虎徹は在宅していなかった。それならば、彼が帰宅するまで何時間でも待とうと腰を据えた。
玄関前で腰を据えているうちに雨が降り出し、雨に濡れないよう、クリーニングのパッケージごと三つ折りにした虎徹のシャツを、ファスナーを開けた自分のジャケットの下に入れて、格好悪く抱え込んでいた。
居留守を使われたり、本当に具合が悪くて虎徹が寝込んでいる可能性も考えないではなかったが、とにかくここにいれば、いつか虎徹に会えるはずだと思った。
「…なに、してる?そんなとこで」
やっと帰宅してくれた虎徹の声は、予想通りに冷たい。
だが、冷たかろうが傷つこうが、先延ばしはここで終わりにするのだ。
「シャツが。クリーニングから戻ってきたので。届けに、来ました」
やっと、言えた。
何か、硬いものをごわごわと口から吐き出す感覚だ。
虎徹はポーチの階下から動かない。
黒い前髪の下の黒い眉が、ほんのわずかにひそめられ、虎徹は驚くというより、何かを哀しむような顔をしている。
「電話ぐらいしろ。そんなもん、会社の俺のデスクの上に置いといてくれりゃよかったんだよ」
言うなり、ハンチング帽の短いつばで目元を隠し、階段に溜まった水気を蹴立てて、そこを上がってくる。
まったく予想通りの言葉を吐かれて、いらだつような、ほっとするような。
横隔膜のあたりがむずがゆくなる気分を耐えて、バーナビーは階段を上昇してくるハンチング帽を、じっと見つめた。
ようやく短い階段を上がりきった帽子の持ち主は、ためらうようにひと呼吸おき、指先でぐいと帽子のつばをつかみ上げる。
つばの下から、ぎらりと現れたブランデー色の瞳は、はしたなく視線を上下させて、バーナビーの全身を舐めるように観察した。

───酒臭い。

虎徹の身体から、酒の匂いがする。
身体の調子が戻らないと言っていたのはやはり嘘だったのか。それとも、調子が戻らないのをおして無理やり酒を流し込んでいたのか。
いや、そんな話はあとだ。
ジャケットの下に抱えていたパッケージを取り出し、折りたたまれていたそれを伸ばして差し出しながら、バーナビーは虎徹に向き直った。
「シャツ、お返しします。ベストも一緒に中に入ってます。本当に、すみませんでした」
虎徹の目が、もう一度帽子のつばの下に隠れる。パッケージさえ受け取ろうとしない。
冷えた身体の底がもっと冷えて、バーナビーはパッケージに爪を立てそうになる。
「…あの、」
バーナビーが再度の謝罪を口にしかけた時、虎徹の唇がひっそりと動いた。
「…かん、……たんだ?」
「え?」
帽子のつばがじゃまで、虎徹の表情がわからない。
彼の顔をのぞき込みたいが、シャツを受け取ってもらわないことには、身動きが取れない。
「何時間、待ってたんだ?ここで」
低い声の問いと一緒に、帽子のつばが震えたように思えた。
「そんなには、…待ってないです」
とっさについた嘘は、語尾がかすれた。
そのとたんに。
「三日前に過労で倒れたやつが、びしょ濡れになってなにやってんだ…!」
絞り出すような叱責と一緒にパッケージを奪い取られ、バーナビーは立ちつくす。
急に空っぽになり、宙に浮いた両腕は、空気以外、つかむものがない。
反射的に自分の濡れそぼったジャケットの裾を握り直すと、バーナビーの身体の中で、小さなスイッチが切り替わった。
脅えが、怒りに反転する。
「あ、あなただって…!」
噛みつかれたって、かまわない。この虎には。
拒絶されるより、ずっとましだ。
「退院したばっかりで!具合が悪いって言って会社を早退した人が、なんでお酒なんか飲んでるんですか!」
虎徹の帽子も、髪も、肩も、バーナビーほどではないが、しっとりと濡れている。
そして、こちらをねめつけてくる、若干充血した瞳も、雨とはまったく違う成分で、ぎらぎらと濡れている。

───いつも、いつも。

いつもこの人と、もっと違う話をしたいと思いながら、この人を前にすると、少しもうまくいかない。
ごまかしも、逃避も、もうしたくないと思って、ここに来たのに。
「…僕の、言うことなんか、聞きたくないのはわかりますけどっ…」
また何も言葉にできないまま帰るのは、もういやだ。
「どうしてそんなに、あなたは、自分の身体に無頓着なんですか…!!家族がいるんでしょう!?ヒーロー続けたいんでしょう!?それなら、もっと、」
怒りで苦しい息を継いだ瞬間、噛みつく勢いで手首を引かれた。
ジャケットの裾をつかんでいた片手を引き剥がされ、バーナビーは数歩、前のめりによろける。
虎徹はバーナビーの手首をつかんだまま、ずかずかと玄関ドアに向かい、バーナビーから奪ったシャツを器用に脇に抱え直して、そこを開錠した。
ぎらりと濡れた目が、少し細められ、バーナビーを振り向く。
「…その言葉、そっくりそのまま返してやる。中、入れ」
ドアが薄く開き、その中の細長い闇も、ゆっくりと口を開けた。




何がどうなっているのか、さっぱりわけがわからない。
虎徹は低い回転音を鳴らす洗濯機に両手をついて、うなだれた。
バスルームからは水音が聞こえている。
この扉の一枚向こうで、あろうことか、あのバーナビーが全裸でこの家のバスタブに浸かっている。
手のひらの下の洗濯機は、雨で真っ黒に濡れていたバーナビーのカーゴパンツと、地味なカラーリングの下着をすすいで乾燥させようと、几帳面に回転し続けている。
なぜこんなことになっているのか、わけがわからない。
二度とバーナビーが、プライベートで話しかけてくることはないと思っていた。
今朝、あんなにもスマートに虎徹を拒絶した彼が、どうしてこの家の前で何時間も虎徹を待ち伏せていたのか。
そんなには待っていないなどと、見えすいた嘘までついて。
安くはないだろう皮のジャケットをずぶぬれにして、どうして彼は虎徹ごときのシャツを雨からかばい続けたのか。
効率第一主義で、無駄な仕事や行動が大嫌いな彼が、どうして電話やメールという文明の利器を使わずに、虎徹とコンタクトを取りたがったのか。
どうしてもわからない。
バーナビーが、その容姿にそぐわない、「予測のつかない性格」であることは経験上わかっているが、今のこの状況は、予測どころの話ではない。

───アワ食って、俺はものすごい間違いをしでかしてる気がする。

透明なフタごしに回転し続ける洗濯機の中身から、虎徹は目を逸らす。
この場合の正解は、いったいどこにあったのだろう。
数日前に過労で倒れた同僚を、ずぶぬれのまま追い帰すのが、やはり正解だったのか。
こうやって、不埒な感情を身体中に溜めこんだまま、その感情の対象である同僚を自宅に連れ込んで強制的に風呂に入れて、彼の下着も正視できないまま、それを洗って乾かしてやることがこの場合の正解だとは、とても思えない。
あんなにバーナビーから逃げたいと願って、そして逃げてきたのに、行き着いたのは、こんなわけのわからない、袋小路で。
うなだれて剥き出しになった自らのうなじを、虎徹は手のひらでゆっくりと掻いた。
バスルームで、また水音がする。
今度の水音は大きい。バーナビーが、バスタブから上がろうとしているようだ。
はっとして虎徹は怒鳴る。
「も少し浸かってろ!着替えとタオル、持ってくっから!」
正解がわからないまま、虎徹は跳びすさるように洗濯機の前から離れた。




脱衣室にタオルと一緒に放り出されていた黒いトレーニングウェアは、着てみると、覚えのある匂いがした。

───あれだ。

バーナビーは思い出す。
これは、この家の、シーツの匂いだ。
「牛乳しかねぇんだよ。嫌いなら飲まなくていい」
突然、目の前に湯気の立つマグカップが突き出され、バーナビーは匂いの記憶を彼方に押しやる。
ことり、とマグカップはローテーブルの上に置かれて、カップを持ってきた当人は足早にテーブル前から立ち去っていった。
ソファに腰掛けているバーナビーの隣りには、見覚えのある毛布がたたまれている。
「まだ寒かったらソレかぶってろ。ヒーター効いてくるまで」
感情の薄い声で言い放った虎徹は、こちらに背を向けて、キッチンへと戻ってゆく。
言葉を挟む隙がない。
いえホットミルクは好きです、とも、ありがとうございます、とも言わせてもらえない。
虎徹はバーナビーの反応にまったく興味がないのだ。
動物嫌いの人間が、迷い猫の面倒を、本当に面倒に思いながらみているように、最低限の快適さだけ与えて、あとは勝手に出て行ってもらいたいのだろう。
何カ月も前に、ここで水を飲ませてもらった時とは、あまりにも状況が違っていた。
あの時の虎徹はおせっかいで、けむたくて、強引で───そしてとても、優しかった。
目前のマグカップを両手で包み、バーナビーは唇に力を込める。
虎徹に対して、ただプリプリと幼稚に腹を立て続け、そんなシンプルなことに気づけなかったあの時の自分は、とてもみっともなかった。
いや、今だってみっともないのだが。

───こんなにみじめな思いまでして、僕は、何がしたい?

どこか、空恐ろしく遠い場所に存在するその自問の答えを、僕はたぶん、よく知っている。
ぶる、と震えた身体の芯が、ひとすじ針に刺されたように痛んだ。
ぎこちなくバーナビーは両手でマグカップを持ち上げ、その白い中身をひとくち、すする。
身体の芯が、流れ込んだ強制的な温かさに、また痛む。
痛みに眉根を寄せると、声が降ってきた。
「嫌いなら飲まなくていいって言っただろ」
顔を上げると、虎徹はローテーブルの向こう岸に立って、遠くこちらを見下ろしている。
「いえ。ミルクは、好きです」
食い下がるように、バーナビーは答えた。
ここで食い下がらなければ、もうあとがないような気がする。
「じゃあそんな顔してねーで、もっとマシな顔しろよ」
マシな顔。
マシな顔とはどんな顔だろう。
違う、今はそんなことを考えている時じゃなくて。
どんなに小さな誤解でも、それをちゃんと解いていかなければ、僕は、ここにいる意味がない。
「…熱くて、お腹がびっくりしただけです。不快に思ったなら……ごめんなさい。おいしいです」
口から出た謝罪は、まるで子供のそれだ。
もっとスマートでクレバーな答えが、他にいくらでもあるだろうに。
すがるように握りしめたマグカップの取っ手をやっと傾けて、バーナビーはもう一度、その中身をすすった。
虎徹は立ち去らずにこちらを見ている。沈黙の中でその視線にさらされているのがいたたまれなくて、バーナビーはおそるおそる目線を上げる。
目が合う寸前に、虎徹の頬骨が、ぴくりと震えた。
頬骨の上にはめこまれた瞳は、また、冷たく固まっている。病室で見つめられた時と同じの、あの、珍獣を観察する目つきだ。
「………さっきも言ったけど、」
沈黙を破った虎徹の声は、喉の底から無理やり引きずり出してきたように、重苦しい。
「なんで俺に電話しなかった?俺の着替えはあのシャツ一枚じゃねぇんだよ。そんなどーでもいいもんを、なんでわざわざ?明日も俺は会社行くんだぜ?俺のデスクに置いとくなり、トランスポーターに入れとくなり、面倒かからねぇ方法はいっぱいあっただろ?」

───やっぱり。

迷惑、だったんだな。
指の関節が痛むほど、バーナビーはマグカップの取っ手を握りしめる。
深く考えなくてもわかることだ。嫌いな人間が、いくらでも取り換えのきくどうでもいい服を抱きしめて、人目もはばからず自分の家の玄関に居座っているなんて、迷惑以外の何物でもない。
ストーカーだと通報されたって文句は言えない。
ここに来る前からそんなことはわかっていたのに、指が震える。
震えを阻止しようとカップを握りしめても、震えは肘にまで届き、カップの中身までが、ゆっくりと波立つ。
それでも、決めてきたことは最後までやり通さなければならない。
「あ、なたの」
ごと、とマグカップをテーブルの上に戻す。
「あなたの顔を見て、謝りたかったんです」
マグカップの代わりに自分の腿を握りしめながら、バーナビーは波立ちの治まらないミルクの被膜を見つめた。
「謝るって…だから、そんなのもういいって、言っただろ?」
「コーヒーのことだけじゃないです。僕は…あなたにちゃんと、謝ってなかった。ヒーローが嫌いだと言ったことも、、ヒーロースーツ付属のチップの説明をしていなかったことも、病院で倒れて迷惑かけてしまったことも」
「え…?」
「ほんとは今朝、謝らないといけなかったのに、それが、できなかったので。………だから、」
バーナビーは顔を上げる。
視線の先には、明らかに困惑している虎徹が、身体ごと凍りついたように立ち尽くしていた。




こんな夢は、何度か見た。
リビングのテーブル脇に立ち尽くしたまま、虎徹は動けない。
夢の中のバーナビーはとても素直で妖艶で、虎徹がその白い身体にどんな乱暴をしても、悩ましげに虎徹を抱きしめてくれたものだが。
今、ソファに座ったまま食い入るようにこちらを見つめてくるバーナビーは、ジョギング用の黒いトレーニングウェアのせいで妖艶からはかなり遠かったが、その素直さは、夢のように現実離れしていた。

───なんかの…罠か?これ。

ソファに座ってるこいつは実はバニーにそっくりな斎藤さん新開発のアンドロイドかなんかで会社をさっくりキューティエスケープした俺を呼び戻すためにバニーの声でプログラミングされた「対タイガー懐柔作戦」をこなしてるとか?いやそれにしたってこのアンドロイドのプログラミングは激しく間違ってるだろ第一バニーがこんなにガキみたいにスナオに俺に謝りまくるわけねぇしよく見たらこいつぶるぶる震えながら自分の膝つかんでるしリアリティってもんがなさすぎだろああ、あんまり力入れたら爪がひっかかってソコほつれちまうよ勘弁してくれよその黒ウェアけっこー気に入ってんだよ高かったからもったいなくてあんま着てなかったけど。
酔いはとうに冷め、思考は四方八方にはじけ飛ぶ。
ウロボロスの情報のためなら、バーナビーは自分の身体さえダウンタウンのチンピラの前に投げ出しかねない過激な性格の持ち主だ。
過激で、そして───一途だ。
亡き両親の仇のためなら千歩譲って捨て身もしかたがないかと思えても、職場のセクハラオヤジを更生させるためにバーナビーがここまで(ある意味)捨て身の策をめぐらす必要は、まるでない。まるっきり、ない。

───この状況が、こいつや誰かの策略じゃねぇんなら。

はじけ飛んだ思考を、虎徹はゆっくり、ゆっくり拾い集める。
こいつは職場のおっさんにセクハラされたことなんか全部すっ飛ばしてて。
こいつはこの何日間かで起こったあれやこれやを自分解釈で勝手に腹に溜めこんで。
上手く発散できなかったソレを、今ここで、発散してるのか?
「すみませんでした」
思考が集めきれないうちに、バーナビーの形のよい唇が、きっぱりと言葉を吐く。
「僕はヒーローが嫌いです。それは変わりません。でも僕は、ヒーロー業を真面目に務めようとしているあなたのことは」

嫌いじゃないんです。

───あ。友恵。助けてくれ。

聞いてしまった言葉が、虎徹の脳内でわんわんと反響する。
「災害救助用のチップのことを、あなたに説明しておかなかったのも僕のミスです。説明書なんかに頼らず、まず最初にあなたに口頭で伝えておくべきでした。命に関わることです。僕の認識が甘かったです。本当に申し訳ありません」
反響が終わらないうちに次の言葉がたたみ込まれて、虎徹は声も出せない。
「あの、それから。病院でのことですけど」
きっ、とこちらを凝視していた瞳が、ふとうつむいた。
金色の長いまつ毛も、一緒に伏せられる。
小さな小さなバーナビーのそのアクションが、虎徹の身体の深い場所に、えぐられるような苦痛を呼んだ。

───友恵。友恵。俺はもう、

身体の深い場所で声もなく叫んでも、返事はない。
返事がないのなら───自分でなんとかするしかない。
「バニー」
ひゅう、と鳴りかけた喉を気力で抑えて、虎徹はバーナビーの言葉をさえぎった。
伏せられていた金色のまつ毛が、不安げな影を作って、もう一度持ち上げられる。
影の下で濡れている緑の目が、こちらを刺すように見つめてくる。
その透明さが、虎徹の身体の中をまた、えぐった。
この苦痛は、感覚のはるか底流で、快楽と繋がっている。
快楽は過ぎると痛みになるし、痛みもまた、過ぎると快楽になる。
それを知っているから、どちらも選びたくない。
身体の中の苦痛を少しでもなだめようと、虎徹は自らの胸元を、右手で覆った。

───俺は選べない。俺はそんなに強くない。友恵。頼むから何か言ってくれ。

「おまえ、さ。俺が気持ち悪く、ねぇの?」
まだ声がちゃんと出るのが、不思議でしかたない。
「どうしてですか」
こんな質問をとぼけるなんて、このウサギはなんて残酷なのだろう。
「病院で。ベッドで俺がおまえ捕まえて、おまえが気絶して。俺はあんなことが、平気でできる人間だぞ。おまえはなんとも思わねぇのか?」
「気持ち悪く思っているのは、あなたの方じゃないんですか」
「は?」
「あなたは今朝、僕との仕事を中断しました。あれは、ぼ、くのことが、不愉快だったからじゃないんですか?」
何を言っているのだろう、このウサギは。
「なんで俺がおまえを不愉快に思わなきゃなんないんだよ?」
「さっきも言った通り、僕はあなたに迷惑しかかけていません」
「メーワクって…あのな…」
「これだけ迷惑をかけたら、愛想つかされてもしかたがないのはわかっています。だけど、だけど僕は、あなたに避けられたくない」
ドッ、と。
虎徹の右手の下で、心臓が拍を鳴らす。
肋骨まで、爆発しそうだ。
「以前と同じように、普通に、仕事がしたいんです。あなたと」
苦痛か、快楽か。
「おねがい、します。僕を避けないでください」
選べなかったら。
どちらも得てしまったら。
「どうしても…僕がきらい、ですか?」
どちらも得てしまったら。
もう、戻れなくなる。
胸元をつかんでいた手を、虎徹は放心した動きで下ろす。
ろうそくの火が燃え尽きるように、身体の中の痛みは突然消えた。
代わりに胸の中を駆け上がってきたのは───冷えた、いらだちだ。
怒りたいわけじゃない。
ただ、いらいらする。
バーナビーは虎徹の実情に気づいていない。
元通り、真面目なメカニックと真面目なヒーローに戻って、バーナビーは虎徹の身体に張り付いてスーツのメンテナンスをしてくれて、メカニックルームでふたりきりで談笑してくれて、虎徹の服が汚れたら喜んで白衣を貸してくれる、というのだ。

───ごめんだ。そんなのは。

虎徹は歯を食いしばる。
いらいらする。
バーナビーの実情を知って、嫌われていないと知って、嬉しいと思ってしまった自分の下劣さにいらいらする。
その下劣をまったく感知していないバーナビーにいらいらする。
感知されれば、何もかもおしまいになるというのに。
袋小路だ。
感知されても、されなくても、どこにも虎徹の逃げ道はない。
どうしようもなく悲しくて───悲しむことすら恐ろしくて、いらいらする。
袋小路すら、壊してしまいたくなる。

───そういえば、壊し屋だっけ。俺。

正義の壊し屋ワイルドタイガーが、正義もモラルも友情も、壊しちまうのか。
この場にふさわしい皮肉を自分で思いついて、自分で思いついたそれに、みっしりと、心まで潰される。
床に貼りついていたかのように重い足を引きずり、虎徹は一歩を踏み出した。
動けなかった身体を動かすと、いらだちが、身体の中で悲鳴を上げた。

───さっさと歩け。
───歩いて、そこの階段を上がって。
───バニーなんぞ無視して、ベッドで毛布…の代わりにシーツでもひっかぶって、寝ちまえ。

そうすれば、バーナビーはわかってくれる。
嫌いなのかと問われてそれを否定しないのは、嫌いだという意志表示なのだから。
そうすれば、バーナビーは、この間のように勝手にこの家から出て行ってくれるだろう。

───俺は選ばない。

無駄に速い鼓動を続けるこの心臓が、肋骨と一緒に爆発したって、俺はこいつを選ばない。
ソファに座ったままのバーナビーにくるりと背を向けて、虎徹はロフトに続く階段を目指した。
リビングのテーブル脇から、階段にたどりつくまでの数秒が、永遠のように長く感じる。
その永遠を粉々に砕く勢いで、飛ぶような足音が、虎徹の背後に迫った。
抑えた吐息の気配がする。

「…虎徹さん」

振り向くことが、できない。
聞き慣れない単語に、身体中が凍りつく。
なんだ?
今こいつは、なんて言った?
凍りつき、ひるんだその隙に、背後からぎっちりと肘をつかまれる。
もうあと数センチで、階段のふちに手が届くところだったのに。
「こ、たえて、」
いつも若々しく透き通っている声が、震えをにじませて、振り向かない虎徹の耳に吹き込まれる。
「答えて、ください。僕が嫌いですか」

───これは、復讐か?

ほんの数日前に、なんでヒーローが嫌いなのか答えろと、メカニックルームでバーナビーの肘を捕まえて因縁をつけた、仕返しなのだろうか。
あまりに状況が出来すぎていて、笑いすらこみ上げてくる。
これは。
真正面から、壊せってことか?
こいつに答えて、真正面から罵られて、ヘタしたら真正面からハンドレッドパワー使われて、頭蓋骨がヘコむくらいなパンチ食らって、こいつの将来も、俺の未来も、真正面から、壊せって?
やっぱり俺は間違ってた。
ずぶぬれだろうと何だろうと、最初っから、こいつを追い帰せばよかった。追い帰されてこいつが風邪ひいたって、もう一回倒れたって、こんな結末に比べたら、何百倍も何千倍もマシだった。
バーナビーにつかまれた肘が痛くて、とうとう唇から笑いがこぼれる。
痛くて。
嬉しくて。
おかしくて。
意識が遠のきそうなぐらいに、バーナビーがいとおしくて憎くて。
歯列さえ砕けそうな笑いをこぼしてこらえて、虎徹はバーナビーを振り向いた。

見開かれた緑の目が、悲鳴をこらえている。

つかまれていない方の手で、虎徹はバーナビーの肩を引き寄せた。
食らいつくように、間近になった唇を───彼の悲鳴の出口を、唇で塞ぐ。
あんなに触れたかった柔らかさは、ただの封印のしるしになって、虎徹の唇の下で、硬直した。
「…ふっ、…ぅぐっ…、」
バーナビーは何か言おうとしている。
悲鳴も罵倒も、もう聞きたくない。
バーナビーの肩関節をがっちり握り直し、離れようと抵抗する力を封じる。
バーナビーにつかまれたままの肘と、ひびの入った鎖骨が痛むが、その痛みは膜を一枚かぶったように、虎徹の中では他人事の感覚だ。
「……ぅ、……」
舌を舌で押さえつけると、抵抗は止んだ。
力の抜けたバーナビーの舌が、いまいましい。
それを根元から舐め上げたい衝動を耐えて、虎徹はバーナビーの肩を突き飛ばした。
半歩ふらつき、後ろにのめったバーナビーは、それでも虎徹の肘を離さない。
「帰れ」
自分でも驚くほど冷静な声で、虎徹はバーナビーに命じた。
「帰れよ。俺はアポロンメディアを辞める。おまえとはもう会わない。今日かぎりで、全部、終わりだ」
一気に、吐き捨てる。
言葉に出してしまうと、胸の中に抑え込んでいた感情が、ぽきりと潔く折れたような気がした。
バーナビーの表情はわからない。
虎徹の肘を握ったままうつむいて、もう片手でバーナビーは自分の唇を拭っている。荒い呼吸は、虎徹が注ぎ込んだ吐息を、全て吐き出してしまいたいかのようだ。
「離せよ」
捕らえられた肘を、バーナビーの腕ごと振ると、また鎖骨が痛んだ。
バーナビーは指をゆるめない。
濡れそぼった緑の目が、長い前髪の間から、こちらを見た。
「終わりって、なんですか」
きっぱりとこちらをねめつけてくる険しい緑色には、今にも崩れ落ちそうな脆さが溶けている。
「僕ともう会わないって、どういうことですか。会社辞めて、どうするんですか。ヒーローも、辞めてしまうってことですか?急に、そんなこと……許されると、思ってるんですか」
連射される質問には、涙のように湿った怒気が含まれていた。