翼のある使者 -4-



考えてみれば、無理もない話だった。
この数週間、アルフォンスは夜ごとにうなされるエドワードに付き合い、スケジュールを詰めに詰めて試作ロケットを打ち上げ、その翌日は日の照りつける屋外のカフェで客人の長話に付き合わされたあげく、夜はあんなこんなで睡眠を充分に取れていなかったのだ。今まで彼が、体調を崩さなかったのが不思議なほどだ。
一昨日とは全く立場を逆にして、アルフォンスとエドワードは肩を並べて、昼日中に家路をたどる。
このぐらいの熱などなんでもない、一人で家に帰れるというアルフォンスの主張を、エドワードはがんとして聞き入れなかった。
どうしても昨夜の出来事とエドワードを意識しすぎて、周囲の目が気になるアルフォンスとしては、なんとしても一人で行動したいところではあったが、エドワードはなぜか、静かに怒っているらしい。その無言の迫力に対抗出来る気力が、今のアルフォンスには絶望的に足りなかったのだった。

───なんで、怒っているんだろう。エドワードさんは。

午前中にあれだけ失敗を重ねれば、誰だって傍で見ていて腹が立つだろうが、エドワードは、他人の失敗をずるずるとしつこく非難するような人間ではない。

───やっぱり。この間と同じに、僕が、エドワードさんを正面から見られないのが、いけないのかな。

ゆだる脳内の思考は、まとまるはずもない。
まっすぐ歩いていても、アルフォンスの前方遠くの石畳は、その配列を乱してゆらゆらと揺れる。
熱は、何度くらいなのだろう。
揺らぐ視界を認識して初めて、アルフォンスは自らの体調が普通でなかったことを自覚する。
妙に暑いのも喉が渇くのも、夏に近づく季節のせいだと思っていた。頭が重いのは、エドワードのことばかり考えているせいだと思っていた。
エドワードがまぶしくて、直視出来ない。
それだけは、熱のせいではないと思う。
アパートへ帰る道中、エドワードはとうとう一言も口をきかなかった。




「薬、なかったらオレのをやるから。寝て待ってろ」
アパートに着くやいなや、エドワードはよろめくアルフォンスを突き飛ばすようにベッドに座らせ、断りもなくアルフォンスのクロゼットからアルフォンスの着替えを引っ張り出してベッド上に投げつけてきた。
手際の良い一連のその動きを、アルフォンスはベッドに腰掛けたままぼんやりと見守った。
「ほら。さっさと着替えて寝ろ」
「薬。いつも、持ち歩いてるんですか?」
自らの病状にあまり関係のない質問をすれば、また怒られそうな気もしたが、ずっと黙っていたエドワードが口を開いてくれたのが嬉しくて、アルフォンスは熱で火照る頬をぎこちなく緩めてしまう。
ふらついている病人からまさか質問されるとは思わなかったのか、エドワードの目が、さっと薄い困惑の色に染まった。
「あ…ああ。腕と足、病院で診てもらう時に医者がくれんだよ。鎮痛剤っつーか解熱剤っつーか」
「いつも、飲んでるんですか?」
「いや。痛む時だけだ」
逃げるように顔を逸らしたエドワードの顔が見たくて、アルフォンスは重い身体をやっと傾けて、座ったまま彼の手首を捕らえる。
ベッド脇に立ち尽くし、振り向くエドワードはやはり不機嫌だ。
それでも、二人きりで見つめ合えるのが、嬉しい。
並んで立っている時はいつも見下ろしている小柄なエドワードを、こうして見上げるのは、とても新鮮だった。
「エドワードさんは、僕の前で、痛いって言いませんよね」
エドワードはさらに不機嫌な顔になる。
だがそれはきっと、彼の困惑を隠すための虚勢だ。

───踏み込みすぎたって、かまわない。

発熱というものが、どこか、アルフォンスの感情の歯止めを効かなくしていた。
エドワードの不器用な思いやりが好きで、虚勢すら好きで。
けれど虚勢はもう、ほどほどにして欲しい。
「また次に、痛い時があったら、僕に教えてください。僕の前で薬を飲んで、それで僕に看病させてください」
「な…に、言ってんだ」
「僕に隠さないで」
熱でじんわりと重いまぶたをなんとか支えて、アルフォンスはエドワードを見つめる。
虚勢を張りながら、ひどく困惑しているエドワードが好きでたまらない。
本当は、その頬ごと、金のまなざしを捕まえたい。
もう目を逸らせないように、昨夜のように、両手でエドワードの頬を包んで、どこまでも深く、水を含んだエドワードの目の中に入り込みたい。
どこか遠くからやって来た耳鳴りが、規則正しいモーターの振動音のように、アルフォンスの聴覚を塞ぎ始めた。
「おまえ。ホントに、もう寝たほうがいい」
振動音の合間から聞こえてくるエドワードの声は、とても優しくて、とても残酷だ。
「いやだ。ちゃんと聞いてください」
手首を自分の身体へ引き戻そうとするエドワードを拒んで、アルフォンスは力一杯、掴んでいたそこを引っ張った。
よろめいたエドワードの腰を引き寄せ、立っている彼の腹部に両腕を回して、すがりつく。
「あなたが痛いなら、僕もそれを知りたい」
何を言っているのか、もう自分でもよくわからない。
「あなたが痛いのに、僕がそれを知らないでいる、そんなのは嫌なんです」
熱でまぶたが重い。
でも、言いたいことを言ってしまわなければ、眠れない。
「約束して。でないとエドワードさんの薬は飲めない」
病人の醜態にすっかりあきれたのか、エドワードは無言だ。
数瞬のちに、アルフォンスの両肩に、ぽんとエドワードの手が置かれた。
その両肩の感触に安堵して、アルフォンスは彼にすがりつく腕の力を少し緩める。
「脅迫、する気かよ…病人のくせに」
頭上から降ってくる声は、苦笑しているのか、あきれかえっているのか。
「脅迫だと、思ってくれるんなら…嬉しい、です」
大きくなる耳鳴りに邪魔されて、しゃべる自分の声すらよく聞き取れない。
エドワードは、長くため息をついたようだった。
エドワードの体幹が、呼吸をするためにゆっくりと膨張し、収縮するのを、アルフォンスはそこに押し付けた自らの耳朶で感じ取る。
どのくらい、経っただろうか。
「………わかったよ」
沈黙の後、エドワードの両手のひらがアルフォンスの肩の上で跳ねて、そこをぽんぽんと叩いた。
「わかった。次は、おまえの目の前でごっそり薬飲んでやるから。だからいいかげん横になってくれ」
熱にうかされていても、その約束は不誠実なものだとわかる。
だがアルフォンスの耳の中のモーターはますます回転数を上げ、アルフォンスの思考能力を根こそぎ削りつつあった。
「約束ですよ」
「ああ」
世にもはかない約束を確認して、アルフォンスは着替えもせずにベッドに沈み込んだ。
頭の上の方でエドワードが何か言っているが、もうほとんど聞き取れない。

体調が悪いことを、お互い隠さない。
その気恥ずかしい約束を最初に破るのが自分であることを、この時のアルフォンスはまだ予測出来ずにいた。




アルフォンスの熱は翌日には下がった。
だがその朝、エドワードは「治った」と主張するアルフォンスを、ほとんど腕力でベッドに押し込み、一人で研究室に出掛けた。

───この間、オレは素直におまえの言うこと聞いて、ちゃんと寝てたぜ?なのにおまえはオレの言うことが聞けないってのか?

恨みがましくベッドの中から見上げてくるアルフォンスの青い目を、勝ち誇ったふうに見下ろしてやると、エドワードの意趣返しを悟ったのか、アルフォンスは不満げに閉じた唇を、嘆きとも笑いともつかない形に歪めたのだった。


「アルフォンスの様子を見てやりたいから今日は早く帰らせて欲しい」と研究室の仲間に切り出すのは、さすがのエドワードにも少し勇気が要ることだった。
もちろん、アルフォンスとの関係の真実が、誰に知れているわけでもないことは確信している。だが、昨日のアルフォンスのあからさまだった挙動の不審さは、エドワードがいつも以上に冷静にふるまってカバーしなければならないのだ。
一方で、くだらぬ「勇気」を必要としてしまった自分の小心さに、エドワードは自ら舌打ちせずにはいられない。
昨日のアルフォンスのぎくしゃくとした行動を思い出すたびに、エドワードの中はいらだちと切なさでいっぱいになる。
こんなにいらだたしいと思うのは、自分も一昨日の夜のことと、アルフォンスのことを、みっともないほどに気にしているからなのだ。
アルフォンスの唇の感触を、手のひらの温度を、吐息を、なんでもない顔をして、こんな白昼に際限なく思い出している。
時折わずかに痛む腰が、彼との行為を嫌でも証明している。
顔に出さない分、その回想行為はアルフォンスの挙動の不審さよりもずっと罪が重いと、エドワードは自己嫌悪していた。
そのうえ、アルフォンスはエドワードに構いすぎたせいで体調を崩したのだ。
夜ごとにうなされて叫ぶ居候のせいで、きっと、最近のアルフォンスは充分に睡眠を取れていなかったに違いない。
迷惑になるからおまえの家に泊まるのはもうやめたい、と、昨日の帰途で、よほどエドワードはアルフォンスに言いかけたのだ。
人一人の生活を、自分の勝手でめちゃくちゃにしてしまったことが腹立たしくて、アルフォンスにどう謝ろうかとくどくど考えているうちに、昨日はアパートに着いてしまった。
そして間抜けにも、アルフォンスには言いたくなかった医者通いがばれて、あろうことか、よろめくその病人に捕まえられて「薬は隠れて飲むな」と説教されて。
エドワードは険しい顔で歩を進め、アルフォンスのアパートを目指す。
アルフォンスを連れて帰った昨日よりも時間は遅いが、初夏の日はまだまだ長い。
降り注ぐ陽光の中、エドワードは歩いているだけなのになぜか上がって来る息を、懸命に耐えた。
一昨日の行為は、単なるアルフォンスの衝動の結果で、エドワードにとっては、単なる彼への恩返しであり、贖罪であるだけのことだった。
それなのに。
上がる息を、肩を揺らしてエドワードは吐き捨てる。
それなのに、この高揚は、何なのだろう。
吐き捨てても吐き捨てても、熱くざわめく肺の中から、とめどなく透明な何かが駆け上がってきて、それはエドワードの唇をこじ開けてあふれてゆく。
またあのアパートに帰れば、アルフォンスに会える。
アルフォンスの顔色は良くなっただろうか。
アルフォンスの熱はぶり返していないだろうか。
アルフォンスはグレイシアさんが差し入れてくれると言った昼食を、ちゃんと食べただろうか。
アルフォンスは。
アルフォンスは。

───アルフォンスは、オレがドアを開けたら、やっぱり笑って迎えてくれるだろうか。

目を閉じて深呼吸したいのをこらえて、エドワードは歩き続ける。
あまりに軽やかに高揚している自分が、どうしても恐ろしかった。





「ええ。お昼もちゃんと食べてくれて。もうすっかり具合がいいみたいだったわ」
アパート一階の店先で、帰宅してきたエドワードに微笑みながら、グレイシアは言った。
アルフォンスは今日一日、おとなしく寝ていてくれたらしい。
「…ありがとう。本当に」
「どういたしまして。あ、エドワードくん?」
短く礼を述べて、正面玄関に踏み込もうとしたところを唐突に呼び止められ、エドワードは振り向いた。
「え?」
「あのね。疲れてるのに本当に悪いんだけど、少しの間、お店を見ててもらえないかしら」
グレイシアの急な頼みに、エドワードは小さく目を見張った。
「アルフォンスくんの夕食にと思って、スープを作っておいたの。今お鍋を持って来るから、待っててちょうだい?」
「え、あの、」
もう店先を数歩出て、グレイシアは自室へと歩きかけている。
「多めに作ったから、エドワードくんもよかったら食べてね。お客様は来ないとは思うけど、もし来たら、待っててもらってね。すぐ持って来るから」
ひらりとアパートの中に消えたグレイシアを呼び止めるのを諦めて、エドワードは突っ立ったままかぼそくため息をついた。
エドワードは正式な形で、アルフォンスとここに住んでいるわけではない。
下宿屋の主人にしてみれば、ろくな挨拶もなしに店子の部屋に入り浸り、半ばもうそこに住み着いているエドワードという存在は、そこらのごろつき同然である。
それなのに彼女があんなにも親切なのは、ひとえにアルフォンスの人徳のおかげだろう。
アルフォンスのためにも、自分はここにこれ以上いてはいけない。
今日こそアルフォンスに言うのだ。
もうここには泊まらない、と。
エドワードは視線を落として店先の花の群れを眺める。
空は明るいが時刻はもう夕刻だ。朝、わさわさとバケツの表面一杯にひしめいていた色とりどりのチューリップは、残りが二本で、それぞれ心もとなくバケツの縁に茎をよりかからせている。
花はたいてい、花束として売れていく。花を一本、二本と買いに来るのは、子供か、上機嫌で通りかかった酔っ払いくらいのものだ。
幼い頃、花を買うなど想像もつかなくて、遊び慣れた林を隅々まで巡って、母に渡す花を探したことを、思い出す。
この街では、子供はきっと、数枚の硬貨か紙幣を握り締めて、あの時のエドワードと同じ気持ちで、こういう店に来るのだろう。
「やあ」
突然、背後から。
もう聞きたくもなかった、低く穏やかな声が、エドワードのつかの間の感傷を破った。
振り向くだけで、臓腑が冷える。
いつの間にかエドワードの背後近くに歩み寄っていたその男は、相変わらず人懐こく、だが気まずそうに笑んでいた。
「そんな顔をしないでくれ。花を買いに来たんだ」
渋面で武装しながらも、エドワードは、身体の芯からどこか、力が抜けてゆくのを感じていた。
ああ。
一日は二十四時間あって。
そのうち七時間くらいは眠っていて。
残りの十七時間で人間はメシ食って仕事して休憩してシャワーを浴びて。
寝ても覚めてもロケットのことばっかりで、オレにはふらふら遊び歩く時間さえもなくて。
それなのに、こんな、二度とないタイミングで、こいつが来るのは。
身体から力が抜け切り、いっそすがすがしい。
エドワードは笑みながら唇を噛む。

───よほど運命は、オレが憎いらしい。




開襟シャツに、すすけた色の上着。
一昨日とほぼ同じ服装のマスタングは、全くの手ぶらだった。
「君が、店番してるのか?」
エドワードの肩ごしに、無人の店の奥を、彼はひょいとのぞき込む。
「いいや。もうすぐここの人が帰って来るから、買いたいもんがあるならその人に言ってくれ」
エドワードが大げさに顔を逸らすと、後ろで高く結った髪も、ふらりと揺れる。
そのエドワードの髪の先端に、マスタングのため息が届いた。
「君に会おうと思って、来たわけじゃないんだが」
言い訳めいた申し開きが、エドワードの神経を逆撫でする。
マスタングから顔を逸らしたまま、マスタングに見つめられるまま、微動だにせずに、びりびりと神経が腫れ上がるような不快感をエドワードは噛み締める。
通りの向こうの方で急発進する車のエンジン音が、二人の間の沈黙に、静かに忍び込んだ。
彼方に消え去ろうとするエンジン音にかぶせて、マスタングは一回目とは色彩の違うため息をつく。
「……やっぱり、やめておくよ。言い訳は」
その自嘲を帯びた声に、エドワードは思わず顔を上げたくなるのを、すんでのところでこらえた。
「花を買いたいと思っていたのも、君にはもう会えなくても仕方がないと思っていたのも事実だ。でも」
続きの言葉など聞きたくもないが、グレイシアはまだ帰って来ない。今は逃げ出すわけにはいかない。
「でもここに来れば、ひょっとしたら、君に会えるかもしれないと思っていたのも事実だよ。花屋は他にもあったしね。君は気分が悪いだろうが、私は嬉しいよ。この偶然を、神に感謝したいくらいに」
こちらの世界の人間は、本当に「神」が好きだ。
そのくせ、それだけを信じきることもせず、それだけでは満足せずに、宇宙の真理を追求してみたりしている。
エドワードの中でふいと浮かんだ嘲りは、いっそうの自嘲になって、エドワードの意識を痛めつける。
「神」の存在でこの世界が完結しているなら、エドワードという存在は、とっくの昔に、死という状態の定義も与えられずに、消滅していなければならないからだ。
こちらの世界とその住人たちの、寛容な不完全さによって、エドワードは生かされている。
彼らの寛容さにすがっている自分が、そしてその寛容さの象徴である目前の男に腹を立てている自分が、いっそ可笑しい。
「…偶然を、最大に生かしたい」
目前の男は、エドワードの口の端に浮かんだ冷笑にもひるまずに、言葉を続けた。
「今日は、宇宙の話は無しだ。ロベルトは研究以外に興味はないし、私には今、連れがいない。これから30分ほど、時間をもらえないだろうか」
本当に、この男はなんと寛容で、愚かで、しつこいのだろう。
エドワードは顔を上げた。
「晩メシはつきあわねぇぜ」
マスタングは、顔をほころばせた。
「そこまで贅沢は言わないさ。単なる散歩だと思ってくれ」
「うさんくせぇな。イヤだね」
さらなる冷笑を浴びせられても、マスタングはいっそう楽しげだ。
エドワードに顔を向けてもらったことが、嬉しくて仕方ないらしい。
憎らしい笑顔に言葉でアッパーカットでも食らわせてやろうと、エドワードが一息ついた時、アパートの玄関から柔らかい声がした。
「まあ、いらっしゃいませ」
両手で鍋を持ったグレイシアは、いそいそと店先に戻ってくる。
手持ち無沙汰で立ち止まっているマスタングの姿を見て、少しあわてているようだ。
「ごめんなさいねエドワードくん。あら。お友達?」
手早く鍋を引き渡しながら、グレイシアはエドワードと、そばの「客」を見比べる。
マスタングも不思議そうにエドワードと鍋を見つめたが、すぐにグレイシアが店主であることを理解したらしい。
「そのチューリップをください。ええ、一本でいいんです。白…いや、赤い方を」
「もう最後ですから、よろしければ二本ともお持ちくださいな」
「いえ。一本でいいんです。包装もなしでいい。そのままで」
「包まないと、早くしおれますよ?」
「大丈夫です、近くですから」
懐から出した紙幣をグレイシアに渡し、全く人相風体に似合わない赤いチューリップを手にして、マスタングは抜け目なく女主人に切り出した。
「…ロイ・マスタングと申します。彼を少しお借りしたいのですが」
指差すように手のひらを向けられて、エドワードは言葉もない。
さっさと逃げ出さずに、ぼんやり鍋を捧げ持ったまま、馬鹿面でマスタングとグレイシアのやりとりを見守っていた己の機転の利かなさを嘆いても、もう遅かった。
「かまいませんか?彼が、あなたの大事なお使いの途中というなら、またにしますが」
グレイシアは驚いたように目前の二人をもう一度見比べ、すぐに微笑んだ。
「まあ、とんでもない。エドワードくん、本当にありがとう。お友達なのね、いってらっしゃいな?」
「違うんだ、あの…こいつは」
「いいのよ。じゃあ、これは私が後でアルフォンスくんのところに持って行くから」
鍋を奪い返され、退路を絶たれ。
エドワードは、傍らの男に本気でアッパーカットを見舞いたくなった憤怒を、かろうじて耐えた。




二人で並んで歩き、一つ目の角を曲がり、グレイシアの姿が見えなくなったところで、エドワードは歩みを止めた。
「どういうつもりだ、あんた!散歩に行きたきゃ一人で行けばいいだろ!?」
「落ち着いて。君の声はよく通る。ここだとまだ、花屋のご主人に聞こえるぞ」
マスタングは全く動じずに数歩歩きかけ、振り返る。
ほんの短い時間でグレイシアに対する弱みを握られ、鮮やかにそれを利用されてしまったことが、エドワードを激昂させていた。
だがマスタングは穏やかな表情を変えない。
その穏やかさから、すうっと笑みだけ削ぎ落として、薄い唇が動く。
「卑怯なことをして、すまなかったね。でも、どうにかして、君に一緒に来てもらいたかった」
エドワードは立ち尽くす。
「本当は、誰でもいいわけじゃないんだ。たぶん、ロベルトが一緒に来てくれると言っても、私は断ったと思う」
卑怯なんてもんじゃ、ない。
エドワードの激昂はあっという間に冷凍され、固まり、崩れる。

───なんだあんた。その顔は。

「知り合いの、墓参りに行くんだ。初めて。ミュンヘンには、そのために来た」
やめろ。そんな顔で、オレに頼みごとをするな。
「墓場で私が取り乱さないように、見ていて欲しい。君に見ていてもらえば、私は平静を保てるような気がするから」
エドワードは戦慄した。
どうしてそんなことをこの男に頼まれなければならないのだ。
この男は、エドワードの何にすがりたいというのか。
たった数時間の会話ごときで、エドワードの何をわかったというのか。
「君がどうしても嫌だと言うのなら、またもうひとつ、私は卑怯者になろう」
マスタングは苦しげに笑んだ。
待て。もうやめろ。
エドワードが叫ぶより先に、マスタングは言った。

「等価交換だ」

信じられない。
「ロベルトが、昨日珍しい写真を手に入れた。天体を撮影した、スペクトル写真だ。その写真によって、宇宙の果てがどうなっているのか、最新の予測を立てた論文が発表されている」
トウカコウカン。
その唇が、その形で、その言葉を吐くのが信じられない。
「論文はまだ出版されていない。図書館に行くのは無駄だよ」
だらりと下ろした義手の先まで震えるのが、わかる。
「君は、宇宙へ行きたいんだろう?君が今から私に付き合ってくれるのなら、私はその論文の写しを君に貸し出そう」
「シンセキ、差し置いて…、なに、言ってんだよ?」
「ロベルトにはいくらでも言いようはあるさ」
「オレが、直接ロベルトさんに頼みに行ったら?」
「私が彼に吹き込んでおく。エドワード・エルリックはいいかげんな男だから、絶対に貴重な論文を貸すな、と」
エドワードの唇がいっそう乾き、冷ややかにほころんだ。
「……は。汚ねぇな」

───やっぱりあんたは、オレの大嫌いな人間だ。

エドワードの唇から漏れる無音の吐息も、唇と同様に乾ききっている。
「……オレは、あんたの思ってるような人間じゃ、ねぇ。あんたの役には立たねぇよ、どう転がっても」
「そんなことはないさ。私は今日、君に会えて、嬉しい。それだけでも、君はおおいに私の役に立っている」
この男に退路を絶たれているのか。
それとも、退路をたどるのを自分で早々に諦めかけているのか。
先ほどから続く脱力感が、ぎしぎしとエドワードの全身に分け入ってくる。
「来て、くれるね?」
軽く首をかしげ、厚顔に念を押してくるマスタングの左目が灰色に光るのをまた目に留めて、エドワードは思いきり、彼から視線を逸らす。
「アルフォンスが、待ってんだよ」
敗北が、吐息と共に、エドワード自身の舌に沁みる。
「だらだら、墓場に居座りやがったら…タダじゃおかねぇ」




街の一角であるにもかかわらず、その墓地の敷地内には程よく木々が生い茂り、ちょっとした森林公園の様相を呈していた。
市街東部の庭園にはよく出入りするエドワードだが、父親以外に縁者の一切いないこちらの世界では、墓地に用事など皆目なかったので、ここまで足を踏み入れるのは初めてだ。
踏み固められた小道の両脇に並ぶ墓石は、均一の形ではない。
十字架を冠したもの。
延々と碑文を連ねた一抱えもありそうな石。
地面に平たくはめ込まれて、縁を下草に侵食されかかっている石。
低い茂みのひと隅ひと隅に、時には草に埋もれかかって、それらの石は不規則な間隔ながら、ゆったりと列を成している。
初めて来る、というだけあって、マスタングの歩く速度は、墓場に踏み込んでから格段に落ちた。
「どこなんだよ、あんたの知り合いは」
「…いま探している」
腰の高さの茂みから、人差し指ほどの小枝を、いらだたしげに葉ごとむしり取って、エドワードは歩みの遅い男の背中を追う。
もう花屋の店先から15分は歩いただろうか。
マスタングの手に握られたチューリップは、茎に力を無くし始めている。いくら売れ残りとはいえ、グレイシアの丹精が台無しだ。
「せめてもうちょっとその花、丁寧に扱えば?そんな大事な墓参りに、ハダカの花一本かよ。ずいぶん薄情なんだな」
ああ、金がねぇのか、と一人で自らの嫌味に納得しているエドワードを振り向くこともなく、マスタングは歩きながら、さらりと中空に言葉を滑らせた。
「ああ。充分なんだ、花一本で。本当は、花一本くれてやるのも惜しいがね」
「…おい。どういう知り合いなんだよ」
マスタングは立ち止まり、エドワードを見た。
大儀そうに口の端を上げ、また前へと歩き始める。
その指先が、くるりとチューリップの茎を弄んだ。
「……仇(かたき)だ。仲間の」




鳥が頭上の低いところで鳴いている。
ここまでの到着を、皮肉を込めて祝ってくれているかのように。

その墓石は、墓場の中ほどにあった。
二人が歩いてきた小道からさらに小道が枝分かれしていて、枝分かれたその先が、ずいぶん周囲とは違う様子で踏み固められていたので、この森をここまで歩いてきた者はきっと、その墓石を目に留めずに通り過ぎることはないだろうと思われた。
地面にぴったりと埋め込まれた四角い墓石の周りには、枯れはてた切り花やら、包装紙も真新しい花束やらが散乱している。
「ここだ」
一言の後、新旧の花の残骸の前で立ち止まったマスタングの背後から、エドワードは首を少々伸ばす。
「すげえ花束の山だな。アルフレー、ト…フォン……リヒト、ホーフェン?……なに?有名人なのかよ?」
墓石に刻まれた、未だ読みやすいとは言えない「異国語」の名前を読み上げるエドワードに、マスタングはかぼそい笑いを漏らした。
「君は、本当にドイツ人じゃないんだな。…いや。それとも、よほどの箱入り息子なのか」
その笑いは限りなく失笑に似ている。
エドワードは憤慨した。
「ヘタなドイツ語で、悪かったな」
「ああ、違うよ。そういうことじゃない」
仏頂面をますます疑問で歪ませるエドワードに柔らかく微笑みかけ、マスタングはもう一度墓石に視線を落とす。
その横顔は、穏やかではあったが、今しがたの笑みの余韻は瞬時に消え去り、傍らに立つエドワードのそれ以上の質問を拒否するような、温度のない、重い空気を含んでいた。
『仇』がよほど憎いのだろうか。
マスタングはひたと墓石を見下ろしたまま、独り言のようにつぶやきをこぼす。
「『レッド・バロン』を知らない人間が、このミュンヘンにいるとは思わなかった」
「レッド…バロン?」
「こいつが、生きてた頃のあだ名だよ」
マスタングは、靴のつま先で枯れた花々をかきわけ、墓石の縁をごく軽く蹴った。
握っていたチューリップを、汚物でも捨てるように、その足元の墓石に投げつける。
「自分の機体を、真っ赤に塗りたくってる嫌なやつだった。私の隊の仲間は、何人もこいつにやられた」
チューリップは、その新しい赤さを冷たい石の上で主張しながら、音もなく横たわる。
「だから、私が、こいつの機体を撃ち落としてやった」
子供時代の取っ組み合いでも回想するように、マスタングはこともなげに告白した。
そのさりげない、だが衝撃的な告白から、あるひとつの答えにたどりついて、エドワードは軽く固唾を飲んだ。
「機体、って…」
頭の中に幾重も渦巻く疑問の中から、その中でも一番ささいな疑問を口にするだけで、今のエドワードはいっぱいいっぱいだ。
「飛行機さ。ドイツ軍の」
「あんた。軍人じゃないって、言わなかったか…?」
「以前は、そうだったが。今は違う」
この男の奇妙に固い、あの指の節の感触を、エドワードは思い出す。あの指に触られた時のきな臭い直感は、的外れではなかったのだ。
「あんた、ドイツ軍にいたのか?」
「いいや。私の故郷はアメリカだ。そこからイギリス軍の航空隊に志願した」
先の大戦で、ドイツ軍とイギリス軍は、この世界のいたるところで容赦ない戦闘を繰り広げたと、ホーエンハイムは言っていた。
「ここは。ドイツは、あんたの母親の国じゃなかったのかよ?」
エドワードの直接的な非難にも、マスタングは眉ひとつ動かさない。視線も墓石から動かさない。
「私はアメリカ人だ。たとえ母がドイツの生まれでも」
墓石を見下ろし続けるマスタングは、ひたすらに静かだった。
「母がドイツ人であるならば、私は余計に、完璧なイギリス兵にならなければならなかった」
全く抑揚のない声が、かえって悲愴だ。
「なんであんた、そんなんで…わざわざ軍になんか、志願したんだよ?」
半分敵国人だ、と、軍内で周囲からつらくあたられなかったはずはない。
それだけでなく。
母の故郷を破壊し、その地の人間を殺すことは、この男の良心を少しも傷つけなかったのだろうか。
それが、人懐こくて小憎らしくて、気障で嫌な方向に機転が利いて、けれどひたすらに穏やかだったこの男の、残忍なもうひとつの顔だというのだろうか。
人の容姿は、当人の心持ちの傾向は映しても、魂の本質までは映さない。
これからの接点を持ちたくない、持ってはならない男に何を質問しても、それはエドワードにとって一切の無駄であり、男の返答を聞くことは、エドワードの苦痛の種でしかない。
しかし、エドワードは耐えられなかった。
あの腹黒で冷酷で厚顔で、それでも、どこまでも弱者を傷つけることを嫌った、あのかつての上司と同じ顔をした人間が、無感情な一兵卒であったなどとは、どうしても思いたくなかった。
それがエドワード自身の幼稚な願望でしかないことがわかっていても、耐えられなかったのだ。
「……君にこれ以上嫌われたくないから、志願の理由は言いたくないんだが」
歯切れ悪くつぶやいておいて、マスタングはやっとエドワードに目をやり、乾いた笑みを目尻ににじませた。
「ここまで聞いちまったら、好きも嫌いもねぇだろ」
「それは、これ以上聞いてもこれ以上嫌わないでいてくれる、という意味かい?」
「……知るか」
エドワードのうそぶきにも崩れないマスタングの笑みは、諦めたようにかすかな湿りを帯びた。
マスタングは喉を反らし、透明に光度を落とし始めた夕空を見上げる。
空に祈りでも捧げるように、だが両手は不謹慎にズボンのポケットに突っ込んだままで、薄い唇がもう一度つぶやいた。
「……金が、欲しかったんだ。それから、名誉」
潔く、そして低俗な告白が、空へと散る。
「アメリカでも。軍の中でも。移民とさげすまれた私が生きるには、軍人として手柄を上げるしか、方法がなかった」
空へ散らせた言葉を恥じているのか、マスタングの声はかすれ気味だ。
「『レッド・バロン』を撃ち落として、少しの金と、名誉は降ってきたがね。戦線で目をやられて、あっというまにお払い箱だ」
完全にその左目は盲(めしい)となったのか。
それとも少しは見えているのか。
あれほど目に焼きついて離れなかった、この男の灰色の瞳の理由が、あっさり眼前に湧いて出ても、エドワードにはもう質問する気力がほとんどない。
「生きている方が、勝者だと。生きていれば、それが翼だと。そう怒鳴って、こいつの墓に唾でも吐いてやろうと思って来たんだが」
マスタングがここまでエドワードに告白し続ける理由が、エドワードにはわからない。
「もう空を飛べない、という点では、私とこいつに差はない。……いや。人格も、家柄も、国民に愛されている度合いでも、私はこいつに生涯勝てないと、思い知っただけだったな」
薄く紅く、色づき始めた雲が、空に刷かれている。
そこからようやく顔を背け、マスタングは己が踏みしめる地面に視線を落とした。
もろもろの気力を養うために、エドワードは冷えた自らの指を固く握り締める。
「なんで、オレにそこまで言う?オレはあんたの、愚痴吐き袋か?」
マスタングは、エドワードがこれまで見た中で、最上の笑みを寄越した。
「違う、と言いたいところだが。結果的には、そうなってしまったな。すまない」
最上の笑みは、ごつごつと角張りながら、エドワードの胸を刺す。
「でも。聞いてくれてありがとう」
ざっ、と吹いた夕風を裂くように、長い指の手のひらが、力を失っていたエドワードの手首に伸びて来た。
長く、節くれた指に手首をそのまま持ち上げられそうになり、エドワードは我に返る。
「何しやがる!」
触るな、と手のひらを宙に叩き落されて、マスタングは痛みに頬の端を刹那、震わせた。
一歩、二歩とあとずさって、エドワードは間合いを取る。
エドワードの警戒に、男は優しいため息を絡ませた。
「私が、プライドを失ったように。君も、君の大事な何かを失くしているんじゃないかと、思ったんだ」

───この男は、何を言いたがっている?

「ロケットの研究より、友人より。君には昔、大事なものがあった。違うかね?」

───この男は、オレに、何を言わせたいんだ?

「その大事なものが、『君の手足』なのか、『君のプライド』なのかは知らない。けれど、どうしても君は、失くした何かを探し続けているように、私には見える」

───この男は、オレを、どうしたいんだ。

「だから、君は、私の話を少しは聞いてくれるのではないかと。そう思った」
言い終わらないうちに、マスタングは敏捷に歩を踏み出して来た。
「だから次は」
冷酷な速さでもう一度、エドワードの手首が捕らわれる。

だから次は、君の話を聞かせてくれ。

声はエドワードの耳朶を間近にかすめた。
エドワードももう一度我に返るが、何もかも間に合わない。
片手で手首を、片手で腰を引き寄せられ、目の前が暗くなり。
顔を背ける間もなく、柔らかい肉で唇を塞がれる。
「………!」
湿ったその感触が恐ろしくて、エドワードは力を振り絞って義手のこぶしをマスタングの胸板に叩き込んだ。
空気の壁を擦るような音を喉から発して、マスタングがむせる。
彼の湿った咳から可能な限りに顔を背け、エドワードは捕らわれた手首を筋力の限界まで振り上げ、マスタングの指を払い落とした。
自由になった腕で空を掻きながら後方へ何歩か駆けて、ぐらりと振り返る。
腕を伸ばしても、そして伸ばされてももう届かないところに立っているマスタングは、ひどく小柄に見えた。
荒い自分の息で、肺が裂けそうだ。
エドワードは薄いコートの胸元を握り締める。
自分の肩があまりに速く上下しているのが、みっともなくて悔しい。
むせ終わったマスタングは、苦笑とも諦めともつかない目をして、そのまっすぐな視線をエドワードに浴びせた。
「…怒ったのなら、……すまなかった」
ごう、と風が吹く。
マスタングの声が、遠い。
「君が嫌なら、もう無理強いはしない。でも、約束は約束だ。明日、夕方7時に。この間の店で。待っている」
見つめてくる黒い目は、もう何事もなかったかのように冷え切っている。
「論文を渡すよ。そこで」




ベッドで本を読むのもいいかげん、飽きた。
アルフォンスはキッチンに立って、グレイシアが持って来てくれた鍋の下部をのぞき込み、その火加減を確認する。
このスープが沸騰する前にエドワードが帰って来てくれればいいのだが、ロケットの資料や資材のためならば鉄砲玉のように飛び出していって帰って来ない彼に、そんな都合の良すぎることを期待するのは、どだい無理なような気もする。
諦める一方で、帰って来ない彼が、本当にロケットの資料をどこかの本屋であさってくれているのならどんなにいいかと、アルフォンスは限りなく頼りない希望を胸の中で転がし続ける。

───ええ。マスタングさん…と、いったかしら。黒い髪の。そのお友達と、少し出掛けて来るそうよ。

わざわざ、夕食にまでスープを持って来てくれたグレイシアにそうやってにこにこと微笑みかけられて、アルフォンスは眉間に力が入りそうになるのをやっとのことで阻止した。
あの黒髪の客のこととなると反射的に不快になる自分自身が、それこそ本当に不愉快でたまらなかった。
エドワードを束縛する権利など、自分には一切ないというのに。
彼は仲間であって仲間でなく、友人であって友人でなく。
恋人などではもちろんなく。
当然家族でも、ない。
そんな混沌とした関係でいる自分たちの間には、何の権利も義務も、発生しないはずだ。
疑問に思うなら、訊けばいいのだ。
エドワードを問い詰めるのではなく。
ごく普通にさりげなく、なにげなく。
あの、医者のように冷静な男といつも何を話しているのか、ごく単純な疑問として彼に尋ねればいいだけのことだ。
それなのに、アルフォンスの中に棲む下劣な感情のかたまりは、ふと気づけば、アルフォンスの意識の隅々までを食い散らかしてしまっていた。

───どこへもやりたくない。エドワードさんを。

神と精霊の前で二人の絆を宣誓したわけでもない。
誰かに強迫されているわけでもない。
むしろ、好きだと思うその気持ちの下(もと)に、誓って彼を彼の望むように、自由にしてやらねばならないのに。
ただ一度彼と身体を繋げただけで、自分の身体のいったいどこから、こんな下劣さが噴き出して来るのだろう。
静かにおののきながら鍋の中身をかき混ぜていると、混ぜる小指の付け根を鍋の縁にぶつけてしまい、その熱さにアルフォンスは数ミリ飛び上がった。
ようやく火を止めて腕をねじり、火傷の箇所を軽く舐める。
薄皮を剥がされるようなその痛みに、舐めながら小さく舌打ちしていると、けたたましく背後の電話が鳴った。






さっきベッドに入ったと思ったのに、もう朝だ。
毛布を口元までかぶったまま、エドワードは目を開ける。
まぶたにまとわりついて来る眠気は、ずしりと重い。
それでも、エドワードは眠れたことが嬉しかった。
ゆうべはこの家に帰りづらくて、かなり遅くまで研究室で時間を潰した。
平静を取り戻すのに、時間がかかったのだ。
「帰宅」が遅くなればなるほど、アルフォンスは心配する。
だがどうしても、昨日のエドワードには、平静を取り戻すための時間が必要だった。
アルフォンスではない人間と唇を触れ合わせた、そのことに動揺する事実が、そしてアルフォンスにそれを知られずに平静を取り戻したいと思うその気持ちが、自己保身なのか、アルフォンスへの思いやりなのかも、もうエドワードには定かでない。
その気持ちが何であろうと、昨日の出来事は、アルフォンスに知らせるべきことではないのだ。それだけははっきりしている。
昨夜帰って来てみると、アルフォンスはもう眠っていたのか、部屋から出て来なかった。病み上がりの彼の睡眠を邪魔したくない、と格好の理由をつけて、エドワードも彼の部屋のドアを叩くことはせず、そのまま眠った。研究の都合で夕食を別々にとって、別々に帰宅して朝までお互い顔を合わさないことは、これまでもたまにあった。
何も、気にすることはないのだ。
寝返りを打つと、外した義手がごとんと頬に触れた。ゆうべ、不精をして寝転がったままこれを外して、人形を抱いて寝る子供のように、義手を抱いて眠ってしまったのだ。
毛布からはみ出していた義手は冷えきっている。
これを今から着けるのかと思うと、その金属片の冷たさに嫌気がさし、エドワードはもう一度それを暖めようと、毛布のぬくもりの中へ義手を引きずり込んだ。
深く息をつきながら、冷たい金属を抱いていると、部屋のドアがノックされた。
「エドワードさん」
ドアはまだ開けたくないが、アルフォンスはきっと、エドワードの顔を見ずに研究室に行くことはない。
「エドワードさん。起きてますか?」
「ああ。起きてる」
エドワードは勢いをつけて上半身を起こした。
盛大に外してしまっていたシャツのボタンを留めようとするが、左手一本で迅速に作業するのは無理だ。
「ゆうべ、遅かったんですね。どうしたんですか」
ドア越しに会話を持ちかけてくるアルフォンスを待たせたくなくて、エドワードはシャツのボタンを諦め、義手を残してベッドを降りた。これまた不精に外していなかった義足が幸いしている。
裸足のままドアに歩み寄り、そこを開けると、少し充血気味の、心配そうな瞳がこちらを見ていた。
それでも、エドワードの存在に安心したのか、心配そうな瞳はすぐに温かく笑んで、緩やかな光を溜める。
「昨日おまえ、寝てたみたいだから。起こしたらワリイかな、と思ってた。ごめん」
「いえ。いいんです」
「おまえ、具合は?」
「『おかげさまで』。もうちゃんと治りましたから」
無理やりエドワードにベッドに押し込まれた昨日の恨みを、アルフォンスは軽やかにエドワードに投げつけて、すねた子供の表情で口の端を上げた。
エドワードは安堵する。
いつも通りの会話を構築出来たのが、当然のようにも、奇跡のようにも思える。
「で、昨日はどこまで行ってたんですか?」
小さな安堵を得て、エドワードはアルフォンスの再度の質問に、どうにか落ち着いて、昨夜から用意していた答えを答えることが出来た。
「新しい宇宙論の論文が出たって聞いたんで。本屋巡りして、メシ食ってたら、ヒューズさんに捕まって付き合わされてた」
アルフォンスの胸元に留まる、彼お気に入りのサスペンダーに目をやりながらの言葉には、なぜか返事がなかった。
「そんで。今日も本屋で遅くなりそうだから、おまえ今日も晩メシは先に食っててくれ」
瞬間、アルフォンスから視線を逸らしてしまったことを後悔しながら、エドワードは鈍い動きで顔を上げた。
アルフォンスの目の中の、緩やかだった光が、じりじりと歪み、濁りはじめている。
歪んだ光は、空虚に固まって再びエドワードを見つめた。
「どうして、嘘をつくんですか?」
吐息も、言葉そのものも半分押し潰されたようなかすれた問いが、さっきまでエドワードに笑んでくれていた唇から、絞り出された。
エドワードの全身が凍てつく。
「グレイシアさんに聞きました。昨日は、マスタングさんと一緒に、いたんでしょう?」
即座に嘘を見抜かれた動揺が、嘘を重ねる冷静さも、開き直る勇気をも、吹き飛ばしてしまう。

───そうだ。なんで、忘れてたんだ。

グレイシアが昨日のことを、アルフォンスに伝えないわけがないではないか。
「それに。昨日の夕方、マスタングさんからエドワードさんに電話がありました。今日、待ち合わせの場所に行けなくなったので、家まで来て欲しい、って」
見下ろして来るアルフォンスの目の中の青が、いっそう冷たい。




「どうして僕に隠すんですか?言ってくれれば、僕は」
アルフォンスは言葉を詰まらせる。
言ってくれれば。
言ってくれれば、僕は、エドワードさんをこれからも快く送り出してあげられるのか?
言ってくれれば僕は、あのお客にもう、得体の知れない不快を感じずに済んだのか?
今まで耐えていた場所からなだれ落ちてくる自問に喉を塞がれ、アルフォンスは急に熱を持ち始めた口元を、もどかしく擦った。
今ここでエドワードを責めることは、間違っている。
たとえエドワードが最初から真実を話してくれたとしても、きっと、アルフォンスの中の下衆な疑念が治まることはなかったに違いないのだ。
そんなていたらくで。
そんな心弱い自分を自分でわかっているくせに、どうしてここで、エドワードを責めることが出来るだろう。
勢いよくなだれ落ちてきた自問が、アルフォンスを覆い、捕まえ、そうやっていさめて来ても、アルフォンスは身体の中の粗暴な熱を、どうしても冷ますことが出来なかった。
胸の最奥で、さらに最奥から這い出してきた熱を引きちぎっても、引きちぎっても、その衝撃でまた熱が増す。
耐える唇が、また熱くなる。
意味不明に酷い言葉を口走ってしまいそうで、唇を開くのが、口をきくのが、怖い。
アルフォンスは、右手でエドワードの肘上を掴んだ。
ぎゅっと、エドワードの腕の筋肉が、彼自身の緊張で固まるのがつらい。

───どうして僕が触るとこの人は、身体を固くするんだろう。

何言ってんだ、バカなこと想像してんじゃねぇ、って。
離せ、おまえのバカらしい言い草に付き合いきれない、って。
どうして反論してくれないのか。
いつもの照れ隠しで、いつものようにすねてくれれば、僕はもっと、素直に怒って、あなたに素直に怒られることが出来るのに。
いつもはあんなにわかりづらい人なのに。
悲しいこと、苦しいこと、本当に欲しいもの、大事なことはみんな胸にしまって、涼しい顔をしている人なのに。
自分の嘘がばれて、言い訳も、開き直りもしないで、僕から逸らしたいはずの目も逸らさずに、黙っているなんて。
どうしてこんな時だけ、あなたはそんなに正直なの?
「マスタングさんも、似てるんですか?あなたの『故郷』の、誰かに」
万に一つでも肯定されるのが怖くて、どうしても言えなかった、思考することさえ避けていた疑問が、塞ぎきれないアルフォンスの唇から漏れる。
他人に興味がない人間だと、思っていた。エドワードを。
それはエドワード自身が冷たい人間だからということではなく、彼は故郷のことでいつもいっぱいいっぱいで、他人に興味を持つ暇がないのだと思っていたのだ。
「前に言ってた…あなたの大事な人に、似てるんですか?」
そんなエドワードに、弟に似ているという理由で、かりそめながらも関わってもらえた幸運が、真実の気持ちの繋がりに転化してくれないものかと、ずっと願ってきた。
「あなたは…あなたの大事な人に、似ていれば、誰でもいいんですか…?」
関わってもらえた幸運は、裏返せば、悲劇だ。
「エドワードさん。答えて…!どうして黙ってるんですか!?」
悲劇なら悲劇でいい、エドワードの力になりたいと決めたはずのあの気持ちは、目の前のエドワードの沈黙によって、もう収拾もつかないほどに、ずたずただ。
「………論文を」
エドワードが、アルフォンスからやっと目を逸らす。
逸らしながらの返答は、アルフォンスの望んだものであり、また、最も聞きたくないものでもあった。
「あいつに、宇宙論の論文を、借りる約束をしてる。それだけだ」
「それだけなら。どうして最初から」
アルフォンスの言葉を最後まで待たずに、エドワードは腕に食い込んだアルフォンスの指を振り払った。
そのまま身をかわして、アルフォンスの背後のドアノブを握る。
かち、と軽いドアノブの回転音が響き、その音は、アルフォンスの体内の熱をせき止める最後の砦を、真っ二つに切り崩した。

───行かせない。

振り向きざまに、アルフォンスは、エドワードの義手のない肩を掴んだ。
ふっ、と空気を切ってドアにエドワードの上半身が投げつけられ、開きかけていたドアは、耳に刺さる衝突音と共に、エドワードの体重によって閉まる。
「………ふっ、…く…!!」
肩を強打し、歯を食いしばるエドワードの唯一の腕を、アルフォンスはもう一度捕らえた。
エドワードの義手はベッドの上だ。
片腕一本では、力勝負も勝負にならない。
身体の自由を奪われる予感に焦ったのか、エドワードは腕を振り上げて逃れようとする。

───僕をずたずたにしているのは、僕だ。

エドワードはただ、偶然『あいつ』にそっくりな「あいつ」に出会って、ばか正直に、心を揺らしている。それだけなのだ。
言えばいいのだ。
モラルもプライドも何もかも捨てて。
ただ一言、「あいつ」に会うのはやめてほしい、と。
言えないそのことがもどかしくて、アルフォンスは渾身の力で、暴れるエドワードの腕をドアに押し付けた。
隻腕のまま進退窮まったエドワードの目に、アルフォンスが初めて見る色彩が浮かぶ。
初めて見るその恐怖の色は、いつもの彼のプライドによって、すぐにかき消されてしまったけれど。

エドワードに、怖がられている。
こんなつもりじゃなかったのに。

アルフォンスの胸を塞いだ瞬間の悲痛は、秒を待たずに、とめどなく怒りに似た感情になって噴き上げた。