翼のある使者 -5-



なぜこんなに責められなければならないのだろうと冷静さを保つ一方で、エドワードの中のやましさは、エドワードの体内の、骨の芯までをざわざわと冷やす。
気を昂(たか)ぶらせている目の前のアルフォンスから全力で逃れたいと焦る一方で、そのやましさが、エドワードの首根を捕まえ、身動き出来なくさせている。
動かない身体を力で支配されるのは、本能的に、怖い。
「離せ…!はな、」
言葉は、咆えるように口付けてきたアルフォンスの唇に塞がれる。
エドワードが俊敏に顔を背けると、がちり、と固い音がして、激痛が歯の上で弾けた。
痛みに狭まる視界の中の、飲みこまれそうにそばにあるアルフォンスの顔も、短い吐息と共に深くしかめられている。
彼の唇を、勢いで噛んでしまったらしい。
彼の苦しげに固められた唇の端に、音もなく鮮血がひとかけら浮かぶ。
そんなに痛くても、アルフォンスはエドワードを捕らえる腕の力を緩めない。
痛覚を耐えるせいで苦くなった空気を、目をつぶって噛み潰して、エドワードはもう一度顔を上げた。
上げた途端に腕を引かれ、押し付けられていたドアから身体を引き剥がされる。
そのままアルフォンスはきびすを返し、部屋の奥に向かってエドワードを引きずりながら歩き出した。
左右の身体のバランスが取り辛いところにそんな無体を加えられて、つまづき転びかけたエドワードの腕を釣り上げるように引っ張り引き据え、アルフォンスはエドワードをベッドまで連行した。
ぽつんと義手ひとつ転がる乱れたベッドの上に、靴もはいていなかった身体を投げ下ろされて、起き上がろうとしたところをまたアルフォンスに突き飛ばされる。
「…アルフォンス!!」
出せる一杯の声でエドワードが威嚇しても、目を怒りに湿らせた彼は動きを止めない。
蹴り上げようとした片足は抱え込まれ、仰臥したまま、左腕からベッドに深く沈められる。
仰臥したままのエドワードの耳元で、ベッドのスプリングがきしんで、止まった。
荒い吐息が響く。
シャツのボタンをひとつふたつしか留めていないせいで、襟が背中側にずり落ち、エドワードの右肩は剥き出しだ。傷の縫い跡が複雑に走るその部分の皮膚を、アルフォンスの手が掴み、左腕と同様に押さえつけて来る。
冷たいのか熱いのかよくわからない微妙な温度のアルフォンスの手は、力を込めるあまりに緩く震えている。
「ここにいてください」
荒い吐息の合間に、低く乾いた声がエドワードの頬に落ちる。
言葉づらは柔らかいが、その声音はほとんど命令だ。
両手でエドワードをベッドに沈めたまま、アルフォンスはまだ止まらない唇の出血を、首をひねって自らのシャツの肩口に擦りつけた。
向き直って見下ろしてきたその目を、エドワードはどうしようもなく見つめ返す。
どうしても逃れたいのに、それでいて、こうして完全に捕まってしまえば、簡単に逃亡を諦めてしまおうとするプライドのない自分が、自分の中にごく微量、存在することをエドワードは否定しきれない。
その微量だがふてぶてしい感情が、先刻のやましさから発生しているのか、それとは別の、アルフォンスを素直に恋う気持ちから発生しているのかはもうわからない。
もはや、そのどちらでもあるような気もする。
だが、ここで彼の言うとおりにすることは出来ない。

───オレは今、なんのために生きてる?

懐かしい何もかもから隔離されたこの場所で、汚れたネズミみたいに這いずり回って、時間も、金も、体力も、感情も、すべてただ、ロケットの研究につぎ込んで。
明日の食事には困らないかもしれないけど、このまま、親父のいないまま、ひと月先、半年先、一年先のことだって見当もつけられない、この世界で。

こんなところでオレが生きてるのは、ただ。
ただ、確かめたいから。
あっちにいる、アルが、生きてるのかどうか。
それだけを確かめに帰りたいから。
だから、どんな小さなことでも必要なんだ。
どんな汚い手を使ってでも、必要なんだ。
あの論文が。

見下ろして来るアルフォンスの瞳の色を、エドワードは無理やり青からヘイゼルに置き換える。
こちらでアルフォンスに出会ってから、ひっそりと胸の内で、何百回その「置き換え作業」を繰り返したかしれない。
今、自分がこうして心で作業していることをアルフォンスに知られたら、殺されるかもしれない。
だが、せめて心の中だけにでも、あのヘイゼルを、弟を焼き付けておかなければ、エドワードがこの世界で生きる目的がなくなってしまうのだ。
もっと正確に言うならば。
エドワードがこの世界で生きる目的は、消滅してゆくのではなく、もっと深刻な形で、既に、変質しかけていた。
自覚すら、自認すら恐ろしくて考えることを故意に止めていたその変質は、エドワードの意識の深層から、ここぞとばかりに勢いよく這い出し、この目前のアルフォンスの瞳を濁ったヘイゼルに染め上げ、また青へと燃え上がらせている。

───選べない、かもしれない。

エドワードは鳥肌を立てた。

───アルフォンスと、アルフォンス。どちらかを、選べないかもしれない。

先のことはわからない、と。
常々、このアルフォンスにも、自分にも、そう言い聞かせてきた。
どれほど彼に心が傾いても、どれほど彼がエドワードに心を傾けてくれても、最終的には、弟を、故郷の「あいつ」を選ぶのだと。
いや。選ぶなどという言葉を使った時点で、もう、エドワードの中の変質は、取り返しがつかないところまで進行している。
間近に見下ろして来るアルフォンスの瞳一杯に、碧空を翳らせる雲のように自身の顔が映り込んでいるのを、息をとぎらせながらエドワードは見つめた。
映り込む影を透かして揺らめく青が、アルフォンスの激昂が、いっそ甘美とでも言えそうな勢いで、見えない水流になってエドワードの意識の中に流れ落ちて来る。
目がくらむ甘さと息苦しさに、自分で自分の喉を、引き裂きたいほどだ。
「…ここにいてください」
オウムのように言葉を繰り返しながら、泣いているのか怒っているのかわからない顔を、アルフォンスは近づけてくる。
口付けを避けると、首筋に顔を埋められた。
埋められたそこがきつく痺れて、エドワードはまた全身を凍らせる。
「アルフォンス!!やめろ!!」
耳の下が、喉笛が、頚動脈上の皮膚が、次々と痺れて、痛む。
「やめろって!!」
アルフォンスの意図を悟り、エドワードはほとんど回せない首を回して怒鳴った。
きつく肌を吸われれば、内出血の跡が残る。衣服で隠しづらい首筋に幾つもそんな跡が残っていれば、平常心で往来を歩くことは難しい。誰か、人に会うのならなおさらだ。
エドワードの喉元を蹂躙しつくしたアルフォンスの唇は、一片のためらいもなく、鎖骨に落ち、はだけられた胸元に沈んで行く。
全く抵抗出来ない悔しさに、エドワードは詰まる吐息を噛み潰す。
どうかすると快楽に転じそうになる不穏な感触が、悔しくて悔しくてやりきれない。
いっそのこと不快感で埋め尽くされていれば、もっとこの身体に力が溜められるかもしれないのに。
不謹慎でずるいこの身体と精神を、嘆いて、いさめて、叱咤してみても、エドワードの筋力は霧散したままだ。
胸の突起を噛まれて、エドワードの自責は飽和点を超えた。
突然エドワードがぐったりと脱力したのに驚いて、アルフォンスが顔を上げる。
ここまでエドワードを追いやっておきながら、不安をいっぱいににじませてこちらの顔色をうかがって来る彼が、滑稽で憎い。
短く吸気して、エドワードは叫び出したいような虚しさを前歯の裏でせき止める。
ひるんだアルフォンスの手のひらから腕を引き抜いて、仰臥したまま、彼の頬を手の甲で振り払うように殴りつけると、そこは鋭く乾いた音で鳴った。
顔面への衝撃にアルフォンスは肩をすくめ、瞬く間に立ち直り、返礼、とばかりに歯を食いしばって右手を振り上げて来る。
避けきれない、とエドワードは反射的に目を閉じたが、「返礼」の殴打は数秒経っても降って来なかった。
不審と疑問とで混乱しながらゆっくりまぶたを押し上げると、気が抜けたようによろよろと下ろされるアルフォンスの手が、視界の端に映った。
エドワードの肩を圧迫していた彼のもう片手も、ふわりと拘束をやめ、宙に浮き上がる。
アルフォンスが、こちらを呆然と見下ろしている。
真正面からのお互いの視線が、絡み合い、突き刺し合って、お互いの皮膚をひりひりと焼いた。
目に見ることの出来ないその火傷が深かったのは、エドワードとアルフォンスの、どちらだったのだろう。
血のにじむアルフォンスの唇が震え、震えに自ら抵抗するようにきつく引き結ばれる。
それは、エドワードのよく覚えている唇の形だった。
それが、泣き叫びたい人間が叫びたいのを懸命にこらえる一定のしぐさであることを、エドワードはよく知っていた。
ケンカをすると、こんな形で、よく唇を噛んでいたのだ。
ヘイゼルの瞳の「アルフォンス」が。
アルフォンスがいらだたしげに吐いた息で、エドワードの記憶の中の幻影はすぐに砕け散った。
くっ、と喉で何かを飲み込んで、アルフォンスはエドワードから顔を背け、エドワードにのしかかっていた体勢から起き上がる。
そのまま、一言もなくベッドを降り、振り向きもせずに部屋から駆け出して行くその背中を、エドワードはベッドの中からなす術もなく凝視した。




出来ることなら。
文字通り彼の手足をもいで、彼の父親が作ったという精巧な義肢も全て取り上げて破壊して、動物のように彼を鎖で繋いでしまいたかった。

作業は終わったが、夕暮れはまだ遠い。
午後の研究室でひとり、アルフォンスは作業台を前にして座り込んでいた。
エドワードはもう、マスタングの家を訪ねて、論文を手に入れただろうか。
今朝のエドワードとのいさかいの後、アパートから逃げ出すように飛び込んだ研究室での一日は、悲惨、の一言に尽きた。
エドワードさんは今日はたぶん来ないよ、とつぶやいたアルフォンスを、仲間たちはこわごわと見つめ、消沈しきった空気の中、顔を見合わせてそれぞれ戸惑った。
アルフォンスの腫れた頬と唇の理由を、誰も尋ねなかった。
アルフォンスの投げやりな態度を見れば、エドワードとの間で何があったのかは、一目瞭然だったのだろう。

───なあ。なんでケンカになったのかは知らんが……正直言って、困るんだよ。

広い肩をすくめて、おそらくはその場にいたメンバー全員の意見を集約していたであろうヨゼフも、珍しく困惑していた。
長い長い午後が、どうしようもなく恨めしい。
そのくせ、このまま日が暮れなければあのアパートに帰らなくても済むのに、などと未練がましく今日の終わりを恐れている自分がここにいるのも、事実だ。
ぽっかりと穴だらけで、つぎはぎすら出来ない悲惨な一日を、アルフォンスは終わらせることが出来ずにいた。
何もかも、最初から、無駄だったのだ。
エドワードが、アルフォンスの存在よりも弟を大切にすること、そして「あいつ」を大切にすることなど、最初からわかりきっていたのだ。
それでもエドワードへの気持ちを抑えきれなくて、100パーセントの敗北から始めた、エドワードとの生活だった。
たとえどんなにアルフォンスが乞い泣き叫んだとしても、エドワードは故郷へ帰るための研究を諦めないだろうし、最新の情報を得るためなら、アルフォンスに殴られようと蹴られようと、どんな姿になってでもあのマスタングを訪ねて行くだろう。
耐え難い、だが耐えなければならないその苦痛を受け入れるつもりで、アルフォンスはエドワードを手元に引き寄せたはずだった。

───なのに、何一つ、受け入れられない。

受け入れることが出来ないそのうえに。
何一つ、かなえてやれない。
エドワードの望みを。
エドワードの苦悩の軽減を。
エドワードの安堵を。
それらを何一つ、アルフォンスはかなえてやることが出来ない。
かなえるどころか、邪魔をしている。
苦痛を受け入れるどころか、ちっぽけな嫉妬にかられて彼を拘束しようとまでした。
そうやって彼の身体も心も傷つけて、この研究室に顔を出すこともおぼつかなくさせてしまった。

───気まずいんなら、俺が、エドに話そうか?

アルフォンスをあからさまに責めることもせず、研究室全体のことを考えて事態を収拾しようとしてくれていたヨゼフたちの声が、耳の奥で繰り返し鳴るたびに、自分で自分が恥ずかしくていたたまれない。
エドワードを傷つけただけでなく、仲間にまで心配をかけて。
自分は、こんなにも恥ずかしい人間だったのだ。
今やっと気づいたことがまた、どうしようもなく恥ずかしい。

───僕は、エドワードさんと一緒に居てはいけない。

厳然たるその正解を、ずっとずっと前からどうしようもなくわかっていて、わかりたくなくて、考えたくなくて。
そうやって目を背けてきた、ひとつしかない真実に、今になって切り刻まれている。
けれど。
切り刻まれても、羞恥にまみれても、この感情が、治められないのだ。
この心臓のそばで、肺の中で、臓腑のふちで。浅ましく身をよじりたくなるような、それ自身が身をくねらせてのたうっているような、形も無いはっきりとした感情は、アルフォンスの身体の中で、治まりがつかなくなっている。

───エドワードさん。

あなたが今あの人に会っている、そのことを想像するだけで、僕はもう、自分の何もかもを、制御出来なくなってしまう。
僕はもう、人間じゃなくなってしまう。
あなたの幸福だけを願えないのなら、僕はあなたから離れて、あなたを忘れなければならないのに。
なのに僕は、どうしても制御出来ない。
僕があなたに害しかもたらさない人間でも。
人間と称される価値のない人間に堕ちたとしても。
どうしても僕は。
あなたを忘れることが出来ない。
作業台に置いた手の甲を、もう片手で覆い隠すように握り締めると、背後遠くのドアが揺れた気配があった。
「失礼。ノックの返事がないものだから」
低く、だがはっきりと通る声が、そこから室内の空気を震わせた。
聞き覚えのある声に、アルフォンスの肩がこわばる。
筋肉をきしませながら振り向くと、たった今、熱く冷たいアルフォンスの意識をぐずぐずに侵食していた当の黒髪の客が、開いたドアの隙間からこちらを見ている。

───どうして、こんなところに。

ノックの音はしなかった。
たぶん、考え込むあまりにアルフォンスはその音を聞き逃していたのだろう。
網膜がずしりと焼けるような衝撃を目の奥で耐えて、アルフォンスは声を出すために、乾いた喉を必死で鳴らした。
「何か。ご用ですか……?」




***


夏が来るというのに、久しぶりに訪れた部屋は、埃と冷気で凍りつくようだ。
壁も。
ドアノブの金属も。
大の大人がやっと二人座れる、小さなソファも。
テーブルも。
ふたつきりの椅子も。
捨て損ねた、チェストの上のメモ用紙さえ。
みな、冷たい。
暗い室内の冷気を頬に留めながら、力なくエドワードは歩く。
父が帰って来なくなり、エドワードもアルフォンスのアパートで寝泊まりするようになってから、数ヶ月経っている。時々必要なものを取りに来ていたとはいえ、父と暮らしていたこの部屋が埃にまみれるのは当然のことだ。
マスタングの家を出てからここにたどり着くまでずっと、歩くごとに地面がゆらゆら揺れていたような気がする。
それは自分が思考能力の大部分を失ってしまったからだ。
そのことを、エドワードはかろうじて自覚している。
冷え切ったカーテンを掴んで開け、遅い午後の日差しに目を刺される。
窓枠に付いている鍵は、痒いような日差しの暑さとは対照的に冷えている。冷たさを指先に染み入らせながらその金属片をねじり、窓を開ける。
吹き込んできた生暖かい微風は、室内の見えない埃を吹き上げているようだった。
小さな空気の対流がなぜか息苦しくて立っていられなくて、エドワードは窓枠を掴んでそこに寄りかかった。
身体がふらついて、しょうがない。
どこまでも白い日差しに、首根でも捕まえられているように、頭が重い。
窓のそばの壁を背にして、ずるずると座り込むと、さらなる埃臭さが鼻を突いた。
床の数センチ上で、日に照らされた埃の粒が、微生物のようにちくちくと踊っている。
斜め前に見える父の机の足元に、義肢の設計図らしい紙束がいくつも丸められているのが見えて、いっそうエドワードの頭を重くする。

───身体に力が入らない。

ぱたりと床に落ちたエドワードの両手のひらは、空だ。
論文を写した紙束を携えることも忘れ、マスタングの家にそれを置き去りにしてきたらしい。
らしい、などとと思うのは、マスタングの家を出てからの記憶が定かでないからだ。
ぼんやりしたままあの紙の束を掴んで持ち出して、どこかの路上でばらまいたかもしれない。
でももう、別に、そうであったとしてもかまわない。
頭を支えているのが本当に重く、エドワードは壁際に座り込んだままぐったりとうつむき、立てていた両膝をゆっくり前方へ伸ばした。




論文の内容は、ただ空虚なものだった。

───セキホウ…ヘンイ?

───ああ。天体写真の光の波長が、長い方…つまり赤い方にずれている。地球から遠い星は、本来の色よりも赤く見える。この赤方偏移が、宇宙の膨張を証明している、ということなんだそうだ。

───宇宙の、膨張?

───宇宙は静止していない。果てがない…ということなんだろうな。天体は地球からどんどん止まることなく離れていって、赤く見えている、と。

宇宙の、果てが無ければ。
宇宙の果てにたどり着けなければ。
オレは、どうやって、あちらへの「入り口」を探せばいいんだ?


***

時間は今朝に戻る。
約束の時間をはるかに外れた午前中に訪ねて来たエドワードを、マスタングはわずかに驚愕しながらも、平静に迎えてくれた。
何度も繰り返したノックの後、ようやくドアの向こう側から現われたマスタングの視線が、エドワードの剥き出しの首筋に───点々と内出血の痣が散る首筋に───瞬間、突き刺さるのを、エドワードは精一杯の虚勢で耐えた。
この家まで来る道中でも、道行く人々の視線をどうしようもなく感じてはいた。だがもう、何もかもが面倒で、何も隠す気になどなれなかったのだ。
「論文、貸せよ。約束だろうが」
半開きのドアの前で、戦闘体勢の重戦車のごとく動かないエドワードを、マスタングはどこか痛ましげに見下ろした。
「私も居候の身分で、偉そうなことは言えないが」
とげとげしい空気を四方八方に撒き散らしていながら、それでいて、何かどうしようもない危うさを抱えたこの少年を、黙って帰すのは辛い。
「君を、きちんとした来客としてもてなしたい。ただの労働者のように、用件だけで帰すのは礼儀に反する。お茶を一杯でいいから、飲んでいってくれないか」
そう。エドワードへの思いやりではない。マスタングの、気がすまないだけなのだ。
「いやだ。あんたは信用できない」
「…何も、しないよ。誓う」
「うるさい。早く貸せよ」
エドワードの攻撃的な態度を、マスタングは短い沈黙で受け止める。我を張るというよりは、エドワードをどこまでも哀れんでいるような、中途半端に柔らかいそのまなざしが、エドワードを余計にいらつかせた。
切りつけるエドワードの視線に刺し貫かれて、マスタングは軽く唇を噛む。
数秒の停止ののち、噛んだそこは、重く粘る声を、ゆらりと絞り出した。
「私を信用できないと言うのなら。……なぜ君は論文の中身も確かめずに帰るんだ?私が、表紙だけ偽った白紙の束を君に掴ませて、ここから逃亡する可能性も、ないとはいえないよ」
 本当に、減らない口だ。
 今度はエドワードが唇を噛む番だった。
もうこれ以上、押し問答などしたくない。
今はこの世の何もかもが、面倒なのだ。
一刻も早く論文に目を通したい、ただそれだけのことに、どうしてこんなにも困難を極めなければならないのだろう。
いらだちがエドワードの腹腔の奥で弾け、エドワードの唇は、なだれるように弾けた空気を吐き出さざるを得なかった。
「じゃあ。茶でもなんでも…勝手に汲めよ。それ以上は待たねぇ。早くしろ」




ロベルトに留守を頼まれ、それで今日は出かけることが出来ないのだと、マスタングは言った。
男所帯らしく、手入れの悪そうな光沢のないテーブルの前に座り、エドワードはマスタングから渡された二つの紙束を、ひったくるように掴み取った。
「こちらは、フリードマンの最新の論文だ。彼はアインシュタインの宇宙論の不備を指摘している」
ティーカップから立ち上る湯気の向こうで解説するマスタングの声が、心底うっとうしい。
「こちらが、スライファーの論文。スライファーは君も知っているだろう?彼が撮った天体のスペクトル写真はこれだ。彼はこの中の写真を使って、アインシュタイン宇宙論の不備を、実際の天体観測結果から証明している。期せずして、彼はフリードマンの理論に近づきつつあるんだ」
エドワードが、せわしなく紙をめくる。
その連続した小さな風圧で、ティーカップ上の湯気が揺れる。
天体の光そのものを、プリズムで分光して撮影したスペクトル写真は、美しい夜空の風景とはかけ離れた、機械的な画像だ。
虹の幹を分断したような、四角い虹色の写真が、粗悪な紙の上にいくつも並べて印刷されている。
「スライファーは、そのスペクトル写真から、天体の光が赤方偏移していることに気づいたそうだ」
「セキホウ…ヘンイ?」
「ああ。天体写真の光の波長が、長い方…つまり赤い方にずれている。地球から遠い星が、本来の色よりも赤く見える。この赤方偏移が、宇宙の膨張を証明している、ということなんだそうだ」
「宇宙の、膨張?」
「宇宙は静止していない。果てがない…ということなんだろうな。天体は地球からどんどん止まることなく離れていって、赤く見えている、と」
その、赤に偏った虹色を───文字通りに赤方に偏移している、その四角い写真たちを、エドワードは食い入るように見つめた。

宇宙は静止していると。
宇宙は静止している、と、アインシュタインの重力場方程式は語っていた。だが、あの方程式とあの解答には、やはり無理があったのだ。
無理があると見抜いていた自分が、誇らしくもあり、愚かでもあり。
これは、机上の空論や予想ではない。
これが本当に、観測結果にもとづいた、事実なのだとしたら。
紙の上の写真たちが細かく震え始める。
もちろん、実際に震えているのは紙でなく、それを握ったエドワードの指だ。

───知りたくて。どうしても知らなければならなくて。

でも、知りたくなかった。
この地球が浮かぶ宇宙が、無限であるなど、知りたくなかった。

星は、遠ければ遠いほど赤く歪んで光っていて。
一番近いとされている星雲が地球から遠ざかるスピードは、秒速112キロで。
今オレがこうしてる間にも、星雲はどんどん離れていって。
オレの、オレたちの作ってるロケットのスピードは、どのくらいだった?
オレたちが何十日もかけて作ってる、人間を乗せることすら出来ない、小さなアレの。
アレの。
秒速は。
数キロにも足りないんじゃなかったか?
そんなもので、どうやって、「入り口」を探せる?




「どうした?エドワード」
論文を置いて、テーブルに手をついて、椅子から立ち上がったはずなのに、床が目の前だ。
「エドワード!」
耳元で炸裂するマスタングの声が不快だ。
名前で呼ぶなと、あんなに言ったのに。
どけよ。
汚れた靴を、人の鼻先にさらしてんじゃねぇ。
「気分が、悪いのか…!?」
テーブルに広げた紙束のうち、テーブルの縁にひっかかっていた何枚かが、一枚、二枚と巨大な落ち葉のように、エドワードの頭上から、眼前を舞って床に着地する。
足が。足腰が、立たない。
なんだこれは。
犬みたいに這ったまま、立てないなんて。
こんな男に触れられたくない、と強く願っていても、身体が動かなければ、どうしようもない。
ひざまずいてきたマスタングに両脇を抱え上げられ、エドワードは上半身を引っ張り上げられる。
首を傾げて覗きこんで来るマスタングの黒い目は、初めて会ったあの時、足場から落ちた時と全く同じの、真剣で冷静な目だ。
こうして間近に見ると、その目の虹彩は正確には黒ではなく、非常に深いブラウンであることがわかる。
深いブラウンが、左側だけ、また灰色に光る。

───あんたに、とどめを刺されるなんてな。

あんたが持ってきたこの紙切れに、何もかも断ち切られるなんて。
オレらしいような、どうしても許せないような。
エドワードは唇を震わせる。
閉じようとしても閉じられないそれは、目に見えない肉の微細な振動を、頬にまで伝染させる。
国軍大佐のあんたに、尻でも叩かれてるような、気分だ。
無駄なあがきはやめろと。
現実を受け止めて、もっと正々堂々と生きろと。
やっぱり、あんたは、そう言うのか。
脱力の後に湧いてきたのは、笑いだった。
だが、エドワードのその頬の歪みは、「マスタング」の目には笑いと映らなかったらしい。
「すまなかった。最初から、具合が悪そうだと…思ってはいたんだが。私のわがままで、引き止めた。すまない」

───オレに謝るな。あんたに謝られると、気持ちが悪い。

歪ませた頬をそれ以上歪めることも修復することも出来ず、エドワードは抱えられた上体を、目の前のマスタングの胸元に投げ出した。
どん、と頭をその開襟シャツの胸板に擦りつける。
エドワードの両脇を支えたまま、マスタングが驚いたように身体を引くのがわかった。
「生きてれば……それがツバサって、あんた言ったよな」
自分で自分の身体を支える努力を故意に放棄したエドワードの体重を支えるために、マスタングは床の上で片膝を立てる。
「ほんとのとこ、あんたは、どう思ってんの?あんたは、パイロットでなくなって、生きがいがなくなって、それで、これから、どうやって生きていくんだ?」
それはマスタングへの問いかけではなかった。
もちろん、会話の始まりですらない。
会話をする気が全くないエドワードの唐突なつぶやきに、マスタングは質問すら出来ないようだった。
「オレには無理だ。何もないってわかってて、生きるなんて、オレには」
マスタングはもう一度、エドワードの両脇を掴み直した。
「無ければ、作る。それだけだ」
簡潔なマスタングの返答は、マスタングの胸元で、失笑を浴びた。
エドワードは、もう顔も上げない。
「……立派だよな。アンタのそういうとこ、ホントに…大っ嫌い、だ……」
「君が今、何も作れない、というのなら。作れるまで待つよ」
マスタングの胸元で、ぐったりと金髪頭が動きを止める。
「寝ボケてんな?」
「待たせて欲しい」
「さっさと。アメリカに帰れ」
「君が望んでくれるのなら、私はここに残る」
動きを止めていたエドワードの肩が、ひくりとけいれんする。
一度きりのけいれんは、エドワードの腕全体に緊張を流し込み、小さな小さな震えを生んだ。
生まれた震えは途切れない。
エドワードのこめかみを伝って、マスタングの胸元にも、沁み込む勢いで震えが伝わる。
うつむいたままのエドワードが笑っていることにマスタングが気づいたのは、その胸元がエドワードの吐息で湿り始めてからだった。
エドワード、と声をかけようとして。
いきなり、突き飛ばされた。
爆発するような力だった。
硬い義手で肩口を突かれ、マスタングは床に仰のいて倒れた。
膝に手をつき、大儀そうに立ち上がるエドワードは、まだ笑っている。
マスタングを突き飛ばした手で乱暴に唇を拭い、その唇でまた、笑いが弾ける。
マスタングが初めて見るエドワードの笑顔は、笑顔であって笑顔でなかった。
それは、乾いた号泣だ。
涙のない号泣は、前触れもなく止まった。
立ち尽くすエドワードの目の中の金色も、無感情に静止する。

───あんたはオレに謝るな。

そうだ。そうだよ。
あんたはオレを慰めるな。
あんたは、そうやって、冷静に、傲慢に生きてるのが、いちばん似合う。
あんたらしくもねぇ。
とどめを刺すなら、完璧に、やれよ。
「エドワ、」
「…………、」
ほとんど聞き取れない言葉を短くつぶやいて、エドワードはマスタングに背を向けた。
「待ってくれ!」
マスタングは身体を起こし、立ち上がり、エドワードを追ったが間に合わなかった。
結わえたエドワードの長い髪が、飛び散るように揺れて、マスタングの伸ばした指先から遠ざかる。
それは今しがた、床にくずおれていた人間とは思えないような俊敏さだった。
閉まりきらないドアをこじ開けて飛び出し、アパートメントの狭い廊下を駆け、マスタングは目の前遠くを駆ける、小さな背中を追いかけた。
揺れる彼の髪が、金色に輝く残像となって目に沁みる。
エドワードを追いかける耳の中で、エドワードの最後の声が響き、また、かき消える。

───ありがとう。

君を、残像にしたくない。
マスタングのその願いは、アパートメントを出て、角を二回曲がった地点で途切れた。
どの路地を駆けていったのか、エドワードの姿はもう影も形もなかった。




***


足が重い。
椅子代わりの木箱から立ち上がり、黒髪の来客が立っている戸口まで、室内のごく短い距離を歩きながら、アルフォンスは息を詰めた。
骨とそれなりの筋肉が詰まった自分の足の重量を、こんなに鮮明に意識したことはなかった。
その客に近づけば、殴りかかるなり暴言を吐くなり、何か物理的にとんでもないことをしてしまいそうな不安を、アルフォンスは完全に鎮めることが出来なかった。
だが、その客がアルフォンスの不快のタネだった、というこれまでの経緯とはなんら関係のない、全く別の不安が、重苦しくすばやく、アルフォンスの胸をかすめたのも大きな事実だった。
不吉な、予感がする。
今日、エドワードに会ったに違いない彼が、それほど馴染みもないこの研究室にわざわざ来るというのは、何か順序がおかしいのだ。

───なにか、あったんじゃないだろうか。

まさか。エドワードさんに?
大きめの封筒のようなものを小脇に抱えて立っている来客の表情は、どこか沈痛だ。
「アルフォンス・ハイデリヒ君…だね?昨日電話したマスタングだが。エドワード君は、ここに来ていないだろうか?」
アルフォンスが目前で立ち止まるまで待たずに、マスタングは口を開いた。
ぎょっとして、アルフォンスは最後の数歩を早め、マスタングに対峙する。
「いいえ。来て、いません。それがなにか?」

──エドワードさんはあなたに会っていたのではないのか。
──会っていたのなら、なぜこんなところにまで来る必要があるんだ。
──それとも、エドワードさんはあなたと会う約束をまだ果たしていないのか。

疑問が多すぎると、かえって簡潔な応対しか出来ない。
アルフォンスが追って質問を浴びせる前に、マスタングは話し始めた。
「エドワード君に、この論文を貸す約束をしていたんだが。私の家でこれを読んでいるうちに、彼は気分が悪くなったようでね。具合が悪いまま、帰ってしまった」
不安の的中に、アルフォンスの息が苦しくなる。
「心配で、君たちの家も訪ねたんだが、誰もいなかった。ここにもいないのなら…彼が行きそうな場所を教えてくれないか?」
「具合が、悪いって。……どんなふうに、ですか?」
予感はじわじわと自責に形を変え、アルフォンスの意識を残酷に冷やし始める。
今朝、とんでもないショックをエドワードに与えたのは、アルフォンスだからだ。
いや、まさか。
それ以上の衝撃を、この男はエドワードに与えたとでもいうのだろうか。
「申し訳ない。上手く言えないが…今思えば、この論文を見てから、エドワード君は様子がおかしかった。何か、精神的にショックを受けたようだった」
胸の前にすいと差し出された封筒に、アルフォンスは視線を落とす。
「アインシュタインの静止宇宙論を否定する、最新の論文だ。エドワード君が忘れていったので、君からエドワード君に渡してもらえないだろうか。返す時は、ロベルト宛てに返してくれればいい」
論文を、忘れて置き去りにするなど。
故郷へ帰るための、ロケットのための資料集めに、並々ならぬ執念を燃やしているエドワードには、まずありえないことだ。
封筒を引ったくり、中から紙束をわしづかみに掴み出して、アルフォンスは論文をはらはらとめくった。
用済みの封筒が床に落ちたが、そんなものに構っているヒマはない。
出来うる限りのスピードで文字を追いながら、アルフォンスは鎮めようとしても鎮まらない不安に、震え上がる。
いくら最新の論文だからって。
こんなものを、こんな内容を読めば、エドワードさんは。
論文の核心を記述したページにたどり着き、アルフォンスは紙を繰る手を止めた。
こうしてる間にも、エドワードさんはどこかで苦しんでいる。
この論文に打ちのめされて。
いや。僕のせいで。
僕のせいで、エドワードさんはどこにも帰れなくて、どこかで苦しんでいる。
「彼を君たちの家まで送り届けられなくて…申し訳なかったと、思っている。だから。エドワード君が行きそうな場所を教えてくれないか」
何か、体内の痛みを耐えてでもいるような、こわばったマスタングの頬に、彼の焦りを感じて、アルフォンスの呼吸はますます苦しくなる。

───あなたには、きっとわからない。

声になりかけた吐息を、アルフォンスはようやくかみ殺す。
口に出さず、胸中だけで叫ぶことが出来たのが、奇跡のようだった。
あなたにわかるはずがない。
エドワードさんが何を求めて生きているのか、あなたにわかるはずがない。
目前の、哀れっぽいマスタングの焦りが、アルフォンスの中の何かを決壊させた。
「…あなたに、エドワードさんの行き先は教えられません」
論文から目を上げ、真正面の瞳の黒をねめつける。
視線でこの男の身体を刺し貫いてしまえないのが、もどかしい。
「僕が彼を探します。ここでお引き取りください」
前置きもない拒絶に、マスタングは驚き、一呼吸の後、諦めたようだった。
「…君は……エドワード君の、」
「帰ってください…!」
もう何も聞きたくない。
この男に質問などさせない。
僕がエドワードさんの何か、なんて、あなたに教える義理はない。
剥き出しの紙束を片手に握ったまま、アルフォンスはマスタングを戸口の外へ押し出し、自分も外に出てドアを閉めた。
「エドワード君に、伝えてくれ。君は翼を持っている、と。そう言えば、彼にはわかるから」
駆け出そうとした肘を掴まれて、決壊したアルフォンスの感情が喉元にまでせり上がって来る。
嫌だ。
僕の知らないあなたの暗号を、伝えるなんて。
それでエドワードさんが心の底から慰められるのだとしても。
僕の口から、あなたの思いやりをエドワードさんに伝えるのは、死んでも嫌だ。
アルフォンスはマスタングの腕を振り払った。

───また僕は、神に背いた。

叫ぶ代わりにただ、駆け出した。

───ひょっとしたら。マスタングさんなら、エドワードさんを救えたかもしれない。

早くエドワードのところに行かなければならない。
アルフォンスのアパートにもいない、研究室にも来ないとなれば、彼の帰る家はあそこしかない。
エドワードがアルフォンスを許してくれなくても、行かなければならない。

───マスタングさんの持つ、そのわずかな可能性が。あの人が、僕よりも確実に間違いなくそれを持っていることが。僕はただ、ひとりよがりに悔しくて。

アルフォンスはただ走った。
耐える間もなく目尻が濡れてくる。
頬を伝う水の感触は、虫が這ってでもいるように、毒々しく冷たい。
自分が何を思って泣いているのかわかりすぎて、いっそ死んでしまいたい。

───なんて汚い涙だろう。

焦りでもない。
悲嘆でもない。
エドワードへの心痛でもない。
これはただの、自己愛だ。
また僕は、神に背いた。
緩んだ涙腺が視界を狭め、アルフォンスはうめいた。
思うように動かない重い足が、ちぎり取ってしまいたいほどに、憎かった。




「あんた、あの子の友達かい?なら、言ってやってちょうだいよ。風が出てきたんだから、窓ぐらい閉めろ、って」
アパートの廊下ではちあわせた中年の女性は、いらだたしげにアルフォンスに言い放ち、乱暴にドアを閉めて隣の部屋に入っていった。
エドワードの父が借りている部屋の隣人であるらしい彼女は、今日の午後から「隣の部屋の開けっ放しの窓がバタンバタンと音を立てていて」うるさくてお茶も飲めない、と、見ず知らずのアルフォンスに愚痴をこぼした。
「エドワードさん。居るんでしょう?」
乱暴にならない程度に、だが大きな音でアルフォンスが玄関ドアを叩いても、応答はない。
ノブを回しても、ドアはびくともしない。
そうこうするうちに、また隣のドアが開いた。
「いいかげんにしてちょうだいよ!」
隣室前で繰り返されるノック音にも、彼女は耐えられなくなったのだろう。
アルフォンスの忍耐も、もう続かなかった。
「すみません。友達が、病気なんです。部屋の中で、動けないでいるかもしれないんです。お宅の、そちらの窓から、入らせてください」
面食らう隣家の女性をよそに、その隣家へ踏み込み、その窓から、広いとはいえない庇(ひさし)の上に降り立って、アルフォンスは外壁に取り付いて、摺り足でようやくエドワードの部屋の窓辺にまで到達する。
建物の高さにおののいている場合ではないのだ。
握った窓枠のすぐ下に、あまりにも見慣れた金髪がうずくまっているのが見えて、わかってはいてもどきりとする。
「エドワードさん」
声をかけると、エドワードは身体全体をすくませ、こちらを見上げて来た。
かなり驚いているらしい。
それはそうだろう。いかに周囲に気を配っていなかったとはいえ、一階ではない窓の外から人間が湧いて出てくれば、誰しも多少は驚く。
アルフォンスは危なっかしい動きでバランスを取り、庇から窓枠を踏み越え、すぐに室内に飛び降りて、くだんの窓を閉めた。
エドワードは窓の下で片膝を抱え込み、座り込んだままだ。
風に吹かせるに任せていた部屋の中は、さんさんと日が射すのにもかかわらず、冷え切っている。
光の中、全ての家具や床の上が、ぼうっと透ける乳白色の埃のベールに覆われているのが、アルフォンスの心臓を弱々しく締めつけた。
「エドワードさん」
アルフォンスの存在を認めたものの、再び視線を上げないエドワードのまなざしを追って、アルフォンスはひざまずいた。
もう口をきいてもらえないだろうことは覚悟している。
自分がエドワードの力になれないこともわかっている。
そのうえでここに来たのは、単なるアルフォンスのエゴだ。
気にせずにいられないから、気がすまないから、エドワードを追って来た。
今エドワードに罵倒されても、拒否されても、無視されても、全くそれは正しいのだ。
そんな中で、躊躇や羞恥をふりかざしてエドワードへの働きかけをためらうのは、限りなく無意味なことに思えた。
数々の恥と背徳を高く掲げて、ここに来た。いまさら恥じらっても、神は振り向かない。
アルフォンスは、伏せられて黄土色に翳るエドワードの瞳を見つめた。
「僕の家に、来て、もらえませんか」
帰りましょう、とは言えなかった。
エドワードが本当の意味で帰るところはこの家と「故郷」であって、アルフォンスのアパートではない。
しかし、人も出入りせず荒れ果てたこの部屋で、エドワードが今晩から寝起きし、食事をして健康を保ってゆけるとは、とても思えない。
「ここで、食事の支度をするのは大変でしょう?」
だから、僕が出て行けばいいんだ。
アルフォンスは祈るように、微動だにしないエドワードのまなざしを探る。
エドワードさんを連れて帰って、一緒に食事をして、具合が悪いなら手当てして、ベッドに寝てもらって、それから、僕が出て行けばいいんだ。
エドワードさんは僕がいると安心出来ない。
だから、今度は僕が研究室で寝ればいいんだ。
「エドワードさん」
エドワードはうつろに床を見つめるばかりだ。
「エドワードさん。ごめんなさい」
返答の代わりに、エドワードはひとつ、まばたきする。
「…今朝のこと。ごめんなさい」
どうしてもエドワードに顔を上げて欲しい。だが、エドワードがこのまま頑強に拒否を続けてくれたなら、いくらかは楽になれるかもしれない。
そうして、今すぐ帰れとエドワードに胸倉を掴まれて、この部屋からつまみ出され、全ての希望を彼が断ち切ってくれれば、アルフォンスはもっともっと楽になれる。
この期に及んで、関係の破壊の実行をエドワードに押しつけたがっている自分に、軽く吐き気を覚える。
黄土色だったエドワードの瞳が、いきなりくるりと視点を上げ、光を得て、金色に戻った。
「……なんで謝る?殴ったのは、オレだろ?」
かぼそい問い返しに驚いて、アルフォンスはとっさに言葉を探せない。驚愕で苦しい息の下、口だけの呼吸を数度繰り返した後で、やっと声が出た。
「殴られるようなことをしたのは、僕です」
生気のないエドワードの金色の瞳は、ほんの瞬間アルフォンスを凝視し、またうつむいて黄土色を宿した。
「オレを連れて帰っても、おまえにいいことは、なんも、ないぜ?」
「いいえ」
このうえなく無愛想に押し出されてくるエドワードの言葉はみな、彼自身の悲しみと思いやりを、精一杯内包している。
「オレは夜中に夢見てわめくし、部屋も散らかすし、朝は起きねぇし」
「もう慣れました」
「おまえはオレの世話に疲れてまた、熱出すのがオチだ」
「そうしたら、看病お願いします」
「オレは…ありもしない世界から来たことになってる、イカレ野郎だぜ?」
「イカレててかまいません」
「オレは。…おまえが、してくれることを、おまえにどうしても返せない。だから」
「エドワードさん」
もう黙って。
それ以上、聞きたくない。
あなたは、僕に何も返す必要はない。
そこにいればいい。
そこにいて、僕の、自己満足なあなたへの贖罪を、受けてくれるだけでいい。
僕はもう、あなたに、どうしても謝りきれないほどの、罪を犯したから。

───僕は、嬉しいんです。

あなたが、故郷に帰れなくなって。
あなたの心を得られなくても、あなたの存在を失わずにいられることが、僕は嬉しいんです。
僕はあなたの望みが砕かれたことを、歓迎している。
僕はそうやって、神に背いた。
だからあなたは、これからもずっと、僕に何も返す必要はない。
「…エドワードさん。許してくれるんですか」
薄汚い期待に満ちた自分の声が、なぜかとても温かい響きになって床に落ちるのを、唇を湿らせながらアルフォンスは聞いた。




「許すも許さねぇも。おまえは、悪くねぇだろ」
やっと言葉を返して、エドワードはまた、日の射す床に目を落とした。
いつもの優しい色を取り戻したアルフォンスの目を、見つめ続けるのがつらい。
陽だまりを喜ぶように、相変わらず床上で踊る埃の粒は、音も立てない。
アルフォンスは来てくれた。
一緒にいても何の価値もない、むしろ苦痛の種になる、そんなエドワードのために、この家まで来てくれた。
もう来てくれないと思っていた。
二度と来てくれないと思うことに、安心すらしていた。
全て、終わらせたかったのだ。
マスタングを思い出して葛藤することも。
アルフォンスと「アルフォンス」を選べずに苦悩することも。
そして何より、この目の前のアルフォンスを、苦しめることも。
それらの事項は、確実に終わるはずだった。
故郷への道を探る方法は粉砕され、アルフォンスはエドワードの嘘を許さない。
そうやってきれいさっぱり、何もかも消えた。
そう思っていたのに。
見つめてくれるアルフォンスの目が、まっすぐ問いかけてくれるその声が、やわやわと力なく無色にほどけていたエドワードの意識を、ゆっくりと温めてくれる。
そばでひざまずいてくれているアルフォンスは、その折った膝に乗せていた右手をふと上げ、思い出したように、下ろした。
「触って、いいですか」
床を見つめたまま、エドワードはうなずいた。
目を上げることなど、到底出来なかった。
今朝とは別人のような動きで───まさに、おそるおそるといった具合で、アルフォンスの手のひらがエドワードの肩に伸びて来る。
肩を通過し、腕を滑り、背中に回って、手のひらはアルフォンスそのものになって、エドワードを抱きしめた。
うすら冷たい壁に預けていた背中をじわりと引き剥がされ、エドワードの上半身は、全てアルフォンスの腕の中に収められる。
容赦なく鼻腔に満ちてくるアルフォンスの匂いが、懐かしい。
離れていたのは数時間でも、初めて繋がり合ったのがたった数日前でも、その匂いは、懐かしいとしか言いようがなかった。
懐かしい匂いはエドワードの鼻腔に沁み、喉に沁み、肺に沁みて、その臓腑近くで根を張っていた冷たい何かのかたまりを、跡形もなく溶解させてゆく。
「この家は、引き払う」
すぐそばで鼓動する、アルフォンスの心臓に向けて、エドワードはささやいた。
「オレをおまえの家に置いてくれ」
溶解して流れるそれの行き先など知らない。
それは、すがすがしくてどこかきゅうくつだった、希望の終わりだった。
「アルフォンス」
可能な限りの思いを込めて、エドワードはささやく。

「オレを、おまえの家に置いてくれ。ずっと」

ようやく言えた言葉が、結晶した砂糖のように、脆く、頼りなく床へと崩れ落ちてゆく。
崩れ落ちた言葉を、もうすくい上げることは出来ない。
散った言葉を拾い集めることなど許さない、とでも言いたげに、アルフォンスは腕の力を強めてくる。
翼など、必要ない。
ここは、楽園なのだから。
抱きしめ返さないことが、せめてもの誠意だと、エドワードは思った。

アルフォンス。
オレにはおまえがすべてだ。
この取り去れないオレの卑怯さを、おまえは、オレの心臓ごと、いつか叩き潰してくれればいい。
アルフォンス。
オレには、おまえが、すべてだ。

温かいアルフォンスの胸元から顔を上げて、エドワードは目の前の冷えた唇に口付けた。
甘やかな絶望が、いま始まる。