翼のある使者 -1-



鏡の前が、一番危険だ。
申し訳程度に、襟足近くを手櫛で梳きながら、アルフォンスは鏡の中の己を見つめた。
いぎたないエドワードはまだ起きて来ない。
朝、時間に間に合わなくて焦る人間を目の前で見ていると、準備万端なこちらもなんだか焦らなくてはならないような心持ちになって来るので、なるべくならもう少し早く起床して欲しいと思う。
しかし。
早く起きて欲しいのはやまやまだが、自分よりも早く身支度をされるのは困る。
非常に手前勝手な思いを、鏡の中の自分を見つめながら無言で宣言して、アルフォンスはそこから離れ、キッチンに戻った。
ケトルに水を入れて、火をおこす。
キッチンで火をおこせば、ストーブ用の石炭を消費しなくても、排気管を通じて、隣の部屋も少し暖まる。
ケトルの水が沸いて泡立ち始める音に耳をそばだてながら、アルフォンスは小さく息を整えた。
エドワードがこの家に泊まるようになって、ひと月近く。
エドワードの生活様式は、あらかた覚えた。
それは一言で言うと、怠惰。
そして無計画。
脱いだコートやら何やらを壁にも掛けずベッドに放り出して、そのまま自分もそこにもぐりこんでいたり、一緒にもぐりこんでいたシャツを翌朝そのまま着ていたり(アイロンというものの存在と使用法を彼は冗談抜きで知らないのではないかとアルフォンスは思う)、シャツの残り枚数も数えずに洗濯したり(そのせいで何度もアルフォンスのシャツを借りるはめになり、借りておきながら袖が長いと文句をつけてふてくされる)、汚れた食器をすすぐのがいつもおざなりだったり、義肢を外すのが面倒だと言ってシャワーもろくに浴びなかったり。
そして朝、起きて来ない。
想い人のダークサイドをこれでもかと見せつけられて、それでもその半分以上を苦笑いで済ませている自分は相当骨抜きにされている、と。
アルフォンスは自分にあきれつつも、再度息を整える。
エドワードが夜中にうなされるのを聞くのは辛いが、あれ以来、彼は眠る時きっちりと部屋に鍵をかけ、「入ってこなくていい」と意思表示してくれている。
彼の寝顔を見て動揺する機会もないし、覚醒中の彼のだらしなさを見るのも慣れた。
起床した彼が半裸同然の姿で部屋から出て来て、キッチンでみっともなくズボンのファスナーを下ろしてシャツの裾をそこへ押し込む姿だって、結構平静に見ていられる。
シャワーの後、濡れた髪を長く下ろしている姿だって、彼の半径50センチ以内に近寄らなければ、見ていてもなんとか赤面しない。
けれど。
朝、彼と洗面所で会うのがダメなのだ。
朝、エドワードが気合の入らないしかめ面で起きて来て、洗面所の鏡の前で、冷たい水にのっそり悲鳴を上げながら顔を洗い、けだるげに髪を結ぶ。
そのしぐさが、ダメなのだ。
不自由な右手で器用に金髪がまとめ上げられ、蝶が花にまつわりつくように、するすると左手が何度かそこを這うと、髪の下から、白い項が今日初めて現われる。
高く結い切れない、短い後れ毛が、光に透けてエドワードの首筋にふわりと絡んでいるのを初めて間近で見た時、アルフォンスはエドワードを突き飛ばして狭いバスルームに飛び込んだ。
結果を見るのはいい。
「エドワード」という人間が、髪を結い上げて「エドワード・エルリック」になった、その結果だけを見るのならなんでもないのだ。
その過程を見るのがダメだ。
項が現われるあの瞬間が、ちりちりと遠慮深い金糸が肌を透かして揺れるのが、健康的な朝の光の中で、あんなに、破壊的なまでに、ナマメカシイなんて。
不審がってドアを叩くエドワードの、眠気で間延びした声を無視しながら、バスルームの中で、その時のアルフォンスは自らの熱くなった身体を数分間もてあましたのだった。
「その商売」の女性は、気を惹くために男性の目前で化粧をすると言うけれど。

───それは、「過程」の破壊力を知っているからなんだろうか。

買春を具体的に想像したことも実践したこともない機械好きの少年は、火にかけたケトルのふたが揺れて小刻みに鳴るのも気づかずに、世間の隠れた常識に、身構えながらも初めて納得してしまうのだった。




ひどい、夢を見た。
ストーブもつけないのに、どこからともなく暖かくなってきた部屋の空気をひょいと飲み込んで、エドワードは横たわったまま薄目を開けた。
厳冬は過ぎ、日中はかなり暖かくなってきたにもかかわらず、アルフォンスは朝早く起きて、必ずキッチンと、この部屋を暖めてくれる。
それが自分を思ってくれてのことなのか、単に自分がアルフォンスよりも早起き出来ない結果のことであるのか、それを彼に訊くのはずうずうし過ぎてとても確認出来ないが、ありがたいことだとエドワードは思う。
寒い朝、目覚めてすぐの、義肢を着ける前の独特の疼痛は、かすかではあるが不愉快なものだ。
起き抜けや、寒い日に義肢を着けた手足が痛むことをアルフォンスに話したことはなかったが、それはやはり幸いだった。
そんなことを言えば、アルフォンスはどんな夜更かしをしても、どんなに前夜疲れていても、大変な努力をして、毎日早朝から家中を暖めてくれるに違いない。
そうやって、結局ずうずうしく彼の善意を確信しているせいか、この家で寝起きするようになって、エドワードに深夜訪れる悪夢は、その様相を少し変えていた。

───まったく。ひでぇ夢だ。

重いまぶたをもう一度下ろしたい欲求を必死で耐えつつ、エドワードは額を掻く。
たぶん、昨夜も自分は隣室に聞こえるほどの声でうなされていたことだろう。
先日の反省から、エドワードは部屋を施錠して眠ることにしていた。もちろん、悪夢は途中で誰かに覚ましてもらった方が嬉しいが、今のこの状況で、アルフォンスにそれを要請するのは危険すぎる。
これ以上、現実と夢がごちゃごちゃになるのは困るのだ。
苦しい夢から覚め、うとうとと夜を明かして、アルフォンスが隣室で朝の支度をし始めた物音をぼんやり耳に留めながら、長い時間をかけて起床する気力を養う。
毎朝、なぜそんなにまどろっこしい行動しか取れないのか。
アルフォンスは、そんな「寝起きの悪い」エドワードに当初あきれていたようだが、ひと月も経った今では、もう小言すら降って来ない。
それはエドワードにとって大変都合が良いことだったが、だからと言って、毎朝のこの気まずさがエドワードの感覚から消え去るわけではなかった。
一番危険なのは鏡の前だ。
一生懸命、出来うる限り脳内を覚醒させて洗面所に踏みこんでみても、早朝から、肩が触れ合う距離でアルフォンスと会話することは、エドワードにとって大変な苦行だった。
朝、アルフォンスと物理的に接近していると、どうしても、彼に触れて確認したくなる。

──これは夢の続きではないのか。
──続きでないなら、アルフォンスは、きちんとアルフォンスとして存在しているのか。
──彼の肉体は、今この場で触っても崩れてしまったりしないだろうか。

考えれば考えるほど、そしてそのばかばかしい思考を打ち消そうとすればするほど、なんとも気まずい空気が洗面所付近に充満し、エドワードは身づくろいのさなかに身動きが取れなくなる。
一度など、よほどそのぴりぴりした空気に嫌気がさしたのか、アルフォンスは出かける時間が迫っているというのに、長いことバスルームに閉じこもって出て来なかった。
そんなこともあって、エドワードの起床時間はますます遅くなった。
完全にアルフォンスが身支度をすませる時間帯になるまで、とても顔など洗いに出られない。

この頃ますます朝遅いですね、などとやんわり嫌味を言われても、エドワードは反論も弁解も出来ない。
遅い理由など言えるわけもない。

───夢の中で、おまえも弟と一緒に砕けて砂になってるから、朝は不安でたまらない、なんて。

口が裂けても言えないのだ。




眠い。
エドワードは作業の合間合間に目を擦った。
研究室に客が来るというので、試作機の完成を急いだ結果が、この睡眠不足だ。
ロケットエンジンの効率化を目指して、アルフォンスとゆっくり次作機の改良を加えていくつもりが、突然のアポイントによって雪崩のごとくスケジュールが詰まった。
昨今、ロケットの素人愛好家も少なくなく、特に、あの有名なオーベルト氏の弟子(?)だということで、エドワードたちの研究室に、同じような研究チームから作業の見学の申し入れがあることも、珍しくはなかった。
だが今回は、その見学者は学生などではないというのだ。

───僕らの、パトロンになってくれる可能性もゼロじゃないからね。

そう言って、嬉しそうに、だが眠そうに設計図を清書していたアルフォンスの顔は、ここからはよく見えない。
エドワードは小さなロケットの周囲に張り巡らされた足場によじ登り、地上数メートルの地点で、ロケットの最上部の設置具合を点検していた。足場の高さは3メートルにも満たないが、思ったよりも地上は遠く、足場から少し離れたところで、件の客に今回の打ち上げのプロセスを説明しているアルフォンスの声は、途切れ途切れにしか聞こえて来ない。
「そうです。ステップ式、とでも言ったらいいんでしょうか。小さいロケットと、大きいロケットを、くっつけてあるんです。あるところまで高度を稼いで、大きい方を途中で切り離せば、小さい方はより高度を得られます」
そうだよ。燃料を効率的に燃やしたいっつうんで、そーゆー姑息な方法をオレが考えたんだ。
「燃料も……一度に燃やすのでなく。大小で、順番に点火すれば…」
そう。それで。おまえも、そうやって設計を考えてくれて。

途切れ途切れの、だがはつらつとしたアルフォンスの声を聞きながら、エドワードは首を大きくひねって小型ロケットの最上部をねめ回した。
どこにも歪みはない。ボルトも抜けてはいない。
「エド!!準備いいかー?」
「おうよ。今降りる」
足場の真下からヨゼフに呼ばれて、エドワードが右足を一段、下ろした時。
足場の隙間から、下界に客がもう一人、増えたのが見えた。
アルフォンスたちの背後から悠々と歩いてきたその男に、エドワードの視線はくぎづけられる。
ある予感に、背筋が冷たい。

それは、アルフォンスとルーマニアで会った時と同じの。
このミュンヘンの街角で、初めてヒューズに声をかけられた時と同じの。
アルフォンスの下宿屋で、女主人に挨拶した時と同じの。
冷たい、幻影と絶望の予感だった。
歩いてきたもう一人の客は、さらりと柔らかそうな黒髪を揺らして、アルフォンスに軽く会釈した。「遅れまして。申し訳ない」
その声に。
吹き出した嫌な汗で、エドワードの手袋が、内側からぞわりと湿った。
「エド!もう点火するぞ!!」
ヨゼフに急かされ、もう一段下に、義足である左足を引きずり降ろそうとした瞬間、男がこちらを見上げた。

見覚えのありすぎる、黒い、目。

内側から湿った手袋の、指先の感触が消え。
タイミング悪く下ろされていた義足はエドワードの体重を支えきれず。
声もなく、エドワードの身体はそこから落下した。






「待て!!頭を動かすな!!」

───言われなくても、動かせやしねぇ。

目が開けられない。
ぼんやりと戻りかけた暗い意識の中で、エドワードはひとりごちる。
だがその怒号に近い、懐かしい声は、エドワードにかけられたものではなく、どうやら、地面に横たわっているエドワードの周囲に集まった人間にかけられているようだ。
足場から落ちた時、したたかに、肩から首筋にかけて衝撃が走ったのはわかったが、衝撃の割に苦痛を感じなかったのは、自分が何秒か意識を失っていたからなのだと、エドワードはようやく思い至る。
「エドワードさん!!」
壊れかかった拡声器を通したような響きで、アルフォンスの声がすぐそばから覆い被さってくるのがわかる。

───騒ぐな、アルフォンス。目が…ちょっと開け辛いだけだ。

あっちこっち痛くって、動かせやしねえ。
気絶のおつりとでも言いたげに、どっと襲ってくる打撲痛を耐えるのに忙しくて、目が開けられない。
覚醒しているつもりなのに視界が戻ってこない恐怖と戦いながら、エドワードは唯一動かせる左手で地面を掻いた。
その手の手袋がそっと引き抜かれ、素肌をさらした指を誰かに握られる。
握ってくる手は、そのまま手の甲を滑り、ひどく節の固い指が、手首に絡みついて来る。
脈拍を、計られているらしい。
今朝のそれよりもずっと大変な作業だと思いながら、エドワードは自らのまぶたを押し上げた。
そして。
もう一度瞬きもしない間に、絶望の幻影は、逆光の浅い影の中、かつての上司の顔をして、午前中の高い空をバックに、いつになく真剣な表情で見下ろして来るのだった。
「君。大丈夫か?」




「オレが急かしたせいだった」とヨゼフは主張し、「僕がエドワードさんを睡眠不足にさせたから」とアルフォンスは主張し、「そんなにスケジュールを詰めさせて悪かった」と来客の一人は主張したが、その三つ巴の論争を、エドワードはゆっくり身体を起こしながら、一言で片付けた。
「…オレの不注意だ。誰も悪くない」
うつむき加減のその低い声に、主張者たちはさっと喧騒を引っ込めたが、そんな外野を気にすることもなくエドワードの脈拍を計っていたその男は、視線を揺らさずエドワードを見つめ続けた。
「君。どこが一番痛むかね?」

───まだ、待ってくれ。

動転も、初対面の遠慮もなく。
彼の黒い目は、沈着冷静な医者のように、エドワードの身体の損傷を確認することだけに集中している。
「吐き気はしないか?」
まだオレは、こんな近くで、
「特に痛くなくても、急には立ち上がらない方がいい。ゆっくり、深呼吸して」
あんたの顔を見る勇気が。ない。

掴まれていた手首を振り払い、忠告を無視して立ち上がったエドワードは、乾いた破砕音と共に、すぐに前のめりに膝をついた。
義足が、壊れたのだ。




───何かヘンだ。

どぎまぎせずにはいられない状況であるにもかかわらず、アルフォンスは、自分の中のときめきを、ゆっくり吟味出来ずにいた。
試作機の打ち上げを早々に済ませ、来客の応対はヨゼフたちに任せて、アルフォンスは今、義足が壊れて歩けないエドワードをおぶい、真昼間の街中を歩いている。
たとえ自力で歩けたとしても、一度意識を失うほど頭を強打した人間を、一人で家に放っておくのは良いことではない。
実のところ、来客の応対は、研究室の主要メンバーであるアルフォンスかエドワードが務めるのがふさわしいのだが、なんとエドワードは、起き上がるやいなや、心配する外野を尻目に、何の脈絡もなくアルフォンスを「付き人」に指名してきたのだ。

───アルフォンス。おまえん家に、連れて帰ってくれ。

強制送還しなくとも、最近のエドワードは素直に夜、アルフォンス宅に眠りに来てくれることは百も承知であったが、アルフォンスは何か、不穏なものが自分の中に湧いてくるのを抑えることが出来なかった。

素直に喜ぶべき状況なのに、何かがおかしいのだ。

義肢を着けているとはいえ、エドワードの運動神経は並より遥かに上だ。今まで幾度となく小型ロケットの打ち上げをしてきたが、エドワードはサルのように足場の上を飛び回り、多少足を滑らせることはあっても、今日のように無様に落下することなど一度もなかった。
そして、エドワードは一ヶ月前の雪の夜の顛末を、研究室の他のメンバーに知られることをことのほか嫌がっていた。それゆえにアルフォンスは沈黙を守り、研究室の面々は、エドワードがアルフォンス宅に入り浸っていることを今日まで全く知らずにいたのだ。
それにもかかわらず、エドワードは皆の面前で、アルフォンスをごく慣れたふうに名指しした。

まるで、アルフォンスとの友人関係を、誰かに見せつけるように。

それがエドワードの本音であると、素直に信じて喜ぶことの出来ない自分が、とてつもなく疑い深い生き物になってしまったようで、温かいエドワードの体温を背中に感じながらも、アルフォンスの心は温度が低いまま、じくじくとざわめき続けた。
背中のエドワードは無言だ。
照れ隠しの罵倒も、照れながらの感謝も、壊れやすい義肢への愚痴も、何もない。
小さな子供ではない男が、こんな大通りで、やはり子供でない男をおぶって歩いている姿は、いやがおうでも注目を集めているが、それに対する居心地の悪さへの感想も、一切ない。
エドワードが眠っていないのは、気配と、首にかかる腕の力でわかる。
「本当に、病院に行かなくていいんですか」
「ああ。何ともねぇよ。寝りゃ治る」
三度目の質問なのに、エドワードは、しつこい、と怒る様子もない。
素直すぎて気持ちが悪い。
「でもあの黒髪の人、なんだかお医者さんみたいでしたね。すごく冷静で」
「ふうん。気がつかなかった」
「脈の取り方とか、手慣れてて」
倒れたエドワードに駆け寄って抱き起こそうとしたところを押し退けられたことは、もちろんエドワードには内緒だ。
内緒というよりは、単純な悔しさで、アルフォンスはそれを口にする不愉快に耐えられなかった。
見知らぬ男がエドワードを的確に介抱したそのことが、自分にエドワードを助ける知識が足りなかったことが、どうにも悔しくてたまらない。
「で、」
感情の見えない声が、アルフォンスの背後でいったん息を飲む。
「あの客。医者なのか?」
棒読みにも聞こえる質問は、どこか、不安げだ。
「さあ。最初にアポを取ってくれた人の知り合い、としか聞いてませんよ。あまり、ロケットには詳しくないみたいでしたけど」
「野次馬かよ」
「野次馬でもいいじゃないですか。一人でも、たくさんの人に見てもらえれば」
吐いた言葉の嘘を自覚しながら、アルフォンスは腕のポジションを整えるために、そっとエドワードの身体をゆすり上げた。
アルフォンスの動きに呼応して、エドワードも腕を巻き付け直す。
服の上から、遠慮がちな指がアルフォンスの鎖骨の上を通り過ぎてゆく。
その切ない感触を少しでも鈍化させようという自己防衛のために、アルフォンスの精神力は、真昼間の往来において、無駄に消費されつつあった。

───馬鹿馬鹿しい、ほんとにばかばかしいことだけど。

喉に溜めた、吐き出すあてのない不愉快を、アルフォンスは力の限りに飲み下す。
出来れば。
あのお客には、もう来て欲しくない。




***


相変わらず、殺伐とした夢だった。


燃え落ちてしまったはずのあのリゼンブールの家の中で、10歳のアルフォンスが、嬉々として、床に錬成陣を描いている。
床にひざまずいて、小さな背中がそのままくるくると移動し、完璧な錬成陣が、足元に描かれてゆく。
やめておけ、と、エドワードはたしなめられずにいた。
声が出ないのだ。
部屋の隅に立ち尽くしたまま、アルフォンスの動作も錬成陣も、その真中に用意された「人体錬成に必要な物質たち」も、あの時のままそっくり見えているのに、声が出ず、足を踏み出すことが出来ない。
重い疼痛を感じながら、やっとのことで首を曲げて自分の足元を見ると、左足は跡形もなくなっている。
片足で何の支えもなく立っていられることへの疑問が湧く前に、足が無いことそのものがショックで、エドワードは動転しながら手近につかまれる物を探した。

壁。部屋の壁はどこだ。
壁に手を、つきたい。
何か。何かつかまれる物は。

夢だとわかっていても、動転を止めることが出来ない。
虚しく両手で宙を探っている間にも、アルフォンスはさらさらと錬成陣を仕上げてゆく。
声さえ出れば、こいつを止められるのに。
二通りの焦りに思考を引き裂かれ、エドワードは喉の奥でうめいた。
だめだ。アル。
人体錬成はだめだ。
おまえにはこのオレの姿が見えてないのか?
錬成すれば、身体を失う。こうやって。
錬成すれば、おまえは、身体を全て、失うんだぞ?
オレを見ろ。
早く。
こっちを見ろ。
錬成陣を描くのをやめろ。
早く。
熱で焼き切られたように、喉の痛みが激しくなる。
そうこうするうちに、震えだした右手をいきなり背後から掴まれて、エドワードは驚愕に呼吸が絶えそうになった。
右手首を掴む腕は、青い軍服をまとっている。
「鋼の。君に弟は止められない」
背後から降ってくる声は、落ち着き払っている。
振り向く間もなく、そのままの姿勢で抱きしめられた。
「君は、見ていることしか出来ない。それは、君が罪を犯したからだ。君の罪がどういうものだったのか、今からよく見ておきたまえ」
恐ろしいセリフに、耳まで凍って、もげそうだ。
やめろ。アル。やめるんだ。
離せ。大佐、離してくれ。
アルフォンスが、錬成陣を描き終えて立ち上がる。
いつのまにか、小さかったその背中は大きくなり、ようやく振り向いたその瞳は、青く透き通っている。

おまえ。アルフォンス?

「エドワードさん。よく見ててください。やっと、あなたのお母さんを錬成出来ますよ」

やめて、くれ。

あらん限りの力で伸ばそうとした右腕は、マスタングに掴まれた部分から、砂が崩れるように、ざあ、と融け落ちた。
アルフォンスがもう一度ひざまずく。
白い錬成光は、うなりを上げて彼に吠えかかった。



***


手早いノックの後、少しもためらわず、アルフォンスはドアを開けた。
頭を打った後遺症が怖いから、もしもの時のために今晩は鍵をかけずに寝て欲しい、と、数時間前にエドワードに言い渡しておいたのだ。
けれど、そんな事情もなしに、いつも通りエドワードが施錠してこの部屋で寝ていたとしても、やっぱり、今夜はこうしてドアをノックせずにはいられなかっただろうとアルフォンスは思う。
そのくらいに、先刻の、壁越しの絶叫はすさまじかった。
夢うつつとはいえ、あんなにはっきり何度も名前を呼ばれて、無視して眠り続けることなど出来ない。
エドワードは彼の弟を呼んでいたのかもしれない、という可能性ももちろんあるが、長くも短くもないエドワードとのつきあいの中で、アルフォンスは、エドワードが器用に「二人のアルフォンス」を呼び分けていることを、きちんと認識していた。
彼が「アル」と言えば、それは弟のことで。
「アルフォンス」と言えば、それは自分のことなのだ。
混乱を避けるためか、弟への強い執着がそうさせるのか、エドワードは決して、アルフォンスを「アル」とは呼ばなかった。
確信に胸を痛くして、アルフォンスは暗い部屋に踏み込む。
寝乱れたベッドに人影はない。
義足も着けずに、エドワードはどこへ行ったのか。
急降下で冷えた意識をなだめながら、アルフォンスは闇に目をこらした。
ふい、と足元のすぐそばに大きな影を見つけ、思わず半歩、あとずさる。
「……エドワードさん!」
立ち上がろうとしたのか、部屋を出ようとしたのか。
義手も義足も着けていない寝巻き姿で、エドワードは床にうつぶせにうずくまっていた。
「大丈夫ですか?どこか…具合が悪いんですか!?」
外からはわからなくても、頭を打った後、時間が経ってから脳出血を起こす場合もある。
エドワードの夢魔を去らせることよりも、まずそれが気になって、アルフォンスは床にはいつくばるようにひざまずいた。
片手でエドワードの肩を、もう片方の手で背中をそっとさする。
エドワードの腕が、動かすのもやっと、という風情でアルフォンスの腕に伸びて来た。
エドワードの指先は、氷水に浸かっていたかのように冷たい。
その指先が触れた肩を起点にして、アルフォンスの身体を、冷気が駆け抜けてゆく。
片手片足では、身体を起こすのも辛いだろう。
アルフォンスは、エドワードの脇の下に手を回して、出来るだけ頭を揺すらないように注意しながら、ひざまずいたままエドワードの上体を抱え上げた。
冷たいエドワードの指が、肩に食い込んでくる。
嬉しいと思う余裕もなく、アルフォンスはエドワードの背を抱きしめた。
「…………ごめん」
抱きしめた胸元から、低いつぶやきがこぼれてくる。

───いつもあなたは、謝ってばかり。

謝られたいわけじゃない。
謝られるためにあなたのそばにいるわけじゃない。
エドワードに訴えかけているのか、自分自身に言い聞かせているのか、もはやわからない無言の叫びを胸にぎゅうぎゅうと押し込めて、アルフォンスはなおもエドワードの背中をさすった。
「おまえの部屋に、行こうと思って。足がねぇのを、忘れてた」
エドワードは覚醒していて、意識も普通に保っているようだ。
ちゃんと、話が出来る。
アルフォンスは安堵して、長く息を吐いた。
「またオレ、うるさかっただろ。ごめん」
安堵の吐息をため息と勘違いしたのか、エドワードは自嘲気味に笑んでいるようだ。
エドワードがひとこと話す度に、胸元で動く彼の頬の感触が、くすぐったく愛しい。
「どうして、僕の部屋に?…どこか、痛いんですか?痛いところがあれば」
「いや。そうじゃなくて」
すばやく、だが力なくアルフォンスの質問をさえぎり、エドワードが指先に力を込めてくる。
その指は、アルフォンスの肩関節の硬さを確かめるように、数センチ単位で滑り、何度かそこを往復して元の位置に戻った。
「おまえ。アルフォンスだな?」
指は、離れるまいと、もう一度定点を得て食い込んでくる。
「おまえ。生きてるな?」
胸元からそっと見上げてくる金の目は、迷子から解放され、母親の元に帰った子供のそれだ。
部屋の闇に浸されていても、アルフォンスは、緩やかに湿っているだろうその瞳の金色を、網膜に感じることが出来た。
唐突なエドワードの問いは、温かい、何か大きな塊となって、アルフォンスの喉を塞ぐ。
「どうしたんですか?僕がいなくなる夢でも、見たの…?」
まさに、小さな子供に話しかけるような口調になってしまった自分に驚きながら、アルフォンスは喉に詰まるその温かさを少しずつ、吐き出そうと努力する。
こちらを見上げていたエドワードは、一瞬、鈍痛を耐えるような顔で眉をひそめたかと思うと、またうつむいた。
そこから続く沈黙は、アルフォンスの質問を肯定しているようだった。
エドワードのなけなしのプライドを傷つけるような気がするので、これ以上質問は出来ないが。
エドワードはアルフォンスが消え去る夢を見てうなされ、目が覚めた後も不安でたまらず、アルフォンスの部屋を訪ねようとしてくれた、と。
そういうことらしい。
憎い夢魔を喜ぶなどもってのほかだが、想う相手を腕に抱き、そんな事情を聞かされて、チリほども嬉しくない人間はたぶん存在しない。
内臓の一部分をじりじりと焦がすような罪悪感を高揚で押し潰して、アルフォンスはエドワードの背に置いた手のひらの力を抜いた。
意識的に力を抜かないと、とめどなく抱きしめてしまいそうになる。
「大丈夫です。僕は生きてますよ。ちゃんと」
鼻先をくすぐる金髪に、言葉ごと、吐き出す熱が染み込めばいい。
力いっぱい抱きしめて、「それ」を伝えることが許されないのなら、せめてこの目前の髪に、身体に、形の無い言霊だけでも染み通ってくれないものか。
力を抜くことに専念しすぎて、エドワードを支えるアルフォンスの腕は、細かく震え始めた。
かすかに感電したかのように、エドワードも身震いして、止まる。
すぐに、アルフォンスの肩から、腕経由で滑り落ちてきたエドワードの手のひらが、アルフォンスの胸板の真ん中を、小さな動きで押し返した。
「…アルフォンス」
エドワードは、アルフォンスの腕から逃れたいらしい。
それが当然の要求であるのはわかっていたが、こんな床の上で、不自由なエドワードの身体をすぐに突き離すことなど出来なかった。
自分の体内に潜む、ありとあらゆる理性を振り絞って、アルフォンスはエドワードを抱え直し、その身体をベッドに抱き下ろした。
「アルフォンス」
ベッドに肘をついて、上体を支えるエドは、まだ何か言いたげだ。
その肘を半ば無理やりに毛布でくるんで、シーツに埋めてやる。
ことりと仰向けに寝かされたエドワードは、懲りずに毛布の中から冷たい指を伸ばして来た。
「…その。おまえが辛いなら。……オレは、いいから」
指で指を、捕まえられる。
「いいって、何がですか」
からめ取られて、アルフォンスの指の温度まで下がりそうだ。
「そ、の。キ……スとか。いろいろ」
「えっ?」

───この人は、本当に今、ちゃんと覚醒しているのだろうか。

それとも、覚醒していないのは自分の方なのか。
全く予想もつかなかったエドワードの言葉が、すぐにすとんと意識のひきだしに収まってくれず、アルフォンスは少し気が遠くなりかけた。
「オレだけが、おまえに迷惑かけてる。いつも。だから」
「あの、」
「おまえがオレにそうしたいなら…オレは、かまわねぇから」
この人は、今、なんと言っている?
「けど、先のことはわかんねぇ。オレは…ずっとここに居れる人間じゃねぇし。それでもいいなら、ってことだけど」
そんなに残酷な提案を、カフェで勘定を済ませるような顔で、さらりとしてみせて、そのくせ、せっぱつまったように身体を緊張させて。
エドワードの指先から流れ込んでくる緊張を敏感にさとって、アルフォンスは彼に捕らえられた指を動かせずにいた。
喉元にあった温かい塊が、柔らかく痛みながら溶け出してくる。
ずっと、エドワードに触れたいと思ってきた。
赤恥をしのんで言うなら、それは彼に出会った直後からの、切実な願望、いや欲望だった。
年の割には小さな身体を、不精で伸ばした割にはしなやかすぎる髪を、その金の瞳ごと抱きしめて、思うさま心の向くままに触れてみたいと、幾度思ったか知れない。
そして、ひと月前、衝動に負けて触れてしまったエドワードの唇の感触を、夜ごとにどれほど思い起こし、その度に忘れようとしてきたことか。
でも。
こんなふうに、欲しいわけではなかった。
アルフォンスは、遠慮いっぱいに絡んできたエドワードの指を、細心の注意を払って握り返す。

───この指を。今は、振り払っても、引き寄せても、ダメだ。

エドワードのわかり辛い申し出を、彼の気の変わらないうちに受け取ってしまいたい、と、その意識の底辺で欲望が咆える中、アルフォンスは静かに手の中の冷たい指を握り続ける。
「……気持ちは、すごく、嬉しいです。でも」
この指は、エドワード自身のものであって、アルフォンスのものではない。
その証拠に、こんなにも、一本一本が冷たい。
「でも僕は今、あなたから何か見返りが欲しいわけじゃない。あなたがここにいて、迷惑だとも思っていないし」
こうして触れているのに、少しも、この指に僕の体温は伝わらない。

───あなたは、僕が欲しいのではなくて。

あなたが欲しい何かから───たとえば、帰りたい故郷から、いっとき目を背けるために、僕を欲しがっているのじゃないのかと。
どうしても、そんなふうに、最後の最後で、勘ぐってしまって。

アルフォンスはその疑いを、笑みながらのため息でなんとか薄めようと努めた。
だが薄める一方で、正反対の方角からささやきかけてくる声もある。

───いっときでもいい。

それでもかまわない。
エドワードを、この手に抱いていられるなら。
ひと月前の苦い後悔がなければ、その「声」を、瞬時に握り潰すことは、まず出来なかったに違いない。
自らの理性が崩れそうな恐怖に肺を冷やされながら、アルフォンスはかろうじて意識の均衡を保つことに成功した。
そんなに追い詰められても、唇は不思議に軽く、エドワードに笑みすらこぼせる。
「もう少し、待たせてください。…あなたが、僕に気を遣わずに…そうしてもいいと、思えるようになるまで」
アルフォンスの手の中の、エドワードの指から、ふいと力が抜けた。
エドワードが緊張してくれていたことが嬉しく、寂しい。
「…そんなの。いつになるか、わかんねぇぞ」
さっ、とふりほどいた指を毛布の奥深くしまいこんで、エドワードは横たわったまま、枕の上の顔をくるりとアルフォンスから背けた。
どうやら、照れているらしい。
「どうしても我慢できなくなったら、その時は僕からエドワードさんに相談しますよ」
さらにそれを笑い飛ばしてやり。
アルフォンスは、背けられた顔のこめかみ近くを流れる髪を、二本の指でそっと梳いた。
向こうに背けたままのエドワードの顎が、小さく小さく震える。
闇の中で白く浮かぶその肌の、頬骨あたりにそっと口付けて、アルフォンスは立ち上がった。
ものすごい勢いで、エドワードが寝たまま振り向く。
「母に習ったおまじないです。もうおかしな夢は見ませんよ、きっと」
キスをどうぞと許可したくせに、実際に事に至ると過剰な反応を返してくるエドワードが、いじらしくてならない。
「じゃあ、戻ります」
ぽかんと開かれた、ベッドの中の瞳に向けて、アルフォンスは精一杯穏やかに笑んでみせた。
「…おやすみなさい」



同じように暗いはずなのに、自室に戻ると、さっきよりも闇が濃いような気がした。
起き上がった時よりも数倍疲れた身体をベッドに投げ出し、アルフォンスは自分の体温が残る毛布を引き寄せる。
この次は、きっと抑えられない。
今更の動悸で痛む胸に、五本の指の腹を押しつけても、平静には程遠かった。
エドワードの最低限の許可が得られたのなら、その他の事情など、本当は、簡単に振り払ってしまえるのだ。
たった今あの頬に触れてきた唇は、凍りつきそうだ。
唇に残る感触は、もう優しくも心地良くもない。
それはもはや、痛覚だった。
アルフォンスの中の獣は、遠雷のように、その意識の底で低く唸り声を轟かせている。
息を吐くのさえ、辛かった。