静かなる流れは深く -2-



頭の隅まで、痺れきるような、痛みだった。
エドワードの視界は青黒く歪み、時折見開かれる眼は何も映すことができない。
きつく折り曲げられたその両足が、エドワードの胸の上で別々に音を立ててきしむ。
息も絶えそうな悲鳴が、暗い部屋の壁に染みていった。
「身体の力を抜きたまえ」
気遣いではない声が、声の主から顔をそむけたエドワードの頬の上に落ちてくる。
身体の下に組み敷いた少年を押し潰すかのように、マスタングは彼の両の膝裏をつかみ、結合を深くした。
また、悲鳴が上がる。
「力を抜けと言っている」
悲鳴にひるむ様子もなく。
マスタングの声は、どこまでも静かだった。
だが、エドワードの意識はとうの昔に砕け散り、砕けた意識のわずかな断片が、ようやく彼を失神させずに繋ぎとめている状態で、もはや彼には聴覚というものも無いに等しかった。
いまいましげに短く息を吐き、エドワードの返答を聞き出すことをあきらめたマスタングは、そのまま更に腰を進めた。
新たなエドワードの悲鳴も、もうかすれている。
最初はマスタングの方にも多少の痛みがあったが、時間をかけて挿入を進めるうちに急に楽になる地点があり、そこを過ぎるとエドワードも苦しいなりに楽になったのか、苦悶の声は小さくなった。
別に、苦痛を少なくしてやろうなどとは思っていない。
ベッドサイドの明かりだけが頼りの薄闇の中、顔をそむけたまま目も開けないエドワードを見下ろしながら、マスタングは湧き上がってくる昏(くら)く灼けた感情を耐えていた。

───何もかも、許せない。

抵抗するなと言ったのは自分だが。
その命令通り、少年はおとなしく自分に抱かれている。

───君のプライドとは、その程度のものだったのか?

いや、弟のためなら、こんなことにも涼しい顔で耐えてみせるというのか?
私は、プライドに覆われた君の仮面など見たくない。
君の真実を見たいのだ。
嘘偽りのない、君自身すらも制御できない、君の脅えや、苦しみや、悲しみを。
私だけに見せろ、今すぐ。

───いや、もしかして。

君は私に、同情しているのか?
自分の言葉で私を傷つけたとでも思っているのか?
自分が制裁を受けるのはあたりまえだと、思っているのか?

───許さない。

マスタングは歯を食いしばる。
自分に従うしか術のないこの子供が、苦しまぎれに向けてきた刃の切っ先は。
確かに自分を一瞬、動揺させた。
今までの彼のどんな抗いも、ただただ微笑ましいだけであったのに。
抗うさまを、愛しいとさえ思っていたのに。

おまえなどが、イシュヴァールという言葉を口にするな。
おまえなどに、わからない。
いや。
誰にも、わからない。悟らせたりなどしない。

───私の心を。

「あ…ああっ…」
マスタングは、エドワードの内部をゆっくりとえぐり始めた。
まだ誰も触れたことがないはずのその内壁は、痛覚かと錯覚するほどに熱い。
そこから染み込んでくる快感をもどかしく耐え、もどかしさが更に快感を呼ぶのを、マスタングは灼け始めた意識の隅で待った。
「あっ、あっ、あっ」
濡れた音とエドワードの声が、灼け始めた意識に油を注ぐ。
悲鳴とも、嬌声ともつかない、声。
もう、どちらでも。どうでもよかった。
「う、あ、ああ、あああっ!」
マスタングの、徐々に激しくなる動きに合わせて、エドワードの喉を引き裂くように声があふれた。



待ちわびた物音に、アルフォンスはすばやく本から顔を上げた。
「兄さん?」
読書のために点けていたベッドサイドの明かりだけでは、部屋の戸口はよく見えない。
ドアの向こうから現れたのは、確かに見慣れた小さな人影のようだったが。
「遅かったね、兄さん。僕、何度か大通りの方まで探しに行って………、どうしたの!?」
ドアを閉めるなり、エドワードは瀕死の馬のように床に膝をついたのだ。
その尋常でない様子に、アルフォンスは本を放り出して駆け寄った。
「どうしたの!?具合が悪いの?どこかケガしたの!?」
エドワードを助け起こしながら、アルフォンスが壁面の照明スイッチに手を伸ばす。
「明かり、点けるな!!!」
思いもよらない大声に、アルフォンスは鎧の身体の節々を硬直させた。
その声に残りすべての体力を使い果たしてしまったかのように、エドワードの息は荒い。暗がりの中で呆然としたまま、アルフォンスも膝をついて、自ら立ち上がりかねている小さな身体を抱いていると、か細い声が聴覚に届いた。
「ごめん……まぶしいんだ、明かりは…今、……点けないでくれ……」
「目を…どうかしたの?痛いの?」
エドワードは答えない。
はあはあという苦しそうな吐息だけが鎧の胸元に吹きかけられる。
それに耐えられなくて、アルフォンスはエドワードの身体を抱え上げた。一瞬、エドワードはうめいたが、降ろせと怒る様子もない。そのままベッドに寝かせ、靴を脱がせてやった。
コートを脱がせようとすると、鋼の右手が伸びてきて、がちりと腕を握られた。
「ごめん……アル、もういいから。このまま、寝かせてくれ……」
「でも、邪魔でしょ…?暑いし…コートもしわになっちゃうよ?」
コートなんか、本当はどうでもいい。
自分で服も脱げないなんて、普通じゃない。
手当てが必要なら手当てして、早く楽にしてあげたい。
胸の詰まる思いでアルフォンスが食い下がると、握られたままの鎧の腕がカチカチと音を立てた。震えているのは自分ではない。
エドワードの、機械鎧だ。
「寒いんだ。このままでいい…」
熱が、あるのだろうか。
こんなとき、いつももどかしくて、悔しい。
兄の額に触っても、なにも感じることができないこの身体が。
「熱、計ったほうがいいね。氷も、もらって来るよ」
アルフォンスはエドワードの指を自らの腕からそっとほどき、機械鎧ごとシーツの上に横たえた。
「いい。このまま、寝かせてくれ」
「でも」
「大丈夫だから…オレは」
「全然そうは見えないよ」
「大丈夫だって」
もう、我慢できない。
「兄さん!!!」
突然の大声に、今度はエドワードが身体をすくませた。
「どこか具合が悪いんなら、ちゃんと言ってよ!!まともに歩けもしないなんて、普通じゃないよ!どこが大丈夫なんだよ!?このまま一晩中、僕は何もしないで黙って見てろって言うの!?できるわけない、そんなこと!!」
エドワードの顔が、苦しげに歪んだ。
わずかに身じろぎして、アルフォンスを見上げる。
「何かあったんでしょ!?こんな遅くまで…帰って来られないぐらい。何があったの?ケンカ?何かの事件に巻き込まれたの?大佐はこのこと知ってるの?」
大佐、という言葉に、エドワードはもう一度すくんだ。
それに気づいているのかいないのか、アルフォンスは泣き出しそうな声音で続ける。
「……どこがどう苦しいのか……ちゃんと教えてよ………」
「…アル」
「言ってくれないと、僕は、何もわからないんだから……」
「アル、ごめん…」
エドワードは、もう一度アルフォンスの腕に手を伸ばした。
自分のために小刻みに震えてくれているその腕を落ち着かせようと、優しく触れる。
「ごめん。大佐とメシ食ってる時に、急に具合が悪くなったんだ。…あいつに心配されたくねえから…、メシの間ずっとガマンしてたんだけど…」
「ほんとに?」
「…ああ。熱があると、思う。氷……もらってこれるなら、そうしてくれ。冷やしたい」
「わかった…他には?」
「解熱剤は…明日…いや、朝でいいや。あー…荷物の中にも入れてたかもしれないし」
「探してみるよ」
「薬屋、叩き起こすほどのモンでもねえから」
「……うん…」
見下ろしてくるのはいかつい鎧の顔でしかなかったが。
エドワードには、アルフォンスのヘイゼルがかった瞳が見えていた。決してアルフォンスは泣き虫ではなかったけれども、あの、くるくるとよく色彩を変える瞳が、怒りのあまりに泣き出しそうに潤むと、兄弟ゲンカの最中に振り上げる拳の勢いも、いつも少し鈍ってしまった。
こんなになっても、弟をだますのはつらいけれど。
真実を知って、苦しむアルフォンスの姿を見るくらいなら、この程度の良心の呵責になど、いくらでも耐えてみせる。
氷を持ってきてくれるのか、アルフォンスが部屋から出て行く物音がして、エドワードは深く息をついた。
何時間か前にねじり上げられ、押さえつけられたせいで、きしむように痛む左腕をどうにか上げて髪を解き、金色のそれを首筋に這わせる。
その部分を、ほんの少しでもアルフォンスに見られるのが嫌だった。

その行為が自分でひどく情けなく、エドワードはずっと耐えてきた嗚咽を、乱れた髪ごと、白い枕に埋めた。



空っぽだ。
この部屋も、胸の中も、頭の中も。そしてついでに胃袋も。
カーテンの向こうは薄明るい夜明けだった。
エドワードがこの部屋から出て行ってもう数時間になる。
ひどい疲労感に眠れず、マスタングはじっとベッドに腰掛けていた。
飲み残していた酒はひどく不味いが、これ以外に酒と呼べるものは今、この部屋にはない。
グラスを握るのとは反対の手でシーツを探ると、するりと長い髪が一本、指に絡んだ。
それはかすかに白く光ったかと思うと、肌にしつこく絡みつくこともなく、すぐに引力に引かれて暗い床に落ちていった。
その様が、エドワード本人のようだとマスタングは思う。
まっすぐで、とりつく島がない。
それでもわずかに、髪にくせが有るようだから、もう少し指に絡むかと思ったが。
すべて、無駄な努力だったようだ。

───私は、何がしたかったんだ?

彼に、憎まれたかった。
なぜ?
愛されたいとは、思わなかったのか?
そんなバカなことは、最初からありえない。彼がたとえ、少女だったとしても。
なぜなら、私は、人に愛される人間ではないからだ。
だから、彼を自分の傍に置いておくには、憎まれるのが一番いいと思った。
どんなに遠くに離れていても、彼は私を憎み続ける。うまくいけば、一生涯。彼の心に、私は棲むことができる。
それが昨夜、確定したはずなのに。
今までの、ぞくぞくするような歓喜は、ついぞやって来ない。
あるのは、奇妙に落ち着いた自覚だけだった。
彼は私を、殺したいほどに憎むだろう、と。
その自覚だけ。
憎まれるということが、こんなに味気ないものであるはずがないのに。
「殺したいほどに」憎まれたいと、あんなに切望していたのに。

───同情されたのが、悔しかったのか?

ああ。悔しかったとも。
それは、正直に認める。
こんなに他人に腹を立てたのは、いつ以来だろう?
子供の頃、錬金術を試していたのが母親に知れて、放火を疑われた時だって、こんなに感情は乱れなかった。
あの時は、ただ、母親を殺してやりたいと、それだけで。
その感情を抑えるだけで精一杯だったから。
なぜそれが。
今日、いや昨日は、抑えられなかったのか。

───私は、どこかで夢を見ていた。

そう。鋼のは、身体を繋げるセックスを強要されることだけは、受け入れないのではないかと。
弟のことも何もかも忘れて、私を殺すつもりで、抵抗するのではないかと、夢を見ていた。
私が彼の立場だったなら、そうするからだ。
本気になった、彼が見たかった。
私に、しがらみも何もまとわない、剥き出しの心を見せて欲しかった。
たとえ殺されそうになったとしても。

床に落ちた金髪は、どこに行ったのかもう見えない。
マスタングは、唐突に視線を天井に移して、長く息を吐いた。



眠れぬ身体でマスタングが出勤した、その日の午後。
歩哨(ほしょう)からの内線で、エドワード・エルリックの弟が面会を希望していると聞いた時、マスタングはなぜか安堵した。
罪を犯して逃亡する人間は、どこかで当局に捕まることを望んでおり、ゆえに捕まると安堵するという。
その心境が、こんなに切実に体感できることになろうとは予測もしていなかった。
「…忙しい時に、ごめんなさい」
「こちらこそすまない。応接室が使用中でね。私の執務室だと周りが気になって話ができないだろう?」
司令部の中庭の、晴天を心地よく遮る木陰の下で、マスタングはアルフォンスに笑いかけた。アルフォンスの突然の訪問を不審がる様子も、まったくない。あたかも話の内容を完全に予測できているかのような落ち着いた口ぶりに、アルフォンスはがしゃりと首を傾げる。
「あの。兄さんのこと、知ってるんですか?」
「何のことだね?」
「ゆうべ、兄さんの帰ってくるのが遅くて…帰ってきたとき、すごく具合が悪そうだったんです。風邪っていうわけでもなさそうだし、どこが悪いのか理由を聞いても全然教えてくれなくて…昨日の夜、兄さんはどこか様子のおかしいところとか…なかったですか?」
「鋼のが?寝込んでいるのか?」
「はい」
「今、鋼のを一人にして大丈夫なのか?」
「はい…たぶん。兄さんが今、あまり僕の顔を見たくないみたいなんで…」
あの身体で、よく無事に一人で宿にたどりつけたものだと、マスタングは冷ややかに感心する。
昨夜、エドワードが弟にどう言い置いて自分の元に足を運んだのかは知らないが、こうしてアルフォンスがやって来たということは、「大佐と会ってくる」くらいのことは言ったのだろう。
「鋼のは、昨日もいつも通りだったが。それだけを訊くために、君はここへ?」
その口調にわずかに冷笑がこもっていることを気づかないほど、この弟は幼くはない。
しかし目前の鎧姿の少年は、怒る様子も、たじろぐ様子もない。
数瞬の沈黙の中、木漏れ日がアルフォンスの鋼鉄の身体に一筋、閃光となってまつわりつき、すぐに消えた。
「大佐」
鎧の中から響いてきた声は、予想に反して低い。
「何だね?」
「……兄さんに、何かしたんですか」

───こう訊かれるのを、待っていたのか、恐れていたのか。

「何か、とは?」
残酷に緩んでしまう頬を気力で抑えながら、マスタングは問い返す。
「兄さんの顔が、少し腫れてました。誰かに殴られたみたいに」
「ほう」
アルフォンスの声は彼とは思えないほど低く、硬い。
「それから、首に、アザみたいな傷があって。兄さんは、服を脱ぐのも嫌がってたから、もっと、見えないところにも傷がたくさんあるんじゃないかって…」
「それを、私がやったのではないかと?」
「……………」
沈黙で自分の問いを肯定するアルフォンスを、マスタングは目を細めて見つめた。
「僕が…大佐の名前を出したら…兄さんの様子がおかしくなって。信じられないんですけど…でも、信じられないから、訊きに来たんです。バカならバカだって言ってください。僕は、心配しすぎだ、侮辱だ、って、叱られるつもりで来たんです」
真正面から問い詰められているというのに、マスタングはどこかしら感動を覚えた。
自分は、アルフォンスという少年を、少々甘く見ていたようだ。
アルフォンスの自分への質問は、後ろ暗い所のない大抵の人間にとっては、確かに、許し難い侮辱になりうる。
『兄に、そういう意味で乱暴を働いたのか』と、彼は問うているのだ。
アルフォンスは直接的な言葉は使わなかったが、マスタングには確信できた。
このエドワードの弟は、兄の身の上に何が起こったのか、正確に把握している、と。
こんな、兄に負けず劣らずまっすぐな少年に、ここまでの想像力と、それを口にする勇気があったとは。
侮辱的な言葉を口にして、とりあえずの恩人である自分との関係にひびが入ることなど、本当の意味で彼は恐れてはいないのだ。
ただ、兄を守りたい。
それだけなのだ。
マスタングは吐息を漏らす代わりに、唇を軽く噛んだ。
胸が痛む、というほどではないが、心の中に小さな穴が開いたようなこの気分は、ひどく馴染みのあるものだった。
天才錬金術師と噂されるエドワードが、ほとんど抵抗せずに自分の腕の中に納まる時。その時に、いつもこんな空虚な気分になる。
昨夜も、嫌というほど味わった。

───いつも、私は、部外者だ。

自分だけがガラスの壁の向こうに追いやられて、彼ら───エルリック兄弟の結びつきの強さを見せつけられるだけで。
真実、触れさせてはもらえない。
だからせめて、憎悪されたかった。
そうやって、エドワードの心に棲みたかった。
この場で、何も知らないと嘘を吐(つ)き通すことが、マスタングにとっては最も安全で簡単な方法であったにもかかわらず。
昨夜からずっと、粘つく澱(おり)のように抱え込んでいた感情が、マスタングの胸中で飽和した。
「昨日は確かに少し感情的になって、私も手を上げてしまったがね。でも、その後のことは、鋼のとは同意の上だよ」
アルフォンスの鎧の頭が、ぴたりと静止した。
ここぞとばかりに、言葉を重ねていく。
「私は、鋼のが好きだよ。だから、求めた。彼も、受け入れてくれた」
「…………え……」
アルフォンスは、声も出せないようだった。

これは。見当違いの復讐だ。

「鋼のは、君に知られるのを嫌がっていたから、今まで隠していた」
子供じみた勝利感に、マスタングは笑い出しそうになるのを懸命にこらえた。
「鋼のが、私が思うほどに私を思ってくれているのかどうかは知らないがね。私は…本当に大事にしたい、と思っているよ」
復讐だ。思い知れ。
「愛している、と言ってもいい」
木陰の下、いかつい鎧は、文字通り、それこそ魂を抜かれてしまったかのように動かない。
木々のざわめきの間をぬうように、その声は聞こえてきた。
「嘘だ……」
こみ上げる冷え切った笑い声を、自らの横隔膜あたりに押し込めて、マスタングはアルフォンスに笑んでみせた。
「嘘だ。大事にしたいなら、なんであんなひどい事…」
「ゆうべ私は引き止めたのだよ。鋼のが、どうしても帰りたいと言うから、帰らせて…」
「もう、やめてください!!聞きたくない!!」
マスタングが初めて聞く、アルフォンスの悲鳴が、木漏れ日に溶けた。

───これでも私は、手加減をしている。アルフォンス・エルリック。

「君を動揺させてすまなかったが。嘘だと思うなら、鋼のに直接確かめてみるといい。この件で、私の方から君に話すことはもう、これ以上ない。ここから先は、私たち二人の問題、ということにしておいてくれないか」
鎧の奥からのアルフォンスの視線を感じながら、マスタングもまた彼への視線を動かさずに、じっと立ちつくす。
先に耐えられなくなったのは、アルフォンスの方だった。
「…失礼します」
がしゃり、と鎧の足がきびすを返す。
そのまま、アルフォンスはマスタングに背を向け、歩き始めた。
門に向かってゆくその硬い足音が遠くなり、やがて聞こえなくなっても、マスタングはしばらく木陰から出ることなく、立ったまま、足元で揺れる木の枝の影と陽光を見つめていた。



嘘だ。嘘だ。
馬鹿の一つ覚えのように心の中でつぶやきながら。
もう、大通りをどのくらい歩いただろう。
大通りから、適当な路地を曲がって裏道を戻り、また同じところから大通りを歩き直す。
その思考と同じく、街中の同じところをぐるぐると廻りながら、アルフォンスは考え続けていた。
考えれば考えるほど、先程マスタング大佐の言ったことが真実に思えてきてしまう。
なにもかもが、合致するのだ。
イーストシティに向かう時は、いつも落ち着かない様子のエドワード。
構えた態度で最初から接してきた、今日のマスタング。
徹底的に身体を見られるのを嫌がって、そのくせ、何一つ言い訳らしい言い訳もせずに、大佐、という単語を聞いて身体をすくませていた、昨夜のエドワード。
けれど。けれど、愛しているなんて、嘘だ。
兄さんが、大佐との事を僕に知られるのを嫌がってた、って…わかってるなら、大佐はどうして僕にバラすんだ?
『嘘だと思うなら、兄さんに直接訊けばいい』なんて。
汚すぎる。
訊けるわけが、ない。
兄さんは、きっと、僕にだけは知られたくなかったはずだ。
いつかは自分の口から僕に話そうと、思ってたはずだ。
それを、わかっていて、あの人は。

───あんな人が、本当に好きなの?兄さん?
───それとも。大佐の言ったことは全部嘘で。僕の知らない、何か別の事情があるの?

二通りの疑問を、今の状態で、アルフォンスが考え抜くことは不可能だった。
不幸なことに、歩いても、歩いても、鎧の身体は疲れを知らない。
通りに面したカフェの客が、数分おきに何度も目の前を横切る鎧を、それはそれはけげんなまなざしで見つめていることなど、アルフォンスは気がつくこともないのだった。



深夜にエドワードが倒れ込んでから、二日経った。
エドワードは普通に起き上がり、普通に食事を摂り、普通に眠れるようになっていた。
少なくとも、アルフォンスにはそう見えた。
だが油断はならない。この兄は、弟の前で強がることにかけては、天下一品なのである。
その顔色はあまりさえないながらも、エドワードはアルフォンスに普段通りの軽口をたたくようにもなり、弟に看病の手間をかけさせたのを申しわけなく思っているのか、自分の身体を気遣うアルフォンスの言うことに強く逆らったり、その目を盗んで長時間出かけたりするようなこともしなかった。
「あー…腹減ったなぁ…」
ベッドに本を放り出し、エドワードはいつの間にか藤色に染まった夕空に向けて、窓を開けた。
ゆるやかな冷気と、街中のざわめきが、急に部屋の中に忍び込む。
ベッドに片膝を立て、エドワードは上体を少しねじって窓枠に頬杖をついた。
アルフォンスの座っている場所からは逆光になり、窓枠の中に、夕空をバックにして、小さなシルエットが浮かぶ。
金の髪が数本、シルエットからはみ出して風になびいているのが、本当に柔らかそうだ。
「晩ゴハン、食べといでよ」
アルフォンスが勧めても、エドワードは振り向かない。
窓の外を見たまま、だるそうに「うー…」とうめく。
「早く晩メシ食べると夜中に腹が減るんだよなぁ…」
「量をいっぱい食べればいいんじゃないの?」
「いっぱい食べても減るんだよなぁ…」
クスリとアルフォンスは笑いを漏らした。
「そろそろ大丈夫だね。そんなに食欲あれば」
「だーかーら!ずっと大丈夫だって言ってんだろーが!」
「いまいち信用できない」
くるりと振り向いたエドワードの顔が、逆光の中で眉をひそめている。
この二日間、幾度となく繰り返された似たようなやりとりに、エドワードもアルフォンスもうんざりしていた。
「信用できない」というアルフォンスの言葉は、体調の悪いエドワードに向けた最大の配慮であり、心配であり、思いやりだった。
痛いほどそれを理解しているエドワードは、この言葉をアルフォンスに出されると、満足に言い返すことができないのだ。
心身共に充実しきっている時なら憎まれ口も返せるが、この数日はいろいろなことがありすぎて、エドワードはその余裕を失っていた。
もう何度目か数えるのも嫌になった、その気まずい空気を。
タイミング良く、穏やかなノックの音が切り裂いた。
「はーい?」
図体に不似合いな、細やかな動きでアルフォンスがドアまで歩み寄り、訪問者を確認する。
ドアの隙間から、上品なしぐさのホテルマンが現れ、彼は鎧に臆することもなく機械的に、伝言を告げた。
「エドワード・エルリック様。東方司令部のマスタング様から、お電話が入っております」
わずかな間があり。
濃い夕闇に浸された逆光の中でも、エドワードの顔色が変わったのが見て取れた。