静かなる流れは深く -3-



アルフォンスの意識も、さっと冷える。
「………僕が、聞いてくるよ。兄さんは、休んでて」
アルフォンスが低い声で告げ、ホテルマンについて部屋を出ようとした時。
「待て!おまえが出る必要はない!オレが行く」
転がるようにベッドから飛び降り、エドワードは裸足で戸口のアルフォンスに駆け寄った。
大きな鋼の手首を、生身の左手でぎゅうと握り取る。
「オレに来た電話だ。オレが出る」
アルフォンスは、弱々しくエドワードを見下ろした。
かし、と鎧の首が鳴る。
みじめな響きだとアルフォンスは思う。
「休んでた方がいいよ。兄さんは」
「一階のフロントまで降りるだけだろうが!今までだってメシ食いに降りてるだろ!?おまえ、ちょっとおかしいぞ!?」
いきなり切り込まれ、言葉に詰まる。
「一般人のおまえに聞かせられる話じゃねぇかもしれないだろ?おまえがどうゴネたって、今、軍の狗やってんのはオレだ。何を意地張ってんだよ?何かあったのか?」
アルフォンスに言えるはずもない。

───嫌なんだ。ただ、嫌なんだ。あんな人と、いま話して欲しくない。

「……あの、お客様」
気まずいやりとりを見守っていたホテルマンが、おずおずとエドワードに切り出した。
「よろしければ、おかけ直しになりますか?司令部の番号は、当方でも控えておりますので」
「いや。必要ないです。すぐ行く、待ってくれ」
アルフォンスに言葉を差し挟む隙を与えず、エドワードは室内に駆け戻ってブーツを履いた。
ドアから出る時に、振り向きざまに、突っ立ったままのアルフォンスを軽く室内へ突き飛ばす。
「待ってな。すぐ終わらせるから」
笑みながら突き飛ばされて、よろめくような身体ではないが。
アルフォンスは半歩、あとずさり、無情に閉まったドアを呆然と見つめた。
ドアの向こうに消えていったエドワードの硬い笑顔が、ひどくつらかった。



美しかった夕焼けが予告した通り、翌日も晴れた。
人通りのない東方司令部内の廊下に、二種類の足音が響く。
ゆったりした間隔の金属音と、せわしない歩調の靴音。
司令部の勤務開始時間にはまだ一時間ほど早いが、エドワードとアルフォンスはもう、その殺風景な色合いの廊下を歩いていた。
「兄さん、早すぎたんじゃない?まだ誰も部屋にいないかもしれないよ?」
「待つさ。オレは一刻も早く探しに行きたいんだ。行くなら五分でも早い列車に乗りたい」
「そんなに、確実そうな文献だったの?」
「文献からの情報じゃねぇ。今、賢者の石らしいモンを持ってるヤツがいる、リアルタイムのニュースだってよ」

───それは、君たちの探し物に非常に似ているそうだよ。

昨夕の電話の声を思い出し、歩きながら、エドワードはぞくりと背筋を襲ってくる冷たさに耐えた。
声の主である、あの男の記憶は。
押し込めても押し込めても、地底から湧いてくる汚水のようだ。
体の芯まで凍えそうな感覚に耐えながら、エドワードは廊下を歩く。
自分は、普通の顔をしているか?
普通に、歩けているか?
アルフォンスが、そばにいる。どんなことがあっても、今、不自然さを悟られるわけにはいかない。
情報は、嘘では、ないのか?
あの男は、さらに自分を縛り付けるために、あんなタイミングで連絡を取ってきたのではないか?

───違う。と思う。

胸の中で、エドワードは弱々しくつぶやく。
あの男についてはもう、卑怯という言葉を冠してやるのもバカらしいが、今まで彼は、賢者の石の情報については、全くでたらめなものを寄越してきたことはなかった。
情報に従って赴いたその地方地方には、実物はないものの確かに賢者の石伝説は存在しており、生体錬成の権威と知らされた研究者たちの名にも、偽りはなかった。
こうやって───稀に自分を司令部に呼びつける時も───嘘などいくらでもつけるだろうに、エドワードを苛むためだけに呼びつけることは、一度もなかったのだ。
その嫌味な律儀さに胸を悪くしながら歩いていると、もう目の前は執務室のドアだった。
「アル、じゃあ」
いつものように、いつものところで待っていろ、と。
廊下の先を指してエドワードはアルフォンスを促した。
「…兄さん」
アルフォンスはなぜかその場を動こうとしない。
「僕、今日はここで待ってるよ」
「なんでだよ」
「兄さん、今日顔色が悪いから。心配なんだ」
エドワードは息を詰めた。
自分で自分の顔色は見えないが。弟に、隠し切れなかったと思うと、自分の演技力のなさが悔しい。
いいかげんにしろ、という言葉を、もうエドワードは吐き出せなかった。
「……わかったよ。じゃあ、ここで待ってろ」



執務室に足を踏み入れて、ドアを閉めた途端。
エドワードは、強烈な匂いに襲われた。
「ノックくらいしたまえ、鋼の」
何か、見えない膜でも張っているような、はっきりしない視界の向こうで、まったく通常通りのマスタングが、デスクに着いている。
「おー…なんだぁ?早いなー…」
その手前に並ぶ、部下たちのデスクのうちのひとつにすがりつくように座っているのは、ブレダ少尉。
部屋の中が、かすんでいるのではない。
エドワードの視界だけが、かすんでいるのだ。
部屋の中に立ち込める匂いに、ぬめぬめと縛り上げられてでもいるようだ。
エドワードはもう、一歩を踏み出すことも、言葉を発することもできなかった。
「ブレダ少尉」
マスタングが、書類を繰る手を止めずに部下に声をかける。
「シャワーを浴びてきたまえ。二日酔いでも早出(はやで)してくれるのはありがたいし、私は気にならないが、鋼のが困っている」
「あちゃー。すいません。エド、ごめんな。そんなに匂うか?」
クマのできた目元にすまなさそうに笑いじわを寄せて、ブレダはゆっくりと立ち上がる。
ゆらゆらと凶暴な匂いが、さらに力を得て自分に襲いかかってくるような気がして、エドワードは一歩、あとずさった。

違う。
少尉が、嫌なんじゃない。
この匂いは。
あの部屋で、嗅いだ匂いだ。
そこに悠然と座っている男が、漂わせていた。
酒の、匂いだ。

───あの暗いドアの内側で。

エドワードの肩をぽんと叩き、その脇をすり抜けてブレダがドアから出て行った直後。
エドワードの視界は、今度こそ真っ暗になった。



頬に冷たい風が触れる。
エドワードが目を開けると、さっきまで歩いていた廊下と同じ、殺風景な色の天井が目に入った。
ばたばたと、布が風に揺らぐ音がする。
窓が開いて、カーテンが揺らいでいるのだろう。
「具合はどうかね?」
至近距離から降ってきた無機質な声に顔を向ける。
ソファに横たわるエドワードを、マスタングは立ったまま見下ろしていた。
「まだイーストシティに滞在していた方がいいんじゃないか?酒の匂いごときで倒れているようでは、旅に出るのは無理だ」
かっと頭に血が上り、エドワードは飛び起きた。
急な動きにまた目が回り、額を押さえる。
「………情報を、よこせ。賢者の石らしいものを持っているヤツは……どこにいる?」
額を押さえたままソファに沈み込みつつ。
息の混じった声を絞り出すエドワードに、マスタングは、柔らかく苦笑した。
「もう二、三日して、元気になってから来たまえ。その時教えよう」
言い終わったその時。
狼が獲物の喉笛に食らいつくように、エドワードの身体がソファから跳躍してマスタングにつかみかかった。
「オレの身体のことなんかどうでもいい。一番どうでもいいと思ってんのは、あんただろう!!情報を…情報をよこせよ!!」
エドワードの右腕の袖口から、機械鎧の手首が覗いた。
それはマスタングの顎の下を締め上げ、窓からの光を受けて、鈍い輝きをたたえている。
慣れ親しんだ、懐かしい、とでもいえそうな金属の匂いが、マスタングの鼻腔に届いた。
「あまり、大声を出さない方がいいんじゃないのか?外でアルフォンス君が待っているんだろう?」
マスタングの顎の下の手が、小さな金属音を立ててびくりと固まった。
その隙を逃さず、マスタングはその鋼の手首をつかみ取り、振り払うように自らの喉元から剥がし取った。
そのまま手首を離さずに、暴れだそうとする少年の腕を、力で宙に縫い止める。
マスタングの手のひらに、機械鎧の小刻みな震えが伝わって来た。
その震えは、エドワードの怒りであり、脅えであり、焦燥であり。
そして、剥き出しの憎しみであった。
憎悪されている。こんなにも。
目の前の、ガラスのような金の瞳に、黒々と自分の姿が映りこんでいるのがマスタングには見えた。
いまこの瞬間、エドワードの心を、その瞳を、はちきれそうにいっぱいにしているのは、他ならぬ、自分。
もう、エドワードを前にしても、何の感情も湧かないだろうと思っていたのだが。
マスタングの心の深い部分で、苔むした石のように重いものが、ぎしりと動いた。

───この感情は、何だ?

今までの、高揚ではない。
強いて言えば。
哀しみ、のような。

目前のエドワードの姿も。
自分の存在も。
どこか、哀しい。
その哀しみは、マスタングに、不可解な痛みと、精神的な脱力を同時にもたらした。
胸に沁みる痛みも脱力感も、ひどく不愉快だった。
本能的にそれを振り払おうと、マスタングの喉から自動的に言葉が発せられる。
「君が私の家に来た次の日、私はアルフォンス君に問い詰められたよ」
ふっ、と、マスタングの手の中の機械鎧が力を失った。
指を緩めてやると、それはだらりと下に落ちてゆく。
エドワードは呆然と立ちつくした。
「……問い詰め……られた……?」
「彼は本当に、勘がいい。どうにも、逃げられなかった。だから白状しておいたよ。『君と私は、愛し合っている』と」
「なん…だって……?」
「それ以外に、言いようがなかった。君がそれで不満なら、君の口から弟に真実を話したまえ」

エドワードの瞳が、白い光の粒を刹那にまとって、限界まで見開かれた。

アルに。
アルフォンスに、知られた。

エドワードの脳裏で、カードがシャッフルされるように、さっきまでのアルフォンスの動作が次々によみがえる。

───何かあったんでしょ!?こんな遅くまで…帰って来られないぐらい。
───僕が、聞いてくるよ。兄さんは、休んでて。
───兄さん、今日顔色が悪いから。

だから。
だから、アルフォンスは様子がおかしかったのだ。
知っていたから。
自分が、マスタングと何をしていたのか。
知っていたから。

エドワードの唇が震えた。
吐息をも震わせながら、彼は両の手のひらを合わせる。
錬成反応の光が閃き、瞬く間に、エドワードが右手に錬成した刃が、空気を切り裂いて。
その切っ先が、マスタングの脇腹にまっすぐ沈んだ。



避ける間もなかったわけではない。
マスタングは自ら動かずにいたのだ。
痛みは、感じなかった。
何か重いものが、右の脇腹にぶつかり、その衝撃がじわりと下半身に染みてゆくだけだった。
マスタングの懐で、一度は完全に静止したエドワードの身体が、スローモーションで動きを取り戻し、自分の身体から離れるためによろめく様を、マスタングは他人事のように見つめていた。
「………な、んで、よけない?」
エドワードは一歩、あとずさる。
「…死にたいのか、よ?」
もう一歩、あとずさる。
刃に錬成された機械鎧の先端から、血が一滴、滴り落ちる。
それは鋼の色に染みて、魔物が流す涙のように、黒かった。
「君が殺してくれるのなら、それもいい」
マスタングは微笑んだ。
「急所はまったく外れている。君はそれで満足なのか?」
まるで、お茶にでも誘っているような穏やかな顔で訊かれて。
最初に機械鎧の左足。
次に右足の順で、エドワードは床に膝をついた。
目の前の男を見上げる気力も失せ、床に向かって言葉を吐き出す。
「…あんたは。オレを。オレたちを……どうしたいんだ。オレたちが、必死に、賢者の石を探してるのが……そんなに可笑(おか)しいか?」

───あんなに優しい顔を、していたくせに。

あのスラムの一角で、別人のように優しく少女に語りかけていたマスタングの顔が、エドワードの中で荒れ狂った。
公(おおやけ)になったら、まず無事ではいられないような危険を冒してまで、あの子を守ったくせに。
そんなことまでするくせに。
どうして。
どうしてオレには。

やっと、顔を上げて、エドワードは言葉をマスタングに投げつける。
「おかしいなら、いくらでも笑えよ。オレをいたぶりたいんなら、いたぶればいい。でも……アルを。アルを無駄に苦しめることだけは、許さない……!!」
マスタングは、じっとエドワードを見下ろした。

───自分のプライドはあとまわし、か。

この期に及んで弟のことしか考えていないエドワードが、憎らしい。
そして。
こんな時のエドワードは、本当に、憎らしいほど美しい。
力なく床にひざまずいていても、その輝く瞳だけは、見られた者が痛みさえ感じそうな圧力をもって、マスタングを捕らえている。
脇腹が濡れてきたような気がして、マスタングはそこを軽く押さえた。
先程の哀しい脱力感と、脇腹に受けた衝撃がマスタングの気力をそいでおり、昏い感情がマスタングからあふれ出すことは、もうなかった。
「君と私の契約を、彼に話したわけではないよ」
金の瞳をあやすように、唇から優しく言葉を滑らせる。

───そう。私は、手加減をした。

「賢者の石など関係ない。ただ、私が君を好きで、君が私を好きだと。そう言っただけだ」
「ほんとに……ヘドが出そうなウソばっかり、つきやがって……」
エドワードは息を吐き捨てた。

果たして、嘘だろうか。

───私は、君を…

マスタングの中で急にひらめいた疑問は、脇腹からようやく伝わってきた痛みにさえぎられた。
「あとは、君の演技にかかっている。君は大根役者だから、少々心もとないが。アルフォンス君は、君と違って本当に鋭い。がんばりたまえ」
「……………死んじまえ」
「…君は殺してくれなかった」
「死んじまえ!!!」
目をつぶって絶叫して。
エドワードは、ゆっくりと立ち上がり、マスタングに背を向けた。
「突っ立ってんじゃ、ねぇよ…さっさと手当てしろ!!オレは、知らねぇからな…」
背中越しの声は、どこか、頼りなく湿っている。
エドワードが、こんなことで泣くはずがないが。
その顔を見たくて、もう一度振り向かせたくて、マスタングは、言ってしまった。
「リオールだよ。鋼の」
はっ、と振り向いた顔は、やはり涙をこぼしてなどいなかった。
「東部の辺境都市だ。…リオールに『死者をも蘇らせる奇跡の御業』を使える人物がいる、という噂だ」
エドワードの瞳に、また別の力が宿った。
「奇跡のミワザ…?それが、賢者の石を使った人体錬成だってのか?」
「その人物は、宝石のようなものをいつも持ち歩いているらしいのでね」
「そいつの名前は!?」
「それは、君が行って調べてくれ」
「…無能だな。相変わらず」
「ほめてもらえて、嬉しいね」
「……クソ大佐」
もう、いつものやりとりだ。
いや、限りなく「いつものやりとり」に近い言葉を交わしているだけかもしれない。
エドワードは、マスタングの昏い欲望をその身体に刻み込まれ。
マスタングは、慣れ親しんだ、甘い高揚を失った。
もう、元には戻れない。
「すぐ、行くのかね」
礼も言わず、執務室のドアに向かって歩いてゆく赤いコートの背中に、マスタングは声をかけた。
「あたりまえだ」
声だけよこし、エドワードは振り向かない。
「身体に気をつけて、行って来なさい」
返答は、ドアの閉まる音だけだった。



執務室が、静寂に包まれる。
マスタングはしばらくその場に立っていたが、やがて脇腹の不愉快な痛みを思い出し、自らのデスクに戻った。
愛しくて哀しい、エドワードの声を反芻しながら、上着を脱ぐ。
ちょうど、ベルトの上から刺されたので、傷は深くない。
しかもエドワードは、自分が避けなかったのに驚いて、刺した瞬間に腕の力を抜いていた。おそらく、浅い切り傷程度のものだろう。
出血が、これ以上ひどくなる前に。
ブレダが帰ってくる前に。
ホークアイが出勤してくる前に。
手当てをしておかなくてはならない。
開け放った窓から目をやると、大きな鎧と小さな子供の背中が、門へ向かって小さくなっていくのが見えた。

どこへでも、行くがいい。
君の帰る場所は、ここだ。
君がどんなに嫌だと言っても。
私が、そう決めた。

───あんたは、オレを、どうしたいんだ。

エドワードの声が、繰り返し、胸の内に甘く響く。
そばに、いてほしい。
それを、口に出しても、出さなくても、いつか殺されるかもしれない。
マスタングは頬を緩めた。
指が血で濡れる。
彼の痕跡は、痛みまでも、いとおしかった。

鋼の。今度は、一撃で頼む。