静かなる流れは深く -1-



すべてが、偶然だった。
エドワードとアルフォンスが、予定より一日早くイーストシティに着いたのも、夕食の後、一人で当てもない散歩にエドワードが出かけたのも、その通りの人込みの中で、よく見知った人間の背中に出くわしたのも、すべてが偶然だった。
背中だけでは百パーセント確認できない。
でもあれは。
エドワードは男の顔を確認するため、先回りして路地裏に隠れた。この世で最も会いたくないあの男には、明日どうしても報告のために会わなければならない事が決まっていた。
向こうはこちらに気づいていない。
見つからないように逃げることもできたかもしれない。だが、捕まらないためには、気づかれぬよう彼を追うのが、一番いい方法でもあった。そして───わずかな好奇心を満たすためにも。
その好奇心に勝てなかったことをエドワードが深く悔やむのは、もう少し後の日のことである。
エドワードがよく見知った人間は、珍しく軍服を着ていなかった。似合わぬ鳥打帽のようなものを目深にかぶり、軍用ではない薄いコートをはおり、普段の彼とは少し違う雰囲気で、エドワードが隠れた路地の、数メートル先の大通りを足早に通り過ぎていった。

───どこまで、行くんだ? 

その男───ロイ・マスタングは、にぎやかな通りを抜け、どんどん下町の方へと歩いて行く。道は狭く、新しくはない建物にごちゃごちゃと行く手を阻まれ、尾行は非常にしやすいが、よく道を知った者でなければスムーズに後戻りできないだろう複雑な路地を、何の迷いもなく魚のようにすいすいと泳ぎ渡ってゆく。
さっきまでの大通りのように、整然とした身なりをした者は歩いておらず、家路を急ぐ子供たちは裸足で、夕食のために窓から彼らを呼ばわる老婆の衣服は、みすぼらしいものだった。
彼らの肌が浅黒く見えるのは夕刻のせいでない、とエドワードが思い至った時、追っていたマスタングの背中が、ふい、と、とある建物のドアの向こうに消えた。
「え……?うわ、おい引っ張んなよ!」
そのドアに駆け寄ろうとしたエドワードのコートの裾を───ぐいとつかむ者がいて、エドワードはがくりとよろけた。
裾をつかんでいるのは、先程の老婆だった。
「あんた。こんなとこに、何の用だい?」
老婆の口調は穏やかだが、エドワードに向けるその目は厳しかった。夕闇が邪魔してはっきりわからないが、その瞳は赤いようにも見える。

───ひょっとして。イシュヴァール人?

「ここは、あんたみたいな子が来るところじゃないよ。そんな目立つ髪して。危ない目に遭わないうちにさっさとお帰り」
訊かないうちから、老婆はエドワードに答えを出してくれた。
定められた居住地から脱走した、イシュヴァール人たち。
彼らはこんなに東方司令部に近い街中にも、ひっそりと隠れ暮らしているのだ。
本来ならば、エドワードは軍属として、彼らの存在を軍に報告し、彼らを元の居住地に帰さねばならない。だが、イシュヴァール内戦のあり方を根本から疑っているエドワードに、そういう軍への忠誠心はほとんどなかった。
「わ…わかったよ。帰るよ。でもオレ、さっきあそこに入ってった人の知り合いなんだ」
エドワードはマスタングが消えたドアを指差した。
「あの人、いつもここに来てんの?」
エドワードの質問に、老婆は顔色を変えた。
「誰のことを言ってるんだい?」
「だから、さっきあそこに…」
「知らないよ!ぐずぐずしてると血の気の多い若い衆に捕まっちまうよ!お帰りったらお帰り!!」
身を翻す老婆の背中を、エドワードはぼんやり見送った。

───どういうことだ?

マスタングはまださっきの建物からは出て来ない。
人通りがなくなったのを確認して、エドワードは家と家とのわずかな隙間に小さな梯子を錬成し、マスタングが居るであろう建物の屋根によじ登った。



翌日。
「よう大将、久しぶり~。元気か?」
「久しぶりねエドワード君。大佐は今、書庫で…」
「あ…うん。ありがとう。じゃあそっちに行ってみるから」
変わりのない東方司令部の面々に快く迎えられ、エドワードは「笑顔」を浮かべた。
多少は口の悪い者もいるが、おおむね優しく、誠実なマスタングの部下たちに、「変わりのない笑顔」を浮かべてみせることにも、いつの頃からかエドワードはすっかり慣れていた。
天地も裂けそうな秘密を抱えている時、人は、どんな嘘もつける。
マスタングと「契約」して、学んだことだった。
まだ十五歳にもならない自分が、彼らの信頼する上司と書庫でこれから何をするのか、彼らに、そしてアルフォンスに知られないようにするためなら、どんな嘘も口にできる。どんなポーカーフェイスだってできる。知らず早くなる心臓の鼓動だって、治めることができる。
実際、エドワードは落ち着き払っていた。
「アル。悪いけどいつものとこで待っててくれ」
「うん。いってらっしゃい。大佐にあんまり乱暴な口きいちゃだめだよ」
「わかってるっつーの」
この弟に、真実をすべて知られたら、自分は生きていられるだろうか。
そんな自問に押し潰されそうになったこともあるが、すべては、賢者の石に近づくためだ。眠ることも、食べることも、痛みを感じることもできないアルフォンスの苦しみに比べたら、自分の苦悩など、大したものでないと思える。
何十回目かのその自問を、探り慣れてしまった、心の最も奥深い場所にすばやくしまいこみ、エドワードはマスタングの待つ書庫に向かって司令部の廊下をたどった。



独特の書物の匂いが立ち込める書架と書架の間で、きつく抱きしめられる。
まぶたに、頬に、耳に、流れるような動きで口付けが落とされる。
「今回は…長かったな。何ヶ月前だ?君がここを出て行ったのは」
「覚えてねぇよ。いちいち日数なんか……か、ぞえてない…」
立ったまま、慣れた手つきでベルトを緩められ、冷たい素手でそこに触れられて、エドワードの喉が渇いた音を立てた。
「私は覚えている。五ヶ月と、十一日だ」
「ブキ、ミだ。あんたの、そういうとこ…」
息が混じり始めたエドワードの言葉は、食らいついてくるマスタングの唇に飲み込まれた。
そのままエドワードの吐息を封じるかのように、マスタングは唇を離さない。巧みな指に擦られ、すぐに濡れてきたその先端を親指一本でゆるりと押さえられた時、エドワードの腰骨と喉が同時に震えた。
「………う……んっ…んっ………」
耐え切れずに漏れる吐息と声を、一筋も逃さぬような勢いでマスタングはせき止める。その表情は、どこか嬉しげでもあった。
エドワードの下肢に絡む指の動きが速くなった。
「ふう……あっ……!」
唐突に唇を解放され、エドワードは声と共に大きく息をついてしまう。
マスタングの策略に、また、してやられた。
最初に体を探られた時、どうあっても声をあげないエドワードに焦れて、マスタングはかなりの時間といかがわしい努力を費やした。人間の腕は二本しかない。エドワードの体を時間をかけて探ろうとすれば自然、エドワードへの拘束はおろそかになる。鋼の右手に痛覚がないのをいいことに、相手は鋼鉄の指を噛みしめて、快感のため息一つ漏らさないのだ。
マスタングとの「契約」は、エドワードにとって最初の敗北であった。
そして、「契約の行為」の最中に声をあげることは、エドワードにとっては耐えられない二度目の敗北だった。
だが、時間の経過と共に、色事にたけた男はエドワードの二度目の敗北をもじりじりともぎ取っていったのである。
「嬉しいが……声のボリュームはそのぐらいにしておいてくれるか?鋼の」
微笑みながら言うが早いか、エドワードにその目を睨み返す時間も与えず、マスタングはすいと膝を折り、大きく開かれたエドワードの下肢に顔を埋めた。



悔しい。
にじんで来た涙で視界が歪むが、それを拭うしぐさすら、エドワードはマスタングに見せたくなかった。
その涙が、悔しさだけから来ているものではないことも、エドワードに吐き気をもよおさせる。自分の心は完全にマスタングを拒否しているのに、その自分の支配下にあるはずの身体はいつも、清冽な場所からびりびりと引き剥がされ、マスタングの足元で汚物にまみれる。
薄汚い欲望のドアを開けるのはいつもマスタングだが、そのドアの中で、彼が要求するまま忠実に自らの快感を追っているのは、間違いなくエドワード自身だ。
その自分自身に、いつも吐き気をもよおすのだ。
書架に押しつけられていた身体は、立っていることができずに一度床に崩れ落ちたが、笑みをにじませながら口元を拭ったマスタングに、すかさず脇を抱え上げられる。
立ち上がって、もう一度やんわりと、大量の書物の背表紙たちにエドワードを押しつけ、マスタングはそのぐったりと脱力した小さな身体を腕に抱き直した。
紅潮したエドワードの頬に手を添え、上向かせると、濡れた瞳は快感の余韻と憎悪をないまぜにして、最後の力を振り絞ってこちらを凝視してくる。

───この瞳は、決して誰にも渡さない。

胸に湧き上がる暗い感情をまた抑えられなくなり、マスタングは唇でエドワードの濡れた目尻を拭った。
「そんな口で、触って来んな…汚い」
途端に目をきつく閉じて顔を背けるエドワードの頬を、マスタングはさらに優しく探った。
「嫌か?もう全部飲んでしまったよ。私は汚いとは思っていないが」
「あんたの事情なんか聞いてない。汚いから汚いって言ってんだ」
その身体に力を取り戻し始めたらしいエドワードの悪口雑言に、マスタングは頬を緩めた。
しがみつくことも押し返すこともせず、だらりと体の脇に垂らしたエドワードの両腕を、軍服の背中に回すよう、無理やりつかみ取る。
「汚いって言ってんだ、バカヤ……」
そう言われると、余計触れたくなる。
湿度の増した唇で、マスタングはエドワードの言葉を酷く強引に塞いだ。
「う……ふ……」
唇を唇で探られながら、エドワードはつかまれた腕を振り払おうと、弱々しく抵抗する。
もうとっくに、心の底では諦めきっているのに、反射的に体は動く。イーストシティに向かう列車の中で毎度毎度、次にマスタングに触れられたら、一切の抵抗をやめて、人形のようにふるまってやろうと決心しているのに、エドワードはそれを自分で守れたためしがない。
だが、こうしてかなわない抵抗をしていると、無抵抗でいるのと同じように、あるいはそれ以上にみじめな気分に襲われるのも事実だった。自分が、ひどく弱い生き物になったような気がするのだ。

───もうすぐ。もうすぐ、終わる。

この書庫を出れば、オレはもとの、エドワード・エルリックに戻れる。
抵抗すればこの忌まわしい行為が長くなるばかりだと思い直し、エドワードは再び腕の力を抜いた。
目を閉じて意識を外へ飛ばしていると、腕を解放して耳の裏を緩くくすぐって来たマスタングの指が、ふと止まった。
「もう、抵抗しないのか?」
笑いを含んでいるくせに、どこか落胆したような響きの声がカンに障り、エドワードは目を開けた。
間近に覗き込んでくる黒い瞳は、相変わらず憎らしいほど穏やかに光っている。
「しても無駄だし。それに、マジで抵抗するとあんたが嬉しそうにするからいやだ」
「そこまでわかっているなら仕方がないな」
何が楽しいのか、マスタングはくく、と小さく声を立てて笑った。そのまま両手でエドワードの頬をそっと包み、また顎を上向かせる。
両頬を覆われる逃げ場のない感触に、エドワードはわずかに眉をひそめた。
「どちらでも、いい。抵抗する君も、無抵抗なまま耐えている君も、どちらも私には魅力的だよ」
バカにつける薬はなかなかないというが、この男はバカ以下だ。
「私が喜ぶのが嫌だから、無抵抗でいる。それも立派な抵抗だ」
「あんた、ホントにヘンタイだな」
「少しは自覚しているよ」
「ウソつけ」
「本当だ」
「…そんなんでよく自分が嫌にならねーもんだな。オレにこんなことしてるなんてあの子が知ったら泣くぜ?」
「あの子、とは?」
背筋を、ぞくりとさせながら。
エドワードは、マスタングの両の手のひらが自分の頬の上で硬くなるのを感じ取った。
「今日、イーストシティのスラムに軍の巡回があるんだって?あんたの面倒見てたあの子、うまく逃げられるといいな」
その素手の指先に小さく力が入り、指の腹はじわりとエドワードの頬に沈み、薄い影を作る。
「………やっぱり、君だったのか」
エドワードを見つめたまま、漆黒の瞳はさらりと冷ややかなベールを被った。
透明なベールが、マスタングの表情を途端に分かりづらくする。
「錬金術を使う気配がしたのでね。十中八九は君だろうと思っていた」
「東方司令部の司令官が情報漏らしてさ。あれ、マズイんじゃねーの?」
「君には関係ないことだ」
「あそこの人たち、あんたを信頼してた。あんたのこと訊いたオレに、何も知らないふりして、あんたがあそこに来てる事、一生懸命隠そうとしてたよ」
「それで?」
「みんなあんたの正体を知らないんだね。病気の女の子の様子を見に来るやさしいおじさんが、イシュヴァールで大活躍した焔の錬金術師だって聞いたら、どう思うんだろ」
マスタングは、エドワードの頬をゆっくりと解放した。
だが、エドワードは目の前の男からもう目を逸らせない。
自分から、逸らせなくしてしまった。
「罪滅ぼしのつもりかよ?今さら?」

空気が、凍りついた。

唇から滑り出た言葉は、どうして、もう、取り戻せないのだろう。たった今空気に溶けたばかりのその言葉は、まだ唇の数センチ先を浮遊しているに違いないのに。
浮遊しているそれを、捕まえて、ねじ込んで、なかったことにしてしまえれば。
天才錬金術師と噂されるエドワードをもってしても、それは不可能だった。
沈黙が冷たくて、痛い。
仮面のような顔のまま、マスタングはエドワードから視線を逸らした。
初めてだった。
穴があくほど見つめられて、視線を逸らすのは、いつもエドワードの方だったのだ。

───なんで。なんでオレが、こんな気分にならなくちゃいけない?

エドワードは自分の中に重苦しく湧き上がってきた感情に、心中で噛み付いた。

───こいつは、何年もオレを、好きにしてきたんだ。このぐらいの報復は、まだ手ぬるいくらいだ。

「………君の好きなように、想像したまえ」
無機質な低い声が、沈黙を破る。
自分を見ずに、壁に話しかけているようなその横顔は、黒い瞳ごと透明なベールに覆われ尽くし、もう鮮やかな表情をうかがうことはできない。
「私のことも、好きに上に報告するがいい。だが」
そこで言葉を切り、マスタングは乱れた衣服を直しもしないで書架に張り付いているエドワードをちらと見やった。
ただ、ただ静かな、その瞳の漆黒。
こんなにも静かなのに、それが、穏やかさとは対極のものを含んでいるのを、ひりひりと感じる。
「それで君が私から逃れられると思っているのなら、大間違いだ」
瞳はちらりとも揺らがずにエドワードを見つめてくる。
「別に。あんたを、こんなことで脅迫できるなんて、思ってない…」

───なんで。なんでこんなに。

息が苦しいんだ。
エドワードは自分の身体を叱咤した。
胸が灼(や)けて、息がしづらい。
そんなエドワードに気づいているのかいないのか。
マスタングは、いきなり凄絶に笑んだ。
「…報告の続きは、私の家でしてもらう。エドワード・エルリック」
「え?」
何を言っているのだろう、この男は。
「今晩は帰れなくなる、と弟に伝えておくんだな」
「なっ……」
「あとで住所を教えておく。夕食を済ませたら九時に来たまえ」
こつりと、軍靴を鳴らして。
エドワードの返事も待たず、青い軍服の背中は書架の向こうへ消え、数秒後、書庫のドアが開けられ、そして閉じられた。



この道を引き返す時、自分はどんな顔をしているのだろう。
人通りも少なくなった大通りの石畳を踏みながら、エドワードは考える。
外灯が、昼間は気にも留めない石畳の石の輪郭を、妙にはっきり映し出している。
アルフォンスには、マスタング大佐と食事に行くと言って出てきた。こういう時、全く方向違いの嘘をつくのはかえって危険だ。今夜一緒に時間を過ごす人物が、大佐であるということを偽るのは不自然すぎる、とエドワードは判断した。
今晩は帰れない、とまでは言えなかったが。
兄の普段からの大佐に対する態度を熟知しているアルフォンスはそれを聞いてしばし絶句していたが、ふいに態度を和らげて、言った。
『兄さん。大人になったねぇ…』
あの男が、「大人」というもののなれの果てなら、大人になど、金輪際なりたくない。
人の気持ちなどはなから無視して、自分を脅し、弄び、翻弄して。
賢者の石でアルフォンスを元の身体に戻したらすぐ、あいつをボコボコにブン殴って、軍の狗を辞めてやる。いや、そのぐらいで気が済むものだろうか。もっと、壊滅的なダメージを、与えて……
思考を攻撃的にしていないと、足が前に進まないような気がする。
今までマスタングが司令部以外の場所でエドワードに触れてきたことはなかった。そこではそれなりに人目を気にせねばならず、ドアの外の気配に気づいて、マスタングが行為を中断したことも数度あった。
だが、今度こそ逃げ場がない。
完全な自分のテリトリーで、マスタングは自分に何を要求しようというのか。
あまりにも明快すぎると思う一方で、それ以外の可能性を考え出せない自分の思考回路が、たまらなく下衆(げす)だとエドワードは思った。



「五分の遅刻だ」
パジャマのようにも見えるラフな部屋着にガウンを羽織ったマスタングは、戸口で開口一番に言った。
「部屋番号が分かりづらかった」
短く言い訳をして部屋に踏み込んだエドワードの背後で、マスタングがドアを閉める。かしゃりと鍵を回す音が、妙にはっきりと耳についた。
本棚ばかりが目立つ部屋の中は暗い。明かりが点いているのは、今マスタングが戻ろうとしている奥の、寝室らしい部屋だけだ。その半開きのドアから光が漏れていて、それがようやくエドワードたちの足元を照らしている。
「あんた、酔ってんのか」
ドアの前の薄暗がりで、エドワードはふと足を止めた。
さっきから酒の匂いが鼻について仕方ない。
「ああ、少しね」
短く答えたマスタングは、けだるげに目を細めて、エドワードを見下ろした。腹立たしげに見上げてくる金の瞳に刺し貫かれるように睨み上げられても、表情は露ほども変わらない。
ゆっくりと、マスタングは腕を伸ばしてエドワードの顎に指を添えた。
エドワードが、ぴくりと肩を震わせる。
遅ればせの品定めでもするように、こちらを見上げる顎をそのまま固定した。
「……なんだよ」

───どんなに身体を自由にされようと、心だけは渡さない。

無言のうちにいつもそう語る双眸を、マスタングは暗い目で無表情に見下ろし続けた。
沈黙に焦れたエドワードが何か言いかけたのを静かに制する。
「ここは端部屋だ。悲鳴はいくら上げてもいい。だが」

心すらも、壊してやる。

「一切、抵抗するな。命令だ」
その首筋を起点にして、エドワードの全身に、緊張がざらりと広がった。



何もかもが、心もとなかった。
人間が衣服を身に着けているのは寒さをしのぐためだけではないことを、エドワードは文字通り肌で理解した。
目前にたった一人とはいえ、人前で自ら全裸になるのは、自分の魂を支える数本の柱のうちの何本かを吹き飛ばされたような心もとなさだ。
先程エドワードを部屋に迎え入れた時と全く変わらぬ表情で、マスタングはエドワードの鋼の腕をつかみ、ベッドへと引き倒す。ガウンを面倒そうに脱ぎ捨てて、部屋着のままのしかかってきた。
きし、と機械鎧がベッドに沈む。
他人の匂いのする寝具もまた、心もとない。
心もとなさが、エドワードの心臓の拍動を倍速にする。
胸が、痛いくらいだ。

───治まれ。治まれってのに!

弟や、司令部の皆を欺く時には簡単に治められた胸の鼓動は、もう、エドワードの思考の外を突っ走っている。
どこまでこの身体は自分を裏切り、マスタングに味方するのか。だが、エドワードが自分自身にゆっくり腹を立てているひまはなかった。
のしかかるマスタングが首筋に顔を埋めてくる。ぬめる感触に、エドワードの内臓から喉に向けて冷たい嫌悪感がせり上がってくる。
耳の下が急に痺れ、エドワードははっとした。
「バ、バカ…!痕付ける気か!!」
とっさにマスタングの肩をつかんだ機械鎧は、悪鬼のような力で払いのけられた。
そしていきなり、払いのけたのとは逆の手が、エドワードの頬を打つ。
容赦ない、力だった。
衝撃に、エドワードの視界が一瞬途切れた。
「抵抗するなと言っただろう」
耳元に落ちてくる低い声は、まだ息も乱していない。
口の中が、切れた。
もう少し経てば口の中は血の味で一杯になるだろう。
利き手で加減もなく殴られ、ぐらぐらと頬に広がる痛みに耐えながら、エドワードは慣れ親しんだ血の味を少しずつ噛みしめた。

───痕を付けられたら、アルに知られる。

今までは、懇願すれば、許された。
素直に従えば、マスタングは、密やかな笑顔と短い褒め言葉をよこし、エドワードの身体に情事をうかがわせるような痕跡は一切残さなかった。
司令部の建物の中で、司令部の人間に、それと知られるのはマスタングにも不都合だった、という理由もあったろう。
だが今、表向きにはエドワードの司令部での仕事は終わっていた。明日以降は軍の誰に会う予定もない。
今、痕跡を残されて不都合をこうむるのは、エドワードだけなのだ。
どれだけエドワードが、マスタングとの関係を弟に知られたくないと思っているか。
マスタングは、それをきちんと知っていた。知っていた、はずだった。
その、兄として、家族としてのプライドすら、マスタングは打ち砕こうとしている。

───オレは、取り返しのつかないことをしたのか?

あれほど毎回口付けを要求するマスタングは、エドワードの唇に今、見向きもしない。
「ん………くっ…………」
下肢に手を伸ばされ、まだ張り詰めないそこを、機械的に扱かれる。いつものような緩急もなく、マスタングはとても楽しんでいる風には見えない。
「あっ……!い、痛…!」
首筋にさらに歯を立てられ、エドワードの中の絶望感がぬるりとざわめいた。

───大佐……あんたは。

もう、上半身は、この後他人に見せられる状態ではない。

───あんたは。オレを、壊そうとしている?