理性の宝石 -1-



───なぁ。これ、おまえが持ってろや。

───必要ない。

───これはさぁ、スーパーウルトラスペシャル級のお守りだぜ。俺のバーちゃんが言ってた。

───だから俺には必要ない。それは、この土地に住む人間のものだ。

───土地ったって…砂だらけでなんもないだろ、ここ。なんにもねー、人も住んでねーから、塹壕(ざんごう)掘ってたんだし。

───塹壕は、別の場所でもう一度掘り直す。それも埋めておけ。

───塹壕掘り直すのはどーせおまえだし、それはかまわねーけどさー。おまえにゃー今後の生活の展望ってモンがねーのか?コレ一個でウン十万、ヘタすりゃウン百万センズの財産になんだぜ?おまえ、ケガで退役した時のこととか、考えねーの?

───考えない。この戦いで死ぬなら、それが運命だ。

───……………そっか。

───何を黙っている?

───……運命信じてんなら、これ持っとけ。

───別に。信じてるわけじゃ、

───いいから持っとけ。これは俺がおまえに無理やり持たせたんだ。バチがあたるんなら俺にあたるから、心配すんな。

───こら、どこを触ってる!?

───んーと。胸ポケットより、下のポケットの方がいいか。

───こらっ!

───落としたらコトだかんな。本営(ベース)まで帰ったら、荷物に入れといてもいいぞ。

───おい!勝手なこと言うな!!

───そんなに持ってんのがイヤなら、この戦争が終わった後で俺にくれや。俺にはおまえと違って養う家族、……になってくれる予定のカノジョがいんだからさ。

───ならば今くれてやる!手を出せ!!

───だって、どー考えても俺よりおまえの方が死ぬ確率低いもん。おまえが持っててくれた方が、確実なんだもん。

───そんな気弱なこと言ってると、本当に死ぬぞ!

───いーからいーから。あ、それ勝手に捨てたら一生恨むからな。俺の大事な結婚資金だかんな?

───おまえ、いいかげんに…

───さー、無駄に時間食っちまった。塹壕掘り直して、さっさと帰ろーぜ。

───こらっ!待てっ!待たんかっ!!…………ヒューズ!!!












***

イヤなものを見てしまった。
エドワードは、遠くのその人影から、ぐるりと視線を逸らした。
「兄さん、どうしたの?」
「なんも。おら、道換えるぞアル」
アルフォンスに不審がられようが冷やかされようが怒られようが、もうどうでもよかった。
この不快さ加減を、「イヤ」の一言で片付けるのはなんとも女々しくて子供っぽくて悔しくてたまらないのだが、シンプルな感情に押されてこみ上げてくる言葉は、やはりシンプルで代えがきかない。
ホムンクルスの腹に放り込まれたり大総統に脅迫されたり、セントラルの地下で無礼千万なホーエンハイムの知り合いに遭遇したりと、エドワードとアルフォンスの生活はこの数日で激変を極めていたが、今さっき見かけたあの男だって、その激変に無縁ではなかったはずだ。
病み上がりだろうと、腹心の部下を一人残らずもぎ取られようと、軍の狗どころか飼い殺し状態にされようと、あの男なら軍内で席を無駄に暖めているはずがない。
そう思っていたのに。
なのにそのマスタング大佐は、夕暮れも早い時間から悠々と私服で街を練り歩き、こともあろうに女性を連れて───宝石店のウィンドウをのぞいたり、していたのだ。



セントラル市街において、軍直営のホテルはそう多くない。
そのことが、本当に恨めしいとエドワードは思う。
「鋼の。いるんだろう。出てきてくれないか」
せっかく早々に夕食を済ませて、思う存分ホテルの部屋に閉じこもろうと思っていたのに、エドワードの不機嫌の原因はすぐにエドワードの居場所を探り当てて、こうしてドアの向こうで迷惑なノックを続けてくれている。
こんなバカのようなタイミングでマスタングが来たということは、先刻の遭遇に、マスタングの方も気づいていたということだ。
「いいかげんに開けてあげたら?近所迷惑だよ?」
心配と皮肉をないまぜにしたアルフォンスの声は、心なしか冷ややかだ。
アルフォンスは「先刻の遭遇」に気づいていない。
目ざといのが自分ばかりであるというのもどこか照れくさく、アルフォンスにこの現在の状況説明を丁寧にしてやるのもどこかばかばかしく、エドワードはソファの上で無言を貫いた。
頑固すぎるほどにまっすぐな性格のアルフォンスは、マスタングに命を救われた後も変に気後れせず、その命の恩人に対して、以前とほぼ変わりないクールな応対を続けている。
だが、アルフォンスにとっては気味が悪いほどに、マスタングの様子は以前と違っており、時折、アルフォンスのクールな応対は揺らぎかかってもいるのだ。
表情も変わりない。
口調も変わりない。
態度も、相変わらずの慇懃無礼だ。
かのマスタングは、一見何も変わっていない。
だが、言葉の端々や、なにげない視線の隅に、以前には感じられなかった穏やかさが混じるようになった。
その穏やかさに呼応するように、エドワードの様子も変化しているのが、アルフォンスにはこそばゆくて、かつ腹立たしい。
エドワードは最近、マスタングに対して、やたらに黙り込むようになった。
おかしなことにその沈黙は妙に熱っぽく、平たく言うとエドワードは照れているように見受けられた。
しかし彼の「照れ」の表現は天文学的にわかりづらくなり、エドワードは彼らしからぬ必死さで、誰にとっても始末の悪いその感情を隠そうとしている。最近は、隠そうとしていることまで隠すので、アルフォンスはもう、エドワードの「本当の照れ」が、彼の沈黙のどこからどこまでなのか、正確に推測できなくなっている。
この世に生まれてほぼ十五年、生活も目的も感情も、このバカ正直な兄と共有してきたのに、ここにきてエドワードは見事な感情の隠蔽テクニックを会得してしまった。
しかし、以前のようにエドワードは憔悴などしていない。
それどころか、ますます健康だ。
この健康の片棒をマスタングが担いでくれているのは、たぶん間違いない。
だがそれを無邪気に祝福できるほど、アルフォンスは子供ではない。
むずむずする、今まで全く経験したこともない珍妙なその腹立たしさをやっとこらえて、アルフォンスはソファから立ち上がった。
「おい!アル!」
不機嫌炸裂のエドワードを無視して歩き、あっさりドアを開ける。
本当にエドワードが不機嫌なのかどうか、わからないことがどうにも気持ちが悪いが、この場を治めるためにアルフォンスができることは、これだけなのだ。
「こんばんは。すみません、兄さん、なんかまたスネてて」
「スネてなんかねぇっ!馬鹿アル!!」
形式だけの謝罪をする弟と、事実スネまくっている兄の怒声に迎えられても、ドアの向こうから現れたマスタングは顔色ひとつ変えない。
変えないどころか、目の端に笑みまで浮かべて、自分の年齢の半分しか生きていない鎧姿の少年を、丁寧に見上げている。
いつもの軍服ではなく、高級品であろうシックな三つ揃いを着こんで、これまた軍支給のものではない薄手のコートをはおったマスタングは、勤務中よりもずっと柔和な男に見える。
その柔和さに薄ら寒い真実味を感じて、アルフォンスの意識の底が、また不愉快にこそばゆくなる。
「夜分にすまない。鋼のを、しばらく貸してもらえないだろうか。話がある」
要望はストレートかつ、やや衝撃的だ。
「時間はとらせない。八時までにはお返しする。だから」

───八時って。小学生が寝る時間じゃないんだから。

現在の時刻は六時三十分過ぎだ。
アルフォンスは二の句が告げない。
なんだか、箱入り娘の父になったような気分だ。
こんなにストレートに懇願されては、マスタングを必要以上に疑うアルフォンスの方が、人でなしになってしまう。
状況から察するに、自分の見ていないところで、兄とマスタングは小競り合いを展開していたらしい。夕方からの、エドワードの微妙な不機嫌にはもちろん気づいていたが、それがマスタングがらみだったことに気づけなかった自分の鈍さに、アルフォンスは改めて腹を立てた。そして、不機嫌がマスタングがらみであることを黙っていたエドワードにも、もっと腹を立てた。
「別に。九時でも十時でもかまいませんけど。まだこの辺でスカーがうろついてるかもしれませんから、ちゃんと帰りは送り届けてください」
「わかった。約束する」
「馬鹿アル!おまえなっ!」
かなりヤケクソで箱入り娘の父になりきり、アルフォンスはソファへ取って返して、騒ぐエドワードの襟首をつかみ上げる。
「アル、てめぇ!」
「静かにしたまえ。近所迷惑だ」
言おうとしたセリフをこれまたマスタングに横取りされ、アルフォンスの立腹は最高潮だ。
「じゃ。いってらっしゃい兄さん」
氷点下の声音と共に、ドア向こうにエドワードを叩き出す。
叩き出されたエドワードを受け止めるマスタングの笑みは、本当に柔和だ。
もうかなり我慢できない。
「ありがとう。約束は守、」
マスタングの語尾をかき消す勢いで、アルフォンスはドアを閉めた。
マスタングへの不信は、今でも拭えない。
けれども、叩き出したエドワードの顔色に、以前のような、おかしな緊張感は感じられなかった。
何か、耐え難いことを耐えている時、エドワードには笑うくせがある。
笑いを顔に貼り付けている時のエドワードは、油断がならないのだ。長くつらい、旅から旅への生活の中で得た哀しい逆説を、アルフォンスはまだ手放せないでいる。
エドワードの本当の感情がどれほどわかりにくくなろうと、エドワードの安全のために、この逆説は簡単には覆せない。
だから、顔面に膜を一枚貼り付けたような、エドワードの精巧な作り笑顔を見せられるよりも、さっきのように不機嫌全開で出かけてくれた方が、事態は切迫していないのだと、アルフォンスには思えるのだ。

───もうこんな言葉、思い浮かべるのもイヤなんだけど。

あれが、俗に言うチワゲンカってやつなのかなあと、アルフォンスはドアに緩くもたれながら、治めきれない嘆息をようやく半分飲み込んだ。



狭いリビングに、ダンボール箱があふれている。
林立するダンボールに見下ろされながら、エドワードは、視線を斜め下の床に恨みがましく落とした。
「どこでもいいから、座ってくれ」
ダンボールの林の向こうから、マスタングの声がする。
なにがどこでもいい、だ。
座るところなんて、この足元の、読みかけの本やら脱ぎっぱなしの上着やらが積まれ積まれて人一人の尻がやっと収まるくらいの隙間しか空いてない、ソファだけじゃねーか。
心の声を飲み込み、エドワードは黙り続ける。
いろいろと因縁のあるマスタングの自宅に足を踏み入れることは、エドワードにとって非常に、そして文字通り敷居の高い行為だったが、それを充分に知っているはずのマスタングは、それらの因縁の記憶をすっぱり失念してしまったかのように、問答無用でエドワードをここへ連れ込んだ。
いや、実のところ問答は無用ではなかったが。

───君が何に怒っているのか、大体想像はつく。

ホテルからの道中、車を運転しながらこともなげに言うマスタングの落ち着きぶりは、エドワードの不愉快の炎に油を注いだ。

───勝手に決めつけんな。

───では、なぜ怒っている?理由を聞かせてくれ。

───オレは最初っから、怒ってなんかいない。

その後のマスタングの小さな笑みに、なんとも言いようのない悔しさで胸中をかきむしられ、感情を修復することもできずに、エドワードは今、この清潔とは言いがたいマスタング家のリビングに立っている。
おまえのことはすべてお見通しだと、微笑んでいるマスタングに腹が立つ。
真正面からエドワードの機嫌を損ねておきながら、少しも焦っていないマスタングに腹が立つ。
黙り込むエドワードに、返答を強要しないでいるマスタングに腹が立つ。
そして、マスタングのもろもろの想像はおそらく間違っていないことに、本当に腹が立つ。
どうしてこんなに、油断してしまうのだろう。
マスタングがホテルを訪ねて来たあの時に、もっと冷淡に、こちらからマスタングをからかってやった方が、よほど溜飲が下がっただろうに。
この悔しさをさらに悔やんでみても、どうにもならない。
ぐるぐると腹を立てたあまりに、警戒の地団駄を踏む暇もなく、車から丁重に引きずり降ろされ、玄関ドアの中へ丁重に引きずり込まれ、このありさまだ。
「こちらに異動になってから、部屋を片付けるヒマがなくてね」
似たようなセリフを、ホークアイの家でも聞いた気がする。
ダンボールの林の向こうから戻ってきたマスタングは、ゆっくりした足取りでリビングテーブルに近づき、エドワードの向こう岸に腰を下ろした。ガサガサと音がするところをみると、どうも椅子ではなく、低く積んだダンボールにそのまま腰掛けているようだ。
「ひでー部屋だな」
「まあな」
「時間がねーなら、人に頼むなりなんなりしろよ」
「私は、蔵書を他人に触られるのが嫌いでね」
「んなこと言ったって、片付けられねーもんはしょうがねえだろ。いつまでもこのままにしとく気なのかよ」
「まあ、そのうち」
「知ってるか?『そのうち』っていうセリフはな、『半永久的にやらねぇ』って言ってるのと同じなんだぜ」
「君からそんな真面目なお説教が聞けるとはね」
何をどう噛みついても微笑まれ、エドワードの感情は本当に行き場がない。
往生際悪く座ろうとしないエドワードにかまわず、ダンボール椅子に着いたマスタングは、ことりと右手をテーブルの上に置いた。
握られたままだったその指の中から、小さな包みが現れる。
マスタングの手のひらの中に完全に隠されていた包みの生地は、擦り切れた何かの革でできているようだった。
「何だよそれ」
「サファイアの原石だ」
「へ?サファ…なに?」
唐突な説明に、エドワードの思考はとてもついていけない。

───サファイア、ってのは、あの、ユビワとかネックレスとかについてる、やたらに値の張る、青い……酸化アルミニウムの一種の、石ころのことか?

「正式な鉱物名はコランダム。酸化アルミニウムの結晶だ。抽出して磨いてないんで、光ってはいないがね」
だから、エドワードが聞きたいのは、そういうことではない。
「その酸化アルミニウムが、どーしたっての?」
問い返して、会話を成立させてやるのも実に腹が立つが、だんまりを続けてもエドワードの株が下がるだけで、今のマスタングには痛くも痒くもないだろう。
「私が今日、あの店の前で立ち止まっていたのは、このサファイアのことを思い出していたからで、同行の女性にサービスしようとしていたわけでもなんでもない」
「は?」
先刻から、息混じりの相当に間抜けな声しか出せないでいるエドワードを全く置いてきぼりにして、マスタングはとうとうと語り続ける。
「その前に、あの女性は私の伝言をとある筋へ届けてくれる連絡員で、私はあの女性とプライベートでは全く関係がない」
白く擦り切れた小さな革の包みを、ころりと指先で一度だけもてあそんで、マスタングは言葉を切った。
「鋼の」
薄く薄く笑んだ真っ黒な瞳が、なんとも小憎らしく優しげに、エドワードを見上げてくる。
この憎らしさも、とても現在のエドワードには消化しきれるものではない。
「今の説明で、機嫌を直してもらえないだろうか。それとも、私の見当違いだったかね?」
我ながら、めまいがするほど男らしくないとは思うのだが。
イエスともノーとも答えられない質問には、質問で返すしかない。
「まさか、あんた」
エドワードの心の中に、ぽつりとひとつ垂らされた安堵の水滴は、認めたくない水紋をくっきりと描きながら、いまいましく広がってゆく。
「まさかあんた、オレにそうやって言い訳するためだけに、オレをここまで呼びつけたのかよ?」
「そうだが、何か?」
あきれた、と口にする気力もなく、エドワードは額を押さえて深くうなだれる。
「いいかげんにしろよ?オレは…」
肩で巨大なため息をついてやっても、エドワードの中から虚脱感は出ていってくれない。
「オレは?」
にこやかに問い返しながら、またもう一度、マスタングはころりと包みをもてあそぶ。
この笑顔を、どうにかしてバラバラの粉々に分解できないものだろうか。
踏み込みたくない地雷原に、ことのほか巧妙に追い込まれてしまい、もう逃げ場がない。
「オレは、最初っから、な・ん・も怒ってねぇって言ってんだろっっっ!!!」

女々しい感情の地雷は、エドワードのささやかなプライドを、木っ端みじんに粉砕した。



少し、からかいすぎただろうか。
こちらが構えていてはエドワードも身構えてしまうと思って、強引に連れ出して強引にこの家へ押し込んでみたが、こちらの緊張を悟られないためのスピーディな行動と、スマートな(?)からかいは、エドワードの感情を倍増しに逆撫でしてしまったようだ。
うっすらとほこりの積もるキッチンで湯を沸かしながら、マスタングは、どうしても緩んでしまう頬をなんとか引き締めた。
あれだけからかっても、まだエドワードは帰らずにいてくれる。
ダンボールの林の向こうのリビングで、さっきのサファイアを黙って検分している気配が伝わってくる。
本当に嫌なら、どんなことがあってもエドワードはこの家に踏み込もうとはしないだろう。
それがどうしても嬉しくて、落ち着かない。
その落ち着かなさをまた、余計なからかいに転化させてしまわないよう、頬と共に、マスタングはいっそう気を引き締める。

───言い訳するためだけに呼んだ、というのも、言い訳だ。

夕方、あの店の前で、背後に視線を感じたあの時、しまったと思った。
案の定、露骨なまでにきっぱりと、エドワードはきびすを返して歩いて行ってしまった。
そうして彼が機嫌を損ねてくれたことが嬉しくて、そして怖くて、気に病んでいるそのことが、自分だけの思い込みでないことを確かめたくて、彼のホテルまでわざわざ足を運んだ。
本当に子供っぽいのは、自分の方なのだ。
冷めやらないささやかな興奮を、胸の底に押し込むように腕を組み、ティーポットの前に仁王立ちして、マスタングはポット内の茶葉エキスが抽出されるのを待つ。
こう興奮していては、言わなくていいことを次々に言ってしまいそうで、自分を信用できない。
そもそも、あの石をわざわざ持ち出して話題に上げることが、女々しい押しつけだ。
押しつけを押しつけと感じさせずに、余計なことを言わずに、最小限の情報だけを、エドワードに伝えねばならない。
彼にとっては、わずらわしい枷(かせ)になるだけのことだろうが、それでも、今言っておきたい。
強くそう思うことが、既に彼への甘えであることをマスタングは自覚していたが、今さらエドワードを丁重に追い返す気力など、到底わいてはこなかった。



紺碧(こんぺき)の空に白い雲が薄くかかっているような、白と青、まだら模様の石だ。
マスタングがキッチンに立っている間、ドアを蹴り飛ばして帰るわけにもいかず、その場で立ちっぱなしなのもバツが悪く、エドワードはようやくソファに腰を下ろして、テーブルの上の包みを開けてみた。
怒りはまだとても治まらないが、手持ち無沙汰であるし、何より、実際に見たことのない鉱物への興味に抗えなかった。
丸いのかと思った石は、どちらかと言えば平たく、鉱物の結晶の特徴なのか、あちこち割れたような小さな切り口を剥き出しにして、いびつな凹凸をかたちづくっていた。
磨かれてはいないものの、青い結晶の端々は、擦りガラスのようにかすかに光を透過し、輝いている。
「砂漠で塹壕を掘っていた時に、偶然見つけた。ヒューズが拾ってくれた」
湯気の立つティーカップを携えて戻ってきたマスタングをしばし無視して、エドワードは手の上で石を転がす。
「焔の錬金術師が、塹壕掘り?イシュヴァールで?」
エドワードは視線が上げられない。
「イシュヴァール」は、マスタングにとっての禁句だ。
手の中の石に気を取られているふりで、石を無理やりにでも見つめていなければ、エドワードはその単語を口にすることができなかった。
やや鋭く割れた青い結晶の表面が、手袋越しでも皮膚に刺さりそうで痛い。
そんなエドワードの刹那の緊張を知ってか知らずか、マスタングの声色は穏やかなままだ。
「ヒューズの上司は人使いが荒くてね。人手があまりにも足りなくて、駆り出された」
「そりゃご苦労なこって」
「錬金術で砂と岩を少々掘るだけだ。楽なものだったよ」
ティーカップをひとつ、エドワードの前に押しやり、もうひとつを自分の側に数センチ引きつけて、マスタングは再びダンボール椅子に座った。
「見つけたの、これだけかよ?サファイアの鉱脈がわかったんなら、ホントはあんた、億万長者だったんじゃないの」
「鉱脈らしい地層はあったが、埋めてきた。永久に、誰の目にも触れないように」
ティーカップの湯気の向こうで、マスタングが視線をテーブルに落としている気配がする。
それでもなぜか、エドワードは会話を止める勇気が出せない。
「それで、金に困ったら、自分ひとりで掘りに行く気なわけ?」
石を転がす手を、エドワードはふと止める。

───違う。

これは、こんな軽口を叩いていい話じゃない。
ほとんど本能でそれがわかったのに、さっきの怒りの余韻が、エドワードの理性の邪魔をする。
それでも、マスタングの声色には何の変化も現れなかった。
「あの資源のない土地で、ましてや戦時下に、貴金属の鉱脈なぞ掘り当てても紛争の原因になるだけだ。採掘権は中央政府のものになって、あの土地に住む人々の懐が潤うわけじゃない」
重い言葉とは裏腹に、マスタングは口の端であえかに笑ってみせた。
その唇の形を、エドワードはようやく目の端に留めた。



エドワードの軽口を真正面から封じてしまい、胸に溜まる小さな後悔が苦しくて、マスタングは目の前のティーカップに手を伸ばした。
エドワードは黙ったままだ。
早くカップの中身を一口すすって、何か言わなければならない。
あわてて口に含んだ茶は想像以上に熱くて、軽くむせる。
「何やってんだよ」
あきれた声を、鼻からのため息と共に押し出したエドワードの口元が、ふと緩んだのを見て、マスタングは安堵した。

───よかった。

まだ話を続けてもいいのだ。
マスタングは、熱い茶の染みた自分の唇を、指先で軽く拭う。
「あの時は、任務の遂行しか考えていなかった。金になる宝石を掘り当ててしまっても、何も感じなかった」
「でも、このかけら、拾って来てんじゃねーか」
「だから、ヒューズが拾ってくれた。サファイアには、昔からの言い伝えがあるそうだ。持っていると災いを遠ざけてくれるから、守り石になると言って」
今となってはもう、詳細に思い出せないのだが。
なんだかんだとわけのわからない理屈をつけて、本当に無理やりに、ヒューズはこの石をマスタングに持たせた。
あの時は、わけのわからないヒューズの理屈にしばらく腹を立てていたが、一日二日と時間が経つにつれて、ぼんやりと霧がかかったようだったマスタングの脳内にも、あるひらめきが生まれてきたのだ。
ヒューズは、マスタングの身を案じてくれていたのだろう。
拠りどころとなる家族がないマスタングを。
未来に執着のないマスタングを。
国家錬金術師というだけで、常に戦場の最前線に立たされていたマスタングを。
人間兵器と恐れられていても、銃弾が当たれば死ぬ、生身の人間なのだ。
そのことを、ヒューズはわかってくれていた。
どれほど珍しかろうと、石は石でしかないが、その石に祈りを込めることで生まれる平安もあるだろう。
自分で自分の安全を祈ることのできないマスタングの代わりに、ヒューズはヒューズの祈りを込めて、マスタングにサファイアを持たせてくれた。
祈りなど、戦火の前では無意味に砕け散る。それは、わかっていた。おそらく、ヒューズも。
それでも、人間らしく生に執着して、願うことをあきらめるなと、彼は言いたかったのだろう。
戦地から帰っても、結婚を決めた時も、ついにヒューズはこの石のことを言い出さなかった。こちらから言い出すのも何か気まずく、そのうちに忙しさに紛れて、小さな石のことなど忘れてしまっていた。
だがもう、彼に礼を言うことは永遠にかなわない。
「…あんたが今考えてること、当ててやる」
エドワードの低い怒声が湯気の向こうから飛んできて、黙り込んでしまっていたことに、ふとマスタングは気づく。
「あんたは今、自分を責めてる」
「え?」
エドワードは、テーブルに鎮座したままの小さな革包みの上に、そっと石を置いた。
ずっとうつむいていた金の瞳が、きらりと光を吸って、こちらをねめつけてくる。
「自分じゃなく、ヒューズ中…准将がこの石を持ってれば、准将は死なずにすんだんじゃないかって、思ってるだろ?」
限りなく図星に近い、いきなりの指摘に、とっさに言葉を返せず、マスタングは喉にひっかかる沈黙を耐える。
「どーしてあんたの考えはそう、マゾな方向に行くんだよ?世界中のワザワイを全部引き受けたいのかよ?違うだろ?」
エドワードの糾弾は、本当に優しい。
「ヒューズ准将があんたに石をくれたから、あんたはここまで生きてこれたかもしれない。なんでそっち方向に思考が働かねぇんだよ」

───君は、そうやって、自分にも言い聞かせているのだろうか。

何かまぶしいものでも見るように、マスタングは目を細めて、正面に座る年若い錬金術師を見た。
ヒューズの死によって、エドワードが自責の念に苛まれなかったはずがない。
自責の念は、誰かに漏らしたその時点でもう、その誰かに間接的に許しを乞う、甘えになってしまう。
その甘えを、自分に向かって吐き出せと、エドワードは言ってくれているのだろうか。
自責の念を共有するなど、はたから見れば許しがたい、傷の舐め合いだ。

───私が気分を害するかもしれないことを承知で、君は、一生懸命私を甘やかそうとしてくれているのだろうか。

ヒューズ。
許して欲しい。
俺は今、おまえのことを鋼のと話していながら、おまえのことを全然考えていない。
おまえがくれたこの石を介して、俺は、とてつもなく不埒な感情に支配されている。

「どーしたよ?図星すぎて声も出ねーか?」
災いを遠ざける、守り石。
しかし、自らの心の中から湧いてくる災いを、自らで遠ざけることは、できるのだろうか。
邪心を遠ざけ、理性を保つ力は、この石にあるのだろうか。
マスタングは、テーブルの上のサファイアを、ゆっくりと脇に払いのけた。
固い音を立てて、石はテーブルの縁に向かって数回転がり、止まる。
はっとして身を引きかけたエドワードの腕を、テーブル上でマスタングはつかみ止める。
マスタングの側のティーカップが転倒したが、かまっていられない。もともとカップの半分以下にしか、中身を注(つ)いでいない。
つかんだ布越しに、機械鎧の冷たさがきしりと伝わってきた。
そのまま立ち上がり、つかんだ機械鎧を軸にして、小さなテーブルの縁を回り、マスタングはエドワードのそばに立った。
膝頭が、座っているエドワードの足に触れる距離まで近づいて、彼を見下ろす。
エドワードは、マスタングの指を振りほどこうとはしない。
「怒ったか?」
つぶやくように問うてくる金の瞳は、どこか苦しげだ。
マスタングにされるがままに、つかまれた鋼の手指は、だらりと重力に従って垂れている。
幾度もこの腕をねじふせて、エドワードに触れてきた。
どんなにエドワードが平静を装っていても、彼の中から、マスタングへの原始的な恐怖が消え去るはずがない。
だから、怖いか、と、今エドワードに問うてはならない。
それを問うた時点で、マスタングはまた、罪を重ねることになる。
彼の心に、彼の身体に、マスタングがどこまで触れてよいか。
その裁決権は、すべてエドワードの手の中にある。
マスタングは、機械鎧をつかむ手をそっと離した。
「いや。感激している」
タイミングを失した答えを返すと、エドワードはいぶかしげに、軽く眉を寄せた。
自由になった鋼の手のひらを膝上に落として、こちらを見上げてくる彼の唇が、濡れて白く光っている。
その白さを目に留めた時、マスタングの中で何かが崩れた。
数歩踏み込んで、座ったままのエドワードの頭を、みぞおち付近に抱え込む。
白く光る彼の唇を、少しでも早く視界から隠したかった。
そうしないと、自らの罪も、彼の恐怖も、彼の裁決も、何もかも振り切って、この白く湿る肉をむさぼってしまいそうになる。
「もっと教えてくれ。君の理を」
回した腕をエドワードの背中で交差させ、いっそう深く、彼を抱き留めた。