理性の宝石 -2-



図星を指したつもりだったが、マスタングは驚いていなかった。
驚いていなかったということは、図星ではなかったのか。
急にさえぎられた視界の中で、エドワードは平常心を手放すまいと、懸命に背筋に力を込めた。
軍服でないマスタングの胸元は、どこかよそ行きの匂いがする。
三つ揃いの上着をキッチンで脱いできたのか、シャツとベストだけの上半身だ。
思ったより薄いベストの内側の、マスタングの腹筋が硬く頬に触れてきて、ますますエドワードの背筋に無駄な力が入る。
自分からヒューズの話を口にしておいて、自分から勝手に黙り込んでしまっているマスタングの顔からは、後悔と自責の感情しか読み取れなかった。
この男は自分を責めすぎる。責めて責めて、責め続けて、できることなら自分の存在などなくなってしまえばいいと思っている。
自責に麻痺して、自責することそのものが、この男の人生になってしまっている。
戦場で大量殺戮に手を染めたこの男が、今まで発狂せずに精神を保(も)たせてこれたのは、その麻痺のおかげかもしれないが、いつまでも彼の精神構造が、このままであっていいわけがない。

───オレには、戦場で人を殺した人間の気持ちはわからない。

でも、こいつのそばで、こいつが崩れていくのを黙って見ているなんて、ゴメンだ。
無駄かもしれない。
届かないかもしれない。
でも、何もせずに諦めるのだけはイヤだ。
だから。

「もっと、教えてくれ。私を改造してくれる、約束だろう?」
少しくぐもっているが温かい声が、頭の上から降ってくる。
マスタングは怒っていない。
それでも、エドワードは身体から力を抜くことができない。
この感情は恐怖ではないと思うが、違うとも言い切れない。
こういう場所でマスタングと二人きりになった時点で、こういう展開になるのはわかっていたことだ。
いつマスタングの腕に捕まるのかと、心の隅でキリキリと気に病み続けるよりも、捕まってしまった方がいっそのこと落ち着く。
エドワードはもう、「契約」に縛られたカゴの鳥ではない。
触れるなと拒否すれば、マスタングはそれに従ってくれるだろう。
触れられるのが、嫌なわけではない。
大変な苦痛を伴いながらも、そのことをエドワードは自認できるようになったが、その先を、どうしていいのかがわからない。

───それとこれとは別だ。

マスタングが、エドワードに触れたいだけ触れたところで、マスタングの偏った思考回路が変わるわけではない。
この男も、そんなことぐらいわかっているはずだ。
なのに、どうしてこの男はこんな、何もかもをごちゃごちゃにするような行動に出てくるのか。
困るのだ。
本当に困る。
顔の周りの空間がまた狭まり、マスタングのベストのボタンが、顎の先をくすぐってくる。
ぐっ、とエドワードは目を閉じた。
こうして腕に捕らえられて、奇妙に落ち着いている自分に困る。
そして、やはり恐怖のような感情を拭えないでいる自分に困る。
そして、

───めんどくせぇ。ごちゃごちゃでももう、いい。

などと心の大部分で思ってしまっている自分に、心の底から困り果ててしまうのだ。



腕の中で、エドワードが何かつぶやいている。
ようやくそれが「苦しい」という単語であることにマスタングは気づいた。
あわてて腕を緩める。
それと同時に、エドワードの腕が両脇腹に伸びてきて、着ているベストのすそが引っ張られるのを感じる。
拒否とも、誘いともつかないその動きに動転してしまい、マスタングはエドワードの両肩に手を置いたまま、動けなくなった。
脇腹にすがるような格好で、拘束を緩められたエドワードがこちらを見上げてくる。
本当に見たいが本当に見たくなかった彼の唇が再度露わになり、マスタングの胸が、鼓動を打って痛んだ。
苦し紛れに視線を彼の瞳に移すが、彼の目の中には、やはり脅えの色が浮かんでいる。
逃げ場がない。
エドワードの身体を拘束しているのは自分の方であるのに、マスタングはいてもたってもいられない。
この、彼の肩に置いたこの手を、離さなければならない。
彼はマスタングのこの行為を歓迎してはいない。

───だが。

だが彼は、マスタングの腕を振り払わない。
彼は、不愉快に思ったなら、風が触れるような接触でもすぐにその身から叩き落とす、はっきりした性格の持ち主だ。
恐怖で、動けないというわけではなかろう。
いや。
でも。

───私は、彼が恐怖で動けなくなるだけのことを、彼にした。

だめだ。
罪深かろうと彼が怒り狂おうと、どうしても、やっぱり口に出して訊かなければ、判断ができない。
乾いた喉を絞り、マスタングは腕の中の少年に問うた。
「………怖いか?」
エドワードが目を伏せる。
小さな声が、金色の前髪の下から、聞こえてきた。
「オレが怖いって言ったら、あんた、やめんの?」
口調は挑発的だが、その声音は力無い。
「ああ。やめる」
「オレが、『今後いっさいオレに触んな』って言ったら、あんたはそれでいいのか?」
「ああ。いいとも」
「あんた、耐えられんの、それで」
「私が耐えられるとか耐えられないとかの問題じゃない。決めるのは君だ」
「なんでオレなんだよ」
「私は君を傷つけた。だから、私は決められる立場にない」
「じゃあ決めた。オレの質問にちゃんと答えろ」
「え?」
「あんたは今、オレに触りたいのか触りたくないのか」
「だから私はそんなことを言える立場ではないと」
「ゴタクが聞きたいんじゃねぇ!答えは二択だ。さっさと言え!!」
がば、と翻った前髪の下から、もう一度エドワードの目が現れる。
切りつけてくるようなその視線に、焦りの詰まった脳を冷やされて、マスタングの腕から力が抜けた。
ゆっくりソファから立ち上がってきたエドワードの動きに合わせて、彼の肩に乗せていた手を下ろし、エドワードを拘束から完全に解放する。
怒りで紅潮しているのか、彼の唇は、悪魔的に赤い。
その唇に向けて、マスタングはようやくつぶやいた。
「…………触りたい。君に」
言葉を受け止めたエドワードの唇は、固く閉ざされて、歪んだ。



───言ってることと、やってることが違うだろ。
 
胸中で叫んでも、マスタングには聞こえない。
エドワードは唇を噛んだ。
触れたいと言いながら、マスタングは離れていった。
この期に及んで、決めろというのだ。
触れたいなら、おまえの方から決めて、触れてこいと。
この、怒りに似た感情が、とてもずるいものであるのはわかっている。
決定権を委ねられて、こんなに不愉快なのは、自分の感情を決めたくないからだ。
あわよくば、マスタングの感情に流されるふりで、マスタングに決めてもらおうと思っていたそのずるさが、はっきり自分の胸の底から透けて見えてしまって、エドワードは無言の恐慌状態に陥る。

───オレは、こいつに触られるのがイヤじゃない。

でも、痛かったり苦しかったりするのはイヤだ。
オレが決めて、命令するのか?こいつに?
苦しくない方法で、オレを、その、だ、抱け、って?
そんなこと、どうやって。

「鋼の。すまなかった」
エドワードの恐慌状態は、突然のマスタングの言葉で真っ二つに中断された。
息苦しい夢から覚めたように、エドワードは勢いよくマスタングを見上げ直す。
「君をあまり、困らせたくない。今日はもう宿に戻りたまえ」
マスタングはもう、薄い笑顔の仮面をかぶっている。
「さあ。送ろう。アルフォンスとの約束だ」
すい、ときびすを返すその卑怯な背中は、エドワードの感情を根底からえぐり、さらい上げた。
いやもおうも、叫んでいるヒマなどない。
逃げなど許さない。
リビングのドアに向かって歩きかけたマスタングの腕を、エドワードは反射的に引いた。
背後から腕を引かれて、マスタングが振り向く。
逃がすまいと、もう一方の腕もつかんで、無理やりこちらを向かせる。
「触りたいんなら、触れよ」
マスタングの顔から、笑顔の仮面は一瞬で剥がれ落ちた。
その目はまだ、エドワードの言葉を信じていない。
無理はしないでいい、と、いまいましく目の端でこちらを気遣っている。

───こいつに許可を、出すんじゃなく。

オレはこいつに、許可なんか出したいわけじゃない。
そうじゃなくて。
そうじゃなくて、オレは。

「…………触って、くれよ」

喉元にこみ上げる奔流を耐えて、たった一言だけを口にする。
今までのすべてを崩壊させ、すべてを構築し直すその一言に、マスタングの顔色が変わった。



その言葉が彼の要望でなく、意地だったとしても。
もう踏みとどまれないと、マスタングは思った。
両腕に絡んでいたエドワードの指を振り払い、彼の背中を掻きむしる勢いで抱きしめる。
マスタングの胸元にエドワードの頬骨が衝突して、彼が低くうめいた。
マスタングの脇腹の傷にも、衝突のショックはかすかに響いたが、昂(たか)ぶってしまった感情はいとも軽く、痛覚をかき消す。
エドワードの肩に手を伸ばし、首筋からすくい上げるように、両手のひらで彼の顎をこちらに引きつけて、その唇の、悪魔のような赤さに噛みつく。
エドワードが全身に力を込めるのがわかったが、止められない。
ひと呼吸の猶予も与えず、舌で彼の歯列を分けると、彼は顎をきしませながらも、すぐに唇を開いてくれた。
唇の中の、その舌は温かい。
頭蓋骨じゅうに震撼するような痺れがはじけて、閉じた目の奥が痛い。
眼球を揺らす痺れは喉から肺へと滑り、そのまた奥へなだれ落ちてゆく。
この、溶けそうに柔らかい舌を、離したくない。
この熱くゆらめく感触を、自分以外の誰かが味わうなど、どうしても許せない。
独占の欲は、つきつめれば凶暴で、猟奇的だ。
角度を変えてエドワードに口づけ直すたびに、彼の唇から苦しげな吐息が漏れるが、その苦悶さえ、マスタングの欲を煽る。
「………っう、………」
苦悶のあまりに漏れてくる彼の声を、舌でつかみ止め、自らの吸気に換える。
エドワードの声も、吐息さえも、大気に溶かすのが惜しい。拡散などさせない。
しかし、お互いの呼吸の限界はすぐにやってきた。
エドワードの唇から、ひと筋こぼれ落ちた水滴をとっさに唇で拭って、マスタングは彼の首筋に頬をうずめる。
抱きかかえているエドワードの身体は、さっきよりも明らかに重い。体重をかなりの割合で預けられているのだろう。
抱き返される、というよりは、彼自身が床に崩れ落ちないようにしがみつかれている感が大きいが、マスタングの背中に回された彼の手のひらは、相当の力をもって、そこをつかんでくれている。
背中のその感触が嬉しくて、その部分からまた、体温が上がっていく気がする。
荒い息を、エドワードの耳元で落ちつかせながら、その耳の下部の、柔らかい皮膚にも口づける。
びりっ、と、感電でもしたかのように喉元を震わせるエドワードを、さらにきつく腕で抱く。
彼の身体がさらに重くなったのを感じ取って、マスタングはそっと彼の足を、自分の足で払った。
「…あっ…!」
体術に長けた彼らしくもない声を上げて、エドワードは身体のバランスを立て直そうとしたが、かえって強くマスタングにしがみつくはめになり、軽く宙を泳いだ足は、もう床を踏むことはできなかった。
泳いだ足の、膝裏を軽く持ち上げて、最小限の動きで彼を背後のソファに引き倒す。
ソファに積み上げられていた本が、ばたばたと音を立てて、数冊落ちた。
「いて!」
エドワードが顔をしかめる。
ソファの端に残っていた本の角に、頭をぶつけたようだ。
「…すまない。次からは片付けておく」
残っていた本を背表紙から床に落として、マスタングは、ソファに閉じ込めたエドワードの耳に、律儀にささやいた。



ちょっと視界が回ったと思ったら、予想外の足払いをかけられて、このざまだ。
経験したことのない熱の感覚と、本にぶつかった頭の痛みで目の前がくらみ、エドワードはのしかかってくるマスタングの顔を正視できない。
正視しようにも彼の顔はエドワードの耳元に埋まっていて、視界に入ってこない。
頬に触れる彼の短い髪までが、ソファに埋められたこの身体を、すみずみまで痺れさせる。
反射的に抵抗したくなるのをこらえて、エドワードはソファの縁を握りしめた。
今まで、マスタングにはいろいろと精神的に脱力させられてきたが、物理的にこれほど脱力させられたのは、初めてだ。
こちらを窒息死させたいのかと思うほどの乱暴な口付けは、以前のあの時よりもずっと、寒気がしそうに熱かった。
恐ろしい熱さのその奥に、マスタングの真意が感じられて、薄皮一枚剥けば恐怖に転ずるあやうい感覚が、その真意によって、かろうじて快楽に傾いてくれている。
そう、これは快楽なのだ。
唇に唇で接触されて、息が上がるのも、背筋が震えるのも、両足に力が入らないのも。
恐怖をも飲み込む快楽は、単純でない分、深い。
それを実地で受け入れる心の準備は、まだエドワードの中で完全に整ってはいない。
叫び出したくなるような屈辱の感覚も、完全に消え去ってはいない。
「…ふ、うぅっ……」
襟の隙間から露出していた鎖骨を軽く噛まれて、エドワードの下半身が跳ねた。
そういえば、この家に入って、コートも脱いでいなかった。
エドワードの身体に微妙に合わない、軍支給のそのコートを、マスタングはためらいもなくエドワードの肩から剥いだ。前合わせを肘まで引き下ろし、その状態で今度はその下のシャツのボタンに指を伸ばしてくる。
脱ぎきれないコートに腕を拘束される形になって、マスタングの意図に気づいたが、既に手遅れだった。
「ちょ…っと、…ん…う!」
肘が伸ばせない。
マスタングの胸板を押し返すこともかなわないまま、また口づけられる。
唇の端から端までを、ゆっくり湿らせる浅いキスは、感触こそ優しかったが、同時に、ボタンを突破されたシャツの下へマスタングの指が這ってきて、エドワードはまた苦悶の息を吐いた。
「………!く、……」
息を吐ききる前に胸の突起を潰され、顔を背けてその感覚を耐える。
胸から浮き上がった痺れは、殴られるような衝撃で身体を突き通り、エドワードの下肢に、痛むように沁みた。
耐えきれそうにない。
下肢に集まる衝撃にエドワードは身をよじるが、そこもマスタングの体重と足技によって完全に封じられている。
唯一動かせる頭を、もう一度反対方向に背けて、エドワードは歯を食いしばる。
マスタングが、音を立ててエドワードのシャツの襟を開いてきた。
「う、……あぁっ!」
露わになったそこを、熱く唇で吸い上げられ、とうとう耐えきれず、吐息が声になった。



以前は、あんなに冷静に、この素肌と駆け引きできたのに。
忌まわしい「契約」の記憶が、マスタングの脳裏で断片的に明滅する。
何とかしてエドワードから触れてもらいたくて、卑怯以下のやり方で彼に口付けを強制した、あの記憶だ。
明滅する記憶を振り払いたくて、そして今現在にわき上がってくる、熱い感情をコントロールしきれずに、マスタングは息を詰める。
口に含んだままのエドワードの胸の突起が、筋肉ごと震える。
肉のその下にひそむ肺は、膨張と収縮を繰り返して、いじらしいまでにせわしない。
声を出すまいと、エドワードは必死で耐えている。
その必死さが、マスタングの興奮を呼ぶ。
彼の肌には、ほんの擦り傷すらつけたくないと思っているのに、擦り傷よりもよほど深い傷───彼のプライドの牙城を崩して、声を上げさせることで、焼けつく興奮はさらに取り返しがつかなくなる。
どうしてもっと、清純な心でいられないのだろう。
どうして他人を求める感情には、こんな卑しい嗜虐心がついて回るのだろう。
経験上、自分の肉欲が、うっすらと嗜虐心に裏打ちされていることは知っていたし、男であれば誰でもそんな傾向を持ち合わせているものだと勝手に納得していたが。
コントロールが、きかない。
そうやってくだらない自省を巡らしているそばで、めまいにも似た熱い欲の塊が、喉を駆け上がってくる。
エドワードのベルトに手をかけると、コートの袖で封じておいたはずのエドワードの指が追ってきた。
「やっぱり、怖いか?」
これはエドワードを思いやっている質問ではない。
この欲の塊を爆散させないために、かろうじて人間の言葉を吐いてみただけだ。
「…痛いのは……オレは、イヤだ」
限界に近い動きで、エドワードの指はマスタングの手の甲を軽く掻いてくる。
「君に苦痛を感じさせるようなことは、二度としない」
見上げた金の瞳は、赤く充血してとろけている。

───見上げなければ、よかった。

陶然、と表現するのがぴったりのその瞳の色は、マスタングを深く後悔させ、深く悦(よろこ)ばせた。
「心配しないでいい」



ベルトを外されて、そこを広げられた時は、声も出なかった。
詰まった息をどうにかしようとエドワードは唇を開いたが、間髪入れずにマスタングに口づけられ、下肢の中心をわしづかみにされる。
「ん、う、うぅ…っ!」
抗議の声は容赦なくマスタングの喉奥に吸い上げられ、声ではなくなった。
逃げ出したいのに、逃げられない。
いや本当は、逃げたくないと思っている。
正体がわかっているその焦燥が、身体の奥から湧いてくるのを、エドワードは初めて自分に許した。
触れられる快感は、今までいつも、エドワードの意志とは無関係のところにあった。
マスタングから与えられる快感は、すなわちエドワードの敗北で、屈辱でしかなかった。
今は違う。
自分の意志の延長にある快感というものが、こんなに激しいものだとは、想像したこともなかった。
さっき、可動の限界まで伸ばした指で、もう一度ソファの縁を握り、エドワードは耐える。
下肢の中心を、マスタングの指が包む。程よい圧力を加えながら、根元から先端へとそこを擦り、また往復させる。
「う、うう!」
上がってしまう声は、相変わらずマスタングの唇に食い尽くされる。
何度目かの指の動きの果てに、小さな水音がエドワードの耳に届いた。
その先端に触れているマスタングの指が、濡れているのだろう。
快感に先走る温かい水液を、丁寧に塗り広げられ、そんなにも反応してしまっている自分の単純さが、酷く恥ずかしい。
けれど、こんなに唇を塞がれたままでは、制止の言葉も、あるいは要求の言葉も口にできない。
エドワードが顔を背けて口付けから逃れようとすると、やっとマスタングは顔を上げて、唇を解放してくれた。
「もう…もう、いいから…」
懇願するエドワードの頬に、マスタングは優しくキスを落とし続ける。
「途中でやめるのは、つらくないか…?」
息混じりの低い声は、とんでもないことを言ってくる。
「最後まで、君に気持ちよくなって欲しい」
言葉の内容も、少し早い彼の呼吸の速度も、本当にとんでもない。
余裕のないマスタングを見るのはこれが初めてではないが、この余裕のない態度は、これまでとは一線を画しているような気がする。
行為を施しているのはマスタングの方であるのに、なぜそんなに息を乱しているのだろう。
「あぁ、んんっ…!」
濡れそぼったそこをきつく握られて、自分で耳を塞ぎたくなるような声が出てしまった。
それが合図になったかのように、マスタングが身体を起こす。
エドワードはほっとしたが、それは勘違いであった。
身体をずらしたマスタングは、無言で前置きもなく、濡れた中心を口に含んできた。
「うあ、待っ…て……、ん、んうぅっ!!」
少し自由になった腕を上げて口を塞ぎ、エドワードはすんでのところで吐声を耐えた。
マスタングの口に含まれたそこから、脳天に突き抜けるような感覚が襲ってくる。
人の舌が、これほど熱く、これほど淫らだとは。
「う……ふぅっ……う、あ、」
熱く深くそれに覆われ、撫で上げられ、暴力的なまでに吸い上げられ。
気絶もせずにもちこたえている意識の中で、自我さえも半透明に、おぼつかなくかすむ。
声を殺したいという理性は、エドワードの中から、瞬時に駆逐された。
「あ、あ、あぁ……っ!」
ひときわ強く、指と舌で扱き上げられたその時、エドワードはあっけなく果てた。



ごとん、と大きな音の後で、何か重いものが床に落ちた。
エドワードの身体からこぼれたものが、彼の衣服を汚さないように、細心の注意を払ってそこを舐め上げ、マスタングは顔を上げる。
口元を指の腹で拭いながら、音のした方向を見る。
脇のリビングテーブルの下に、小さな楕円形の影が落ちていた。
さっきマスタングが机上で転がした、サファイアだ。
思わず身をよじったエドワードの腕がテーブルに当たり、その振動で床に落ちたのだろう。
コランダムは非常に硬い鉱物だ。この高さから落ちたところで簡単に傷はつかない。もとより、鑑定士に見せるわけでもない。少々の傷など、全くかまわない。
荒いお互いの吐息の中で、マスタングはエドワードを見下ろした。
固く目を閉じてあえぐその頬は、紅潮して汗がにじんでいる。
早く目を開けてこちらを見つめて欲しいような、もう少し目を閉じたままで無防備にあえいでいて欲しいような、どちらともつかない複雑な感情は、肺が締め上げられるように苦しく、幸福だ。
このエドワードの身体を、すみずみまで支配したいという欲望はまだ、マスタングの意識の中ではちきれそうに大きかったが、これ以上エドワードに深く触れると、彼に間違いなく苦痛を与えてしまうだろう。
怖いか、という問いに、いつか彼が正面から答えてくれるまで、正面から否定してくれるまで、自分の感情の手綱を決して手放すまい。
苦しく自分をいさめて、マスタングは半身を起こし、横たわったままのエドワードを抱きしめた。
欲が過ぎると、またエドワードを失ってしまう。
額に貼りつくエドワードの前髪を払ってやりながらも、床の上の小さな石の影が、目の端にちらついてしかたない。
いつも、音を立てて転がる石に振り回される。
ある時は、人の尊厳を踏みにじって作られたあの、紅い石に。
そして今は、この目の前の、青い鉱石に。
いや今は、この青い石が振り回してくれたことを、感謝するべきか。
あの紅い石には人間の残虐さが凝縮されているが、このサファイアは、人智を超えた、大地の気まぐれの産物だ。稀石だろうと宝石だろうと、石は結局石でしかない。
この気持ちが大いなる感傷であることは百も承知だが。
マスタングの身体の底の、大いなる感傷が叫んでいた。

───この青い石を、単なる石に貶めてはならない。

つい先ほども、エドワードに叱咤されたではないか。
旧友の祈りを無駄にするなと。

───それならば、私も。

自嘲半分で、マスタングはエドワードを抱いたまま、誰にも聞こえない祈りをひとつ、石に捧げた。



身づくろいを手伝おうとするマスタングを部屋の外へ追い払い、エドワードはやっと自らのベルトを自らの手で締め直した。
「もう入ってもいいか?」
ドアの向こうから聞こえてくるマスタングの間抜けな声に、少々あわてる。
「まだだバカ!」
テーブルの上はこぼれた茶の海、テーブルの下には転げ落ちたサファイアが裸のまま横たわっている。
こぼれた茶はマスタングのしわざだが、落ちたサファイアはたぶん自分のせいだ。
思わず暴れてしまったあの瞬間をしつこく思い起こしてしまい、石を拾うだけだというのにエドワードの頬は熱くなった。
テーブルの上でなんとか無事だった革の包みをすばやく取り上げ、拾い上げたサファイアを元通りくるむ。
背後で、間抜けな声はまだ間抜けにしゃべっている。
「鋼の。これ以上遅くなると私はアルフォンスに叱られるのだが」
「うるせーもう、好きにしろ!」
数瞬の沈黙の後、音をほとんど立てずにドアを開けてきたマスタングは、既にコートを着込んでおり、再びの外出の準備を万端にしていた。
本当に、エドワードを宿まで送り届ける時刻を気にしているようだ。
彼がアルフォンスにちくちくと嫌味を言われる姿も見てみたいような気がしたが、その場に棒立ちしてその二人のやりとりを見つめなければならない自分の状況は、いたたまれないどころではすまないだろう。
余計な想像を振り払い、エドワードは石を乗せた手を、マスタングに向けて勢いよく突き出した。
「これ。ちゃんと、しまっとけよ」
小さな靴音を立てて、歩み寄ってくるマスタングの顔が見られない。
別にあのぐらいのことは、マスタングにとってはたいした事件ではないのだ。
ああいう行為について、圧倒的に経験値の低い自分が、こんな子供っぽい態度を取れば、もっとみじめになるだけなのに。
もっと堂々と、なんでもなかったような顔でいなければならないのに。

───こんなんで、これから先、どーすんだ。

自分に怒れば怒るほど、顔だけが熱くなる。
「ありがとう」
そっけない謝意の声と共に、マスタングの指が伸びてきて、手のひらがふと軽くなる。
石が、マスタングの手に渡っていったそのタイミングを逃さず、巣穴に引っ込むリスのようなすばやさで、エドワードは腕を自分の脇に戻した。
「鋼の」
見つめるマスタングの靴は動かない。
まだ何の話があるというのか。
「鋼の。ひとつ、頼みがある」
「な…んだよ?」
うつむきすぎているせいで、問い返す声がかすれる。
顔を上げないエドワードの様子を笑うでもなく、正すでもなく、マスタングは何事もなかったように、言葉をこちらへ投げかけてくる。
「この先、私に万一のことがあったら、この石をヒューズ夫人に届けてくれ」
頬の熱さも忘れて、思わずエドワードは顔を上げた。
「夫人は、今の私が何を言っても、こんなものなど受け取らないだろう。彼女はそういう人だ」
そんなにいつも通りの顔をして、子供を近所のパン屋へ使いにでも出すような口調で、この男はなんということを言い出すのだろう。
「だが、故人の遺志だと君に言われれば、きっと断れまい」
楽しく悪戯(いたずら)をたくらむような目で、マスタングは手の中の包みを見つめている。
エドワードの身体の中で、頬と共に温度を上げていた感情は、嵐のように別の熱さにすり替わった。
「……誰が故人だぁ?」
爆発を耐えて、低く低く声を抑える。
「万一、と言っただろう」
まったくもって、どうやればこの笑顔を分解できるのか?
「クソッタレが!そんな頼みはぜってーきかねぇ!」
粉々のバラバラの、大気に溶けても煙さえ立たないほどの微粒子にまで、この憎らしい笑顔を分解してやりたい。
「あんたの思考回路は、どこまで真っ黒なんだ!くっだらねぇ約束なんか、あの小銭の借りで充分だっての!!」
分解できないマスタングの笑顔は、エドワードの怒声にさらされて、さらに笑み崩れようとする。

───もう笑うな。

もう耐えられない。
そんなあたりまえのような顔をして笑うな。
これ以上笑いかけられたら、オレは。

嫌悪とは対極の感情であっても、それはエドワードの胸を締めつけ、ねじり倒し、混沌の閃光で視界を眩(くら)ませる。
「さあ。今度こそ宿まで送る。時間がない」
どうにもしらじらしく一方的に話を終わらせ、マスタングは胸ポケットから銀時計を取り出した。
時計の針の行方を確認しながら、銀時計とは反対側のポケットに、サファイアの包みをすっぽり納める。
「こらぁっ!人の話は最後まで聞け!!」
「では車の中で聞こう」
「茶ぁぐらい拭いてけ!」
「だから時間がないと」
「こら触んな!自分で歩ける!」
「急いでくれ鋼の」
「……そんなにあんた、アルが怖いわけ?」
「ああ。彼の許可がなければ、私は君に触ることもできないからな。怖くないわけがないだろう」
「………もう黙ってろ、クソ大佐」



既に時刻は深夜へとさしかかっている。
しんと冷え切った車の助手席に、エドワードをやっと座らせ、マスタングはエンジンを起動するスターターに手をかけた。
胸元がどうにも重苦しい。
一面が茶の海だったとしても、やはりサファイアはテーブルの上に置いてくればよかったと、後悔の念がわく。
石をその身体に取り込むかのように、マスタングはコートの上から、胸元のそれを手のひらで押さえた。
エドワードの理は、塹壕のそばで守り石を拾ってくれた、旧友の祈りに似ている。いや同じと言うべきか。

未来に、執着せよ。

「どうしたんだよ?」
スターターを回さないマスタングを、傍らのエドワードがいぶかしげにのぞきこんでくる。
「いや。なんでもない」
マスタングは、フロントガラスの向こうの、暗い夜に向き直る。
つい先刻、胸元のこの石に捧げた祈りが、もう一度闇の中に浮かび上がった。

───私はヒューズの祈りを守る。

だからサファイアよ、私を守ってくれ。
彼をこれから先、決して傷つけぬよう、私の理性を守ってくれ。



スターターに反応したエンジンが回転し、最初の振動が、車体のすみずみにまで響き渡る。
マスタングの愚かな祈りは、誰の耳にも届かないまま、ひっそりと彼の胸の底に沈んでいった。
その懐の、青い結晶の中心へ、沁みとおるように。