紫の雨の中で -3-



ニーナ。
昨日、遊んだばっかりじゃないか。

司令部の門前の階段に座り込んだまま、エドワードは動けないでいた。
砂を噛むような思いでマスタングに事情を説明し、宿に帰ろうとしたのに、足が動かなくなった。

───ニーナを元に戻す方法が、この世のどこかにあるはずじゃないのか。

なんで。どうしてオレは何もできないでいるんだ。
なんのために、オレは今まで勉強してきたんだ。
なんのための、錬金術だ。
同じ記憶と同じ考えが、代わる代わる頭に浮かんでくるだけで、エドワードの思考は止まったまま、一歩も前に進まない。

───オレは、タッカーと同じなんだ。

どんなに口先で違うと言っても。
同じ、国家錬金術師で。
同じように、可能性を試して。
人として、やってはならないことを、やってしまった。
隅から隅まで、同じ。
だから、タッカーに真実を衝かれて腹を立てただけ。
正義も、なにもない。
ひとりよがりに、ニーナのことを思うふりをしているだけだ。
悲しいとか。
ニーナがかわいそうだとか。
そんなことを思う権利なんて、オレにはない。

懸命に自分に言い聞かせても、昨日のニーナの笑顔と、ついさっき見た合成獣の顔が、頭からどうしても離れない。

───えどわーど…おにいちゃん。

エドワードの髪に、肩に、雨粒は休みなく落ちてくる。
同じく傍らに座っているアルフォンスの鎧にも雨は落ち、こつこつと鋼の表面から跳ね返る水音が、そのがらんどうの身体の中で反響している。
「兄さん、帰ろう。風邪ひくよ?」
がらんどうの中から響いてくる声は、優しかった。
エドワードは返事すらできない。
アルフォンスをがらんどうにしてしまったのもまた、自分だ。
だから。こんなところで立ち止まっていてはいけないのに。
でも、ニーナを助けたい。
助けたい。
助けたいんだ。
オレは、禁忌を犯した罪人だけど。
そう思ってることだけは、ウソじゃない。
誰かに申し開きたい気持ちで、いっぱいだった。
我ながらいじましいと思いながらも、エドワードは、その気持ちを彼方に押しやれずにいた。

───オレは、誰に、言い訳してるんだろう?アルか?ニーナか?それとも、タッカーにか…?

信心深い者なら、ここで神に申し開きするのだろう。
だが、エドワードに、信ずるものなどない。
いじましい気持ちには、自らとどめを刺さねばならない。
そうこうするうちに、「とどめ」は、背後から湿った靴音を立ててやって来た。
「いつまで、そうやってへこんでいる気だね?」
聞き慣れた、良く通る低い声も、今日はいっそう無機質に聞こえる。
「……うるさいよ」
あんたに、何がわかる。
涼しい顔で、軍の狗やってるあんたには、これも「管轄内の事件のひとつ」なんだろうよ。
ホークアイを連れたマスタングは、エドワードのすぐ脇を、振り向きもせずに通り過ぎていった。
階段を、門へと降りてゆく足音は、妙にゆっくりだ。
雨に紛れながら、無機質な声は言葉を続ける。
「これしきの事で立ち止まってるヒマがあるのか?」
これしきの、こと。
もう少し、言いようがあるだろう。
冷え切っていたエドワードの身体が、急に熱くなった。
「オレたちは……!!」
弾かれたように立ち上がり、目線の下に遠ざかってゆく背中に、言葉を叩きつける。
「オレたちは、悪魔でも、ましてや神でもない!!人間なんだよ!!」
ちっぽけな、人間だ。
あんたも、タッカーも、オレも。
なんにもできない、ちっぽけな、錬金術師。

───いちいち、大人ぶるな。それぐらい、あんたに説教されなくても、わかってる。わかってる。わかってる!!

マスタングは振り向かなかった。
エドワードに、宿に帰るよう、促したマスタングの小さな声は、階段の上の当人には届かなかった。
マスタングの蒼白な顔色が、エドワードに見えなかったのは、マスタングにとって、幸いだったのか、不運だったのか。
雨は石造りの階段と、その上の人間たちを、休むことなく叩き続けた。



仕事の手は抜くが、ミスはしない。
それが、マスタングのモットーだった。
だがその日、マスタングは痛烈なミスを犯した。
短時間とはいえ、たった数人の憲兵を置いただけで、誰が侵入してくるかわからない広大なタッカー邸に、タッカーとその娘を二人きりにしてしまったのだ。
二人の遺体は、凄惨なものだった。
死体は裁判にかけられないとぼやきながら、親子の血に濡れた遺体をひざまずいて検分するヒューズを、マスタングは黙って見下ろしていた。
ミスを犯したのなら、なおさら冷静でいなければならない。
そう張りつめるマスタングの意識を、ただひとつの思考が、絶えずかき乱す。

───これを、どう鋼のに説明する?

何を、考えているんだ。
こんな、気の抜けない仕事中に。
内心で自分をきつく叱咤してみても、冷ややかで粘度の高いその思考は、マスタングの意識から、どうしても剥がれ落ちてくれない。
マスタングが説明しなくとも、エドワードはまもなくこの事件を知るだろう。
エドワードが受ける衝撃を、今ここで自分が引き受けて、彼の分まで胸を痛めてやる必要が、どこにあるというのだろう。
落ち着け。
自分に言い聞かせる端から、剥がれないその思考はマスタングの意識を侵食してゆく。
雨に濡れてうなだれる、小さな肩が。
湿って白く光る、編んだ金色の髪が。
人間なんだよ、と叫んだ声が。
こちらも叫び出したくなるほどに、剥がれてくれない。
「おーいマスタング大佐。話は外だ」
妙に長い沈黙を不審に思ったのか、血で汚れた手をハンカチで拭きながら、ヒューズが声をかけてくる。
「ああ」
実際に肺のあたりに痛みを感じながら、マスタングは遺体を置いた部屋を後にして、広いタッカー邸の廊下に出た。



「間違いありませんな。奴です」
ヒューズの背後に、壁のように付き従っていたアームストロングが、断言した。
柔らかい人間の身体を、粉々にするこの手口は、「傷の男」のものなのだそうだ。
セントラルが物騒なことになっている、とはマスタングも耳にしていた。
だが、それは大都市にありがちな、偏執狂の犯罪だろうと思っていた。
国家錬金術師ばかりを狙うというその犯人に、マスタングはそれほどの脅威を感じたことはなかった。常日頃、国民の間で、国家錬金術師というものは快く思われている存在ではない。「軍の狗」に私怨をぶつけたい輩は、いくらでもいるだろう。
イシュヴァール戦の直後、そのあり方を批判され、民衆に危害を加えられた国家錬金術師は少なくなかった。
常に国民の反感と背中合わせの身分であるということが、かえってマスタングを、「傷の男」について無関心にさせていたのだ。
だが、犯人は自らのテリトリーであろうセントラルを抜け出してまで、事を起こしている。
その執念は、どうもそこらの偏執狂や愉快犯とは違うようだ。
マスタングのその予感を嗅ぎ取るかのように、ヒューズが小さくささやく。
「ここだけの話。つい五日前に、グランのじじいもやられてるんだ」
「グラン准将がか!?軍隊格闘の達人だぞ!?」
じく、と冷たいものが、マスタングの心臓に沁み始める。
国家錬金術師たちにも得手、不得手があり、腕力に自信のない者もごまんといる。今までの犠牲者は、そういったごく普通の術師だろうと思っていたのだが。
「悪いことは言わん。おまえも護衛を増やしてしばらくおとなしくしててくれ」
ヒューズの言葉に、また、心臓が冷える。
タッカー殺害の時間から推測しても、「傷の男」はまだ遠くへは行っていない。セントラルで、連続殺人を犯してきたのだ。やっと訪れたイーストシティを、そうあっさり去るとも思えない。
「ま、ここらの錬金術師で有名どころと言や、タッカーとあとはおまえだけだろ?」

───違う。

心臓が、音を立てて凍りつく。

「タッカーがあんなになった以上、おまえさえ気をつけてりゃ」
「まずいな」
「え?」
黙って腕組みをしたままだった目前の親友に、いきなり言葉をさえぎられ、ヒューズは眉をひそめた。
ヒューズに気を留めることなく、マスタングは側の憲兵を一人、捕まえて命じる。
「エルリック兄弟がまだ宿にいるか確認しろ。至急だ!!」
「大佐」
その憲兵の隣に控えていたホークアイが、マスタングの動揺をいさめるかのように、静かに返答した。
「私が司令部を出る時に、あの兄弟と会いました。そのまま大通りの方へ歩いていったのまでは見ています」

マスタングが、顔色を変えた。



弱い雨が、エドワードの頬を打つ。
朝だというのに、空は相変わらず薄暗い。
昨夜からの雨は、止みかけては降り、を繰り返している。
大通りの時計台の下で、エルリック兄弟は力なく座り込んでいた。

───二人とも、死んだわ。

ついさっき司令部で聞いた、ホークアイの穏やかな声が、エドワードとアルフォンスの意識の底へ、ゆっくりゆっくり沈んでゆく。
タッカー親子は死んだ。
もう、ニーナの未来を思い悩む必要がなくなったのだ。
今度こそ、ニーナは元に戻らない。
昨日から、臓腑をねじ切られるような思いで考え抜いた、ニーナのための錬金術は、エドワードの中で、いともあっさり無用の長物になってしまった。

───いや、そんなのは、今のオレの力じゃ最初から無駄だったのかもしれないけど。

存在をかけて考え抜こうとしていたことを、「もう要らない」と、いきなり横から突き崩されて、エドワードの心は、奇妙に凪(な)いで、真っ白だ。
「エドワード・エルリックさん!!」
居心地悪く凪いだ思考を、知らない男の声がかき乱した。
「捜しましたよ!至急本部に戻ってください!」
雨の中、通りの向こうからあわてて駆け寄ってくる憲兵を見て、エドワードはのそりと立ち上がる。
「なに…?オレに用事?」
「実は、連続殺人犯が…」
憲兵が言い終わらないうちに、その背後に小山のように大柄な男が一人、にじり寄った。
がしゃ、とアルフォンスも立ち上がった時。
大柄なその男の手が、憲兵の頭をつかんだ。

***

イーストシティは広い。
セントラルほど人口は多くないが、この広い市内で、一人の人間が、面識もないもう一人の人間と偶然に出くわす可能性は、限りなく低い。

───わかってはいるが。

これはほとんど杞憂であると、わかってはいるが、マスタングの五感を超えた何かが、それを納得しなかった。
タッカー邸を出て、大通りに向かう車の中で、マスタングは拳銃のセーフティを確認する。
この感覚は、本当に久しぶりだ。
イシュヴァールに赴いた頃は、朝から晩まで、この感覚だけが頼りだった。
人っ子ひとり見当たらぬ、広大な砂丘で。
廃墟がうずたかく、視界をふさぐ市街戦で。
どちらから、危険が来るか。
どちらに行けば、安全か。
一瞬でも判断を誤った者は、みな死んだ。
猫の目のように戦況が変わる中、本隊からの情報によってそれをすべて把握するのは不可能だった。
人間性など、チリのごとくどこかに吹き飛び、動物のように危険を嗅ぎ分けられる者だけが、生き残った。
その、忌むべき獣が、マスタングの体内で咆(ほ)えている。
エルリック兄弟が、危険にさらされている、と。

***

憲兵が、拳銃を構えるひまもなかった。
大量の水がぶちまけられるような音と共に、男の手によって、憲兵の身体が宙を舞う。
頭部を潰され、モノと化したその身体は、重く湿った音を立てて、石畳の上に叩きつけられた。
エドワードの聴覚が途切れる。
通行人の悲鳴も、駆け出してゆくその足音も、そばで身をこわばらせるアルフォンスの鎧の音も、もうエドワードには聞こえない。

───何なんだ、こいつは!?

静寂の中、動くものは、突っ立った大男の指先と、けいれんする倒れた憲兵の身体と、その下から広がる血溜まりだけだ。
黒い血溜まりは、まるでこちらに向けて這い出そうとしている生き物のように、エドワードの足元めがけて流れてくる。
血が靴を濡らしても、エドワードは動けないでいた。
額に傷のあるその大男が、ぎろりとエドワードに向き直った。
男のサングラスを、舐めるように雨粒が一筋、伝う。
それでもエドワードはその場から逃げ出すことができなかった。

足の裏が、石畳に貼りついて。
動けないのだ。

***

車の速度が、ひどく遅いような気がする。
大通りをホークアイに走行させながら、マスタングは窓の外を確認する。
エドワードらしき人影はまだ見当たらない。
拳銃を握ったまま、空いた左手で、ポケットの中の手袋を確認する。発火布でできたそれは、いつも通りきちんとそこに収まっていた。
ポケットから抜こうとした手に、必要以上に力が入っているのに気づいて、マスタングは細く息を吐く。
今は何も、考えてはならない。
エドワードを見つけること以外は。
だが、左手から力は抜けてくれなかった。
あろうことか、握力に耐えかねて、指の付け根から震え出す始末だ。
ついさっきまで見ていたタッカーの血濡れの遺体と、エドワードの顔が交互にマスタングの脳裏に浮かぶ。
遺体など、見慣れている。
それなのに、「エドワードの遺体」を想像するだけで、指まで震えるとは。
遺体に慣れているが故に、エドワードの頬が血に汚れ、石のように冷たくなっているさまを、マスタングはひどくリアルに想像できた。

───これは、罰か?

握りしめていた左手を、マスタングはゆっくり開いた。
「遺体になる」のは、いつも見知らぬ他人であり。
それは、単なる「モノ」であったのだ。
その「モノ」に取りすがって泣く人間が山ほどいるということも、知ってはいたけれども。

───私は、一度も、何にも、取りすがって泣いたことなどなかった。

たとえ両親を亡くしたとて、自分は涙を流さないだろう。
いつもそう確信していたし、今でも、している。
自分の命以外に失うものなど、何もないと思っていた。

つい昨日までは。



肩に、何かがぶつかるような衝撃があり。
エドワードの頬に妙な風圧がかかり、ふわりと右肩が軽くなった。
石畳の上に、雨と共に、雨のように、鉄片が降る。
機械鎧を形づくっていた鉄片が路上に落ちる、ぱらぱら、という音を遠くに聞きながら、エドワードは両膝をついた。
身体のバランスが取れず、立っていられなかったのだ。
傷の男につかまれていた右腕は、跡形もない。
剥き出しになった機械鎧の接合部分からなのだろう、オイルの匂いが鼻につく。
こんな時だというのに、その匂いが何かひどく懐かしい、とエドワードは思った。
遠くでアルフォンスが何か叫んでいる。
男にえぐられた彼の横腹の傷は、背中の血印にまでは達していなかったのだとわかって、エドワードは力なく頬を緩めた。
右腕を、破壊された。
もう、顔を上げることも、立ち上がることも、いっさいが無駄だ。
「神に祈る間をやろう」
静かな男の声が、ずしりと雨音をさえぎり、エドワードの耳元に落ちてくる。
「…あいにくだけど、祈りたいカミサマがいないんでね」
神は、いない。
誰になんと言われようと。

───それは、オレが一番よく知ってる。

物事は、ただ始まり、ただ終わる。
誰もそれを操れない。
オレはここで、終わるのだろう。
衝撃を受け、知覚が消え、この身体はただの肉のかたまりになる。
それだけのことだ。
「アルも…弟も、殺す気か…?」
「今、用があるのは鋼の錬金術師…貴様だけだ」
それだけのことなのに。
「そうか。じゃあ約束しろ。弟には、手を出さないと」
「約束は守ろう」
それだけのことなのに。
身体の底で、何かが咆えている。
アルは、たぶんもう安全だ。
オレはこんなに安心しているのに、内臓のずっとずっと奥の方で、オレの言うことをてんで聞かない、何か、生き物みたいなものが、のたうち回っている。
「兄さん何してる!!逃げろよ!!立って逃げるんだよ!!」
のたうち回られて、内臓が、裂けそうだ。
じゃり、と傷の男が歩を踏み出す音がした。

アル…………ごめん。

銃声がして、傷の男の殺気が途切れた。
エドワードはようやく顔を上げる。
頬に雨粒が当たり、まだ雨が降っていたのだと気づく。
エドワードが振り向くと。
弱くけむったような雨の中で、見慣れた軍服を着た男が拳銃を構え、いつもの声で、言った。
「そこまでだ」



アルフォンスに殴られた頬が痛む。
無人の仮眠室で、エドワードはベッドに腰掛けたまま、左手で腫れかかった頬を探った。
傷ついたアルフォンスを運ぶのに時間がかかるから、とホークアイに言い含められ、先に司令部まで送り届けてもらった。
雨に濡れたのなら着替えを用意するから、とも勧められたが、こんな、誰が来るかわからない部屋で、誰かの手助けなしに片手で着替える気力がわいてこず、エドワードはそれを断った。
濡れたままでは風邪をひく、という心配と、機械鎧の残骸を着けている肩を隠してやりたい、というぎりぎりのいたわり。
ホークアイはそのどちらもエドワードに押しつけることはせず、バスルーム用のタオルをエドワードに渡し、「アルフォンス君が着いたら知らせに来るから」、と、足早に仕事に戻っていった。
ホークアイは優しい。
今のエドワードを下手に元気づけても、着替えを強制しても、エドワードが楽にならないことを感覚的に悟り、いっそ冷ややかなくらいに、さっさとこの場から立ち去ってくれた。
出会った最初の頃は、いつも顔色ひとつ変えずに、大佐と呼ばれるあんな男の下で平然と働いて、どんな神経の持ち主なんだと思ったものだが。
母親は別にして、こんなに優しくて気のつく女性を、エドワードは他に知らない。表情には今ひとつ乏しくても。
突然、何の脈絡もなく、その憧憬の権化とでもいえそうな女性に、以前とんでもないところを見られたのを思い出して、エドワードはいたたまれずに額を押さえた。

───いろんなことがありすぎて、忘れてたけど。

大佐にキスかましたの、中尉に見られたんだった。
正確に言えば、「見せた」のだが。
今となっては、自分へのしっぺ返しばかりが大きいような気がする。あの厚顔無恥な男は、部下のことを駒としか思っていないだろうし、その駒に多少恥ずかしいプライベートを見られたとて、蚊に刺されたほども気にしないだろう。

───こんな時に、何を考えてんだか。

あやういところで命を拾ったばかりだというのに、些細なことが次々頭に浮かんできて困る。
それは、重大な危機に直面したショックを和らげる、無意識の本能かもしれない。
そうやって、エドワードが自分を納得させようとしていると、ノックもそこそこに、仮眠室のドアが開いた。
ドアを開けたのは、ついさっき思い浮かべた厚顔無恥な男だった。
「失礼」
ドアを開けてエドワードの姿を確認すると、マスタングはその場にかがみこみ、脇に置いてあった大きなダンボール箱を抱え上げた。
ここまで運んできたそれを、ドアを開けるために、一旦床に置いていたらしい。
「何だよそりゃ」
不審な大荷物に、エドワードは肩にかけたタオルの端を握りしめた。
佐官らしからぬしぐさで、そのままドアを蹴って閉め、マスタングは黙って、エドワードに近づいてくる。
その顔は、腕に抱えたダンボールに半分ほども隠されて、表情がよくわからない。
丁寧にエドワードの足元に置かれた箱は、鈍く床を打つような音を立てて着地し、かなり重量のあるものだということが知れた。
たん、と、気のない拍手をするように、一度だけ手を鳴らして、マスタングは発火布の汚れを振り払う。
「アルフォンス君の鎧の破片だ。とっておきたまえ」
エドワードを見下ろしながら、言葉を吐いた唇は、湿って外しにくくなった手袋の指先を、ついと咥(くわ)えた。
そのまま手から引き剥がされ、流麗な動きで青い軍服のポケットにしまわれるそれを、エドワードはぼんやり見つめた。
身体が冷えすぎたのか、目前のマスタングからは、いつもの冷気を感じない。
何をやってんだこいつは。
こんなつまらない肉体労働をしてる場合か?
「管轄内の事後処理」はどうなってんだ、ジゴショリは!
エドワードの頭にとっさに浮かんだセリフは、どういう力の作用か、その喉から発音されなかった。
路上に散った鎧のかけらを拾い集めること。
それは、普通の人間にとっては、ゴミ掃除くらいの感覚でしかない。
だが、エドワードとアルフォンスにとって、その「ゴミ」は、自分たちの生命にも等しいものだ。
状況から見て、マスタングが自らの手で鎧のかけらを集めたとはとても思えない。だが、彼が誰かにそれを集めるよう指示したのは、ほぼ間違いない事実だろう。

───ほんとに、何をやってんだこいつは?

この男に礼など言うまいと、固く固く決めていたのに。
オレは、あんたに助けてくれなんて一言も言ってない。
あの男に命乞いもしていない。
オレはさっき、覚悟を決めてたんだ。
あんたが勝手にオレを捜しに来たんだろう。
何でオレが、この世で一番憎たらしいあんたに、礼なんか言わなくちゃならない?
自分の中で言い募れば募るほど、みじめだ。
封をしていないダンボールの隙間からのぞく鉄のかけらたちは、間違いなくアルフォンスのものだ。
濡れたそのかけらが、がたり、と箱の中で崩れる音がする。
その音に、意識を、魂を鞭打たれ、エドワードは歯を食いしばった。
視界の端に、マスタングの湿った軍靴が見える。
見下ろされているのを痛いほど感じながら、エドワードはゆっくりとベッドから立ち上がった。
うつむくと、乾かない前髪が頬に貼り付いた。
タオルの端を、さらに強く握りしめ、喉を震わせる。
「あ…りが、とう」
冷え切った敗北感を、エドワードが喉の底へ飲み込もうとした時。
肩を、痛いほどつかまれた。



声を上げる間もなかった。
両肩をつかまれ、右腕が無い分まだバランスが取りづらい身体が、勢いよく軍服の胸の中に引き寄せられる。
その青い布地の襟を留めている金ボタンが、一瞬のゆらぎの後、エドワードの眼前に迫り、ぷつりと頬を擦った。
肩にかけたタオルごと、生身の左腕をだらりと下げたままの格好で抱きしめられ、エドワードは金ボタン付きの胸に手をついて、抵抗を試みることもできない。

───油断した。油断した!油断した!!

エドワードの身体の芯から、喉元に向けて震えが駆け上ってくる。
額だけでマスタングの胸板を押し返すことなどできはしないが、今のエドワードが動かせる身体の部位は、限られている。
なぜ、この男はこうなのだろう。
なぜ、こんなに自分を混乱させるのだろう。
執着したり、突き放したり。
怒ったり、笑ったり、諦めたり。
アルフォンスの魂をつなぐ鎧を、大切にしてくれたり。

───もう、やめてくれ。

固く目を閉じ、エドワードはもう一度歯を食いしばる。
オレが憎いなら、そういうふうに扱ってくれ。
オレをいたぶりたいなら、この身体だけを弄んでくれ。
あんたがオレを手放したくないなら、がんじがらめに縛ってくれ。
ハクロ将軍に、そう宣言してくれ。
オレは、あんたが憎い。昨日より、そして明日はもっと、日が経つごとに強く、憎みたい。
全身全霊で、憎んでいるのに。
なんでそれを、あんた自身が邪魔するんだ。
なんで……あんたはそんなに哀れなんだ。
もうやめてくれ。
頼むから。
こんな思いはもう嫌だ。嫌なんだ。

オレにあんたを。
哀れませるな。



抱きしめている、というよりは、しがみついているのだと、マスタングは思った。
しがみつく指に触れるエドワードの背中は、表面は濡れてひやりとしているものの、指に力を込めて圧力を加えると、そこからじわりと熱が染み出してくる。
生きているのだ。
皮膚の下に血が通い、それはあふれ出すこともなくエドワードの全身を巡り、彼に力を与えている。
エドワードは、生きている。
あと、ほんのわずかマスタングの到着が遅かったなら、エドワードの頭部は、傷の男によって、原形もとどめぬほど分解されていたことだろう。

───罰では、なかった。

マスタングもまた、神の存在など信じてはいない。
信じていれば、軍籍に身を置き続けることは恐るべき苦痛でしかない。
しかし、無神論者であり続けることもまた、苦痛とは無縁ではない。
自らの信ずる神にざんげできれば、神と神の代行人たちに罰されれば、罪は消せなくとも、ひとときの安らぎは得られる。
軍人としての人生を、誰かにざんげしたいとマスタングは思ったことはないが、自分が潔白であると思ったこともなかった。
男も女も。年寄りも子供も。
みな戦場で、この手にかけて。焼いて、殺した。
だから、潔白でなど、あるはずがない。
だから、恐れていた。
神に罰されることはないけれども、神を超えたなにかの存在が、いつも自分を監視しているような気がして。
その神を超えたなにかが、ついに今日、罰を下しに来たと、思った。
だがそれは、罰ではなかった。
分解されるはずだったエドワードの金の瞳は、鈍い光を含んで再び自分を見つめ、唇が、自分を見て再び言葉を発した。
自らの顎のすぐ下の、雨の匂いがする金の髪に、マスタングは犬のように口付ける。
破壊されたエドワードの肩口から、強いオイルの匂いと、鉄線が焼き切れたような金属臭がする。
安堵はまだ、マスタングの全身には行き渡らない。
その心もとなさを振り切ろうと、ますます腕に力を込める。
腕の中のエドワードは、身を硬くしながらも、なぜか声を上げなかった。
濡れた髪が幾筋か、きらきらと貼り付くその耳に、マスタングは振り絞るようにささやきを落とした。
「恐かったか……?鋼の」

───違う。恐かったのは、私だ。

エドワードが、どくん、と肩を震わせたのがわかった。



刺された。
心の最も奥深い場所の、誰にも触れさせなかった、そこを。
エドワードは、胸元に痛みを覚えた。
「そこ」を言葉で刺し貫かれたことによって、急激に身体の力が抜けてゆく。
自分を腕に捕らえた男は、何を誤解したのか、ますますその拘束を強めてきた。
硬くはないが柔らかくもない軍服の布地に、頬を痛むほど押し付ける姿勢を取らされ、エドワードは呼吸をするのもつらい。
雨の匂いと、かすかな硝煙の匂いと、マスタング自身の匂いが、やみくもにエドワードの鼻腔をかき回し、さらにその胸の痛みを増幅させる。

───卑怯、だ。

短い罵倒が、エドワードの胸をさらに痛みでいっぱいにする。
この男は卑怯以下のクズで。
罵る価値さえないというのに。

───恐かったか、だって?

なんであんたがそれを言う?
自分でも自分にかけたくなかった、その言葉を。
誰も言ってくれなかった、その言葉を。
そして。
この地上の誰にも、決して言われたくなかったその言葉を。
なんであんたがオレに言う?
刺された場所から、鮮血が飛び散ってでもいるようだ。
かっ、と目を開け、エドワードは、水面の魚のように大きく口を開けて呼吸を試みる。
酸素が足りなくて、ぐらぐらするのだ。
オレは、全世界の人間に、罵られなければならない。
なぜなら、アルフォンスのために、すべてを捧げる覚悟が、できていなかったから。
自分の過ちで、弟を闇の世界に突き落としておきながら。
あれだけ日常の中で、弟を守ると豪語しておきながら。
それは、ポーズでしかなかったことが、証明されたからだ。
傷の男に右腕を砕かれた時、オレの身体の中で暴れ回った「あれ」は。
恐怖、だった。
「…………はな、せ」
エドワードは、かすれる声で、マスタングに命じる。
口元の筋肉すら動かしづらかったが、言わなければならなかった。
「…離せ」
二度、命じても、マスタングは腕を緩めない。
「離せ!!」
三度目の命令の後、夢から覚めたように、マスタングは腕を緩めた。
その隙を逃さず、エドワードは左の手のひらを、自分の胸とマスタングの胸の間にねじ込み、渾身の力で突き返した。
片腕しかないこんな体勢で、この男から逃れられるとは思っていない。
だが、突き返したマスタングの身体は、別人のようにふらりと数歩、後ろへ下がった。
まるで、突き飛ばされることを予想して、あっさりそれを受け入れているかのようだ。
急に身体を解放され、予想していた力加減とのギャップに、エドワードはその場でよろめいた。
重い左肩から倒れそうになるのを、なんとかこらえる。
ホークアイの心遣いのタオルが、滑るように床に落ちた。
マスタングは、エドワードを見つめたままだ。
「もっと正直に言えよ」
その漆黒の瞳を、エドワードは挑発する。
オレを、あざ笑え。
オレをあざ笑うのが、あんたの役目だろう。
声を出すために、エドワードは大きく息を吸った。
息を吸うことを意識しなければならないほど、苦しかった。
「正直に言えよ!!弟も守れない腰抜けだ、って言えばいいだろ!!」
なんて顔してんだよ。
何だよそのツラは。
泣けって言ってるんじゃねぇ。
泣きそうな子供みたいなツラ、してんじゃねぇ!
笑え、って。
あまりに苦しくて、思うことがすべて言葉にならない。

「笑えって、言ってんだよ!!!」