紫の雨の中で -4-



マスタングは笑わなかった。
「…確かに君は、愚かだったが。だが私は君を、腰抜けだとは、思わない」
静かな声が、さらにエドワードの胸を刺す。
それは、最初の傷ほど深くはなかったが、再び痛みをえぐり出すのには、充分な衝撃だった。
もう、耐えられない。
「待て鋼の!」
危ういところでマスタングの腕をかわし、エドワードは駆け出した。
部屋から転がり出て、ほの暗い廊下を駆けた。
マスタングが追ってくる様子はなかった。
だが、この身体ではどこへも行けない。
せいぜい、司令部の門前の歩哨に、首根を捕まえられるのがオチだろう。
それがわかっているから、マスタングも追いかけては来ないのだ。
それでも、エドワードは逃げ出さずにはいられなかった。
えぐり出された痛みが、身体中に広がってくる。
通りがかった数人の軍人に振り返られながら、司令部の建物の端まで駆けて、外へ出た。
豪雨が、肩を叩く。
エドワードの目前に、広大な練兵場が広がる。
強い雨が砂を吹き上げ、足元一面が、茶色い水煙に覆われている。
雨が強すぎて、練兵場の向こう側すら見通せない。
風景は何もかも白くにじみ、どう…という音が、エドワードの聴覚をふさぐ。
あっという間に、髪の中や、背中にまで水が染みとおった。
雨に素肌を濡らされても、痛みは消えなかった。
足元の、バスタブの縁ほどもある盛大な水溜りを見つめる。
水煙をあげていたはずのそれが、急に白く光って、エドワードは顔を上げた。
正午近いのだろうか。
中天に、わずかに日が透けている。
だが、勢いの弱まらない雨に白くさえぎられ、日の光は、夕暮れ時のように頼りない。
薄い光が、最後の力を振り絞るかのように、雨を照らす。
紫色に染まる雨の中で、エドワードはひざまずいた。
水溜りが、その重力によって波紋を描く。
波紋を指で探ると、それはやはり紫色に光って、ちらちらと水煙の中で溶けた。

───オレは、安心していた。

痛みの理由は、簡単だ。
哀れなあの男がエドワードを抱きしめたあの時。
刹那というよりも短い時間、エドワードは、確かに安堵したのだ。
エドワードは、水溜りの中で手を握りしめた。
弱々しく光る水をつかめるはずもなく、水に溶けていた泥が薄く薄く、刷いたように指に付くだけだ。

オレは、どうしてオレなんだ。
オレは、感じたくてこんなことを感じてるんじゃない。
哀れみたくてあいつを哀れんでるんじゃない。

握ったこぶしで水溜りを叩くと、ガラスが割れるように、光が散った。
泥と光にまみれながら、エドワードは何度も水面を殴りつける。
あの男に安堵した自らの脳髄を、心臓を、意識のすべてを、今この腕で、身体の中から引きずり出して、この泥水に沈めて、跡形もないほどに引き裂いてやりたい。
右手がないのが悔しい。両手で引き裂けないのなら、この歯で、粉々に食いちぎってやる。この足で、厚みなど限りなくゼロに近く、踏み潰してやる。

オレは、どうしてオレでしかないんだ。

雨の中で、エドワードは獣のように泣いた。









ずいぶん、待った。
仮眠室にエドワードがいると聞かされていたのに、そこには鎧のかけらを詰め込んだダンボールが鎮座しているきりで、当人の姿はどこにもなかった。
「しょーがねぇなぁ。俺ちょっと見てくるわ。護衛もつけねーで今、ウロウロできる身体じゃねーからなぁ、大将は」
アルフォンスに肩を貸して、仮眠室まで案内してくれたハボックは、面倒そうな口調とは裏腹に、真摯に眉をひそめた。
「…すみません、少尉」
大きな鎧をそっとベッドの側の床に座らせようとしていたハボックの耳元に、小さな声が届く。
この、壊れかかった鎧の主たる少年が、自力で兄を探しに行けないことを今更ながらに思い出し、ハボックはあわてて言葉を継いだ。
「あー、ゴメンな。待ってるだけっつーのもつらいだろうけど、今んとこ、司令部に居るのが一番安全だからな。大将もそれはわかってるだろうし、見つけたら超特急で連れてくるからさ」
にっ、と口の端を上げて表情のない鎧に笑いかけ、気さくな国軍少尉は立ち上がり、ずぶ濡れて濃紺に変色した軍服を気にすることもなく軽やかにドアに歩み寄る。
「じゃな!もうちょーっと待っててくれな」
ドアノブを握りながら、笑顔に緊張感を少々ブレンドして、ハボックはぱたりとドアの向こうに消えた。

それから後、エドワードが仮眠室に現れるまで、ずいぶん待ったような気がする。
ハボックに連れられて来たエドワードは、解いた髪を水辺の幽霊のように垂らし、マントの如き毛布を全身にまとっていた。
「……どうしたの?そのカッコ」
「………濡れた。いま、服乾かしてもらってる」
着替えがこの場にないとはいえ、この格好で東方司令部の廊下を歩いてくるのは、多少の勇気が要ったことだろう。
アルフォンスの簡潔な問いを、抑揚のない声で簡潔に返し、エドワードはベッドの側まで歩いてきた。傍らのアルフォンスに視線を向けることなく、どしりとそこに腰掛ける。
アルフォンスは、こちらを見ないエドワードの横顔を、黙って見つめた。
喉元で毛布を握りしめ、うつむくエドワードの目はなぜか、泣き腫らしたように赤かった。
そう思うと、そのまぶたもどこかしら腫れぼったいように見えてくる。
疲れているのだろう。
なにしろ、あやうく死ぬところだったのだ。
エドワードに対する怒りは、まだアルフォンスの中で冷え切ってはいない。
たいていの苦痛には屈服しない兄だが、ことが自分の弟に及ぶとなると、その法則はあっさりとひっくり返る。
それを嬉しく、そして申し訳なくアルフォンスは思ってきたが、今日の出来事はアルフォンスにとって、とうてい許容できるものではなかった。
あんなふうに、自ら命を捨てるような真似をして、この兄は、自分が喜ぶとでも思ったのか。
弟である自分だけが生き残ったとして、兄にあんな死に方をされて、その後の人生を弟が何も気に病まずに生きて行けるとでも思ったのだろうか。

───でも…それが、兄さんなんだもんな。

ため息をつくしぐさで、アルフォンスがわずかに肩をすくめると、ちぎれた右腕の付け根から、湿った砂粒のような鉄粉が、はらりと光りながら床に散った。
怒りの裏には、どうしようもない切なさが寄り添っている。
今日の出来事を許容はできないが、アルフォンスは全面的に否定することもできないでいた。
バカでもなんでも───ああせずにはいられなかったから───だから、彼は、エドワードなのだ。
エドワードは、どんな苦痛も、どんな恐怖も顧みず、ひたすらにアルフォンスのことを考えている。
本当は、痛くないはずも、恐くないはずもないだろうに。

───でも、その苦痛や恐怖を、僕は癒してあげられない。

アルフォンスは、絶望的なまでに確信していた。
アルフォンスが今のエドワードを慰めてやることは、エドワードにとって傷にしかならない。
エドワードは今、自分自身を責めているだろう。
弟を守りきれず傷を負わせた自分を責め、自らを犠牲にすることしか思いつかなかった自分を責め、そしてきっと、すがすがしく犠牲になれなかった自分を、責めている。
ここで「アルフォンスが」エドワードを慰めれば、エドワードは彼自身のプライドと自責の念に押し潰されてしまう。
彼のやっかいな「兄としてのプライド」は、彼にとって、決して弟の手に届く場所にあってはならないものなのだ。
だから、そのプライドを修復し、エドワードにとっての真の平安を、アルフォンスが与えてやることはできない。
第三者が、必要なのだ。
扉の向こうに持って行かれたはずの心臓が、鼓動を早めているような気がする。この世で最も信頼する人間を、絶対に慰めてやれないいらだちが、アルフォンスの意識の中で右往左往している。
ぱさ、と布が擦れる音がして、アルフォンスが顔を上げると、エドワードはいつのまにか靴を脱いで、毛布を身体に巻きつけたままベッドに横になっていた。
「…た、……リィに………るな…」
エドワードの伸ばしたつま先の脇に座っているアルフォンスには、エドワードの顔が全く見えない。
だから、寝転んだエドワードが何か言っているのを、すぐには聞き取れないでいた。
「……え?なんて…?」
アルフォンスが聞き返すと、エドワードは横たわったまま、ぴたりと身じろぎをやめた。
毛布からはみ出た金髪頭が、ぼそぼそと、だがさっきよりは強い口調で言い直す。
「また、ウィンリィに怒鳴られるな…」
何事にも遠慮のない幼なじみが、青空の下でスパナを振り上げている姿がすぐに浮かんで、アルフォンスも、くすぐったいながら多少気が滅入る。
「そうだね…」
こういう時、晴れやかな苦笑いをエドワードに見せてやれないのが、鎧の身体のつらいところだ。
「おまえ、ばっちゃん家(ち)に電話なんかすんじゃねーぞ。怒鳴られんのは、リゼンブールに行ってからで充分だ」
「わかってるよ」
さすがのエドワードも、素直にリゼンブールに帰る気でいるらしい。
右往左往していたいらだちが、ふと静止する。そして、日常へと戻って行ける安堵感が、アルフォンスの意識を朗らかに侵食し始める。
毛布のかたまりと会話しながら、アルフォンスはようやくそれを自覚したのだった。

雨足が、弱まってきていた。



「…ヒューズ」
「ロイ」
書類が飛び交い、せわしく人が行き交う執務室で、二人の佐官はほぼ同時に呼び合った。
「ヒューズ中佐」が、上官をあろうことかファーストネームで呼び捨てたのは、彼がこれから提示しようとしている話題が、軍務とは微妙にずれた、目の前の旧友の「プライベート」に近いものであることを自覚していたからである。
「何だ」
「あァ?おまえこそ先に言えば?」
「別にたいした用事じゃない。おまえが先に言え」
「いやー、俺もそんなたいした用事じゃねーんだよ。ただちょっと気になっただけでさあ」
「…………早く言え」
眉をぴくりと震わせるのは、マスタングがいらついている時の癖のひとつだ。
あまりあからさまにならないように、注意深くヒューズは目を細めた。こういう場合、必要以上に笑みを浮かべると、この旧友は怒り出すからだ。
立ったまま、デスクの椅子に座ることもできず、マスタングは雪崩をうって回されてくる「要至急決裁」の書類の束を、平手で机上に抑えつけ、傍らに立つヒューズの返答を待っている。
執務室はいつも以上に騒がしく、ゆっくり話などできる状態ではなかったが、この機会を逃せば、マスタングとヒューズが直接話すことは当分かなわない。
「あいつ…エドワードのことなんだけどよ」
ヒューズは声のトーンを今までの七割ほどに落とした。
ひそひそ話の三歩手前、といったところだ。
「なんか、言っとくことがあるなら伝えといてやろうか?今から出れば、あいつらまだ駅に居るだろうし」
時刻はもう、夕刻と言ってよかった。
その身体が痛むわけではないが、それぞれに傷を負ったエルリック兄弟は、アームストロングを護衛にして、早々に故郷へ発つことになっていた。
マスタングは表情を変えない。
表情を変えずに、視線だけを考え込むようにデスクに落とす。
だが、その唇の端がほんのわずかに震えたのを、喧騒の中でヒューズは見逃さなかった。
感情を隠そうとするマスタングを長年見てきたヒューズにとって、それは見慣れた現象だった。
その現象は、それを目にした者に途方もないいらだちと、口元を緩めずにはいられない親近感を同時に呼び起こす。
いらだちの分量が多かった者はマスタングを避け、親近感の分量が多かった者はマスタングのそばにとどまった。
しかし、今までの傾向として、そもそもマスタングの鉄面皮の下に、隠れている感情があるということにも気づかない者の方が圧倒的に多く、ゆえに、彼に親近感を感じる者は、非常に稀少な存在であった。
その稀少なマース・ヒューズ中佐はこれまで、自らの動物的なカンに従って、このロイ・マスタングと付き合ってきたのだった。
今、この場合。

───マスタングが感情を隠していることを、当人に指摘してはいけない。

ヒューズの中の動物はそう判断した。
根拠などない。
根拠などなくても、ヒューズは今まで、マスタングに関して、この手の判断を誤ったことはほとんどなかった。

───こいつは、エドをあぶねぇくらいに気に入ってんだよな。

何が危ないのかはさすがのヒューズにも判然とはしない。だが、今朝のタッカー邸で、エドワードと傷の男の邂逅を予測して顔色を変えたマスタングは、明らかに冷静さを失っていた。
そしてこの忙しい中、茶化しも罵りもせず、ヒューズへの返答をじっと考えるマスタングの態度は、彼とヒューズの「用事」の内容がほぼ同じだったことを証明している。
「…では、鋼のに伝えておいてくれ」
書類から手を離さないままヒューズに向き直ったマスタングが、ゆっくりと笑む。
その笑みがひどく硬直しているのを、ヒューズはどこか痛ましい思いで見つめた。



雨が止み、石畳から湿気だけが立ち上ってくる。
傾いた日が、人々の靴に踏まれて濡らされたプラットホームを黄色く照らしている。
車両の中にまで反射してくる日差しがむず痒く、エドワードは座席に座ったまま、指先で頬を軽く掻いた。
列車はまだ発車しない。
二人掛けの座席の隣には、アルフォンスの鎧に負けず劣らず立派な体躯の国軍少佐が、居ずまいもエレガントにどっしり腰掛けている。

───オレの周りの人間は、どーしてこうデカいやつばっかりなんだか…

ため息を列車の窓ガラスに吹き付けて、エドワードは肩を落とした。
目が回るような一日だった。
魂の一部分がごっそり削り取られてしまったかのように、エドワードの心は平衡感覚を失って、傾(かし)いだまま静かにうずくまっている。
そして、その静けさの中から、エドワードの疲労した身体を気遣うこともなく、しんしんと幾つもの怒りが湧いてくる。
ニーナを殺したのは、傷の男だった。
オレは、ニーナの仇を討てなかった。
オレは、アルを守り切れなかった。
オレは…
静かな怒りの記憶の最後に、泣き出しそうな子供のように顔を歪めていたマスタングの表情が浮かび、傾いて静止したはずのエドワードの心がまた少し、平衡感覚を危うくする。

───私は君を、腰抜けだとは、思わない。

マスタングの声も、顔も、匂いも、拘束してくるその腕の強さまで、エドワードが静かに怒り狂えば狂うほど、鮮明に浮かび上がってくる。
そして、浮かび上がってくるそれは、恐怖を伴ってはいなかった。
あんなにマスタングにしつこくまとわりついていた、おそるべき冷気は、彼から跡形もなく消え去っていた。
数時間前、エドワードを拘束したあの腕は、これまでのような戯れや、嗜虐心とはかけ離れたものだったのだ。
なぜそれが理解できたのかはわからない。
だがエドワードには「わかった」のだ。
豪雨の中で咆えた喉が、ちくりと痛んだ。



「大佐。三十分ほど、お休みになってください」
市内の緊急配備を確認し終わったホークアイは、執務室に踏み込んで来て、その惨状を一瞥した後、言った。
窓から、雨上がりの黄色い日差しが射す中、マスタングは未だ書類と格闘中である。
「昼食も、まだでしょう?」
執務から抜け出したところを幾度となくホークアイには捕獲されてきたが、休憩を勧められるのは非常に珍しいことだ。
「食欲がなかった。夕食だけでかまわない」
「では召し上がらなくて結構ですから、せめて休んでください」
マスタングは書類からふと顔を上げた。
デスク前に立つホークアイの瞳は、窓からの光線のせいか、柔らかい光をにじませている。
「どうした?ホークアイ中尉」
日頃の、勤勉で容赦のない副官ぶりを皮肉ったマスタングの力ない微笑を、ホークアイは真正面から無視した。
「エドワード君たちの列車は十七時三十分発です。車で行けば、まだ間に合うかと」
「は?」
「何か、あの子に言葉をかけてあげた方がいいのではないですか?」

───それならもう、ヒューズに頼んだ。

出かかった言葉を飲み込んで、マスタングはもう一度ホークアイの目をのぞき込んだ。
普段とほぼ変わりないその怜悧なまなざしで、この副官は恐ろしくとっぴな提案を押し付けてくる。
先程のヒューズといい、目の前のホークアイといい、そんなに自分は、エドワードに対してあからさまな態度を取っていたのだろうか。
周りにもうかがい知れるほど、あからさまな態度を抑えきれずにいたのだろうか。
自分の抑制力───もといソトヅラには鉄壁の自信があったマスタングは、わずかな不安を覚えた。
「三十分間は、私が何とかします」
だから、どうしてそう決めつけるのだろう。
「ここから駅までの道は、警備の者を多く配置していますが、おひとりではやはり危険です。できるだけ早く戻ってください」
私がいつ、鋼のに物言いたげな顔をした?
それに。
私が直接言葉をかければ、また彼は傷つく。
マスタングは息を細く吐き、肩の力を抜いた。
取り返しがつかないほどに、もう傷つけてしまったのだ。
あの時、彼を、慰めてはならなかった。
最も憎悪する人間に、最も心の柔軟な部分をわしづかみにされた彼の悔しさは、殺意にも値するだろう。
マスタングの存在は、エドワードの人生の障壁になりこそすれ、救いには決してならない。
そんなことなど、何年も前からわかりきっているというのに、胸の底にうねる感情を耐えるのが苦しく、マスタングはホークアイから視線を逸らし、かすかに目をすがめた。

なぶることを昏く歓ぶのでなく。
憎まれることに安っぽく高揚するのでなく。
ただひたすらに苦しくて、愛しかった。

取り返しがつかないほどに憎まれていても、生きてこの腕の中に戻ってくれたエドワードが、愛しかった。
ホークアイは、その澄んだ瞳の琥珀を揺らして、なおも言い募る。
「副官失格の発言であることはわかっています。でも、おかしなことを言うとお思いでしょうが。私は、エドワード君のためを思って言っているのではないんです」
マスタングは三たび、ホークアイを見つめた。
自分が他人にあまねく好かれる人間ではないことを、マスタングはよく自覚していた。

───けれども。…いや、だから。

今、目前の部下のこの優しさが、マスタングには宝石のように得難いものに思われた。



階段を駆け下り、軍用車の駐車場まで、マスタングはまた駆けた。
東方司令部の廊下を走る司令官に、敬礼すらしそこねて、廊下にいた幾人かの兵士は、目を白黒させた。
「急用だ。車を、借りる」
息を弾ませたまま、マスタングは一台だけ残っていた軍用車の整備係を追い払い、運転席に押し入るが早いか、エンジンをかけた。



こつこつと、車窓のガラスを叩く音がする。
エドワードが顔を上げると、ガラスの向こうで、ヒューズがニヤリと口の両端を上げていた。
「よ」
ヒューズは手のひらを軽く差し上げて、エドワードとその奥に座るアームストロングをのぞき込む。
片手で窓を開けようとするエドワードをすぐに見かねて、ぬう、とアームストロングが太い両腕で窓枠をつかんだ。
がたりと窓が開く。
「司令部の奴ら、やっぱり忙しくて来れないってよ。代わりに俺が見送りだ。ま、俺もこのあとの列車でセントラルに帰るんだけどさ」
このニコニコと人の良さそうな男が、あの偏屈なマスタングの旧知の友人であることをエドワードはまだ信じられずにいた。
だが、中佐という階級のせいだけでなく、ヒューズと接する軍の人々の態度が、尊敬と親しみが混じった温かいものであることも、今日一日の短い時間でエドワードは敏感に感じ取っていた。
「わざわざ…その、どーも」
「そんなかしこまんなって。えーと、ロイから伝言だ」
「大佐から?」
エドワードの喉がまた、ちくりと痛む。
口を真一文字に引き結び、ヒューズは急に芝居がかった。マスタングの表情をまねているらしい。
「えー、『事後処理が面倒だから私の管轄内で死ぬことは許さん』。以上」
喉の痛みが、つんと鼻の奥をついた。

───怒り過ぎて、涙腺を刺激するなんてこと、あんのか?

エドワードは精一杯、ヒューズに渋面を作ってみせた。
そうしないと、鼻の奥を突くわけのわからない刺激に、何もかもめちゃくちゃにされてしまいそうだったのだ。
「了解。絶対てめぇより先に死にませんクソ大佐、って伝えといて」
ヒューズはからからと笑った。
「おめーもロイの野郎も長生きすんぜ!」
ヒューズの笑いがおさまらないうちに、発車を知らせる笛が鳴る。
「気をつけてな。セントラルに寄ることがあったら、声かけろや」
三人が敬礼を交わすと、ごとり、と列車に最初の振動が伝わった。



車のエンジンは、一度かかり、直後に沈黙した。
エンジンの回転数をすぐに上げなかったのが悪かったのか、マスタングがスターターを回しても回しても、空回りするばかりで再びエンジンはかからない。
同じ作業を十回は試みただろうか。

───ええい、この!!

エンジンが沈黙し続ける車内で、マスタングはこぶしでハンドルを殴りつけた。
ドアを開けるのももどかしく、車外へ飛び出す。
日差しが、ふいにかげる。
透明なカーテンを一気に引き開けるような勢いで、かぼそい雨交じりの風が、マスタングの頬のすぐそばを通り過ぎていった。
雨雲が、引き返してきたのだ。
軍用車の代わりは出払っている。
マスタングは、イーストシティの駅に向かって、走り出した。
歩哨が呼び止めるのも振り切り、司令部の門を後にする。
炎の色に転化しようとしている夕日を、薄い雨雲が覆い、そしてまた、それを押しのけて、点滅するごとく日が射した。
町並みはそのたびに、ゆっくりと白黒にまたたいた。
きまぐれな雲の動きにつれて、薄い雨も色彩を変える。
黄金色になり、オレンジ色に輝き。
そして、深い夕暮れの紫に飲み込まれてゆく。
はかり知れない不安と、弱々しい希望のようなものが、入れ代わりたちかわり、走るマスタングの身体の中に溜まり、霧散した。
風にも霧散せずに、たった一つ残ったその思いは、地上の人々すべてに、そして思いを向けた本人にも唾棄されるものだと、マスタングは確信していた。
唾棄され、嘲笑されても。
もう、それを捨てることはできない。
鋼の。
私は。

───私は君を、必要としている。

駅舎が遠くに見えたところで、汽笛が鳴った。
マスタングは立ち止まり、膝に手をついて上半身を支えた。
足元の石畳に向けて、息を吐く。
自分の荒い呼吸音の合間に、かすかに列車の車輪がきしむ音が聞こえてきた。
それは、湿った空に規則正しい間隔で響き渡り、すぐに、遠くなる。
マスタングは胸元の銀時計を取り出した。
時計を握る指先までが、どくどくとせわしなく脈打つ。
時計の針は、十七時三十分を少し過ぎていた。
あきらめるのは早いような気もしたが、イーストシティ始発の便は、めったに定刻を過ぎることはない。

───私の管轄内で死ぬことは許さん。

そうでは、ないのだ。

この空の下、どこにいても。
この地上の、どこに足を運ぼうとも。
死ぬことは許さない。
エドワード。
絶対に。

時計を胸に収め、マスタングは自らの過失を確認するために、駅に向けて歩き始めた。



列車が駅舎を出ると、夕日が車窓から襲いかかるように射してきた。
まぶしさに、エドワードはきつく目をつぶる。
死ぬことを、禁じられた。
悪趣味な伝言で。
だが、その伝言の半分は、ごまかしでも格好つけでもなく、マスタングにとって真実であるのだと、エドワードの中に棲むもう一人の心弱いエドワードが、密やかに受け入れてしまっていた。
押しのけても、押しのけても、その真実は、地を這うトカゲのようにすばやくエドワードの意識に滑り込み、食い込んで、もう離れなかった。
「どうした?エドワード・エルリック?」
ふと目を開けると、傍らのアームストロングが、暑苦しい顔を心配そうに歪めて、のぞき込んできていた。
「…いや。なんでもない」
アームストロングに目を軽く見開いてみせて、エドワードはもう一度窓の外を見た。

それでも、オレは、あんたに屈服なんかしねぇ。
この先、どんなことがあったって。

夕日は、蒸し暑い空に低く浮かんでいた。
息も絶え絶えだった雨は、夕日に抗いきれず、炎の色に染まり、天空に吸われるように、消えていった。