紫の雨の中で -2-



全速力で、空でも飛べればいいのに。
そう願いながらエドワードはホテルの階段を駆け下りた。
しかし、せっぱつまった感情で心と身体がいっぱいになっている時は、肉体は滑らかに動かないものである。
最後の数段で、足を滑らせそうになったところを、とっさに手すりに手をついてこらえ、軽く跳躍してどうにか階下に着地する。
正面玄関目指してもう一度駆け出そうとした時───エドワードの視線に感応したかのように、その重い扉が、ぎしりと開いた。
現れた人物を視界に留めて、エドワードは急停止する。
硬い靴音と共に、聞き慣れた、だが聞きたくもない穏やかな声が、エドワードに近づいた。
「こんな時間に、どこへ?」
ホークアイの目を盗んで、しかも軍服のまま、どうやって残業を放り出してきたのか。
なぜ、こんなタイミングで現れる?
数時間前に、「さっさと帰れ」と。
いらだたしげに、舌まで鳴らしたのは、誰だったのだ?

───オレは、今、あんたに用事なんかない。

一言も発さずにマスタングの脇をすり抜けて行こうとしたエドワードを、青い軍服の腕がぐいと引き止める。
肘をぎっちり捕まえられて、諦め三分、怒り七分でにらみ上げてくる少年の視線を、いつもに増して冷たい黒曜石の瞳が、何の動揺もなく受け止める。
「私が来た用件は、わかっているな?」
「知るかよ。どいつもこいつも…うるせぇな。オレはまだメシも食ってねぇんだよ。あんたもさっさと残業しに帰れ」
「私と来い。食事なら奢る」
こんなに冷たい声で食事の誘いなど、誰からも受けたことはない。
「あんたとメシなんか食いたくない!」
エドワードが怒鳴り終わらないうちに、マスタングはエドワードの肘をつかんだままきびすを返した。今開けたばかりのホテルの扉に向かって、変わらぬ歩幅で足早に歩く。
荷物でも運ぶように引きずられて、エドワードの靴のかかとが床をこすり、渇いた音を立てた。
「離せ!!行かねぇって言ってんだろ!!」
体勢を立て直してもう一度怒鳴ったところで、建物の外へ引きずり出される。
「公共の場で騒ぐな」
他人を諭す気など全くない、ひとりごとのような口調で社会的常識事項を言ってのけ、マスタングは止めてあった車の後部座席にエドワードを放り込んだ。



放っておくのが、一番いいとは思った。
そうすれば、事態は勝手に解決する。

さっきとはうって変わって無言になったエドワードを後ろに乗せて、マスタングは軍用車のアクセルを踏んだ。
市の中心街からは、少し離れようと考える。
市内のどこかに宿を取っているハクロに、エドワードと一緒にいるところを見られると癪(しゃく)だからだ。
そして、そんな気の小さい計算をしている自分すらも、癪だ。

───別に、誰に見られようと、何も変わらないのに。

エドワードは、弟のために賢者の石を探している。
エドワードは、自分を憎んでいる。
エドワードは、意に染まない自分との契約に、苦しんでいる。
何も、変わらない。
だからエドワードは、ハクロの申し出を喜んだだろう。
あるいはもう、転属の口約束すら済んでいるかもしれない。

───単に、ハクロ将軍は私を牽制したいだけなのだ。

こんな子供一人、手に入れたとて、金や権力が転がり込んでくるわけでもない。
列車事件で、相当プライドが傷ついたとみえる。
だから堂々とマスタングにエドワードの居場所を尋ね、堂々と出かけて行った。
周囲にことさら、エドワードと接点ができたことを誇示して。
ハクロにしては、転んでもただでは起きない巧みなやり方だとは思うが、しょせん、それは自らのプライドをわずかに回復させるための、ささやかな彩りに過ぎない。
彩りごときに気を向けているハクロは、本当に間抜けだ。

───そして、私も。

ハンドルを握りつつ、マスタングは失笑をこらえた。
愛しているわけでもない、抱く価値があるわけでもない、もう何の価値もない子供を、こうして愚かにもひととき捕まえている。
子供をやすやすと篭絡(ろうらく)したハクロに、得意顔をされたくないからだ。
だがそれは今のマスタングの行動の、真の理由ではなかった。
エドワードの意向ではなく、マスタングは、自分自身を確かめたかったのだ。
エドワードにかける言葉が見つからないと、おののく自分の正体を見きわめたかった。彼を前にしてなぜ自分が言葉を失ってしまうのか、知りたかった。

───「エルリック君の宿泊先が知りたいのだが」。

ふてぶてしい笑顔で尋ねてきたハクロを見たときに、確信したのだ。
手順もルールも、何もかも自らめちゃくちゃにしてしまったゲームを、終わらせたくない自分が、確かに、自分の中に存在すると。
もう、認めざるをえなかった。
「どこまで行くんだよ」
ふいに後部座席の子供が口をきいた。
行き先になど、みじんも興味を示さずに。
「すぐ着く」
短く答えて、マスタングはやや乱暴にハンドルを切った。



こんな不味い料理など、食べたことがない。
「騒ぐな」と命令され。
「座れ」と命令され。
「残さず食べろ」と命令され。
いつだったか、炭鉱の町で宿を追い出され、見知らぬ家の軒下で食べたささやかな夜食の方が、今のこれより何百倍も美味しかったと、エドワードは本気で思った。
子供や家族連れなどいっさい見当たらない、静かな店だった。
裕福そうな老夫婦や、コンサートの帰りらしい正装した若い男女、といった客たちの中で、佐官の階級章を着けた軍人と、赤いコートの少年の組み合わせは、とりわけ目を引いた。
だがエドワードはこの手の注目には慣れており、マスタングもまた、周囲に人間など存在しないかのように、密やかに集まる視線を黙殺した。
「で?将軍と何を話した」
不思議な香りのする白身魚にかけられたソースは、深い緑色だ。
「言いたくねぇ」
マスタングの肘のそばに置かれたグラスの中のワインは、不安げに、そして鮮烈に、赤い。
「言いなさい。命令だ」
いったいこれで、今晩何度目の命令だろう。
切り分けた白身魚を口に運んでも、エドワードの舌は、何の快さも感じない。
紙くずでも食ってるようだと思いながらそれを飲み下して、聞き返す。
「その命令に従わなかったら、オレはどうなんの?」
明るすぎず、暗すぎない照明の下で、金の瞳は無表情だ。
「食事が終わるまでに考えておく。で?」
「言いたくねぇったら言いたくねぇ」
「そうか」
マスタングもまた、表情も無くグラスに口を付けた。

食後のエドワードにはシャーベット。
マスタングにはコーヒーを。
その後、ずっと無言の二人に不審げな視線を向けるのを止められない、経験の浅いボーイは、どうにかこうにか給仕を終えることができたようだった。



「乗りたまえ。送ろう」
店を出て、通りに止めていた車の前で、マスタングは、傍らのエドワードに穏やかに声をかけた。

───同じことを昼間も言われたな。

わずかに目をすがめて、エドワードはそんなことをふと思う。
「オレはあんたの命令にまだ従ってないぜ。罰は?」
かけらも表情を変えない男を見上げた途端に、エドワードの身体が宙に浮いた。
来る時よりもずっと乱暴に、後部座席へと放り込まれる。
座席の背もたれにこめかみをぶつけて、エドワードは短く息を詰めた。
「いってぇ……」
暗闇の中、顔を押さえていると、間を空けず乗り込んできたマスタングに、その手首をつかまれた。
顔を押さえていた生身の手のひらを、容赦なく顔から引き剥がされる。
街灯もわずかにしか届かない暗闇なのに、エドワードは瞬時に悟った。
マスタングが、非常に険しい顔をしていることを。
「焔」の二つ名とは裏腹に、この男の放つ氷のような冷気が、つかまれた手首から、エドワードの全身に染み通る。
また、身体が凍りそうだ。
「言え。鋼の」
闇よりも黒い瞳が、ゆらりと光った。
「ハクロ将軍と、何を話した?」
何らかの「罰」を受けるのは半ば諦めていたこととはいえ。
どうしても跳ねのけ難い恐怖の中に、一種不思議な感情が混じるのを、妙に冷静にエドワードは自覚した。

───これは。優越感か?

ホテルの玄関で捕まえられた時から、不思議だったのだ。
なぜ、この男はこんなに自分にこだわる?
自分が何をしようと、目の前に居ようと居まいと、もう関心が無いのではなかったのか?
策略にしては、この男に不利すぎないか?
「オレのことなんか、もうどうでもいいんだろ?なのに、なんでそんなこと訊くんだよ?」
エドワードの目が闇に慣れ、目前の男の顔の輪郭を、はっきり捉え始める。
いつもいつも、この目に見つめられてきた。
深く光を吸う、闇のような目に。
「それとも何か?飽きたおもちゃでも、ヒトに盗られると思うと、惜しくなった?」
エドワードが口の端を上げてみせると。
男が息を飲み、その右手が、振り上げられた。
「殴りたいんなら、殴れよ。それでまた、こ、の前みたいに、すんの?ここで?それが、あんたの罰?」
目を逸らしたら、負けだ。
せり上がる緊張を振り払いながら、エドワードは言い募った。
どうしても震える顎が、みっともなくて仕方ない。
だが、手袋をしたままの手は、エドワードの頬に振り下ろされてはこなかった。
手袋の白さだけが、消えかかった灯火のように宙に浮かぶ。
「君がそういう罰を望んでいるなら、私はいっこうに構わないが」
暗がりに浮かんでいた白い手が、エドワードの肩に伸ばされた。
言うなりのしかかってきた男に、エドワードは真からの吐き気を覚えた。
座席の上に仰向けに押し倒されて、頭は打たなかったものの、軽いめまいに襲われる。
エドワードのベルトに手をかけて、マスタングは急に動きを止めた。
エドワードのズボンのポケットに、何か入っている。
重い銀時計に、紙が擦れるような音がしたのだ。
「何してんだよ!バカ、手ぇどけろって!!」
マスタングの態度に気づいて、エドワードもポケットに手を伸ばしたが、マスタングの手の動きの方が断然に速かった。
たたまれていた紙きれを引きずり出し、マスタングは器用にそれを片手で開いた。
闇の中で、紙の上の、金の箔押しが光る。
軍の紋章の下の文字と電話番号らしき数字は、マスタングには非常に見覚えのあるもので。

冷えかかっていたマスタングの頭に、血が上った。

細い木の枝を折るような音と共に、小さな火柱が上がる。
「うわっ!!」
その熱さとまぶしさに、反射的にエドワードは腕で顔を覆った。
目を開けた時にはもう、便箋は跡形もなかった。
せっかく闇に慣れていたエドワードの目の中で、炎の残像がちかちかと暴れ、その視界をさえぎる。
見えづらい目でエドワードは再度身構えたが、のしかかってきたはずの男はなぜかそれ以上、身じろぎもしない。
片膝でエドワードの下肢を固定していたマスタングは、上体を起こしたまま、人形のように凍りついていた。
エドワードの視界が戻るのを待つように、沈黙が続く。
それはもちろん、時計の秒針が盤面を半周するにも足りない時間だったが。
小さくとはいえ、よほど高温の炎を錬成したのか、便箋の燃えかすすら、車内には落ちていない。

くっ、と息を吐く音がした。

それが、マスタングの喉から発せられた音だとエドワードが気づくまで、かなりの時間を要した。
見上げると、発火布を着けたままの手で、今度はマスタングが顔を覆っている。
さらに数秒後、触れ合った下肢から伝わってくる振動で───マスタングは笑っているのだと、エドワードはようやく理解した。
くつくつ、と、苦しい息を耐えかねるような、押し殺した笑い声が、下肢からの振動と共に、エドワードの耳に、身体に、響いてくる。
「な…にが、おかしい?」
想像もつかなかった展開に脱力しそうになりながら、エドワードはどうにか動く自らの上体を、肘で支えた。
笑い声は止まない。
「おい。大丈夫かよあんた?」

───大丈夫じゃ、ない。

だから笑っているんだ。
震える腹筋に阻まれて、マスタングは言葉を発することができないでいた。
おかしくて、仕方ない。
これでは、まるで。
これではまるで、妻に詰め寄る寝取られ亭主ではないか。
いちいち本質を言い当てられて、逆上して。
とっくに妻は自分のものではないのに、感情のままに、相手の男からの手紙を引き裂いて。
こんな醜態など、どんな女性にも、見せたことはない。
感情のままに錬金術を使うことをあれだけ忌み嫌った自分は、いったいどこへ行ってしまったのだ?
これが、笑わずにいられるだろうか。
そして、これが、答えだ。
飽きたおもちゃでも、他人に盗られるのは…耐えられない。
耐えられないのだ。

───それに、私は。

飽きてなど、いない。

「す…まなかった、……鋼…の」
苦しい息を治めながら、マスタングはようやく言葉らしいものを口にした。
呆然と見上げてくる、エドワードの視線すらこそばゆい。
「別に。…あんなもん燃やしてもムダだぜ。もう内容は頭に入ってる」
「そうか」
やはり、エドワードはもう心を決めていたのだ。
膝を下ろして、マスタングは押さえつけていたエドワードの身体を解放し、車外へ出た。
後部座席のドアを閉める前に、まだ不審そうな顔をしている少年に向けて、声をかけてやる。
「この件に私はもう立ち入らない。好きにしたまえ」
エドワードの返答を聞かずにマスタングはドアを閉め、運転席に戻ってエンジンをかけた。



この状況を、どう言えばいいのだろう。
「毒気を抜かれる」?
「拍子抜けする」?

───それとも、……安心する、って言うのか…?

エドワードは、ホテルの玄関前の階段に足をかけて、ぼんやり立っていた。
元通り、ここまで車で送られて、「降りろ」と声だけかけられて。
マスタングは、行ってしまった。あっさりと。
エドワードの意向を聞き出すという自らの目的も果たさず、エドワードに罰も与えず、不気味に一人で笑うだけ笑って。
本当にあれはマスタングだったのだろうかと、そんなとんでもない疑問さえわく。
マスタングが怒ったのを見たのは、二度目だ。
かんしゃくを起こした子供のように、自分を殴ろうと、手を振り上げたあのシルエットが、エドワードの目の奥に焼きついている。
どんな挑発にも、一切乗らない男だった。
彼にとって最も「こたえる」事項であるイシュヴァールのことを除いては。
エドワードの、かなり辛辣な罵詈雑言にも、いつも、柔らかく口の端を持ち上げるだけで、彼はどこか嬉しげでさえあったのだ。
それが、どこをどう押せば、ああいうふうになるのだろう。
あの便箋を燃やしたということは、マスタングはあれが何であるか理解したということだ。
そんなにハクロ将軍が気に食わないのか。
あれほどいつも、将軍を軽んじる発言をしておきながら?
ハクロなどライバルでもなんでもない、気にかけるにも値しない、という態度をあれほど取っておきながら?
それとも。
あの便箋を燃やす直前まで。
マスタングは、本気で、自分をハクロ将軍のところへ行かせたくないとでも思っていたのか?
なぜ?
「飽きたおもちゃ」に執着するのはなぜだ。
人に盗られる、とわかったから?
本当は、飽きてなど、いないから?
エドワードにはどうしても、正解がわからない。
ホテルの玄関前で立ったまま、口元に手を当てて、考え込む。
あいつは、なにがそんなに、おかしかったのだろう。

───オレのあがきが、そんなに無様だったのか?

それともあいつは。
自分で自分が、おかしかったのか?

ふと違和感に気づいて、コートの袖口を見ると、肘近くの部分が少し焦げて、裂けていた。
思わずため息が漏れる。

───みっともねぇ。あの野郎、何てことしやがんだ。

ささやかな努力でどうにかなることで、錬金術を使ってはいけない。
それは、師匠の教えの中でも基本中の基本であったが、アルフォンスへの言い訳は、ひとつでも少ない方がいい。
そっと、焦げた袖を錬成してすばやく直し、ホテルの中へ入ろうとドアに手をかけたところで、エドワードはふと動きを止めた。
通りの街灯の向こうから、せわしない足音が聞こえてくる。
その金属音に、おかしなくらいの安堵を感じる。
弟は、飛び出していった自分を探して、暗い街中を歩いてきてくれたのだ。
だが、安心したよと微笑んでやるほど、エドワードはまだ大人ではなかった。
「……兄さん」
駆け寄ってきた鎧に表情はないが、鎧の中から、アルフォンスの意識が、気まずそうにこちらの様子をうかがっているのがありありとわかる。
「兄さん。僕…」
「もういい。メシ食って来ただけだ」
さっさと入って来い、とアルフォンスを促して、エドワードはドアを開けた。
先に謝ろうとしてくれた弟に、卑怯にも、心の中だけで謝りながら。



エドワードとマスタングが気まずいディナーを共にしてから、三日間は何事もなく過ぎた。
納得しきれないものをお互いに抱えながらも、エドワードとアルフォンスはあれ以来、言い争うようなこともなく、せっせと毎日仲良くタッカー邸に通っていた。
ハクロからも、もちろんマスタングからも連絡はない。
「考えておく」という便利な理由をふりかざされては、当事者でないアルフォンスはそれ以上、エドワードに食い下がることはできなかった。
もう一度エドワードを怒らせるのが嫌だった、というのもある。
エドワードとマスタングの関係に、何か、自分が思っている以上の問題があるのを、アルフォンスは先日のケンカによって気づいていた。
その問題は、アルフォンスがつついてどうにかなるものではなく、そして、エドワードにとってさえ、どうしようもない問題であるらしいのだ。

───兄さんは、本当に困っていることは、絶対に相談してくれない。

今まで覆ったことのない法則を、アルフォンスは改めて確認する。
でも。
だからといって、それが、エドワードをほうっておく理由にはならない。なるわけがないのだ。

───だから、見てなくちゃいけないんだ。兄さんを。

なにも言ってもらえなくても、この身体が無くても、エドワードの一挙手一投足を、見ること、聞くことだけはできる。
生まれた時から付き合ってきたのだ。
見ていれば、聞いていれば、わかることは、本当は山のようにあるのではないか?
「アルー。何やってんだ、行くぞ?」
ホテルの部屋のドアをだらしなく足で押さえて、エドワードが振り向いた。
アルフォンスはがしゃりと勢い良くベッドから立ち上がる。
「うん。早く行かないと、ニーナと遊ぶ時間がなくなっちゃうもんね」
「あのなぁ。あの家に、オレたちは何しに行ってんだよ」
「え?アレキサンダーと運動するためでしょ?」
「………もういい。オレは先に行く」
「冗談だよ、もう~」
今日の空模様は朝から薄暗く、快晴には程遠い。
それでも、エドワードの背中を追いかけるアルフォンスの心は、そう光度の低いものではなかった。

しかし。
その日タッカー邸には、ニーナも、その愛犬のアレキサンダーも、いなかったのだ。



「できるだけ迅速にお願いします」
美貌の部下は、濃い琥珀色の瞳を、ちらとも揺らさず言った。
デスクに着いたマスタングの左斜め前に、とん、と密やかな音を立てて書類が積まれる。
ホークアイは実に優秀な部下だ。こんなに重そうな書類の束を、ほとんど音もさせずに置いていった。無駄のないあの動きには、かなりの腕力を要したことだろう。
通常ならば、頃合いを見て半時ほどの脱出を図るのだが、このところ、マスタングにとっては言い訳のしづらい状況が続き、この状況下で脱出を図るのは、更に己の首を締めるだけだということを、マスタングは嫌というほどこの部下に認識させられた。
ホークアイの「迅速に」という言葉には、様々な意味が込められている。

──未決裁の書類が溜まっています。
──書類には、決裁期限が迫っているものもたくさんあります。
──この三日間は、特にその処理が滞っています。
──残業を抜け出しても、無駄です。
──その次の日に、その倍、残業しなければならないだけです。
──今現在、その「倍の」残業をこなせていないのですから、書類が溜まるのはあたりまえです。
──エドワード君のことが気になるのはわかりますが。
──期限の近い書類が溜まっているんです。

ですから、迅速に。
心の中で頭を抱えながら、マスタングは左手で紙束を繰り、新しい書類をまた一枚、手元に引き寄せる。

───鋼の。君の復讐は、なかなかに効いている。

今は目の前に居ない、そして、もうこれからはほとんど会うこともないであろうあの少年に、にやりと賞賛の笑みでも贈ってやりたい気分だ。
あの時、図書館で、エドワードはホークアイに見せるためにマスタングに口付けてきた。
意外にも、というか、当然ながらというか、彼女はその事について、マスタングに何も尋ねなかった。
「子供相手に何をしているのか」という説教のひとつやふたつは覚悟していたのだが。
ホークアイなりに衝撃を受けたのだろうが、あれは、マスタングのプライベートであり、軍務には関係ないと彼女は判断したらしい。
しかしあれ以来、執務室でエドワードのことが話題にのぼる度に、冷ややかなホークアイの視線を感じて、マスタングは少々落ち着かなかった。
部下というものは、出世のための駒に過ぎないと思っていたが、自分は、いつの間にかずいぶんとこの美貌の部下に、仕事の上でも、気持ちの上でも依存していたようだ。
いささか自意識過剰気味とはいえ、こんなに、彼女の視線を感じることがいたたまれないのだから。
そして、これこそが、エドワードの狙いだったのだろう。
その激情でマスタングを殺そうとしたこともあるエドワードだが、彼から受けた攻撃のなかで、今のこれが、マスタングにとっては最も「効いて」いる。
書類にサインを書き飛ばしながら、マスタングはこの場にそぐわない笑いがこみ上げてくるのを、懸命に耐えた。
このささやかな敗北を、エドワードに伝えたい。
だが彼はもう、決めてしまったのだ。
ニューオプティンから、あるいは大総統府から、エドワード・エルリックの転属について書類が回ってくるのも、そう遠いことではないだろう。
そして自分はそれに、なんでもない顔をしてサインをしなければならないだろう。

───どうとでも、する。

エドワードという存在が、この地上から消え失せたわけではないのだ。
ならば。
追い詰めることは、そう難しくはない。



抑えきれなかった笑みをマスタングが口元に浮かべたところで、執務室の電話が鳴った。
当然のようにホークアイが席を立ち、受話器を取る。
この三日間、仕事が滞っているので、マスタングは電話に出ることをホークアイに禁じられていた。マスタング宛の電話はすべて、彼女がシャットアウトしているのだ。
だが。
実に珍しいことに。
受話器を耳に当て、何事か会話していたホークアイの顔色が、変わった。
「大佐。ショウ・タッカーの件で、エドワード君からお電話です」
先刻からマスタングの心の大部分を占めている、当の本人から電話とは。
マスタングの願いが、通じたのだろうか。
だが、それにしてはホークアイの顔色は悪すぎる。
「出ても、いいのかね?」
「…それどころじゃありません。早く出てください」
本当に珍しく、せき立ててくるホークアイから受け取った受話器は、妙に重かった。



しのつく雨の中、タッカー邸の玄関は憲兵でごった返していた。

───タッカーが、合成獣を作った。自分の娘と、犬を使って。

電話してきた当のエドワードは、屋敷の中の薄暗い廊下に、座り込んでいた。
「あ、大佐…!」
エドワードのそばの、大きな鎧が立ち上がる。
だが、エドワードは座ったまま顔も上げない。
「大佐、あの」
立ち上がったアルフォンスは、マスタングと足元のエドワードを交互に見て、言葉を詰まらせた。
「連絡をありがとう。大変だったな。君たちには詳しく事情を聞きたい。申し訳ないが、後で司令部まで一緒に来てくれ」
「はい」
アルフォンスは、どこまでも気丈な少年だった。
傍らのエドワードも、そうであったはずなのだが。
膝を抱えてうつむいたまま、びくともしないエドワードの頭をちらりと見やって、マスタングは屋敷の奥へと歩を進めた。

静かな部屋に、その合成獣はいた。
聞こえるのは、強くなってきた雨の音と、部屋の外を行き来する憲兵の足音だけだ。
タッカーは、別室に居ると憲兵は言った。
長い髪をさらさらと引きずって、合成獣は落ち着きなくうろうろと部屋の中を歩き回っていた。
長く編まれていた、少女の髪。
何日か前にここを訪れた時、玄関のドアを開けてくれた小さな少女の笑顔が、マスタングの脳裏に浮かんだ。
「だれ……?」
おびえたように、合成獣はマスタングに顔を向け、言葉を発した。
もう、彼女は笑顔を浮かべることができないのだ。
「だれ……?」
この少女に、いや、少女だった獣に、何と、答えてやればいい?

───大丈夫だ。
───怖いことなどないよ。
───この間、会ったね。覚えていないかい?

思いつくどの言葉も、余りに虚しい。
合成獣は歩き回るのをやめ、マスタングから、じりじりとあとずさる。
これ以上、彼女をおびえさせてはいけない。
マスタングは、その場にひざまずいた。
「私は、ロイ・マスタングだ。君のお父さんに、訊きたい事があって、ここに来た」
合成獣は、首をかしげた。
そのまま鼻を鳴らして、ゆっくりとマスタングに近づいてくる。
マスタングが手を伸ばせば届くところまで距離を縮め、とん、とそこに座り込む。
「…ます…たんぐ…?……おとうさん…?」
自分のことを、思い出してくれたのだろうか。
泥水が日に照らされるように、鈍く光るその眼を、マスタングはじっと見つめた。

錬金術というものは。
こんなことまでできるのだ。

こんなことまでできるのに、なぜ、錬金術はその力で人の心を縛ることができない?
マスタングは吐息だけでうめいた。
禁忌を犯さぬように、心を縛ればいいのだ。
錬金術で、人を獣にせぬように。
錬金術で、人を造らぬように。
錬金術で、人を殺さぬように。
邪心も起こせぬよう、ぎっちりと縛られていたなら、皆、どんなに簡単に人生が送れただろう。
人を獣にしたタッカーも。
人を造ったエドワードも。
人を殺した、自分も。
汚物でも投げ捨てるような気分で、マスタングは自分の胸中に自分の言葉を叩きつけた。
怒りでは、ない。
これは、もっと脆く、もっと冷めた何かだ。
錬金術で、人の心を縛ることはできない。
いや、この世に存在するどんなものも、それを完遂することなどできない。
どんなに戒められようと、人は薄汚い欲望に支配され、悲しみに負け、愛してはならないものを愛する。
それらを終わらせることができるのは、死だけだ。
必然的に用意された「終わり」までの時間を、どう過ごすか。
人間に許されている選択肢は、それだけなのに。
だが、マスタングは理解していた。
それまで理解できないふりをして、自分で自分を覆ったフタは、想像以上に重かったが。
たった今、それは砕け散ってしまった。

───なんて、無駄なあがきだったのだろう?

とうの昔に、わかっていた。
どれほど憎まれても、エドワードの心を、永久に自分の許に留めておくことなど、できはしないのだ。
たとえ愛されたとしても、不可能であるのに。
憎悪されて、なんでそれが可能になるだろう。
自分にできることは、ただ。
最初から諦めて世界のすべてを拒否するか、「終わり」のつらさに目をつぶって、身の周りに存在する者たちに愛情を乞うか、そのどちらかだけだったのに。
「世界」を諦めたつもりでいて、諦めきれなかった自分が、エドワードに憎悪されることを願うのは。
それは、彼に愛情を乞うのと同義であったのに。
「おとうさん」
目前の、何時間か前までは少女であった獣が、口をきいた。
「おとうさん…どこ?」
こんな姿になってまで、少女は「世界」を諦めてはいないのに。
マスタングは、ひざまずいたまま、合成獣から目をそむけた。
「ショウ・タッカーを、早く尋問しろ」
手近にいた憲兵に、そう指示するのがやっとだった。