紫の雨の中で -1-



もう、逃れられないと思った。

「神に祈る間をやろう」
静かな男の声が、ずしりと雨音をさえぎり、耳元に落ちてくる。
濡れた石畳の上に飛び散った鉄片やネジは、ついさっきまでエドワードの右腕に着いていたはずなのに。
もうそれは、冷たく雨に濡れながら、ぴくりとも動かない。
ここで逃げれば、アルが殺される。
アルが助かるのなら───ここで死ぬのも、しかたない。
だが。
エドワードは消すことができなかった。
身体に染みとおる恐怖を。
消せなかった。
死ぬのが、恐かった。
アルフォンスのためにでも、死ぬのが恐かった。

───この、腰抜け野郎。

誰かが心の底からあざ笑ってくれれば、こんな時、もっと楽になれるのに。

───アル。

ごめん。
オレにはおまえに謝る権利すらないのに。
今は、おまえに聞こえないように謝るしか、できることがない。

ごめん。
どんなに謝っても足りない。
オレは。

死ぬのが、恐かった。


















***

「ほう。石は、まがいものだった、と」
乱暴に手渡された報告書を、はらりとめくりながら、マスタングは言った。
返事はない。
デスクの前に突っ立っている金髪の頭も、微動だにしない。
もう概要はわかった、とばかりに、最終ページまであらためることもせず、マスタングはその紙束をデスクに置いた。
デスクの向こう岸のエドワードは、なんとも珍しい顔をしている。
怒りをあらわにするわけでなく。
かといって諦めきったような目もしておらず。
冷徹、とでもいえそうな、不気味な冷気をまとって黙り込んでいる。

───また空振りだった。
───もっとマシな情報はないのかよ。

エドワードのいつものセリフは、空気を通して響いてはこず、マスタングの頭の中だけで響いた。
たった一度抱いただけで、こうも変わってしまうのか。
果物にたかる虫のように、うっとうしい思いが、じくじくとマスタングの胸に満ち始める。
ゲームの終わりが見えるのは、寂しい。
マスタングにとって、その「終わり」は、いつも突然やって来るものだった。
見上げてくる女の唇が、少し乾いていた時。
その美しい肢体に、今まで気づかなかった小さな痣を見出した時。
彼女の快楽のため息に、ほんの少し違う色が混じった時。
もうそれだけで、マスタングは相手と触れ合う気も無くしてしまうのが常だった。
だがこれは、「終わり」ではないような気がする。
この、いつもの何十倍も重苦しいこの気分は。
このうっとうしさは、目前のエドワードから感じるものではない。
自分で自分が、うっとうしいのだ。
終わりを終わりと思えない。
割り切れない。
じくじくと、いつまでも。
「もう用事がないなら、宿に帰るぜ?」
自分の胸がずきりと冷えたのに気をとられて、沈黙していたマスタングの耳に、抑揚のない声が届いた。
マスタングは視線を上げる。
まっすぐぶつかってくる金の瞳は、触れることができたなら、痺れそうに冷たいのではないか。
宿に帰る、と言いながら、エドワードは一歩も動かない。
そわそわする様子もない。
エドワードは、待っているのだ。
「報告の続き」を。
この三年近く、その「報告の続き」は、一度も途絶えたことがなかった。どんなに忙しい時も、エドワードがイーストシティに帰ってくれば、マスタングは執務の間隙をついてエドワードに口付け、その身体を探った。
正確に言うと、エドワードはその行為を待っているのではない。

───早く終わらせて、帰りたい。

その行為の終わりを、待っているのだった。
嫌がり、抵抗し、時に諦め、行為がエスカレートすればまた嫌がって。
今までエドワードが示してきた、そのすべての態度に、マスタングは甘い甘い闇を飲み込むような愉悦を感じてきた。
冷たい目で見られれば見られるほど、彼の心の底で燃える怒りの熱を感じられて、胸が踊ったものだった。
それなのに。

───いったい、何が、どうなっている?

マスタングは自問する。
胸の奥底を、探っても探っても、熱いものを含んだ感情は、見つからない。
それは、当然のことであるのに。
彼を抱いて、愉悦に満ちた緊張の糸を切り、「終わり」を引き寄せたのは、自分だ。
わかっているのに。
諦めているのに。
なのになぜ、こんなに、身体が冷える?
まさか、私は。

───終わらせたくない、とでも、思っているのか?

数瞬の沈黙に焦れたエドワードが、もう一度口を開きかけた。
だが。
「………わかった。では帰りたまえ」
マスタングのその言葉に。
 エドワードは、その顎を数ミリ、震わせた。
密やかな驚愕の色を、はた、と瞳の金色に落としこんで。
 当のマスタングは、とっさにデスクの報告書に目を落とし、それをことさらゆっくりと引き出しにしまいこむ。
乱雑に物を詰め込んだ引き出しに、書類の収まるスペースはさほどない。引き出しの、見えないスライド部分に紙が数枚ひっかかっているのをわかっていながら、マスタングはそれを閉めた。
この冷ややかな焦りを、エドワードに悟られたくなかった。
何を言えばいいのか、わからない。
エドワードにも、自分にも。
「………何をしている?」
 先程から棒立ちのエドワードに向かって、マスタングは低く威嚇した。
 早くエドワードを目の前から追い払いたかった。
 その気持ちが防衛本能から来ていることを瞬時に自覚し、マスタングは自身に向けて舌打ちする。
 その湿ったかすかな音に、エドワードはまた、ぴくりと顎を震わせた。
 自分が舌打ちされたと思ったらしい。
 黙礼もせず、編んだ金の髪が翻る。
 駆け足寸前の足音が、ドアの開閉音と共に消えるのを、マスタングはデスクの上を空虚に見つめながら聞き取った。



夕刻、というにはまだ早い。
だが日は確実に傾き、路面に映る自分の影は長くなりつつある。
司令部から早々に出てきたものの、エドワードには行くあてがなかった。
いや、あてはあったが行く気になれなかったのだ。
ついこの間、列車乗っ取り犯を取り押さえた手柄と引き換えに、生体錬成の研究者であるショウ・タッカーをマスタングに紹介してもらい、ここ数日、エドワードはアルフォンスと共に、タッカー邸で資料検索に明け暮れていた。アルフォンスは今ごろ、まだそこで資料に埋もれながら作業中だろう。
エドワードの普段の怠け癖がたたり、今日の午後遅くに司令部への報告書ができたのもあって、アルフォンスは、司令部に赴くエドワードについては来なかったのだ。

───兄さん、今日は、遅くなるんだよね?

司令部に向かう前に聞いた、アルフォンスの穏やかな声が、エドワードの胃袋あたりを締めつける。
それは、なんとも息苦しい暗黙の了解だった。
マスタング大佐に報告が済めば、夕刻になる。夕刻になって職務を終えた大佐はエドワードと時間を過ごし、場合によってはエドワードは今日中に宿に帰らない。
アルフォンスの意識の中では、そういう予想が出来上がっているらしかった。
自分が、マスタングと具体的にどんな行為をしているのか。
マスタングと自分は、「賢者の石」を挟んで、どんな「契約」を交わしているのか。
どちらも、アルフォンスにはどんなことがあっても知られたくない事項だったが、マスタングに無理やり選択を迫られ、エドワードは後者のみを隠し通す選択をした。
賢者の石の情報を得るために、自分がマスタングの不埒な要求に応えているなどと弟が知れば、何重もの意味で弟は苦しむだろう。
それならば、単純に、道に外れた恋愛に溺れる人間だと思われている方がましだった。
ましだった、はずなのだが。
こうも暗黙のうちにそれをアルフォンスに了解されてしまうのは、なかなかにたまらないものがあった。

───ああ…面倒くせぇ。

これからタッカー邸に行って、なぜ帰るのが早まったのか、アルフォンスに説明するのが面倒くさい。
朝帰りをするより、ばつは悪くないが、適当な嘘の理由を考えるのが、面倒くさい。
自分の説明を聞いたアルフォンスがどう自分を勘ぐるのか、想像するのも面倒くさい。
いちいちアルフォンスと腹を探り合うのは、もう、まっぴらだ。
大通りで、時間つぶしに買ったアイスティーを片手に、エドワードはオープンカフェの籐製の椅子に沈み込んだ。
大体、どうやってアルに説明するんだ。
大佐はもうオレに興味がなくなったから、早く帰ってこれました、ってか?
いらつく気分のその上に、不可解だった先程のマスタングの態度を思い出し、ますますエドワードの眉間のしわが深くなる。
ここは、すんなり祝福すべきところなのか?
あれほどに逃れたいと思っていた男の方から、手を切ってくれた。
あまり突然で、エドワードには、どういうことか状況がよく把握できない。
いや、たまたま今日、あいつのムシの居所が悪かっただけなのか?
でも、今まで、ムシの居所なんか関係なく、あいつはオレに触れてきた。ムシの居所が最高にいい時も、最高に悪い時も。
「最高に悪い時」のあの男の記憶が呼び出され、エドワードの肩がほんの一瞬、こわばった。
手にしたカップの中で、小さな氷がカタリと崩れる。
あの夜以来、エドワードは常に恐れていた。
必ずまた、マスタングはあの時と同じ、あの苦痛に満ちた行為を自分に要求してくるだろう。
それはいつなのか。
マスタングの顔を見れば、いつ、その腕が自分を拘束し、いつ、その唇が命令を下してくるのかと落ち着かなかった。
もちろん今までも落ち着かなかったのだが、あの夜以来、マスタングは、何か非常に温度の低い冷気を全身にまとっているように感じられた。
そばに寄られただけで、心が凍るのだ。
その恐怖を、エドワードはそのプライドにかけてひねり潰して来たが、それには莫大な労力が要った。
輝く鋼の表面についた、深い掻き傷のように。
そこをどんなに押さえても、こすっても、こびりつく恐怖は、完全に消えることはなかった。
あの男は一筋縄では行かない。
オレを油断させる、策略かもしれない。
すんなり祝福などできずに、エドワードは薄まったアイスティーを、氷と共にゆっくり口に含んだ。



溶けて角の丸くなった氷をひとつ、歯で噛み砕いた時。
テラスのそばに、車が一台止まった。
大通りとはいえ、あんなところに車を止められてはカフェの営業妨害だ。店の主人に少し同情しながらエドワードがその車を眺めていると、その後部座席のドアが開いた。
「やっぱり。エルリック君だね?」
ひょい、とドアの影から顔を出してエドワードを呼ばわった人物は、運転手に何事かささやいた後、ゆっくりと車から降りてきた。
見慣れた青い軍服の、壮年のこの男は、どこかで。
その肩の階級章と、男の左耳に貼られた、痛々しく白いガーゼを目にして、エドワードははたと椅子から立ち上がった。
「ハクロ将軍…?」
カフェの椅子の間をぬって、将軍はすたすたとエドワードに歩み寄る。
「先日は、本当に世話になった。こちらに来る用事があったんだが、君もイーストシティに居ると聞いてね。よければホテルまで送ろう」
「オレに……なにか?」
「私と私の家族を救ってくれた、お礼を直接言いたくてね。君のいるホテルに向かう途中だった」
その、いかにも他に話がある、というような食えない笑顔に、エドワードは、マスタングに対峙する時とはまた別の警戒心を、身体の底からしぶしぶ呼び出さねばならなかった。



「君は、生体の錬成に興味があると聞いたのだが」
ひとしきりの挨拶と謝礼を述べて。
ホテルのロビーに似つかわしくない話題を、ハクロはいきなり持ち出した。
ロビーのそう高級でもないソファにゆったりと腰掛け、エドワードを正面に座らせ、目前のティーカップから立ち上る薄い湯気の向こうで、微妙に表情の読めない目がにこやかに細められる。
エドワードたちが定宿にしているここは、軍のホテルだ。こんな人目のある場所で、自分たちの目的を、あけすけにしゃべるわけにはいかない。
エドワードは、唇を強く引き結び、ハクロを見つめた。

───この男は、オレたちのことを、どこまで知っている?

警戒するな、と言う方が無理だ。
「いきなりで、気を悪くしたのなら申し訳ない」
さらに目を細めて、ハクロは破顔した。
「いや…君の噂は、前々から耳にしていた。東部のみならず、セントラルでも君のことはたびたび話題になっていたよ」
「はぁ。どうも…」
「失礼ながら、三年前、マスタング大佐が君を国家錬金術師に推薦してきた時には、驚いたがね。それが今や、軍のためにこれほど貢献してくれている。私の周りの者は、皆、悔しがっているよ。『あの時、自分がエドワード・エルリックを推薦したかった』、と」
ハクロが何を言いたいのか、エドワードにはよくわからない。
「オレは…別に何もしていません。任務があれば、従ってきただけです」
「ご謙遜だな」
ハクロは嬉しそうにため息をつき、ティーカップの中身を一口、品良くすすった。
「はっきり言おう」
かちり、とソーサーにカップが置かれる。
カップの取っ手に添えたハクロの指は、やたらに白い。
「実は私も、その、悔しがっている者たちの一人だ。乗っ取り犯のことは思い出したくもないが、こうして君と接点が持てて、私はとてもありがたく思っている。お礼の意味も込めて、これを機会に、私の厚意を君に受けてもらえたら、と思っているのだが」
「……コウイ、って…」
「君は、生体の錬成に興味があり、それを研究していると聞いた。ならば私に、君の研究を、できるだけ援助させてもらいたい」
ハクロの指を見つめていたエドワードの視線が、ふと上げられた。
「君の研究のために、できる限りの便宜を図りたい。要望があるなら、可能な限りかなえよう。私なら、大総統府にも顔がきく。今、君が居る環境よりも、ずっと君は研究に没頭できるようになると思うが、どうかね?」
そういうことか。
エドワードは、ようやく話の核心を理解した。
自分の所へ、転属せよ、と言っているのだ。この男は。
もっと正直に言うならば。
「マスタング大佐」から、「エドワード・エルリック」を取り上げたいのだろう。
軍の派閥の事情などエドワードは詳しく知らないが、ハクロとマスタングの仲が良くない事ぐらいは聞いている。出世のためならなりふり構わず、着実にその足場を固めているマスタングは、自らも地位を望むハクロにとって、大きな脅威だろう。
『鋼の錬金術師』を自分の駒にしてしまえれば、軍内や世間から注目されるし、その駒も好きなように使える。

───なんて、バカ正直なおっさんだ。

胸中でエドワードはひとりごちた。
ここまで出世欲をあらわにされると、いっそすがすがしい。
そしておそらく、ハクロはそれを自覚している。
こんな子供にまわりくどく言ってもわからないと諦めているのか。
それとも、綺麗事では世の中渡って行けないと、露悪的に諭しているのか。
どちらにせよ、これは、即答できる申し出ではない。
しかし。
エドワードの胸は、ちくりと痛んだ。

───即答……しなくていいのか?

心の奥の奥から、猛スピードで返って来た自問が、心臓を刺す。
これは、マスタングから逃れる、絶好のチャンスなのではないか?
同じ駒として扱われるのなら、より権力のある者についた方が、有利なのではないか?
ハクロになら、人体錬成をした過去を隠し通せるかもしれない。マスタングがそれを切り札にして、自分をハクロから取り戻そうとしても、権力の壁に守られていれば、逃げ切れるかもしれない。
ひどく見苦しい、打算だ。
エドワードの体内のどこかに収められている、プライドという名の感情が、エドワードの臓腑を、どこからともなく殴打した。
返答を求められた緊張と、自分に対する情けなさで、喉が熱い。
エドワードは痛みをこらえて唾を飲み、ゆっくりと口を開いた。
「将軍の気持ちは、嬉しいです。でも」
言葉を切ったエドワードの視線をすくい上げるように、ハクロはその顔を小さく傾けた。
「今、決められることではないです。…弟とも、相談したい…です」
ハクロは相好を崩した。
「そうか。…では、考えてくれる、ということかね?」
「………はい」
妙に喉が渇いてくるのを感じながら、エドワードは短く返答した。
「ありがとう。では、ゆっくり考えてくれたまえ。返事は、いつまででも待とう」
「……いつまででも、ですか?」
「もちろん私の本音としては、今すぐ君をニューオプティンに連れて帰りたいところだが。そんなことをすれば、私はあのマスタング大佐に焼き殺されてしまうだろうからね。君も私も軍の人間である以上、順序というものがある」
低くハクロは笑い声をもらしたが、エドワードはむろん笑えず、ぴくりと上体を震わせた。

───オレと大佐って、軍の中でそういうふうに見られてんのか?

賢者の石を挟んだ自分たちの「契約」を、知られているわけがないとは思うが。
鋼の錬金術師と、焔の錬金術師は、一蓮托生の関係だ、とでも認識されているのか?
だとしたら、なんて、おぞましい。
ハクロに反論しようとエドワードは声を上げかけたが、ハクロはさっさと手を上げてホテルのボーイを呼びつけ、ペンと、軍の紋章が箔押しされた便箋を持って来させた。
そのままひと呼吸も置かず、その便箋に、さらさらとペンを走らせる。
「こんな紙切れで、すまないが。私の住所と、電話番号だ。ニューオプティン支部の番号も書いておこう。気持ちが固まったら、ぜひ連絡してくれたまえ」
ハクロは、芝居がかった優雅な手つきで、テーブルに広げたままの便箋を、エドワードの方に向けて滑らせた。
「…固まらないかも、しれないですよ?」
便箋に手を出さず、エドワードは自分でも棒読みだと思いながらハクロに念を押した。
「それはそれで、構わないよ。非常に残念ではあるがね。つまらないことは、気にしなくていい。これから先、困ったことがあったら、いつでも私を頼って欲しい。そういう意味だ。これは」
便箋に添えられた指が、やっぱり白すぎると思いながら、エドワードは機械鎧をきしませて、ゆっくりとその紙の端をつまんだ。



夕食の時間に近くなったので、アルフォンスは作業を一段落させて、タッカー邸を出た。
もちろん食事を摂るためではない。夕食をニーナに誘われると、断るのが大変だからだ。
読みかかった分厚い本を数冊タッカーに借りて、アルフォンスは宿へと向かった。司令部から、もといマスタング大佐のところから、いつ宿に帰ってくるかわからないエドワードを待つのは気が重いが、これだけ本があれば、何時間かはそのことを考えなくてすむだろう。
タッカー邸を出た時はまだ明るかった空は、暮れるのが早かった。
アルフォンスが、見慣れたホテルの建物を遠目に確認する頃にはもう、辺りに薄く闇が落ちていた。
そのホテルの正面玄関に、黒い影を落として、車が一台止まっている。
開け放された玄関ドアからあふれた明かりが、車のそばに立つ二人の人物を照らし出しており、そのうちの一人は、アルフォンスが非常によく見知っている人物だった。

───兄さんと、……誰?

エドワードの傍らに立つもうひとりの人物は、軍人のようだが、遠いのと辺りが暗いのとで、アルフォンスには誰だかわからない。
髪の色からして、マスタングでないことだけは確かだ。
そのマスタングでない軍人は、「一方的に」、エドワードの腕を取り───アルフォンスには、確かにそう見えたのだ───強引に握手を交わすと、すいと車の中に消えた。
アルフォンスは駆け寄ろうとしたが、手に持っていた本が借り物であることに思い至り、慎重な動きで足を速めることしかできない。
小走りでホテルの玄関に着いた時には、車はもう発車してしまっていた。
「お、おう。アル。早かったな」
エドワードの顔には、「しまった」と書いてある。
「早いのは兄さんでしょ。兄さん、今の人、誰?」
離れていく車のエンジン音を聴覚に挟みながら、アルフォンスは尋ねた。
エドワードは、大げさに肩を落として見せた。
巨大なため息を、アルフォンスの横っ腹に吹き付け、くるりと背を向け、ホテルの玄関に踏み込んで行く。
「………ハクロ将軍だよ。来い。部屋で詳しく話す」



窓の外は、もう真っ暗だ。
エドワードもアルフォンスも、部屋のカーテンを閉めることを忘れていた。
「それで?兄さんは、なんて答えたの?」
「……考えとく、って返事しといた」
うつむきがちにベッドに腰掛けるエドワードを、同じくもうひとつのベッドに腰掛けて、アルフォンスは見つめた。
アルフォンスの意識に、思い出したくもない記憶が浮上して来る。
ついこの間の、図書館での。
抱き合っていた、マスタングとエドワードのシーンである。
エドワードが嫌々マスタングに従っているのではないかという疑念は、まだアルフォンスの中で消えてはいないが、あのシーンは少しインパクトがありすぎた。
衝撃が大きすぎて、今の今まで、アルフォンスはエドワードとマスタングの関係について、深く考えることを止めていたのだ。
だが。

───今、兄さんに、聞かないと。

もう、我慢できないのだ。
エドワードが、アルフォンスに対して感じていた閉塞感と同じものを、当然のことながら、アルフォンスもずっと感じていた。
エドワードが、本当は何を考えているのか。
もう、知らないで、いられない。
「考える……って、どうして?兄さんは、大佐と、離れたくないんじゃないの?」
この瞬間まで。
避けに避けてきた話題をつきつけられて、エドワードの身体に痺れが走った。
うつむいたまま噛みしめる唇も、急速に乾いていくような気がする。

───どう返答すれば、アルフォンスをこれ以上苦しめずにすむ?

錬金術について考える時とは全く別の部分の思考回路を、総動員して。
エドワードは乾いた唇をようやく開いた。
「それとこれとは、別だ。ハクロ将軍の下について、賢者の石を確実に探せる確率が上がるなら、その方がいい」
「僕たちが賢者の石を探してること、ハクロ将軍に言ったの?」
「いや。まだだ。おまえの身体のことや、人体錬成のことをこれ以上誰かに知られたくないし」
「でも…それを言わないと、賢者の石を探す協力も、してもらえないんじゃないの?」
「アル」
長い前髪の陰から、金の瞳がふい、とアルフォンスを見上げた。
「おまえ、オレがハクロ将軍の下につくのがイヤなのか?」
薄くいらだちを刷いた声に、かしん、と首を鳴らして、今度はアルフォンスがうつむいた。
「別に…イヤなんじゃなくて。ハクロ将軍は、マスタング大佐みたいに、賢者の石を探してる僕たちのことを大目に見てくれるのかどうか、って言ってるんだよ」
エドワードは、岩石でも飲んだように息を詰まらせた。
アルフォンスの言うことは、間違ってはいない。
ハクロがどれだけ自分たちに協力してくれるのか、また、軍内においてどのぐらいの力を持っているのか。未知数な部分は多すぎる。
だが、あまりにも。
あまりにも素直に、アルフォンスが、自分とマスタングの関係を納得して、それを継続させようとしている気がして。
今の時点ではどうにもならないこととはいえ、エドワードには、それが耐えられなかった。
思わず、とげとげしく笑んでしまう。
「おまえが、大佐のことそんなに好きだなんて、知らなかったぜ」
かし、と鎧の顔が、あわててエドワードを見た。
「そんなこと言ってるんじゃないってば!兄さんにちゃんと考えて欲しくて、僕は…」
「どうせオレは考えナシだよ」
「なにふてくされてるんだよ?じゃあ聞くけど、兄さんは、どうしてもハクロ将軍のところに行きたいの?」
「………………」
「そんなに大佐が嫌いなの?」
答えたくない、そして、それはどうしてもエドワードには答えられない質問だった。
だが、答えなければならない。

「……………嫌いだ…」

うめくような返答に、アルフォンスは瞬間、黙り込んだ。
だがすぐに気を取り直す。
「じゃあこの間、図書館で───」
「黙れ!!!」

部屋を震わす怒号と共に、エドワードが立ち上がった。

肩で息をしながら、ベッドに腰掛けたままのアルフォンスをにらみつける。
兄の怒号を、アルフォンスは聞き慣れてはいたが。
頬を紅潮させるのではなく、蒼白にして怒鳴るエドワードを見るのは、初めてかもしれない。
握りしめたエドワードの拳が震えているのを見て、アルフォンスは自分の失言を悟った。
「兄さ…」
「うるさい!!」
エドワードは、そのまま肩をいからせて部屋の戸口へ歩いて行く。
「兄さん、どこ行くの!?」
「おまえのいない所だ!!」
振り向きもせずに言い捨てた後、破裂しそうな音でドアが開き、そして閉まった。