焦げたダイヤモンド -6-



***

軍の尉官や佐官が軍の病院に入院するのならば、彼らの病室には少しでも静かで、便利で、居心地が良い部屋が用意されるべきであろう。
だが今回はそういうわけにはいかない。
彼らの病室のドアの前で直立して、ホークアイは警戒に当たっている。
病室前の廊下はひっきりなしに人が通り過ぎ、少しも静まらない。
そんな騒がしい、しかも個室ではなく大部屋を、マスタングとハボックのために用意したのは、彼らの居住性よりも、安全性を重視した結果だ。
病院の廊下の人通りが多ければ、刺客はこっそり忍び込みづらいだろうし、個室でなく大部屋ならば、刺客の標的も一ヶ所に集中し、護衛がしやすい。
廊下で直立して、ホークアイは先刻の上司の言葉をかみしめる。

───戦意喪失だと?ホークアイ中尉ともあろうものが、あきれるな。

とても静かな叱責だった。

───だが、私も。

一呼吸おいた後のマスタングの声は、とたんに芯が抜けていた。

───だが私も、一度は諦めた。

だから、他人を叱責できる立場ではないと、マスタングは言った。
何を諦めたのか、聞き返すことはできなかった。
自分の命を顧みず、アルフォンスを助けたあの時に、さすがのマスタングも死を意識したということだろうか。

───引き続き、私の背中を任せる。

許されたのが、不思議だ。
アルフォンスの命か、マスタングの命か、究極の選択であったあの瞬間も、マスタングは鮮やかに飛び越えてしまった。
あの時マスタングが本当に死んでいたなら、ホークアイのすべても終わるはずだった。
そして、九死に一生を得たマスタングが快復しても、あの時すべてを投げ出してしまったホークアイに、軍人としての人生は残されていないはずだった。
一時とはいえ、自分から、軍人であることを諦めてしまったのだ。
いや、軍人どころか、人生そのものさえも。
マスタングの存在が、自分の精神の基盤であることは充分に自覚していたが、その基盤が磐石(ばんじゃく)であればあるほど、基盤を失った時のダメージは計り知れない。
そんな簡単な論理を、実際に鼻先に突きつけられるまで実感できなかった自分の甘さに、今頃になって身震いが出る。
自然に下がってしまう視線を、ホークアイは無理やり引き上げる。
護衛しながらうつむく軍人など、みっともなさすぎる。
諸々の事情でこの病室の前は人通りが多いが、たとえ誰も見ていなくても、ホークアイはうつむく自分が許せない。
マスタングの存在しない人生など、無に等しい。
だがこれから先、その「無の人生」を生きることを恐れてはならないのだ。
自分にそんなことができるだろうか。
マスタングが生還したという深い安堵にぴったりと寄り添ってくる、その喪失への恐怖を、ホークアイは未だに心中で整理しきれずにいる。
かつて戦場に否応なく放り込まれ、殺人というやり方で、他人の人生をいくつも奪い、すっかり人間らしい幸福を諦めたつもりであったのに、こんなところで、おののき震えている。

───でも、必ず、受け入れてみせる。

この罪深い自分の命を生かしきるために。
他でもないマスタングが「生きろ」と命じてくれたのだから。
行く先が無であろうと、修羅であろうと、生きる。
生きてみせる。
額に集まってくる重い疲労感を払い落とすように、ホークアイは直立して、まっすぐに頭を上げ続ける。
ここは、軍の病院だ。
敵が軍の上層部と繋がっている以上、ここで完璧な安全など到底望めない。
刺客が医者や看護師に化けていれば、ベッドに釘付けられているマスタングとハボックの息の根を止めることなど、実にわけもないだろう。
ふさがりきらない傷の痛みに顔をしかめながら、マスタングはそれらの刺客が押しかけてこない不思議を指摘し続けたが、こうまで静かな日々が続くと、敵はこちらの口封じではなく、もっと別の意図をもってこの状況を静観しているような気がする。
それでも、ひたすらに、気は抜けないのだ。
そして、気は抜けなくとも、疲労感に苛まれようとも、ホークアイにとってこの状況は、どこかしら幸福でさえあった。
マスタングの意識が戻るまで、いや、ついさっき叱責され許されるまで諦めていた、「マスタングの副官」という業務に、やっと戻れるのだ。
こんなに日常が壮絶でも、危機的でも、この背後のドアの奥で、確かにマスタングは生きている。
胸に迫るきらびやかな苦しさを耐えていると、ざわめく廊下の彼方から、聞き慣れた足音が二つ、近づいてきた。

───私にはもうひとり、許しを乞わねばならない人がいる。

きらびやかな苦しみを胸に深く落とし込んで、ホークアイは足音の主たちに視線を向けた。
「ほら。ここだよ兄さん。中尉、こんにちは」
「………ちわー………」
「……兄さんたら。挨拶ぐらいちゃんとしなよ」
苦虫が口の中を全力疾走でもしていったかのような、不機嫌というには気合が足りない、世にも複雑な顔をしたエドワードを連れて、ガシャガシャと神妙にアルフォンスが歩いてくる。
「あの、お見舞いに来たんです。大佐と少尉、同じ部屋なんですか?」
この大きな鎧の主である少年に許しを乞う前に、ホークアイはマスタングから託された業務を果たさねばならない。
「ええ、そうなんだけど。でもごめんなさいね、エドワード君は遠慮してくれる?」
「え?」
かちりと首をかしげたアルフォンスの斜め下方で、エドワードの複雑な顔がさらに悪い意味で複雑になる。
「大佐の命令なのよ。エドワード君を、このドアから病室に入れてはいけないと言われているわ」
「それって……どーゆー理由で?」
地獄の低音で質問するエドワードの目が、不敵に光る。
「私にもわからない。それしか、言えないわ」
可能な限りニュートラルな表情を心がけて、ホークアイは返答する。
こんな子供じみたわがままのような命令を、遵守する方がどうかしている、とは思う。
これはあの、サボタージュの延長だ。
この期に及んでマスタングは、逃げたがっているのだ。
あんなにもエドワードに執着していたかと思えば、この意味不明な権力の行使である。
ロス少尉救出劇において、エドワードを欺いたことを彼は未だ気にかけているのか。
アルフォンスを救ったことで、エドワードに気を遣われるのを嫌っているのか。
しかしどちらも結局は、エドワードのためになったことではないか?
いつものように嫌味たらしく恩に着せてでもやればいいものを、逃げ回る必要性がどこにあるのだろう。
安堵と疲労と業務の増加で、頭も身体もいっぱいいっぱいのホークアイには、マスタングをたしなめることも、彼の心理を深く推理することも今のところ不可能だった。
もっとも、あの上官の「命令」なぞ、この目前のエドワードにかかっては、鼻水を拭うチリ紙以下の価値でしかない。
あの上官の「命令」は、無駄で、意味が無くて、遠回りなのだ。
だから、ホークアイはこの目前の愛しいエルリック兄弟に、優しく追い討ちをかけてやる。
「さあ、アルフォンス君は中に入って。エドワード君は…悪いんだけど、『ドアからだけは』、絶対に入らないでくれる?」



ドアを閉めた後の第一声は、なぜか難なく言えた。
「お見舞いに来ました」
入り口そばのベッドの上で、上半身を起こして報告書らしいものを広げていたマスタングの目が、ゆるりと上げられる。
「よおー、アルフォンス。直ってよかったなぁー、鎧」
上官より先に返答してくれたのはハボックだ。
窓際のベッドから、仰臥したまま片手を挙げている。
アルフォンスは、見えない喉から深く深く息を吐いた。
やっとマスタングと、話の続きができる。
見舞いと称してここに来るまで、平然とした顔を装いつつ、どうやってエドワードを病室から追い出そうか、そればかり考えていた。
エドワードがいるところで、例の話の続き───マスタングの感情だの気持ちだの、会いたい会わせたくないだのという生臭い話───ができるはずもないからだ。
それが、どういう気まぐれを起こしたものか、当のマスタングがエドワードに会いたくないというのだから、不可解である。しかも、兄弟仲良くまとめてシャットアウトされるならまだしも、アルフォンスには会ってもいいという意思表示だ。
それとも、こうなることを見越して、マスタングは今度こそアルフォンスと真っ向から対決しようとしてくれているのか。おまえの命を救ってやったのだぞ、と、大きすぎてとても返せない恩を着せるために。
いや、それは最初から予想済みだ。
アルフォンスはマスタングの頬に張られた、白い絆創膏を見つめる。
その白が彼の顔色の悪さを引き立たせ、素人目にもケガが軽くなかったことがうかがえる。
だが、どれだけ重傷だろうと、どれだけ恩に着せられようと、動じない覚悟を決めてここに来たのだから、やはりここは、エドワード抜きで話し合える環境を作ってもらったことを、形だけでも感謝すべきなのだろう。
「ハボック」
「はい?」
直立するアルフォンスをよそに、もう一度視線を膝上の書類に落としながら、マスタングはつぶやいた。
「ハボック。おまえには今から眠ってもらう」
「へ?何言ってんスか?お客の前で」
「上官命令だ。おまえは今から眠れ。視覚も聴覚も、今から十五分間、なかったことにしてもらう」
「あのー、ホントに話が見えないんスけど…」
マスタングはいらだたしげに、もうあまり見てもいない書類をばさばさと繰る。
「だから。目を開けて寝ていていい。今からの私と彼の会話を、一切聞かなかったことにしろと言ってるんだ」
相変わらず仰臥したまま、ハボックは隣のベッドの上官をまじまじと見つめた。
嫌そうに、やっとのことでこちらに視線を合わせてきた上官の顔には、眉間のしわと、「バツが悪い」という言葉が深々と刻まれている。
「………おまえは。命の恩人の命令がきけんのか?」
そのとんでもなくかわいらしく卑怯な言いがかりに、ハボックはやっと状況を理解した。
「いいっスけど、高くつきますよ」
「貴様。上官をゆする気か」
「とんでもないっス」
「で。何が望みだ」
「タバコ」
「なんだと?」
「タバコっス。どーしても吸いたいんっス。一日一本でいいんスよ。だから、大佐の魅力でなんとか、あのコワーイ看護師長さんに頼んでみてもらえませんかね」
「あのな。私にも、できることとできないことがあるんだ」
「またまたァ。ほら、アルフォンスが話せなくて困ってますよ大佐」
「………………わかった。善処する」
ハボックが水を向けてくれても、アルフォンスは数瞬、言葉を失ったまま立っていた。
有能にして冷酷無比、他人の感情も世間のモラルも無視して生きているマスタングは、エドワード以外の人間にはこんなにも常識的(?)な態度で接している。そのことはずっと前から知ってはいたし、それは彼のおぞましい本性を隠す完璧な偽装なのだと思っていた。
だが。
この病室という場所のせいか、マスタングのさえない顔色と絆創膏のせいか、この病室にいる全員が死地をくぐり抜けてしまったという劇的にして幸運な体験を共有してしまったせいか、マスタングはこのめったにない風景の中に、何の違和感もなく、はまり込んでいる。はまり込んでいるように、アルフォンスには見える。
この穏やかなマスタングに、そして口調はどうあれハボックに慕われているマスタングにだまされてはいけないと心で叫ぶ声が、アルフォンスの中で加速度的に小さくなっていってしまう。
それでも、マスタングはエドワードにとっての害悪だ。
マスタングに命を救ってもらったことと、彼への憎悪は、別物として考えなければならない。
この数日、可能な限りの理性を総動員して考え続けたことを、この場所でマスタングにぶちまけるためにここまで来たのだ。
「具合はどうかね」
目前の尊大なケガ人は、見舞われているはずなのに開口一番、おかしなセリフを吐いた。
沈黙をかばってもらったようで、ますますアルフォンスは落ち着かない。
「大丈夫です」
兄さんにちゃんと錬成し直してもらいましたから、とは言わずにおいた。なぜか、その言葉はそぐわないような気がした。
いや、そんなことより。
かばわれている場合ではない。
まず、この身体では吐けるはずもないヘドを吐きたくなるようなあの言葉を、人間として、この男に言わなくてはならない。
「大佐。……助けてくださって、ありが」
「すまなかった」
意識の底からのたうち回るようにして言いかけた言葉を真正面からさえぎられ、アルフォンスの思考は真っ白になる。
この男は今なんと言った?
憎いという言葉でも到底足りないこの、人の形はしていても人の心がすっぽり抜け落ちたようなこの男は、今、なんと言ったのか。
「私の指示がまずかったせいで、君を危険にさらした。謝罪させて欲しい」
流れてくる言葉の意味はわかるが、その意味が心にまでしみ込んでこない。
マスタングの口調が冷酷なのではない。ただ、言葉があまりにも唐突で、アルフォンスの心は、彼のそんな言葉を受け入れる体勢を整えていなかったのだ。
「…それは、僕が決めて、大佐についていった、ことですから。だから、」
声がうまく出ない。
「それでも、私が作戦をああいうふうに先導しなければ、君は危険にさらされずにすんだ」
アルフォンスのとぎれとぎれの答えを、マスタングはまた迷いなくさえぎる。
「私に礼などは要らない。君も知っている通り、私は打算でしか動かない人間だ。君のために君を助けたのではない。君が死ぬと、鋼のが悲しむ。私は鋼のの気を惹くために、君の命を利用したにすぎない」
耳触りの悪い言葉は、ごとごととアルフォンスの聴覚を不快に揺らす。
「だから私のしたことに、君が縛られる必要はない。君はこれまで通り、私を憎んでいればいい」
言葉は、やはり心にしみ込んでこない。
心にしみ込んでこないから耳触りが悪いのか、耳触りが悪いから心にしみ込んでこないのか。
あふれる違和感に、アルフォンスはまた黙る。
マスタングを、憎み続けること。
確かにそれを決心してはきたが、それをここまで当の本人に先回りされ決めつけられては、おさまるものもおさまらない。
「………何がどう、打算なんですか」
違和感をやっと言葉にして、アルフォンスはマスタングをねめつけた。
いぶかしげに視線を上げてくるマスタングを、さらに言葉で刺す。
「兄さんに聞きました。僕のために、大佐は錬成陣を書いてくれたんですよね。そのせいで出血がひどくなって、もう少しで死ぬところだったんでしょう?あなたは、打算のために死んでもよかったんですか?自分の命を引き換えにすることを、打算って言えるんですか?」
「打算だよ」
即答するマスタングの目は、面倒そうに細められている。
「それ以外に何か言葉があるのか?」
関わるな、無駄な情などいらないと、黒い瞳が鈍く光っている。
マスタングに関わらないこと、心を向けないこと、それはずっと、アルフォンスも望んできたことだったのに、それを受け入れてはならないと、アルフォンスの深層意識が悲鳴を上げている。
自分の命を、粗末に扱う悪党。
そんな悪党が、存在するのだろうか?
悪党というものは、もっと意地汚くて、利己的で、どんなことがあっても自分の命だけは守り通すものではなかったのか。
憎むべき悪党のマスタングは、他人に冷酷であったが、その冷酷さは、実は彼自身にまで向けられていたのだ。
それはもう、悪党ではない。
アルフォンスのこれまでの知識の中に、そんな悪党は存在しない。
すでにそれはもう、生きる意志のない、亡霊ではないのか?
マスタングは、そんな亡霊のような男だったのか?
身に覚えのあるいらだちが、猛スピードで鋼鉄の体の中を這い登ってくる。
アルフォンスは肩を震わせた。

───同じだ。

あの時とは全く違う、似ても似つかない状況なのに、這い登ってくるこのいらだちは、あの時とそっくり同じ。
機械鎧が粉々に飛び散り、飛び散った破片の中で、濡れた石畳に膝をついて、逃げもせず、命乞いもせず、ただ黙ってスカーに殺されようとした、あの時の…

既視感におののくアルフォンスの思考は、乱暴なガラス窓の開閉音で粉々に砕かれた。
「ご挨拶だよなぁ。…締め出しくらわすってなぁ」
「おわ!?大将びっくりさせんなよっ!!」
目を開けて眠っていたはずのハボックが悲鳴を上げる至近距離で、病室の窓枠に足をかけたエドワードが、ぬうと首を伸ばしている。
「兄さん、ここ三階だよ!?危ないから早く入って!」
おおかた中庭の土を柱のように錬成して、この病室の窓の高さに合わせたのだろう。少しでも足を滑らせれば一大事だ。
窓枠にかけていた足を勢い良く振り下ろし、エドワードは窓際の壁と、ハボックが寝ているベッドに挟まれたわずかな空間に、身体をねじ込んだ。
背後の窓も閉めずに、不機嫌を静かに炸裂させた顔が、傍のハボックを飛び越えてマスタングに向けられる。
すっぱり存在を無視され続けているハボックも、エドワードの冷ややかな剣幕に気圧(けお)され、ふてくされることも忘れて、ぽかんと口を開けたままだ。
「命令違反だ。すぐに出て行け。鋼の」
冷え切る空気もものともせずに、マスタングが命じる。
「ああ、『ドアから』病室に入るなって言われたんでね。窓から入らせてもらっただけだぜ?」
エドワードの剣幕は、本当に静かで、冷たい。
開けっ放しの窓から、実質的な冷気が風と共に吹き込んできて、マスタングの前髪を、生え際までふわりと揺すり上げた。



静かに身体を休めたいと思っていたのに、このていたらくだ。
マスタングは、手元の報告書の束を、軽く握りしめる。
角が揃えきれないその紙束の端が、風に吹かれて瀕死のようにはためいた。
エドワードがホークアイの制止を故意に曲解したのか、ホークアイが命令を遵守する強固な意志を持ちきれなかったのか。
どちらにせよ、逃れることなどできはしないのだ。

───あの時逝ってしまっていたら、こんな顔も、見られなかった。

真正面からエドワードの顔を見るのは、何日ぶりだろう。
失血して朦朧としていたあの時に聞こえた声は、幻聴だと思っていた。
冷たい風を背負って立つ、エドワードの編み損ねた後れ毛までが、こちらに向かってなびいている。
遺体ばかりを見慣れたマスタングにはよくわかる。可視光に輝く後れ毛のその毛先が、生命力に支配されたその一筋の物体が、どれだけ美しいかということが。

───どうしていつも、こうやって彼を怒らせることしかできないのだろう。

後悔ではないその気持ちは、いつも不埒に心地よい。
今回は、エドワードだけでなくアルフォンスも一緒に怒らせてしまったわけだが。
怒りであれ憎しみであれ、エドワードはこちらを向いて、気持ちをこちらへ向けて、こちらへ声を発してくれる。エドワードの感情を無視したこの心地よさを、懲りもせずこうやって貪欲に味わう自分は、本当に、生きるに値する人間なのだろうか。
死の淵から戻ってきたことを後悔してはいないが、生きるための試練は、子供の頃からいつの時も、気楽なものではない。
それでも、ずっと後回しにしていた課題は、始めてみれば意外にあっさりと終わるものだ。
いや、学生の頃は、後回しにするという発想そのものが悔しくて、最初に取りかかったものの集中力が続かず、「取りかかってある」という事実に消極的にあぐらをかいて、結局は、普段から課題を溜めまくる問題児・ヒューズと共に、不本意ながらのラストスパートを走ったのではなかったか。
間抜けで胸苦しい記憶は吹き込む風に蹴散らされ、マスタングはすぐに我に返る。
「…屁理屈もほどほどにしておくんだな。出て行け」
「ごちゃごちゃうるせーんだよ。あんたには言いたいことが山ほど」
手早いノックの音がする。
天使の助け舟であろうか。
マスタングは往生際悪く心を緩めて、病室の入り口を振り返る。
険しく、けれど懐かしい声ですごむエドワードの剣幕は、せわしなくドアを開けてなだれ込んできた看護師の群れに、あっという間に圧倒された。
「失礼しますハボックさん」
「具合どうですか」
「申し訳ありませんがまた検査お願いします」
「失礼します」
「失礼します」
総勢五人の看護師は、男性が三人、女性が二人。
ガラガラとストレッチャーを狭い部屋に押し込んで、手際よくハボックのベッドを包囲する。
「はいはいちょっとそこの君、どいててくれるかな?」
中の一人が、完全に子供扱いの口調で、視線も定まらず棒立ちのエドワードを、ひょいと押しのける。
不要な家具のように部屋の隅に片付けられたエドワードの目はさらに怒りで燃え上がったが、看護師たちは目の前の業務にかかりきりで、脇に片付けた小さな子供の機嫌をとることなど、全く忘れ果てている。
何度か同じような目に遭っているのだろう、ハボックはあわてもせず、補習授業を抜け出して捕まった学生のように、虚ろな目で観念している。
「あー、わかりました。……大佐スンマセン、じゃ、ちょうどいいから行って来るっス」
どう相槌を打っていいものか間合いを計りかね、軽くうなずくことしかできないマスタングの隣りで、看護師の群れはハボックを抱え上げ押し上げ、互いに合図を交わしながら、大の男を寝たままストレッチャーへ移動させるという大事業をさらりとやってのけた。
そして、今にも動き出さんとしたストレッチャーの上で、されるがままだったハボックは、ようやく首を少し持ち上げた。
「アルフォンスー、話の途中で悪いけど、検査室まで護衛してくんないかなぁ?ここの部屋は中尉に任せとくからさ。お駄賃は大佐がまたたっぷりくれるってさ」
「貴様、また勝手なことを…」
「さ。行こーぜアルフォンス。俺、目ぇ開けたまま寝るの得意じゃねぇんだよ」
とっさに反論できず、マスタングは黙り込む。
こうなってはアルフォンスも、ハボックの意図を酌まないわけにはいかない。
低い音でその車輪が回転し、ストレッチャーごと部屋を出る直前に、気のいいマスタングの部下は、その場の誰もが聞いたことのない声音で、ふいにぽつりともらした。
「……ひとつ聞きたいんスけど大佐ぁ」
ストレッチャーを引いていた看護師も、アルフォンスも、あわてて立ち止まる。
「…なんだ。まだ何か用か?」
うるさげに聞き返す上司の声は、心なしか弱々しい。
「俺、助けてくれたのも打算ですか?」
喉にくさびでも打たれたかのように、マスタングは声を失う。
首だけ曲げてこちらを見ているハボックの目には、非難でも失望でもない、別の何かが宿っている。
打てば響く利発さはないが、その分ハボックは、実に素直な男だ。
悲しい時はなりふりかまわず悲しみ、嬉しい時は嬉しさを周囲にも惜しみなくふりまくその素直な男が、薄い虚無のようなものをその目ににじませて、こちらを見ている。
ストレッチャーを引く看護師がほんの数秒、退出を待ってくれても、マスタングがその場で失った声は、ついに戻らなかった。
諦めたように天井に向き直るハボックを、無感情なストレッチャーは、静かに連れ去る。
アルフォンスの足音と合わせて、廊下の彼方へ遠ざかる彼らの気配を、マスタングの聴覚はいつまでも追った。