焦げたダイヤモンド -7-



「………打算って、なんだ」
看護師の群れによって病室の壁際に片付けられたエドワードは、片付けられついでに横柄にそこにもたれかかり、腕を組み、痛い静寂を破ってくる。
マスタングは、手に握り続けている紙束の角を、膝上で雑に揃えることしかできない。
「窓の外で、聞いていなかったのか」
「誰がそんなシュミ悪いマネすっかよ。アルの『自分の命を引き換えにすんのが打算』、までは聞こえたけど?」
「充分聞こえているじゃないか。その通りのことを、君の弟に説明しただけだ」

───私は動揺している。

エドワードを、追い出すこともできないほどに。
その自覚は、マスタングをいっそう饒舌にした。
何かしゃべっていないと、きっと、さっきのハボックの目に捕らわれたまま、精神的にも肉体的にも身動きが取れなくなってしまう。
「…そんな顔するぐらいなら、最初から打算なんて言わなきゃいいだろ。とっとと少尉に謝ってくれば?」
「窓を閉めろ。書類が飛ぶ」
誰かに悟られてはならない感情を抱いている時、マスタングはことさら無表情になる。これまでもさんざん生意気だの、鉄面皮だのとそしられて来たが、痛くもかゆくもなかった。
感情を隠すことが常態であれば、それは「隠していること」ではなく「存在しないこと」に変化(へんげ)してゆく。
そうやって「ないこと」にしてきたマスタングの感情の廃墟を、このエドワードは、これでもかと掘り返し、ぶちまけ、突きつけてくる。
だから、苦しい。
このエドワードの前では、気持ちを隠すことが苦しい。掘り返された感情を突きつけられることが、マスタングにとってひどい恥辱であることも含めて苦しい。
そして、困ったことにその苦しみは、どこか甘い。
口にしたことのない砂糖菓子でも、目の前で誰かがそれをかじっていれば、香りだけが甘く漏れてくるように。
マスタングが味わったことのない、愛情やら素直さやらの香りを、無遠慮に噛み砕いてふりまくエドワードは、マスタングにとって、最も魅惑的で、最も遠ざけてしまいたい存在なのだ。
今さらわかりすぎているそのことを振り切るために、マスタングはここまで、どれだけもがいてきたことだろう。
開けた時と同じような乱暴さ加減で、エドワードが窓を閉める。窓ガラスが割れないのが不思議なくらいだ。閉めてまた、その窓にもたれ、もう一度腕を組む。
マスタングは報告書の束を、ベッドサイドのテーブルにようやく置いた。
窓越しに青空を背負ったエドワードは、逆光でかげらせた暗い瞳をそのままに、まっすぐに咆えかかってくる。
「あんたが打算ずくなのは、よーっく、知ってるよ」
エドワードに視線を合わせるのが、あまりにもまぶしい。
鉱物のように青く硬い空までが、自分を責めているようだとマスタングは思う。
「で?あんたは、自分の命を引き換えにして、その打算で何が欲しかったわけ?」
「答えないといけないのか?」
「ああ」
「君はもう知っているはずだ。私が答えれば、君はまた困る」
「もうさんざん困らされてる。今さらだ」

───鋼の。君は、

「だから、これ以上私は君を困らせたくない」
「ウソだ。あんたは、あんたが困りたくないだけだろ?」

───君は、この堂々巡りを、飽きもせず繰り返して何がしたいんだ。

「違う」
「なら言えよ」
「嫌だ」

───君は、何もかも終わらせたいんじゃなかったのか?

押し問答の後の短い沈黙を両手でかきわけるように、エドワードは腕組みを振りほどき、靴を鳴らして一歩を踏み出した。



───いっつも、同じだ。

怒りの果てに来るのは、脱力。
状況も口調も、荒れ狂う感情の具合も、その時々で全く違うのに、たったひとつの答えの手前でいつも、この男と自分は立ち止まっている。
もたれていた窓から反動をつけて身体を起こし、床を踏み鳴らして、エドワードはマスタングのベッドへ向かって歩く。
この感情の行き先を、自分以外の人間にゆだねてはならない。
答えを出しても、出さなくても終わらないのなら、せめて、自分で結末に近づきたい。
ずかずかと歩いた後、エドワードはマスタングの鼻先で停止した。膝に、彼のベッドシーツが触れるほどの、問答無用のゼロ距離だ。
ゼロ距離に硬直している(ように見える)マスタングを刺すように見下ろして、エドワードは片膝をベッドにねじ込み、彼の胸倉をつかみ上げる。
マスタングの顔色は、ただ白い。
ついこの間、ニューオプティンの教会で喉を締め上げた時よりも、まだずっと血色が悪い。
彼の頬に貼られた絆創膏の白が、頬の白さに溶けそうだ。
その血色の悪さに、ただ腹が立つ。
「さあ言え。大佐」
エドワードは、マスタングの白い院内着の襟を、さらに握り潰した。
「…言うまで、オレは離さねぇ」
頬の白とは全く対照の、マスタングの瞳の黒の中に、自分の顔が濡れて幽鬼のように浮かんでいるのを見つめて、エドワードは震える。
黒という色は不思議だ。
侵入を頑なに拒否しているような、それでいてどこまでもその闇をくぐって来いと誘われているような、強情で不安定な色だ。
「結局、あんたもオレも、困るんだ」
こんな生気のない顔を、こんな近くで見たくない。
笑顔を見せろなんてバカは言わない。
不愉快極まる自信にあふれた、見慣れたあの顔でいい。
「なら。言えよ大佐」
答えはない。
拒絶を示す沈黙が、エドワードの目にも、喉にも、意識にも、魂にまでも襲いかかってくる。

───わかってる。

どうしても返答を聞きたいのなら殺せと、マスタングはその沈黙で答えている。
どれだけ対話を繰り返しても、この男の結論は、いつもそれしかない。
刃物を振り上げて脅しても、微動だにしない。
いや、戦場の地獄を見て来た男には、刃物など玩具でしかないのかもしれないが。
その焔の錬金術で破壊できないものなどなかっただろうに、この男は、自分の心のあり方を破壊することができない。
責めたいんじゃない。
脅したいんじゃない。

ただオレは、あんたを知りたい。それだけ。

身体の奥深くから噴き出した震えは、終着点のエドワードの指先で溜まり、そこに捕まえられているマスタングの襟元までを小さく、だがはっきりと震わせた。

───オレは、なんで震えてる?

硬い鋼の表面に砂を散らすような、かすかな金属音が聞こえる。
襟をつかんでいる方とは反対の、機械鎧までが震えている。
このわななきを、マスタングに感づかれたくないというプライドは、もはや間に合わない。
そんなプライドをいつまでも持っていても、エドワードの行く先には邪魔なだけだ。
かたかたと小刻みに、支点の定まらない指をやっとのことで緩め、くしゃくしゃに潰したマスタングの服の襟を、エドワードは手のひらで、彼の喉元に押しつける。
冷たいマスタングの肌の下で、彼の首を支える筋肉が、ぴくりと跳ねた。
触れられるのではなく、触れる。
慣れているようでいて、初めてのその感触に、エドワードの震えは止まらない。
震えながらも、強く指先を押しつけると、冷たい肌の下から、マスタングの喉の脈動が、薄い熱と共に跳ね返ってくる。

───生きている。

床を踏む靴がびっしょり濡れる血の海の中で、どれだけ呼んでも目を開けなかったマスタングは、こうして戻って来て、生きている。
あの時とっさにマスタングの脇腹に押しつけた、エドワードの赤い上着は、みるみるうちに別の赤に染まったのだ。
赤と赤が重なり、それが黒くなり、上着が重たく湿ってゆくあの絶望感を、エドワードは忘れることができない。
けれども、そんなことまでもバカのように、説明しなければならないのだろうか。この男には?

───人の心も、分解できればいいのに。

整然たる理論にのっとった錬金術のように、この男の心を破壊して、分解して、全く別の新しいものに再構築できればいいのに。
オレは何もできない。
またもうひとつの絶望感が、エドワードの胸を塞ぐ。
「あんたが、どうしても…言いたくないなら、もう、い、い」
声までが震える。
魂を抜かれたかのように、マスタングは動かない。その目も、エドワードから逸らさない。
「オレは、オレの、好きなように、勝手にあんたの打算を解釈する」
オレは、オレの結末へ、オレを連れて行くだけだ。
終わらなければ、それでいい。
どうせいつかは死ぬのだ。
その時まで、この気持ちが終わらないのなら、それでいいのだから。
マスタングの喉に留めていた手のひらを、エドワードはゆっくり滑らせる。
硬い顎の骨を肌一枚の上からなぞり、やっと中指の腹を、マスタングの頬の絆創膏に到着させた。
震えが止まらない。
あれほどエドワードを、奈落にも届く嫌悪へ突き落とした、「触れる」という行為で、その同じ行為で、全く別の感情を、エドワードはマスタングに刻印しようとしている。
それでも、触れることしか思いつかないというのは、何かの罰か。
それとも、人間というのは、どうしてもそういうふうにできている、単純で不可解な生き物なのか。
身体の震えがマスタングの傷を圧迫しないように、その震えを寸止めで預けるように、エドワードは絆創膏へと口づける。

唇で触れた白いそれに、温度はなかった。

互いのまつ毛が触れそうな距離で視線がぶつかり、マスタングの瞳孔がわずかに開いた。
その瞳の黒の中へ、エドワードは視線をねじ込む。
この震えを耐えるには、それしかない。
世界が反転するような、しかし短いその時間は、固唾(かたず)を一度、こくりと飲めるほどの猶予だったと思う。
「あんな打算、二度とするな」
消毒薬くさい絆創膏から数ミリの距離で、エドワードは唇を動かした。動かせるのが、不思議だった。
口づける代わりに降ろした両腕は、それぞれシーツの上から、ベッドに座りきりのマスタングの膝やら手首やらを捕まえている。
正確に言うと、マスタングの膝やら手首やらを捕まえて、エドワードはやっと自分の身体を支えている。
マスタングは動かない。
息すら止まってしまったように見える。
それでも、乾燥に白く縁取られた唇が、ようやくかすれた声を漏らした。
「意味が、わからない」
この男は、時々こんなふうに、とんでもなく頭が悪い。
喉につかえるいらだちを、エドワードは耐える。
「君は、弟が助かって嬉しくないのか?」
かみ合わない。
壊せない。
この絶望は、本当に根深い。
エドワードは、その視線でえぐり出さんばかりに見つめていたマスタングの瞳から、ずいと身体を離した。
相手との距離が近すぎると、自分の声が微妙に顔面に跳ね返ってきて、怒鳴りづらい。
普段はせき止められるいらだちも、こう身体が震えては容易に決壊してしまう。
「自分の腹かっ切って錬成陣書くようなマネ、二度とすんなって言ってんだっ!」
怒鳴っても、爽快感は訪れない。
「だから。君は、弟を死なせたくなかっただろう?」
「今はアルじゃなくて、あんたのことを言ってんだ!」
「………」
「オレは、オレはただあんたに」
「……私に?」
エドワードは息を飲む。

───オレはたいがい鈍感な人間だけど。

からかわれているか、そうでないかぐらいのことは、相手の顔を見ていればわかる。
言葉尻だけをとらえれば、まったくこちらをバカにしているかのようなマスタングの応答だが、マスタングは至極、真面目だ。

───言わなきゃなんないのは、オレ。

真にあきれられても、それを恥とはもう思わないと、あんなにも、決めたのだから。
それにもう、世界は反転してしまった。
「オレは、」
だから何が起ころうと、最初から取り返しはつかない。
「あんたに、」
だから、言え。
「あんたに、死んで欲しく…なかったから」
言い終えて、未だわななく唇を、エドワードは噛んだ。
マスタングが、もう一度目を見開いた。



何が起こっているのかわからない。
あまりに唐突な出来事は、全身の神経信号を、望みもしないのに遮断する。
マスタングは、考えることも、動くこともできないでいた。
何も破壊的なことは起こっていないのに、この根拠のない危機感は何なのか。
今自分の身に起きた、この事実が幻覚だった時の落胆が怖いのか。
それとも欲望が高じて、とうとう幻覚でも見ているのか。
この病院に担ぎ込まれてから目覚めるまで、夢すら見なかったというのに。
自分が欲望に抗えない、弱い人間であることを、嫌というほど自覚しているつもりのマスタングだが、こんな幻覚を見ているようでは、本当にどうしようもない。
自分の弱さをこんなにも見つめるのは、恥というよりは、憤激に近い。

───まだ自分を怒る力が、あったのか。

マスタングは瞬間に憤激し、そしてあきれた。
ようやく巡り始めた思考回路は、脳内で焼けつき、使用不能に近い。
ここが戦場なら、自分はとうに死んでいる。
それでも、たった今エドワードが起こした行動よりも、マスタングにとっては、「死」という現象の方がよほど真実味がある。
軍人という職業を選んでからというもの、表面上は平和な任務をこなし続けていても、死という現象はマスタングの精神のそばに恒常的に存在しているからだ。
「君の言っていることは」
おかしい。
その一言をどうしても口に出せずに、マスタングは呼吸を止める。
ほとんど使い物にならない思考回路は、黒い煤(すす)にあぶられた輝石の断末魔のように、闇と閃光の間でショートし続ける。
殺されるかと思うほどに接近していたエドワードは、こちらに乗り出していた身体をいつの間にか引き、膝とベッドの縁が触れる距離で、壁のように立っている。
いつも見下ろしている小さな身体が、恐ろしい威圧感で立っている。
ついさっき、彼につかまれた手首が、シーツの下でじんわりと痛む。
酸素が足りない。
息が苦しい。
苦しいのは、実は、呼吸でなく。
「君の、言っていることは、おかしい」
閃光に切り刻まれ、ずたずたにされた思考は、何度繰り返しても果てしのない愚かさで、マスタングの唇を作動させ、果てしのない愚考を吐き出させた。
「では君は、私の命か弟の命か選択を迫られた時、弟よりも私を取るというのか?」
間髪入れず、こちらの鼓膜が痛むほどの怒号が降ってくる。
「イヤなこと訊くな!そんなもん、選べねぇから、もう二度とすんなって言ってんだっ!!」
後ろで編んだ髪の先までをさくりと揺らして、エドワードの肩が上下している。
こちらとは全く違う理由で、彼も息が苦しいらしい。
ますます、わからない。
選べない、とは。
エドワードは、本当に何を言っているのか。
停止した思考に反して、マスタングの唇は、愚考を吐き続ける。
「選べない…?それは嘘だ。君こそ、嘘をついている」
言ったとたんに、鋼の腕がつかみかかってきた。
再度襟元を締め上げられ、いっそうの酸素不足に視界が歪む。
呼吸しようという本能の筋肉動作は、マスタングの脇腹の傷をも締め上げた。
痛みを耐えようと反射的に目をすがめると、襟をそのままぐいと引き上げられる。

───殴られる。

諦観いっぱいに覚悟を決めたマスタングの口元に、殴打は降ってこなかった。
代わりに降ってきたのは。
固くて柔らかい、唇。
粘膜がひきつれるほどに唇を噛まれて、脇腹の苦痛とは違う繊細な痛みが、マスタングの歯茎という歯茎に響き渡った。
痛みと一緒に、それこそ閃光のような色のエドワードの前髪が目に刺さり、まぶたを上げていられない。
暗闇の中のマスタングの苦痛は、すぐに終わった。
喉を絞められたまま、エドワードの吐息が自分の頬に移動するのを感じる。
「………殴られたいか?今まで何を聞いてたんだこのクソボケ大佐」
限界までに低くささやく声が、マスタングの耳元に吹きつけられる。尋常でない凄みを備えて。
マスタングは目を開けた。
「あんたが今ケガ人でなかったら、こんな…人でなしのバカの鈍感は、ボコボコにしてやってるところだぜ?」
殴られなくとも、さっき身体に響き渡った激痛はそれ相応のものだったが、今エドワードに反論する気力は、マスタングにはない。
「そうだよ。ウソだよ。あんたの言う通り、オレはアルが大事だよ。けど。それでも。オレは選びたくねぇ。これからだって…あんたもアルも、いくらでも危ねぇ目にあうだろうけど…それでもオレは、絶対に、最後の最後になるまで、あんたかアルかどっちかなんて、選びたくねぇんだよ!」
頬のすぐそばでうつむくエドワードの顔は見えない。
ただ、さっきと同じように、明るい色の前髪が、さらさらとマスタングのこめかみをくすぐるだけだ。
「………おかしいのはあんただ。なんで」
急に小さくなった声の語尾が、また震えた。
「なんでわかんねぇんだよ?」
高くかすれる声が、マスタングの身体の奥深くへ沁みてゆく。
「そんなに…あんたにとって、オレはわかんねぇ存在なんかよ」

───やっぱり、困らせている。

どうしても、苦しめてしまう。
マスタングの身体の奥で、小さな小さな納得が、はじけた。
選ぶものなどたったひとつしかないマスタングには、永久にわからない、これが、彼の理なのだ。
彼の理がわからない自分はまた、わからないがゆえに、彼の理を意地悪く試して、選ばせようとして、苦しめている。
苦しませたくないと思っていることは、揺るぎなく真実なのに。
恥も恐怖もすべて捨て、エドワードはここまで来てくれたのに。
マスタングは知っている。
どれほど唐突でも、信じがたくても、ありえなくても、彼はこんな趣味の悪い嘘偽りを、こんなふうに叫ぶような人間ではない。
「アルフォンスを助けてやった」と、どれほどマスタングが恩に着せたところで、決して真の感情をねじ曲げるような人間ではないのだ。
それを、こんなにも知っているのに。

───なのに、こんなにも、私は彼の理を理解することができない。

薄ら寒い諦めが、焼けついていたマスタングの脳内を、ほんの少し、冷ました。
「……なんとか言えよ?クソ大佐」
ようやく触れたエドワードの肩は、一度だけ小さくけいれんした。
その鋼の肩に指を預け、いとおしい金属の感触を、彼の上着越しに味わってみる。
鋼の指は、締めつけたマスタングの襟元を、緩めようとはしない。
それでいいのだ。
そのまま、締め上げていて欲しい。
「ああ。わからない」
間を空けすぎた返事をしてやると、エドワードの肩は、けいれんよりももっとわずかな動きで、きしんだ。

───私には、何もない。

家族も愛情も、何もない人間なのだ。
いつか君に、そう言ったはずだ。
私は何も変わっていない。
変われない。この愚かさが、どう言えば君に伝わるのか。
「だから、わかりたかった。君のやり方をまねれば、君のことがわかるかもしれないと思った」
「……なん、だって?」



マスタングのぬるい吐息が、耳のそばで揺れている。
エドワードは、機械鎧の指を緩めた。
だが、指を緩めても、その指の行き場がない。金属の細い関節に、マスタングの服の襟元をひっかけたまま、顔も見えないマスタングの声だけに意識を集中する。
「君なら、ロス少尉を助けたいと言うだろうと思った。それで、彼女を助けようと思った」
饒舌さを取り戻した男の声は、どこまでも、抑揚がない。
だがエドワードは知っている。
この男の声から、こんなふうに抑揚が消えるのは、それは、この男が深く動揺しているからなのだ。
動揺すればするほど、不自然なまでに静まるこの、声。
「私は、君と、君の理が欲しかった」
「なんだよコトワリって。わかんねぇよ」
「君は、君を傷つけた私を、殺さなかった。その君の理を、私のものにしたかった」
この声は、どこまでも静かで、冷たくて、滑稽で───必死だ。
「知らねぇよ。オレはただ…、人殺しになりたくない、だけだ」
「君は、どんなことがあっても、弟のために生きている。そんなふうに、他人のために生きる理を、私も生きてみたかった」
「そんなもん、家族なんだから、あたりめーだろ」
「だから、私にはやはり無理なようだ」

───しまった。

無意識のままに、またマスタングを自虐の淵へ追い込んでしまった。
形容しがたい後悔を、エドワードは唇の端で噛み潰す。
「あの時、錬成陣を書きながら、君のことしか考えていなかった。アルフォンスじゃなく、君のことばかり」
「もういい。…黙れ」
「アルフォンスを死なせたら、君も生きてはいないだろうと思った」
「黙れって」
「私には、家族というものが何なのかわからない。だから、あれを打算と言う以外、なんと言っていいのかわからない」
「わかったから………黙れ……」
顔が上げられない。
力を無くした鋼の指から、マスタングの襟の布地が滑り落ちた。
空になった指をしばらく宙に迷わせた後で、エドワードはマスタングの肩をゆっくりとつかみ返す。
マスタングの膝を隠すシーツを見つめたまま、エドワードはやっと両手を彼の肩に預けた。

───こいつにひとことしゃべらせるのも大変だったけど。

しゃべらせればそれはそれで、大変だ。
心のどこかで、完璧に予測はしていた。
しかし、マスタングからもぎ取ったその答えは、エドワードの両手に余る。
取りこぼすわけにはいかない答えの束は、次々とエドワードの手をすり抜け、身体に突き刺さり、食い込み、暗い臓腑の底へと沈んでゆく。
彼の答えを、この心と身体に納めることが望みだったとはいえ、すべてをこんなにぶつけられては、揺らいでしまいそうになる。
アルフォンスを助けてもらったから、この男の生を願うのではない。それは断言できる。
それでも、もう揺らいでいる。
エドワードはマスタングの肩に置いた指に力を込めた。
同じように、エドワードの肩に手をかけているマスタングは動かない。

───かみ合わなくても、でも、オレは。

この男が背中を見せていれば、きっと追いかけずにいられない。
この男が背後でうずくまっていれば、振り向かずにはいられない。
「…これだけは言わせろ。その後もごちゃごちゃ言うな。黙ってろよ?」
言え、だの、黙ってろ、だの。
さっきまでとは全く正反対の命令をこの男に下さねばならないのが、おかしくて情けない。
顔を上げないまま、エドワードはこつ、と頭をマスタングの胸元に預けた。
「………ありがとう。アルを助けてくれて」
声が、くぐもってしまった。
マスタングの体幹を包んでいる包帯の、あやうい匂いを鼻腔いっぱいに受け止めながら、エドワードは、言葉が彼の耳に届くことを祈る。
マスタングに礼を言うのは二度目だ。
あの時も、マスタングはアルフォンスの鎧のかけらを拾ってくれた。
それももちろん、エドワードのための打算だと、この男は言うのだろう。
そして、どんなことがあっても、エドワードとアルフォンスに構い続けるつもりなのだろう。

───それは、その意志そのものが、あんたの言う、コトワリとやらになるんじゃないのか。

なんでそれが、自分でわからないのか。
こんなバカが、その辺をよたよた歩いてれば、イヤでも振り向かずにはいられないじゃないか。
だってオレは。
いや、オレも。

バカだから。

「だからそれは私の打算で」
「黙ってろってんだ!!このぐらい素直に聞いてろ!!」
「しかし」
「黙れ!!!」
依然顔を上げないまま、エドワードは無駄に饒舌な男の胸板に、頭突きを数発見舞ってやる。
マスタングが、苦しげに息を詰まらせるのが聞こえた。
「……、わりぃ」
彼が重傷を負っていたのを忘れていた。
苦しい息が整うのを待ち、エドワードは顔を上げる。
マスタングの顔が近すぎる。
瞳の黒は、相変わらず強情に、けれど脆く、揺れている。
近すぎると、やはり、言いづらい。
マスタングの手から力が抜けているのをいいことに、ほとんど抱き合っていた体勢からひらりと肩を抜き、エドワードは自由になった。
半歩離れて見下ろすマスタングの顔に、生気らしきものが、ふと戻ってきた。



さっきまで自分の手の中にいたエドワードの目に、マスタングはただただ捕らわれる。

───私が君にしたことは、許されることではない。

過去は消えない。
私は私を永久に許せないだろうし、君の心の傷も、生涯癒えることはないだろう。
だが君は、その悪行にまみれた私の存在を、君のそばに存在することを、許してくれるというのだろうか。
「次からは、打算なんて言うな。…いや、オレが言わせねぇ」
太陽光をすくったようなエドワードの瞳は、どこまでも濡れている。
「その前に。『次』なんて、もう絶対ねぇぞ。あんなの二度とゴメンだからな」
彼の理へと続く扉を、開けようと思っていた。
扉のそばまで、自分で行こうと思った。
けれど、恐怖で立ち止まっていた。
「その回転の悪い頭を、オレが徹底的に改造してやる」

───これは、君にとっても恐怖だったはずだ。

私が感じるのとは質が違う、そして桁違いの、恐怖だったはず。
「選べ。オレに改造されるか、そのまま空っぽの頭で生きていくか」
私が空っぽなのは、頭に限ったことではない。
「オレはもう選んだ。だから、あんたも選べ。あんたが選ばないのなら、オレは一人で行く」

ああ。
やはり私は、君に敵わない。

「鋼の。…君に改造してもらえるのなら、」
私は、どこまでも。
唇に乗せたその言葉が、エドワードの顔を、驚愕で固まらせる。
そして固まったすぐ後に、その口元が、得意げに、しようがなさげに歪んでゆく。
あんたマゾか、と吐き捨てるその吐息まで、軽妙に歪んでいるようだ。
その、笑顔になり損ねた歪みが、笑顔をもらうよりもなおいっそう、マスタングの胸をかきむしる。
人が、人の心を救うことはできない。
人は基本的に、自分の心しか救えない生き物なのだ。
自分を救えない者は、自ら滅するしかない。
他人の改造など、望むべくもない。
だが、それでも私は、君を手放すことを選べないだろう。
「あ。忘れてた」
「なんだね?」
「よくも手の込んだだまし方してくれたよな」
「なんのことだ」
「とぼけんな。ロス少尉の」
「ああ」
「ああ、じゃねーだろ。なんでオレをだまくらかして、リゼンブールに追っ払った?ホントのこと聞いて、オレがその辺でベラベラしゃべるとでも思ったのかよ?」
「思わないが。機密事項を知る人間はできるだけ少ない方がいい、というのは軍事作戦の基本だ」
「ご丁寧にぶん殴りやがって」
「あの場で君に説明している時間はなかった。君が感情のままに怒ってくれた方が、憲兵の手前、真実味があるだろうと思った」
「演出で、殴られたんか…オレ」
「大体、先に手を出してきたのは君だ。ああしなければ不自然だった」
「……なんか、ここでオレに言うことないの」
「あの時の、私の苦渋も察してもらいたい」
「何がクジューだ!思いっきりぶん殴りやがって!」
「手加減すると君はなお怒るだろう」
「怒らねぇよ!痛ぇの嫌いなんだよ!」
「どうかな」
「んにゃろー…今ここでワキバラくすぐってやろうか?」
「嬉しいが、断る。それに…君は、私の家で私を殴っただろう。それでおあいこだ」
「あれ、は。…………おあいこなんかじゃねぇ」
「そうかね」
「あんたが、あんまり、卑怯なこと……するから、じゃねぇか」
「………」
「もう、あんまり思い出させんな」
「………鋼の?」
「うるせぇよ。思い出したくない!やっぱりあんたの頭ン中は空っぽだな!」

すべてが変わる。
マスタングは息を吸い込んだ。
この、五感を感じ取る体の細胞すべてが、何か別の物質に入れ替わってしまったかのようだ。
鼻先の空気の温度が、窓から差し込む光の明度が。窓の外に広がる、鉱物のようだった空の色までが、数分前とは違っている。

───私が、君をわからないように。

君は生涯、わかることができないだろう。
今、私が、どれだけ幸福であるかということが。

「怒鳴らないで聞いてくれ」
「なんだよ」
「もう一度、君に触れてもいいだろうか」
言葉を聞いたとたん、やはり怒鳴りかけたエドワードは、すんでのところでうっ、と呼気を飲み込んだ。
「……前にも言っただろ。ジョーシキの範囲でやれよ」
「君は、君の常識でさっき私に触れてくれたんだろう?だから私も、君の常識に倣いたいだけなんだが」
「さっき」の内容を具体的に思い出したのか、呼気を飲み込んだエドワードは身体を固まらせたまま、ゆっくり頭を抱えた。
「…………わかった、よ……」
悔しそうなため息と共に、床に向かって吐き出された言葉は、甘く湿っている。
そっと、彼の生身の左手を引く。
「契約」の名のもとで、幾度も彼に強制してきた動作なのに、今は、その動作の意味が、根本的に違っている。
そのまま、彼の上半身をこちらに引き寄せる。
ベッド脇に立っている彼を乱暴に引き倒すことなく、ベッドの膝元に引き寄せるには、彼自身の協力が要る。
エドワードにとっては非常に不自然な姿勢で、マスタングは彼の肩を深く抱き留めた。
身体の奥が痛む。
傷口の痛みよりもっと深い場所の、形のない魂を感知する、精神の根幹のようなものが、きしんで、痛みを訴えている。
痛みは、欲望に忠実な心弱いマスタングを責めているようでもあり、祝福しているようでもある。
悲しみが過ぎると身体を傷めるように、喜びも、過ぎると身体が痛むものらしい。

───君が、ここにいる。

この圧倒的な存在が、この手の中にある。
圧倒的すぎて、痛いのだ。

腕の中でやはり顔を上げないエドワードの頬に、手を添えたその時。
静寂をいっそう静かに切り裂くノックの音が、マスタングの鼓膜に刺さった。
とっさに、エドワードを突き飛ばす。
「……う、わっ!」
突き飛ばした振動で、これまたリアルな痛みがマスタングの脇腹で炸裂した。
絶妙なタイミングで、病室のドアが開く。
「お話中、申し訳ありません大佐。あの、病院側から苦情がありまして、中庭の大きな柱をなんとかしてほしいと」
ドアの隙間に、控えめに身体を滑り込ませてきたホークアイは、マスタングを見て、眉をひそめた。
「大佐。お顔の色が赤いです。熱があるのでは?看護師を呼びますか?」
激痛の余韻に震えながら、マスタングは思わず手で口を押さえる。
とたんに、ベッド脇の床に突き転がされたエドワードが、寝転んだまま、けたたましく笑い出した。
「エ…エドワード君?どこにいるの?」
ホークアイの位置からは、寝転んだ───いや、突き飛ばされて床に転がされた───エドワードが見えないらしい。
状況をつかみかねているホークアイの心配顔をよそに、エドワードは笑い続ける。
なお熱くなる頬をもてあましながらも、看護師の召喚だけは避けたいと、マスタングはホークアイから顔を背け、懸命に呼吸を整えた。
病室の入り口と反対側の、窓の向こうの空は、行く先の闇を透かすように、青すぎて暗い。
その透明な暗さに、愉悦さえ感じる。

───仕事は、相変わらず山積みだ。

痛む脇腹を押さえつつ、急に巡り始めた今後の算段を、マスタングは愉悦と共に噛みしめる。

フュリーと連絡を取って。
ホークアイを少し休ませて。
ハボックに、さっきの言葉の申し開きをして。
アルフォンスにも、同じように。
うまくできるかどうかは、わからないが。
そして、ヒューズ。
おまえの仇にまたひとつ、近づいた。

重大な懸念事項ばかりなのに、愉悦に浮かされた感情は、透明に暗い碧空(へきくう)を、どこまでも駆ける。
初めて聞いた気がするエドワードの笑い声は、今までマスタングが聞いたどんな音楽よりも心地よく、鮮やかだった。



碧空は、夜を隠している。
それでも、夜の後には、朝が来る。
光の先には闇があり、焦げた闇の先にはまた、光がある。
どれほど黒く煤(すす)けようと、失われない、傷つかない、遠路を照らす、輝石の光がある。