焦げたダイヤモンド -5-



***

もう、鼻先に銀時計をぶら下げようかと思うほどだ。
走っても、走っても、警備兵が邪魔をする。
「こら!一般市民の立ち入りは禁じられて…」
「うるさい!オレは国家錬金術師だ!」
それでも走る。
「ここから先は危険です!」
「いいから通せ!!」
それでも走る。
「増援がすぐ来ます!命令通り待機してください!」
「知るかそんな命令!!!マスタング大佐はどこだ!!!!」
もう何回、このいまいましい軍の狗の証明を振りかざしたか知れない。
それでもやっぱり、走る。
いちいち出し入れが面倒なので、左手に握ったままの銀時計が汗ばんでくる。
やっと入り込めた第三研究所の、地下へ続く階段の入り口で、エドワードは荒い息をついた。

***

女が壊した水道管の水は、すぐに流れ出すのを止めた。
施設自体が相当古びている。水道の設備はもう機能しておらず、何年もパイプの中にたまっていた水があふれただけのことなのだろう。
水浸しになったがれきの中で、濡れそぼった女が立っている。
その女の爪が、太く長く伸びて、自分の脇腹に突き刺さっているのをマスタングは凝視した。
女の背後に倒れたハボックは、声ひとつたてない。
発火布は濡れてもう役に立たない。
ふわり、と女の姿が揺らぐ。
女が揺らいだのではなく、足が自分の体重を支えられなくなり、自分の視線が揺らいでいるのだとマスタングが悟った時、女の顔が間近に迫った。
ぎしり、と脇腹に痛みが走る。
「…この…!」
苦痛と怒りで、マスタングの手が宙を掻く。
刃物の爪でマスタングを貫いたまま、もう片手で、女はマスタングの手首をしなやかに握った。
「射撃の上手な坊やに、少しお返ししただけよ」
ちらりとハボックを見やり、女は冷たく言い放つ。
「まだまだ、私は死なないわ」
間近で光る唇は、相変わらず毒々しく、少しも血の気を失った様子がない。
「貴様…!」
こめられる限りの憎悪をこめて、マスタングは女をねめつけた。
痛みに狭まってくる視界の中で、女は氷の笑みをたたえたまま、とん、とマスタングを後ろに突き飛ばす。
脇腹の刃物が引き抜かれる激痛に耐えられず、マスタングは悲鳴に近い吐息を絞り、床に崩れ落ちた。
こつり、と女の靴音が、マスタングの耳元に寄せられる。
マスタングの意志とは裏腹に、身体は床に染み込むように貼りついて、どうあっても起き上がることができない。
「マスタング大佐」
哀れむように、女が見下ろして来る。
見下ろして来る女の髪からひとしずく、水がしたたり、マスタングの頬を叩いた。
そのかすかな水滴の感触までが、憎い。
「私たちはあなたをずっと監視していたの。大事な人柱になってもらうために」
激痛というよりは、何か、衝撃的な圧力が、脇腹から全身に広がっていくような気がする。
傷は腹部だけであるのに、もう、腕すら持ち上げられない。
見えない圧力に頭まで揺すぶられて、マスタングの視界がさらににじんだ。
女の顔も合わせて歪む。
女が表情を曇らせているのか、それとも自らの視界が曇っているのか、マスタングにはもう判断がつかない。
「あなたは、とても強いけれど、弱い人。強さと弱さを兼ね備えているあなたならきっと、人柱になってくれると思っていたのに…」
膝を折り、女は、倒れたままのマスタングの手をもう一度取った。
「残念だわ」
発火布の錬成陣が、軽く刃物の指で引っかかれる。
濡れた手袋は、はらはらと裂かれて、跡形もなく散った。
身体を意のままにされる屈辱にさらされても、マスタングは指先を震わすことしかできない。
「つい、手加減してしまって。苦しむ時間を長くしてしまって、ごめんなさい。でも、ちゃんと部下を看取ることはできるわ。その後で、あなたも逝きなさい」
握られた手に口付けを落とされ、マスタングは咆えた。
「ハボック!ハボック!!返事をしろ!!」
女の手がはらりと離れ、ふいと小さな風が揺れ、立ち上がったらしいその気配が靴音と共に遠ざかってゆく。
「ハボック!!」
ひとこと咆えるたびに全身の力が抜けていくのがわかったが、マスタングは沈黙することができなかった。

───どいつもこいつも、私より先に…!

「私より先に…死ぬことは許さんぞ、ハボック!!!」



その地下の、大廊下の果てで、「目標」は倒れていた。
「遅かったね、姐さん」
腐敗臭と、濁った血の匂いの真ん中で、鎧姿のバリー・ザ・チョッパーは立ちつくしていた。
眉をひそめ、ホークアイはアルフォンスを連れて、バリーに近づく。
これまでの、鉄骨と石でできた無機的な廊下とは妙に不似合いな、岩盤のような壮大な扉が、この地下道の終着点のようだ。
その扉の前で、屈強だが、皮膚があちこちどす黒く腐った男が、倒れている。
さっきまで、人智を超えたような速さで街中を駆けていた、バリーの「本体」だ。
実験動物が古巣に逃げ帰るように、もはや人とは呼べない獣のような本能で、バリーのかつての身体は、ここまで───軍と結託して、不届きな所業を重ねている何者かのもとへ───帰ってきた。
「はあ…みっともねぇモンだよ。俺の身体…こんなに腐っちまって」
口調は軽いが、初めて聞くバリーの重い声音に、ホークアイは返答を失った。
隣で、かたん、とアルフォンスが身じろぎする。
「アルフォンス君?」
「人」の遺体にやはり動揺しているのだろうか。アルフォンスを連れて来たことを少し後悔して、ホークアイは静止したままの鎧を見上げる。
魂が離れてしまった肉体の、なれの果て。
それまでの事情こそ全く違うものの、バリーと同じに、長い間自分の肉体の在りどころにたどり着けないでいるアルフォンスが、こんな光景を目の当たりにして、落ち着いていられるかどうか。
固い鎧の胸に、ぎゅうと握ったこぶしを押し当て、アルフォンスは動かない。
言葉に詰まったホークアイが、それでも無理やりに何らかの言葉を喉から押し出そうとした時、大廊下の闇の彼方から、足音が響いてきた。
低くもなく高くもなく、だが軍靴とは違う軽やかな響きへ向けて、ホークアイは銃口を持ち上げる。
靴音は、すぐにしたたる影になり、影を背負った女の姿になった。
「久しぶりだわね。バリー?」
銃口に動じる様子など、まるでない。闇が溶けきったような色の、長い長い髪を揺らして、女はどこか冷酷な笑みを口元に浮かべている。
「こんなところまで中尉さんを連れて来てくれて、ありがた迷惑もいいところだわ」
冷たいものが胸の中を走り抜け、ホークアイは銃を構え直す。
こともなげにホークアイの肩書きを口にするこの女は、何をどこまで知っているのか。
この地下施設を勝手知った様子で歩き回り、バリーに面識があり、そしておそらく、バリーの魂を身体から剥がした連中とも関わりがある、この女は。
「バリー、あなたはあなたの大事な身体を、心ゆくまで刻んでいなさい」
「なんだとぉ?」
「大佐に協力した裏切り者に、もう用はないの。こっちの中尉さんたちを始末した後で、あなたもしっかり私が刻んであげる」
もう間違いない。
マスタングの工作は、あちら側に漏洩している。
胸の中の冷気が、いっそう凍りついた。
凍りつく不安と緊張に支配されるあまり、わめくバリーの鎧が、黒い刃物で一閃のうちに切断されるのも、呆然と見守ることしかできない。
いや、刃物と思ったそれは女の爪だった。
鞭でもしならせるようなすばやさで、その女の長い爪は人型の鋼鉄を粉々にした。
「さあ、あなたたち」
女が、長すぎる爪を手元からしならせる。
「先に死にたいのは誰?もうひとりの鎧くんかしら?」
銃の引き金にかけた指に、ゆっくりと、だが確実に握力を流し込み、ホークアイは、歩み寄って来る女の心臓に狙いを定める。
「やっぱり中尉さんからがいいかしらね。大事な大事な上司の後を、すぐに追わせてあげるわよ」

凍りつく不安が、砕けた。

「…上司の、後…?」
詰問することも忘れているホークアイのつぶやきに、女は微笑んで答える。
「マスタング大佐はこの先の廊下で、さっき忠実な部下と一緒に…」
女が言葉を終える前に、ホークアイは発砲した。



起き上がることなどできない。
そして、救助は期待できない。
下手をすれば、さっき待機させた兵士たちは、夜が明けるまで何時間でも実直に、研究所の入り口で待機し続けるだろう。
だから、ここで動かずにいることは、死を自分から招き寄せることだ。
仰臥したまま、背中で床を擦り、マスタングはハボックににじり寄る。
「ハボック。ハボック…しっかりしろ…!」
励ますつもりが、その弱々しい声音は、傍から見れば独り言にしか聞こえないだろう。
どうしても諦めきれず、彼の脈拍を確かめようと、やはり仰臥したままマスタングは手を伸ばした。
ハボックの手首にたどり着くために、床一面の冷たいがれきを幾筋か掻きむしっていると、もっと冷たい何かが、かちりと指先に当たる。
握りしめてもどこまでも冷たいそれを、マスタングは体力を総動員して、自分の鼻先にまで近づけた。
薄闇の中でも、鮮やかな光沢をまとうその小さな金属には、どこか見覚えがあった。

ハボック愛用の、ライターだ。



憎悪は尽きなくても、弾丸は、尽きる。
両脇に携えた二丁の銃の、予備の弾まで撃ち尽くし、空の拳銃を構えたままで、ホークアイは静かにアルフォンスに命じた。
「アルフォンス君。私を置いて、逃げなさい」
銃口も、視線も、目の前の黒ずくめの女に釘付けたままの、鬼気迫るホークアイの横顔に、アルフォンスは動くことも話すこともできない。
ホークアイの銃弾で蜂の巣になったはずの女は、倒れもせず、平然と立っている。
「アルフォンス君。逃げなさい」
毅然とした声とは裏腹に、銃口が震え、その銃は対象を狙うのをやめて、ふらりと下ろされる。
見開いたままのホークアイの瞳が、白く光った。
光ったものは音もなく、表面張力を失って一筋、こぼれ落ちる。
それが涙だと気づいて、アルフォンスは我に返った。
あふれるそれを拭いもせずに、ホークアイは銃を取り落とす。
捨てられた銃が床に落ち、遠くの闇にまで、心もとない金属音が反響してゆく。
その虚しい響きの中で、ホークアイは一歩前に出て、女の爪からアルフォンスをかばうように、腕を広げた。
「逃げなさい!早く」
その命令は、正しいと言えば、正しかった。
アルフォンスの錬金術や体術をもってしても、この女の爪から完全に逃れられる保証はない。
そして、銃弾を撃ち尽くしたホークアイには、もう自分の身を挺する以外に、女と戦う方法が残されていない。
ホークアイが身を挺しても、そしてアルフォンスがこの場を戦っても両者、この場を切り抜けられる可能性が低いなら。共倒れを防ぐなら、どちらかが犠牲になり、どちらかが逃げ延びるという方法しか残されていないのだ。
けれど、呆然と見開かれたホークアイの瞳は、そんな生存のための計算からは、遠く離れた色を浮かべていた。
ホークアイはもう生きる気力を失っている。
アルフォンスが今まで見たことのない、輝きの失せた目をしている。

───死なせない。

アルフォンスの意識の中に、怒りに近い強固な感情が燃え上がった。

───絶対に、死なない。死なせない。

もう繰り返さない。人の死を。
反射的にアルフォンスは前に踏み出し、ずいとホークアイを自分の背後に押し込んで、女と対峙した。
両手を合わせ、錬金術で石の床から槍を錬成する。
爪を剥いてこちらに近づこうとしていた黒ずくめの女は、瞬間、目をみはった。
「そう。あなた扉を開けたの…」
諦めたような吐息の後で、長い爪が空気を切り裂いてくる。
高い音を立てて、刃物の爪が、アルフォンスの鋼鉄の腕に突き立てられる。
アルフォンスが握った槍は幾本にも分けてへし折られ、ばらばらと床に散った。
「本当に残念だわ。あなたにも、人柱になって欲しかったのに」
少しも残念がっていない声と共に、何本もの細い刃物が振るわれる。小さなつむじ風がまんべんなく肌を刺すように、流れる刃の動きは容赦ない。
人肉と違って硬い鎧は、食い込んだ刃物の指を簡単には逃さなかった。
指を引き抜こうとする女の腕力と、それをさせまいと踏ん張るアルフォンスの腕力がせめぎ合い、金属を嫌な音できしませながら、二人の動きが止まる。
「中尉、逃げて!」
両の腕を空中に縫い止められながらアルフォンスは叫ぶ。
いつのまにか、アルフォンスの背後で、ホークアイは膝をついている。
「立って中尉!!」
ようやく引き抜かれた刃物が閃く。
「中尉!!立って逃げるんだ!!」
女が渾身の力で片腕を振るい、アルフォンスの鎧の肩当てが吹き飛んだ。
「邪魔しないで。その女は死にたがってるんだから!」
「いやだ。僕は…あきらめない!!」

───もう誰も、絶対に、死なせない。

鎧の喉元に、無慈悲な一閃が突き刺さった、その直後。
闇の底から響いてきた、低くかすれた声が、女を振り向かせた。

「…よく言った。アルフォンス・エルリック」

***

───あの野郎。

何をたくらんでるのか知らないが。
このオレを置いてきぼりにして、アルまでひっ連れて、突っ走っていくなんて。
そんなことが、許されると思うなよ。
錬金術で破壊されたらしい「立ち入り禁止フェンス」を、エドワードは立腹しながら踏み越える。
地下の広大な廊下は、ぽっかりと大きな口を開けて、闇を呑んでいる。
闇の匂いは、いつかの第五研究所をまざまざと思い起こさせた。
あの時とそっくりな非常灯のぼんやりした光源は、地団駄踏んで叫びたくなるような不安の色だ。
右へ行くか、左へ行くか。
真実と、マスタングに近づくためには、まずはこの簡単で重大な賭けに勝たねばならない。
右。左。どっちだ。
エドワードは、賭けを選ぶために、ぶるりと肩から震えを払い落とした。

***

人殺し。
人間兵器。
化け物。
そんなふうに小気味よく周囲から罵られ、そんなふうに自分を罵って生きてきたが、人間の命をたやすく奪えるこの忌まわしい力を、今ほど心強く思ったことはない。
深い怒りが、マスタングの脳を冷やす。
発火布に代えて、血で錬成陣を刻んだ素手で、ハボックのライターを握りしめ、マスタングは女の刃物を焼き砕く。
舞い散る刃物の灰が再生を始めれば、またライターを打ち鳴らして、女の身体ごと、何度でも炎で砕く。
中途半端な倫理も罪悪感も、この女の前では役に立たない。
それほどまでに、この怒りはシンプルだ。
「あの傷で………どう、やって……!」
繰り返される再生の合間に、女がつぶやく。
マスタングの脇腹は、その軍服が絞れるほどに血濡れのままだ。
「傷は焼いて塞いだ!」
女へ返答などしたくもなかったが、一度声に出してしまうと、怒りはとめどなくあふれ出す。
人間の肉体を焼くために、これほどの高温を錬成したことはない。
ある時にはためらいがあり、ある時には焦りがあり、ある時には、人を殺す虚しさが大きすぎて、どうしても、人間相手に浴びせる炎を錬成する時は、真から冷静ではいられなかったのだが。
それでも、死にゆく人を苦しませてはならないと、できる限りの高温で、事を一瞬ですませられる残酷な努力も、してきたのだが。
そんな努力をもはるかに超えた温度で、マスタングは眼前の女を燃やす。
悲鳴を上げる間も、絶叫してのたうつ間も、与えてはやらない。
「…貴様は自分で、まだまだ死なない、と言ったな?」
安楽に死なせてやりたいのではない。
「それならば」
この再生の、息の根を止めるために。
「死ぬまで、殺すだけだ」

***

遠くで、花火でも弾けているかのように。
闇の果てから、何かが小さく爆発するような音が、断続的に聞こえてくる。
この廊下の先で、何かが燃えている───それはすなわち、あの炎を操る男が、錬金術を駆使している───ということで。
彼が錬金術を使っていないのだとしても、この先で、何か大変な事が起きているのは間違いない。
吸い込む息に、きな臭いものが混じり始めて、ただでさえ上がってきている息が、ますます苦しくなる。
物質が燃える時には、多大な酸素が消費される。
この閉鎖的な地下空間での火災が、どれだけ危険な現象かということが、わからないわけではない。
それでも、賭けに勝ったことを確信して、エドワードは暗い廊下をただ走った。

***

ようやくひざまずいた女は、最後の力を振り絞る。
幾度も幾度も炎を浴びせられ、漆黒に酸化した肉体が完全に再生されるのも待たず、足先を黒く焦がしたまま、女は唯一の武器である長い爪を、正面に立つマスタングに向けて振り上げた。
だが、その咆哮と爪は、マスタングの頬をかすることしかできない。
かつてヒューズをも刺したであろう、その爪は、マスタングの頬骨のすぐ側で、はかない音を立てて崩れ落ちてゆく。
「…完敗ね」
不敵にささやく女の腕が、肩が、砂の塔を崩すように、形を失ってゆく。
ハボックのライターを構えたまま、マスタングは動かない。
「あなたのその目が……好きよ」
筋肉という筋肉が溶け去り、女の胸元の、小さな紅い石があらわになり。
人間と寸分違わぬ骨格も、その四肢から砂と化し。
それでも女は、吐息で笑う。
「楽しみだわ。その目が、苦悩に歪む日は、すぐ……そ、こ………」
その語尾は、紅く輝く石と共に、霧散した。
静寂が訪れる。
「大佐!!」
アルフォンスが床からとっさに錬成した、分厚い防火壁の陰から、ホークアイが飛び出した。
緊張の糸が切れ、よろめくマスタングを、すんでのところで支え、助け起こす。
「中尉。無事だったか…」
「ご自分の心配をなさってください!!」
涙交じりに怒鳴るホークアイの肩を借りて、マスタングは床上に身体を伸ばした。
「ア…アルフォンス、は…?」
ホークアイが振り向くと、あちこち穴だらけの鎧が、防火壁のそばで身体を起こそうとしているところだった。
しかし。
「…アルフォンス君…?」
ホークアイの声は、一呼吸置いて、弱々しくなる。
鎧の動きはなぜか、出来の悪い映画フィルムのように、奇妙にぎこちない。
ぎしぎしと、鋼鉄の関節のあちこちが、歯切れ悪くきしんでいる。
たまらずホークアイは立ち上がった。
みし、と一声、歯茎をくすぐられるような不快な音の後で。
ホークアイとマスタングにそれ以上歩み寄ることもできず、アルフォンスは膝からくずおれた。
まだ白煙が立ち上る中、床に大小の鎧の破片が転がり、派手な音を立てる。
「アルフォンス君!!」
ホムンクルスの女の爪は、アルフォンスの鎧の胸元を、正面から深々と貫いていた。大きく亀裂が入り、金属疲労で穴の開いたその胸当てにホークアイは駆け寄り、すがるように叫ぶ。
「アルフォンス君!アルフォンス君!!返事をして!!」
胸当ての奥に書き記された、アルフォンスの魂の原点である血印が、正面の穴からのぞいている。
その血印にまでうっすら亀裂が入っているのを見つけて、ホークアイは悲鳴を上げそうになった。
女の爪は、鎧の背中にまで届いていたのだ。
この血印が崩れかかり、アルフォンスの意識が「こちら」にとどまりきれず、不安定になっているのかもしれない。
肉体から離れた魂がどんなに不安定かということを、あの哀れなバリーはついさっき、身をもって証明してくれた。
痛みも温度も感じないはずなのに、鎧はかたかたと震え、アルフォンスの応えはない。
この血印が崩れれば、アルフォンスは死ぬ。

───エドワードの弟が、死ぬ。

身動きもできずに、ホークアイは血印と亀裂を見つめた。
「中尉。手をどけろ」
放心しかけたところに声をかけられ、これ以上ないほどに、ぎょっとする。
いつのまに這い寄ったのか、背後すぐ近くでマスタングが顔をこちらに向けている。
「血印が…危ないのか…?」
床に身体を横たえたまま、鎧に開いた穴をのぞきこむ事もかなわない体勢で、マスタングはすべてを悟っているようだった。
新たな涙を眼に溜めて、ホークアイがうなずくと、蒼白な顔に浮かぶマスタングの双眸が、ぎらりと光を宿した。
「中尉。そのまま…その鎧を。動かないように。支えてくれ」
途切れ途切れの吐息と言葉を散らしながら、さらにいっそうの吐息を絞り、マスタングは肘をつき、わずかに上体を起こし、アルフォンスの血印を視認する。

───鎧の背面に……亀裂か。

何度目かの激痛が、マスタングの視界を灰色に染める。
遠のきかけた意識をどうにか繋ぎ止め、マスタングは、傷ついた鋼鉄を修復する構築式を、記憶の底から引きずり出す。

───鉄の融点は一五〇〇℃だ。
───だが、そんな高温をこの鎧に浴びせても、かえって亀裂を深くするだけだろう。

このひび割れを修復するためには、熱を利用する溶接とは違う、別の観点、別の構築式からの錬金術が必要だ。
この血印はエドワードが書いたものだ。今までも何度か彼が、弟のこの鎧を修復する機会があったが、その修復技術は彼だけにしかわからないコツがあるようだった。
それでも、やらなくてはならない。今すぐこの鎧の亀裂をなくさなければ、アルフォンスの命がない。
何か。何か錬成陣を書くものを。
這いつくばる床に散っていた薬莢(やっきょう)を拾い、マスタングはその小さな金属片で、塞いだはずの脇腹の傷をもう一度掻きむしる。
「大佐!」
今度こそホークアイは悲鳴を上げた。
流れ出した血を、また握った薬莢ですくい、石の床に、マスタングは血染めの構築式と錬成陣を書き込み始める。
「大佐!やめてください!もう、もうこれ以上出血したら…」
「黙っていろ!!」
怒鳴るとまた、目の前が灰色にかすむ。
先刻からさんざん正気を失いかけてはいるが、失血で意識が飛ぶ前に、なんとしてでも錬成したい。
どうしてこんなにこの腕は重いのか。
痛みのせいで、さまざまな感覚がさえぎられているとはいえ、ペン一本よりも軽いこの金属片を、満足にも握れないのはどういうことだ。
いらだちながら、べたつく血文字を、懸命に床に刻む。
喉が渇く。
つい数分前、不死の化け物と戦っていた時には、喉の渇きなど感じるひまもなかったというのに。
今は一刻の猶予も許されないというのに。
文字を刻む中、ふっ、とマスタングの思考が緩む。

───どうして私は。こんなに、必死になっているのだろう。

アルフォンスは、マスタングにとって、ひたすら邪魔な存在だった。
マスタングがエドワードに向けるベクトルをことごとく阻害する人物、それが、マスタングにとってのアルフォンスだった。
十四歳とは思えない聡さで、兄・エドワードが置かれている状況を把握し、分析し、最もエドワードに負担がかからない方法でマスタングに拒否と抵抗を試みてくる、邪魔者の弟。
だが、アルフォンスがいなければ、エドワードは、確実に、壊れる。

───だから私は、アルフォンスを生かしたいのだ。

この思いが、下心でなくて、なんなのだろう。
笑える。
いや。
笑えてよかった。

指は血で重く濡れ、床の血だまりは刻々と面積を広げている。
もう数文字で、錬成陣は完成する。
その数文字を書くのに、こんなにも、指が重い。
死への恐怖がないわけではない。
だが、胸のつかえはない。
仇を全員いぶり出せなかったと、ヒューズに詫びたい気持ちはあるが。
こんなにあっさりと、後悔もなく、偽善のために死がそこまで来ていても、自分で自分を笑える、そのことが嬉しい。
さっきまであんなにも、生きることに執着していたのに。

完成した錬成陣が、弱い光を放って発動する。

その光すらまぶしくて、マスタングは目を閉じた。
錬成の成功を確かめたいのに、閉じたまぶたが果てしなく重い。
指どころか、もう、まぶたまで動かせないなどとは。
真っ暗な視界の中で思考をばたつかせてみても、もう、何もかもが手遅れのようだった。

───やはり、神はいないのだ。

大罪を背負う人間が、こんなふうに笑って死ねるのだから。
神がいるのなら、こんなぬるい結末は、許されない。
そして私は、このぬるい結末に後悔していない。
そうだ。
善を施したふりをして、みっともなく、死ぬ。
こうやって。
厚顔なまま。

最高、じゃないか。

「………さ!!………ぃさ!!」
自分がまぶたを上げているのかいないのかもわからない、暗くかすんだ意識の中に、何かが忍び込んでくるのを感じて、マスタングは最後の意識の一片をそちらに向けようとした。
「大佐!!…り……てください!!」
「……バ…や…ろう!!……けろ!!開けろ!!」
忍び込んできたのは、声だ。
さっきからのホークアイの声と、もうひとつ。
もう耳にする事もないだろうと、嘆く気持ちも起こらないほどに諦めきっていた、聞き慣れた、そしてこんな場にいるはずがない、あの声だ。
「目ぇ開けろ!!大佐!!」
だが、動かせたはずの頭は絶望的に重く、そちらに顔を向けようという意志はあるのだが、その意志の力でどうがんばっても、筋肉のひとすじすら動かせない。
乱暴に命令してくる声はいきなり途切れて、一度きりの手拍子のような音と、金属が衝撃を受けて低く共鳴する音が聞こえた。
錬金術を使う気配だ。

───ああ、間に合った。

そうだ。アルフォンスをすぐ、直してやってくれ。
そして、ホークアイを、落ち着かせて。
可能、な限り、早くハボック、に、医者、を。
呼んで、
やっ、
て、
くれ。

「目ぇ開けろったら!!!バカやろうっ!!!」

安堵が、闇を呼び。
そこから先のマスタングの意識は、無となった。