焦げたダイヤモンド -4-



***

「だから。僕は、アルフォンス・エルリックです。鋼の錬金術師の弟の」
「証明できるものは?」
「この間も…この鎧でここを通してもらいました」
「知らんな」
「だから。この間は違う人がここにいて」
「今日の歩哨は俺だ。不審者を通すわけにはいかない」
「フシン…って、もう!じゃあ、マスタング大佐を呼んでください!大佐なら、僕がわかるはずなんだから!」
「大佐は外出中だ。日を改めてまた来るんだな」
中央司令部の門前で、アルフォンスは大きな鎧の背中を丸めていた。
セキュリティが万全なのは結構だが、軍部という場所はあまりにも融通がきかない。
せめてここが東方司令部であったなら、もとより数も少なく牧歌的な歩哨当番の兵士が、この目立ちすぎると言ってもいい鎧の姿を覚えていてくれたはずなのに。
第一関門がこれでは、先が思いやられる。
なけなしの決心が、崩れそうになる。
本当に、心底から、気が進まなかったが、決めたのだ。
もう一度、マスタングと話そうと。
「外出って…出張ですか?大佐はいつ帰って来るんですか?」
「答えられない」
セントラルの兵士の石頭加減に心で歯噛みしながら、アルフォンスは決心を立て直す。
エドワードがホテルを出て行ってから(正確にはアームストロングに連れ去られてから)、もう十日近くになる。
無為に時間を過ごすのがつらくて、エドワードと賢者の石のために何かを前進させたくて、ここへ来た。
リンから伝え聞いた話は、アルフォンスにとって、安心と混乱を同時に引き起こすものだった。
ロス少尉は、生きているというのだ。
こともあろうにあのマスタングが、手のかかる工作を施して、彼女を救ったのだと、リンは言った。

───まだ、成功したかどうかはわからなイけど。

今はロス少尉を国外へ逃がすために、マスタングの命を受けたブレダが大変な労を重ねている最中らしい。
今までも、幾つもの人の死はアルフォンスの心に重くのしかかっている。そして、さらにもうひとつ背負わなければならなかったはずの苦しい重圧をふいに降ろすことができて、小さく拍子抜けするその部分を、さらに容赦ない何かがぎちぎちと食い荒らしてくる。
それは、一言で言うなら、疑心───それも、総毛立つように硬質な───疑心と憎悪だった。

───いったい、どういうことなんだ。

事態は、アルフォンスの理解の範疇を超えている。
マスタングを優しい人間だなどと、思ったことはない。
彼は、穏やかさを装って権力をふりかざし、非道な感情のままにエドワードを傷つけて、口先だけで謝罪を表明してみせる男だ。
軍の上層部も、彼に忠実な彼の部下も、皆だまされているのだと、司令室の入り口で何度、叫んでしまいたかったことか。
だが、叫べば道は閉ざされる。
アルフォンスが一言叫べば、エドワードにはいっそうの災いがふりかかり、賢者の石の情報はいっそう遠いところへ飛び去ってしまう。
だから、ずっと耐えてきたのだけれど。
こんなに前向きで劇的な情報を得てしまうと、今までの忍耐の矛先をどこへ向ければいいのかがわからなくなるのだ。
苦労して策をめぐらせ、ロスを助けても、マスタングには何の得もない。むしろ軍部内において、彼の身に危険が及ぶだけだろう。
マスタングはいったい、どういう人間なのだろう。
ロス少尉の生存を喜ぶよりも、マスタングへの憎悪に捕らわれてしまっている自らの狭量な感情がつらくて、どうしても、アルフォンスは動かずにいられなかったのだ。
その心の内を知るはずもない、そして知っても門を通してくれそうもない歩哨の兵士に、やっとのことでアルフォンスは背を向ける。
数歩歩いたところで、軍用車が一台、アルフォンスの脇を飛ぶように駆けて、門前に滑り込んだ。
急ブレーキに近いタイヤの摩擦音が聞こえたが、アルフォンスには、振り向く興味も気力もなかった。
宿に戻ろうとまた数歩歩いたところで、そっけなく呼び止められる。
「アルフォンス。どうした」
背後からのその声には、聞き覚えがありすぎた。
そのまま歩いていってしまいたいのをこらえて、アルフォンスは硬い鋼鉄の首を声の方へとねじ向ける。
車の後部座席の窓から呼ばわってきたその男は、さらに車のドアさえ開けて、ことさらゆっくりと、軍靴の足を車内から地面へと下ろす。
「何か、急用でも?」
長い鎧の手を伸ばしても届かない、絶妙に離れた場所から響いてくる声には、やはり白々しい穏やかさが満ちている。
車を降り立ったマスタングを見つめて、アルフォンスは立ちつくす。

───もう、ごまかされない。

マスタングが何者なのか、その欠片だけでもつかみたい。

───大佐の口から真実を聞くまで、僕はもう司令部から動かない。

これ以上、絶対に、兄さんを傷つけさせない。
「大佐。話があります」
ここにないはずのアルフォンスの喉の肉が、アルフォンスの意識の中で硬くこわばった。



通された執務室に、ホークアイは不在だった。
ついさっき、マスタングが乗っていた軍用車を運転していたのも、アルフォンスの知らない兵士だった。
「このところ仕事がよく片付いてね。中尉には休みを取ってもらった」
言葉通り、マスタングのデスクの上は東方にいた頃よりは格段に片付いている。それでも業務はやはり途切れないのだろう、かつては「山脈」であった書類の束が、「緩やかな丘」に変化しているという程度で、デスクを一望する限りでは、暇をもてあましているようには見えない。
椅子をきしりと鳴らして、マスタングはおもむろに着席する。
着席し、深く背もたれに背中を預け、机上の書類をさらりと一枚めくって、元に戻す。
その指は机上でそっとうずくまり、妙にリラックスした視線が、正面のアルフォンスに投げかけられた。
「で。話とは?」
どれほど最初の質問を緻密に脳内で組み立てていても、いざそれを声に出すとなると、一呼吸が必要だ。
アルフォンスの刹那の沈黙にも、マスタングの穏やかさは揺るがない。
だがそれは、偽りなのだ。
感覚を限界まで研ぎ澄ましても、今、目前のこの男から穏やかさのようなものしか感じ取れないのは、ひとえにアルフォンスの未熟のせいであって、決して、この男が穏やかな感情しか持ち合わせていないということではない。
「兄さんに。兄さんに……もう、関わらないでください」
言えた言葉は、冷静からは程遠く、攻撃力もないに等しい。
小さな子供が、過程を説明できずに結論だけを主張するような、みっともなさだ。
それでも。
過程など、説明する必要はないのだ。
マスタングは誰よりも、アルフォンスよりも、この結論の過程を知っている。
自分の知らない、知りえない、「マスタングとエドワードの過程」を思うだけで、アルフォンスは息苦しくなる。
すべてを知ろうとすることは、エドワードを深く傷つけることだ。
そうやって踏み込めないでいるアルフォンスの事情を十二分に知っているから、今までこの男は自分たち兄弟に卑怯の限りを尽くしてきたのだ。

───もういらない。

この男の助力はもういらない。
それで賢者の石が探せないのなら、もう元の身体になんか戻らなくてもいい。
兄さんの手足が戻らないのはつらいけれど。
このままほうっておいたら、兄さんは手足どころか、心までずたずたになってしまう。
マスタングは微動だにしない。
だがその黒く透徹した眼球は、毛筋ほどの動きで音もなくきしみ、アルフォンスからデスクの上の書類へと、視線を移した。
伏し目がちのマスタングはまたいっそう、優しげに見える。
その計算しつくされたしおらしさが、アルフォンスの感情を逆撫でしてやまない。
そして、逆撫でされた感情は、またも打ちのめされる。
マスタングの、驚愕すべき返答に。
「ああ。そうだな。私も、もう鋼のには関わらないでおきたいと思っている」
つぶやいて、黒い瞳がもう一度アルフォンスを捉えた。
「以前君に話した、私の気持ちは変わらないが。私は、鋼ののためになる人物ではない。私が鋼のに近づけば、鋼のは苦しむ。君も苦しむ。だから、もう君たちに関わるのは終わりにしたいと思っている」

───バカに、しているのか。

「だが君たちには賢者の石の情報が必要だ。そのことについては、私はこれまで通り、情報を提供するよ。余計な感情は一切抜きでね」

───よくも、すらすらと。

「鋼のをどうしても私に会わせたくない、と言うのなら、君が私に接触してくれればいい」
アルフォンスは言葉もない。
「信じろ、と言う方が無理なのは承知だが。今の私には、君たちについて、これ以外の最善の方法を思いつかない」
この男を、屈服させたかった。
真実を話させたかった。
心の底からの、謝罪をさせたかった。
だがこれが、この男の真実だと言うのなら、あまりにも。
叫びかけたアルフォンスの鼻先で、電話が鳴った。
机上の書類を指で滑らせてスペースを作り、話しやすいように電話機を若干手元に引き寄せて、マスタングはけたたましく鳴るその受話器を持ち上げた。
「はい。ああ。……エリザベス?」
気安いその口調に、アルフォンスの憤怒の臨界点が吹き飛んだ。
こんな時に、私用電話なんて。
鎧のこぶしがデスクを叩くのと同時に、マスタングの声色が激変する。
「おい。どうした?エリザベス!!」
マスタングはアルフォンスを見ていない。もうその存在すら、意識の外だ。デスクを叩かれたことにすら、気づいていないのだから。
「エリザベス!!」
一方的に切れてしまったらしい回線に舌打ちして、マスタングは受話器を投げ出し、ポケットから発火布を引きずり出した。
「急用ができた。悪いが今日は帰ってくれ」
言うが早いか、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、アルフォンスの脇をすり抜けて部屋を出て行こうとする。
「逃げるんですか」
ドアの前に、アルフォンスは立ち塞がった。
「そう取ってくれてかまわない。どきたまえ」
「どきません」
「どきたまえ!」
「どきません!」
「どけっ!!時間がないんだ!!!」
「絶対どきません!!」
叫んだとたん、アルフォンスの視界にオレンジ色の火花が散った。
「う…あっ!!」
同時に、聴覚が張り裂けるような衝撃音が鎧のすみずみにまで響き渡り、ものすごい風圧で後方に吹き飛ばされる。
その圧力が、マスタングの指先からの熱風だったと気づいた時にはもう、アルフォンスの身体は閉まっていた執務室のドアごと、室外に転がっていた。
廊下の彼方から、通りがかった兵士たちの、悲鳴ともどよめきともつかない声が聞こえてくる。それはそうだろう、この轟音に、何事かと驚かない人間はまずいない。
粉々になったドアを尻に敷いて、それでもアルフォンスは身構えた。
力で渡り合おうというのなら、応戦するしかない。
だがマスタングは、それ以上の錬金術を使わなかった。
薄い白煙の中で、青い軍服のすそが翻り、廊下を駆けてゆく。
「待って!!逃げられると思ったら、大間違いだ!!」
マスタングは駆けながら一度だけ振り向き、怒鳴った。
「では、ついて来い。私と話の続きをしたいのなら!!」



マスタングの、尋常でない疾走に与えられた報酬は、ホークアイの一喝だった。
「なんで出て来たんですか!!」
銃弾を何発も発射したせいで、まだ熱の冷めやらない愛銃を片手に、美貌の部下は上司を遠慮なく怒鳴りつける。
司令部の駐車場から、ほとんど強奪するように軍用車を発進させ、大通りをめまいのするスピードで走り抜けた後、マスタングはスラムの狭い路地に車をねじ込み、後部座席に乗っているアルフォンスに声をかけることもなく、急停車して運転席から飛び降りた。
その、スラム街には珍しい時計塔に似た建物の、錆びたらせん階段を上り詰めた果てで、アルフォンスは見た。
マスタングが、怒鳴られている。
いったいどういう事情でそんな場所で立ち回ることになったのか知らないが、その場でホークアイにつかみかからんとしていた人物をマスタングは錬金術でなぎ払い、なぎ払ったそれが物騒にも窓下へ落ちていった直後、助けられたはずのホークアイがなぜか怒号を発しているのだ。
「私たちに万が一のことがあっても、無視していれば敵の追求を逃れられるのに!こんなところにのこのこと…バカですかっ!!」
「ああ、ああ、わかった。私がバカだった」
「わかっていませんよ!顔を相手に見られることが、どれだけ不利になるか考えてないんですかっ!」
「それはそうだが、私にも、優先順位というものが…」
「ならこれ以降は、私たちの生死ではなく、目的の達成を一番にお考え下さい!」
本当に、なにがなんだか、わからない。
それがアルフォンスの正直な感想だった。
マスタングに直接暴力を振るわれたのも、あんなに血相を変えていたマスタングを見たのも、初めてのことだ。
さっきの「話」の続きなど、とてもするどころではない。
「大佐。……いったい。何を、してるんですか?これは」
マスタングはもう、その場から撤退すべく、今来たばかりの階段を下りようとしている。
その足を止めることなく、顔半分だけ振り向いて、低いが芯の通った声が、後を追うアルフォンスの鎧の表面を打った。
「私は、ヒューズの仇(かたき)を追っている。それだけだ」



アルフォンスの他に、乗っているのは、ホークアイと、なぜか覆面姿のハボックと、運転手のマスタング。
積載重量がおそらくオーバーしたまま疾走する軍用車の中で、断片的に事情を説明されながら、アルフォンスはまたも混乱する。
「アルフォンスくん。本当に、一緒に来てくれるの?」
ホークアイの言葉に必要以上の湿気はないが、やはりその質問には、アルフォンスがこの工作に参加することを賛成しないニュアンスが含まれていた。
「連れて行ってください。ヒューズさんに関係のあることなら、僕は、行かなくちゃいけない。それに、僕は大佐と話の続きをしなくちゃいけないから」
「話の続き?」
ホークアイが問い返し、ハボックも不思議そうに脇からアルフォンスを見上げてきたが、それきりアルフォンスは黙った。
沈黙の追及を沈黙で受け止め、部下たちの疑問のまなざしをものともせず、マスタングは粛々とハンドルを操作している。
前方の道路を、またも幅広の鎧が猛スピードで駆けている。
そして、そのまたはるか前方のアパートメントの屋根から屋根へ、小さな黒い人影がサルのように飛びすさって遠ざかるのが見えた。
「『目標』とバリーを発見した。このまま追う」
すっとんで流れる街の景色を映していたマスタングの黒い瞳が、きらりと視線を斜めに上げ、またすぐに戻った。

***

エドワードは決めていた。
そのドアの前で一呼吸して、できるだけ、平静を装うつもりでいた。
強行軍と言うにも生易しい、とんでもない無理な行程で、ここまで戻って来たのだ。
いまいましく鼻の頭を人差し指でこすると、日に焼けてしまったそこが、ひりひりする。
セントラルの駅に着いてからも、水分補給はたっぷりしたはずだが、長い間砂漠の砂にさらされたおかげか、いつまでも水分は身体のすみずみに行き渡らず、喉が渇いてしかたがない。
いや、こんなに喉が渇くのは、悔しさやら脱力感やらイライラやらムカムカやらを、何日も発散させず耐え抜いているせいかもしれない。
そしてその発散させられない感情は、本当は悔しさでも、脱力感でも、イライラムカムカでもない。
そんな、幾重にも殻をかぶった不愉快な感情の正体を、エドワードはもうきちんと知っている。
不愉快だからと激昂すれば負けだ。
人の心をなぶりものにして、稚拙な嘘を守り通そうとしたあの厚顔な男の前で激昂することは、再度の、そして確実な負けを意味する。
エドワードは決めていた。
平静に、マスタングを問い詰めようと。
激昂するのは簡単だし、できればぜひともそうしたいところだが、感情を必要以上に高ぶらせれば、マスタングは必ずそこから一歩離れ、軽くあしらいにかかってくる。
あしらわれてなど、やるものか。
平静に、慎重に、しんねりと、がっちりと、彼の真意を聞き出さなければ、この渇きは、癒やせそうもない。
脅えるのはもうやめるのだ。
マスタングに向かい合うことは、すなわちエドワードがエドワード自身の心にも向かい合うことだが、自分の感情に脅えるのはもうやめたいのだ。
今この時も、自分の思いに自分で脅えているそのことが、エドワードは悔しくてたまらない。
もう、あの時、マスタング家の玄関で味わったような屈辱を味わいたくはないのだ。
あの時の屈辱に比べたら、今ここで平静を装うことなど、なんでもないミッションだ。
だから、こんなにも努力して、遠い遠い砂漠の果てから、ミッション最後の障壁であるこの執務室のドアの前までたどり着いたはずなのに。
このドアの前で、絶対に翻らない、最後の、最終の決心を固めるはずだったのに。
それなのに、そのドアが、消滅していたのだ。
「どーなってんの?これ」
執務室入り口であったはずの場所で、ドアの破片らしい大きな木屑を片付けている兵士に、エドワードは尋ねた。
執務室ドアは、壁のちょうつがい部分の金属を残して、きれいさっぱり剥ぎ取られてしまっている。
中が丸見えの室内に人影はなく、奥のデスクの上から飛来したらしい書類が、入り口近くの床にまで散乱している。
「何があったんだよこれ!?大佐は?」
いぶかしげに顔を上げた、清掃中の兵士の眼前に銀時計を突き出し、エドワードは兵士からの質問と不信感を封じた。
とたんに兵士はホウキ片手に直立する。
「は、はい!たぶん、マスタング大佐か、その客人が、錬金術を使ったのではないかと思うのですが」
いいかげんなところは星の数ほどある男だが、マスタングは、自身の錬金術に失敗したり、軍の備品を意図せず壊すような男ではない。
「客って、誰なんだ」
「受付に確認していないので、客人の名前までは存じ上げません。ただ、ドアが壊れた後、大佐と鎧姿の客人が急いで部屋から出て行かれまして」
「鎧姿の…?」
アルフォンスが、大佐に会いに来ていた?
「お二人とも、ケガはないようでした。大変な勢いで走っておられましたから」
「で、二人はどこへ行ったんだ?」
「まだわかりません。申し訳ありません」
マスタングは今、ロス少尉を逃がすために危険な工作を主導している。それを察知した何者かが二人を襲撃して、二人は彼らから逃げたのか。それとも襲撃者を追っているのか。
それとも、頭に血の上ったアルフォンスが、大佐相手に錬金術戦でもやらかしたか。
なんにせよ、ただごとでないことは確かだ。
本当に申し訳なさそうに清掃に戻る兵士を視界の端に置き、エドワードがうつむいて急ぎの思考をめぐらせようとしたその時。
背後から、小走りに駆けて来る足音があった。
「第三研究所に、手配中の殺人犯が侵入したそうだ。マスタング大佐が追跡中だってよ。さっさと片付けて待機だ」
エドワードは振り向いて目をむく。
ショッキングな内容の割にはのんびりした口調の、その男は清掃兵士の同僚らしい。
「ごめん、どいてくれ!」
その同僚を、風圧を感じるほどの勢いで押し退け、エドワードは脱兎のごとく、たった今歩いてきた廊下を逆走し始めた。

***

不規則な形に砕けた足元のがれきが、重く冷たく、軍靴を噛んでくる。
「目標」を、見失った。
だが、ここから引き返すわけにはいかない。
雑然と朽ち果てた───いや、もう荒涼とした、と表現するのがふさわしい───地下室で、マスタングは足元のがれきを踏み分ける。
バリーが消えていった第三研究所の地下は、広大だった。
大廊下の脇に、延々と小部屋が続く。それらの小部屋は、鉄格子つきの監獄風味であったり、薬品の匂いが充満する実験室風味であったり、不気味なことこの上ない。
鉄格子も薬品も、錆び、劣化し、埃と湿気にまみれ、暗闇のせいもあってか、それらの原形を想像することがとても難しい。
アルフォンスとホークアイには、この廊下の反対方向へ行くように指示した。
指示したマスタングはハボックを連れ、非常灯しか点いていない大廊下の先へと急ぐ。
女性と子供を組ませて別れてしまうのにはかすかな抵抗があったが、アルフォンスが子供らしく落ち着きをなくしてもホークアイが抑えてくれるだろうし(といってもマスタングには、年齢らしからぬ落ち着きと理性を備えたアルフォンスがただの子供には思えないのだが)、女性の非力ゆえにホークアイが危険に見舞われても、アルフォンスがあの図体と錬金術で切り抜けてくれるだろう。
何より、敵がここに潜んでいるのなら、そして不運にも敵がマスタングたちの行動を見越して来るなら、彼らはまずこの工作の首謀者である自分を狙うだろう。

───出るなら早く、出て来い。

ハボックには申し訳ないが、ここでマスタングの状況が危機的になればなるほど、アルフォンスとホークアイの安全は確実になる。
もっとも、敵も二手に分かれていれば、危機的などと言っている場合ではないのだが。
「なんか……こう、ものすごーっく、ヤーな感じがするんスけど」
銃を片手に、足元の古びた薬瓶を軽く蹴りのけながら、ハボックは落ち着かない。彼の言いたいことはとてもよくわかったが、ここで怖気の虫と同調してやっても、何のメリットも生じない。
「ヤーな感じとはどういうことだ。直接的に説明しろ」
「そのう、軍の研究所にこんなとこがあったってことは、むかーしから軍はこういう地下に誰かをこっそり閉じ込めてたってことで」
「そうだな」
「言いたくないんスけど、あの…タッカーみたいなヤツが、動物も人間も好き放題、こーゆーとこで実験台にしてたんじゃないかと」
「おまえもたまにはいい推理ができるんだな」
「たまには、って何スか。どう見てもここ、実験室と牢屋でしょ」
軍は影でめちゃくちゃな実験をしている。
それはバリーも言っていた。
彼の証言だけでは実感できなかった軍の不気味さが、こうして視覚に訴えかけてくると、あらためて背筋がこわばる。
ヒューズも、こんな気持ちであの電話ボックスに走ったのだろうか。
遠い友人の顔を脳裏に呼び覚まし、マスタングは怖気を払う。
まだだ。
まだ何にもたどりつけていない。
こんなところでびくついているなど、笑止である。
「行くぞ」
ハボックを促し、「実験室」の出口を振り返る。
そこに、音もなく影が湧いた。
反射で拳銃を構える。
「動くな!」
湧いた影は、女の声でため息をもらした。
「いけない人たちねぇ…こんなところまで入ってくるなんて」
黒い髪、黒い瞳、身体に張り付いた黒い服。
「動くなと言っている!」
マスタングの制止も全く聞こえていないかのような、余裕に満ちた足取りで、それこそ影のような黒ずくめの女が歩いてくる。
こつん、と女が二歩目を踏み出した時、マスタングは迷わず引き金を引いた。
拳銃から吐き出された弾は、女の足元で跳ねて、ぶつり、と鈍い音を立てて床を傷つける。
「まあ。イシュヴァールの英雄は、気が短いのね」

───この女は、こちらの望む情報を、はっきりと握っている。

自分の素性を一言で言い当てられ、マスタングは直感した。
「おまえは…マース・ヒューズを知っているか?」
「ようく、知ってるわ。頭の回る、いい男だったわね」
威嚇発砲にも全くひるまず、ふわりと長い髪をかき上げて、女はまた歩を進めてくる。
「おまえがヒューズを殺したのか?」
「とどめを刺せなかったのが、ちょっと残念だったかしら」
急所を迷わず撃つ。
腿から血を噴き出させた女が、マスタングの銃口の前で、よろめいた。
「ひざまずいて、話せ。おまえが知っていることをすべて」
だが彼女は、膝を折る様子さえない。
あろうことか、また軽やかに髪をかき上げ、毒々しい色の唇から笑いを含んだ息を吐いている。
見ると、鮮血を噴いていたはずの腿の傷は、もうふさがりかかっている。

───『急所に何発撃ち込んでも、平気な顔をしていましたから』。

ついさっき、化け物に襲われていたホークアイの証言の真実を、いきなり眼前に突きつけられ、マスタングはひるみかけた。
刹那の恐怖をねじり潰し、二度、三度と引き金を引く。
けれども。
「本当に、イシュヴァールの英雄は、気が短いわね」
めきめきと音を立てて、弾丸で砕けたはずの頭蓋骨が修復され、
「せっかくのいい男なのに」
額を流れる血液はきれいに蒸発し、
「あんまりせっかちだと、嫌われるわよ」
女は艶然と、笑う。
「でもいいわ。じゃあ、せっかちなあなたに、見せてあげる」
着替えでも始めるように、女は両手を、血に染まった胸元にかけた。
今しがたのマスタングの銃撃で傷ついたその部分の皮膚を、めりめりと鋭い指で剥がしにかかる。
戦闘態勢なのも忘れ、マスタングとハボックは息を飲んだ。
湿った血の匂いが、空気に溶けてくる。
こんな化け物の血液が、人間のそれとなんら変わらないのかと思うと、目の前の女の存在がいっそう、不気味だ。
女の指が自ら裂いた筋肉は、透明感すらたたえている。
その、めまいを誘うみずみずしさに挟まれて、何かが輝いている。

どう見ても、紅い宝石だった。

「これが賢者の石よ」
女の心臓であるはずの部分で、縦横無尽の血管に吸いつかれた、紅い宝石が波打っている。
マスタングの全身が総毛立つ。

───これほどまでに、恐ろしいものを。

これほどまでに、人間の常識を超えたものを、エルリック兄弟は追っていたのか。
そこには、奇跡を見た喜びも、治癒の可能性への感激もなかった。
恐怖と、醜さ。
この女の胸元で輝く紅い石は、ただ不気味で、醜悪だ。
「これが、あの鋼の坊やが追いかけてる、伝説の石。この石を核に作られた人間…それが、私たちホムンクルスなの」
マスタングの思考を読んでいるかのようなこの女の情報網は、エドワードの身辺にも及んでいるらしい。
「なめられたものだ。で、おまえの自己紹介と引き換えに、我々に死ね、と?」
マスタングの質問に答える代わりに、女の手の爪が閃いて伸びた。
刃物となった黒い爪は、鋼鉄の蛇のように、マスタングの手の中の拳銃を真っ二つに割り、叩き落とす。
「大佐!!」
銃声がして、女の喉元に穴が開いた。
ハボックの援護射撃だ。
鮮血によろめく女を、マスタングは指先の火花でなぎ払う。
「ハボック、下がれ!!」
一瞬の破裂音は、下腹にびりびりと響くほどに空気を震わせ、女を容赦なく炭のかたまりへと酸化させる。
ほんの数歩でも、ハボックを下がらせたのは正解だった。
今の熱風で、頬を少し焼いたかもしれない。
だがマスタングには、自分の顔の痛みを知覚するひまも、そんな勇み足の錬金術を反省するひまも無い。
女が砕け散ろうが吹き飛ぼうが、退路の確保が先だ。
部屋の入り口を背にしていた女は、錬金術が起こした熱風に抗しきれなかったのか、影も形も無い。
薄煙が晴れるのを注意深く待ち、マスタングは再度ハボックを促した。
「…行くぞ」
「は、はい!」
足早に、だが慎重に出口の壁際に寄り、大廊下の先をうかがう。
ハボックを背中に従えて、マスタングが大廊下に踏み出すと、背後でぬるい風が巻き起こった。
砂粒を吹き上げるような細かな音と共に、ハボックが短くうめく。
振り向いたマスタングが発火布の指を構えた時には、既に手遅れだった。
足元のがれきから生えた刃物が、ハボックの下腹をまっすぐ貫いている。
黒い刃物はみるみるうちに女の指になり、腕になり、腕に連なった体が、長い髪を揺らす頭が、空中に湧いて再生される。
「ハボック!!」
マスタングの指はとっさに女の頭を狙ったが、女の頭の向こうに、身体を折って苦しむハボックが重なり、うかつに炎を出せない。
その隙に、女はもう一度刃物の爪を振るった。
壁際の古びたパイプが一閃で裂かれ、土砂降りをはるかに超える勢いで、水が噴き出す。
全身に水しぶきを浴びて、ふらついたところで。
水とは違う衝撃が、マスタングの脇腹に突き刺さった。