焦げたダイヤモンド -3-



***

寝ている兄の姿を眺めることは、アルフォンス・エルリックにとって、とても当たり前な日常の風景だった。
夜、宿でベッドにもぐりこんだ兄が、もぞもぞと何度か寝返りを打ち、独特に決まりきった指先の動きでその喉元の毛布を整え、数分の沈黙の後に、規則正しい寝息が開始される。
それが、これまで何百回も繰り返されてきた、アルフォンスの孤独な夜の始まりの合図だった。
エドワードの寝息が聞こえ始めると、アルフォンスはいつも、慣れ親しんだ寂しさと、それ以上に大きな安堵に襲われる。

───今夜も兄さんは眠ってくれた。

眠ることのできないアルフォンスの前で眠ることを、どんなにエドワードが申し訳ながっていても、睡魔には決して勝てないし、必ず眠らなければ健康は保てない。
そしてアルフォンスは知っている。
何の含みも感情もなく、「オレ、寝るから」とそっけなくベッドに入るエドワードのそのそっけなさは、エドワードの心の底にぴったりと貼り付いた贖罪意識の裏返しなのだということを。
その、何重もの意味で逃れられない、エドワードが眠りに落ちるまでのごく短い沈黙の時間は、アルフォンスにとって(そしてたぶんエドワードにとっても)、できるだけ早く過ぎ去って欲しい気まずい時間だ。
だからいつも、兄の寝息が聞こえ始めると、アルフォンスは安堵する。これで今日も、小さな小さな試練がひとつ終わった、と。
だが、今日の試練は、なかなか終わらない。
疲れきっているはずなのに、ベッドの中のエドワードは、眠れないでいるようだった。
寝返りひとつ打たずにエドワードは向こうを向いたきりだが、緩く脱力した寝息が、いつまでたっても聞こえてこないのだ。
「確かめたかった用事」を、きっと確かめることができなかったのだろう。
ことの首尾を聞き出さないこと、そしてそもそもその「こと」の内容が何だったのか、この場で聞き出さないのは、確かにアルフォンスからエドワードへの気遣いであることに間違いはないのだが、すべてを聞き出そうとしないでアルフォンスが黙っているその行為自体が、エドワードの精神をどうしても圧迫してしまう。
アルフォンスの気遣いそのものが、エドワードをまた落ち込ませるのだ。
二人きりで閉じた世界での、この堂々巡りは、何度繰り返してもつらい。
けれども。
それでも。
アルフォンスは訊くことができなかった。
あまりにも、エドワードは憔悴していたからだ。
「ことの首尾」を訊く前から、こんなに憔悴していては、怖くてとてもエドワードの感情には触(さわ)れない。
つい数分前にこのホテルの部屋に戻って来たエドワードは、無表情だった。
普段は喜怒哀楽の激しい兄が無表情になるという稀少な状況を、アルフォンスはこれまで数回記憶していたが、今晩のエドワードの無表情さは、この場には存在しないはずのアルフォンスの心の臓を、すらりと潰すように冷やしてしまったのだ。
部屋のドア前で、「おかえり」の言葉の後が続かないアルフォンスをにらみ上げるでもなく。
「何も訊かないのか」と噛みついてくるわけでもなく。
そしてもちろん、外出先で降りかかってきただろう状況についてわめきたてることもなく。
遅くなってすまなかった、悪いがすぐに寝かせてくれ、と、言葉づらは至極まともだがこの場の雰囲気には恐ろしく不適当なセリフを機械的にこぼして、エドワードはベッドの中にもぐりこんでしまった。
もうそれだけで、アルフォンスにはわかってしまう。

───兄さんは。

兄さんは、大佐のところに行ったんだ。
エドワードの頬の痣は増えていない。
さっき、倉庫街でマスタングに殴られた、左頬のそれだけだ。
そしてそれが逆に証明してくれるのだ。
エドワードは、マスタングに、殴られる以上のことで、傷つけられたのだと。
ここまで帰ってきたエドワードの足取りはしっかりしていた。
いつかのように、部屋に入るなり倒れ込むほどの暴行も、きっと受けてはいない。
おそらくそれ以上の、精神的な暴行を受けたのだ。

───僕の想像は。間違ってたんだろうか。

状況は良くなったのだ、と思っていた。
相変わらずエドワードは、マスタングとの関係についてほとんど語らないし、マスタングに特別の好意(それはアルフォンスにとって未だに受け入れられない、信じられない感情であるが)も、抱いているようには見えない。
しかしここ最近、エドワードの中で何かが変質していることは、アルフォンスにとって、確信を持てる事実だった。
根拠は、と問われても答えられない。
しかしアルフォンスは感じ取ることができた。
先日、南方司令部へ査定に出かけて───正確には、ニューオプティンのハクロ将軍のところを訪問して───帰ってきたエドワードは、疲労してはいても、薄暗く心を曇らせてはいなかった。
アルフォンスの身体を取り戻すまで、本当の意味でエドワードの心が澄み切ることはないのだろうが、それでも、ダブリスの師匠宅に帰ってきたあの時のエドワードは、どこか、顔つきが以前と違っていたのだ。

───イズミ先生には、わからないかもしれない。
───ウィンリィには、もしかしたら、わかるかもしれない。

その、取り立てて他人に告げるほどでもない、もちろん本人に尋ねても「は?何言ってんだ?」ですまされそうなエドワードの微細な変化を、勝手にマスタングに結びつけて良い方に考えてしまっていた自分は、取り返しのつかない勘違いをしていたのかもしれない。
アルフォンスは、腰掛けていたベッドからそっと立ち上がった。
既に目を通すことのできなくなっていた手の中の本を、すとんとサイドテーブルに置く。
「兄さん。明かり、消していい?」
前置きとして、覚醒しているかどうかも問わないアルフォンスの直球の問いかけに、エドワードの毛布に覆われた肩が、ぴくりと跳ねる。
「…外、行くのか…?」
「…うん」
「あんまり、遠くに行くなよ」
「うん。おやすみ」
はたから見ればいつも通りの短い会話を終わらせて、アルフォンスは部屋の外に出た。
いくらアルフォンスの姿が子供に見えないとはいえ、深夜に外をうろつくのは歓迎できる行動ではない。
それでも、特別な事情がある場合を除いて、エドワードが弟のそんな行動をとがめたことは今まで一度もなかった。

───夜の長さを、少しでもまぎらせられるのなら。

そんなエドワードの決まりきった気遣いを、今夜は最大限に利用させてもらって、アルフォンスはエドワードの存在を含む、小さな空間からまろび出た。
ドアを閉め、駆け出したいのを我慢して、ゆっくりと廊下を歩く。
自分たちの泊まっている部屋からもっと離れなければ、ドアを通して、足音がエドワードに聞こえてしまう。
駆け出す鎧の足音を、エドワードに聞かせたくなかった。
何も訊かずに、こんなにエドワードを追い詰めているのだから、これ以上、余計な感情をエドワードにさらしたくなかった。
薄暗い廊下をゆっくり歩いて、壁面に並ぶ同じ形のドアを、いくつもいくつもやり過ごして。
たどりついた廊下の端の階段を、突如感電したかのように、アルフォンスは駆け下りた。
どこへ行くあてもない。
ただ、エドワードが眠れずにいる空間から、一メートルでも遠くへ逃れたかった。
眠れない兄のために部屋を出たわけではないのだ。
アルフォンス自身がただそこから逃げたくて、外へ出た。
それなのに、決まりきった気遣いを、決まりきったふうに演じて、何の含みもないふりをして、アルフォンスの外出を許してくれたエドワードが、哀しかった。

───許せない。

マスタングに向かう憤怒を、無音の吐息で、アルフォンスは闇に散らす。
散らしながら、階段を駆け下り、ホテルの玄関をくぐり、もっと暗い闇を求めて、通りを駆ける。
温度感覚を忘れて久しいのに、憤怒の吐息が、熱いような気さえする。
マスタングを問い詰めても、エドワードを問い詰めても、これまでと同じに、エドワードの苦悩は続くのだろう。
彼らの事情に踏み込むことそのものがエドワードを傷つけるのだから、これまでと同じに、アルフォンスは静観しているしかないのだろう。
けれど、限界はもう、近かった。



***

暑い。
日に照らされた地平線は白く、その上辺を縁取る空は、すとんと気が抜けたように、水色を揺らしている。
水色を揺らしているのは、憎らしいこの熱気なのか、自分の目が視力の限界を訴えているのか。
そのどちらにしろ。
暑い。
暑すぎる。
その言葉だけが今、エドワードの狭い頭の中を、行きつ戻りつしている。
今現在、エドワードの肉体は、乗り慣れない馬の背に揺られ、セントラルシティからはるか東方に離れた、砂漠地帯を移動している。
徒歩よりはずっと効率のいい移動方法なのだろうが、都会の石畳の上を歩くのとは違い、足場の悪い砂地は、その一歩ごとに馬の足を微妙に深く絡め取り、砂と自らの重力(とエドワードの体重)をこらえる馬の動作がいちいちに、エドワードの肉体をも一歩一歩、疲労させているのだった。
炎天は、人の口を重くさせる。
同じように騎乗して同行中のアームストロングも、ブレダも、そしてこの珍妙なパーティーの先頭を行く出入国コーディネイターとやらの男も、黙っている。
この厳しい道中で、必要以上に言葉を交わすのは体力の無駄遣いだということは、彼らに説明されずとも肌で理解できる。
そもそも、体温調節の効かない機械鎧を装着しているせいで、炎天下の体感温度についてはこの場合、エドワードが最も過酷な状態に置かれているのだ。
だから、思考を真っ白にして、無の状態でこの長い時間を馬の背に揺られてゆくことはとても難しい。
暑い。
暑くてたまらない。
そう思うことと同時に、数時間前の記憶、数日前の記憶を、頭の中で次々かつ無気力にめぐらせて───いや、記憶たちはほとんど勝手にめぐっている状態なのだが───この時間をやりすごそうと、エドワードの精神は懸命に努力していた。
エドワードをこんなところまで連れ出したのは、アームストロングだ。
ロス少尉の事件からまだ日も経っていないというのに、どこかすがすがしい面持ちのアームストロングが、数日前にセントラルのホテルにやって来て。
問答無用で、理由らしい理由も聞かされずにアルフォンスから引き離された。
目的のはっきりわからない道のりは、途方もなく長く感じる。
自分がここまで無理やり引きずってこられて、ブレダがいてアームストロングがいて、あらかじめ策が何か整っているようなふうであるのは、まず間違いなく軍関係の、あるいは賢者の石関係の事項だろう。
そして思い出したくもないのだが、もっとはっきり言うならば、この事項にはマスタングが確実に絡んでいる。
彼の直属の部下であるブレダが、本来の軍務を放り出してこんなところにまで出張してくるなど、上司の裁量がなければまず不可能なことだ。

───どうなっている?何を考えている?あの男は。

賢者の石に、何か近づくことができるのか。
それとも、セントラルの騒ぎからオレを遠ざけるための目くらましか。
目くらましにしちゃ、おおげさなんじゃないか。
またオレに何か隠しているのか。
いや。もうそのことは考えない。
考えたくない。
まとまりようもない思考が、炎熱の気温でまた、ぐにゃりと濁る。
汗すら乾いてしまった額を掻いて、エドワードは馬の手綱を握り直した。
あの男のことを考えると、ここが極寒の地であったとしても、炎熱の嫌悪感で憤死できそうな気がする。
だがその嫌悪は嫌悪であって嫌悪でなく。
それが嫌悪であるような気がするのは───嫌悪のままで固定しておきたい気がするのは、エドワードの醜い自己防衛なのだ。
この感情を抱いたままでどうすれば心の平穏を保てるのか、などという安直な自らの要求を、今のエドワードは解決することができない。

───考えたくない。考えたくないんだ。

自分の力不足のせいで、自分によくしてくれた人間を二人も失った。そんな罪を置き去りにして、こんなバカなことで平穏を保てないでいる自分は、ますます人の道から外れている。
「あきらめるな、前に進め」と。
あの時、そう言ってくれたグレイシアの厳しい顔を、エドワードは必死で思い浮かべる。
本当は、彼女に罵倒されても文句は言えなかったのだ。
いや、もしも罵倒されたなら、エドワードは彼女に感謝しなければならなかった。
そのことによって、エドワードの魂はほんの少し解放されるからだ。
聡明なグレイシアは、罪人であるエドワードに、簡単な安息など与えはしなかった。彼女はエドワードを責めないことで、罪人たるエドワードにふさわしい、最も過酷な試練を与えてくれた。
そのまま、生き続けること。
ただ眠り、食事をし、呼吸していろという意味ではない。
いかに深く傷つこうとも、その魂と精神を投げ出さずにいろと。
その、エドワードにとって最も過酷な試練を耐え続けたとしても、それはおそらくは、グレイシアが受けた悲しみには及ばないのだ。
身体にこもった熱が鎌首をもたげ、エドワードの脳髄までを痛めつける。
「あと。どのくらいなんですかね」
エドワードの斜め前方で、出入国コーディネーターに問うブレダの声も、疲労の色が濃い。
「もう、すぐだ」
簡潔な返答にどうにか励まされて、エドワードがやっと前方に目をやると、揺れる熱気の向こうに、ぼつぼつと、建物らしい影のかたまりが浮かんでいた。



神殿の柱は崩れ、折れてひび割れた柱の側面に、容赦なく日が照りつける。
崩れてはいても、それでも遺跡たちは、ここを通る旅人に、貴重な日陰を充分に提供してくれている。
馬を休ませる水場で水をかぶり、エドワードはようやく正常な思考能力を取り戻しつつあった。
「……で?なんでじいさんがこんなとこにいるんだよ?いいかげん、タネあかししてくれてもいいんじゃねぇの?」
水場でひょっこりエドワードたちを迎えてくれたリンのお目付け役は、例の出入国コーディネーターと同様、口数が少ない。
その昔は人の住居であったのだろう、林立する日干しレンガの壁の隙間を、そのお目付け役の老人に従っていくつもすり抜けたところで、壁のもう一枚前方から、砂を蹴る軽やかな足音が聞こえた。
「誰?」
足音と、老人と、ブレダやアームストロングに向かってエドワードは問いかける。
誰からも、返答はなかった。
足音の主が、すぐに壁の向こうから現れたからだ。
「エドワード君」
日差しの中、その変わらない落ち着いた声が、滑らかなイントネーションで耳を打つ。
幻影などではありえなかった。
壁の向こうからひょっこり現れた彼女の髪は、あまりにもまぶしく日光を反射しているし、髪と同じく黒い目は、エドワードが覚えていたのと全く同じに、さまざまな光と影を反射して、丸く濡れている。

完全に、だまされた。

こんなに、身体が締めつけられるような悔しさなど、今の今まで、知らなかった。

「ロス、少尉……!」

***

大佐が、行方不明だ。
今朝はきちんと出勤していたし、昼食後の、最も眠気に襲われる時間───すなわち、彼が職務から逃亡を企てる確率が今まで最も高かった時間にも、彼はきちんと着席していた。しかし、それに安堵して、三時のお茶でも用意しようとホークアイが油断したのがアダとなった。
かのデスク上では書類が広がり、インク瓶のふたが開き、ペンはまだその先端を黒く湿らせたまま脇に転がっている。
突然の嫌気に耐えられず、発作的に居残り補習から逃げ出した学生のようなあわただしさだ。
ホークアイは器用に片手でティーカップを載せたトレイを支え、もう片手でデスク上の書類を二、三枚どかせて、トレイの着地場所を確保した。
雑務の手抜きは甚だしく、引き出しの中の整理整頓もかなりあやしいマスタングだが、妙に几帳面な一端も持ち合わせていて、彼は職務から一時的に逃亡する際は、その直前に、さりげなくデスクの上を整頓してゆく。
ペンが転がって書類を汚さないように、ペン立てへ納めて。
インク瓶はきつくふたを閉めて。
目の前の書類は、デスクの地肌が見えないように適度に散らかしつつ、かつ業務の中断部分が飲み込みやすいように、彼独自の判断で振り分けられた数枚の紙束を、そこここへわかりやすく点在させ、その上にペーパーウェイトやら何やら置いて、防風対策まで施すのだ。
それが今日は、このありさまだ。
日常の業務をこなしながら、水面下で様々な指示を部下に出し、計画の進行を管理することは簡単ではない。
密かに東方へ向かったブレダからの連絡があるまでは、安心ができないこともわかる。
だが、マスタングは、その程度の緊張感に耐えられない人物ではなかったはずだ。
今は、席など外している場合ではない。ブレダからの連絡を万全の体勢で待たねばならず、こちらはこちらで、まだ色々と工作が続いている。

───「ケイト」の様子も見てやりたいし、早く「ジャクリーン」の後方にもついてやりたい。

なにぶん、信じている上司ではある。
デスクの上で湯気を立てる、たった一つのティーカップの水面を見下ろして、ホークアイは深く長く、息をついた。
どうしようもなく冷酷な一面のあるマスタングだが、反面、マスタングは自分のその冷酷さを自分で非常に嫌っている。
彼のその、心の最深部に近いであろう葛藤に気づいたからこそ、ホークアイは彼の下で働こうと思ったのだ。
心底の冷血漢ならば、ヒューズ准将に対してもマリア・ロスに対しても、ここまでの行動に出るはずがない。
マスタングがこの計画を投げ出すことなど、まずありえない。
こうして手を抜くことも、考えにくかった。

───何が、あったのだろうか。

こんな時にまで、あの小さな錬金術師の顔が浮かぶ。
エドワードは、今頃ブレダたちに連れられて、ロス少尉の件を確認しに行っているはずだ。
マスタングの変調を、何もかも彼に結びつけてしまうのは安直すぎるとは思うのだが。
状況があまりに不自然なばかりに、ホークアイの憶測はエドワードから離れられない。
細かな理由は正確にはわからないが、エドワードがマスタングの調子を狂わせる人間であることははっきりしている。
調子を狂わせる、という表現は少しずれているかもしれない。
あの騒がしかったニューオプティンで、マスタングが一瞬見せた透明な穏やかさを、ホークアイは思い出す。
マスタングが、エドワードに対して一方的な感情を持っていたことはかなり前から推測していて、それが行きすぎるならば上司といえど見過ごせないと、彼らの様子に常に注意を払ってきたのだけれども。
あのニューオプティンで、エドワードはマスタングに何か働きかけ、それをマスタングは受け入れたのだと思っていた。
あるいは、エドワードはマスタングの自暴自棄をいさめたのかもしれなかった。
あるいは───これが一番信じがたい推測なのだが───あるいは、マスタングの「一方的な感情」を、エドワードがまるごと受け入れたのかもしれなかった。
とにもかくにも、あの時マスタングにとって、何か深いところでエドワードとの意志の疎通が成就したからこそ、彼はあれほどまでに穏やかな表情を見せてくれたのだ。
配慮のウェイトを無意識に上司の方へ偏らせてしまい、ついエドワードの側の事情を忘れてしまいそうになる自分を心中で叱咤して、ホークアイは上司のデスクから離れた。
ロス少尉の件で、エドワードをだましたことをマスタングが気に病むのは、かなり無駄なことだと言える。
ロス少尉が潔白だとまだ決まったわけではないが、自分やマスタングの推理が正しければ、今頃エドワードはすべての事情をブレダたちから教えられているはずだ。
それが、わからないマスタングではあるまい。

───いったい、何をそんなに気に病んでいるのか。

彼の逃亡の原因を徹底究明しようなどとはもちろん思っていないが、業務は目の前に積まれており、淹れたお茶が冷めてしまうのもやや惜しい。
ホークアイは司令室のドアを押し、かの逃亡者が、この建物内でこれまで逃げ込んだ「拠点」をいくつか思い浮かべ、足早に軍靴を鳴らして、その第一候補へと向かった。



背中が冷たくなってきた。
司令部の屋上で、空に抱かれるがごとく寝そべったまま、マスタングは半分だけ寝返りを打ち、自らの腕枕に自らの頭を乗せた。
冬はもう近いが、今日のこの、季節外れに暖かく、いまいましいほどに突き抜けた晴天は、日光浴にふさわしい。
日差しに温められた屋上の床は、その素材が石であることを除けば、下がりそうになる体温を保つのにうってつけの暖房だ。
だがそのうってつけの暖房も、午後遅くなり、少々保温がきかなくなってきた。
今頃は、ホークアイがこちらに向かっていることだろう。
しかしホークアイはおそらく、最初に書庫に向かうはずだ。マスタングのサボタージュスポットを知り尽くしているがゆえに、最も上司発見率の高い場所から攻める正攻法を、簡単に翻す彼女ではない。
司令室から書庫までは遠い。数々の探索作業をクリアして彼女がここに到着するためには、少なくともあと十五分は必要だろう。
終わりの見えた短い休憩時間を惜しみながら、マスタングは再度反対側に寝返りを打ち、腕を伸ばす。
自分の中で膨らむ期待に、耐えられない。
エドワードがロス少尉の生存を確認した後に何を思うのか、想像するだけで寒気がする。
あの冷酷で下衆なマスタングが人助けをした、と。
その事実をエドワードに知らしめることを、こんなにも熱望している自分自身の期待に、寒気がする。
ニューオプティンのあの教会で、許してくれなくていい、とエドワードにすがったのは、誰だったのか。
エドワードに許されることなどありえない、彼がどのようにマスタングを嫌悪しようとも、彼の記憶の中に存在できるだけでいいと叫んだのは、誰だったのか。
やはり、彼の理を知り、彼の理を自分のものにしたいなどと思ったことが、そもそもの間違いだったのだ。
エドワードは───いや、エドワードに代表されるこの世の人々は、自分とはかけ離れた理の下で生きている。
だが、引き寄せたいと、引き寄せたと思った彼の理は、マスタングにとって、予想外に恐怖すべきものだった。
理を引き寄せ、エドワードに近づき、エドワードの歓心を買いたい、あわよくば許されたいと、自分の欲望が、こんなにも安直に噴き出てくるとは思わなかった。

───こんなことなら、いっそ。

こんなことならいっそ、あの時エドワードを自室に引きずり込んだまま、有無を言わさず彼の身体を犯しつくしてしまえばよかったろうに。
違う理でここまで生きてきた自分が、今更、他の理を飲み込もうとすることは、もう不可能なのだ。
けれども、もう事態は動き始めている。
いや、マスタングが、マスタング自身の指で、事態を動かしている。
どれほど恐ろしかろうと、動かしたそれを、元に戻すことはできない。
事態に協力してくれる部下の、他人の、命がかかっている。もうこの件を、マスタングだけの意志で放棄するわけにはいかないのだ。

───おまえ、自分が嫌いだろ?

遠い記憶であるのに、空の高さもあいまってか、唐突なその声は耳元で響いた。

───ま、それはすぐにはどうにかなるモンじゃねえけどな。

覚えている。士官学校の、誰もいなくなった、広い広い講義室の隅で。

───まァ言っておく。俺はな、自分で自分を嫌いなおまえが好きだよ。

よくもまあ、あんなことを面と向かって言えたものだ。
どんな会話の流れだったのかはさっぱり忘れたが、あれだけは、はっきり覚えている。

───自分を好きになれなくても、まあそう絶望すんな。このヒューズ様が、おまえを好き~っ、って言ってんだからよ。ま、そっから始めろや。

俺は絶望なんかしていない、と、あの時自分は答えたきりで。
今も昔も、かの友人の言うことは理解できない。
自分を、もう一人の自分の目から客観的に見つめて判断していれば、自分自身を愛することなど、できるわけがない。
自分を愛するなど、醜いとしか思えない。
本当にあの時、ヒューズは何を言っていたのか。
そして、今になってそんなことを思い出すのは、どうした精神の作用なのか。
死者の魂は、空へ上ると教える宗教はごまんとあるが。
今、この目前の空にどれほど思念を飛ばしても、もうこれ以上は何も教えてはもらえない。
教えてもらえたとしても、おそらく理解できない。
しかし、理解はできなくても、その記憶は不愉快なものではなかった。
学業の中で、「わからない」と白旗を上げることが何より嫌いなマスタングだが、そのプライドをも押し流す、何か大きな感情が、現在の自分の中に存在しているのがわかる。
頭の上で、かちゃりと音がした。
遠くで屋上のドアが開けられ、そして閉められ、足音が近づいてくる。
起き上がるのもばつが悪く、だが無反応なのも相手の怒りを買いそうな気がして、マスタングは寝転がったまま、顔を音のする方向へ向けた。
「大佐。そろそろお戻りください」
よく磨かれた、やや足首の細い軍靴は、優美とも峻烈ともいえそうな、迷いのない動きでやって来て、ホークアイの声と共にマスタングの鼻先で停止する。
マスタングが名づけられない大きな感情は、予想外に早く到着したその足音によって、心地よく飛び散り、消えた。