焦げたダイヤモンド -2-



あれほどまでに自分との接触を恐れていたエドワードが、あろうことかこの胸倉をつかんで詰め寄ってくれている。
路地の闇を吸って琥珀色に沈むエドワードの瞳を見下ろしながら、マスタングは息を止めた。
その琥珀色の中に満ち満ちた怒りを、どこか嬉しく眺めてしまっている自分が、本当にどうしようもない生き物だと思う。
彼が失望している、と思うのは、自意識過剰だろうか。
軍服の喉元を締め上げる機械鎧を、マスタングはゆっくりと手のひらでつかむ。
彼の怒りの九割九分はもちろん、「ロスを殺した」自分の非道さに向けられているはずだが、その怒りの最後のひとひらは、「エドワード・エルリックに無様に愛情を乞うマスタング大佐」に向けられているのではないだろうか。
あの無様な人間が、哀れんでやろうと思っていたかよわい男が、思い出したように殺人をしてみせる、そのことに彼は驚き、そんな男に情けをかけようとしていた自分自身にも、怒りを抑えられないのではないか。

───いや。都合のいい願望も、ほどほどにしておかねば。

つかんだ襟元の機械鎧は、小刻みに震えている。
「なんとか言え!」
震えるそれで、さらに襟を締め上げられて、さすがに苦しい。
目の前の琥珀色は、平静でいられないほど美しいが、今は、それを愛でている時ではない。
もしもこの工作が、ロスを謀殺しようとした一味に知れれば、マスタングの命はもとより、部下と、おそらくはその家族にまで災禍が及ぶことは間違いない。
苦痛を、これ以上連鎖させてはならないのだ。
なぜこんな面倒を引き受けてしまったのか、自分で自分がよくわからない。
それでも、この面倒が、無意味でないことだけはかろうじて理解できる。
人間の愛情というものを理解できない自分が、こんな面倒をこなすのは偽善であると確信する一方で、報酬を求める勤労でもあるのだとマスタングは思う。
金が欲しいのではない。
理(ことわり)が、欲しいのだ。
死ぬことをエドワードによって禁じられた、この身体と魂を生かすためには、金でなく、理が要る。
ヒューズの死というあの「苦痛」を、自分だけでなく、他の人間も感じているのだとしたら。他の人間も、精神の苦痛が高じて味覚を失ったり、皮膚感覚を失ったりして身体を傷めているのだとしたら。
それを阻止すれば、エドワードを理解できるような気がするのだ。
殺したいほど憎悪している人間の死さえ、エドワードは望まなかった。
その彼の、理を知りたい。
知りたいと思うことすら、自分には許されていないかもしれないが、今は、こうするしかないような気がする。
眼前のエドワードが、短く息を飲んだ。
彼の生身の左手が、マスタングに向けて振り上げられる。
空気を切る勢いのそれを右頬の側ぎりぎりで避けて、マスタングは発火布のこぶしを、一足踏み込んで来た彼の頬に叩き込んだ。
手加減をしてしまいたい誘惑は、どうにか振り払うことができた。
マスタングの右手の節々で、じんわりと痛みが弾ける。
その痛みを耐えながら、マスタングは乱れた襟元を直す。
「上官に手を上げるか。身の程をわきまえろ」
感心なことに、顔面のほぼ急所である顎を殴られても、エドワードは倒れなかった。
おそらくは脳震盪(のうしんとう)寸前であろうところを、路面に片膝だけついて、ふらつくまいと上体を保っている。
うなだれているかに見えたその小さな体躯は、再度バネのように立ち上がり、今度は機械鎧の右手を振り上げてきた。
「だめだ兄さん!!」
辛抱強く(というよりは驚愕で動けなかったのかもしれないが)、事のなりゆきを見守っていたアルフォンスが、鋼鉄の身体を敏捷にきしませて、兄の小さな体躯をはがいじめにする。
「離せアル!!!」
「兄さん、だめだって!!」
きし、きし、と泣いているように、怒り狂う少年をすっぽり抱え込んだ鎧の節々が、かかる圧力に耐えかねて音を立てる。
「アル!離しやがれっ!!!」
アルフォンスが、その疲れを知らない身体でエドワードを捕まえていてくれなければ、普通の人間の二、三人がかりでも、今のエドワードの憤怒の鉄拳を抑えることは、難しかったのではないか。
いつもながらのこととはいえ、アルフォンスの子供らしからぬ分別に、マスタングは無為無言で感謝を捧げた。
今まで、自分のポーカーフェイスに自信を失ったことなどなかったが。
ことエルリック兄弟に関しては、鉄面皮と揶揄されてきたこの顔の表情筋のコントロールが効かなくなることを、マスタングは不本意ながらも自覚している。
煙と爆発音の出どころを見物に来た通行人たちが、路地の入り口に集まり始めた。
この「惨状」を彼らが目にすれば、憲兵もじきに到着するだろう。
エドワードに事情を説明しているヒマはない。
だから、演技は、完璧でなくてはならない。
憲兵の事情聴取は当然、エドワードにも及ぶ。
そこに不自然さがあってはならないのだ。
どうしても、理は欲しいが。
このことで彼は確実にマスタングから遠ざかった。
空いてしまったその距離を埋め合わせることが、近い将来確実にできるという保証はない。
このことは、今までのマスタングの絶望以上に、絶望に繋がりかねないのだ。
本当に、なんて、面倒なのだろう。

───私は。今、いつも通りの顔をしているだろうか。

不本意な不安を、発火布の指と共に、軍服のポケットに突っ込んで。
これ以上エドワードに手を上げずに済んだ安堵が、きゅうくつに身体の中に満ちてくるのを、マスタングは暗い通路の片隅で懸命に耐えた。



空の色に何がしかの重力を感じるほど、この夜は暗く長い。
「兄さんは、ヒューズ中佐のこと…前から知ってたの?」
検死局からの帰り道、冷えた石畳の上で、鎧の足を引きずるように歩きながら、アルフォンスが尋ねてきた。
去らない激昂をどうにか身体の中に押し込めて、いっぱいいっぱいだったエドワードの感情に、予測していた、だが忘れていたかった風穴が開く。
「さっき、検死局でアームストロング少佐が…僕にだけ、中佐の事件のことを説明してくれたんだ。兄さんは、前から知ってたの?」
怒りにエネルギーを使い果たしかけていたところに現れた伏兵に、エドワードは慌てる余裕もない。
アルフォンスは、怒っている。
こんな大切なことをすぐに伝えなかったエドワードのことを、アルフォンスは今静かに怒っている。
ああ知っていたよ、と肯定の返事をして、その次にアルフォンスから浴びせられるに違いない多くの質問がやりきれなくて、エドワードは黙ったまま歩く。
怒りの沸点がエドワードよりはるかに高い、すなわちエドワードよりもずっと穏やかな気質の彼がこんなふうに静かになる時の恐ろしさは、何度味わっても最低に居心地が悪い。
けれどももう、逃げ場はないのだ。
ぎゅうぎゅうと、幾重も幾重も恐れの感情に覆われた意識の中で、ぽつりとぬるんだエドワードの諦めは、不謹慎な安堵にまで傾こうとしている。
「兄さん?」
いらだつ声が、二人分の足音をさえぎる。
「………悪かった」
ふいと立ち止まったエドワードの、数歩先でアルフォンスも立ち止まり、振り向く。
「先生んちから南方司令部に行った時に、少佐がいて。そこで聞いたんだ。黙ってて……悪かった」
視線を上げないままのエドワードのつぶやきに、アルフォンスは答えない。彼の沈黙の意味がわからなくても、やはり逃げ出すわけにはいかない。
ぼんやりと闇に整列する、足元の石畳を見つめる時間は、永遠のように長い。
ようやくアルフォンスから下された判決は、ひどく優しいものだった。
「僕に、話すひまがなかったの?それとも、隠しきれるなら、僕には隠し通そうと思ってた?」
エドワードのそれまでの沈黙をどう解釈してくれたのか、アルフォンスの声は、宿無し猫に話しかけてでもいるように、柔らかさを含み始めている。
「………たぶん。両方」
アルフォンスの優しさが嬉しくて、ぬるんだエドワードの諦めは、つい数秒前にはとても言えそうになかったずうずうしい理由を、アルフォンスにぶちまけてしまう。
街灯の光も十分でない、ぼやけた闇の中で、がしゃり、がしゃりと金属音を響かせながら数歩引き返してきたアルフォンスの鎧が、エドワードの目の前にそびえ立った。
冷えた大きな手が、うつむいたエドワードの頬に伸びる。
その指は穏やかにエドワードの顎骨のラインを撫でたが、すぐに、厳しい強さでそこを押し上げ、エドワードの顔を上向かせた。
そういえば今朝、司令部で同じような場所をあの男に触られたのを思い出し、背筋に残る悪寒に促されて、エドワードはアルフォンスの手を払い落とそうと片手を上げたが、目的を達成することはできなかった。

───オレに、この手を払い落とす権利はない。

非はすべて、自分にあるのだ。
宙で静止させた自らの手をそっと下ろし、エドワードはされるがままに、アルフォンスを見上げる。
遠くの街灯の光を載せて、鎧の頭は、ところどころ、乳白色の光の筋に縁取られている。その緩やかな光の筋が、きしり、と角度を変えて鋼鉄の頭にもう一度絡み、そこから容赦ないアルフォンスの声が降ってくる。
「ホントに。バカだね、兄さんは」
声は冷笑に満ちているのに、その響きがいっそ、心地よくすらある。
「こんなこと、隠しきれるわけなんてないのに。それに。兄さんはやっぱり僕のこと、全然考えてないよね」
「全然って、おまえ…」
冷たいため息混じりのアルフォンスの言葉に、さすがのエドワードも、頬を捕らえられたまま眉根をぴくつかせた。
「兄さんは、いつも自分一人で抱え込むことで、僕を楽にしようとしてくれてるみたいだけど。それ、すっごい迷惑だから」
エドワードの眉根がいっそう固まる。
「賢者の石を探してるのは、兄さんだけだったの?ヒューズ中佐は、兄さんだけのために資料を探してくれてたの?……違うよね。僕がヒューズ中佐の事件を知らないままでいるのは、それだけで僕の罪になる。兄さんは、これ以上僕に、禁忌を犯せ、って言うわけ?」
穏やかで、しかし痛烈なアルフォンスの怒りに、エドワードは声も出せない。
重要な局面に立たされていながら、どうして自分はいつも、周りの人間を守れないのだろう。
アルフォンスのことを本当に考えていたのなら、人体錬成などすべきではなかった。
ヒューズに世話になったのなら、賢者の石から遠ざかってくれるよう、彼にもっと明言すべきだった。
ロスとさっき、会えたのだったら、腕力に訴えてでも彼女を引き止めればよかった。
漆黒の遺体と、その傍に平然と立っていたあの男の姿が、エドワードの脳裏をまた駆け抜ける。
あんなところで、国軍の大佐ともあろうものが、待ち構えていたように親友の仇を燃やすなどと、どうしても想像がつかなかったとはいえ。
後悔はいつも、乾いた重力で、エドワードの肺をすみずみまで打ちのめす。
そして今、わかっていたはずのアルフォンスの怒りを堂々と包み込むこともできず、ちっぽけなやるせなさで、自身の胸をみすぼらしく塞いでいる。
苦しさに、目をもう開けていられない。
顔を上向かされたままエドワードが苦悶していると、急にその場で浮き上がるように、首筋が楽になった。
アルフォンスが手を下ろしたのだ。
「…ごめん。兄さん」
頬を解放され、反射的にうつむきかけていたエドワードは、驚いてもう一度彼を見上げた。
無表情な鎧の頭は、どうしたことか、ばつが悪そうにエドワードから視線を逸らしている。
「でもきっと……僕も。僕も、兄さんの立場だったとしたら、『あした言おう、あした言おう』って思って、先延ばしにしたと思う」
「……アル」
「だけど……ううん、だからさ。もうやめて欲しいんだ。僕が何も知らないことで、僕も、兄さんも、周りの人も幸せになれるなら、それでいいんだけど。兄さんが、僕に何か隠してて、そのせいで苦しいなら、もう一人で抱え込まないでよ。お願いだから」
きしり、ともう一度向き直ってきた鎧に真正面から視線を捕らえられ、エドワードの身体の中の、針の先ほどに小さな芯が、冷えた。
もう何年も前から隠している「あのこと」を、見透かされたような気がして。
「僕ら二人で、賢者の石を探すって、決めたんだから。だから、二人で…」
「アル」

───だめだ。

冷たい鋼鉄の中から響いてくる、この世で誰がかけてくれるよりも温かい言葉を、その大切な名前を呼んで、エドワードはさえぎる。
だめなのだ。
この世で彼が、誰よりも温かいからこそ。
だから、真実を彼に話してはならない。
「アル。ありがとう」
短すぎる言葉に万感を込めても、きっとアルフォンスは納得しない。
けれど、今ここで彼に罵られても、真実を話すことはできない。
「兄さん!どこ行くの!?」
横っ飛びに跳ねて、今来た道を引き返し始めたエドワードに、アルフォンスは仰天している。
「先に、ホテルまで帰っててくれ」
「もう夜中だよ!?」
「悪い。用事確かめたら、すぐ帰る」
アルフォンスの言う通り、隠しきれるものなら、すべて隠し通してしまいたかった。
だが、それが不可能であり、遠からず、真実を───「あのこと」を、すべてアルフォンスにさらさなければならない事態が来るだろうことを、エドワードは直感していた。
わざと何度も狭い路地の角を曲がり、アルフォンスの追跡を振り切って、エドワードは闇を駆ける。
こんな夜中に、しかも検死局の帰り道に、眠ることのできないアルフォンスを置き去りにすることがどれだけ残酷かわかっていても、エドワードは引き返さなかった。
今、目の前に転がっている真実の、最後の最後の一点に、納得がいかないのだ。
この納得のいかなさが、ロスの死を認めたくない、認められない、自らの甘えであることは百も承知だ。
そして、いずれアルフォンスに真実を話さなければならないのなら、ほんの少しでも、その内容を良い方へ脚色したいという、往生際の悪い見栄でもある。
だがその甘えと見栄を差し引いても。
さっきの一連の出来事はやはり、出来すぎているような気がしてならないのだ。
さっきの事情聴取の間中、マスタングと、憲兵の間の空気は険悪だった。
マスタングは憲兵に協力していなかった。されてもいなかった。
それならばなぜ、あの入り組んだ暗い倉庫街で、憲兵さえ追いつけなかったロスを、マスタングは捕らえることができたのか。
この広いセントラルシティの中、たとえ軍の無線を傍受していたとしても、あのしがらみの多い立場にいるあの男が、誰の協力もなしにあそこまで確実な行動を取れたことを奇異だと思うのは、ひねくれすぎているだろうか。
ひょっとすると、マスタングは誰かの協力を得て、あそこでロスを待ちかまえていたのではないか。
ひょっとすると、あのロスの逃走は、最初から仕組まれていたのではないか。
とっぴでばかばかしい考えだとあの男に嘲笑されたなら、今度こそ彼の憎らしい横面を張ってやればいい。
どうしても拭いきれない自分の甘さと、アルフォンスへの見栄に潰れそうになる自分の心をこそ嘲笑しながら、エドワードは、今朝メモを見たばかりでうろ覚えのあの男の住所を、記憶の中から無理やり引きずり出した。



身体にまだ、あの独特の臭いが残っているような気がする。
暗い夜道で、マスタングは自らのコートの袖口を軽く嗅いだ。
セントラルの検死局に踏み込んだのは今日が初めてだったが、嗅ぎ慣れてしまったあの臭いがするのは、どこの検死局も同じだ。
検死局の廊下のあの臭いは、ゆえあってあの場所に運び込まれた腐乱死体や焼死体や轢死(れきし)体や溺死体の、それぞれの臭いをどうにか消そうとしている消毒薬のそれとミックスされて、死臭そのものとはまた違う「検死局の臭い」となっている。
人間の嗅覚は時々、その視覚よりも数倍ナイーブで、残酷だ。
強い消毒薬の臭いの中に、控えめに、だがゆるぎなく存在している死臭はいつも、ほんの微量であっても、マスタングの中にある無数の死者たちの記憶をくっきりと呼び起こした。
幸か不幸か、いや一般的にはおそらく不幸というのだろうが───その呼び起こされる記憶にすら、マスタングは慣れていた。
慣れきったその感覚に多少なりとも敏感になっているのは、今日、エドワードを欺いたからかもしれない。
知らず、歩調がゆっくりになっていたことに気づいて、マスタングは自嘲のため息をつく。
嘘をつくのは得意だ。
得意というよりも、それはマスタングにとって生活の中での義務であり、生きるために必須不可欠な手段でもあった。
自分にとって空虚な存在でしかない肉親を愛するという嘘、戦場で「英雄」となった自分への賞賛を認める嘘、そしてそれらの嘘を隠すために、周囲の人間にふりまくこの上ない周到な嘘。
歩調を上げ、アパートメントの正面玄関にたどり着いたマスタングは、とても疲れた気がする腕で、そのドアを押し開ける。
嘘を鎧にして、それを身体に張り巡らして、さらには心に取り込んで、取り込んだ嘘はいつか真実となって、自分をこれまで守ってきてくれた。
その薄氷の上の真実をひっくり返し、薄氷を踏み抜いてマスタングの嘘をそこらじゅうにぶちまけた少年が、やっと帰り着いた自室のドアの前に、立っていた。
外廊下の薄闇に沈みながらも、見慣れたそのシルエットは、彼以外の何者でもない。
暗がりに青く浸された顔は、獲物を見つけた虎のように、静かで隙がない。
こつり、こつりと歩を進め、目前の扉を開ける鍵を、ポケットの中で探りながら、マスタングはその静かな虎に声をかけた。
「………何か用か?」
この場合、彼にかける言葉として、もっと違うものがこの世には確実に存在するのだろうが、マスタングの明晰であるはずの頭脳はそれを選び出すことができなかった。
今までいつも、エドワードに対峙すると、反射的に彼を不愉快にする言葉を選んできたが、他ならぬ彼に嘘の薄氷を踏み抜かれてからというもの、マスタングは自身のその行為が、子供っぽく、かつ根の深い彼への執着であったことを学習している。
エドワードに残酷な言葉をかけるたびに、自身の肺が縮むような、胴体の一部分の血流が滞るような、痛覚に近い感覚がざわざわと体芯をゆき過ぎていくのを感じていたが、あれは、高揚であると同時に、エドワードに対する恐れでもあったのだ。

───心も、身体も、離れていって欲しくない。

言葉によってエドワードを傷つけずに、その恐れを彼に吐露する方法が、マスタングには未だにわからない。
そんな感情は、二度と誰にも吐露してはならないし、しても無駄だとわかってはいるのだが、マスタングは今現在、エドワードに向けて何か言葉を発する時に、その基本的な恐れからどうしても逃れられないでいた。
「……話がある」
何か用か、などという最高に冷たいあしらいにも全くひるまず、エドワードはマスタングを見上げてくる。
その視線にさらされながら、ポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込み、ひっそりと小気味よい音で解錠して、マスタングは再び鍵をポケットに納めた。
「話?」
向き直ってやると、怒りに白々と燃える金色の目が、新しく湿度と光を溜めて、ねめつけてくる。
「あんた。何か、仕組んでるんじゃないのか」
「何のことだ」
「さっきあんた、憲兵のおっさんに文句言われてたよな。やりすぎだ、って」
「それが何か?」
「あんた、ロス少尉があそこにいるって、どうしてわかったんだ。憲兵と一緒に来たんじゃなかったんなら、誰に聞いた?」
誰かに不自然さを尋問されることはままあるだろうと思っていたが、まさか。
「君は、私の仕事場がどこだと思っているんだ。少し真面目に仕事をしていれば、情報は向こうから勝手に転がって来るものだよ」
「……だから誰に聞いたんだ。言えねぇのか?」
まさか、その第一陣が、このエドワードだとは思わなかった。
マスタングの中で弾けた感情は、危惧ではない。
嬉しさだ。
今この場での沈黙は、エドワードの疑いを倍増しにする。
にもかかわらず、マスタングの身体の中で小さく小さく弾け、粒子のように広がり始めた嬉しさの感情は、不思議な鋭さで数瞬、マスタングの思考を止めた。
「おい!」
「…………『大佐』にもなれば、憲兵司令部からの通達など、真っ先に耳に入る。たとえ、この間セントラルに出てきたばかりの田舎者であろうとね」
「通達してきたのは誰だ。名前は?」
「通達は通達だ。いちいち名乗りあうほど軍はヒマではない。君はそんなことを訊いて、いったい何をしたいんだね?」
ついこの間も同じような問答を、このエドワードとしたものだった。だがこの間とは、何もかもが違っている。
「あんた、最初っから、ロス少尉を狙ってたんじゃないのか」
白く厳しく、闇の中で光る虎の目は、美しい。
「自分の手で…少尉を助けるなり殺すなりしたかったから、わざとおびき出して、待ち伏せてたんじゃないのか!?」
「声が大きい。鋼の」
解錠されたドアのノブに手をかけて牽制しても、エドワードには通じない。
「そんなに人に聞かれたくないんなら、あんたが今すぐ白状すればすむことだろ。あんたの行動は、いちいち不自然すぎるんだよ!!」
マスタングはドアノブを強く握りしめた。
「知りたいか?真実を」
問いかけると。
音声に震えていたその場の空気から、熱が奪われたような錯覚に陥る。
いきなり質問を肯定され、エドワードは息を飲んでいる。
「知りたいなら、来い」
ドアノブを回し、マスタングは目の前のドアを開けた。
「君が今晩この家で、私と過ごす覚悟があるなら、この件で、私の知っていることをすべて君に教えよう」
マスタングを見つめる虎の目が、もう一度白く燃え上がる。
「私の言っていることの意味は、わかっているな?」
全くもって丁寧に、これは冗談ではないとダメ押しまでしてやって、マスタングは唇の端を持ち上げる。

───違う。こんな方法は。

マスタングは心で叫ぶ。
それなのに、落ち着き払って、笑んでさえいられる自分が、我ながら不気味でしかたない。
もう二度と、エドワードに何も強制しないと誓った。
それを破るということは、永久に、エドワードが向けてくれる慈悲を失い、哀れんでさえもらえなくなる、ということだ。
だが、それだからこそ。
エドワードは絶対にこのマスタングの出した条件をのまないからこそ、マスタングは「真実」を隠し通すことができる。今はそれにこそ意味があるのだ。
だが。

───そんなにしてまで隠す必要が、どこにある?

自問が、引き続き、悲鳴のようにマスタングの意識の中に響き渡る。
言えば、楽になる。
エドワードに今、真実を話せば、彼は安心し、喜び、マスタングへの不信を瞬く間に拭い去ってくれるだろう。
彼は間違いなく沈黙を守ってくれる少年だ。彼が真実を知ったがゆえに、この計画が崩れ去る確率は、限りなく低いと言っていい。

───そして。そうやって。

エドワードを安心させ、喜ばせ、その先に何を求める?
「けれど君も知っている通り、私は卑怯者だ。君が私と一夜を共にしてくれても、私はその後で、君に真実を話さないかもしれない。その前に、真実すら存在しないかもしれない。それでもいいのかね?」
突然、マスタングの指が、ドアノブから払いのけられた。
がつ、と硬い音を立てて機械鎧の指が、ドアをこじあける。
部屋の主を差し置いて、ぽっかりと口を開けた暗い部屋に踏み込んでいったエドワードを、マスタングは呆然と見つめた。
まといつく室内の闇を振り切るように、小さな影が振り向く。
「……あんたはこういう約束は絶対に破らないヤツだからな」
闇に沈む虎の目は、たった今の怒りを封殺したのか、はたまた憤りのあまりそんなものすら吹き飛んでしまったのか、ひどく穏やかだ。
「わかった。ここに泊まるよ。……どうした?入ってこねぇのか?」



覚悟など、はなからできていない。
それでもエドワードは、その場から動かなかった。
自分で扉を開け放っておきながら、マスタングはまだ室内に入ってこようとはしない。
驚く国軍大佐の姿は、いつ見ても痛快だ。
そんなのんきな感想さえ浮かぶ。
恐れているばかりでは、賭けはできない。
その恐れを根底から払拭できるかもしれない、という奇妙で頼りない願望が、震えそうになるエドワードの二本の足をようやく支えていた。
やはり、マスタングは何かを隠している。
こんなまわりくどい条件を、わざわざ他ならぬエドワードに提示する時点で、隠し事の存在を告白しているようなものだ。
決してエドワードが承服するはずのない、エドワードには絶対に耐えられない条件を選んで提示してきたということは、エドワードを尻込みさせ、この場から、真実に近い場所から、何が何でも遠ざけてしまいたいということだ。
では。
その条件をのんでみせれば、マスタングは、どうするのだろう?
卑怯で律儀で、二面性どころか何重にも人格のねじれているこの男の意志の深層を、こんなにしてまで確認しなければならない義務など、どこにもない。
エドワードが何度失望しても(本当は失望という言葉すらあてはめるのは嫌だが)、あとからあとから湧いてくるマスタングのこの、腑に落ちない行動の数々に立ち止まらずにいられないのは、どうしてなのか。
彼を哀れんでいるだけ、というのならば、この賭けに負けた時の代償は、あまりにも大きすぎる。
重い、軍靴の最初の一足が、こつりと音を立てた。
ドアを開け放ったまま、玄関口に立ったまま、マスタングは腕を伸ばして壁を探り、室内の照明スイッチをぱちりと弾いた。
足元を照らすためだけの、オレンジ色の照明光が、陰鬱に降り注ぐ。
そこからおもむろに自室の玄関に踏み込み、何事もなかったようにドアを閉めるマスタングの動きが、必要以上に緩慢だと思うのは、気のせいだろうか。
前髪の影に沈んだマスタングの目を探り出そうとした、その瞬間に、腕を引かれた。
オイルに湿った鋼鉄の肘が、ぎしりと一声だけ鳴く。
機械鎧の関節部分を絶妙に握り込まれ、痛みこそ感じないものの酷い力で釣り上げられ、右腕を稼動させることができない。
操り人形のように引き寄せられ、エドワードの顔面がマスタングの胸板に衝突する前に、すばやい影と吐息が、すくい上げるようにその唇を塞いだ。
「う……っ」
検死局の、消毒液の臭いが鼻を突く。
それはすぐに、嗅ぎ慣れたマスタングの匂いに転じる。
ずしりと重い舌先が、あっという間に奥歯の歯茎にまで届き、ぬめる。
恐慌状態で走り回る小動物のように、悪寒がエドワードの身体のそこらじゅうを駆け抜け、引き返し、巡った。
舌の根まで、文字通り根こそぎ噛み潰されそうな口付けの深さに耐えかねて顔を背けようとしても、マスタングはもう一方の腕でエドワードの後頭部を押さえつけ、その部分の可動すら封じている。
「……く…ぁ…、」
息を継ごうとすると、口の中で湿った衝撃音が響いた。
エドワードの口腔を犯す舌は、深い部分で留まったきり、暴れ出さない。
その動きのなさについていけず、エドワードの肩から、がくりと力が抜けた。
途端に機械鎧を解放され、両の腕でぎっしりと抱きしめられる。
マスタングが顔の角度を変え、口付け直してきた。
ぬる、と引き抜かれ、またすぐ口腔を埋めてくる舌に、エドワードの腰が跳ねた。
ぞくぞくと、音でも立てそうな悪寒に耐えられなくて、だが耐えねばならなくて、エドワードは指でマスタングの脇腹を探り、抗議とも懇願ともつかない強さでそこをつかみ止める。
重く舌に絡んでくる舌は、重いくせに、その動きははかなげだ。
口腔を舐めつくそうとするわけでもなく、エドワードの吐息や発声を封じようとしているわけでもない、緩慢な動きの舌は、ちり、ちり、と数ミリの振れ幅でエドワードの舌を側面から撫でさすってきた。
深く侵入されているのはこちらの方なのに、何かに脅えているような、卑屈なまでに優しいそのマスタングの動作のせいで、彼の舌の凶暴な柔らかさが、かえって鮮明に伝わってくる。
「は、……」
息を吐くと、下肢が痺れた。
神経が焼き切れそうに、不快だった。
エドワードは反射的に、マスタングの脇腹を押し返した。
拍子抜けする素直さで、拘束が解かれる。
密やかに靴を鳴らして、マスタングは二歩下がった。
こんな時に自分で視界を塞ぐのは危険極まりないとわかっていても、身体中に充満する騒がしい悪寒と、湿りすぎた唇の感触に耐えられなくて、エドワードは目を固く閉じ、手の甲で口元を拭った。
マスタングは動く様子もない。
ぶれそうになる視線を無理やり上げると、そこには奇妙な表情をした男の顔があった。
ドアを背にして棒立ちになり、ほの暗い照明に前髪をかげらせたマスタングの目は、昏く光っている。
その目が、欲望とは程遠い目でこちらを見つめている。
エドワードを満たし続ける悪寒が、全く別の意味で、また一筋、揺れた。
この静かさは、なんなのだろう。
マスタングは沈黙している。
その沈黙は、この期に及んで、まだ、エドワードに選択の余地を与えてくれているかのように思えた。
翻意するなら今だと。
逃げるなら今だと。
なぜそんなふうに思えたのかはわからない。
非常にわかりやすく劣情にあふれた取り引きを、ついさっき持ちかけてきたくせに、どうかすると悲しげにさえ見えてしまうその表情は、静かな悲鳴で、エドワードに何事かを訴えたがっているようだった。
その表情を言い表すには、脆い、という言葉がかろうじて近いような気がする。
この脆さと静かさは、なんなのだろう。
出会って以来、表情も、声も、なんて無機質な男なんだろうと思ってきたが、あの出来事を境に、マスタングは別人に変貌してしまった。
いや違う。
人格をそうそう作り変えることはできない。
この男を、今までの彼とは別人だ、と思うのはエドワードの側の事情であって、この男自身の事情ではない。
マスタングがこんなにも支離滅裂で、軟弱で、理解不能な人間であるのは、おそらくは昨日や今日に始まったことではない。
元々この男が兼ね備えていた、さまざまな感情や性癖を、ここにきてようやくエドワードが理解できるようになった、というだけのことなのだ。
そして、信じられないことに。
この男の静かさと対照的に、エドワードの身体の中でどうしても止まない、この騒がしい悪寒は、冷気とは違う何かを含んでいる。
身体も、感情も、何も冷えない。
むしろ、熱い。
エドワードの意志に関係なく、悪寒だと思っていた熱気は、ずるずるとエドワードの体内を這い回っている。
唐突に、マスタングの唇が動いた。
「どうした。……感じたか?」
その唇は、笑いの形をしていたと思う。
黒とオレンジ色の影で縁取られたその薄い肉の形を認識したとたん、エドワードの中の熱気が牙をむいた。
先刻は届かなかった腕を、目前の軍服に伸ばす。
胸倉をつかまれ、その振動でマスタングの胸ポケットの中の銀時計が、妙に鮮やかに鎖を鳴らした。
どこまでエドワードを嘲りたいのか、マスタングは抵抗の動作ひとつ起こさない。
エドワードはためらわなかった。
憎いその唇の脇の、彼の頬へ、こぶしを叩き込む。
乾いた摩擦音に弾かれるように後方へ押しやられ、マスタングは背中を玄関ドアに打ちつけた。
それでも倒れそうにないその身体を体当たりで突き飛ばして、エドワードはドアを開け、廊下へ飛び出した。



走れば走るほど、身体の中の熱が大きくなるような気がする。
全速力で走ることにまだ余裕はあったが、大きくなる熱のかたまりが喉にまでつかえてきて、エドワードはゆっくりと停止し、路地に面した建物の壁にもたれた。
路地の闇に向けて、速い息をどんなに吐いても、熱は出て行かない。
大切な機械鎧に、手足をちぎられてやっと残ったこの身体に、汚らしいその熱がすみずみまで染みてゆく気がして、頭がおかしくなりそうだ。
あまりにも、汚い。
もっと前からその熱の汚さに自分で気づけていたら、こんな目には遭わなかっただろう。
よりにもよってあの男に、汚点を正しく眼前につきつけられることにはならなかっただろう。
けれど、自分で気づけば、終わりだったのだ。
「これ」に全力で気づかないふりをしていなければならなかったのだ。
気づけば、「これ」を認めなければならない。

不快では、なかったのだ。
あの男と触れ合うことが。

音もなく、静かに、だがある一定の衝撃をもって、心の真ん中を切り裂かれたような気がした。
衝撃を受けた傷口からは、血も流れない。
焦げたダイヤモンドを一筋掻きむしって、石の輝きを確かめようとしても、そこには相変わらず炭しかなかったような。
落胆というにもみすぼらしい感情の絞りかすが、ぽろぽろとその傷口からこぼれてゆくのがわかる。
可笑しい。
ニヤリと一人で笑む気力すらないが、ただおかしい。
この感情が、肉体の要求なのか、精神の暴走なのか、飽和して狂った悪寒のなれの果てなのかはわからない。
号泣するには拍子抜けていた。
怒り狂うにはエネルギーが枯渇していた。
ただ何もかも破壊したいだけだった。
しかしエドワードは既に知っている。
いっそ発狂とも言える自らのこの感情も、マスタングの存在も、今までそうであったように、自分で破壊することなど、決してできないのだ。
あの男は、隠し事を隠し通したかったのか、隠し事のあるふりをしたかったのか。
それともこの、エドワードの狂気の感情を、暴きたてたかったのか。
どう破壊したくても、どう破壊されても、エドワードの帰る場所は、ひとつだけだ。
闇の暗さに押し潰されそうになりながら、エドワードはようやく一歩を踏み出して、這い出るように路地を出た。
アルフォンスの待つ宿へ、帰らなければならない。
帰る場所もひとつなら、わかったことも、たったひとつ。





好きなのだ。
だから彼を、これ以上、非道な殺人者にしたくなかった。