焦げたダイヤモンド -1-



遺体のようなものを見るのは、初めてではなかった。

目前に転がる「それ」が人間である、と。
いや、かつて人間であった遺体であるらしいと、エドワードの脳は懐疑し逡巡し、逡巡した脳細胞が諦めて駆け戻ってきて、やっとのことで、網膜が凍結するような静的ショックを耐えながら「それは遺体である」という認識に至る。
このおぞましいシステムが、この体内で作動するのに慣れることなどない。

───これに心底慣れられる人間など、いない。

エドワードはその場に立ち尽くす。

───これに心底慣れられる人間など、いない。

自らの脆い確信が、黒く汚れた地面にこぼれ落ちるのを阻止するかのように、エドワードは自分の胸元を左手で握りしめた。
確信に反して不幸にも、一点の曇りもなく殺人に慣れきった輩が、この世に存在することは事実だ。
だが彼らは、人ではない。
彼らを人と、エドワードは呼ぶことができない。
「やあ。鋼の」
軍靴の足元にきな臭い煙をまとわりつかせたまま、マスタングはその遺体の前に立っていた。
無表情だった。
炭、と形容するのにふさわしいほど燃え残りもなく焦げた遺体は、輪郭を半分闇に溶かされている。
この男は、何をやった?
ロス少尉は、どこへ消えた?
絶望的な質問を、身体の底へ飲み下して。
エドワードは新しく叫ぶために、ゆっくりでもすばやくでもない奇妙なスピードで、異臭のする煙を鼻腔の奥深く、吸い込んだ。


***

いつものようにデスクを挟み、エドワードは、机上の片付かない書類の束を従えた、向こう岸の上官を見つめる。
ニューオプティンから戻って以来、エドワードがマスタングに会うのは、これが初めてだった。
国家錬金術師というものになって以来、何度も何度も繰り返してきたこの単純な行為が、これまでと全く様相を変えてしまっているのは、この部屋が、通い慣れた東方司令部の中ではない、ということが原因なのではない。
嫌な意味で、エドワードは緊張している。
今までも、マスタングに会う時はいつも気を張り詰めていた。それは変わらない。
だが、温度もなく、身体の芯まで痺れそうに冷たくエドワードを苛んできた今までの緊張と、これとは違うのだ。
東方司令部のそれよりも若干狭いその執務室で、焔の錬金術師は椅子から立ち上がって、目前に積み上がる書類をデスクの最前部に順序良く移動させながら、ひたひたと部屋中に染み渡る沈黙を破った。
「手続きは、済んだのか?」
声はいつも通り、気持ち良いほどに抑揚が少ない。
「これからだよ。いまさらあんたがどうこう言ってもオレの気は変わらねぇ」
「別に、君の気を変えさせようとしてここに呼んだわけではない」
その「呼んだわけ」を彼に追求するのが嫌で、エドワードはまた黙る。
先日マスタングがここ、中央に転属したのは知っていた。
今回、エドワードが中央司令部を訪れたのは、賢者の石の情報収集と、エドワード自身の簡単な転属手続きをするためだった。
軍属としての籍を東部に置いたままにするか。
中央でマスタングの下につくか。
中央で研究所直属の身分となるか。
国家錬金術師としての査定はこの間済ませたばかりである現在のエドワードにとって、軍内での所属がどうなろうと、次回の査定まで、これまでの身分は保証され続ける。今回の転属手続きは、エドワードにとっても、軍部から見ても、ごく形式的で事務的なものでしかなかった。
しかもこの件について、エドワードはかなり以前から決心していた。
マスタングが異動したのなら、彼の部下にはもうならないと決めていたのだ。
それに、実際に彼に中央勤務の辞令が下った今、東方司令部の後任にはハクロ将軍が就いており、ハクロの顔などもう生涯を終えるまでできるだけ拝みたくはないエドワードにとって、選択はおのずと限られてしまったのだった。
もう、形式的にでもなんでもいいから、「錬金術研究所直属の身分」に、なるしかない。
「………元気に、していたか?」
机上の書類を整理する手を止めて、こちらを見つめてくるマスタングの質問は、いたたまれないものだ。
もう一度自分の下につけ、と説得するわけでもなく、当座拾い集めた賢者の石の情報を与えてくれるわけでもなく。
彼が自分を執務室に呼びつける理由を、エドワードは既によく理解していた。
理解しているがゆえに、今のエドワードは、激痛を───ナイフで切った傷口に、小石が挟まるような精神的激痛を───胸の内に抱えたまま、沈黙するより他なかった。
理由の小石は、えぐり出すのも困難なほどに、エドワードの胸に深く確実にねじ込まれている。
つい、この間まで。
目の前で書類を片付ける振りをしていたこの男の存在の消滅を、全霊かけて願っていたのに。
「…鋼の?」
「自身の存在のみ」を欲されることが、こんなに苦痛だとは、想像したこともなかった。
マスタングがかつてエドワードに押し付けた「契約」は、深く、明快にエドワードを苦しめたが、苦痛の理由こそ違え、今のこの状態も、苦痛の度合いとしてはそう大差ないのではないかとエドワードは思う。
これまでのマスタングの言動は、矛盾しているようで、矛盾していない。
彼がエドワードを「契約」の名のもとになぶろうと。
そして今、別人のように、エドワードの硬化した態度にわかりづらく困惑していようと。
彼の感情のベクトルが、恐ろしいほどエドワードだけに向けられてきたことに、何の変わりもないのだ。
「今すぐこの部屋を出たいなら、出てくれてかまわない」
マスタングの声音に、薄く薄く諦めの色が混じる。
その物分かりの良さが、おぞましい。
そして、哀れな男にこんなにもとらわれている自分が、途方もなくおぞましい。
エドワードは閉じた唇に力を込めた。
マスタングを切り捨てることのできない自分について、エドワードはまだ、自身の結論を出せていなかった。結論を出すのが嫌で、思考することを常に先延ばしにしていた。
先延ばしにすることそのものが、すでに結論の一端であることも、エドワードの明晰な頭脳は理解していたが、エドワードは強靭な精神力で、思考がその先に達することを故意にせき止めていた。

───好きに、させときゃいい。

マスタングのことは、放っておけばいい。
彼は、エドワードを自由にすると言ったのだ。
自由にする、という彼の言葉に縛られる方が、愚かなのだ。
元上司だろうが、後見人だろうが、嫌だと思ったのなら、呼びつけられても応じなければ良いのだ。応じなくても良いと、マスタング自身が言っているのだから。
今のエドワードにとって、自分にそうやって言い聞かせることは、そのまま、自らの愚行を認めることに等しい。
今ここで、こうやって執務室に二人きりで突っ立って、どうにもエドワードが不愉快なのは、マスタングのせいではない。
エドワードを不愉快にさせるのは、こんなところまで自主的に足を運んだ、エドワード自身なのだ。
沈黙の中、つかんでいた書類を放棄して、マスタングはデスクの縁を回って歩み寄ってくる。
エドワードは、あとずさることもできずにびくりと視線を上げた。
エドワードから数歩の距離を残して、マスタングは立ち止まる。
その顔にはやはり、柔らかい諦めの色が刷かれている。
「今更言っても信じてもらえないかもしれないが」
頼むから、大真面目にそういうセリフを吐くのはやめて欲しい。
「君が嫌なら、私は君に触れない。約束する」
以前もマスタングは似たようなことを言っていた気がする。
同じような約束を重ねれば重ねるほど、約束そのものの価値と信用性が下がることを、この男はちゃんとわかっているのだろうか。
マスタングの顔を見上げるのが嫌で、エドワードは片付かないデスクの上にぐいと視線を落とした。
「別に。減るもんじゃねぇし。好きに触ればいいんじゃねぇの?」
再度見上げなくとも、マスタングが軽く息を飲むのがわかった。
「誤解すんなよ。ジョーシキの範囲で触れ、って言ってるだけだ。ミョーなことしやがったら、即ぶっ飛ばす」
穴があくほど見つめられ、よどんだ沈黙の中に放り込まれるより、少々触られてこの男の気が済むのなら、そちらの方がよほどせいせいする。
本当に今、エドワードはマスタングの沈黙に耐えられないのだ。
あの沈黙に含まれる意図を、ああだこうだと下衆に推測して疲れるのはまっぴらごめんだし、そんな推測など、そもそもしたくもない。
虚勢でも何でも、こうしてこの男に余裕らしきものを見せてやり、それによってマスタングにも余裕が生まれるかもしれないのなら、いくらでも虚勢を張ろうとエドワードは思う。
「では。……髪に触れても、いいか」
のっけから実に正直で控えめな質問が降ってきたが、エドワードは奇跡的に平静を保つことができた。
「好きにしろよ」
信じられぬほど従順な相手に、もったいぶった許可を与えることは、スプーンで汲むこともできそうにないごく微量の、甘さに似ためまいを呼ぶ。
その、心地よくうしろめたい優越感を自覚して、エドワードはますます顔が上げられなくなる。

───いったいオレは、何をやってるんだ。

この男を試したいのか。
自分自身を試したいのか。
それとも、こうやっていつまでも、この男に対する優越感を、舐め古した飴玉のように、意地汚く口に含んで生きていくつもりなのか。
復讐なら、もっと正々堂々とすればいい。
この男に求められるのが苦痛なら、その苦痛を断つ方法は、いくらでもある。そしてその方法たちは、この男とこうして奇妙な優越感を媒介にして繋がっていることよりも、はるかに常識的で、安全で、簡単なはずだ。
密やかな足音と、もっと密やかな衣擦れの音の後、突っ立っているエドワードの耳の上の髪束が、長い数本の指で梳かれた。
梳いた指は戻って来て、ゆっくりともどかしく、エドワードの頭骨の曲線上を滑り渡る。
こめかみ近くにまで、渇いた膜が貼りついてくるようなその感覚は、エドワードの頬に広がり、頬を突き抜け、歯茎に沁み、眼の奥にまで到達する。
小さな虫が大群をなして、無音で体内を這ってくるような不気味さと焦燥が、エドワードの肩を、知らず知らず硬直させた。
こともあろうに、エドワードの側頭を撫でていたマスタングの指は、そのこわばった肩めがけて滑り落ちてくる。
その途中の首筋に触れられ、弾かれたようにエドワードは鋼の指でマスタングの手首を捕らえた。
制止の言葉さえ出てこなかった。
まだこんなにマスタングの指先を恐れていることを、自身の身体を覆い尽くす悪寒に教えられて、エドワードの中で悔しさが飽和する。
触れてきた指と、悪寒への怒りに震える瞳の金色が、水面の波紋のように揺らめいて切りつけてくるのを、マスタングは黙って受け止めている。
彼は、笑みも諦めも期待もかき消えた無表情で、何を勝手に納得したのか小さくうなずいて見せ、つかまれた手首を優しく振り払って、エドワードに背を向けた。
どうにもその場から動けないでいるエドワードをよそに、マスタングはデスクに元通り着席し、引出しから手のひらサイズの手帳を取り出す。手近なペンでさらさらとその手帳に何かを書きつけ、惜しげもなくページを引き裂いて、一枚の紙となったそれをぺたりと机上に置き、エドワードに示した。
「セントラルの私の住所と電話番号だ」
この男には、プライドが無いのか、羞恥心が無いのか、常識が無いのか。
軽く触れることさえ拒否されても、エドワードの存在に追いすがってくるさまは、哀れを通り越してもはや滑稽だ。
だが、彼自身は、どうもその滑稽を自覚しているようだった。自覚されている滑稽さというものは、単純なおかしみを含みながらも、他人の心の数段深い部分に届く。
嘲笑も哄笑も罵倒もできないまま、エドワードは差し出された机上の紙片を見つめ、その場から駆け去りたい衝動を耐えながら、やっとのことで、その紙片にけだるく指を伸ばした。



別に驚くようなことではない。落胆することでもない。
けれども、たった今エドワードが出て行ったこの部屋に充満する静けさは、数十分前の───彼が、ここを訪ねて来る前の静けさとは明らかに違う。
正確に言うと、静けさの質が違うのではなく、その静けさを感知する己の心持ちが違うだけなのだが。
無為に座っていることがつらくて、しかし本日最初の労働をすべくインク瓶のふたを開ける気にもならず、マスタングは切っ先の乾いたペンをくるりと弄んだ。
エドワードが口先で何を言おうと、エドワードの身体がマスタングを拒否するのは、当然のことなのだ。
彼に期待をしてはならない。
期待どころではない。彼がマスタングに復讐したいと思っているのなら、マスタングはそれをかなえてやらねばならないし、その復讐の後に、彼から恩赦が与えられるわけでもないことを、きちんと自覚しておかねばならない。
客観的に見れば、自分は今、とんでもなくプライドのない人間に見えるのかもしれない。
マスタングの胸には常にそんな小さな不安がよぎるが、それは、この感情の核心に比べれば、とてもささいな事情だった。
幸福感、というにはそれはひどく捻じ曲がっていた。うまく「それ」に名前がつけられない。
初めて女性を抱いた時よりもずっと深く、重く、それでいてどこか奇妙に爽快なこの気分を、なんと言ったらいいのだろう。
動物のように素直に心の内を吐露すれば、結果は破滅しかないと、いつも思っていた。
マスタングの肉親が、マスタングの名声だけを誉めそやしたように、どんな労働も、家族生活も、終わりない感情の演技に支えられているのだと、思っていた。
だが。
マスタングの「破滅的な」感情をぶつけられても、エドワードは逃げなかった。
マスタングにはどうしてもわからない。
なぜ彼は、哀れむという手段で、自分と向き合ってくれるのだろう。
なぜ彼は、自分の利益を一番に考えないのだろう。
大多数の人々にとって、哀れまれるということは非常に屈辱的なことらしいが、やはりそれすら、マスタングにはささいな事情であった。
自分以外の人間が、心から自分に思いをはせてくれる。
その確信を生まれて初めて得て、マスタングの魂は揺らいでいた。
いまさら自分に、愛などという高等な感情が手に入るとは思わない。
そもそも愛というものは、どんなものなのかがわからない。
エドワードさえ、生きていれば良い。
哀れまれ、避けられ、罵られても、マスタングの真実は、彼の中で生き続ける。
それが嬉しくて、絶望的で。
どうしていいかわからないまま、彼を呼び、彼にとりとめのない言葉をかけ、そして彼に触れてみることしかできない。

───私は、何も知らない。

こんなになっても、エドワードにも、自分にも、何をしてやればいいのか、さっぱり見当もつかないのだ。
とりあえず思考することをいったん諦めて、マスタングがペン先をインク瓶の中で遊泳させ始めたのとほぼ同時に、明瞭なノックの音がして、部屋のドアノブが小気味よく回された。
「失礼します。大佐。先ほどの資料です」
大判の書類の束を、女性らしく、だがかっちりと胸元に抱え込んだホークアイが、扉の向こうから滑り込んでくる。
普段から彼女の発声は心地よいまでに事務的だが、今日はわずかに、その声の温度が低いような気がする。
業務の内容が、内容だからかもしれない。
「ロス少尉の通院記録とカルテですが。歯科───歯医者以外は、カルテが古すぎて入手が困難です。申し訳ありませんがあと数時間かかります」
人一人の資料を洗いざらい集めるというのは、思う以上にやっかいなものだ。
「…急いでくれ」
頭の中で、人間の歯、すなわちカルシウムとリン酸を構築する化学式やら錬成陣やらを、可能な限りのスピードでイメージしながら、マスタングはホークアイの手から紙束を受け取った。
仕事は、山積みなのだ。



まだ昼前だというのに、宿に帰ると、エドワードは長々とソファに沈み込んだ。
「そんなにお腹すいたんだったら、はやくお昼にしなよ」
あきれながらのアルフォンスの提案にも、魚の干物のようにうつぶせに伸びたまま、返答がない。
ソファの上の干物は五秒ほどもしてから、やっと口をきいた。
「アル」
ぐるりと寝返りを打ち、見返す金の瞳はぎらりと不機嫌だ。
「おまえ、…」
オレの悩みは腹が減ることだけだと思ってないか?
「なに?兄さん?」
言葉の続きをどうしても言えずに、寝転んだまま視点を固めて黙り込んだエドワードを、アルフォンスの鎧の頭は、かしん、と寂しく音を立てて見下ろしてくる。
弟の薄いヘイゼルの瞳も、笑顔も渋面も記憶の彼方であり、目の前にそびえているのはかろうじて人型をした鉄のかたまりでしかないというのに、いつから自分はこんなにこの鎧とやらの表情を隅々までうかがうことができるようになったのだろう。
言葉を探しながら、エドワードはアルフォンスを見上げ続ける。
まだ、アルフォンスとウィンリィに、ヒューズの死を知らせていない。
情けなく延ばし延ばしにして、ここまで来てしまったが、このセントラルに滞在する以上、彼らがヒューズの訃報を耳にするのは時間の問題だ。今すぐにでも、話さねばならない。
マスタングのことなどは、実際二の次なのだ。
その「二の次」にこうも気力を吸い取られていては、この先が思いやられる。
「………おまえには、悪りぃと思ってる」
「どうしたの急に?」

───どうしたの急に。本当は、そんなことが言いたかったんじゃないでしょ。

弟の魂を繋ぎ止める鉄塊は、こんなにも表情豊かだ。
何かを言いかけて止め、その気まずさを別の言葉にすり替えたエドワードの偽りを、こんなにも正確に感じ取っている。
けれど、エドワードの唐突な疲労を気遣って、すり替えすらもなかったことにしてくれている。
「…昼メシに行くから。ウィンリィ呼んで来てくれ。クソ大佐と無駄話させられて、体力残ってねぇんだ」
間髪入れずに、僕は兄さんの召使いじゃない、いいかげんにしてよねという文句と一緒に、大きな手のひらがエドワードの両脇に落ちてきた。
「うわ!ちょっ、おまえ、なにすんだ」
「僕がこうやって隣の部屋まで抱っこしてってあげるよ」
「バカテメー下ろせ!こら走んな!!」
「嫌なら、自分でちゃんとウィンリィ呼んで来てよね」
「わかったから下ろせ!ドア開けんな!」
このドア前の攻防ですらも、優しい弟の演出である。
ヒューズのことでこの弟や、ウィンリィに責められるのは仕方がないが、彼らを悲しませるのは耐え難い。
それならば、一人きりで、自ら抱える秘密に圧殺された方が幾分ましかもしれない。
エドワードはかないそうもない気弱な願望を、弟の大きな腕の中でもがきながら、ひっそり胸に灯した。



困難な事業を成就させるためには、犠牲は付き物だ。
犠牲になる者の苦痛や無念に思いをはせたことがないとは言わないが、犠牲とは最初から自分以外の他者のことであるというのが、マスタングの認識の根幹であった。
自らが犠牲となる可能性を考えない、それが幼稚で愚かな認識であるということも、世間で言う「道徳」の枠として理解はしていたが、這いずり回ったイシュヴァールでの経験が、マスタングの中の道徳をどこか麻痺させ続けてきたのだ。
だが、ヒューズの葬儀に際して感じた違和感は、今やマスタングの中で無視できない大きさに膨張している。
あの、意識がまるでがらんどうになってしまったような違和感は、マスタングの魂に寄り添っているのか、精神を侵食しているのか、肉体に潜んでいるのか、常にマスタングの心のそばにあり、片時も霧散することはない。
かつてこの違和感は、マスタングの味覚や痛覚まで奪ったが、少し時間の経った今では、その影響はなんとか精神的なものだけにとどまるようになった。
ヒューズはマスタングにとって、やはり他者であった。
彼の痛みを、マスタングは感じることができない。
だが、彼だけが味わったはずの、死に至る苦痛を想像するだけで、この胸の底が騒ぎ、あまつさえ実際に痛むのは、どういうからくりなのだろう。
マスタングは、静かにデスクの引き出しを開けた。
いつもの手袋は、いつもの片隅にたたみ置かれている。それをポケットに入れかけて止め、すぐに指を通す。
見慣れすぎた手の甲の錬成陣が、今日はいやに赤く目に沁みる。
他者の死は、そのまた他者に苦痛をもたらし、それは連綿と繋がり、波紋のように広がってゆく。
ヒューズの妻は泣き崩れ、娘は叫んだ。
その恐ろしい連鎖に、自分は強制的に加えられたのだ。
連鎖を連鎖としてでなく、苦痛としてとらえたその時、マスタングの思考は、プリズムで分解された光のように、色彩までを変えられてしまった。
無の白さから、七色の、いや混沌の色彩の中に叩き落とされ、呼吸さえもおぼつかない。
だがマスタングは生きていた。
「少し、出てくる。留守を頼む」
「はい。お気をつけて」
デスク脇で、処理済みの書類を揃えながら会釈するホークアイを司令室に残して、廊下に出る。

生きることは苦痛そのものだが、マスタングは生きていた。
イシュヴァールで拾ったこの命が、どこまで続くのかは知らないが、今は生きねばならない。
苦痛の連鎖を、阻止するために。

***

走っても、走っても、いっこうに目的地には近づけない。
空気の摩擦で切れそうな喉にかまわず、エドワードは駆ける。
どうかすると、隣を走るアルフォンスの、規則正しい金属音に遅れを取りそうになるのが悔しい。
だが、夜の闇に沈む街並みは、居眠っているかのようにゆっくりと目の端を流れていくだけで、全く自分の走行速度が上がっているようには思えなかった。
近道に選んだ倉庫街に居並ぶ、みすぼらしい街灯たちは、エドワードの足元とその数メートル先の路地しか照らし出してくれない。
ただでさえ焦っているというのに、行く先を遠くまで見通せないことが、喉を塞がれるような閉塞感を呼ぶ。
エドワードの目の中では、ついさっきホテルで目にした、新聞の大見出しが浮き沈みしていた。

───『マリア・ロス少尉を、先月のマース・ヒューズ准将殺害事件の犯人と断定』。

なんで、こんなことに。
なんでこんなことになっているんだ。
どこをどう押せば、あの少尉と、ヒューズ中佐がそういうことになるんだ。
走るエドワードの脳裏には、ロス少尉の端正な笑顔しか浮かばない。
厳しくて。
真面目で。
誠実で。
勇気があって、そしてとても優しかったあの少尉がなぜ。
一刻も早く、マスタングに確認せねばならない。
どのように真実が歪められていようと、どのように事実が衝撃的であろうと、軍の上層部に食い込みつつあるあの男が、ヒューズの事件について、今朝の新聞記事よりも核心に近づけていないということは、まずあるまい。
胸の中にひっそりしまっておいたヒューズの死が、こんな形でアルフォンスに知れてしまっても、今のエドワードには、そのことをアルフォンスに弁解する暇さえない。
早く。はやく、司令部に。
でなけりゃ、あいつの家だ。
細い路地の壁に、アルフォンスの鎧が擦れ合う音が反響している。
音は、エドワードの耳元を、幾重にもかきむしる。
路地の暗闇を駆け抜け、いくらか広い道路に出たその時、二人はいきなり複数の人の気配とぶつかりかけた。
至近距離の闇から、街灯の光の下にいきなり湧いて出たその人影のひとつは、覚えのありすぎる声音で叫んだ。
「エドワード君に…アルフォンス君!?」
名前を呼ばれて、言葉に詰まる。
薄いシャツ一枚だけの信じられないような軽装だが、短い黒髪に黒い目の、この女性は確かに。
一呼吸おいて、エルリック兄弟もやっと叫ぶことができた。
「ロス少尉!!!」
加えて、アルフォンスがすっとんきょうな声を出した。
「あー!!あの時の!!」
ロスの隣を駆けていた幅広の鎧を指さす。
「アル!?知り合いか?」
エドワードの質問もかき消す勢いで、アルフォンスに指さされた幅広の鎧は、物騒な大ナタを振り回して怒鳴る。
「ジャマすんな!!おめぇらにかまってるヒマねぇんだよ!!ねぇちゃん、そこの道から逃げな!!」
「少尉!!待って!!」
幅広鎧に促され、細い脇道に飛び込んで行ったロスの背中は、すぐにその先の闇に溶けた。

***

とても面倒なことをしている自覚はある。
倉庫街の、真っ暗な二番通路で動く闇に向けて、マスタングは安堵しながら、だが冷酷に声をかけた。
「マリア・ロスだな?」
彼女をここまで誘導した、バリー・ザ・チョッパーの機転の利かせ方は芸術的なまでに的確だった。
闇に目を慣らすために、先程から閉じていた片目を見開き、右目の網膜だけで、闇に身を潜めていた彼女のシャツの白を捉える。
それが闇に溶けかかっていても、彼女の顔立ちは、セントラルの病院の廊下で目にしたあの時と同じに、清廉なままだった。
ここまで全力疾走して来たのだろう、ロスの早い吐息の端が、悲痛にかすれる。
軍服を着た人間に、退路を絶たれたのだ。
万事休すと、彼女の息の音が語っていた。
脅える人間の表情というものは実にさまざまだが、死の恐怖を悟った彼らの目は、大人も子供も、男も女も、いつも一瞬、同じように張り詰めた静寂に浸される。

───死神を、見る目だな。

ロスの張り詰めた静寂も、気味が悪いほどにマスタングの戦場の記憶と一致している。
死神のように絶対的な力の優越を眼前の人間に知らしめることは、本当に吐き気がするほど魅惑的で、破滅的な行為だ。
刹那の感傷を払いのけ、マスタングはかねてからの準備通り、脇のダストボックスから大きな人形(ひとがた)を引きずり出した。
人形を地面に転がして、状況を理解できずに短い悲鳴を飲み込んでいるロスを見やる。
「これは、君だ。君は今夜、ここで死ぬ」
ゆっくりダミーを燃やしている暇はない。
こつり、と最小限のしぐさで指先を鳴らして、マスタングは火柱を呼びつける。
腹にこたえる破砕音が、通路の隅々にまで響き渡った。
周囲に延焼しないぎりぎりの値まで酸素濃度を上げ、まばたきする時間でダミーの肉をカラス色に酸化させ、消火する。その煙幕を透かした対岸で、ロスはへたりこんでいる。
「立て。ぼさっとするな」
まだ恐怖の色を拭いきれていない彼女の腕をつかんで引きずり立たせ、人形を詰め込んでいたダストボックスに、投げ入れるように彼女の身体を押し込むと、かちゃかちゃという金属音の後で、中から応えがあった。
「大佐!」
応えはハボックの声色をしている。
ダストボックスの中から、そのふたを押し上げたハボックの手は、留置場用の小さな認識タグをぶら下げていた。
ロスの(ダミー死体の)身元証明に、これを忘れてはならない。
すぐさま金属製の認識タグをひったくり、マスタングはダストボックスを覗き込んで、その中の忠実な部下と、ダストボックスに開けた穴の向こうに這い出た彼女に、今できる精一杯の言葉をかけた。
「ご苦労だった。すぐ行け」

***

何が爆発したのか、その路地は、煙で充満していた。
異臭のする煙が目と喉に刺さり、息苦しくて仕方がないが、エドワードには咳き込んでいる暇などない。
本当に奇妙な臭いのする煙だった。
木や、紙が燃えたような乾いた臭いではない。
何を燃やせばこんなにじっとりと煙が湿るのか。
わずかな風に、煙が少しずつ薄くなるのを待って、エドワードは路地の奥へゆっくりと踏み込んだ。
燃焼反応の余韻か、周囲の空気はまだ、むっとした熱気に包まれている。
その煙と熱気の向こうに、さっきまで一刻も早く会いたいと思っていた男が立っていた。
「やあ。鋼の」
軍靴の足元にきな臭い煙をまとわりつかせたまま、彼は無表情だ。
そばに、何か大きなものが転がっている。
闇よりも黒い、人───いや、遺体。のような。
「……どういうことだ」
マスタングから、返答はない。
「どういうことだよ。これは、誰なんだ。まさか」
炭、と形容するのにふさわしいほど燃え残りもなく焦げ、輪郭を半分闇に溶かされているこの、かろうじて人間の形をしたものは。
「ヒューズ准将殺害事件の犯人の、マリア・ロス少尉だ」
「どういうことだっ!!」
「少尉は留置場から逃亡した。捕らえようとしたところを抵抗された。だから殺した」

───そんなことを、聞きたいんじゃない。

エドワードの下肢から、潮が引くように力が抜けてゆく。
目の前の遺体のはかない苦悶の表情と、取り返しのつかないその黒さが、べったりと目の底に焼きついて、息が止まりそうだ。
それでも、エドワードは不思議に立っていることができた。
感情が過ぎると、肉体というものはどこまでも重さを失うものらしい。
エドワードの肉体が浮遊していても、エドワードの中の唐突な怒りは、浮遊して散ることなどない。
この男が、まともでないことはよく知っている。
この男が、国家錬金術師という名を借りた、殺人者であったことも知っている。
だが。
この男が抱えている、埋めようのない寂寥を。
埋めようのない自らの寂寥に苦しんでいるこの男を、一瞬でも哀れだと思ったのは、早計だったのだろうか。
支柱もなく、どうしてもよろめきそうになる身体を宙に繋ぎ止めたくて、エドワードは生身の左手で、自らの胸元を握りしめた。
理路整然と、任務に沿って、眉ひとつ動かさず人間を燃やし尽くし、平然としているこの男が、自分と同じ人間だとはとても思えない。
おまえは戦場を知らない、と言われれば、それまでだ。
ヒューズの仇を討ったのだと言われれば、それまでだ。
だがどれほど殺人に慣れていようと、どれほど友人の仇が憎かろうと、圧倒的に戦闘能力の違う非力な女性を、指先一本の錬金術でここまで焼き尽くしてもいいという道理が、どこにあるのか。
胸元をどれだけ強く握りしめても、エドワードの喉元に突きつけられた、冷えた刃は溶け去らない。

───そうだった。

こいつは。こういう、ヤツだった。
間違った自分が、愚かしくてたまらない。
マスタングをマスタングたらしめる、彼の本質であるこの冷酷さを、いっときの感情で横に流してしまっていた自分は。

───甘いのにも、ほどがある。

そしてこんなところで、人が一人死んだというのに悠長に自己嫌悪などしている自分は、あまりにも幼稚すぎて。
ロスの生き生きと濡れていた瞳と、足元の黒い物体を、現象としてどうしても結びつけることができずに、エドワードは震える息を吐く。
この男の精神の、最も深い部分を、自分だけが覗き見たと思っていたあの優越感は、単なる自己満足でしかなかった。
あの馬鹿な感情の結果が、これだ。

許せない。オレは、あんたと───オレ自身を。

重みを全く失ったエドワードの足は、自動的にマスタングへと向いた。
「……たは、それでも………、か?」
「なんだと?」
一足ごとに、泥のようなもので黒く汚れた地面が、じゃり、と嫌な音を立てる。
それでもエドワードは咆えた。
「あんたはそれでも錬金術師か!?少尉を…ロス少尉をこんなにする権利が、あんたのどこにあるんだ!!!」
つかんだマスタングの胸倉は、ぐらりとも揺れない。
微動だにしない闇色の瞳は、エドワードを、エドワードとして捉えていないかのように、ただ虚ろだった。