快楽をもたらすもの -2-



煌々と明かりの落ちる廊下を踏んで、ヒューズは歩く。
真昼間なのに明かりが点けられているのは、留置場へと続くこの廊下に、窓が全くないせいだ。
ヒューズは一人で歩いているわけではない。
今、留置場へと連行しているこの男の取調べは、存外早く終わった。明日以降のことはわからないが、スパイ容疑で拘束されたにしては、この男に対する当局の扱いは、ずいぶん「ゆるい」ような気がする。
手錠をかけられた手を前に下ろし、黙々とヒューズの隣を歩く男は、年よりもかなり若く見えた。
涼しげな目元に、長く伸ばされた前髪がかかり、その髪が真っ黒なせいもあってか、彼の肌の白さが強調されている。無表情に落ち着き払ったその横顔は、どこか少年めいていて、彼がイギリス軍のエースパイロットであったと言われても、ヒューズにはまだ実感が湧かない。
「おまえさん、なんでドイツなんかに来たんだ」
被疑者と警官が、こんな場で会話することは基本的に禁じられている。だが、ヒューズは訊かずにおれなかった。
男は、ちらりと視線をヒューズに投げ、黙り込む。
「除隊になったんなら、なんでまっすぐアメリカに帰らなかった?旅券偽造してまで、こんな国に来ることないだろう。なんか理由があったのか?」
男は、小さくため息をつき、口の端を持ち上げた。心から、面倒くさくてしょうがないというふうに。
「その質問は、ここへ来てから二十回はされたかな…」
「いいから答えろ」
「母の親族に、会いたかっただけだ」
「おまえさん、恨まれてたんじゃないのか?ベルリンあたり、さんざん爆撃してたんだろ?」
「だからだ」
「?」
「だから、彼らの無事を確かめたかった」
偽善とも苦渋とも取れるその言葉を聞いたところで、もう彼の独房の前に着いてしまった。
スパイ容疑、と言っても、拘束したその人物が本当にスパイである確率は、実はかなり低い。あやふやな噂や、個人的な恨みから、スパイを疑われて留置場に放り込まれる人間を、仕事柄ヒューズは何人も見ていた。彼らは取調べの後、ほとんどがもったいをつけて釈放される。また怪しい言動をすれば、すぐに留置場へ戻すぞ、と言い含められて。
これが、強圧的に治安を維持しようとしている、当局のやり方なのだ。
だから、ヒューズには、被疑者を疑う癖がついていた。
この人物はスパイかどうか、ではなく、どうしてスパイと疑われることになったのか、とつい勘ぐってしまう。
元イギリス軍兵士ということで、この独房入りの男が疑われるのはしかたがないような気もしたが、名高い「レッドバロン」を撃墜した彼は、イギリス軍内では英雄扱いされていたのではなかったか。そんな英雄が、こんなみすぼらしい風体でスパイ業務をこなしているなどとは、にわかに信じられない。
それらしくないスパイが、最もスパイとして有能であることを知らないヒューズではなかったが、この男には、訓練された軍人らしい立ち居振る舞いがない。いきなり警察に連行されても、取り乱すこともなく、どこか諦めきったふうな覇気のなさは、昨日心ならずも連行したエドワードの態度に、少し似ている。

───まったく、忙しくてかなわねぇ。

業務上、かなり無理なのは承知の上だが、奇跡的にでも時間が空けば、そのエドワードの様子も見に行ってやりたい。
男を独房の中へと促し、その扉の鍵を閉めながら、ヒューズは肩を落とす。
降ってわいた忙しさに、みっともないほどいらついて、それから。
我がドイツの宿敵であったこの独房の主を、なぜかどうしても憎みきれない自分に、もう一度いらだってしまうのだ。




研究室の面々にに当分参加出来ないことを伝え、アルフォンスは朝からベッドの中にいた。
エドワードがいないおかげで、堂々と研究を休み、堂々と終日ベッドに寝転がっていられる。
あまりにも皮肉すぎる、このアルフォンスの安穏な休暇は、エドワードへの心配と引き換えだが、エドワードに不調を悟られまいと気を張っていた時よりもずっと確実に、身体を休めることが出来た。
物理的な休息に対して、身体は正直に応えてくれる。ほんの数日で、寝ているのが退屈に思えるほど、アルフォンスの体調は良くなっていた。重苦しい心とあまりリンクしていないこの身体のふてぶてしさが、ありがたくもあり、いまいましくもある。
体調が良くなってくると、現金にもエドワードのことがますます気になった。たとえ寝込んでいようと、アルフォンスの心からエドワードの記憶が完全に消え去ることなどないのだが、寝込んでいる時にはあきらめていたあれやこれや───エドワードの様子をヒューズに尋ねることや、不自由な生活を強いられているエドワードに着替えを届けること───を、今のアルフォンスならば実行することが出来るのだ。
暗い自室で、ベッドにへたり込むことしか出来なかった数日前には、あんなにエドワードが憎らしかったのに、本当に、この現金さはなんなのだろう。
他人へのやつあたりをやめて、いらだちや不安を自分で受け止めるのには、体力が要るということなのかもしれない。
だが、エドワードへの憎しみは完全に消え去ったわけではなく、アルフォンスの心の深層に未だしっかりと食い込んでいて、心配やら執着やら恋情やら、その他の矛盾する感情たちと一緒に、その存在を主張している。
一人の人間に対して、こんなに複雑な感情を抱くのは、本当に初めてだ。ベッドに横たわったまま、腕を持ち上げて、アルフォンスは自分の視界をぎゅっと覆った。
例の検査の結果が出るのはまだ先だ。
わざわざ自分から、あんな閉鎖された空間に出かけていって、ピンポイントを狙うように、エドワードに病原菌を届けるわけにはいかない。
もう菌に感染しているかもしれないエドワードにとって、そんな気遣いは手遅れかもしれないが、これ以上、感染の可能性を上乗せしたくない。

───でも、行きたい。

エドワードのところに行きたい。
行かなくてはならない。
行って、風邪はよくなったのだと、エドワードに伝えたい。
この身体の本当の状態は伝えられないけれど、ただ、あの時も今も、怒っていた(いる)わけではないことを、エドワードに伝えたい。
検査結果が結核であると出れば、エドワードへ着替えを届けるどころか、このあやうい共同生活そのものが根底から崩れ去ってしまうのだが、アルフォンスはどうしても、ほぼ確実であろうその未来を、具体的に想像したくなかった。

───まだ、僕は逃げてる。

喀血と、異様なまでの疲労感。そして、レントゲンに映し出された、肺の中の影。それなりの医者であれば、こんな症状を並べられれば、九割がたは「これは結核です」と告げるだろう。あの医者も、検査結果を待ちましょうとは言ってくれたが、その声音は力無かった。
もう、エドワードが警察から帰ってきても、アルフォンスはエドワードに直接触れることは出来ないだろう。ドア越しやガラス越しに会話は出来ても、そんな不自然な状態を、何も知らないエドワードが納得するはずがない。
その時が来たら、アルフォンスの病状の真実を、エドワードに告げねばならない。
それが出来ないのなら、アルフォンスは永遠にエドワードから離れるしかない。
どちらへ転んでも辛い未来から、アルフォンスは逃げていた。
検査結果が出るまで、あと一週間と、少し。
何らかの期限が決まっているのはありがたい。それまでは、逃げていられるからだ。
アルフォンスはまぶたの上から腕を下ろし、シーツの上で身体を起こした。
昨日までのだるさは、もう感じない。
このまま身体が快復してくれたら、あの肺の中に映る影が消え去ってくれたら、どんなにいいだろう。
思っても苦しいだけの希望を身体の奥底に沈めて、アルフォンスはベッドから、足を床に下ろした。
その動作を待っていたかのように、ドアの向こうで電話が鳴り始める。
靴をつま先につっかけて走り、アルフォンスは自室のドアノブに取りついた。




「では、確認する」
警官にしては線の細い、その色白の青年は、硬い口調とは裏腹に、どこか楽しげだ。しかし、この監獄と隣り合わせた取調べ室と、青年の柔らかな物腰は不気味なほどにつり合わず、彼の真正面に座らされているエドワードは、不安で不快な感情しか覚えなかった。
色白の警官の隣には、私服姿の、初老の男が座っている。
警官が口を開いた。
「君は、ロベルト・ゴットバルトとどういう関係だ?」
もう、ここに来て何度この質問をされたことだろう。
エドワードはため息をかみ殺しながら、視線を自分の手の甲に落とした。
「研究室に来た客だよ。論文を借りた」
「論文の内容は?」
「天体観測の写真と、結果」
「その論文を、ロイ・マスタングを介して借り出したのはなぜだ?」
「その…マスタングが、ロベルトさんから借りてくれた」
「だから、それはなぜだと聞いている」
「知らねぇよ。あいつが勝手に論文持ってきたんだ」
「君は、理由も訊かずに他人からものを借りるのか?」
「知らねぇよ!あ…いつが、散歩に付き合ったら最新の論文を貸してやるって言うから、借りたんだ!」
「君は、ロイ・マスタングとどういう関係だ?」
エドワードは視線を上げる。
「…………」
「その散歩の時、君はマスタングと何を話した?」
「…………」
エドワードの目前の警官は、質問を焦っていない。最低限の威厳の他に、緊張感というものがない。エドワードのこれまでの取調べの結果に、ある程度目を通しているのだろう。
対して、側の初老の男は、無表情に沈黙したままだ。尋問は若い警官の仕事であり、彼は単なる立会人らしい。
「言えないのなら、君を釈放することは難しくなるぞ?」
「……あいつの…昔の話だよ」
「昔?彼の過去ということか?」
「ああ」
「で、彼の過去は、どんなだったのかね」
「それは、あんたらの方がよく知ってんだろ。あいつもここにブチこまれてるんだったら、あいつから直接聞けよ」
「マスタングの供述と、君の供述が一致するのかどうか、我々は確認せねばならないんだよ」
「…………」
「どうした?エドワード・エルリック」
「………あいつは、元『イギリス軍』のパイロットで。友達を殺した『ドイツ軍』のパイロットの墓参りに来てた」
「敵軍の墓にわざわざ参るとは、立派なものだな。移民ごときに騎士道の精神が理解できるとは思えないが」
「キシドウ?」
「ああすまない、こちらの話だ。で、他にマスタングと何を話した?」
「何も」
「君は、そんな奇妙な行動を取るマスタングに、何の質問もしなかったのか?」
「しないさ。あんな散歩なんか、早く終わらせたかった」
「なぜ?」
「論文を早く借りたかったからに決まってんだろ!」
「君は、マスタングが嫌いなのかね?」

───なんで、こんな質問に答えなきゃならねぇんだ。

嘘を言おうと、真実を告白しようと、エドワードの胸は重苦しくなるばかりだ。
きっかり記憶から消し去ろうと思い、実際に消去に成功しかかっていた人物の、彼の人となりを他人に話す───それだけのことが、こんなにも苦しい。
なぜ苦しいのか自分で理解出来るだけに、その苦しさには嫌悪感すら混じる。
あのマスタングのせいで、エドワードはこんな目に遭っているのだ。
あの男は、エドワードを絶望させる論文を持って来た。
あの男の行動が不審なせいで、あの男に関わってしまったエドワードは、こんなところに閉じ込められてしまっている。
あんな男の過去など、知る限りぶちまけてしまえばいいのだ。
彼の恥も、悲しみも、後悔も、憤りの記憶も、全部ぶちまけてやればいいのに。
なのに。
話せない。
マスタングの真実を理解出来ないであろう目前のこの男に、エドワードは何も話したくない。

───義理なんか、ないのに。

あいつの秘密を守ってやる義理なんか、なんにもないのに。
重苦しい胸は、ますますエドワードの気分を陰鬱にする。
「なぜ答えない?君は家に帰りたくないのか?友達が待っているんだろう?それとも、そんなに考え込むほど、あの男が好きなのかね?」
いまいましい尋問者の口調に、ヘドが出そうに憎らしい笑みが混じり、エドワードはそれまでの感情をぶつり、と胸中でひきちぎった。
「好きなわけ、…ないだろう!」




───特例中の特例、と言ってもまだ足りないかもしれない。

このありえない状況に、ヒューズは困惑していた。
「ほらよ」
親切心を精いっぱい削ぎ落としたヒューズの声に、独房の主は微笑して顔を上げる。
「ありがとう」
鉄格子の間から、ヒューズは今日の朝刊を独房の主に手渡して、薄く鼻を鳴らす。
拘束中の人間に毎日新聞を読ませてやるなど、ありえない。しかも、この男の容疑はスパイだ。何よりも、この男の頭脳に新たな情報が入ることを、阻止せねばならないはずだ。
それがこのていたらく。にわか仕立ての新聞配達人にされ、緘口令をしかれ、この黒髪の童顔男が読み終わったそれを、同僚にも、周りの収監者にも気づかれないよう、秘密裏に回収すること一週間オーバー。
上の人間は何を考えているのか、ヒューズには本当にわからない。
「…不愉快なのはわかるが、ため息はこらえてもらえないだろうか。なぜこんな扱いを受けるのか、私にもわからないんだ」
涼しげなマスク、涼しげな態度、涼しげな口調で、鉄格子の向こうから、童顔男が苦笑する。
苦笑、というにはまだまだ乏しい表情だが、毎日新聞配達に付き合わされ、全く望んでもいないのに、ヒューズはこの男の表情の細かさを、かなり正確に読み取れるようになってしまっていた。
「ため息じゃねぇ!俺は肺活量が多いだけだっ!」
いらだちをぶつけると、童顔男は噴き出した。
苦笑から「苦」を省いたその笑顔がますます彼を若く見せ、ヒューズは自分の口の端がつられて上がってしまいそうになるのを、やっとのことでこらえた。
「ヒューズ!そんなとこでなにやってんだ?」
早食いの牛のように、ヒューズが口元の筋肉をもごもごさせていると、背後遠くから声がかかった。
思わず、童顔男───いや、マスタングの手元の新聞に視線を走らせる。
マスタングは、ヒューズの思惑などお見通しだというふうに、そしらぬ顔で手元の新聞を後ろ手に隠した。その動作のあまりの自然さに、ヒューズはひたすら悔しくなる。
外から新聞を取り上げようにも、鉄格子の向こうのそれに、ヒューズの腕はもう届かない。
新聞をわざと同僚の目の前にさらすことで、マスタングは上層部の緘口令を打ち砕き、ヒューズの点数を下げることも出来たはずだ。
だが、目前のマスタングは、「早く同僚をやり過ごせ」とヒューズに視線だけで訴えている。
その穏やかな視線が、ヒューズの悔しさを倍増させる。

───こんなやつに、かばわれるなんて。

倍増した悔しさの中にひとかけら、奇妙に温かい感情が混じっていて、ますますもって悔しくてたまらない。
「ヒューズ~、早く戻ってくれ。おまえに客が来てる」
同僚の声はせわしない足音になって、やがて一人の警官の姿になり、独房の前に立ち止まっていたヒューズに突進してきた。
「拘束中のエドワード・エルリックに、届け物だそうだ。早く行って受け取ってやってくれ」
独房の中で、マスタングがまた顔を上げた。
不自然な動きだった。




「初めまして。先日電話させていただいた、ルドルフ・ヘスです」
現われた男は、想像していたよりもずっと若かった。
応接室のソファに座ったまま、アルフォンスは驚きを隠せない。
警察からの電話で、てっきりエドワードに何かあったのかと飛んできてみれば、いきなりこの色白の青年に迎えられ、面食らった。
このヘスは、警察と軍を繋ぐ保安本部に所属している軍人だそうだが、お堅い組織の、そんな中枢にかかわる人間が、これほど若く、これほど柔らかな物腰であることが、アルフォンスにはなかなか信じられない。
幼年学校の生徒を迎える教師のように、実に優しげにヘスは微笑んだ。
「先の大戦で、本部も人手不足なのです。ですから、私のような青二才でも、なんとか使っていただけるのですよ」
「い、いえ、その…」
すっかり驚愕を見透かされ、アルフォンスはいたたまれない。

───これ以上、失敗しちゃだめだ。

ヘスの感情を、これ以上損ねてはならない。ヘスの地位もさることながら、彼は、アルフォンスたちの研究に、並々ならぬ興味を持ってくれているのだ。
このヘスは、研究室の面々がずっと待ち焦がれていた、研究のためのパトロン候補だ。今までも、何度かアルフォンスたちの研究室を訪れてくれた候補者はいたが、これほど熱心に、そしてこれほど社会的地位の高い人間がコンタクトを取ってきてくれたことはない。
嬉しい期待と緊張でアルフォンスの胸は張り裂けそうだが、ここが警察であることを思い出して、居ずまいを正す。

───この建物のどこかに、エドワードさんがいる。

検査結果の出ないうちは、エドワードと面会はしたくない。しかし当面の着替えだけでも渡したかったから、この応接室に来る前に、ヒューズにそれを託して来た。
この応接室の窓は開け放たれ、意外に大きなローテーブルが、その両端に座るアルフォンスとヘスを隔てている。咳さえしなければ、ヘスへの感染の可能性は低い。
もしも、このヘスに認められ、ヘスの所属する軍から研究資金を提供してもらえたら、仲間たちは狂喜し、研究の幅は大きく広がるだろう。
もしもヘスが、研究者としてのアルフォンスたちを必要としてくれれば、もともと非凡な才能を見せてくれていたエドワードをも、必要としてくれるのではないか?
研究のために、ヘスは、拘束されているエドワードを助けてくれるのではないか?
脳裏で暴走する、ずうずうしい希望を、アルフォンスは意志の力で押しとどめる。押しとどめないと、ロケット開発の可能性についてとうとうと語ってくれている、目前のヘスの声が聞こえなくなるからだ。
そして、もうひとつ。
ずうずうしい希望の対極には、腐りきった打算と不安がある。
研究室に、スパイ容疑をかけられた人物がいるとわかれば、どれほどアルフォンスたちが努力しても、誰からも振り向いてはもらえないのだ。
信用のある人物に信頼されるには、こちらも潔白であらねばならない。
エドワードの存在は、ヘスには隠し通さねばならないのかもしれない。
息苦しいほどの期待と、我ながら頭を抱えたくなる打算の狭間で、アルフォンスの意識はふと遠のきそうになる。
「……で、話は変わるのですが」
丁寧な口調のヘスが、急に声色を変え、アルフォンスは我に返った。
「エドワード・エルリック君の件は、私どもも存じています」
せっかく我に返ったところで、また横面を張られるような精神的衝撃を受け、アルフォンスはきつく目をつむり、すぐ開けた。
本当に頭がぐらぐらする。
そうだった。保安本部の人間が、今回のエドワードのことを、把握していないはずがなかった。
若干トーンの下がったヘスの声は、やはり奇妙なまでに優しい。
「ずっとあなたがたに連絡を取ろうと思っていたのですが、直前に彼が拘束されたと聞きまして、驚きました。彼は潔白でしょう。私は信じています。ですが当局の姿勢はそれほど甘くない。そして、あなたがたの努力と才能が、私には惜しい。なので、私が上に頼みました。あなたがたを、エドワード・エルリックごと監視したいと」
全く、ヘスはアルフォンスの心の中を、隅の隅まで見通しているようだ。保安本部のこの情報網は、恐ろしくもあり、ありがたくもある。
「監視は名目です。私はあなたがたと、エルリック君の力を得たい。我々の計画には、皆さんの協力が不可欠なのです」
「計画、というのは…」
「私たちドイツ国民が、富と誇りを取り戻すための計画です」
その、あまりにもロマンティックすぎるヘスの宣言は、もろもろの期待で煮詰まりかけていたアルフォンスの思考を、かすかに冷ました。




日がようやく沈みかかり、来客の名残もすっかり消えた応接室はほの暗い。
数時間前に、アルフォンスと話していたその部屋で、ヘスは涼しすぎる夕風を浴び、小さく肩をすくめた。立派なローテーブルを挟んで、向かいに座っている初老の男は、まだ黙っている。自分よりも相当年上である彼を顧みることもせず、ヘスは悠々と立ち上がって窓を閉めた。
「で。ホーエンハイムは、まだ見つからないのですか」
問いかけると、初老の男は、おどおどと顔を上げた。
「私の力の及ぶ限り、探している。だが…まだ」
ヘスは窓辺にもたれかかり、大儀そうに腕を組んだ。数日前にエドワードを取り調べた時の柔らかな物腰や、数時間前にはきびきびとアルフォンスを出迎えた、あの丁寧な態度は、跡形もなく消え去っている。
その無礼な体勢のまま、ヘスは男にたたみかけた。
「ヘル・ハウスホーファー。私は、あなたと上の命令に従って、エドワード・エルリックを拘束しました。あの息子をこちらが拘束していれば、父親もアクションを起こすはず、とあなたはおっしゃられましたが、見当違いだったのでは?」
ハウスホーファーと呼ばれた男は、ほんの一瞬、顔をしかめた。だが、すぐに気を取り直し、訴える。
「ホーエンハイムは、我々のところから失踪して、それ以後、息子と全く連絡を取っていない。実際に息子を取り調べるまで、わからなかったのだ。いやその前に、あの息子は、ホーエンハイムと私のかかわりも、トゥーレ協会のことも、全く知らないようだ」
「なんと。薄情な父親ですね」
「ホーエンハイムの捜索には、もう少し時間をいただきたい」
「悠長なことを。これでは、私は総統に成果を報告できません」
「そこを、なんとか…」
顎を反らして、実に仰々しくため息をつき、ヘスはもたれていた窓辺から離れた。
すがるような目つきで、ハウスホーファーはソファからこちらを見上げて来る。親子ほども年の離れている人間が、こんなふうにおどおどしているのを見ると、真っ黒い優越感が繰り返し湧いて来て、ヘスは自分にも、ハウスホーファーにも、自制出来ないほどいらつく。
「では、引き続き、父親の捜索はお任せします。エドワード・エルリックについては、他にもまだ使い道がありますから、私は、別の方向から事を進めます。…ああ、研究室の学生は、うまく取り込みましたので、ご心配なく」
「…そんなに、優秀なのかね?その学生たちは」
もう、いちいち説明してやるのもかったるい。
そして、いらついていても、かったるくても、ヘスの唇は実に滑らかに動く。
「ええ。もともと、エドワード・エルリックが属していた研究室の面々ですからね。技術面では突出しています。ホーエンハイムと同様に『あちらの世界』の物理学を応用しているのかもしれません」
ハウスホーファーなど、計画のための駒に過ぎない。
総統の望む計画のために最も必要なのは、この世界から飛び立てるだけの、確実な機械工学なのだ。




そこらじゅう、駆け回りたいほど嬉しいのに、どこか心の一部分が、うつろに乾いているような気がする。
キッチンの窓際に椅子を引き寄せ、その椅子と窓枠にだらりと体重を預けながら、アルフォンスは外を見ていた。
食事の後、暑くてこの窓を開けた。もう空は真っ暗なのに、夜風をこんなに身体に当てても、少しも涼しくならない。
まぶたが重くほてり、目を開けていることすらつらい。
涼しさを飛び越えて、背筋に悪寒を感じ始めたところで、アルフォンスは、ようやく自分が発熱していることに気がついた。

───疲れたんだな。きっと。

万全でない身体に腹を立てる余裕もなく、アルフォンスはぐったりと納得する。
そこらを駆け回りたいほど嬉しい、パトロン候補の出現は、アルフォンスの肉体をまっすぐに痛めつけた。
その疲労と一緒に、心も乾く。
心が乾くような心配事は山積している。
エドワードのこと。自分の病気のこと。
しかし、このうつろな渇きは、その心配事とはまた別の理由によるものだ。

───研究費。軍からの。

喉から手が出るほど欲しかった研究資金を、援助してもらえる。
話があまりにうますぎて、心が乾くのだ。
乾いた心の内側から、エドワードの声がする。

───軍に雇われるっつーのは、そりゃ楽だったぜ。

ああ、いつかの、自慢話だ。

───金は、湯水のよーに使い放題。技術と実績さえ残せば、子供だろうが年寄りだろうが関係ない。いやもう太っ腹っつーか平等主義っつーか、徹底しててさ。

「あちらの世界」の軍属だったという、エドワードのあの話。
長くて、ばかばかしくて、でも緻密でリアルで、聞いてしまわずにはいられなかった、あの。

───でも、そのゼータクな生活は、たったひとつの条件と引き換えだったんだ。

───なんですか?条件って。

───『いくらでも、金はやる。その代わり、軍のために人を殺せ』ってやつ。

だらしなく窓枠に頬を寄せ、アルフォンスは目を細める。
閉じかかったその目に、隣家の窓の明かりが歪んで沁みた。

───安心しろよ。オレは、あの軍のために人殺しをしたことはねぇ。さいわいに、オレが軍属やってた間は、そんな命令は出なかったから。

───過去に、そんな命令が出たことは、あったんですか。

───………あったよ。

本当に、あの時のエドワードの表情は、嫌になるほど静かだった。

───過去のその命令に、従ったやつも、何人か見た。……みんな、言葉にできねぇくらい……苦しんでた。

その中に、エドワードの「大事な人」もいたのだろうか。
どうしても拭い去れないわだかまりが、心の最深層からふと浮かび上がって来て、アルフォンスの喉を詰まらせる。
わだかまりが、はっきりと形を成してくるのが嫌で、残り少ない気力を振り絞って、アルフォンスは思考を本筋へ戻す。

───もしかしたら。

この降ってわいたパトロン話にも、「たったひとつの条件」が存在するのかもしれない。
ヘスは、アルフォンスたちの状況に詳しすぎる。あれほど研究室の実情に詳しいのなら、エドワードが現在は研究から離れてしまっていることを、知っていてもおかしくない。それには一言も触れず、ただへスは、「エドワード」とアルフォンスたちの力が必要だと言った。

───なにか、ヘスさんには、僕の知らない理由があるんじゃないだろうか。

ヘスは保安本部の人間だ。彼がいかに善良な人物であったとしても、彼は立場上、スパイ容疑をかけられたエドワードを、誰よりも一番疑わなければならないはずだ。
直接の知り合いでもないエドワードをかばうことは、ヘスの身の危険に繋がる。なぜ、ヘスはそんなにまでしてエドワードにこだわるのか。
あのロマンティックな「計画」とやらのイメージが、アルフォンスの中で急に色あせる。ヘスはあまりにもまっすぐで、ヘスの理想もあまりにもバラ色すぎて、彼の言う「計画」は、アルフォンスにとって、現実感がない。
その現実感のなさを自覚していないヘスの笑顔が、アルフォンスはどこか怖かった。
研究費を出してもらうのにも、エドワードの言う「等価交換」が必要なのだろうか。

───「怖さ」と、引き換えに。

それでも、アルフォンスには、時間がなかった。
この身体が、いつまで研究を続けられるのかわからない。
検査結果が出れば、すぐに隔離病棟に放り込まれるかもしれないのだ。
せめて、そんなことになる前に、研究室の皆のために、パトロンと研究費を確保しておきたい。
覚悟が必要だ。

───僕の、僕たちの、ロケットを完成させるために。

枯渇した気力の、本当に最後の一片を使って、アルフォンスは身体を起こし、窓を閉めた。
これ以上夜風にあたっても、熱が上がるだけだ。
重いまぶたをこすり、椅子の背もたれにやっとつかまり立ちして、壁伝いに寝室を目指す。
一晩ぐっすり寝れば、この興奮からくる熱も治まるだろう。
一歩踏み出すと、ぐにゃりと脳が振動したように、頭痛が弾けた。
まだ、形もはっきりしない「たったひとつの条件」が、アルフォンスの心を、いっそう痛めつけていた。



***

「ヒューズ!そんなとこでなにやってんだ?」
独房内のマスタングには見通せない廊下の端から、声がする。
その声はせわしない足音になって、やがて一人の警官の姿になり、独房の前に立ち止まっていたヒューズに突進してきた。
「おい、早く戻ってくれ。おまえに客が来てる」
同僚の警官共々、ヒューズは忙しい身であるようだ。
周囲をはばかっているのだろう、そのヒューズの同僚は、ささやくようにヒューズに耳打ちしているが、焦りが彼の声を少し大きくしているようだ。

───今日の気休めは、終了だな。

まだ手元でたたんだままだった朝刊をさりげなく後ろ手に隠して、マスタングは潔く諦めた。囚人に不似合いな朝刊を同僚に見られれば、ヒューズとかいうこの警官は、ますます仕事がしにくくなるだろう。
この独房生活の唯一の気休め───朝、新聞を持ってくるヒューズとなんらかの会話をすること───は、今日は、終わりなのである。
ぶっきらぼうなこの警官は、その性格の粗雑さを、わざと演じているふしがある。警官が事件の被疑者に対して高圧的なのは、万国共通の常識だが、どれほど粗雑な口をきいても、このヒューズからは根本的な冷酷さが感じられなかった。

───いかんな。

この唯一の気休めの強制終了が、胸の底でじりじりと痛みのようなものを生み出している。
拘束された時点で、あらゆることを諦めたつもりだったのだが。
このヒューズに頼ってはならないし、何の期待もしてはならない。
ここで誰かに期待したが最後、もっと大きい精神的ダメージをこうむるのは明らかなのだ。
弱音に等しい胸の痛みを忘れようと、マスタングは朝刊を隠した指に力を込めた。
紙質の良くないそれが、ぱり、と小さな音を立てると同時に、ヒューズの同僚のささやきが、はっきりとマスタングの耳に届いた。
「拘束中のエドワード・エルリックに、届け物だそうだ。早く行って受け取ってやってくれ」
あらゆることを諦めれば、独房生活もそう苦痛には感じなかった。
だが、たったひとりの人間の名前が、マスタングのつかの間の平穏を根こそぎ奪っていった。

***



あれからもう、一週間は経っただろうか。
もともと味気ない食事には全く味が無くなり、ヒューズが毎朝秘密裏に届けてくれる新聞の内容も、全くマスタングの頭には入らなくなった。紙上の文字は読んでいるのだが、文字の意味が、頭の中に全く染み込んできてくれないのだ。

───関わってしまった、ばっかりに。

エドワードは、マスタングと接触していた関係を疑われて、拘束されているのだろう。もともと軍に協力的だったロベルトは、その利用価値を買われて、なんとか身柄の拘束を免れている。ロベルトがコンタクトを取った、エドワードたちの研究室も、同じ理由で存続を許されているらしい。
だから、エドワードもきっと無事だと、のんきに思い込んでいたのだ。
この国に入国した時点で、自分が拘束されることも、ぼんやりと想定してはいた。親族の消息は遠くから確認出来ればそれでよかったし、この国の誰に関わるつもりもなかった。研究狂いのロベルトの、恐ろしい長話にひっかかり、宿を借りるはめになったのは、我ながらあまりにも軽率だったが。
あの時、エドワードに会って、心の中の何かが壊れた。
壊れたのは、他人を気遣う配慮だったかもしれない。
自分を守る警戒心だったかもしれない。
だめだとわかっていて、エドワードを引き寄せた。
壊れたのは、自制する気力だったろうか。
どれだけ悔やんでも足りない。
関わりなど、持たねばよかった。
持ってはいけなかった。
けれど、持たずにはいられなかったのだ。
高名な「レッドバロン」を撃墜しても、国を挙げて最高の勇者と称えられても、その裏で、やはりマスタングは下賎の人間としてさげすまれ続けた。
どんなに努力しても、この世界に自分の居場所などないのだと思っていたあの時に、エドワードに会った。
寂しいのだと、あの目が訴えていた。
あの利発なまなざしで、いきいきと宇宙論を語る、一方で。
この世界で、真に帰るところがないのだと、金色の目が訴えていた。
どうしてもあの目を放っておけなかった、自分の弱さが恨めしい。
それを形に出来るなら、丸めて床に叩きつけたいほどに。
あんなにエドワードは、自分と関わりたくないと言っていたのに。
どうすれば、エドワードを拘束から解放してやれるのか。
どれほど自分がエドワードとの関係を否定しても、相手がドイツ警察では、かなりどうしようもないだろう。
力なく握ったスプーンを、長々とスープ皿の中身に浸したまま、食事も忘れてマスタングは考え続ける。
だがその思考は、すぐに、聞き慣れた声にかき乱された。
「メシがマズイのは我慢しろ。食わねーとへばるぞ?」
驚いて顔を上げると、いつのまにか、鉄格子の真正面にヒューズが立っている。
「…具合が悪いんなら、今のうちに言っとけ。上のやつらは気まぐれだ。罪状が確定しちまったら、医者に診せてもらえるかどうかもあやしいからな」
鉄格子を透かしたヒューズの顔つきは、嫌味やら軽口やら、何か言いたげなのを我慢しているいつもと違って、無表情だ。
「ここんとこ、ろくに食ってないな。腹具合でも悪いのか?」
無表情で、押し殺した声も一本調子なのに、ヒューズのその口から漏れてくる言葉は、どれもこれも、考えられないほどの気遣いに満ちている。
エドワードへの届け物を受け取っていたこのヒューズは、エドワードの知人なのだろうか。それとも、マスタングの収監を管理しているように、エドワードもまた、この監獄でヒューズの管理下にあるだけなのか。
ふと訪れた沈黙の中で、マスタングは可能な限りの推測を、脳内にめぐらす。
「おい。なんとか言えよ」
せかされて、マスタングはやっと口を開いた。
「別に。食欲がないだけだ」
動かす唇にさえ、目に見えない重力がかかっているような気がする。マスタングの身体の芯からは、重苦しい何かがぐずぐずと流れ出していて、その身体の動きをずっと妨げている。
「ひでぇ顔だぜ。目の下が真っ黒だ」
いつものように茶化すふうも皮肉るふうもなく、ヒューズは無表情にマスタングを見つめ続ける。

───これも演技なのだろうか。

威厳だかプライドだかを保つために、粗雑さを演じていたこの警官は、こうしてマスタングの心に入り込んで、何をしたいのだろう。
収監者を懐柔するように、命令でも受けているのか。
懐柔して、少しでも情報を引き出したいのか。
この脳内には、ドイツに有益な情報など、何も入っていない。
目を負傷した直後に軍を退役させられて、もう数年にもなるのだ。
古い情報は、もはや情報ではない。
そして、マスタングはもうイギリス軍には守ってもらえない。傷痍軍人に支給される恩給だけは細々と受け取っているものの、それ以外の政府からの扱いは、一般人と全く変わらない。金を恵んでやるのだから、文句を言うなと言わんばかりだ。
誰も助けてなどくれない。
自分のことはいい、だが、エドワードだけは。
マスタングはスプーンから指を離した。
スプーンの柄が皿に沈むのもかまわず、それを脇に置いて立ち上がり、鉄格子の向こうに立つヒューズに向き合った。
今、マスタングと外界とを繋いでくれるのは、このヒューズしかいない。
完全に当局側の人間に、情けを期待するなど、愚かにもほどがある。
それでも、もう、何もせずにはいられないのだ。
賭けにもならないこの賭けに、望みを託すしかない。
さっきまでスプーンを持っていた手を伸ばして、マスタングは鉄格子の一本を握った。すがるようにそこを握り込みながら、間近のヒューズの目に向けて、懇願した。
「…収監されている、エドワード・エルリックの様子を、教えてくれ」




白い天井が崩れ落ちてくるような衝撃だった。
「君は、結核ではなかったよ」
医者の言葉に、アルフォンスは茫然とする。
診察室の椅子に座って、医者と向かい合っているのに、安定した姿勢でいるはずなのに、なぜか、地震でも起きているように、ゆっくりと視界が揺れる。
「検査の結果、結核菌は検出されなかったんだよ。レントゲンの影からして、これは…言いにくいが、ガンのようなものかもしれない」
この歯切れの悪さが、この医者の、精一杯の配慮なのだろう。
周囲から、ガラスを一枚隔てたような静かなめまいの中で、アルフォンスは確信した。

───手遅れなんだ。この、ガンは。

心は半分、まだ逃げていたが、その確信は、逃げるアルフォンスの心の端をしっかりと捕まえていて、どうしても、逃れようがなかった。
天井から崩れてきた、見えないがれきに勢いよく打ちのめされながら、アルフォンスは医者を見つめ続ける。
一枚ガラスの向こうで、医者は気の毒そうにこちらを見ている。
目の奥からむずむずと何かが湧き上がる。
とてもくすぐったい目の中のそれが、涙だとわかって、アルフォンスの肩から、さらに力が抜けた。
こらえる間もなくあふれた涙を急いで拭っても、満杯のコップを無慈悲に傾けたように、何の抵抗もなく頬の上で水は流れ続け、とても拭いきれない。
微動だにせず医者が黙っていてくれるのが、嬉しくて、憎らしい。
そんなに同情しないで欲しい。
死の恐怖を一足飛びに超えて、感情という感情が、壊れかかっているだけなのだから。
顔を拭いながら、アルフォンスはこぶしを握った。
固く握った指の間からも、涙は容赦なくにじみ出て、あふれる。
心配も恐怖も悲嘆も何もかも飽和しているのなら、人形のように、全ての反応を自動的に停止してしまえばいいのに、人間の、この自分の身体は本当にままならない。ロケットの設計だって、ほんの小さな、たったひとつの不具合で、エンジンはうんともすんとも言わなくなるのに。
それでも、ままならない涙と闘う心の隅には、温かい安心が灯る。

───エドワードさんに、この病気は、うつらないんだ。

嬉しくてたまらない。
そして、可笑しくてたまらない。
死ぬかもしれないのに、こんなに嬉しいなんて。
「…ご家族と一緒に、来てもらえばよかったな。本当に、すまない」
依然、一枚ガラスの向こうで、医者が謝っている。
アルフォンスが病気になったのは、彼のせいではないのに。

───違う、違います。

医者がハンカチ代わりに差し出した分厚いガーゼを受け取って、声も出せないアルフォンスは、心で医者に反論するしかなかった。
違います。僕は悲しいだけで泣いてるんじゃないんです。

───僕はただ、ほっとして。ほっとし過ぎてて。

この安心は間違いなく、死の恐怖と同列だった。
それが、アルフォンスにはとても可笑しくて、誇らしかった。




鍵を鍵穴に入れて回し、ヒューズは独房の扉の施錠を解いた。
きゅっ、と短く音を立てて、開いた扉がきしむ。きしんだ音の向こうで、マスタングは小さな簡易ベッドの上に腰掛けている。
「取調べだ。出ろ」
足早に独房内へと踏み込み、すっかり慣れた手つきで、ヒューズは座ったままのマスタングに手錠をかけた。
少し高い目線から見下ろしていると、マスタングの顔面から脂肪が失われているのがよくわかる。この10日ほどの間、食事をろくに摂らなかったせいで、彼の目の下はうっすらとへこみ、頬骨はとがって、突き出ている。
内科の医者にかかれと勧めても、マスタングはきかなかった。
具合が悪いのは身体でなく、精神状態だったらしい。
数日前に、エドワードの様子が知りたいと、鉄格子の向こうからいきなり詰め寄られ、ヒューズは少なからず驚いた。

───『私のせいで、彼は拘束されている。彼はスパイでもなんでもない』。

この男がひどく思い詰めていたのは、エドワードのことだった。耳ざとく、ヒューズといつかの同僚の会話を聞いていたらしい。
たった数ヶ月前にドイツに入国してきたこんな男と、エドワードが知り合いであったとは。
ヒューズにはとても想像が及ばないことだった。
しかし、よく考えてみればエドワードも、何ヶ月か前にこのミュンヘンに来たばかりの移住者だ。エドワードがグレイシアの管理するアパートに住むようになってから、ヒューズはエドワードと顔を合わせる機会があまりにも多く、すっかり彼とは昔馴染みの感覚に陥っていた。
新参者同士、彼らは心の底で通じ合うものでもあったのだろうか。

───『すまん。俺は確かにエドワードとは知り合いだが、それ以上のことは、今は教えられない』。

苦しまぎれに答えたヒューズを、マスタングは凍りつくように見つめていた。飄々としていたいつもの態度を、一変させて。
警官という、規則だらけの職業に就いているヒューズの当面の仕事は、このマスタングに、独房での生活作法を教えてやることだ。
上の人間の目を盗んで、マスタングととりとめのない会話をすることは出来ても、ヒューズの独断で、マスタングに新たな情報を与えてやることは出来ない。
エドワードとは無関係だと言いながら、マスタングは尋常でない態度で、エドワードの身を案じている。
彼はその矛盾を衝かれることを恐れて、一週間も1人で思い詰めていたのかもしれない。
そしてとうとう耐え切れずに、ヒューズに助けを求めてきたのかもしれない。
そう思うと、胸苦しくてたまらない。
いつからこんなに、この、ちっとも英雄らしくない、小憎らしいパイロット崩れの男が気にかかるようになってしまったのか。
憎めないと思ってしまった、あの初対面から、どうかしているのだ。本当に。
マスタングを従えて、窓のない廊下をヒューズはのろのろと歩く。
マスタングに言葉をかけるかけまいか、迷い続けたあげくに、沈黙を貫き通してしまい、あっという間に取調べ室の扉の前に到着してしまう。
「入れ」
ノックの後で、マスタングを室内へと促す。
凍りついた目のままで、ヒューズに一瞥もくれず、マスタングは扉の向こうに消えた。