快楽をもたらすもの -3-



「どうしたのかね。ひどい顔色だ。具合が悪いなら、医者に診せるが」
取調べ室の、優美とは言い難い形の椅子に腰掛けて、その警官は、ヒューズと同じことを言った。
浮上出来ない気分のまま、マスタングは真向かいに座るその男を見つめる。
今まで何度か尋問を担当していたこの男のことを警官だと思っていたが、彼は、ヒューズとは微妙に違う制服を着ている。警官の階級が上がれば服装も微妙に変わってくるのだろうが、この青年が着ているものは、大戦中のドイツ軍の服装に酷似している。
「食欲がないだけで、他は、なんとも」
ヒューズにしたのと同じ返答をすると、男は、色白の頬を、かすかに歪めて微笑した。
おそらく富裕層の出身なのだろう、他の警官とは明らかに違う、はっきりと知性を感じさせる風貌をしていながら、この男からは、何か底知れないマイナスの感情を感じる。
全く同じ内容の会話をしていても、あのヒューズと会話するのとは、雲泥の差だった。
人種的にも階層的にも、蔑まれることの多かったマスタングだが、この男からはいつも、それ以上の、表現しがたい不気味な気迫を感じるのだ。
「…食事が口に合わないなら、内容を改善するよう、指示を出そう」
新聞の件といい、この発言といい、被疑者に対しては破格の扱いだ。嬉しいよりも先に、マスタングは不気味でしかたがない。
「…なぜ、私に、そのような配慮を?それとも、ドイツ警察は、スパイかもしれない人間を、みなこのように丁重に扱っているものなのか?」
マスタングの質問に、男は目を細めて笑う。
笑みながら、種明かしをするのが嬉しくてたまらないというふうに、すいと顎を持ち上げた。
「結論から言おう。ヘル・マスタング。我が陣営に加わってもらいたい」
男の唇を注視していた視線を、マスタングはゆっくりと上げる。
「旅券の偽造については、一切不問にする。その代わりに、ドイツ国家のために働いてもらいたい。この国に来て君も肌で感じただろうが、この国には、富も、誇りも、人材も足りない。語学に長けていて、しかもパイロットの経験がある人材は、そう多くはない」
マスタングは男の目を見つめる。
知性あふれるそのマホガニーの瞳は、これ以上なく冷たく、澄みきっている。
「スパイかもしれない人間を、スパイに仕立てるのか?」
端的なマスタングの質問を、男は鼻で笑い飛ばした。
「二重スパイなど、そこらにあふれているがね。だが君は、我々を裏切れない。自分で、わかっているだろう?」
「…わからない」
「意地を張らなくてもいい。君の大切なものは、このドイツにあるはずだ。そうだろう?」
頬が、冷たくなるのがわかった。
マスタングは固唾を飲む。
顔面に氷を叩きつけられるような、そのショックを耐えるために。
「私の親族は、ロベルト以外は、この国で生存していない」
「違うよ。君にはもっと、大切な人間がいるはずだ。その人間のことが心配で、食事も喉を通らなくなるぐらいの」
この男は、知っている。
絶望的な予感に、マスタングは声を失った。
取調べの中で、エドワードとの関係は尋ねられても、そのエドワードがここに収監されていると、マスタングには知らされなかった。その情報の遮断には、こうしてマスタングを試すという意図があったのだ。
ヒューズが、マスタングの現状を、どう上に伝えたのかはわからない。
エドワードの収監がマスタングに伝わったのは偶然で、この男の冷酷な質問は、誘導尋問である可能性も大きい。
だが、状況がどうであったとしても、マスタングがあくまで質問を否定し続けても、エドワードの今の窮状には何の変わりもないだろう。
こんなところまで来て返答をためらう自分が、本当は何一つ諦めきれていなかったのだと気づき、マスタングは、正面のマホガニーの瞳から、視線を逸らした。
「観念したまえ。ヘル・マスタング。君さえこの件を了承してくれれば、彼はすぐにでも釈放しよう」
たたみかけて来る男の声が、また笑いを含んだ。
目前の、粗末なテーブルを無意味に見つめながら、マスタングは密かな吐息をやっと、声にする。
「……確かに。この国の人間には誇りがないようだ」
視線を合わせなくても、男が表情を激変させたのがわかった。
「どういう意味だ」
紳士ぶった物言いは消え、少年が掴みかかってくるような単純な怒気が、マスタングに向けられる。

───ああ。ここで、死ぬのだろうな。

今まで、幾人もの人間が、家族を人質にとられ、こうして闇に身を沈めていったのだろう。
名前を奪われ、意志を奪われ、身体は生きたまま、魂は死ぬのだ。
「質問に答えろ!」
ヒステリックな声がマスタングの耳を刺すと同時に、男の右手が閃いた。
予想していなかった殴打で、頬が焼ける。
痛みが治まるまで、口などきけない。
男はさらにいらだち、自分の椅子を蹴倒して立ち上がった。テーブルの縁をずかずかと回ってきて、恐ろしい勢いでマスタングの腕を掴み上げる。
椅子から引きずり立たされても、マスタングはされるがままにしていた。
この男をこれ以上怒らせると、エドワードの安全が保障出来ないからだ。
脱力したマスタングの腕を、鼻先にまで掴み上げ、男は急に冷たさを取り戻した瞳で、目前にぶら下がるマスタングの指を見つめた。
「この指で、我がドイツの宝を撃ったのか?」
男は指を滑らせて、マスタングの手のひらを検分するように、その甲に爪を立てた。
「真の騎士は、敵にこそ最高の敬意を払って接するものだ。祖国を捨てるような低俗な移民に、騎士道をわからせようと思った私が、間違っていたよ」
甲に食い込む爪の力とは対照的に、男はしっとりと微笑む。
「…貴様の目を潰してやりたいところだが、その復讐はもう、優秀なドイツ軍の手で成されているのだったな。では」
宙に吊られていたマスタングの手のひらが、側のテーブルに叩きつけられる。
握られた親指を、関節とは逆方向に曲げられ、マスタングは悲鳴を噛み殺した。
「この憎い指に、崇高なドイツ国家からの、正当な制裁を加えてやろう」
男の顔が、笑み崩れた。
「心配ない。きれいに折ってやる。後は、我がドイツの優秀な医師が、元通りに治療する。指が不具のスパイなど、目立ってしかたないからな」
親指に一定の力を加えたまま、男は動きを止めた。少しでも、マスタングの緊張と苦痛を長引かせたいかのようだ。
「死など、平安にすぎない。貴様にその平安は与えない」
お気に入りの歌でも歌うように、流暢に、男はマスタングを呪う。
「誰にも信頼されず、誰とも連帯できず、国家の奴隷となれ。貴様の生涯には、絶望しか存在しない!」
言い終わらないうちに、鈍く湿った音が、マスタングの指先で炸裂した。




今日も、取調べはないようだ。
この半月近く、ありとあらゆる「この拘束の理由」を推測し、想像し、考え疲れていたエドワードは、もう膨大な空き時間を、思考することだけに使ってはいなかった。
アルフォンスから差し入れられた数冊の本に、毎日少しずつ目を通し、その他の時間は、出来るだけ身体を動かす。それが、エドワードの単純で地道な日課となっていた。
さすがに狭い独房内を走り回ることは出来ないが、身体の曲げ伸ばしや、腕立て伏せぐらいは出来る。ベッドの上で腹筋運動をしていると、たまに通りかかる看守にあきれられたが、なまった身体を放置することの方が、エドワードにとっては不愉快だった。
ロケットの研究をやめてから、エドワードが外出することは少なくなっていたものの、人ひとりが生活するには、一定の家事労働が必要となる。それすらも禁じられたこの閉鎖空間での生活は、全く不健康なものだった。
アルフォンスの病状がどうなのか、エドワードの頭から離れたことはなかった。差し入れを持ってきてくれたヒューズは、心配ないと言っていた。この目で様子を確認出来ないのがもどかしいが、グレイシアの手前、ヒューズはこの件で嘘はつかないだろう。

───考えても、しかたねぇ。

この特殊な状況下で、思い悩むばかりではあまりにも健康に悪い。ここで身体を壊して、アルフォンスと共倒れるわけにはいかないのだ。
心のキャパシティに余裕を持たせるために、同じ場所に収監されているらしいあの男のことは、きっぱりと考えないことにした。最初はしつこく尋ねられたものの、ここ数日は、取調べ中に彼の名前が出ることもなかった。
だが、「彼について考えないこと」にこれだけの強力な決心が必要だということは、真逆のことをも意味する。
エドワードのキャパシティは、もうほとんど限界だった。
心が壊れれば、身体も壊れる。だから、自分を騙してでも、正常な精神を保ちたかった。ここを出る日が来た時、健康体でいられるように。

そして。
「その日」は、本当に突然やってきた。

「…朝っぱらから、なにやってんだ?」
朝食後、鉄格子のそばで日課をこなしていたエドワードの鼻先に、見慣れたブーツの先が立ち止まる。
一緒に聞き慣れた声も降ってきて、エドワードはそのままの姿勢で、顔だけを声の主に向けた。
「見たまんまだよ。腕立て伏せしてる」
「身体の調子は、いいみたいだな」
「おかげさんで。身体もココロも、いろいろと鍛えさせてもらってるよ」
「……本当に、すまん。すまなかった」
「え?ちょっと、どうしたんだよ?」
いきなり謝り始めたヒューズに、エドワードはあわてた。
ちょっとした強がりと軽口のつもりだったのに、叱られるどころか、憎まれ口すら返って来ないのだ。
少なからず驚いて、エドワードは床についていた手を上げ、ひょいと立ち上がった。
鉄格子の向こうで、ヒューズは実に複雑な顔をしている。
「ほんとに、どうしたんだよ?なんかあったのか?」
どうかすると、泣き出しそうにも見えるヒューズのこんな顔など、見たことがない。
エドワードに間近から見つめられ、職務を思い出したのか、ヒューズはどうにか表情を整えて、言った。
「おまえの釈放が決まった。明日だ」




通い慣れてしまった取調べ室ではなく、ソファがしつらえられた応接室に通されて、エドワードはぼんやり立ちつくす。
なぜ釈放されることになったのか。
なぜそれが明日なのか。
そしてなぜ明日釈放されるというのにわざわざ今日、面会人が来るのか。
その数々の疑問を、エドワードは、傍らに立つヒューズにぶつけてみたが、ヒューズは「知らない」の一点張りだった。被疑者に余計な情報を与えてはいけない規則なのだろうが、ヒューズの応答は誠実で、おそらくはヒューズ自身も、エドワードの質問の答えを知らないのだろうと思われた。
ソファのそばの、大きなローテーブルの木目が、とても美しい。その深い飴色が、ずっと独房と取調べ室の往復しかしていなかったエドワードの目を穏やかに刺す。
ありふれた家具の、ありふれた色にに目を奪われていることがとても不思議で、エドワードはそっと目をこすった。

───やっぱ、いろいろ、疲れてんのかもな。

釈放という言葉を聞いて、気が緩んでいる。
立ったまま、意思に反して奇妙に脱力した身体を、エドワードはもてあます。
先行きが見えなかったほんの数十分前には、今日もしっかり日課をこなそうと、あんなにも意気込んでいたのに。
あまりにも正直な自分の身体が恥ずかしくて、エドワードは身体と一緒に緩み始めた気持ちももてあます。
黙ってさえいれば、そばのヒューズにも気持ちを見透かされることなどないだろうが、それでも自分で自分が恥ずかしい。
「…エド。座ってもいいんだぞ?」
ヒューズにいきなり促されて、エドワードは内心で飛び上がる。
「え…、あ、ああ」
ソファに座らねばならないほど、呆けた顔はしていないつもりなのだが。
「座って楽にしてろ。黙っといてやるから」
この半月、一挙手一投足を監視されて過ごしてきたエドワードへの、精一杯の詫びなのだろうか。ヒューズはどこまでも優しかった。
エドワードの収監をこれまで管理していたのはヒューズではない。今日のこの、面会への立会いも、ひょっとすると、ヒューズはごり押しして誰かに代わってもらったのかもしれない。
それをヒューズに尋ねようとしたところで、いきなり応接室のドアがノックされた。
「失礼します」
ヒューズよりももっと聞き慣れたその声に、エドワードの胸が、さっと詰まる。
ドアの影から現われた、真っ青な瞳が、こちらを見つめている。
何も変わっていない、透き通る金の髪。
思っていたよりも血色の良くなっている頬。
瞳の下の唇は、早く何か言いたくてしかたないというふうに、落ち着きなく、だが小さく開かれている。
アルフォンスを部屋まで連れてきた警官は、アルフォンスを室内に押し込むと、さっさとドアを閉めて退散していった。
ソファに座るタイミングを完全に失くして、エドワードはただ立っている。

───オレ、明日帰れるから。
───だから、わざわざ今日なんかに来てくれなくてもよかったのに。
───子供じゃねぇんだから、オレ1人で帰れるし。
───こんな空気の悪いところに来ないで、おまえは家で寝てたほうがいい。

次々と、愛想もへったくれもない言葉が脳裏に浮かんでは消える。アルフォンスを見つめるのにいっぱいいっぱいで、エドワードは声を出すことが出来ない。
「おまえら。座ったらどうだ」
またヒューズに促され、エドワードは我に返った。
こぼれ落ちそうなアルフォンスの瞳も、ふと揺れる。
「す、われよ。アルフォンス」
万全でないだろうアルフォンスの体調を気遣って、やっと出た声は、カラカラに乾いて、かすれた。
「エドワードさんも、ね」
晴れ晴れと、笑って。
エドワードの座るべきソファを指差し、アルフォンスはその向かいに腰を下ろす。
半月ぶりに聞く柔らかなアルフォンスの声が、エドワードの身体から、ますます力を奪った。
途方もない距離を歩き続けたかのように、膝が震える。傍目にはわからない、本当に細かな動きで、エドワードの足は内側からきしきしとくすぐられ、ここで地団駄を踏んでくすぐったさをごまかせないことが、もどかしくてたまらない。
「身体、は。具合はどうなんだ。大丈夫か?」
ふらふらと、白昼夢でも見ているような風情でソファに尻から崩れ落ち、エドワードは尋ねる。
「大丈夫です。風邪はすっかり治りました」
血色の良い唇からこぼれる笑みに、エドワードの胸がまた詰まる。
身体の底で冷たく凝り固まっていた、唯一にして最大の心配事が、熱く溶け出して流れ、跡形もなくなってゆく。
それなのに、息が苦しくてたまらない。
聞きたかった言葉を聞けたことが、こんなに苦しいとは。
苦しくて、目が回って、ほとんど酸欠状態だ。
「エドワードさんこそ、大変だったでしょう?大丈夫ですか」
アルフォンスは、エドワードの釈放を、すでに知らされているようだった。
本当に長い間見られなかった、曇りのないアルフォンスの笑顔が、いっそうエドワードを苦しめる。冗談抜きで、この応接室の酸素濃度はどうなっているのだろう。
震える膝も、酸欠状態も、見た目にはわからないはずである。
こんなふうに気遣われるために、エドワードは地道な日課をこなしてきたわけではない。断じてない。
「大丈夫に決まってんだろ。ヒマすぎて空き時間は筋トレ三昧だったからな」
声がかすれないよう、言葉が途切れないよう、最大の集中力を発揮して、エドワードは口の端を上げてみせる。嘘は言っていない。実際、体調はすこぶる良いのだから。
「明日、帰れるから。おまえはゆっくり家で寝てろ」
「だから、風邪は治ったんですって。ちゃんと迎えに来ますよ」
「今日のこれとじゃ、二度手間だろ」
「二度でも三度でも来ますよ、あたりまえじゃないですか」
「………あんまり真顔で力説するな」
「どうしてですか?」
いけしゃあしゃあと聞き返してくるアルフォンスから視線を逸らし、エドワードは自分の口元を手のひらで覆った。
苦しすぎて、赤面しそうだ。いや、もうしているのかもしれない。
まったく、この頑固でストレートな男は、同じ部屋にヒューズがいることを忘れているのではないだろうか。
嬉しい核心を避けて逃げ回るエドワードをちゃんとわかったうえで発言しているらしいあたりも、エドワードは腹が立ってしかたない。
だがその腹立ちも、単なる偽装である。
照れも逃亡も許してくれないアルフォンスの笑顔が、窓からの陽光で透き通り、はじけ、気の遠くなるような幸福が、苦しむエドワードの喉をいっそう締め上げた。
部屋に満ちた瞬間の沈黙に耐えられなくなったのか、エドワードの背後に立っていたヒューズが、懐から紙切れを取り出す。
「あっと、アルフォンス。忘れないうちに、入室記録にサインしておいてくれ」
場所が場所だけに、部外者の入退室のチェックは厳しいのだろう。
「…あの、ここの玄関でも書いたんですが」
「これは面会者専用のチェックなんだ」
紙と一緒にペンを取り出し、エドワードの肩越しに、ヒューズの腕がテーブルの上に伸びる。
ぺたりとテーブルに広げられた紙を、アルフォンスが自分の側に引き寄せると、紙よりも重みのあるペンはころころと転がり、勢いあまってテーブルの下に落ちた。
「…、ああ、オレが拾う」
靴の先にこつりと軽い衝撃を感じて、エドワードは上半身をテーブルの下にねじ込んだ。
応接間用のテーブルは、ダイニングのそれと違って、床からの高さがあまりない。コンパクトなエドワードの体格をもってしても、座ったままテーブルの真下に手を伸ばすのは、至難の業だった。
しかたなくソファから降り、膝を床につけて、完全に這う格好でエドワードは落ちたペンに手を伸ばす。
「アルフォンス、いいって。オレが取、」
テーブルの下で、同じようにかがみ込んでいるアルフォンスと鉢合わせた、その時。
ペンを掴んだ手の甲を、上から握り込まれた。
えっ、と苦しい角度で見上げた顎に、もう一方の、アルフォンスの手が伸びて来る。
薄暗いテーブルの下で、青灰色に沈んだアルフォンスの目が、きらり、と一度だけ光を反射して。
影ごと、アルフォンスの顔が間近に迫った。
逃げることもかなわず顎を固定され、唇が、同質の柔らかい感触でふさがれる。
水滴が落ちるような微細な音が、エドワードの目の奥にまでしみ通る。
触れて、瞬時に離れていった唇は、実際の触覚よりももっと鋭い熱さを、エドワードのそこに焼き付けていった。
熱は爆発するような速さで、エドワードの全身に拡散する。ただでさえ苦しい喉を詰まらせ、腹筋をねじり上げ、下半身のあらぬ場所までを重く支配して、駆け巡る。
体温計で計ることの出来ない熱の名は、おそらくは、快楽というのではなかったか。
アルフォンスに依存し、心の欠損部分を埋めるためだけに、彼の身体を貪ったあの時には決して得られなかった、鮮やかな感覚が、エドワードの心身を駆け巡り、打ちのめす。
こうしてずっと、果てしなくアルフォンスに甘え続けているのに、それを正すこともせず、エドワードの言動を全て飲み込んで、アルフォンスは存在してくれている。

───どこまで、一緒に堕ちてくれるんだ。

嘆きとも、質問とも、安堵ともつかない、刹那のつぶやきを唇でせき止めて、エドワードは、顎に絡んでいたアルフォンスの手首を掴み、それを押しのけようと身じろいだ。
掴んだ手のひらに、不自然なまでに硬い感触が伝わる。
男の手など柔らかいものでもなんでもないが。
この、異様に骨ばった、細い手首は、どういうことなのだろう。
アルフォンスの顔色の良さと、この手首の細さが一瞬結びつかず、エドワードは全身の熱も冷めやらないまま、うろたえた。
うろたえすぎて、テーブルの天板に頭を強打してしまう。
「いっ、てぇ…!」
痛みに気を取られたエドワードの手を軽々と振り切って、いまいましくもアルフォンスは、天板ぎりぎりに頭部をスライドさせ、何事もなかったように離れていった。
「大丈夫ですか?」
性懲りもなくいけしゃあしゃあと、天板の影から涼しい声が尋ねてくる。
ペンをわし掴み、テーブルの縁にぶら下がるように手を掛け、エドワードは勢いよくテーブルの下から脱出した。
痛む後頭部をおさえたまま、ぎゅっとうつむいて机上にペンを叩きつける。
「…ありがとう」
ずうずうしくペンをさらっていくアルフォンスの顔も、背後に立っているだろうヒューズの顔も、もう見られない。
「おいおい、大丈夫か?エド」
「…………たぶん、ダイジョー…、ブ…」
ヒューズが立っているのが背後で、本当によかった。正面から、こんな茹で上げられたような顔を見られたら、軽く一週間は再起不能に陥るところだ。
後頭部を押さえ、机上にべったり顔を伏せて、エドワードは踏みつけられたカエルのような、情けなくも切ない声でうめく。
「…アルフォンス…」
「何ですか?」
アルフォンスの操るペンが、さらさらと紙面を滑る音が聞こえる。
「………………いや。なんでもない」

───明日、家に帰ったら、覚えてろ…!

そのペンの音を聞きながら、エドワードは心で毒づいた。
毒づいても、毒づいても、心臓の鼓動は早いままだ。
アルフォンスと向かい合えなかった日々を埋め合わせる幸福は、唐突で、急転直下で、不思議な違和感が拭えなくて、どこまでも息苦しかった。




ずっと同じように過ごしてきた退屈な夜なのに、小さな窓から見える夜空は月光で白々と磨かれ、恐ろしく透き通っている。
明日の朝にはここを出られると言う解放感が、エドワードの色彩感覚を、多々ひっくり返しているらしい。
昼間は色々と騒がしかった心臓も、夜になってようやく静まったが、解放感に加えた違和感は、エドワードの胸の中でじわじわと根を広げ続けている。

───なにか、おかしい。

この半月、アルフォンスに多大な心配をかけたことは間違いない。
そのストレスが過ぎて、アルフォンスが昼間のような暴挙に出てきたことも、悔しいがわからないでもない。
しかし、アルフォンスには、何か隠し事があったはずだ。
エドワードがここへ収監される前、アルフォンスは一生懸命、何かを隠そうとしていた。
あの時から隠し事を抱えていたアルフォンスと、晴れやかに笑っていた今日のアルフォンスのギャップが、エドワードの中でどうしても埋まらない。
アルフォンスが、エドワードの釈放を喜んでくれていたことを加味しても、何かが違うような気がしてならない。
半月前、エドワードを数日間避けていた彼の本当の理由を、エドワードはまだ聞いていない。アルフォンスの言っていた、「風邪がうつるといけないから」という理由は、いかにも頼りなくて、とても信じられなかった。

───本当は、オレの顔も見たくないほどに怒ってたから?
───本当は、風邪なんかじゃなくて、もっとタチの悪い病気だったから?

思いつく理由はその二つしかない。
どちらの理由も、エドワードにとっては背筋が寒くなるほど真実味があるものだ。

───なんで、隠すんだ。

隠し事はするな、具合が悪いならすぐ言え、って、しつこかったのはあいつの方なのに。
オレにそう言っておいて、自分のことは、自分の本心は、何一つ話さない。
ずるすぎねぇか?
ベッドに寝転がったままそこまで考えて、エドワードはふと天井に視線を固定した。

───それなら。

本当のことを、本当に思ったことを、オレは、この何ヶ月か、アルフォンスに言ったことがあったか?
この何ヶ月か、どころじゃない。
出会った時から、オレは、アルフォンスに、本当のことを言ったことがあったか?
夢が恐ろしくて眠るのが嫌だ、と。
寒かったり、湿気ると、義肢の接合部分が痛くてたまらない、と。
どうしても、弟とおまえを切り離して考えることができない、と。
どうしても、あちらのマスタングを完全に忘れることなどできない、と。
どうしても、おまえに嫌われたくない、と。
言わなくてもいいことと、言わなければならないことがごちゃ混ぜになり、触れたくない下水がみるみるあふれるように、エドワードの意識を侵食してくる。
これは、報いなのだ。
エドワードがアルフォンスにしてきたことを、今度はアルフォンスがエドワードにしているだけにすぎない。
真実を話さない人間が、他人に真実を話してもらえるはずがない。

───アルフォンスに隠し事をさせてるのは、オレだ。

彼の細すぎる手首の感触を思い出して、エドワードは固く目を閉じた。




小さな窓から漏れてくる朝日が、泣きたいほどの温かさで、マスタングの身体に染みとおる。
盛夏である今、夜明けは早く、日没は遅い。それなのに、指を折られてからのこの数日は、短い夜がたまらなく長く思えた。夜の冷気が、指の痛みを助長したせいもある。だが、許可がなくては点灯もできないこの独房の闇は、冷気よりももっと、マスタングの精神を痛めつけた。
心身共に健康であっても、暗闇が好きな人間はあまりいない。根源的な闇への恐怖が精神を弱らせているのか、もともと弱りつつあったメンタルが闇への恐怖を増幅させているのか、その両方なのか。
眠ってしまえばいいようなものの、現実的な指の痛みにも意識を引き戻されて、まんじりともせずにマスタングは夜を過ごしていた。
だから、待ちわびた太陽光がやっと窓から射してきて、ベッドに光の帯を作り、そこから直接的に温度を感じると、霜がとろけるように、身体の中に安心が満ちた。治っていないはずの指の痛みさえ和らぐのだ。
あの男の言ったとおり、指の治療は受けられた。しっかりと固定され、包帯を巻かれた親指に、もう折られた直後のような激痛を感じることはない。
激痛に代わる、通奏低音のような絶え間ない疼痛は、思考を阻害するが、それがかえってありがたい。
考えごとすらするのが嫌で、マスタングはぼんやりと指の痛みに意識を集める。
窓から射す光の角度が、いくらも変わらないうちに、靴音が聞こえてきた。
看守の巡回の時間ではないし、朝食にはまだ早い。
時計がなくてもわかるほどのイレギュラーな靴音は、マスタングの心に(おそらくは周囲の収監者たちの心にも)、ずしりと不安を広げる。
不安な靴音は、どんどん速さを増して、近づいて来る。
また、拷問まがいの取調べなのか。
ここから誰か、移送でもされるのか。
それとも他の、異常事態か。
釈放の希望などかけらも湧いてこない、どこか脱力しかけた緊迫の中、靴音はほとんど駆け足になり、急停止した。
「おい」
息の混じった、かすれた声が、鉄格子の向こうから呼びかけてくる。
ヒューズだった。
薄い毛布にくるまったままベッドの上でうずくまっていたマスタングは、返事もできずに、薄明に透かされてグリーンがかったヒューズの瞳を見つめた。
「今から、俺が合図するまで、絶対声出すな。いいか?」
駆けてきた余韻なのか、ヒューズの肩が軽く上下している。
彼は何を言っているのだろう。
状況が、全く把握できない。
マスタングが身動きもせずにいると、ヒューズはもどかしげに懐に手を入れ、小さな鍵を取り出し、独房の扉に押し当てた。
彼は何をしているのか。
状況が、本当に把握できない。
小さく耳を打つ金属音の後で、扉が勢いをつけて開いた。
「…来い」
ほとんど息だけでささやいて、猛獣のようにすばやく房内に押し入ってきたヒューズは、マスタングの反応もうかがわず、毛布ごとマスタングの腕を掴み、引っ張り上げる。
そのまま毛布に取り付いているとベッドから転がり落ちる可能性が高い。とっさに包帯の親指をかばいながら、マスタングは両足を床に下ろした。
「どこへ行く?」
「しっ!声出すな!黙ってついて来い!」
足元にからむ毛布をかまわず踏みつけ、ヒューズはマスタングの腕を引き、独房を転がり出た。
ヒューズに引かれた右手は負傷していなかったが、強く引かれることによって伝わってくる振動が、左手の包帯にまでしんしんと響く。
留置場の廊下を小走りに走らされながら、マスタングは指に響く痛みを耐える。
ヒューズは声を出すなと言った。今、声を上げて痛みをうったえることはできない。、
収監者に手錠もつけず、留置場の廊下を走っているこの状況は、警察署内では重大な規則違反であろう。ヒューズはおそらく、この行動に出るのに、誰の許可も得ていない。

───まさか、脱走?

痛みで肩まで痺れる中、マスタングの脳裏に、とんでもない考えが浮かぶ。
ここから出られることはありがたいが、脱走など、全くしている場合ではないのだ。
脱走などしたら、今度こそエドワードの安全が保障できない。それだけはヒューズに説明せねばならない。
「脱走…なら、遠慮す、る!」
「黙れ!違う!」
途切れ途切れの訴えは、瞬時に否定された。
マスタングの腕を引いたまま、廊下の端の階段をヒューズは駆け上がる。
脱走するには階下に降りなければならない。それを逆に駆け上がって、どこへ行こうというのか。
肉のそげたマスタングの身体は、この半月、運動らしい運動をしていない。階段を駆け上がるなどという激しい動きに身体も視界もついていかず、何度もつまづきかけ、何度もヒューズに引き起こされる。
指先で脈打つ痛みに、みっともなくうめきながら、何階分を駆け上がっただろう。
ようやく立ち止まり、もう一度懐から鍵らしいものを取り出したヒューズが、大きな扉をがちゃりと開錠する。
額をはたかれるような圧力で、風が吹きこんでくる。
そこへ数歩踏み込むと、早朝の白い空が、マスタングの目の前いっぱいに広がった。
「向こうの、端だ」
人目を気にしなくてよくなったからか、ヒューズは少々荒い息をつきながら、はっきりとマスタングに告げた。
署の屋上に出て、何をしようというのか。
止まらないめまいの中で、じっくり考えるヒマもなく、マスタングはヒューズに引きずられて屋上を横断させられた。
一番はじの、落下防止の柵の前にようやく着き、やっとヒューズはマスタングの腕を解放する。
掴まれていた腕が自由になり、自由になったその右手で、反射的にマスタングは鉄製の柵を握った。
何かにつかまっていないと、本当に倒れそうなのだ。
情けない話だが、おそらく貧血でも起こしているに違いない。
「無理させて、悪かった。時間がなくてな」
足元を見つめてあえぐマスタングの後頭部に、ヒューズの声が降ってきた。
「たぶん間に合ったと思う。ここでしばらく待ってくれ」
さっぱり、わからない。
ヒューズは何をしているのだろう。
訊きたいことばかりがマスタングの喉元にこみ上げてくるが、荒い息はいっこうに治まらず、マスタングは声を出せない。
マスタングの発声を禁じたヒューズにとっては、なかなか都合のいい状態かもしれないが、貧血と酸欠のコンボなど、たまったものではない。
めまいで暗くかすんだマスタングの視界がやっとひらけてきた時、ヒューズの鋭い声がまた、マスタングの後頭部を打った。
「来た!あそこ、見えるか」
柵にすがりながら顔を上げたマスタングに、ヒューズは下界のある一点を指し示す。
すがった柵越しに見つめたそこには、大きめのマッチ棒ほどの人間が二人、立っていた。
立っていた、というのは適切でないかもしれない。
二人は警察署の建物から出てきて、こちらに背を向けて、ゆっくりと遠ざかってゆくところだった。
マスタングは目を見開く。

遠目にもはっきりと見える、あの束ねられた長い金髪は。

それが目に飛び込んできたとたん、額を叩く風も、息を吐きすぎて痛む喉も、指の疼痛も、何もかもが、無となった。
視覚だけに集中するマスタングは今、聴覚も、触覚も、痛覚も失って、はかない静寂の空間に捕らわれていた。
エドワードの隣を歩く短髪の少年は、あの、ルームメイトの彼だろう。
彼は歩きながら何事かエドワードに話しかけ、エドワードは顔を斜め上に上げて、彼に答えている。
この距離からエドワードの表情を詳しくうかがうことはできなかったが、ほんの一瞬のぞいたエドワードの横顔は、穏やかで、落ち着きに満ちているように見えた。
二人は、誰に監視されるわけでもなく、誰に連行されるわけでもなく、ただ、真正面に見える門に向かって歩いてゆく。
門の脇から当番の警官が出てきて、二人に話しかけた後、通用門を開けた。
車の通れない、人間だけが出入りできる小さな通用門の向こうに、二人の影が吸い込まれてゆく。
彼らはここを出て行ったのだ。
目が焼けるように熱くなり、マスタングは故意にまばたきする。涙ではない。まばたきを忘れて、目が乾きかけたのだろう。
「……釈放、されたのか?」
無人となった、遠くの通用門を見つめたまま、マスタングは独り言に近い声音で、ヒューズに尋ねた。
「ああ」
短い答えが、重く、だが温かい響きをもって、返ってきた。




薄い曇天の下で風に吹かれ、体感温度が下がったのか、夏にもかかわらずこの屋上は薄ら寒くてしかたない。
ヒューズは少し肩をすくめて、隣のマスタングを見つめた。
片手で柵にしがみつくようにして、マスタングは下界の彼らを凝視している。
その頬骨のとがった横顔は相変わらず不健康な色だったが、はらりとこぼれそうに黒い瞳は、忍びこんできた光に深く浸され、場違いなほどの生気を湧き上がらせている。
目に力がこもるだけで、人間というのはこんなにも印象が変わるものなのか。
あまりの彼の変貌ぶりに、見ているこちらがいたたまれなくなってしまう。
エドワードとアルフォンスの姿が門の向こうに消えても、マスタングはしばらく視線を動かさなかった。
釈放されたのか、というかぼそい問いかけを肯定してやると、弱々しくすがめられたマスタングの目に、笑みのようなものが浮かんだ。笑み、というよりも、むしろその表情は苦渋に近かったが、ヒューズにはどうしても、彼が苦渋だけを感じているようには思えなかったのだ。

───俺の、自己満足とは思うが。

独房の中で表情を失い、暴行されたらしい指をかばってうずくまるマスタングを、ヒューズはもう見たくなかっただけだった。
マスタングへの善行というよりは、自分が安心したくて、自分の心の平安のために、ヒューズはマスタングをここまで連れ出した。この行動の中身には、偽善も哀れみも山ほど詰まっていて、とても褒められたものではない。
それでも、ヒューズの中に、後悔の念は湧いてこなかった。
笑みとも苦渋ともつかない、この傍らのマスタングの表情を見ているだけで、肩の荷をほんの少しだけ降ろせたような、乾いていた喉をほんの少しだけ潤せたような、柔らかい感情が、胸の中にひっそりと満ちてくる。
「さ。戻るぞ。これ以上時間を食うとマズイ」
柔らかい感情が、柔らかすぎて苦しくなる前に、ヒューズはこの場を切り上げる。
生気の戻った目で、下界を見つめ続けていたマスタングが、ゆっくりとこちらを見た。
その顔は、今度こそ苦渋に満ちていた。
その表情が、疑心なのか、謝罪なのか、腹立ちなのかはまったくわからない。わからなくていいと、ヒューズは思った。もう充分なのだ。
「あなたも、ただではすまないだろう。なぜ、こんなことを?」
どうやらマスタングはこちらを気遣ってくれているらしい。もう二度と、マスタングから好意的に話しかけられることはないだろうと予想していたのだが。
「気にすんな。まァ、まるっきり忘れられてもシャクだけどよ」
ちっとも質問の答えになっていない答えを返すと、マスタングは苦渋に満ちた顔の眉を、ますます寄せた。
どうにも落ち着かず、ヒューズは言葉を追加する。
「どこもかしこも人手不足だからなぁ。クビにはならんだろうよ。内勤から、また元の外回りに戻る程度だろ」
せっかくの昇格がふいになったが、もうそれも、どうでもいいのだ。
「あなたの、フルネームを教えてくれ。覚えておきたい」
寄せた眉を少し緩めて、マスタングが食い下がってくる。
数日後には、マスタングは保安本部に移送される。以後に会う機会は、ほぼ皆無といっていいだろう。
ここまで来たら、規則違反もへったくれもない。
気恥ずかしいような、嬉しいような、柔らかないらだちを耐えて、やっとのことで、ヒューズはマスタングの目を見返して、答えた。
「マースだ。マース・ヒューズ」
光を取り戻して、マスタングの目が緩くきらめく。
全く気恥ずかしくて見ておれず、ヒューズはすぐにマスタングの腕を引いて、きびすを返した。
彼がつぶやく、感謝の言葉も、すっかり聞こえないふりをして。




二人で部屋に戻り、玄関ドアに鍵をかけたその手で、アルフォンスはエドワードの肩をわし掴んだ。
「おい、ちょっと…」
軽くうろたえるエドワードの腕を封じて、肩ごと引きずるように抱きしめる。
わずかな私物を詰めた小さなカバンは、とっくに足元へ捨てた。
色々思うところはあっても、エドワードは今、絶対に本気で抵抗しないだろう。そんな底意地の悪い確信と、とても抑えられない、もどかしい安堵が、アルフォンスの身体の奥底で爆発する。
きゃしゃに見えるがそれなりに厚みのあるエドワードの肩を、両腕いっぱいに捕まえ、頬に触れるエドワードの髪の匂いを確かめる。
エドワードのうなじから、彼の体温が立ち上ってきて、ぎりぎりでそこに触れていないアルフォンスの唇に、ぬるい熱を伝えた。
エドワードの身体は温かい。
髪も、体温も、顔色も、二度目に寝たあの日と同じで、何も変わっていない。
それを確かめるのに、半月以上もかかってしまった。傍目には、満ちていた空の月が半分に欠けるまでの短い時間だったが、アルフォンスにとっては、数ヶ月にも思われた長すぎる時間だった。
二度と触れられないと思っていたエドワードの身体が、こんなに近くにある。
それがあまりにも奇跡的で、身体の芯から震えさえ湧き出てきそうだ。
エドワードの身体は、本当に温かい。
ただ、着ているそのシャツが、牢獄の湿気を吸い込んできたのか、アルフォンスの知らない水臭い匂いに浸されているだけで。
水臭い匂いを、早くこの部屋の空気で覆ってしまいたくて、アルフォンスはいっそう腕に力を込める。
「待っ、てくれ」
エドワードが、胸元を押し返してくる。
ドアに背中を預けさせられ、逃げ場のないエドワードの、意外にも頑固な抵抗だった。
今までずっと、エドワードがこの手の中から去ってしまうことだけを恐れていた。変わりないエドワードの身体を抱きしめながら、アルフォンスは、取り戻しようもなく変わってしまった自分自身と、冷酷に向き合っていた。

───あとどのくらい、僕は、エドワードさんのそばにいられるだろう。

どんなに抱きしめても、全霊を捧げても。
最終的には、僕はエドワードさんに何も与えられないんじゃないだろうか。
「アル、フォンス…!待っ、」
せりあがってくる恐怖に、アルフォンスは腕を緩めることができない。
手放したくない。
死にたくない。
忘れられたく、ない。
「…アルフォンス!」
耳のそばで聞こえる声に、少し緊迫感が加わった。
「アルフォンス、痛いんだ。腕と足が」
聞いたことのないようなエドワードの声に、アルフォンスはふと我に返った。
反射的に腕を緩めると、エドワードは背後のドアにぽん、と背を打ちつけて、大きな大きな息を吐く。
腕が痛いのはわかる気がする。だが、足が痛いというのは、どういうことなのだろう。
エドワードの肩を緩く捕まえたまま、アルフォンスはしみじみと目の前の金の瞳をのぞきこんだ。
「すみません。そんなに…痛かったですか?足も?」
「いや。おまえのせいじゃなくて。警察で、寝る時もずっと、義足つけっぱなしだったから…その、」
ますます聞いたこともない、頼りなげなエドワードの声に、アルフォンスはさっきまでの恐怖も忘れて、立ちすくむ。
今まで、義手や義足の具合について軽く説明はされていたものの、こんなにも直接的に、エドワードが痛みを訴えたことはなかった。
身体のために、鎮痛剤を常に携帯しているエドワードだが、その薬剤を飲んでいるところも、アルフォンスは見たことがない。
本当に必要ないのなら、根がものぐさなエドワードは、そんな薬などすぐに手放してしまうことだろう。薬の存在そのものが哀しくて、身体の不調を隠さないで欲しいと、いつだったかアルフォンスはエドワードに懇願したことがあった。
以来、エドワードが薬をまだ携帯しているのか、すっかり手放してしまったのかはわからない。あんな小さな薬など、物陰で黙って飲み込んでしまえば、いくらでも服用していることを隠せるだろうし、逆に、本当の幸運に恵まれて、エドワードは薬を必要としなくなるほどの体調を保ち続けているのかもしれない。
朝晩の短い時間に、見つめられる限り上から下までエドワードを観察していたアルフォンスだが、アルフォンスはエドワードではない。エドワードの体調についての真実はわからない。
エドワードが研究室から離れてしまってからは、アルフォンスは簡単な質問さえ、エドワードにぶつけられなくなっていた。
わかっているのは、エドワードが決して自分に身体の不調を訴えない、ということだけだった。

───今になって、どうして。

エドワードの素直な訴えを、すぐに喜べないでいるアルフォンスの疑心は、アルフォンス自身の魂さえも、ちくりと傷つける。
「色気もへったくれもねぇ状態で…ワリィな。出来たら、すぐにでも外したいんだ。足」
またも不要なところで謝られて、アルフォンスはもう一度我に返る。
尊大でいじらしい虚勢を張って、それなのにこちらの胸が詰まるほどに謝ってばかりの、これは、いつものエドワードだ。
どうしても虚勢が張りきれなくなるほどに、彼の手足の痛みはひどいのかもしれない。半月も、冷え冷えとした留置所に閉じ込められていたのだから。
一番最初にそう想像できなかった自分がますます情けなくて、アルフォンスの魂は浅く深く、ちくちくと痛み続ける。
「肩、貸しますから。つかまってください。寝室まで、歩けますか?」
腰を少しかがめて、おんぶを促すようにエドワードに背中を向け、アルフォンスはエドワードの片腕を、首の後ろで緩く担いだ。
さっきまでの抵抗とは対照的に、素直にエドワードは身体を預けてくれている。ここは抱き上げてしまいたいところだが、下手に見栄を張って、体力の衰えをエドワードに悟られては元も子もない。
対面していた体勢が一転して、エドワードの頬は、アルフォンスの肩の後ろにうずまってしまう。
ちらりと至近距離から横目でうかがうと、エドワードはとっさに視線を感じたのか、いっそう深くアルフォンスの肩に顔を押し付け、表情を隠したようだった。
その隠されたこめかみが、ひとすじ白く光っていたような気がする。
エドワードの体重をなるべくこちらの背中に移しながら、慎重に一歩を踏み出しながら、ほんのわずかに湿ってくるシャツの肩口に、アルフォンスは意識を集中させる。
確かにシャツは湿っている。

───本当に、何が、どうしたんだろう。

生理的な涙がこぼれるほどに、痛いのか。
だがエドワードは、必要以上に身体をこわばらせることもなく、アルフォンスに半身を預けてくれている。痛みは、激痛ではないのだと思いたい。
ならば、何の理由で?
ひたすら混乱して、アルフォンスはただ歩く。すぐそこにある寝室を目指して。
どうして泣いているのかと、エドワードに聞くことはできない。
不謹慎に心がざわめいて、アルフォンスは言葉を発することができない。
こんなに知りたいと思っていても、今、涙の理由をエドワードに尋ねることは、決してしてはいけないような気がする。いや、してはいけない。
知りたいと願う感情は、実際の熱を伴う奔流になって、アルフォンスの身体の中を傷めながら駆け巡り、体温を上昇させる。
エドワードにとっては、とんでもない屈辱の瞬間かもしれない。必死に表情を隠そうとしているその姿が、嬉しくて、憎らしくて、そしてこんな、真の思いやりからはかけ離れた不謹慎な気持ちを持ち続けている自分が憎らしくて、アルフォンスはどうしても言葉を発することができない。
黙っていれば、ますますエドワードは屈辱を感じるかもしれないのに。
「…こ、こまでで、大丈夫だ。離してくれ」
少し湿り気を帯びたエドワードの声が、肩の後ろから響いてくる。
ベッドはもう数歩の距離だ。
アルフォンスはもう一度身をかがめて、担いでいたエドワードの腕を下ろした。どっ、と崩れ落ちるようにエドワードはベッドに腰掛け、喉を震わせて深呼吸する。
床に向けてうつむくその顔は、長い前髪に隠され、やはり表情がわからない。
義手を外すために、シャツを脱がせてやる行為はとても敷居が高くて、それでも何か手伝わないわけにはいかなくて、アルフォンスはひざまずいた。
「足、外します。少し膝、上げててもらえますか」




顔を、見られる。
エドワードはとっさに身構えた。
しかし、足元にひざまずいてきたアルフォンスは、こちらに顔を向けなかった。遠慮がちにエドワードのズボンの裾を持ち上げ、ただ一生懸命、義足を外そうとしてくれている。
まだ濡れている頬を、見られたくない。
義足はアルフォンスに任せ、シャツを自分で脱ぎながら、エドワードはなんとか頬の上に残った水分を、そのシャツの襟やら袖やらで拭った。

───やっぱり無理だ。

思ったことを、隠さずアルフォンスに伝える。
それが、こんなに難しい行為だとは。
こんな初歩でつまずいていては、百年経ってもアルフォンスにはわかってもらえそうもない。
ついさっき、頬に触れたアルフォンスの肩は、手首と同じように妙に骨ばっていた。服の上からもわかる違和感が、とてつもなく恐ろしい。この半月で、どれだけ痩せてしまったのか。
どれだけの負担が、この身体にかかってしまったのか。
どれだけの不安を、アルフォンスはその心に抱え込んでいるのか。
もう何もかも、間に合わないのではないか。
アルフォンスの態度が元通りであればあるほど、エドワードの中の恐ろしい予感は、ぎっしりと真実味を増してくる。
ぞっとするほどの焦燥が、まだ熱の去らないエドワードの目頭を、さらに刺激する。
耐えようとすればするほど、身体は、目頭は、言うことをきいてくれない。

───だめだ。耐えるんだ。

目の前のアルフォンスは、もっともっといろんなことを耐えてきたはずだ。そのアルフォンスの前で、こんなみっともないまねしかできないなんて。
外しかけた義手から手を離して、エドワードは唇を押さえる。
放っておけば、何かとんでもない声で泣き叫んでしまいそうな気がした。
唇を押さえる指に、精一杯の力を込めても、目頭からこぼれ落ちるものは、それとは無関係に頬を這い落ちる。
義足を外して、ベッド脇にそれを立てかけてくれたアルフォンスが、立ち上がるのがわかった。
どうしても、顔が上げられない。
「僕は、ここにいないほうがいいですか?」
ぷつりとちぎれそうな沈黙の中に、静かな声が落ちる。
アルフォンスは、何も訊いてこない。
この涙が、手足の痛みのせいではないことが、すっかり見抜かれている。
何もかも耐え抜いてきただろうその心で、エドワードのちっぽけなプライドを、アルフォンスはただ思いやってくれている。
エドワードは、頬を拭うのをやめた。
決壊した眼中の水分を、ただ重力に任せた。
「いいや。居てくれ」
声までが濡れそぼっていて、どうしようもなく格好がつかない。

───間に合わない。言葉が、足りなさ過ぎる。

間に合わせなければ。どんなことをしてでも。
「…居て欲しい。居てくれ」
生身の左手と、外し損ねてぐらぐらと緩む義手の両方で、エドワードはアルフォンスの腕を捕まえる。
「なんでもいいから…話しててくれ…」
エドワードの脈絡のない涙にあきれたのか、捕まえられたアルフォンスは無言で、隣にそっと腰掛けてくれた。
アルフォンスの肘が、シャツを脱いだきりの、素肌の肘に触れてくる。
触れた肘とは反対側の手で、握りしめていたシャツを奪われ、そっと肩から羽織らされた。
「ええ。エドワードさんのいない間に、すごいことがあったんですよ。聞いてください」
抱きしめてくるでもなく、顔をのぞきこんでくるでもなく、ただ優しい声で、アルフォンスは言葉を続けてくれる。
「研究室の、パトロンが見つかったんです。それも、軍の人ですよ」
「……軍?」
「軍の将校さんが、連絡をくれたんです。それで、みんなと顔合わせがてら、今度のカーニバルに出品してみないか、って」
「ロケットを、出品するのか?」
「いつもと同じ、デモンストレーションですよ。会場の真ん中に、ロケットを設置させてくれるそうです」
「……ホントに、本気なんだな?そのパトロン候補は」
「候補じゃないですよ。実際にもう、カーニバルのための設計費まで、用意してくれてるんです」
「そっか。……そっか……。よかった……」
「ええ。カーニバル、エドワードさんも、手伝ってくれませんか?よかったら…ですけど」
「そうだな…」
「祖父が奮発して、会場まで車を出してくれるそうです。エドワードさん、運転してみたいって言ってたでしょ?」
「ホントか?」
「ふふふ。やっと、笑ってくれた」
「う、うるさい…」
なにひとつ、無駄にしたくない。
アルフォンスの吐息も、アルフォンスの声も、気持ちも、存在も。

───ああ。一緒に行こう。

オレはなんにも力になってやれないかもしれないけど。
おまえがオレに何も話したくないのなら、それでいいんだ。
おまえの秘密ごと、ただ一緒に行こう。
オレができるのは、本当に、それだけだから。




もう高い日差しが、窓と、二人の手元のシーツのしわを、白く温かく浮かび上がらせる。
夏は、まだ終わらない。